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[其他] 基础日语二 第五册 课文(第一课~第十二课)

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发表于 2007-10-11 15:55:04 | 显示全部楼层 |阅读模式
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:46 编辑

第一課 めくらになった名僧
八世紀半ばごろのことでした。
奈良の都は、毎日、たいへんな騒ぎでした。東大寺という大きな寺の大仏が、やっとできあがったからです。「大仏開眼」といって、大仏が完成したことを祝う儀式が行われるのも、もう間近いことでしょう。
ところで、このお祝いを前にして、聖武天皇は、心の中で、一人の人を待っていました。
「こんどの式に間に合えばよいが……。」
もう何年も前から、待ちわびている人があったのです。しかし、どういうわけか、その人をむかえに行った使者からのたよりは絶えて、すでに何年にもなります。
「いったい、来てくれるのだろうか、だめなのだろうか。来てくれるならば、この晴れの日にぜひ、間に合ってもらいたい。」
聖武天皇は、そのことばかりを考えていました。いったいだれを、そんなに待ちわびていたのでしょうか。
話は十年ばかり前にさかのぼります。
そのころ、日本には、中国から、おおぜいの僧が渡ってきていました。また、これとひきかえに、日本からも、毎年何人かの留学僧が、海を渡って中国へ出かけて行きました。
「中国から、すぐれたお坊さんを、ひとりつれてきてもらいたい。」
ある年、ふたりの留学僧が、聖武天皇からこうたのまれました。というのは、そのころの日本には、戒を授けることのできる僧がいませんでした。天皇はそれのできるえらい人がほしがったのでした。
戒と言うのは、仏教で、僧たちが守らなければならない規律のことです。僧たちの間では、やってはいけないことがいくつかきめられてあって、それを守ることができなければ、一人前の僧にはなれません。そして、その規律を守ることができるようになったとき戒を受けるのです。
日本でも、仏教が盛んになって、戒を受けることができる僧はたくさんいました。しかし、戒を授ける資格をもった僧は、ひとりもいなかったのでした。
中国へ渡った二人の僧は、唐の揚州という所に鑑真という、すぐれた僧のいることを聞きました。この人に来てもらえたら、というので、はるばるたずねていきました。そして、ことばをつくして、どうか日本へ来てくださるようにと、頼んだのでした。
鑑真は、子供の時から、熱心な仏教の信仰を持ち、十八歳のころには、もう一人前のすぐれた僧になっていました。かれは海の向こうの日本から、ふたりの僧がわざわざ自分を招きに来た、その熱心さに心を打たれました。そして、遠い見知らぬ日本の国へ渡る決心をしました。
鑑真は、そのころすでに五十歳を越えていました。かれが行くことになったので、何人かの弟子たちも、いっしょに行くことになりました。一同は、さっそく、その準備に取り掛かりました。あくる年には船を出すことになりました。
しかし、この旅行は、そう簡単には、運びませんでした。せっかく海に出た船は、大しけにあって、難破してしまいました。やっと助けられて、命からがら陸にあがると、次の出発まで、また船を用意したり、いろいろの準備に手間取りました。
やがて準備ができて海に出ると、こんどは海賊に襲われました。だいじな物を取られたりして、また、むなしく、戻らなければなりませんでした。そればかりでなく、鑑真の渡航をねたんで、いろいろのじゃまをする人たちもありました。
一行のうちには、たび重なる失敗に、すっかりいくじがなくなって、こんなばかげた旅をするのはやめようじゃないか、などという者も出てくる始末でした。苦しいことが続くので、つい仲間割れをして、けんかが始まったり、自分だけ、得をしようとする人が出てきたりしました。
そんなときにも、鑑真は、いつもだまって、ひとりでがまんをしているのでした。どんなときでも、その顔からは微笑が消えません。人々は、その微笑を見ると心を励まされ、また、旅を続けようという、勇気がわいてくるのでした。
こうして、何度か失敗が重なりました。
悪いときには悪いもので、そのうち、日本から迎えに来た僧のひとりが病気にかかり、とうとう、旅の空で死んでゆきました。だいじな人に死なれて、鑑真がすっかり力を落としてさびしくしているとき、こんどは、この人のあとを追うように、一番弟子がなくなりました。
つえとも柱ともたのむふたりの死は、鑑真にとっては、おおきな痛手でした。年をとっていることではあるし、重なる苦労に、鑑真のからだも、だんだん弱くなっていくのでした。大きな不幸が鑑真にも訪れたのは、このころでした。
ある日、弟子のひとりは、鑑真が手探りで、何かごそごそやっているのを見て、びっくりしました。目が見えないのでした。長い間の疲れが、とうとう、この年とった僧を失明させてしまったのです。
鑑真は、それでも微笑を忘れませんでした。そして、どこまでも、日本へ行く志を捨てませんでした。これから日本へ行って、自分のする仕事を考えるとき、鑑真の心は、ほのおのように燃え、光を失った目は、明るく輝くように思われるのでした。
五回の旅の失敗ののち、六回目に、鑑真は、とうとう日本に着くことができました。ちょうど、日本へ帰ることになっていた遣唐使の船に乗って、九州について、無事に奈良の都へ来ることができたのです。この旅を思い立ってから、実に十一年目でした。
唐の国でも名の聞こえていた鑑真が来たというので、奈良では、聖武天皇はじめ、たくさんの僧たちは、ひじょうに喜びました、あの大仏開眼からは、すでに二年の月日がたっていました。めくらになってその苦しさをがまんして、はるばる海を渡って来たこの名僧を、人々はていちょうにもてなしました。
あくる年、東大寺の前で、天皇をはじめ、五百人にあまる僧たちが、めくらの鑑真から初めて戒を受けました。鑑真が戒を授けた所は、戒壇院といって、今も東大寺の中に残っています。
鑑真は、その後、広い土地を朝廷からもらって、りっぱな寺を建てました。そして、多くの人々を教え導きました。ふたたび、故郷の唐へ帰ることもなく、十年ほどたってから、その寺で一生を終わりました。七十七歳だったと言われています。この寺が、いまも奈良の南にある唐招提寺です。
若葉して御目の雫脱ぐはばや   芭蕉
唐招提寺に残されている鑑真の像を見て、江戸時代の俳人芭蕉が作った句です。「かがやかしい新緑のやわらかい若葉で、めくらになった鑑真の目にたたえられたなみだを、ぬぐってあげたいものだ。ああ、どんなにつらい目にあわれたことだろうか。」
という気持ちをよんだものです。鑑真の像は、天平期の傑作と伝えられています。気品の高い名僧の面影が、今でも、仰ぎ見る人の心を打ちます。

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 楼主| 发表于 2007-10-11 15:57:34 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:46 编辑

第二課 命をかけて
今から六十年ほど前、明治二十八年(一八九五年)八月のことです。
富士山の頂、剣が峰に、不思議な小屋が建てられました。南北約五?五メートル、東西約三?五メートル、高さ約三メートルの木造の平屋です。屋根には、かたつむりの角のように、ぼうがいく本もつき出ていました。小屋の上の岩の上には、おわんのようなものが、くるくる回っていました。家のまわり、冬に備えて、石でしっかりと囲まれていました。
「和田先生、おかげさまで、とうとうできました。」
まだわかい野中到は、すこし興奮して、頬を赤らめながら、うれしそうに言いました。
「うん、できた。とうとう日本にも高山気象観測所ができた。全く野中君のおかげだ。」
そう答えたのは、中央気象台の天気予報課長の和田雄治技師でした。
「いいえ、何もかも先生のおかげです。」
この時まで、日本のどこにも高山気象観測所はありませんでした。外国では前から、アルプスのモンブランにも、ミナミアメリカのミスチー山にもあって、一年じゅうの気象の様子がくわしく調べられていました。高い所の気象が分からなければ、漁業や農業?交通など、大切な仕事に役立つ正しい天気予報はできません。
気象観測の重要性を知った野中到は、二十三歳の時、
「どうかして、日本にも高山気象観測所を造りたい。」と考えて、和田技師をたずね、気象学の勉強から始めました。
そして、七年後のきょう、とうとう富士山の頂に、その私設観測所を創設したのです。和田技師の指導で、必要な器械類の備え付けをして、これからの観測のしかたについても、いろいろ注意を受けました。
「さあ、この一冬を、ここでしっかりがんばるぞ。」
長年の願いがかなった到は、喜び勇んで、妻の千代子と三歳になる長女を東京に置いて、明治二十八年の九月三十日、今度は、ただひとりで、この私設観測所へ登って来ました。そして、次の日の十月一日から、日本最初の高山気象観測を始めたのです。
世間の人たちは、目を丸くして、驚きました。
「富士山のてっぺんで一冬越すなんて、死ににいくようなものだ。野中さんは、気でも狂ったのではないか。」
確かに、そのころ、冬を目指して富士山に登るなどということは、思いもよらないことでした。冬になると、山の頂と下界とは、全く切り離されてしまうのです。病気になっても、医者どころか、水いっぱい運んでくれる者もありません。万一のことを思って、和田技師をはじめ、気象台の人々は、心配しながら、到の熱心なこのくわだての成功を心から祈っていました。
十月の晴れた日の富士山の頂上からのながめは、ほんとうにすばらしいものでした。北には、富士五湖が青々と水をたたえ、南には伊豆の山々が連なって見えました。山すそののびた所には、静浦?田子の浦?三保の松原?清水港などが、一望のもとに見下ろせて、その美しいながめが、ひとりぼっちの到の心を楽しませてくれました。
ところが、十月も過ぎると、雪がふりだして、山の上は厳冬の季節に変わっていきました。半月ほどたったある日のことです。とつぜん、妻の千代子が、強力たちにささえられるようにして、山の頂上へ登って来ました。
「なんの用で来たんだ。」
到は、驚いてたずねました。
「お手伝いに参ります。」
「子供は?」
「九州の親元に預けてきました。」
「そうか。でも、ここはとても女のいられる所ではないぞ。すぐ戻ってくれ。」
「いいえ、あなたのそばで働きます。わたしだって、何かのお役にはきっと立つでしょう。」
千代子は、命を掛けた夫の仕事を助けたいと、かたい決心でここまで登ってきたのでした。
ふたりきりの、雲の上のあけくれが始まりました。今まで到ひとりの時は、一日二時間おきに十二回の観測とその処理、そして次の準備から食事のしたくで、休む暇もありませんでした。けれど、妻が来てから、食事の苦労がなくなりました。観測の記録も、忠実に手伝ってくれました。
「やはり、ひとりより、ふたりのほうが仕事がはかどる、千代子が来てくれて本当に助かった。」
到は心の中で感謝しました。
こうして、一か月は無事に観測を続けていくことができました。ところが、十一月にはいると、来る日も来る日も、強風が鳴り続け、粉雪がうずをまいて荒れ狂いました。小屋は雪にうずまって、気温は氷点下八度、九度、十度と、どんどん下がっていきました。
そして、十一月の中ごろには、妻の千代子がへんとうせんえんになって、四十度の熱にいく日も苦しみました。それがなおって、ほっとしたのもつかのま、妻のからだが浮腫んできました。空気の薄さから高山病にかかったのです。手当てのほどこしようがありません。
「かわいそうな千代子、次はわたしの番だ。だが、たおれてもやるぞ。」
到は、妻の看病をしながら、観測を続けていきました。
すると、どうしたことでしょう。十二月にはいると、妻の病気は次第によくなって、もとどおりの元気なからだになりました
「ありがたい、これで仕事が無事に進むぞ。」
到はほっと安心しました。
ところが、妻の病気が直ったかと思うと、今度は到のからだが浮腫んで腫れ上がり、高い熱に苦しむようになりました。
「なあに、心配することはない。千代子と同じように、そのうちになおる。」
到はそう思いました。けれども、病気は日増しに重くなっていきました。野菜の不足から来る重い脚気になったとは、気がつかなかったのです。
とうとう、立つことも歩くことも不自由になりました。食べ物ものどを通らなくなりました。息ひとつするのさえ苦しくなりました。
「なにくぞ。これくらいの病気に負けてたまるものか、だいじな仕事なのだ。春が来るまで、どうしてもがんばるぞ。」
到は、時間が来ると、死にもの狂いになって、ベッドからはい出しました。かべ伝いに、小屋のおくにある観測室へ、あえぎあえぎいざり寄って行きました。
「わたしが代わってやります。あなたはどうか、寝ていてください。」
いくらか観測の仕事を覚えた千代子が、拝むように言っても、到は聞き入れませんでした。
「わたしがやる、動けるうちは、是が非でもわたしにやらせてくれ。」
到は、死の恐れと戦いながら、風速と風向きを、湿度を、気温を、気圧を、そして積雪量を、ふぶきのあれくるう戸外に出て、調べました。それを計量し、記録していく到のすがた――。
かみの毛もひげもぼうぼうにのび、顔はむくんではれ上がり、目ばかりぎらぎらと光っていました。まるで、この世の人とは思われません。
表では、昼も夜も、暴風と雪がごうごうと音をたててほえ狂いました。岩の上に立てた風力計、いくたびもこおりついて、回らなくなりました。到は不自由なからだで岩を這い登り、柱についた氷のかたまりを、おのでたたきわりながら、その上の風力計のこしょうを直しました。
へやにはだんろの設備がありました。けれども、いくらまきを投げ込んでも、まるで氷のむろにいるようでした。ベッドの上にまで、すきまから粉雪が吹き込んできて積もりました。火の気のない観測室には、太さが三十センチもあるつららが垂れ下がりました。
到は、かっけの上に凍傷にまでかかってしまいました。そして病気が重くなるといっしょに、観測器械も次々にこわれ始めました。風速計も風向計も乾湿球湿度計も、役に立たなくなりました。そして、気圧計までも。
「ああ、代わりの器械がほしい。――来年までは、とても持てない。」
壊れた機械を見て、到は自分の病気のことなど忘れて嘆きました。
やがて、十二月半ばを過ぎました。到は、もうベッドから動くことができなくなっていました。観測小屋は、雪と氷にすっかりうずもれ、戸があかなくなりました。ふたりは、山小屋に閉じ込められてしまったのです。
十二月二十二日、その日は雪がやんで、強い風だけがふきあれていました。その風の中から、人の叫ぶ声が聞こえてきました。千代子がベッドに寝ている到に言いました。
「あなた、人の声です。だれか山に登ってきたようです。」
「なんだって。」
到の耳にも、その声は聞こえました。
「野中さあん……。野中さあん……。」
やがて、戸の外で呼び声がしました。千代子は大声で叫びました。
「はあい。」
けれども、戸は雪と氷に閉ざされてしまって、表からも内側からも開けることができません。
「よし、どこか破ってはいろう。」
人々の言い合う声がしました。そして、戸口の屋根が破られました。そこから飛び込んで来たのは、中央気象台の和田技師を真っ先に、K札署長や何人かの強力の人たちでした。
「野中君、無事だったか。」
和田技師は、飛びつくようにして、到の手をとりました。
「心配していたぞ。君の観測のもようを調査にやってきたんだが……。野中君、そのからだで、これ以上無理をしてはいけない。さっそく山を降りよう。」
「先生、わたしはおりません。病気も、もうだいぶいいんです。」
「だめだ、野中君。このままでいたら命がなくなってしまう。ぼくの勧めを聞いて、おりてくれ。」
「いいえ、先生。わたしが春までここでがんばらなければ、富士山での冬は、越せないことを知らせるだけです。そうなれば、日本では、いつまでたっても、この山に気象観測所はできません。どうかわたしをここに置いてください。」
到は、涙を流して頼みました。
「野中君、何を言うのだ。きみは、富士山の頂上で、冬が越せるということを、もうすでに証明したのだ。八十四日という長い間、氷点下二十度、三十度というこの山の頂上で、気象観測をやったではないか。これで、もっとよい設備と食料研究さえしたら、一年じゅうでも、富士山の頂上で観測できることがわかったのだ。」
和田技師は、強力たちに、到のからだを毛布でしっかりとくるませて、そのなかのひとりに背負わせました。みんなは、到と千代子を真ん中にして、強風にあおられながら、雪をふみしめみしめ、ふもとへと下がって行きました。
富士山の頂上に気象観測所を造るという到の念願がかなえられたのは、それから三十七年も過ぎた、昭和七年七月四日のことでした。妻の千代子も和田技師も、もうなくなっていましたが、到は元気でした。六十五歳になった到は、その年の八月、妻の写真を胸に抱いて、富士山の頂上へ登って行きました。
晴れ渡った富士山の頂上に新しく建った高山気象観測所。その測風塔には、南風を受けた風力計が、勢いよく、くるくると回っていました。

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 楼主| 发表于 2007-10-11 15:58:19 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:46 编辑

第三課 フシダカバチの秘密
フシダカバチには、全く不思議な力がある。
一つは、幼虫の食物にするゾウムシを、実に見事な方法でいつまでも保存しておくことである。もう一つは、似たような形や大きさの昆虫がいくらでもいるのに、それらには目もくれず、ゾウムシだけを捕まえてくることである。
そこには、どのような秘密が隠されているのだろう。
わたしは、ゾウムシを、フシダカバチの巣穴からほり出したり、フシダカバチから横取りしたりしてみた。このようにして手に入れたゾウムシは動く力は失われていたが、その体つきは生きているときとそっくりであった。あざやかな色、しなやかな関節など、動きださないのが不思議なくらいである。虫眼鏡で見ても、傷一つ見つからない。じっと見つめていると、虫が今にも動きだし、歩き始めるのではないかと思われてくるのだ。
わたしは、試しにこの虫たちを、ガラス管や紙ぶくろの中に入れてほうっておいた。ふつうに死んだ虫なら、暑い季節には、からからに乾いて粉々になってしまうし、また、湿っぽい季節には、腐ってかびが生えてくる。ところが、この虫たちは一か月以上たっても、乾きも腐りもせず、みずみずしいままで、生きている虫と同じくらいやすやすと解剖ができる。どう考えても、死んだとも思えないし、防腐剤を使ったとも思えない。動物の激しく動き回る生活から、静かな植物の生活に変ったに過ぎないのではなかろうか。
この植物的な生活の営みは、ゆっくりと、そしてひそやかに行われている。その証拠、このゾウムシはふんをする。もっとも、それはゾウムシが眠りに入った最初の週の間だけ、時間をおいて規則的に行われるので、おなかの中の物がすっかりなくなると、止まってしまう。それは、実際に解剖をしてみてよくわかったことである。
この虫が仄かに見せる生命の流れは、それだけではない。わたしは、ゾウムシに刺激を与えるために、おがくずをベンジンで浸してびんの中に入れ、その上にゾウムシを置いてみた。すると、驚いたことに、十五分ばかりの間、ゾウムシは、ひげと足とを動かし続けた。わたしはこの実験を、フシダカバチが捕まえてきてから数時間後のゾウムシと、三、四日たったゾウムシとにやってみたが、どちらもうまくいった。しかし、捕まえてきてから十日もたったゾウムシでは、もうなんの反応も示さなかった。
わたしは次に、別のゾウムシに、電流で刺激を与える実験を思いついた。電池に細い針金を付け、一方の針金の先をゾウムシの腹の最後の節に、もう一方の先を首の下に差し込む方法である。すると、電流を通じたり切ったりするたびに、足が縮んだり伸びたりする。この動きは、捕まえてきてから最初の数日間は非常に強く現れ、それからだんだんと弱くなった。そして、十五日目には、全く反応を示さなくなった。
わたしは念のために、ベンジンや硫黄ガスで殺したオサムシダマシやエゾカミキリに、同じ電気の実験をやってみた。しかし、これらの虫は死後二時間ばかりしかたっていないのに、足はぜんぜん動かなかった。これらの実験の結果、このハチの獲物のゾウムシは、死んでもいないし、防腐剤で腐らないようにしてあるのでもないということがはっきりした。おそらくゾウムシは、体を動かす運動中枢をまひさせられて動けなくなっているにちがいない。
もしそうだとすると、まず確かめておかなければならないのは、フシダカバチの攻撃のやり方である。あの硬いよろいを着た、継ぎ目がぴったり合わさったゾウムシの体のどこに針を刺すのだろうか。虫眼鏡で見ても針の跡はわからないのだから、どうしても、このハチが獲物を刺す現場をはっきりとこの目で確かめる必要がある。
さて、フシダカバチが狩りに出かけるときは、べつに決まった方法を選ぶわけではない。時にはあっちへ、時にはこっちへというふうに飛び立っていく。そして、十分もたたないうちに獲物を抱えて帰ってくる。だから、巣の周り近所一帯が、どこも狩り場なのだ。わたしは、巣穴の近くをできるだけ注意しながら、用心深い半日あまりも歩き回ってみた。しかし、狩りをしている現場にはとうとう一度もぶつからなかった。
そこで、わたしは考えた。巣穴の近くに、生きているゾウムシを置いておいたら、ハチは手近にあるこの獲物に引き寄せられ、あるいは狩りの現場を見せてくれるのではなかろうか。この名案は、成功しそうに思えた。わたしは、すぐ次の日からゾウムシ集めにかかった。ぶどう畑、ウマゴヤシの原っぱ、麦畑、垣根、小石の山、道端など、二日間歩き回ってくたくたになるほど骨を折ったあげく、やっとみつけたのはたった三匹のゾウムシだった。それも元気のない、ひげや足の取れたうすぎたないやつで、ハチのお気にめさないかもしれないような貧弱な獲物にすぎなかった。
それでもわたしは、やっと手に入れたその貧弱な獲物で実験を始めることにした。やがて、ブーンと一匹のハチが獲物を抱えて、巣穴に入っていった。そいつがもう一度狩りに出かける前に、巣穴のそばにゾウムシを置いてみた。フシダカバチが大きな顔を出し、穴から出てきた。ハチは自分の巣の周りを、かまわずあちらこちらと大またに歩く。ゾウムシを見つけ、近寄り、もどり、何度かゾウムシの背中の上を乗り越えた。そして、わたしが骨折って捕まえた獲物には目もくれず、さっさと飛び去ってしまった。ほかの巣穴でも試してみたが、結果は同じことだった。ハチは、わたしの採ってきたゾウムシが気に入らないのだ。多分、獲物がよぼよぼで年をとりすぎているのが気に入らないのか、または、わたしが獲物を指でつまんだので、そのにおいが残っているのが気に入らないのか、どちらかだろう。
そうだ、フシダカバチに、自分の身を守るために、針を使わずにはいられないように仕向けてみたらどうだろうか。わたしは早速、一つのびんの中にハチとゾウムシとを一匹ずつ閉じ込め、そのうえ、びんをゆすぶって両方を興奮させようとした。ところが、生まれつき敏感なフシダカバチは、相手の虫よりショックを受け、攻撃するどころか逃げようとする。役割はあべこべとなり、ゾウムシのほうが攻めてに回り、そのくちばしの先で相手の足を捕らえようとする。ハチはこわがって逃げ回るばかり。またしても、わたしの実験は失敗に終わった。
わたしは苦心の末、また次の手を考え出した。それは、ハチに気づかれないように、獲物をすりかえることだ。獲物狩りをしてもどってきたフシダカバチは、まず巣穴からいくらか離れたがけのふもとに降りる。そこから、苦労して獲物をがけの上にひっぱってうばい取り、すぐ身代わりのゾウムシをあてがった。この策略はうまくいった。ハチは、獲物がなくなったことに気がつくと、あわてて体の向きを変えた。そして、自分の獲物とすりかえられたゾウムシを見つけると、すぐにそいつに飛び掛り、足でかかえて運ぼうとする。ところが、このゾウムシはまだ元気でいる。ハチはすぐに気がつき、戦いが始まった。ハチはゾウムシと向かい合い、強い大あごで、いきなりゾウムシの長い口先をくわえ、びくともしないように押さえつける。ゾウムシは足を突っ張っている。ハチはゾウムシの腹の節が開くように、前足で背中をぎょっと押す。それと同時に、腹の先をゾウムシの体の下にくぐらせて、先をぐっと曲げ、前足と中足の間――前胸の真ん中の合わせ目に、二、三度繰り返して針を差し込む。瞬く間に、すべてが済んでしまった。
ゾウムシは、死にぎわの虫がよくやるように、もがきもしなければけいれんもしない。ただ、電気に打たれたように、それきり動かなくなってしまった。それからハチは、獲物を仰向けにひっくり返し、腹と腹を合わせ、足と足を絡み合わせて、かかえて飛び立っていく。
わたしは三匹のゾウムシを使って三度実験してみたが、ハチのやり方はいつも同じだった。もちろん、そのたびごとに、わたしは先ほど取り上げておいた獲物をハチに返し、自分のゾウムシを取り返してゆっくりと調べてみた。わたしは、ハチの獲物を狩る才能を高く買っていたのだったが、それはこの実験ではっきりと確かめられた。針を刺した辺りには、ほんのかすかな傷跡も、体液のにじみ出た跡も見つからなかった。針で刺された場所には、いったい何があるのだろうか。ハチは、針を刺す場所を教えてくれたので、その秘密もいくらわかった。しかし、なぞはすっかり解けたわけではない。
まず、もう一度、フシダカバチの生活について考えてみよう。地下の子供部屋に何匹かの獲物をしまいこみ、その獲物に卵を産み付ける。やがて、卵からかえった幼虫は、その獲物を食べて育っていくわけだ。ちょっと見たのでは、この食糧を蓄えることはなんでもないようだ。しかし、考えてみると、これは非常に難しいことである。
なぜかというと、幼虫のえさが本当に死んでしまわず、えさの内臓はじきに腐り、それを食べた幼虫は中毒を起こして死んでしまうだろう。そうかといって、生きたままのゾウムシを子供部屋に持ち込んだら、卵や卵からかえったばかりの体のやわらかい幼虫は、がんじょうなゾウムシに踏み潰されるかもしれない。だから、幼虫の食物は、生き生きとしていながら、動かないものでなくてはいけないわけだ。
こんなきれいな殺し方(本当は殺してしまうのではないが――)をしろと言われたら、わたしたちは困ってしまう。なにしろ、ゾウムシは、頭をもぎ取っても長いこと手足を動かしているような、生きる力の強い虫なのだ。それなのに、「幼虫にとって必要なのは、死んだものではなく、生きているけれど、もう動かない獲物なのだ。」などと言われたら、いったいどうしたらよいだろうか。
「それから、ますいをかければよい。」と考えつく人がいるに違いない。そうだ。まさしくそれである。殺さないで、しかも動かなくするには、獲物にますいをかける――つまり、しびれさせてすべての感じをなくしてしまえばよい。とにかく、場所をよく選んで、虫の神経器官を傷つけ、壊してしまえばよい。フシダカバチの狩りの秘密は、実にその点にあったのである。
これで一つの問題は解けたが、もう一つの、もっとやっかいな問題が残っている。フシダカバチが、似たようなたくさんの昆虫からなぜゾウムシだけを捕まえてくるのだろうか、という問題である。
ハチは、ただの一刺しで全身の運動の力をなくしてしまわなければならない。そのためには、獲物の神経の中枢に針を打ち込むことが必要だ。
ふつう、昆虫の手足を動かす神経の中枢、胸の部分に三つ並んでいる。これらは、それぞれ独立していて、一つがやられても、他の中枢には影響がない。ところが、ハチが三つの中枢に次々と針を刺すということは、とてもできそうにもない。しかし、もしその三つがくっつき、一つになっている昆虫がいたとしたらどうだろうか。それこそ、ハチの絶好の獲物になるはずである。
あの学者の研究を調べているうちに、ついにそれを発見した。神経の中枢がごく近くに寄り集まっているものの中に、ゾウムシの名前であった。
本当にそうかどうか、実験してみる必要がある。ペンの先にアンモニアを付けて、その場所に注射してみた。ゾウムシにはてきめんだった。しかし、胸の神経の中枢が互いに離れているものでは、全く違っている。激しくけいれんして暴れるが、やがてそれも治まり、平気な顔で歩き回るのである。
この結果、フシダカバチが獲物を選ぶとき、なぜゾウムシを選ぶのかということがはっきりとわかった。フシダカバチは、最も優れた生理学者や解剖学者だけしかできないようなことを、自然に与えられた本能の力によって見事にやってのけるのである。

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 楼主| 发表于 2007-10-11 15:58:43 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:46 编辑

第四課 時候のあいさつ
日本では、私どもの日常生活のうえに、気象が、直接間接にかなりの影響を与えております。
雨が降らないからといっては節水し、長雨が降り続けば続いたで、秋の取入れを心配する。商業活動においても、傘がよく売れたかと思うと、涼しい夏は扇風機の在庫が増えることになる。そうかと思うと、全国民が南洋方面に発生した大型台風の進路に一喜一憂し、冬は冬で、日本海側は汽車が豪雪に立ち往生しているのに、太平洋岸は空っ風が吹きまくる。梅雨ともなれば、すべてが湿っぽく、気分までじめじめしてしまう。とにかく、被害もよく受けますが、恩恵も大きいというぐあいに、生活が気象に左右されることが多いのです。
そこで、天気に関することが、私どもの毎日の話題によくなります。日常のあいさつ、手紙の書き出し、すべて、天気の話から始まるようです。
私がアメリカに住んでいたとき、その間ほとんど、大陸の北西部、太平洋岸のシアトル市にいたのですが、ここは、一年の半分が霧雨に包まれたようになります。そして、あとの半分、三月から九月いっぱいは、抜けるような青空とそよ風が吹くすばらしい天気が続きます。つまり気候の変化が少ないのです。カリフォルニアで生活した一夏は、とうとう雨は一度も降らず、持っていった傘は無用の長物となりました。夏のカリフォルニアに傘を持っていくことが、そもそも、天気を知らない者のすることでした。夏をボストンで過ごそうとしたとき、アメリカ人から、ボストンの夏は暑いと脅かされました。しかし、東京の夏を知っている者には、暑いことは暑くても、東京ほどの猛暑とは感じられなかったのです。
このように、アメリカは大陸であるために、その土地土地によって相当の違いがあります。アメリカ人の恐ろしがる竜巻も出水も日照りもハリケーンもあります。しかし、なにしろ国土が広いので、それはアメリカ全体からみれば、ほんの一部のところの事件であるかのような印象を与えます。たいていのことが、遠いところの出来事であり、現在の自分の生活にはなんら影響がありません。
アメリカに比べると、日本は国土が狭く、島国で、そのうえ、アジア大陸と太平洋に挟まれて、気象が複雑に変化してゆきます。まるで日本全土が、その日その日の天気に振り回されているようです。
さて、アメリカの学生は、どうして日本人はそんなに天気、天気というのか、と不審があり、しまいには、天気の話は、small talk(ささいな話)であって、天気のことをいつも話題にするような人は、頭の程度を疑われてもしかたがないとまで言い出すのです。
たしかにアメリカのパーティーでは、だれでも次々に目新しい話題を持ち出し、人々を引き付けようと努力します。そうすることこそが、有能な人物である証拠ともなるし、社会的な評価もそこで決まってしまうにみえます。そんな場で、たとえ初対面の相手であっても、天気のような無難な話題から切り出すようでは、その曲のなさに、たちまちあきられ、逃げ出されてしまうでしょう。自分を相手に印象付けることが、これでは完全に失敗です。
若い学生たちも、そのことの危険をよく知っています。ですから、彼らが日本にやってきて、実際に日本の目まぐるしく変る天気、はっきりした四季の移り変わり、四季とりどりの風情を、生活を通して体験するにもかかわらず、それをものめずらしい話題として持ち出すことはあっても、日常のあいさつとして、そのような天気のことはほとんど話題にしないものです。話題にするにしても、それは日本語で何とか間を持たせようとする努力の結果のようなところがあります。反対に、日本語で話せるチャンスはいつでも生かそうとするために、天気のことでもなんでも日本語の実践として話しそうとするものもあります。しかし、そのご本人が、英語で話している時は全く違っています。
私ども日本人の日常のあいさつで、よく学生が問題にするのは、隣近所の人たちとのあいさつです。
A いいお天気になりましたね。
B お出かけですか。
A ええ。ちょっとそこまで。
B 行っていらっしゃい。
というやりとりです。日本に住んでいる外国人で、少し日本語が話せると、きっと日本人からこんなふうに声をかけられるようになります。
こんなアメリカ人が、「どこへ行こうと、私の自由だ。」など、と言い出すと、わたしは「そらきた。」といつも思います。
「日本人はね、あなたがよそゆきの格好をしているのを見て、外出するらしいと思うでしょう。いつもと違うと感じるわけです。そのときに、その洋服はすてきだとか、今日はおきれいだとかは言わないのです。日本人は人との付き合い方が慎重だから、そういうことを言うのは、考えようによっては、失礼になることだってあるでしょう。けれど、なんとかして、今日のあなたは特別だ、ということを相手に伝えたいのです。どこへ行くかを聞いているのじゃないのです。そんなことを聞くのが失礼なことは十分知っているんです、日本人だって。だから、それをうけるほうも。『私のことを認めてくれてありがとう。でも、私の出かける先は私事であって、あなたには関係のないことだし、またあなたも、そこまで聞いているわけではないことを、私はよく承知しております。けれど、黙っていては、せっかくの好意を無にすることになるでしょう。』と考えるのです。だから、いちばん無難な答え方として、『ちょっとそこまで。』と答えるのです。そうすればね、相手は、出かける人に対するあいさつとして、これはほんとの気持ちで、『行っていらっしゃい。』って言うんです。わかるでしょう、日本人の心のやりとりが。」
まあ、下手な説明ですが、学生はなるほどと安心してくれて、それからは、日本人のそんなあいさつに、非難がましいことを言わないようになります。

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 楼主| 发表于 2007-10-11 15:59:07 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:46 编辑

第五課 家族旅行
デカルトは、「世界という、この大きな本」と言った。世界が大きな本であるのなら、旅をすることは、その本のページを一枚一枚めくることである。そして、この本はひとりの人間が一生かかっても読みきれないだろう。時には、自分ひとりだけでページをめくるのもよかろう。また、知ったものどうしで、同じページを読み、その感想を語り合うことを楽しみとしてもいい。親が子に読んで聞かせることもあろう。この世界という本の読み方もさまざまだ。
わたしの読み方は、どちらかと言えば、日常の人間の目で旅の世界をながめ、旅の続きの目で、日常の生活を見るといった具合なのだ。普通の人々とは逆であるかもしれない。わたしは医者であるが、元来怠け者で、旅好きとはいえそうもない。それが、どういうわけか、次々と旅に追い立てられることになるのである。勉強や仕事のための旅もあるし、レジャーのための旅もある。へそ曲がりの人間だから、旅に出るとしたら、あてどない旅のしかたが好きなのだが、そのわたしが、子供連れ、家内連れの旅をよくするはめになるというのも不思議だ。ひとり旅は自由だが、普通の人間には、その自由に、わびしさの代価が付きまとう。長いひとり旅には、家族への、家族の住む世界へのノスタルジアが忍び込む。家族で旅をするときには、楽しさもあるが、煩わしさも避けられない。だが、煩わしさがなくて、楽しいだけだという旅を求めるのは、欲張りすぎている。家族というものは、旅に出ようとまいと、初めっから終わりまでついて回るものなのだ。そういう覚悟がなければ、家族旅行などできるものではない。
わたしのそういう家族旅行の一つを、紹介してみることにしよう
その日、出発の時から、三人の娘どもは大はしゃぎであった。そもそも彼女らは、はしゃいでいないほうが、まれなのだ。ともかく、彼女らはサーカスの道化師どもと思われるほど、大はしゃぎであった。というのは、子供たちに、今度は宮崎に飛行機で行き、「子供の国」公園をたずねてみよう、そこにらくだがいて、らくだに乗れるのだ、と話したからである。
日が照っていた。快晴であった。天気がいい日、飛行機に乗って地上を見下ろすのは、気持ちもいいし、おもしろい。子供たちに、「ほら、富士山だ。」「ほら、新幹線があそこを走ってるよ。」などと説明してやった。新幹線も空から見ると、まるで葉っぱの上をのそのそと這う毛虫のようである。
お昼近くに東京を出て、日のまだ高いうちに、私たちは宮崎に着いた。海も山も、美しかった。空の旅としては、これほど恵まれることはまれだろうと思った。
宮崎の観光は、空港が玄関口である。
空港から市内へ出る道筋の、亜熱帯樹の並木が、まず目につく。飛行機で東京や大阪から着いた人間に、ここは日本の南国なのだという印象を強く与える。子供たちも家内も、一瞬目を見張った。こういう点では、宮崎は、観光というもの、旅行というものを、よく演出していると言うことができるだろう。
わたしたちは、すぐ大淀川の川岸にあるホテルまで車で行った。空港のほうから来て橘橋を渡ると、すぐにフェニックスの豊かな姿が目に入る。そして大淀川に沿うて並ぶフェニックスと、その間に並んだ、南仏風の日よけ付きのベンチとテーブル。大胆な色彩の配合が、空の水色と重なって、東京あたりから来る人間には、ほのかな異国情緒さえ感じさせる。
一休みしてから、子供たちに約束してある「子供の国」公園に行くことにした。「子供の国」は、日南海岸の入口にある。青島の手前の海岸地帯を造園した、アイデアに溢れた楽しい公園だ。
「ここの公園は、ゴミが落ちてないわねえ。」
家内がそう私に言った。日本の観光地は、遠景の自然の美しい景色を売り物にするが、足元のごみは片付けないところが多い。富士山も遠くから見ると美しいが、五合目あたりは、弁当がらの山である。どこへ行ってもそうだから、わたしなども、ごみくずをちりばめた自然の美しさが、日本の景色の特徴ではないかと思ったりするほどだ。それが、この「子供の国」公園にはごみがないのだ。
公園は、蘇鉄やフェニックスや、その他の亜熱帯樹が豊かに育っていて、散歩が楽しかった。子供たちは、はしゃぎ通しであった。そして、ここの、伸び伸びとした、甘い空気を吸って、いつもの倍も動き回っているようだった。それは、すでに子供のエネルギーを持て余しぎみのわたしにとっては、迷惑すぎるほどであった。
迷路があって、子供たちは中に入ったが、出られなくなると、四つん這いになって、下のすきまから逃げ出してきた。
さて、いよいよ、駱駝である。あの、名前を口にしただけで子供たちが目を丸くした、駱駝である。だが、これは決して、名前のようにらくな乗り物ではない。アラビア風の仮装をした人がついて、ゆらりゆらりと、海岸沿いの道を往復する。大人にしてみれば、なんのことはないが、だが、子供にとっては、これだけのことがたいへんなことなのである。海岸沿いに、後ろには青島が見られ、前には「子供の国」公園の広々としたながめと、美しい海が広がる。
子供たちは、この世に生まれて、初めて駱駝に乗ったことで、満足であり、感激であったようだ。
ホテルに帰ると、電話がかかって来た。何事であろうと思うと、サービスの女の子からで、「窓からご覧ください、夕映えが美しいです。」と教えてくれた。すっかり宮崎ペースにはまってしまって、わたしたちは窓辺に行って、その夕日を眺めた。大淀川の上には、かもが無数に浮いて、夕映えを映した川面に静かに羽を休めていた。休息の気分がこの夕暮れの空気に満ちていた。
翌日は雨だった。わたしたちは、車で日南海岸をドライブすることにした。道から見える小さな山をおおう飫肥杉の形と、まるで夕日のさしたような、葉の赤い反映が美しかった。それが、この土地の人間の、自然に対する愛情のようなものを感じさせるのだった。
堀切峠からの海岸線のながめは有名であるし、美しい。しかし、この美しいものは、ありのままの自然だけではない。鬼のせんたく板も確かに珍しい風景を与えてくれるが、それは、美しい海岸道路と、それに沿うて手入れの行き届いたフェニックスや蘇鉄の並木がなかったら、大したものではない。平凡なものだろう。そして、これらの植物や道路は、もともとあったものでなく、作られ、数十年かかって育てられたものなのだ。広々とした、雨にけむった太平洋を車窓から眺めながら、風景を商品とする観光というものを、わたしはつくづくと考えた。堀切峠にも、看板はいっさいなく、みやげ売り場の、風景をそこなうバラックも見当たらない。これは、まさに徹底していると言うべきだった。
それからさらに進むと、山の陰から小弥太郎サボテン公園が現れた。南にかなり険しく迫っている山の、その頂上まで、びっしりとサボテンの山だ。
雨は、運よく、ここに来ると上がった。五月には山いっぱいサボテンの花が開き、サボテン祭りをするのだそうである。
わたしと家内は、サボテンのビックルスを食べてみたが、心配するように、のどがちくちくすることもない。黙って食べさせれば、サボテンとわかる人はおらぬだろう。
鵜戸神宮まで足を伸ばす。ここには最近トンネルができて、神宮までの道はらくになった。ここはたいへんな雨で、サボテン公園から借りて来たかさ役に立ったが、岩と海の男性的な自然、そして、自然林の深さは、雨の中でも悪いとは言えなかった。
これは決して負け惜しみではない。雨に洗われた木々の緑は、決して悪くないのである。これは古くから伝えられたままの、日本の伝統的な美意識というものである。
昼は、堀切峠の近くにあるドライブ?インまでもどって、魚すきを食べた。山ほどの魚と野菜を食べ、さらに、雑炊を作って食べた。雑炊を食べさせると、子供も家内も「おいしい、こんなうまいものたべたことがない。」と、大声を上げた。
それから、わたしたちは、また降り出した雨の中を飛行機で東京にもどった。一泊の旅としては、思い切って遠くまで来られるようになったものだ。帰りは雲の中の旅であった。その雲の中で考えた。
宮崎の自然は特に非凡なものではない、ただ、ここの人間の観光に対する考え方は非凡だと。宮崎のフェニックスは、今やこの地方の名物だし、観光のアクセントだ。だが、これは昔からあったものではない。数十年かかって育て上げたものだ。それが観光資源になっている。祖先伝来の観光資源を利用するだけで、かえってそこなうことの多い観光事業が目立つ中で、これは考えられていいことだ。これは、人工的な作られた観光資源にすぎぬという人もあるだろう。だが、日光や箱根の、ベルツやアーネスト=サトウを賛嘆させた杉並み木は、だれが植えたものか。われわれの祖先はわれわれに、いくつかのこうした観光資源を、そうなるとは知らずに残してくれた。われわれは、何を子供たちに残せるだろう。三十年前にフェニックスを植えた宮崎の観光の考え方、みやげもの屋?野立ちの看板を自然から追放し、ごみくずを落とさせない風景を作ったこと、そして、木を構え、花を植え、宮崎という自然全体を一つの絵に仕立てようとする、ある統一した視点、それらをわたしは考えた。
そして、家内に言った。
「そうだ、東京の観光業者たちに、宮崎を見学させたいね。」
わたしたちは顔をもう一度見合わせ、居眠り始めた子供たちを眺めた。

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 楼主| 发表于 2007-10-11 15:59:47 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:46 编辑

第六課 沈黙の世界
満員電車で、乗客たちの行動を見ていて気がついたことがある。それは、このおびただしい数の、押しつぶされた人間たちが、例外無しに無表情で、しかも無言だ、という事実である。みんな、むっつりと黙って、つまらなそうな顔をしている。もとより、満員電車に乗っているということは、あんまり愉快な経験であろうはずがなく、この何千何万の通勤者たちが、いわしの缶詰めのごとくにつぶされ、なおかつ、にこにこおしゃべりをしているとするなら、それこそ不気味というべきであろう。無表情、無言、ということこそ、こうした場合の人間性なのである。
だが、その無表情、無言も程度問題だ、とわたしは思う。とりわけ、満員電車から降りるときに、無言で人を押しのけ、ドアに向かって移動する人々にぶつかると、なんとなく、変な気持ちになる。それは、あたかも人間のかたまりの真ん中を貫通して、巨大なモグラが動いているような感じなのだ。押しのけるほうも、押しのけられるほうも、ひたすら無言。それがわたしには不思議なのである。
同じようなことを、わたしは、例えばデパートのエレベーターなどでも経験する。ある階で止まると、突然に、奥のほうから無言のモグラが動いている。突然だから、こっちもびっくりする。いずれにせよ、あんまり、いい気持ちのものではない。
ちょっとひと言、声をかけてくれればいいのに、と思う。「降りますよ。」「ごめんなさい。」そういう簡単なひと言がかけられれば、こっちもそれを一つの準備刺激として、通過する空間を作るべく努力できるはずである。そして、「どうぞ。」という反応のことばも、おのずから出てこようというものだ。黙って、やたらに背中を押されていたのでは、なにがなにやらわからず、不愉快な思いをせざるをえない。
そのうえ、このモグラ人間の中には、しばしば、押し分け、かき分けながら、周りの人間たちを一種の敵意と憎悪に満ちたまなざしでにらみつける連中がいる。あたかも、自分が脱出のため四苦八苦しているのは、周りの人間たちがいけないからだ、といったような表情がそこにはある。そうした表情でにらまれると、こっちも腹が立ち、出させてやるものか、といった気持ちがかすめる。したがって、譲り合うというよりも、押し合う姿勢をとらざるをえなくなり、満員の電車やエレベーターは、ますます不愉快な経験となる。
さまざまなサービスの場面でも、われわれは、おしなべて沈黙民族だ。たとえば喫茶店で飲む一杯のコーヒーがそうだ、ウェイトレスが注文をとりにくる。われわれの多くは、ただ「コーヒー。」とひと言事務的につぶやく。彼女は、やがて無言のままコーヒーと伝票を、これまた事務的にポンとテーブルの上に置き、お客のほうも、黙々とコーヒーを飲み、金を払って帰っていく。これもまた、どうにかならないか、とわたしは思う。
こんなことを言うもの、ひょっとすると、わたし自身がアメリカやヨーロッパで暮らしたり、滞在したりした時の経験が背景にあるからなのかもしれない。同じ一杯のコーヒーでも、欧米、とりわけアメリカの社会ではだいぶ様子が違うのである。
例えば、アメリカでコーヒーショップに入る。ウェイトレスはメニューを持って、「おはようございます。ご機嫌いかが?」とまずこうくる。こっちのほうは、それに答えて、「ありがとう、まあまあだね、ところで……。」と、兎に角、何か物を言わざるを得ない仕掛けになっているのである。そして、そういう、行きずりの人間関係のウォーミング?アップの後に、コーヒーが運ばれてくるわけで、したがって、彼女のほうは、「お待たせしました。さあどうぞ。」ということになり、こちらとしても、「ありがとう。」という言葉が自然に出てくるものなのだ。
もとより、こんなふうにして交わされる二言三言の会話に実用的意味があるか、といえば、答えは否である。別にお天気がよかろうと悪かろうと、あるいは当方の機嫌がどうであろうと、そんなことは実のところ、問題ではない。要するに、この種の「会話」は、ことばの「意味」に照らして考えてみたら、まったく無意味という以外にいいようはないのである。しかし、この無意味なる会話のあるなしによって、人間どうしのかかわり合いの形は、ずいぶん異なったものになる。早い話、ぶすっ、と押し黙ったウェイトレスがガチャリとテーブルの上に置いてゆくコーヒーと、にっこりほほえんで、「さあどうぞ。」と置かれるコーヒーと、どっちがあなたにとっておいしいか。
日本文化が沈黙によって支配されているのは、いったいなぜか?――これは歴史的にも社会的に、極めて興味ある問題である。柳田国男先生がその著作の中で繰り返し指摘されたように、日本の民衆生活の中で、おしゃべりというものがマイナスの価値を持ち、ただ黙々と働くことが美徳とされてきたこと、そして、更に、そんな訳で「物言う術」を身につける機会を日本人の多くがもたなかったことも、その一因だろう。又、いちいち、あれをこうしろとか、こっちをどうしろとか、言葉を使わないでも以心伝心式の方法でどうにか社会を維持してきたという実績が、沈黙への自身を深めている、とみることもできる。それに、日本文化の中では、べらべらお喋りをするということは、処世術的にいって、おおむね損なことだ。出世しようと思ったら、ひたすら沈黙を守っているにこしたことはないのである。
わたしは、日本文化の改造などというだいそれたことに気炎をあげたくはない。しかし、満員電車から降りるときには、「すみません、降りますよ。」というひと言を、また、何かのサービスを受けたときには、「ありがとう。」というひと言を口にするという簡単な習慣が、一人でも多くの日本人の中に定着してほしいと思う。旗を立てて絶叫するのもけっこうだが、ふだんの小さな会話をだいじにしたいと思う。それだけで、ずいぶん身辺は明るくなるにちがいないのである。

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 楼主| 发表于 2007-10-11 16:00:08 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:46 编辑

第七課 藤野先生
東京も格別のことはなかった。上野の桜が満開のころは、眺めはいかにもくれない薄雲だのようではあったが、花の下にはきまって隊伍を組んだ「清国留学生」の速成組がいた。頭のてっぺんに辮髪をぐるぐる巻きにし、そのため学生帽が高くそびえて富士山の形になっている。なかには辮髪を解いて平たく巻きつけたのもあり、帽子を脱ぐと油がぴかぴかで若い女の髪形そっくり、これで首のひとつもひねれば色気は満点だ。
中国留学会館は玄関部屋で本を少しばかり売っていたので、たまには立ち寄るのも悪くなかった。午前中なら奥の洋間で休むことも出きる。だが夕方になると、きまってその一間の床板がドシンドシン地響きを立て、ほこりが部屋じゅう濛々となる。消息通に聞いてみると《あれはダンスの稽古さ》という答えだ。
では、ほかの土地へ行ってみたら?
そこで私は、仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出て間もなく、ある駅に着くと「日暮里」とあった。なぜか今でもその名をおぼえている。次におぼえているのは「水戸」だけ、これは明の遺民、朱舜水先生が客死された地だ。仙台は市ではあるが大きくない。冬はひどく寒かった。中国人の学生はまだいなかった。
物は稀なるをもって貴しとなすのだろう。北京の白菜が浙江へ運ばれると、赤いひもで根元をゆわえて果物屋の店頭にさかさに吊るされ、もったいぶって「山東菜」とよばれる。福建に野生するアロエが北京へ行くと、温室へ招じ入れられて「竜舌蘭」という美称が与えられる。私も仙台でこれと同じ優待を受け、学校が授業料を免除してくれたばかりでなく、職員たちが食や住の面倒まで見てくれた。最初は監獄のそばに下宿した。冬に入ってかなり寒くなっても蚊がまだたくさんいるので、しまいに私はふとんを全身に引っかぶり、頭と顔は服でくるみ、ふたつの鼻の穴だけを息するために出しておいた。この絶えず息する場所だけは蚊も食いつきようがないので、やっとゆっくり眠れた。食事も悪くなかった。ところがある先生が、この下宿は囚人の賄いも請負っているから、こんなところにいるのはよくないと何度も何度も勧告した。下宿屋が囚人の賄いを兼業しようと私には無関係と思ったが、せっかくの好意を無にはできず、適当な下宿をほかに探すことにした。そうして監獄から離れた場所に移ったが、お陰で毎日喉を通らぬ芋がらの汁ばかり飲まされた。
以降、多くの先生にはじめて接し、多くの新鮮な講義を聞いた。解剖学は教授ふたりの分担だった。最初は骨学である。入ってきたのは色の黒い、痩せた先生で、八字ひげを生やし、眼鏡をかけ、大小さまざまな書物を山のようにかかえていた。卓上に書物をおくなり、ゆっくりした、節をつけた口調で学生にこう自己紹介した――
《私は藤野厳九郎というもので……》
うしろのほうで数人が笑い声を立てた。自己紹介のあと、かれは日本における解剖学の発達史を説き出した。大小さまざまな書物は、この学問に関する最初から今日までの文献だった。最初の数冊は糸とじであり、中国での訳本を翻刻したものもあった。新しい医学の翻訳にしろ研究にしろ、かれらは決して中国より早くはない。
後ろのほうにいて笑った連中は、前学年に落第して原級に残った学生で、在校すでに一年、いっぱしの消息通である。かれらは新入生に教授それぞれの来歴を説明してくれた。それによると、この藤野先生は服の着方が無頓着で、ネクタイすら忘れることがある。冬は古外套一枚で震えているので、あるとき汽車に乗ったら車掌がスリと勘ちがいして、乗客に用心をうながしたそうだ。
その話はたぶん嘘ではあるまい。げんに私も、かれがネクタイをせずに教室に現れたのを一度見たから。
一週間たって、たしか土曜日のこと、かれは助手に命じて私を呼ばせた。研究室へ行ってみると、かれは人骨とたくさんの切りはなされた頭蓋骨――当時かれは頭蓋骨の研究中で、のちに本校の雑誌に論文がのった――に囲まれていた。
《私の講義、ノートが取れますか?》とかれは訊ねた。
《どうにか》
《見せてごらん》
私は筆記したノートをさし出した。彼は受け取って、一両日して返してくれた。そして、今後は毎週持ってきて見せるようにといった。持ち帰って開いてみて、私はびっくりした。同時にある種の困惑と感激に襲われた。私のノートは、初めから終わりまで全部朱筆で添削してあり、たくさんの抜けたところを書き加えただけでなく、文法の誤りまでことごとく訂正してあった。このことがかれの担任の骨学、血管学、神経学の授業全部にわたってつづけられた。
遺憾ながら当時の私は一向に不勉強であり、時にはわがままでさえあった。今でもおぼえているが、あるとき藤野先生が私を研究室へ呼び寄せ、私のノートから一枚の図を取り出した。下膊の血管の図だ。それを指さして、かれはおだやかに言った――
《ほら、君はこの血管の位置を少し変えたね――むろん、こうすれば形がよくなるのは事実だ。だが解剖図は美術ではない。実物がどうあろうと、われわれは勝手に変えてはならんのだ。今は私が直してあげたから、これからは黒板に書いてある通りに写すんだね》
だがわたしは内心不服だった。口で承知したが心では思った――
《図はやはりぼくの描き方のほうがうまいですよ。実際の形態ならむろん頭で覚えてます。》
学年試験のあと私は東京へ行ってひと夏遊んだ。秋のはじめに学校に戻ってみると、すでに成績が発表になっていた。百人あまりの同級生中、私はまん中どころで落第はせずにすんだ。今度の藤野先生の担当は解剖実習と局所解剖学だった。
解剖実習が始まって一週間くらいすると、かれはまた私を呼んで、上機嫌で、いつもの節をつけた口調でこう言った――
《じつはね、中国人は霊魂を敬うと聞いていたので、君が死体解剖をいやがりはしないかとずいぶん心配したよ。まずは安心した、そんなことがなくてね》
しかしかれは、たまに私を困らせることもあった。中国の女は纏足しているそうだが、くわしいことがわからない、と言って、どんなふうに纏足するのか、足の骨はどんなふうに畸形化するか、などと私に質問し、それから嘆息した。《やはり一度見ないとわからんね、どんなふうになるのか》
ある日、学生会のクラス幹事が私の下宿へ来てノートを見せてくれと言った。出してやると、ぱらぱらめくっただけで、持ち帰りはしなかった。かれらが帰るとすぐ郵便配達が来て、分厚な手紙をとどけた。あけてみると、文面の最初の一句は――
「汝、悔い改めよ!」
たぶんこれは新約聖書の一句だが、最近トルストイによって引用されたものだ。時あたかも日露戦争、ト翁はロシアと日本の皇帝にあてて公開状を書き、冒頭にこの一句を使った。日本の新聞はその不遜をなじり、愛国青年はいきり立ったが、実際はそれと知らずに早くからかれの影響を受けていたのだ。あとにつづく文面は、前学年の解剖学の試験で、藤野先生がノートに印をつけてくれたので私には出題がわかり、だから点が取れたと言った意味だった。末尾には署名がなかった。
そこではじめて数日前のことを思い出した。クラス会を開く通知を幹事が黒板に書いたとき、最後に「全員漏れなく出席されたし」とあって、その「漏」の字の横にマルをつけてあった。そのときマルはおかしいなと感じはしたが気にとめなかった。それが私への当てこすりであること、私が教員から出題を漏らされたという意味だとはじめて気がついた。
私はそのことを藤野先生に知らせた。私と仲のいい同級生数人も憤慨して、いっしょに幹事のところに行き、口実を設けて人のノートを検査した無礼をなじり、検査の結果を発表するように要求した。結局、この噂は立ち消えになったが、すると今度は、幹事が八方手を尽くしての匿名の手紙を回収したにかかった。最後に私からこのトルストイ式書簡をかれらにもどして幕になった。
中国は弱国であり、したがって中国人は当然に低能だから、自分の力で六十点以上とれるはずがない、こうかれらが疑ったとしても無理はない。だが私はつづいて、中国人の銃殺されるのを参観する運命にめぐり合った。第二学年では細菌学の授業があって、細菌の形態はすべて幻灯で映して見せるが、授業が一段落してもまだ放課にならぬと、ニュースを放映して見せた。むろん日本がロシアとの戦争で勝った場面ばかりだ。ところがスクリーンに、ひょっこり中国人が登場した。ロシア軍のスパイとして日本軍に捕らえられ、銃殺される場面である。それを取りまいて見物している群衆も中国人だった。もうひとり、教室には私がいる。
《万歳!》万雷の拍手と歓声だ。
いつも歓声はスライド一枚ごとにあがるが、私としては、このときの歓声ほど耳にこたえたものはなかった。のちに中国に帰ってからも、囚人が銃殺されるのをのんびり見物している人々がきまって酔ったように喝采するのを見た――ああ、施す手なし!だがこの時この場所で私の考えは変った。
第二学年のおわりに私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そして仙台を離れるつもりだと告げた。かれは顔をくもらせ、何か言いたげだったが、何も言わなかった。
《ぼくは生物学を学ぶつもりです。先生に教わった学問はきっと役に立ちます》私は生物学をやるつもりなど毛頭なかったが、落胆ぶりを見かねて、慰めるつもりで嘘をついた。
《医学として教えた解剖学など生物学にはあまり役に立つまい》かれは嘆息した。
出発の数日前、かれは私を家に呼んで写真を一枚くれた。裏に「惜別」と二字書いてあった。そして私の写真もと乞われたが、あいにく手持ちがなかった。あとで写したら送ってくれ、それからにふれ手紙で近況を知らせてくれ、とかれは何度も言った。
仙台を離れたあと、私は何年も写真をとらなかったし、不安定な状態がつづいて、知らせても失望させるだけだと思うと手紙も書きにくかった。年月がたつにつれてますます書きにくくなり、たまに書きたいと思っても容易に筆がとれなかった。こうして現在まで、ついに一通の手紙、一枚の写真も送らずにしまった。あちらからすれば梨のつぶてのわけだ。
だがなぜか私は、いまでもよくかれのことを思い出す。わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ、もっとも私を励ましてくれた一人だ。私はよく考える。かれが私に熱烈な期待をかけ、辛抱づよく教えてくれたこと、それは小さくいえば中国のためである。中国に新しい医学の生まれることを期待したのだ。大きくいえば学術のためである。新しい医学が中国に伝わることを期待したのだ。私の眼から見て、また私の心において、かれは偉大な人格である。その姓名を知る人がよし少ないにせよ。
かれが手を加えたノートを私は三冊の厚い本にとじ、永久に記念するつもりで大切にしまっておいた。不幸にも七年前、引越しの途中で本の箱がひとつこわれ、なかの書物が半分なくなり、あいにくこのノートも失われた。探すように運送屋を督促したが返事がなかった。だがかれの写真だけは今でも北京のわが寓居の東の壁に、机のむかいに掛けてある。夜ごと仕事に倦んでなまけたくなるとき、顔をあげて灯のもとに色の黒い、痩せたかれの顔が、いまにも節をつけた口調で語り出しそうなのを見ると、たちまち良心がよびもどされ、勇気も加わる。そこで一服たばこを吸って、「正人君子」たちから忌み嫌われる文章を書きつぐことになる。

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 楼主| 发表于 2007-10-11 16:01:14 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:46 编辑

第八課 日本語の特質
これから、主として表現とか文法とかの面について、日本語の特徴を考えてみましょう。
第一に、わたしたちの日本語は物のやりとりに関することばが実に詳しいと思います。「やる」「あげる」「差し上げる」、「もらう」「くださる」「奉る」「献上する」、相手が目下だと「授ける」「施す」というようにずいぶん多い。こういうふうに、日本人というものは、物のやりとりにはずいぶん頭を労していることが分かります。
たとえば、「あなたが私に物をやった。」とか「あげた」とは言いません。「あなたが私に物をくれた。」または「くださった」と言います。自分のほうから相手に行く場合と、相手から自分のほうへ来る場合とは違う。それはなぜか、これを研究した人がいます。
アメリカの女流社会学者のルース=ベネディクトという人が、「菊と刀」という本を書きましたが、これは、アメリカが日本と戦争するためには日本人の性格を理解することが必要であるというので、日本人の二面、美しい面と恐ろしい面を描いて「菊と刀」という本にしたものであります。
その中でこう言っています。「一人の日本人を苦しめることはなんでもないことで、日本人に物を与えればよい。いつまでも、そのことを頭に持って、悩み苦しむであろう。」という書き出しで、次に「日本の人気のある小説の一つに、漱石の『坊っちゃん』というのがあるが、その中で、主人公が四国の中学校の教師に赴任するが、赴任先で坊っちゃんは同僚のレッドシャーツと釣りに行き、その船の中で、忠告を受ける。同僚にやまあらしという男が居るが、あれはあまりよくない男で、新しい教師がはいってくると、生徒をおだてて、その新しい教師を追い出そうとする。あなたは、あのような男と付き合ってはいけませんと言われる。坊っちゃんは根が単純で、その忠告を受けようとするが、急にはその忠告を受け入れない事情がある。これはどういうことかというと、坊っちゃんがはじめてその中学校に赴任してきたときに、やまあらしは坊っちゃんを角の氷屋に連れて行き一銭五厘の氷水をごちそうした。その恩があったので、坊っちゃんはどうするかというと、あくる日学校へ行って、一銭五厘をやまあらしの机の上へ置いて、あらためて絶交を言い渡すのだが、私はここに一人の典型的な日本人を見る。」その次に、「アメリカにおいては、このようなここが精神病患者の病歴録には多々見ることができるところである。」と断っているが、これはおもしろいと思います。日本人は、物をもらいますと、そのままではいられない。何かこれを返してしまわないといられないのであります。第三者どうしのやりとりには関心がないが、自分がもらうとなると苦しむ。私たちにはこうした考え方がしみついているので何とも思わないが、アメリカの人々には異様に考えられたのであります。
日本語は論理的でない言葉が多いと言われます。「何もありませんが召し上がってください。」などと、何もないものを食べることはできませんが、平気で使っております。「そまつですが。」とか、「口に合わないものですが。」とか……。もらう場合も苦しむが、人にやる場合にも同じようにこだわります。つまり、相手の束縛を解く意味でそういう言い方をするのであります。これが日本人の考え方?言い方であります。たとえば、私が皆さんに写真屋を紹介しようとするときに、この写真屋なら皆さんに紹介しても悪くないだろうなと考える。こうした場合、「この写真屋がうまいんですが、一度かれの所へ行って写真を撮ってもらってやってくださいませんか。」こう言います。「とってもらって」というと皆さんがこの写真から恩を受けること、「やって」というと写真屋へ恩を施すこと、「くださいませんか」というと私が皆さんから恩を受けることを表すわけでありまして、恩の関係はこのように移動するのであります。これなどいちばん日本語らしい日本語の例でしょう。
第二に、日本人がものを区別する。その区別のしかたには特色があります。ヨーロッパ人とは非常に違いがあります。それはどういう点かといいますと、日本人にとってはなんでもないことでありますが、心を持っているかいないかということで区別をすることです。たとえば、人間や犬とコップは違うのであります。そこでどういうことになるかといいますと、動詞を使う場合に区別が出てきます。「犬がいる」「コップがある。」というように区別します。服部四郎博士という言語学者がおられますが、そのかたによりますと、「ある」「いる」という区別のしかたは日本だけだそうであります。私たちには基本的な言語のように思いますが、他国の言語にはそうした区別がないそうであります。物を数える場合に、コップを数える場合には一つ、二つと言いますが、犬は一匹二匹と言います。人間は一人二人と言います。これは人間である。これは人間以外の動物である。と区別するばかりでなく、尊敬すべき人とそうでない一般の人とを区別します、「お一方」というぐあいに、物の場合でも一本二本とか、一個二個、一枚二枚といったぐあいに区別します。これは日本だけではありません。中国を中心として、朝鮮、ビルマ、アンナン、この辺に広がっております。ヨーロッパにはありません。「一杯やろうか。」などと言えば、何を一杯やろうなどと言わなくてもわかるのであります。
第三は、日本語では動詞の表現に関しては、自動詞的な表現が多いと言うことであります。たとえば、「私は驚いた。」また「喜んだ。」と言いますが、英語ではそうは言いません。「私は驚かされた」あるいは「喜ばされた。」というように受身の形をとっています。つまり、他の人が何々するという表現が多い。日本語の場合には、自分はどうなる、という言い方やそうした動詞がたくさんあります。英語では自動詞?他動詞の数を見ますと他動詞のほうが多いのではないかと思いますが、日本語の場合には、自動詞のほうが圧倒的に多い。英語で「何々を愛する。」という場合に、日本語では「何々が好きだ。」と言います。日本語は自動詞的であります。自動詞的ということは、あまり変化がなくって静かである。日本語が静かであるということは自動詞的であったからではないかと私は思います。日本では「芋が煮える。」とか「家が焼ける。」とか「こわれる。」とか、「富士が見える。」とか言います。
表現の第四の特色は、はっきりした表現を避けることです。私たちは「雨が降っているようだ」とか、「雨が降っているらしい。」という表現を喜びます。友たちを誘って「コーヒーでも飲みませんか。」と言う。この「でも」は何かといいますと、「コーヒーを飲みませんか。」と言うと、コーヒー以外は飲んではいけないというように、あまり強くなりますので、「でも」を加えて、柔らかくする。あまりはっきり言わないところに敬語の精神があるのです。たとえば、「どちらにお住まいですか。」と、こう聞きます。「どちら」とは、たいへん無責任な話でありますが、「どこどこ」とは言いません。「どちら」と方向で聞きます。答えるほうも方向で答えて、「私は荻窪のほうに住んでおります。」と言います。はっきり言わない、そこに日本人の理想とでもいいましょうか。そうしたものがあるようです。ですから肯定の文章で言うほうがいいような、そういった感じがあります。
たとえば、西洋の諺に「他の人にしてもらいたいように他の人にしなさい。」とありますが、東洋の諺はそうではありません。「己の欲せざるところ人に施すことなかれ。」と言って、「なかれ」のほうでいきます。「空腹にまずいものなし。」という言い方も、いかにも東洋的であります。ヨーロッパでは何と言うか、「空腹は最良のソースである。」と言います。日本人は、「私にはこれだけしかできません。」と打消で言いますが、向こうの人はそうではありません。「これが私にできるすべてである。」と言う。このほうが偉大そうでありますが、どうも日本人はそういう言い方をしません。たとえば、終戦直後のできごとですが、アメリカの人がやって来て、日本の教育の立て直しを考えまして、「よい子の読本」というのを作らせたそうです。そこで日本人は持ち前の勘をよさから、アメリカの気に入るような原稿を書いて見せたそうですが、アメリカの人はそれを見て、民主的でたいへんけっこうだが、あまりにも消極的すぎると言ったそうです。どうしてかといいますと、日本人の出した「よい子の読本」の案は、「生き物をいじめないよい子」「公園の花を折り取らないよい子」など、「……しないよい子」ばかりだったからだそうです。そこでアメリカ人の注意を受けまして、「公園の花を大事にするよい子」「生き物をかわいがるよい子」と改めたそうですが、やはりそのほうがよいでしょう。そのときアメリカの役人の一人が文部省の部屋にはいって来たところが、ドアに何かのはり紙がしてあって、そこに「このドア使用禁止」と書いてあったそうです。アメリカの人はこれを見て、なんと不親切なはり紙であるか。」と言ったそうです。日本人の場合はこれはあたりまえです。では向こうの人は何と書くかと聞いたところが、向こうでは「反対側のドアからご出入ください。」と書くのだと答えたそうです。確かにそのほうが親切です。
同じころの話ですが、日本の高等学校の国語の教科書の編集に関して、アメリカの役人が「おまえたちにもりっぱな詩があるであろうから、それを持ってきて見せろ。」と言うので、日本の役人は島崎藤村の「千曲川旅情の歌」を持って行ったそうです。向こうの人は日本語が分からないのでていねいな英語に直して持って行ったのですが、アメリカ人はそれを見て何と言ったかといいますと、「これは何も書いてない詩ですね。」と言ったそうです。なぜそう言ったかといいますと、英語に訳してはじめて気がついたのだそうですが、むやみに打消が多いのだそうです。「緑なすはこべは萌えず、若草も敷くによしなし……」それを向こうの人が読んで、何か頭に思い浮かべようとすると、「そんなものはない。」「そんなものはない」とやらせて、一番最後に頭に何も残っていなかったというのです。それに比べて私たちはどうでしょうか。「はこべは萌えず」と言いますと反射的に黒々とした土や、消え残っている雪を連想することができるようになっている。そのほか、「絵にも書けない美しさ」などという言い方もします。どんな美しさなのか、ずいぶん不親切な言い方ですが、このようにはっきり言わないことが好きです。高尚といえば高尚ですが、不親切な言い方だと思います。
(未完)

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 楼主| 发表于 2007-10-11 16:01:40 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:46 编辑

(接上)
第五番めは、日本語の表現と言うのは論理的でないということです。これは日本人が相手の勘というものを重んじている結果だと思います。日本人は勘がいいのです。ですから相手のことばが不完全でもちゃんと相手の言うことを理解するのです。アメリカの人が日本語でむずかしいのは「ぼつぼつ」という単語だと言いました。たとえば「ぼつぼつ始めようか。」というのは、どんなふうに始めるのかというのです。あるいは、「もう、そろそろ帰ってまいります。もうしばらくお待ちくださいませんか。」とよく言いますが、これもずいぶん無責任な話で、何分ぐらいで帰ってくるのか、その人のふだんの行状、話している相手の顔つきから、もう少し外をまわってこようかとか、中にはいって本でも読んで待っていようかとか、大体見当がつくわけでして、われわれはそういう訓練を子供のときから受けているようであります。
ですから少しぐらいことばの論理の通らないところなどは平気で過ごしています。戦後まもないころ、三遊亭歌笑という落語家がアメリカ人のジープにはねられてなくなりました。われわれは普通「三遊亭歌笑がジープにぶつかって死んだ。」と言いますが、それをそのまま英語に直訳してアメリカ人に伝えたところ、アメリカ人は非常にびっくりして、「なぜ、その人はそんなむだなことをしましたか。」と言ったそうです。「ジープが三遊亭歌笑にぶつかった。」と言うのが正しいのでありまして、われわれは誤解しないので、そう言っていますが、確かに論理的でない点があります。よく食堂などで、「こちらさん、何になさいますか。」「ぼくはうなぎだ。」なんてやっていますが、それでも給仕の人は笑いもしません。ちゃんとうなぎ丼を作ってきて、「うなぎはどちら様。」と聞いています。すし屋で何か握ってもらうのに、「おれはばか。」などとやってます。「大ばかですか、小ばかですか。」と聞き返すと、「大ばかだ。」と言うぐあいです。こういったようなことばのやりとりは非常に日本語的でありまして、われわれはそれですこしも苦痛を感じておりません。おそらくわれわれお互いに勘がよいのだと思います。
表現の特色の六番め、いちばん終わりになりましたが、これは日本語の文法の基本的なきまりからくるものなのですが、いちばんたいせつなことがいちばん最後にくることです。最初のほうは何を言っているのかさっぱりわかりません。代表的なのが例の宮沢賢治の詩でしょう。「雨にも負けず、風にも負けず……」、何が始まったのか聞いている人は最初さっぱり分かりません。何か妙な男のことが語られているようだが、いったいそれが作者なのであるか、作者が会った人なのであるか、あるいは作者の希望のであるか、最後のところまでわかりません。いちばん終わりの「そういう人に私はなりたい。」というところまできてはじめて、それは作者の希望であったのかとわかりますが、はて、どういう人間なのかと初めからもう一度読み直すということになります。いちばん最後に決め手が来るのです。この詩はそういった日本語の特徴を生かした芸術的作品ですから。こういう点からだけ見るのは正しくありませんが、たいせつなことが最後にくるということは、ふだんの生活では必ずしも便利だとはいえません。戦争前のことですが、汽車を持っておりますと、駅のアナウンスがありまして、「新潟行き急行がまいります。この列車は途中、大宮、熊谷、高崎……。」と駅の名前をたくさん並べるんです。何だろうかと思っている、「以外は止まりません。」とやるんです。びっくりしました。自分は渋川に行くんだが、渋川に止まるのか、止まらないのか、もう一度ぞろぞろ駅長室に言って聞いたもので、非能率この上もありません。このごろは鉄道もそういう点を改良して、「この列車の止まる駅は……。」と言います。
日本語では一番大切なことが最後にくる。最初のほうは何を言っているかわからない。これはおそらく、昔からの伝統であります。「万葉集」という歌集がそうです。浪花節がそうです。落語のまくらも同様でありますが、日本人はそういう表現に特別な文学的意識を見いだしたものと思われます。文学面においてはそれでよいのですが、日常の面では必ずしもよくありません。われわれが日本語で表現するためには、なるべく短い、わかりやすいセンテンスをつなげなければいけないと思います。

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 楼主| 发表于 2007-10-11 16:02:10 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:46 编辑

第九課 おけらの水渡り
       ――表と裏の世界――
<おけらの水渡り>ということわざがあります。勉強や仕事のおりに、やるべきことを、最後までねばり強く取り組むことをせず、少しやっては休み、また少しやっては他のことに心を移すというぐあいに目標のところまでなかなか到達しないありさまをたとえたものです。
けらと呼ばれる昆虫は、三センチほどの、もぐらを小さくして羽根をつけたようなかわいい虫ですが、これが田の中で水泳ぎをするのを見ていると、端から端まで一気に泳がずに、こちょこちょと進んでは一休みし、また思い出したように泳ぎ出すというやり方で進んでいきます。
一休みしたときには、辺りをうかがっている様子ですから、単に疲れたから休むというのではないのかもしれません。ですが、見た目には長続きのしない飽きっぽい性格のように映ります。
この昆虫の生態とわれわれの生活現象の似た面とが結びついて、なるほどと合点し、おもしろいと感づいたところに、<おけらの水渡り>という言葉が生まれそれが多くの人々に共鳴して役に立ち、ことわざとして今に持ち伝えられているわけです。
それだけに、けらという昆虫は人々に親しまれていたと言ってよいでしょう。しぐさが奇妙で、愛嬌のある昆虫だからです。
けらを手に取って、軽く握り締めると、前足を器用に動かし、指のあいだをほじくるようにして、抜け出ようとします。これがくすぐったくもあり、人々のよい遊び相手になってきたのでした。
けらは、他の昆虫と違って、穴掘りができ、それに、飛ぶことも、走ることも、泳ぐことも、よじ登ることもできるという有能で多芸な昆虫です。
しかし、どれも他に抜きんでるようにはひいでていないということに目をつけて、<けら才>とか、<けら芸>とかのことわざが生まれています。いろいろな才能や芸を持ってはいるが、どれも未熟で上手でないという意味のことわざです。もっとも、けらの穴掘りだけは実に巧みであり、名人芸だと言われますから、けらにとっては、迷惑なことかもしれません。
しかし、多彩な才能や芸を持つ人には、視野が広くて問題の解決点をうまく示すことができるという長所もありますが、その半面、短所もあるのだぞということを、けらの生態の一面に託して、誰にもああいうふうなことかと思い浮かべられるように、分かりやすく表現したところには、人間の知恵があると言ってよいでしょう。
<けら芸>と似たことわざには、<なんでもこいに名人なし><博学は薄学><石うす芸(いろいろな芸はあるが一芸としてものにならない)><ゴソの技(むささびの五能のことで、どれも満足なものがない)>などがあります。
こうした、意味が似ていて表現が違うことわざを類諺と呼びますが、これが多くあるというのは、よくよく人間の生き方の一つを深く抉り取っていると言えるでしょう。人間の限界をそれとなくつかみ取っているからです。多くの才能を持ち、そのどれをも開花させることはふつうの人にはできがたいことだからです。
このようないろいろなことわざをことわざとして理解するには、年齢的な一つの境目があります。その境目はだいたい十歳あたりにあると言ってよいでしょう。十歳ごろになると、これはこういうことをたとえているのだなあとか、そういう意味だったのかというふうに受け止めることができるようになるからです。
でも、やや分りかけてくるのは六歳ごろです。言葉の言い回しのおもしろさにひかれて、意味がそれほどに分からなくとも使い出してくるからです。「<二度あることは三度ある>っていうからまた落とそう」と言って、わざと弁当箱を落とす、というふうに、です。
十五歳以降ともなれば、かなりな程度に理解が進んでいきます。しかし、ほんとうにことわざの値うちがわかって使いこなすことができるのは、やはり大人になってからです。
つまり、ことわざはそう簡単なものではないということです。それというのも、ことわざは二重の構造を持っているからなのです。
その一つは、言語として表現された面で、これを「表」の世界と言っておくことにします。
もう一つは、表現の奥にとらえられている思想(認識?考え)で、これを「裏」の世界と言っておきます。



表の世界
花よりだんご
?目で見える

?感性的な世界




裏の世界
外観よりも実利のあるほうを取りたがる
?頭の中の目で
 見える
?意味の世界



例えば、<花よりだんご>では、左図のようになります。
表の世界は、耳で聞いたり、文字として読んだりしてその様子を思い浮かべることができます。感覚としてつかまえることのできる世界です。「たとえ」として表に現れた世界と言ってもよいのです。
これに比べて、裏の世界は直接に目で見たり耳で聞いたりすることはできません。表の世界を通して、いわば頭の中の目でしか見ることができないのです。表現されたものを手がかりとして、裏にある思想をキャッチするのだと言ってもよいでしょう。裏の世界は、意味の世界であり、法則性の世界なのです。
意味と言っても、「多数」はたくさんの数があること、といったような言葉の置き換えのことではありません。表現の裏に潜む考えということなのです。
裏の世界が存在し、そこに大切な考えが隠れているということが分からないと、ことわざをほんとうに理解することはできないのです。小学校の六年生に<さるも木から落ちる>ということわざを話題にしてみたことがありますが、ある子は「さるが木から落ちるなんてあるのかな、さるすべりの木ならつるつるしているから落っこちるかもしれないな。」と言いました。この子は、表の世界をそのままに見て疑問を抱いたわけです。ごもっともなことですが、これではこのことわざがわかっているとは言えません。
これは、その道の名人といわれる人でも時には失敗することがある、という意味で、それをおもしろくたとえたものなのだ、と説明したところ、そうかうまく言ったものだな、と納得しましたが、初めはたいていこのような受け止めをするのがふつうです。そして、ちょっとたって「ははん」とうなずいてにっこりしたり、ほかから説明されて分かるというのは、すでにことわざがわかる年齢に達しているのです。
その証拠に、小さないたずらっ子に、「おまえさんは全く<目の上のたんこぶ>だよ」。と言っても、きょとんとしているだけか、「たんこぶなんかないよ」とむきになって怒るでしょう。それこそ、<ネコに小判>だからです。
すなわち、表の世界の言葉をいくら丁寧に言い換えても、それだけではことわざのおもしろみやありがたみは分かりません。<良薬口に苦し>を、良い薬は口の中に入れると苦い感じがする、と言い換えてみただけではどうということもありません。「へえ、そうか、そんなもんですかね、近ごろの薬は少しも苦くないからみな悪薬なんでしょうな」というのが落ちでしょう。
それでは、表の世界から裏の世界へは、どうやって入っていけばよいのでしょうか。一つの簡単案方法は、ことわざの後に、「……というように(何だろうか)」とか、「……とよく言われるが(何をたとえているのだろうか)」とか、あるいは「……のようなものだ(そうすると)」とかの語尾をつけて想像していけばよいのです。「<芋の煮えたもご存じないか>(というようなものだ、そうすると……)」というふうにです。
このように、表の世界と裏の世界とは密接な関係がありますが、二重の構造としてとらえることができるわけです。
こうした二重構造は、たとえや比喩といわれるものにも見ることができます。そういう点で、ことわざ?たとえ?比喩は親類どうしだと言ってよいでしょう。
比喩には、大別すると、直喩と隠喩とがあります。
直喩は「……のようだ」という形式のもので、明喩とも言います。
隠喩は<ぬかにくぎ(意見をしても手ごたえがない)>といったようなもので、暗喩とも言います。ことわざには、隠喩の形になっているものがかなりたくさんあります。むしろ、ほとんどのことわざは隠喩だと言ってよいでしょう。
ことわざには、それほどに工夫が凝らされているのです。だから、隠喩が分かるということはことわざが分かることだと言えます。その逆も言えます。
たとえや比喩がわかるということはすばらしいことなのです。それは、ことわざが分かることであり、裏の世界をつかむ能力ができたことを意味するからです。そして、それが分かるためにはある一定の年齢を必要とするのです。いったん、その世界をつかみ始めるとどんどんことわざを習得していきます。そしてなんの苦もなしに使い出すようになります。その点では、ことわざは分かりやすくて易しいものだ、と言えましょう。

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 楼主| 发表于 2007-10-11 16:03:17 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:46 编辑

第十課 幸福
今の子供と違って、ぼくらの少年時代は、盛んに親から用事を言い付けられたものだ。ぼく自身は独りっ子で、わがままに育てられたから、それほどでもなかったが、お使いを言い付かって出かけることが、子供にとっては一種のレクリエーションを兼ねている場合だってあった。――道草を食う、この言葉は、元来そういう愉しみを言い表したものなのである。

これはぼくが中学の四年生か五年生のときのことだ。もう子供とは言えない年齢で、しかしもちろん大人になっているわけでもない。そういう中途半端な年ごろになると、もう親からものを頼まれても、うれしいとは思えなくなる。使いに出てみたって、外に大しておもしろいことなぞあるはずがないことを、経験によって悟り始めるからだ。
その時も、夕方になって母親から突然、東京へ出て来ていたS叔父のために、帰りの列車の寝台券を買いに行くように言いつけられると、まず面倒くせえな、という気がした。この叔父は変に気まぐれな男で、ぼくはこれまでにも彼のおかげで再三、こういうぐあいに突発的に用をさせられている
「自分が帰る汽車の寝台券ぐらい自分で取りに行ったらいいじゃないか。」
「また、そんなことを言う。Sさんは、今夜はどうしても人と会っておかなければならない用件があって、出かけちゃったのは、おまえも知ってるだろう。ぐずぐず言っている暇に、早く行っておいで。」
母は、普段は叔父のことを、あんなにずうずうしい男はいない、などと陰口をきいてばかりいるくせに、こういうときに限って、なぜか叔父の肩を持ちたがる。
母は玄関先で、叔父から預かった金をふきげんな顔つきで手渡した。ぼくは、そいつを無造作にたもとに突っ込んで――そのころぼくらは普段着にかすりの着物を着せられていたものだ――きいた。
「行くよ、行くからそのかわりに、おつりはもらっといていいんだろう。」
「さあね。自分で叔父さんに聞いてごらん。」
母は冷淡に答えた。どうせガッチリ屋の叔父に、そんなことをぼくが言い出せっこないことは、よく知っているのだ。ぼくは、むっつり黙って外へ出た。すると、とたんに頭に冷たいものが落ちてきた。いつの間にか雨が降り出していたのだ。ぼくは、ますます憂鬱になりながら、引き返すと重い毛繻子のこうもりがさを片手にさして、すっかり暗くなった道を歩き出した。

寝台券は国鉄のS駅へ行かなければ売っていない。家からそこへ行くには私鉄の電車で乗り換えなければならないのがやっかいだった。
S駅の切符売り場の周りには、いつ行ってみてもおおぜいの人がなんとなくボンヤリと立っている。そのくせに、ちっともにぎやかな感じはせず、かえって混雑していればいるほど逆に陰気で、物寂しい。おまけにぼくは、駅で働いている連中がなんとなく好きになれなかった。改札口の切符切りでも、私鉄の駅員と違って、ぶっきらぼうで愛想が悪い。まるで人を俵詰めの芋か何かと間違えているような態度だ。それは切符売りの窓口でも同じことだ。ぼくは、電車や列車の乗車券、急行券、寝台券、定期など、いろいろの切符売り場が並んでいる中から、間違えないようにと思いながら自分の目指す窓口を選んで前に立つのだが、どういうわけか一度で目的が果たせたことがない。ぼくの買おうとする切符は、いつも必ず右隣か左隣か、あるいははるかかなたの方角の窓口へ並び直さなくては買えないことになっている。それはいいとしても、窓の向こう側に座っている駅員が、聞き取りにくいくぐもり声で、何かぶつぶつ言いながら、あごをしゃくって人を追い払うような手振りをするのがやりきれない。
彼らにしてみれば、どの窓口で何を売っているのかはわかりきったことなのだろうが、こちらは切符買いの専門家じゃないのだから、まごつくのがあたりまえだ。ぼくは、恐る恐るいちばんすみっこの窓口へ行って、教えられた列車の寝台券を申し入れた。
「……。」
そろばんをはじいていた駅員は、窓口の鉄格子越しにぼくの顔を見返した。ぼくは、もう一度、同じことを言った。
「何枚?」
と駅員は言った。ぼくは一瞬ためらった。寝台券を一枚しか買わないということが、非常に愚かな、貧乏くさいことのようにも思われた。
「一枚だけでいいんですが。」そう答えた後で、ぼくは慌てて、付け加えた。
「下、下の段のやつが、できたらほしいですが、なければ上でもかまいません。」
聞こえているのか、いないのか、駅員は顔を横に向けたまま、古びた手垢だらけの棚からノートを出して、何か書き込み、それからおもむろに青い切符に判を押したり、数字を書き入れたりして、
「……円……十銭。」
と、ぼくの出した金と引き換えに寝台券をよこした。やれやれ、とぼくは珍しく一度で用が片付いたことに、ひとまずホッとして、受け取った寝台券をたもとにしまいながら、すぐまたそれが、ちゃんとたもとの中に納まっているかどうかが気になった。その瞬間、ぼくはドキリとした。柔らかいたもとを探った手に、堅いボール紙の感触があって寝台券のあることは確かめられたが、窓口の台の上に、さっきぼくが出した五円紙幣がまた載っていたからだ。いや、それはさっき出した札とは違う、確かに別の五円札だ。
駅員の頭の真上のあたりに、長いコードでつるされた電燈が緑色のかさをかぶってぶら下がっていた。しかし、石の台の上に置かれた五円札は、明らかに、ぼくが家を出る時、母から渡されたものとは同じでない。駅員は、その紙幣の上に何枚かの五十銭銀貨や十銭、五銭の白銅貨を、物慣れた手つきで重ねていた。
ちゃりん、と最後の銅貨が石の台に当たってたてる音が、ぼくの胸の底まで刺すように響いた。ぼくは心臓の血が全部いっぺんに頭の中に込み上げてくる気がした。そして台の上の金を手の中に握り締めるが早いか、大急ぎで窓口を離れた。――しめた、駅員のやつ、つり銭を間違えやがった
ぼくは、ほとんど夢中で駅前の人込みの間を擦り抜けた。

自分の手の中に、自分の使っていい五円札がある――。あらためてぼくが、そんなことをハッキリと考えられるようになったのは、もう高架線のガードが完全に町の建物の陰に隠れて見えなくなってからだ。それまでの間、ぼくはただ駅員がつり銭の間違いに気がつき、追い駆けてくることだけを恐れた。しかし、もうここまで来れば、その心配はなかった。曲がり角の店で、赤いとんがり帽をかぶった甘栗屋の人形が、電気仕掛けで、音を振りながら、それといっしょに手に持った鈴を鳴らしていた。
――思いがけないことって、あるものだな。駅員はぼくの出した紙幣を十円札だと思い込んだ。それで五円のつりに七円何十銭かをよこしてしまった。ぼくは窓口の石の台の上に、五十銭、十銭、五銭の銀貨、白銅貨が投げ出すように置かれていったありさまを、もう一度思い浮かべて愉しんだ。ぼくの想像の中で、次から次へ投げ出された貨幣が山になって、無限に高く積み上げられてゆくように思われた。しかも、その銀貨、白銅貨の山は、どれほど高くなっても、まだその傍らに手付かずのままに置かれた五円紙幣には及び難い。こいつはぼくが完全に自由に使える金だからだ。
ちゃりん、ちゃりーん……。
甘栗屋の人形の鈴の音は遠くなった。だがもちろん、ぼくはこの五円で甘栗を買おうなんて気にはなれない。どうせ買い物をするなら、舶来の万年筆か、舶来の鹿の角の柄の付いたナイフでも買ったほうがいい。しかし、今更ぼくはそんなものもほしくはなかった。それよりもぼくは最近、鮨の立ち食いの味を覚えていた。九段の中学校から二十分ばかりの距離の、狭い横町を入った所、小さな屋代を出した鮨屋がある。ぼくは学校の帰りにそこへ寄り、中トロの鮨を食うのがなんとなく好きになった。竹の茶漉しで入れたお茶を大きな湯飲みで飲んでいると、もう中学生ではなくなった気分になる。帰りがけにしょうゆで汚れた指を、のれんの端でふいて出てくる。そして澄ました顔でカバンを抱え、ほんとうは飯田橋から載る電車に市ヶ谷から乗って家へ帰る。
(未完)

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 楼主| 发表于 2007-10-11 16:03:42 | 显示全部楼层
しかし、その鮨屋では、いちばん高いえびだの赤貝だのを握った鮨でも一個五銭で、他のはみんな一個三銭だ。えびも悪くないが、ぼくはしゃこのほうがえびよりうまいと思う時があるし、赤貝よりはとり貝のほうがずっと好きだ。五円でいったいしゃこや、こはだや、中トロの鮨が、どれぐらい食えるかと思ったら、とたんにいささかギョッとした。とにかく、今晩はこれで帰ることにしよう。金の使いみちは後でゆっくり考えたらいい。ぼくは、心豊かにそう思い、私鉄の駅の階段を上がった。ちょうど電車が出たばかりで、ホームはすいていた。ベンチにねんねこで赤ん坊をおぶった女の人が一人で座っていたが、その傍らへ行って腰掛けようとすると、竹ぼうきとちり取りを持った駅員がやってきたので、ぼくはベンチから遠のいた。駅員は制服が不恰好に大きすぎ、ダブダブの襟から細い首がのぞいていた。年齢はぼくより下らしかった……。その時どうしたことがぼくの目の前に急に、さっきのS駅の窓口に居た駅員の顔が浮かんだ。ぶっきらぼうだった横顔の頬のあたりの黄色い膚の色が、なんだかひどく疲れきった感じで思い出され、ふと、あの駅員が家に帰ると、病気の母親が待っていそうに思われた。駅員は、だいだい色の薄暗い電燈に、母親がわきの下にはさんだ体温計をかざして見るだろう。いくら注意してながめ直してみても体温計は昨晩と同じ目盛りを指しており、破れた布団に熱臭いにおいがこもっているのをかぎながら、「ああ、おれも疲れた。」とつぶやく……。ぼくは、そんなことをほんの一瞬の間に空想した。そして、いったん入った私鉄の改札口を出ると、まっすぐS駅のほうへ向かった。

S駅の切符売り場の周りに、人影はまばらになっていた。ぼくは窓口に近づきながら、さっきの駅員がまだ同じ所に座っていてくれることを祈った。陰気な鉄格子からのぞき込むと、まだそこに彼は居た。ぼくは、さっき五円札を出して買った寝台券のつり銭に五円札が入っていたことを話し、ただしそれは売り場を離れてしばらくたってから気がついたことにして、
「これ、お返しします。」
と、紙幣を窓口に差し出した。
最初、駅員は何のことかわからなかったらしく、けげんそうにぼくを見返していたが、やがて、
「あれ、そうでしたか?」と、自分の過ちに気がつくと、たちまち恥ずかしそうな、それでいて愉快そうな笑いを顔一面に浮かべながら、「や、どうもすみません。わざわざ……。」と、礼を言って五円札を受け取り、紙幣をピンと延ばして、指先ではじいたついでに、その指で自分のおでこも軽くたたいて、
「陽気のかげんか、ここんところ。おれもどうもいけねえや。ほんとに、すみませんでした。」
と、もう一度、ぼくにおじぎをした。――思いがけないといえば、こういうぼくの気持ちこそほんとうに思いがけないことだったのかもしれない。そんなに礼を言われて、初めは逃げ出したい気持ばかりだったが、S駅の切符売り場を離れて、また私鉄の駅の階段を上がるころから気分が落ち着いてきたせいか、頭の中がスッキリとして、すがすがしい気持になってきた。いつの間にか雨はあがり、ぼくはホームの真ん中より先のほうへ出て、夜空を仰ぎながら胸いっぱい空気を吸い込んだ。肺の中で一つ、
「カーン。」
と、澄んだ鐘の音が聞こえるような感じだった。ぼくは心の底からわいてくる喜びに満足した。電車が走り出し、目の下に家々の小さな灯がまたたいているのを見ても、この満足感は新しい形で、よみがえった。
ああよかったな――。
ぼくは何よりも、窓口の鉄格子の向こう側に座っていた駅員の横顔が、こっちを振り返って笑ったとたんに、一人の普通の青年の顔になって感じられたことが意外でもあったし、うれしい気もした。
この喜びは、無論、家へ帰り着いても消えずに続いた。
「ただいま。」
玄関の戸を勢いよく開けると、ぼくはたたきに立ったまま、出迎えた母に寝台券とつり銭を渡しながら、今晩の出来事のてんまつを話して聞かせた。
「いやあ、その時の駅員の顔つきったら、なかったよ。こっちも照れくさかったけれど、向こうはそれ以上にすっかり照れて、逆上しながら喜んでやがんのさ。」
だが、母はぼくの話にいっこう、なんの感動も表さなかった。のみならず、ぼくの渡したつり銭とぼくの顔とを不思議そうに何度も見比べたあげく、とうとう、
「ばかだねえ、おまえは――。」と世にも腹立たしげなことで言った。「さっきおまえに渡したのは、あれは十円札なんだよ。」
ぼくは、目の前で灯が消え、急に辺りが真っ暗くなる気がした。

あれから、もう三十年近くたつ。あのころから見るとS駅の周りも、ぼく自身もすっかり変わった。あのころはまだS駅の近くには八階建てのデパートが一軒立っているのが珍しかったぐらいで、田舎のにおいのする郊外電車との接続駅にすぎなかったが、今は林立した高層ビルが駅の周りを幾重にも取り囲み、切符売り場の前の広場の辺りに、地下道が張り巡らされて、冷たい変なにおいのする商店街になっている。そしてぼく自身は白髪混じりのおやじになった。けれどもぼくの中身はどう変わったか、自分ではさっぱりわからない。
あんなことがあってからも、度々ぼくはあれと同じようなとんまな失敗を繰り返しながら、今日まで来た。あのころでもぼくは、けっして純な正直な心持ちであったわけではなく、けっこうずるくて、意地汚く、そのくせ時々変な空想癖を発揮して、常識では考えられないまねけなことをしでかす少年だった。それは今でも変わりないように思う。しかし、この空想癖が無かったとしたら、ぼくは今よりいっそうどうしようもなく取り柄のない人間になっていたかもしれない。あの晩、返す必要もなかったつりの五円札を、夜遅くS駅まで取りにやらされた時のぐあいの悪さと、情けない気持とを、昨日のことのように思い出しながら、そう思う。
あれ以降、あのS駅の窓口の駅員とは一度も会っていないが、あの時の彼の笑顔はまだ忘れられない。そして、あの笑顔を見ることの幸福は、五円札では買えないものだと考えて、ぼくは自分で自分を慰めてみることにしている。
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 楼主| 发表于 2007-10-11 16:06:29 | 显示全部楼层
第十一課 キューリー夫人
第一幕
一八九八年二月 昼 実 験 室
第二幕
一九〇二年五月 夜 実 験 室
人 物
マリー=キュリー  三十歳
シュザンベルジェ  学校長
ピエール=キュリー 三十八歳
プチ        学校の小使
舞 台
キュリー夫妻の実験室は、ピエールの勤め先であるローモン街のパリ物理化学学校の倉庫を使っている。中庭に面した一回校舎の一つであるが、薄暗く、壊れたガラスばりの倉庫である。
正面のドアーをあけると、こわれた学校道具が両側に山と積まれている。真ん中に、ふたりぶんの机といすが向き合っていて、その左右に実験用の機械が、いろいろと装置されている。壁にかかっているのは石油ランプに温度計、その他グラフ。机の上には、物理学の報告書や参考の書物、その他。
たなの上にはガラスざらなど。
第一幕では、机のそばにストーブ
第二幕では、机の上に大きな花瓶と花など。
実験機械は机に取り付けたものが多いが、ガラスざらや試験管や、電気計量器なども置かれている。

第一幕
幕が開くと、マリーひとり自分の机に向かって手紙を書いている。
マリー(読む)ねえ、おねえさん、わかる?私たちにはまだ説明がつかないんだけど、この原因は、今までだれも気が付かなかった化学元素から来ているのよ。元素はきっとあるんだから、それを見つけさえすればいいんだわ。私たちには自信があるの。私たちの話を聞いた先生たちは、それを実験のまちがいだからもっと慎重にやりなさいと忠告してくれるんだけど、わたしたちきっとまちがっていないと思うわ。……あなたの愛するマリーより、ブローニャお姉さまへ。(封筒に入れ始める)
ドアをノックする音。
シュザンベルジェの声 よろしいかね、キューリーさん。おじゃましても。
マリー どうぞ。……校長先生ですね。
シュザンベルジェの声 ああ、好調のシュザンベルジェです。
マリー さあさ、どうぞおはいりください。
シュザンベルジェが、ドアーをガタガタあけて、入ってき、すぐ足元の箱にぶつかり、それを踏みつぶす。
シュザンベルジェ おっとっとっと……
マリー 先生、足元に気をつけて……
シュザンベルジェ これは、あぶない。
マリー なにしろ、薄暗い、倉庫の中ですから……
シュザンベルジェ 確かに注意がかんじんというわけだね。
マリー とりちらかしていまして。
シュザンベルジェ いやいや、そのことは、こんな倉庫を実験室にお貸しした、わたしのほうから、お詫びしなければならないことだよ。(自分で箱を片付けながら)……ところでこの倉庫実験室も、なかなか冷え込むようだが。……
マリー どうか、先生、ストーブにおあたりくださいましな。
シュザンベルジェ ああ、ありがとう。……おやおや、温度計が、ここでは六度をさしている。外と同じ寒さだ。ではストーブに当たらしてもらいましょうか。
マリ 石炭も不自由しておりますので。(薪を割ってくべる)
シュザンベルジェ (ストーブのそばにすわり)ときに、キュリー博士が見えないようだが、どちらへ?
マリー さっき、鉱物の標本を集めるのだと言って、鉱物室に出かけましたわ。
シュザンベルジェ ご夫婦でたいへんなご勉強ですね。学校じゅうのだれもが、ほとほと感心しておりますよ。……ピエール君も、わがパリ物理学校の誇りにはちがいないが、ここの実験主任にとどめておくには惜しい人です。ソルボンヌ大学の講義の持てる人なのですから。きょうは、わたし、そんなことでおじゃまにあがったわけですが……。ところでマリーさん、あなたも、失礼だが、ただ小さなお子さんのあるからだで、こうして設備の悪い実験室での御研究は、さぞお苦しかろうとお察しするんですが……、いやいや、わたしは何をおしゃべりに来たのでしょう?……あなたのようなおかたの前で、こんなつまらぬ繰り言を述べたてるなんて。……。ところで、マリーさん、ご研究に何か新しい手がかりでも得られましたかな
マリー いいえ、先生。そのことで今、ポーランドへ帰った姉のところに、手紙を書いていたところなんです。元素は、きっとあるんだから、それを見つけさえすればいいんだけど……って。
シュザンベルジェ むろん、そうでしょう。いくら実験を試みても、物事というものは、そう簡単に、やすやすと発見することができるものではない。……わたしも学生じぶん、スープひとさらで、いかにしてその日の栄養を満たすことができるかと、いろいろに実験してみましたがね、これはこれで、やっぱり無理でしたよ。(笑う)……ま、冗談は、そのくらいにして。……
マリー ただ、私たちの研究の結果、はっきりしてきたことは……。
シュザンベルジェ ふんふん。
マリー わたしたちのさがしもとめている線が、鉱石の中に含まれているウラニウムの量に比例しているということです。そしてそれが、化合物の状態にも、気温にも、外からの光線にも、少しも影響されないということ……です。
シュザンベルジェ なるほど、なるほど。
マリー これまでに発見された、どの元素にも似ておらず、どれにも影響されないような、実に変わった性質が、ウラニウムの中に含まれていることなのです。
ピエールの声 (ドアーの外から)おおい、マリー、マリーや。ドアーをあけておくれ
シュザンベルジェ ピエール君が帰ってきた。よしよし。大急ぎで、わたしがあけて進ぜよう。
マリー 先生、およろしいのに……。
ピエール 早く、早く。……肩が抜けそうだ。
シュザンベルジェ はいはい。今すぐにあけますからね。(窓口の箱につまずいて、ばたばた……と倒れる。)
マリー あっ、校長先生!
シュザンベルジェ おお、驚いた。……また空き箱にひっかかってしまった……いたたた……
マリー (とんでいって)先生おけがはございませんでした?……ほんとうに気をつけてくださいましよ。
シュザンベルジェ なあに、こんなことなんでもない
ピエールの声 マリー、おまえ、どうかしたのかい?そそっかしくすると、あぶないよ。
シュザンベルジェ いやいや、そそっかしやは、わたしのほうだよ。ピエール君。
マリー ピエール、わたくしが、すぐにあけますから。(ドアーをあける)ほんとにおそくなってすみませんでした。
シュザンベルジェ (ピエールを見て)いやあ、おじゃましております。
ピエール (鉱石をかかえて)なあんだ、シュザンベルジェ先生がいらっしゃっていたのですか。さあ、どうぞ。
シュザンベルジェ どうも、狭苦しいところでな……
マリー あなた、まあ、そんなにたくさんの鉱石を運んでいらっしたの?
シュザンベルジェ 手伝って進ぜよう。
ピエール (胸いっぱいに抱えた鉱石を下にあけながら)標本室から、集められるだけ集めてきたよ。
マリー 重かったでしょう?
ピエール ところで、シュザンベルジェ 先生、何か御用事でも?
シュザンベルジェ ……わたしは、やはり、このまま失礼することとしよう。実は、あなたがたの御生活のことで、ご相談に来たんじゃが、それはまたのことにしよう。……わたしのこの考えは、おそらく、きみも奥さんも賛成してはくれまいと思う。……ピエール君、君がわずか五百フランの月給で、家で赤ちゃんを育て、ご夫婦そろって実験室でこんな科学研究を続けられるということ……それは本当にたいへんなことだと思う。……現に、わたしは、このじめじめした実験室に、まるで凍りついた人のように、すわっていられる御夫人の姿を見て、胸がつまる思いだった。マリーさんの健康に決してよいとは思えない。……それでわたしは、ピエール君が先年発見した水晶板のピエゾ電気現象について、政府に、勲章と年金を受けてもらうよう、運動したいと思っている。
ピエール シュザンベルジェ先生……先生のかずかずの御好意には、わたしどもも、ここから感謝しております。しかし、ねえ、マリーどうだろう?
マリー 先生が、この倉庫を私たちの実験室にお授けくださいましたことだけで、わたくし身に余るご援助と思っております。そのうえに、また先生に、手続きの煩わしい政府への交渉仕事などお願いしましては、かえって。……
ピエール わたしたちは、ただの科学者で、勲章や年金を望んで働いているように……思われたくないのです。
シュザンベルジェ わかりました。ま、おそらくあなたがたの御返事は、そうおっしゃることだろうと思っておりました。……よろしい。このことは、またいずれかの機会に話し合うことにいたしましょう。……キュリー夫人、あなたはほんとうに、おからだを大事になさらなくてはなりませんよ。
マリー ありがとうございます。
シュザンベルジェ (ドアーの所に帰り始め)それからピエール君、きみ、この戸口の空き箱には、気をつけるんだなあ。
ピエール (笑いながら)はい、シュザンベルジェ先生。
シュザンベルジェ 長いこと、ご勉強のおじゃまをしました。
(出て行く)
マリーは戸口まで見送る。戸口の外でシュザンベルジェの物につまずく音。ピエールあやうく声を出して笑いそうになるが、マリーに止められる。
マリー いい校長先生ですわ。……笑うと罰が当たりますわよ。
ピエール ところでと、マリー。運んできたこの鉱石を、どうしまつしようかね?
マリー (鉱石を手に取りながらひざまずいたまま)一つ一つ高熱にあてて、まずそのよけいな物から溶かしていかなければなりませんわ。
ピエール それはたいへんめんどうな仕事になる。それにこのへやの寒さでは、第一、ストーブの燃料が持つまいと思うよ。
マリー でも、ピエール。それから始めなくてはなりませんわ。……ピエール、わたくし今度の研究で、博士論文を取ろうと決心しておりますの。
ピエール ほう。
マリー あなたはどうお思いになります?
ピエール そりゃもちろん、この実験室は、お前のために作ったものだと言えるんだから、わたしはできるかぎりの応援をするつもりだが、しかし、マリー、今度のお前の決心は、たいへんな仕事になるんだよ。
マリー それはピエール、お金のことでしょうか、それとも時間のことでしょうか?
(未完)
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 楼主| 发表于 2007-10-11 16:07:09 | 显示全部楼层
ピエール たぶん、お金も時間もかかるだろう。だがそれよりももっと大事なことは、研究を続けていくという強い強い意志が必要なのだ。マリー、お前はそれを、これから後数年、この暗い実験室で、あくまでやりおおせる決心あるかね。
マリー ええ、あると思いますわ。……ピエール、あなたが、御指導してさえくださるなら。
ピエール (自分の机にもどって)マリー、ここにアンリ=ベックレル博士の報告書がある。……報告書によると博士は、ウラニウムの化合物を、黒い紙ですっかりおおった写真の乾板に感光させるだけの力を持っていることを発見した。
マリー ……それはちょうど二年前に、トントゲン博士の発見したX線とは、また違った種類の線のようですわね。
ピエール そうなんだよ、マリー。ベックレル博士の調査では、ウラニウム鉱石が、あらかじめ光の刺激を与えなくても、自然に、ある線を放射する。……その線は、かつて、光の刺激を受けていたかもしれない。しかし今は、日光に照らされなくてもくらやみの中でじゅうぶん光を放つことができて……夜どんなに長く置かれていても、なおその現象を続けるということなのだ。……さて、問題は、ここにあり、そしてこれから始まると思うのだが……
マリー 私の考えられますことは、ベックレル博士が、たまたまウラニウムの中で発見した、この不思議な線が、ほかの物体の中にも含まれていないものかどうかということです。……ウラニウムだけがこのような現象を引き起こす、ただ一つの化学的元素であるかどうか?……もし、ほかの物体、……たとえばトリウムの化合物などにも、これらとよく似た線が含まれているとすれば……。
ピエール もし、そうだとわかれば……、わたしがここにこうして運んできた鉱石の中から、それぞれ、その不思議な線を発見するとすれば……それは……。
マリー それは……あの種の物体のもつ放射性。
ピエール うん、そうだ。
マリー 物体に放射性元素があるということ。言い換えれば、それらの元素は、それぞれに放射能を持っているということです。
ピエール うん、そこだそこだ。その結論がほしかったのだ。その結論を手がかりにして、これからの実験が始められなくてはならないと思っていた。わたしもお前と同じ疑問を抱き、また同じ考えに悩んでいたわけだ。だがマリー、放射線を出す性質を放射能とは、全くよい言葉を探し出したものだよ。……放射能……
ドアーをたたく音が聞こえる。
マリー シャザンベルジェ先生かしら?
ピエール 私が行ってみよう。
マリー校長先生だと、また足元が危険ですから……。
ピエール (ドアーをあけて)ああ、だれかと思った。きみは……。
プチ (ドアーの外で)はいはい、小使のプチでございます。ごめんなさいまし。……あのう、ストーブのたきつけを、少しばかりかついで参りましたもので……。
ピエール それはどうもありがとう。……さあさ、どうぞ。
プチ (まきをかついで入ってくる)はいはい。……よいとこせっ……と。
ピエール マリー、小使のプチ君がね。こんなにたくさんのまきを持ってきてくれたよ。
マリー まあ、それはそれは……御親切に。
プチ (ストーブのそばにまきを積むと)奥様や先生のなさっている元素の実験とか言うものについては、かいもくわかりません。ですから、お手伝いなどと、口はばったいことは申されませんが、それでも、おふたりして毎日こんな倉庫で研究を続けなさるのを見ておりますと、何とかしてわしのできることでお力ぞえしなくては……と、いても立ってもおられなくなり、とうとうこうして、お伺いした始末でございます。……どうか、わしのことにかまわず、お仕事を続けなすってくださいまし。
マリー プチさんのご親切、ほんとうに身にしみてありがたく思いますわ。でも、あなたも、御自分のお仕事をたくさんお持ちではありません?
プチ いえ、いえ、わしの仕事なんて、時間さえ勤めれば、それであとは暇におります。それに比べて、ここのお仕事には時間などというものがない。しじゅう休みなしに、頭を使っていらっしゃる。……そうそ、わしは、奥様、これでも力仕事なら一人まえ以上にやれるつもりです。……なんかそんなことで、わしのできる仕事はありませんか?
ピエール マリー、プチ君が、あんなに親切に言ってくれることだ。ひとつ遠慮なく力仕事のほうを手伝ってもらっては?
マリー そうね。……では、この鉱石を炉に入れて、鉄棒でかき混ぜる仕事を、プチさんにお願いしましょうかしら?
プチ はいはい、それくらいなら、わたしだってできます。さっそく、取りかかりましょう……。こいつを炉にほうり込むんですね。
マリー ええ、……ではわたくし……。
ピエール マリー、わたしたちは、もう一度、さっきの結論を検討する必要があるよ……。それそれ、お前の放射能の問題を……。
プチ (鉄棒で混ぜながら)ありがたい、ありがたい。
マリー プチさん、ありがとうとお礼を言うのは、こちらのほうですわ。(笑う)
プチ 奥様、わしもここでこんな仕事を始めますと、先生方と同じように、なんだか偉い科学者になったような気がして、緊張してきます。……見てください。……手まで科学的に動くような気がします。
マリとピエール (笑う)
プチ いっしょうけんめい炉を混ぜるうちに……幕、しまる。
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 楼主| 发表于 2007-10-11 16:07:29 | 显示全部楼层
第二幕
舞台は前と同じ。
ただし四年過ぎているから、出てくる人の年は変わり、服装なども違ってきている。しかもこの幕は、夜なので、倉庫は、石油ランプと炉の火だけの明るさ。
設備や置物に少し変化はあるが、それほど目だって変わっていない。
小使のプチが、半分居眠りをしながら、炉の鉱石をかき混ぜている。だいぶ老いているようだ。
マリーは、前幕と同じく机に向かい、せっせと実験の報告書を書いているが、すっかり仕事やつれをしている。
ピエールはながくのびたあごひげを振り振り、こつこつ歩き回っている。
ピエール (ひとりごと)小使のプチ君が、この倉庫を訪れ、ああして鉱石をかき混ぜる仕事を覚え始めてから……、もう四年……。
「人生は、ただ一睡の夢。」ということわざがあるが、わたしたち科学者の生活も実験室の中では、確かにそうだ。……あれからきょうまで、いったいどれだけの変化をみせたろう。……妻のマリーが放射能の問題を考え出したのも四年前だ。そしてそれからして、ポロニウムと名づけ、ラジウムと名づけた二つの新しい元素のあることを明らかにしたのも、かれこれ四年間のことになる。……ところがわたしたちは、これらの新化学体について「その物はここにある。われわれはそれを見た。」という証拠をさがし出すために、はや四年の歳月を費やしてしまっているのだ!……たったそれだけのことに、十度も二十度もめんどうな実験をくり返し、一九〇二年五月という今日に至っているではないか!(歩くのをやめ、マリーの机のそばに立ち)ねえ、マリー、どうだろう?…わたしたちは、その純粋ラジウムを作る仕事を、一時あきらめてはどうかね?
マリー (びっくりしたように顔を上げ)ピエール、それはまた、急に、どうしてそんなことをおっしゃるんです。
ピエール 第一、お前が、からだを損ねるばかりだと、思うんだが……。
マリー いまさら、あなた、そんなことおっしゃって……。家では、イレーヌも四つになりましたが、じょうぶに育っております。わたくしも何一つ病気せず研究を進めてこられました……
ピエール だから、これからのことを心配して、わたしは言うんだよ。
マリー そんな重大なことを、突然こんなときに言われましても、わたくし、なんて御返事してよいやら、困ってしまいます。
ピエール いや、マリー。おこらないでおくれ。……わたしの考えついたことは、わたしたちがもっといい条件のもとに仕事にかかれるまで、……もう一度放射能やラジウムの特性研究のほうにもっていって、実験やラジウムのえり出しのほうはやめたほうがいいのではないか……ということなのだ。
マリー でも、わたくしがもし、ここでこのまま、仕事を休んでしまったら、世界はラジウムを手に取るのに、それだけ……数年、また遅れてしまうことにならないでしょうか?……ピエール。
 (立ち上がる)
ピエール、マリーから離れ、プチの所に行く。そしてプチをゆり起こし、
ピエール プチ君……、今日はこれでおしまいにしよう。だいぶおそくなったようだから。
プチ (眼をさまし)はいはい、はいはい。
マリー 疲れたでしょう。
プチ いえいえ。(炉の火や、鉱石などをかたづけはじめる)
ピエールは机にもどり、書類をかばんの中に整理しはじめる。
マリーはプチに手伝って、炉の上のなべを下ろしたり、かめにあけたりする。
煙がパット出て、ふたりとも、せきにむせんだりするが、やがてかたづいて手を洗いはじめる。
プチ (マリーに手ぬぐいを差し出しながら)奥様の手も、酸のしみで、ひどい荒れようでございますね。(自分もばけつで洗いながら)ほんとうにこうして、長いご苦労を続けながら、問題のラジウムがうまく手にはいるものでしょうか?……奥様。それを思うと、わしまでときどき、心細くなってきますよ。
マリー プチさん、実験というものはね、……探偵がビルディングの一階から、それこそしらみつぶしに、犯人の足どりを追い、最後にその隠れ場所を突き止めて逮捕するといったぐあいのものよ……。ね、そうですわね。ピエール!
ピエール (試験管とガラスのざらを、たなのところで、いま一度調べなおしている)うん?……うん。そうそう……
マリー プチさんにも説明しておかなくてはいけなかったのですが、わたくしたちのこの四年間は、ちょうどそんなふうにして、犯人を追っていったのです。……そして問題の放射能が、ピッチブレンドと呼ばれるウラニウム鉱石の中に特に活動的に働いていることがわかりましたの。
プチ それは、オーストリアの鉱山のズリのことですか?
マリー そうなのです。だからわたくしたちは鉱山に捨てられたズリをえり分け、ピッチブレンドをこしらえる、あらゆる化学体を検出する仕事に熱中したのです。……全くたいへんな労働でしたけど、それでも、おかげで、それぞれの放射能を測ることができ、だんだん強烈なものを探っていくことができました。
ピエール (相変わらずたなのところから)……ところが、驚くべきことに、犯人は、ひとりではなかったのだ……。
マリー (自分の書類を整理したもどりながら)そうでしたわ。……ポロニウムとラジウムと名づけられる、二つの元素が現れてきたのです。……でもさいわい、わたくしたちはポロニウムの正体のほうはつかみ出すことができました。……これは期待するほどのものではありませんでしたけれど、あと一つの、貴重な、ラジウムのほうは、どうしても実態をつかみ出すことができないのです。
ピエール (ガラスざらを手にしながら)このラジウムこそ、これまで人類のだれもが知らなかった未知の元素であるんだが……。このとおりのバリウムを含んでいながら、なおも強烈な放射能をもつ、実に恐れるべき新元素なのだが……。しかしマリー、(いすにもどって)わたしたちは、わたしたちのできるかぎりのことを尽くしてみたような気がする。もうこれ以上、わたしたちの力では、実験の方法もないところまでやってきたような気がする。……マリー、わたしたちは、ほんとうに今度こそ、あきらめなければならないかもしれんのだ……。
マリー ピエール、わたくしも、そのことについて、真剣に考えているのです。
プチ (帰りじたくをしながら)だがね、奥様。さっきの探偵の話ではありませんけど、ここまで来れば、もうだいじょうぶではありませんかな?……犯人のひとりがわかったのでしょ?……犯人の一人さえつかまれば、もう一人の犯人……そいつが主犯かもしれませんがね……。そいつを見つけ出すことぐらい、わけないことですよ。ね、……第一、その見つけた犯人に、自白させるという手もありますからなあ。……そうと決まれば、それほど気を落とされることもありませんよ。……おや、ついおしゃべりして、おそくなってしまいました。それでは先生、おさきに帰らせていただきます。
プチ、ドアーをあけて帰っていく。マリー黙礼する。
ピエール (プチを目で送ってから)なるほど、うまいことを言う……犯人の一人に自白させる……か。
マリが立って、マントを二つとり、一つをピエールの肩にかける。
マリー さあ、わたくしたちも帰りましょう。
ピエール うん。(かばんを手にとる)
マリー それではあなた、さきに出てくださいまし、わたくしがあかりを消していきますから。(ランプを消す)
ドアーをあけて、ピエールがマリーを待つ、マリーはあかりを消してからピエールのそばへ来、ちょっと室内を振り返って立ち止る。
マリー ああっ、ピエール
ピエール どうしたかね?
マリー しっ……静かに。
ピエール なんだな、また……
マリー (そっと室内にもどりながら)ピエール、あなたに見える?……あのあかりが……
ピエール あかり?
マリー ええ、光よ。ほたるのようなきれいな光よ。ピエール、あなたにも見えて?たなの上のガラスざらが、いくつか、美しい光を放つ。
ピエール (いきなりかばんを置き、マリーの手をとって叫ぶ)見える、見える。確かに……。
マリー あれは、ラジウムの光よ。
ピエール うん、ラジウムだ。ラジウムだ!
ふたりは夢中でかけていき、光るガラスざらを一つ一つのぞく。
ピエール (うれしそうに)ラジウムがとれた。ラジウムがとれた。……マリー、とうとうおまえは、世界最初の純粋ラジウムを見つけ出したぞ!
マリー ピエール、あなた覚えていらっして?……わたくしたちが、いつかいなかに行ったときのこと……あの谷あいの草原の上で、岩山からさし込む光線の美しさに見とれながら、わたくしたちのたずねているラジウムがほんとにあのようにきれいな色をしてくれればよいが……と、おっしゃったことを。
ピエール うん覚えているとも、マリー。……しかしそれよりも、この世にもまれな物質の、奥の奥に潜んでいるものの光……、数千年前の光を見に潜めて、自ら輝くものの光……。このラジウムの光こそ、まことにすばらしいものだよ。
マリー ほんとうにすばらしいものですわ。
ピエールの手が、マリーの肩にかかる。ふたりは、ラジウムに見とれたままに、立っている。
幕、しまる。
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