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[其他] 基础日语二 第六册 课文(第一课~第十二课)

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发表于 2007-10-12 12:00:10 | 显示全部楼层 |阅读模式
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 06:36 编辑

第一課 近代の夜明け
一八六〇年(万延元年)、日本政府最初の公式使節団、新見豊前守、村垣淡路守らの一行は、アメリカ船に搭乗、日米通商条約批准のために欧米に派遣された。これに随行した咸臨丸は、わずか三百トン足らずの小軍艦ながら、艦長勝麟太郎以下、日本人の手による最初の太平洋横断を決断し、使節団に先立って三月十七日サンフランシスコに到着した。乗り組みの一人は福沢諭吉がいた。
はじめて西洋の地を踏んだかれらにとって、見るもの聞くものが、驚きの種であった。彼らは西洋人のダンスを見たとき、肩をむき出しにした婦人の服装や、手を取り合い、体を接して踊る男女の姿に目をみはった。日本の女性が公開の席で、膚をあらわにすることなどは、「男女七歳にして席を同じうせず。」という封建時代の習慣からは考えられないことだった。それに、男女が物をやりとりする場合でさえも、直接手から手へ渡してはいけないと戒められていたのである。
当時の正装した西洋婦人のスカートは、フープといって鯨の骨や籐の輪骨を入れて、釣鐘のようにふくれていた。日本の使節たちは、外人のスカートがつまっているとすると、下半身が大変太っているものらしいと考えた。そこで一人の少年をそそのかし、スカートをつついてそれを確かめさせた。
一方、アメリカの市民たちは、髷を結い、帯刀した侍の行列を、珍奇な動物を見るような目で興味深くながめた。
使節たちはヨーロッパを回ったが、咸臨丸の一行のみは、アメリカから引き返した。途中ホノルルに寄り、プナホの学校の弁論大会に招待された。それは一行の福沢諭吉の興味を引いた。かれは日本に帰ると、やがて公衆の面前で堂々と意見を述べる訓練を、自己の経営する学校に持ち込んだ。
日本の学生は、それまで「口は禍の門」(「童子教」)とか、「多言するなかれ、多言敗多し。」(「孔子家語」)とかいうように教え込まれていたので、人前で声高く自己を主張する風になじめないようでった。このように江戸時代末期の日本と、西欧の文明国との風俗?習慣の隔たりは、きわめて大きかった。
明治維新以降の日本は、それまで持たなかった技術や機械などの移入?利用に努めるとともに、政治形態や経済組織の方面でも西洋に追随するように努めた。風俗や生活の上でも急激に西洋化していった。一八八三年(明治十六年)に落成した日比谷の鹿鳴館では、政府の高官の夫人や令嬢が、青い目の外国人を相手にして、ダンスをする風景が見られるようになった。こうして幕府の体制下に成人した人たちは、まったく違った二つの時代に生きる思いがあったのである。
このように明治の初期にあっては、西洋化がすなわち近代化であり、「文明開化」に努めることは、日本を封建社会から、近代社会に脱皮させる必要な条件であった。
しかし、風俗や物質生活の上での西洋模倣は容易にできても、精神生活の変革はそう簡単にいかない。江戸時代は世界でも珍しく長い封建社会が維持された。その結果、士農工商の身分制度を堅く守られ、国民は支配階級に忠実であり、でき上がった秩序を守ることがしいられていた。
「知足安分」(足るを知って分に安んじる)というのがその時代のモットーであった。生まれたときから身分が定まり、その外に出ることは許されない。そして一般の国民が政治向きに口を出したり、政治の方針を批判することは禁じられ、それをすれば処刑されたのである。
近代社会では、身分上の差別が除かれ、才能さえあれば社会の各方面に進出できるようになった。しかし個人の権利をあと回しにし、義務の遂行を先にした前時代の教育はまだ根強く残っていたから、個人の人権の主張や人間平等の近代思想は、なかなか民衆の中にしみ込んでいかなかった。官尊民卑の考え方は、維新以降も長く残っていたのである。
福沢は「学問のすすめ」やその他の著書によって、こうした旧体制や旧思想の束縛を振り切って、人間を本来同等であり、自由?独立の存在であることを、説得力のあるやさしい文章で説いた。その自由?独立を守るためには、知識を開発して合理的な精神を養わなければならない。あらゆる人間が自己に目ざめ、自己の幸福の追求を生きる目的にすべきことを、かれは教えた。それが国家や社会の発展にもつながると、かれは説得したのである。
福沢の影響は大きかった。人々はかれの本を読んで西洋の事情を知り、目を開かれたのである。西洋の翻訳書を一時は「福沢本」と言ったほどであった。日本は急速に近代化し、その速度は世界史上の驚異と言われるが、それには福沢の力が相当強くあずかっていた。
もっとも、近代化がそんなに早く進んだ理由としては、すでに前時代にある程度の土台が準備されていたとい事情があった。「いろは六十七文字を並び、手紙の文言、帳合ひのしかた、算盤のけいこ、天秤の取り扱ひなど」(「学問のすすめ」)といった、生活に必要な教養を身につけた人々は多かった。だから維新前後の日本人が文字を知っていた率は、世界一とまで言われている。
それに鎖国のため、西洋諸国との広い交渉はとだえていたとはいえ、オランダを通じて西洋の学問?知識は少しずつ移入されていた。それが軍事?天文?地理?医学?化学といった実用の方面にかたよっていたとはいえ、十九世紀の初めには「蘭和辞書」(ハルマ)も編まれ、知名の蘭学者も百名を越えていた。
福沢もこうした蘭学者の一人であった。そしてかれを除く西洋の学問を修めた人々は多くは政府の役人や大学の教官となり、日本は東洋諸国の中で、最も早く憲法を持ち、国会を開くことができた。また最も早く、鉄道?病院?銀行?郵便などの、近代的施設を備えることができたのである。
ところで、急速に社会改革をする時期にあっては、学問も実用的で、すぐ実際のっ要求に応じうるものが尊重された。真理である傾向が強かった。「学問のすすめ」にしても、もっぱら「人間普通日用に近き実学」を勧め、そのために「西洋の翻訳書を取り調べ」また「横文字をも読ませ」ることを主張している。
こうして西洋の文物や制度を学び、「文明開化」を推進することが、当面最も重要だったに相違ない。西洋化することが近代化だと信じることにも、それだけの理由はあった。しかしそれはその一面において、日本の伝統的な文化をすべて無価値だとする偏見、古いものを捨てて、新しいものにつくことのみが正しいという行き過ぎをも生じたのである。
ドイツの医者で、日本に招かれて、東京大学医学部の創建にも関係したベルツは、何人かの日本人に日本の歴史のことを尋ねた。するとある一人は、「実は日本は野蛮至極であった。」と答えた。他の一人は顔を赤くして、「われわれは歴史を持っていない。われわれの歴史は今から始まるのだ。」と叫んだ。
それを聞いたベルツは、「今日の日本人は自分の過去について、何事も知ることを欲していない。」と考えた。そして、「日本固有の文化を、こんなふうに軽蔑することは、国威を外人に対して宣揚することにはならない。古代の文化でも、合理的なものは尊敬すべきである。伝統を基礎としないで、そういう態度をとることは非常に損である。」という意味の感想を明治九年の日記の中に書きつけている。
事実として、日本の文化は、イギリスやフランスなどにも負けない、長い歴史を持っている。その間に、特殊な風土と国民性に根ざした文芸作品や美術を生産している。それらを産んだきめの細かい感情や微妙な感覚は、他国人に見られないほどに洗練され、優雅であった。
新しい社会は、新しい知識とともに、また人間の自然の性情に基づいて発生する新しい芸術を要求する。それはいくら外国からの影響を受けても、借り物でない自己を世界の中心にすえ、個人の価値を自覚して、その自由な表現を試みることにほかならない。
知性の開発を通じて人間性を広く開拓することが、近代日本を形成するために絶対必要だったとしたら、このほうは感情や感覚を新しくすることで、人間性を深める意味を持っていた。
文学にしても、他の方面と同じように、西洋の文化から、技術や思想上の変化に応じる、新しい創造を営まねばならなかった。
この種の文化活動は、急激な変革期には、どうしても政治的な解放や、知的な解放の後回しにならざるをえない。時代が少し落ち着いて、もっぱら外に放った目を自己の内側に向けるようになってくると、押えられていた自己表現の欲望が、潮のように盛んに起こってきた。
一八八五年(明治十八年)から翌年にかけて出た、坪内逍遥の評論「小説神髄」が、まず近代の市民社会に適応すべき、新しい小説の方法を説いた。続いて、二葉亭四迷の小説「浮雲」が、一八八七年(明治二十年)に出て、一般の人には見えない無形の真理を具代的に描き出して、人生を批評することが小説の使命であることを実証した。こうした前時代とは性格の違った近代文学が、次第築かれていったのである。
島崎藤村は、近代文学の根がようやくすえられたこの時期に出て、「若菜集」以下の詩集によって、この時期におい立った青年の、歌おうとして歌いかねていた新しい感情を、直接に表現しようとした。藤村はのちに、詩人として出発した当時の自分を振り返って言っている。「詩を新しくすることは、私にとってことばを新しくすると同じことであった。『春』ということば一つでも生き返ったときの私の喜びはどんなだったろう」と。
ことばを新しくするとは、ことばに潜む情熱を新しく掘り起こすことである。ことばの持っている因襲に反抗することである。そうしてそれは時代や社会の厚い壁に閉ざされていた人間性の解放を、ことばを通じて行うことにほかならない。
藤村は伝統的な詩歌の情感や調べに、新しい生命を吹き込むことで、若い時代精神を、酔うように表現した。かれは、
 心の春の燭火に
 若き命を照らし見よ(「酔歌」)
と、国民感情の「春」に、自己の「春」を重ね合わせた喜びを高らかに歌ったが、しかし時代はなお、
  あたたかき光はあれど
  野に満香りも知らず
  浅くのみ春は霞みて
  麦の色わづかに青し(「千曲川旅情の歌」)
という、まだまだ浅い「春」の景色であった。
したがって、近代日本のまだ薄暗い青春期に生きた「新しきうたびと」の声は、しばしば「嘆きとわづらひ」に掻き曇らざるをえなかった。かれは心情の処女地に、早く目ざめたものの孤独の悲哀と感傷とを、蒔きつけていったのである。しかしそれはそれとして、自己の生を含めた大きな時代の動きを、深いところでとらえたものであった。
こうして日本の近代は、知的にも感情にも、革新の光明を仰ごうとする、夜明けの時期を迎えていったのである。

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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:00:29 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 06:36 编辑

第二課 ものまね
             ――しぐさの日本文化――
「そっくりショウ」というテレビ番組を見たことがある。有名歌手やタレントに「そっくり」の素人を集めてきて、歌をうたわせ身振りをさせる。そして最もよく似た(というより、よく似せた)出場者に賞金を差し上げるという趣向の番組である。御覧になった方も少なくはあるまい。わたしは最も「日本的」な番組の一つにこれを推したいとかねがね思っている。日本人は物まねが好きで上手で、だからこの番組が最も日本的だ――というわけでは必ずしもない。物真似ということに、私たちが置いている(皮肉なことにそれこそ独自の)価値が、この番組には浮き彫りにされていると思うからである。
簡単に言ってしまえば、私たちは心の底では、物真似を悪いとは思っていないということなのだ。悪いどころか幾分、懐かしくさえ感じているのではないか。そうでなければ「そっくりショウ」という物真似を眼目とする異様なあの独自のショウが大衆に受け入れられるはずがないのである。例えばフランス国営放送の番組にイブ=モンタンそっくりの素人が出演して、イブ=モンタンを真似ることで喝采を博するといったことは想像もできない。万一、そのような光景が出現したとしても、モンタンは自分の独創を真似られることに不快を感じるであろうし、視聴者も真似芸を愉快とは思うまい。(もっとも、気楽な寄席ふうのところで真似芸がないというわけではないが。)
日常の会話でも、同種の価値観がひょいと顔をのぞかすことがある。初対面のグループにわたしならわたしが加わったとき、そのグループの人々から、私がだれそれに似ている、彼らグループの間では熟知のだれそれに似ていると言われることが少なくない。
あるグループに忽然と未知の人が飛び込んできた場合、たいていは大いに警戒される。これは恐らく洋の東西を問わない。しかしわたしたちの社会では、その未知の人を既知のだれかと相似化することによって安心するという習慣がある。「似ている」ということは、それほどの力を持ち、価値を持っている。
これはどういうことなのか。速断を許されないが、ここには「独創」と「模倣」ということについての根深い思想、感情が潜んでいるように思われる。
第一に、他人と似ていることは、それ自体よいことなのである。第二に、他人に似せようと努力することは、それ自体よいことなのである。
お互いよく似ていることは、集団にとっての安心である。そこに人間と人間とのつながりがある。単なる真似好き、模倣の才能といったものではない。
わたしたちの社会では、似た者どうし、強靭につながっているある一体性が暗黙のうちに前提されている。だから、自分が自分でなくなっても、底のほうにある一体性によって支えられるだろうという安心感がある。むしろ、自分が自分でなくなり、他者の「ふり」をするとき、この大きな安心感を湧出すると言える。
次に挙げるのは、日本の代表的な私小説家上林暁氏の小説の一節である。目の不自由な妻の真似をすることで、深い愛に目覚めるというくだりだ。
「ある晩、夕飯を食べていると、電灯がふっと消えた。ぼくは、一物も見えない暗闇の中に座って、箸を取り、丼を抱え、皿の大根をはさみながら、しばらくそうして食事を続けた。蝋燭もわざと点けなかった。日の光も電灯の光も差さない妻の世界を、実地に経験してみるつもりだった。それは恐ろしい世界であった。ぼくはたちまち頭がのぼせ上がり、胸の動悸が激しく打ち、思ってもぞっとしてくるのであった。ぼくはすぐ蝋燭を点けた。一瞬にしてぼくは救われたが、そんな救いの全然ない妻の世界が、それだけ強くぼくの頭に浮かんできた。それを、なんすれば、罵詈を浴びせ、腹を立てるとは?ぼくは自分の罪の深さに、心が乱れた。」(聖ヨハネ病院にて)
みごとな文章である。わたしたちの宗教的感情とは、恐らく上林氏がここで暗示しているものが、その核心なのであろう。「我が身つねって人の痛さを知れ」ということわざがあるが、真似の深い感情はそのような日常の論理にとどまるものではない。
「ぼく」は偶然「妻」と同じ状況に置かれる。次いで自覚的に「妻」の状況に身を置く。そこに戦慄がある。似ているのではなくして、強いて似せるところに、深い共感が生まれる。わたしたちにとっての真似の本義はおよそ右のようなものである。他人と切れてゆくところにではなく、他人とつながってゆくところに戦慄がある。
西洋での宗教的戦慄の体験者であり表現者でもあるパスカルが、同時にパテント(特許)の最初の主張者であるというのは興味ある事実である。神の意思を自分が真似ることが、近代的個我意識を導き、やがてそれは大ざっぱに言えば神の否定にまでゆきつくのであるが、その場合、もはや互いにまねるべき基準はどこにもない。めいめいが独創と相違とを競うばかりである。自分の特異性に力点を置き、それを社会に向かって強く主張する。そこに人の生きるべき道があり、またこれがパテントとして経済効果を生む。近代西洋人の独創の哲学(これも一種の「神話」であろうが)はこうして生まれた。
何はともあれ、人と変わっていることが良いのだ。そこで、美術にせよ音楽にせよ、先人とは変わっているものが、変わっているというだけで評価される。そのようないような世界が生み出される。技術にしても、何の役に立つのか、人類共同体にとってなんの意味があるのか、といったことは問われない独創の崇拝が生まれる。もっと正確に言えば、十九世紀において独創であったものが二十世紀において偏奇となり、奇矯となる。
西洋に発したこの文明の流れははるか東方の日本列島の岸辺をも激しく洗っている。
「岸辺をも」ではない。むしろ、最も強烈な洗礼を受けたのが近代日本である。これにはだれにも異存はあるまい。
しかしその岸辺の土壌の奥深くには、真似を、模倣を良しとする哲学が根強く生き延びている。西洋近代にならって独創を尊ぶ風潮も文化の表層にはある。だがその底には別の考えも潜んでいる。わが国では経済その他の分野で二重構造が認められている。わたしたちはここにもまた二重構造を見付けねばならないのだろうか。

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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:01:10 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 06:36 编辑

第三課 おふくろの消息
昨日、郷里にいるおふくろから電話で、東京ではもう綿入ればんてんなどいらなくなったろうから、送り返してよこすようにといってきた。ちょうど電話番の妻が外出中で、長女がそれを聞いて私に伝えた。
「ワダエレって、なに?」
長女は、妹たちのように東京の病院ではなく郷里の家で生まれて、おふくろに抱かれて育ったせいか、おふくろの田舎言葉はたいていわかるが、それでも時おり、わからない言葉が出てきてめんくらう。
おふくろのいうワダエレというのは、毎年秋になると自分でこしらえて送ってよこす、綿のぼってりと入ったはんてんのことだ。
私は、仕事をするときは、真夏でも、シャツなしの肌じゅばんで和服を着ないことには落ち着かないが、その仕事着の和服の上に着るはんてんである。
おふくろは、六月がくれば満で八十歳になるが、まだ自分で針仕事をする。もう以前のように袷や羽織を縫うというわけにはいかないが、はんてんや子供の浴衣ぐらいならひとに手伝ってもらわなくても縫うことができる。針の穴に糸を通すことも、自分でする。とても一度では通らないが、老眼鏡を鼻めがねにして、何度でも根気よく試みる。私が帰省していて、そばにいても、ちょっとこれを通してくれとはいわない。見かねて、
「どれ、貸しなさい。」
と言うと恥ずかしそうにほっほっほっと笑って、
「どうも近ごろは、目がだめになってせ。」
と言う。
そんなありさまだから、一枚のはんてんができ上がるまでには、長い時間がかかる。夏、ひと月遅れの盆に一家で帰って、そろそろ東京へ引き揚げようということになると、おふくろは思い出したようにどこからか私のはんてんを持ち出してきて、仕立て直しに取りかかる。
「綿はたくさん入れなくていいですよ。東京はここみたいに寒くないから。」
私はいつもそう言って引き揚げてくるのだが、十一月ごろ、速達の小包便で届いたのを開けてみると、いつものように綿がぼってりと入っている。
私は、子供のころ、座敷の畳の上に布団や丹前を広げて綿入れをしているおふくろの両肩に、ふんわりとまるくのっかっている真綿の玉を、まるで綿あめにそっくりだと思ってながめたものだが、今でもおふくろがそんなふうにして私のはんてんに綿を入れるころは、郷里はもう霜が降りる季節だから、背中が冷え冷えとして、それでつい、肩に真綿をよけいにのせてしまうことになるのだろうか。
それはともかく、せっかくだから、私はそのはんてんを着てひと冬を過ごす。そうでなくても、この四、五年来、私はみっともなく太ってしまって、このはんてんを重ね着するといよいよまるくふくれてしまう。とても人前には出られないが、自分の部屋にいる分には別に不都合なこともない。
私は、冬はこたつで育ったせいか、スチームとかストーブのたぐいは苦手で、部屋全体が暖まると、頭がぼんやりしてきて眠くなる。それで、今でも冬はこたつだけだが、やはり東京でも寒中の夜明けなどには、外の寒さが方や背中にはりついてくる。そんなとき、このはんてんがあると、ずいぶん助かる。これを着ていると、どんなにシバレる晩でも(私の郷里ではひりひりする寒さのことをそういっている)肩や背中に寒さを感じるということはない。こたつに顔を伏せて居眠りをしても、ごろ寝しても風邪をひかない。夜なら、そのまま外へ出ればハーフーコートぐらいの役目はする。
はんてんの生地はほとんどおふくろの着物のお古である。おふくろはもう八十だから、たいていの着物は若くなって、けれどもまだまだ着ようと思えば着られるものを、ほどいてははんてんに仕立て直すのである。新しいははんてんをこしらえると、小包にして送ってよこす。小包の中には必ず手紙が入っていて、それには、これは幾つの時着た着物の生地で、その着物を着てどんな所へ行ったかというメモのようなことが書いてある。おしまいには、
「ちょっと悪くない品物でし。」
と書いてある。
なるほど品物は上等らしいが、なにぶん古いし、こちらは作業衣のつもりで容赦なく着るから、春先になると、袖口や裾はすり切れ、袖の付け根の裏が散々にほころび、襟が光り、背中や肩には一面に中の真綿が小さな玉になって噴き出してくる。
毎年、春になると、こいつももう寿命が尽きたと思って郷里へ送り返してやるのだが、秋にはまた見違えるようにこざっぱりと仕立て直したのが送られてくる。相変わらず、綿もどっさり入っている。
おふくろと電話で話した長女に、
「ほかに、なにか言ってなかったか?」
と尋ねると、
「今度もまただまされたなあ。おらは、がっかりしたえ。」
おふくろがそう言っていたと、長女は言った。
「なんだか元気のない声だったわ。おばあちゃん、かなり参ってるみたい。」
そう言うので、私がちょっと笑って、
「でも、しかたがないなあ。」
と言うと、長女も
「そうね、しかたがないわ。」
と言った。
おふくろは、このところ身心の不調に陥っている。からだのほうは、これはもう持病のようなものだが、心臓のぐあいが思わしくなくて、ときどき狭心症の軽い発作に襲われる。四、五年前までは、誘いの手紙を出すと、さっそく汽車で十時間あまりの長旅をして出て来たものだが、もうそれもできなくなった。
見たところ、前に比べてそれほど弱ったとも思えないが、診てもらっている医者に、ちょっと東京へ行ってきたいがどんなものだろうかと伺いを立てると、前にはすぐ、行ってらっしゃいと言って滞在する数日分の薬をくれたのに、近ごろは気の毒そうに、無理ではないだろうかと言うそうである。行きたいなら言ってもかまわないだろうが、そのかわりあとの責任は持てないというそうである。おふくろは、自分ではなにほどのこともないと思っているが、長旅のあとでどうなるものやら、もちろん、自分でも見当たりがつかない。まわりに迷惑をかけるのが怖くて、おふくろは郷里の家の中で足踏みをしている。
長女が生まれたとき、おふくろは六十七歳だったが、この子が小学校へ上がるまでは死なないと言った。小学校へ上がると、今度は卒業するまでは死なないと言った。実際、そのとおりになって、長女は小学校を卒業したが、おふくろはもうくたびれたのか、今度は中学校を卒業するまではというかわりに、長女が中学校の入学式へ出かけるところが見たいと言った。
どうぞ、どうしてもそうしたいというのなら――私たちはそう返事をして、その時は妻が迎えに行くことに決めていた。ところが、この春先の寒さが、思いのほかおふくろにはこたえた。そのうえ、三月の半ば過ぎに、新潟県の小千谷に住んでいた叔父の一人が、急になくなったことがこたえた。
この叔父は、慶応出身の医者で、まだ六十六だったが、心筋梗塞で急に亡くなってしまった。小千谷に住む前は、長く横浜の鶴見に住んでいて、私の兄や姉たちがずいぶん世話になった叔父である。私は、この秋、せっかちにも自分から生涯を閉じてしまった兄や姉たちの足跡をつぶさにたどって、私たち一家の忌まわしい血の歴史を長編小説に書くつもりだが、この叔父にはたくさん聞かせてもらいたいことがあったから、小千谷の従妹から急死を知らされた時、茫然とした。
おふくろへは、私が電話で知らせた。しばらく雑談してから、
「ちょっと悪い知らせがあるんだけど…椅子に腰かけてますね?」
と確かめてから、叔父の訃報を伝えた。
おふくろは、小さな悲鳴をあげたが、思いのほかしっかりした声で、私に弔問の際の心得を話したり、叔母や従妹へのことづけを託したりした。そのあと、しばらく黙っているので声をかけると、おふくろは、受話器をちゃんと耳に当てているからそんな大声を出すことはないと言って、唐突に若いころの思い出話を一つした。
上京するたびに、亡くなった叔父にアイスクリームをごちそうになって、すると食べ慣れないアイスクリームの冷たさに、咳が出て止まらなくなったというたあいもない思い出話である。
「キッちゃんに(叔父の名は吉平という)アイスクリームで咳をするのはジャイゴタロだと、よく笑われたなあ。」
歌うようにそう言うおふくろの声が、しりすぼまりにかぼそくなって、不意に受話器を置く音がした。
ジャイゴタロは、在郷太郎だろう。私の郷里では山里の人のことをそういっている。
それ以来、おふくろはすっかり元気をなくしてしまった。とても上京できそうもないので、春休みに、こちらからみんなでおふくろを慰めに帰ることにして、乗り物の手配も済ませ、郷里へも帰る日時を知らせておいたところ、出発の前々日になって、次女が高い熱を出して寝込んでしまった。
それで帰郷は取りやめになったが、
おふくろがだまされたと言っているのは、そのことである。すり切れたはんてんも、自分で持って帰るつもりだったのがそのままになっているので、おふくろはくやしまぎれに、さっさと送り返せといってきたのだろう。
私は、おふくろが針仕事をしながらしゃぶる抹茶あめをひと袋、はんてんの袂に入れて荷造りをしながら、それにしても近いうちに一度田舎へ帰ってこなければなるまいと思った。

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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:01:33 | 显示全部楼层
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第五課 うさぎ追いし彼の山
私が長年探し求めていた、「ふるさと」の「ふるさと」をやっと発見した。二重の表現を妙に思われるかたもあろう。最初の「ふるさと」とは、ショウがこう唱歌の題である。あの「うさぎ追いし彼の山、小ぶなつりし彼の川……」という歌詞で始まるなつかしい歌である。その歌を作った作詞者の「ふるさと」が、どこであるかを長年知りたかったのである。
それが大正初期から歌われながら、今日まで一般に知られなかったのは、普通の流行歌と違って、文部省歌唱であり、作詞者、作曲家が公表されていなかったからである。
しかし、この歌は、戦後、教科書が作り変えられても、少年少女たちの教育方針が変わっても、いつも歌われてきた。その歌詞の漂わせる永遠の「郷愁」が、妙なるメロディーとともに長じた大人たちの心にも、それぞれのふるさとを思い出させてきたのである。そして、この作詞者は、実は、同じ文部省歌唱で今日まで歌いつがれているもう一つの名作、「おぼろ月夜」も作詞していたのである。いや、「春の小川」という、今は国民の歌となったようなあの歌も同じ人の作だったのである。
その名は、高野辰之、明治九年(一八七六)年生まれ、ところは、信州の北のすみ、下水内郡豊田村という山村であった。
そこで、今も、うさぎがとび、小ぶなのすむ昔変わらぬ山村であろうか、春は、おぼろにかすむ月が今も昇るだろうか、いや、「菜の花畑に 入日うすれ」と歌われている菜の花が、今もその村の地表を黄色く飾っているだろうか。「春の小川」は、公害の今日でも濁らずにさらさらと流れているだろうか。
私は、東京生まれの東京育ちのせいか、少年時代に覚えて以来、頭を離れないこの三つの歌、特に、「ふるさと」の歌は、その後、ときにふれ思い出され、そんな村がほんとうにあるのだろうか、と今日まで、見果てぬ夢を追ってきたのである。
実は、この歌の舞台は、架空な桃源郷を求める心が生んだものだろうと、最近はあきらめていた。しかし、今年に入って、それが実在する村であり、そこに生まれ、青春期までを過ごしたある人の実感的作詞であることを知って、さっそく飛んでいきたいような衝動にかられたのである。
春はちょうど「おぼろ月夜」を見せる季節が近づいていた。私は地図を広げ、その信州の北の一隅を探した。下水内郡豊田村は、長野の町の北東、飯山の手前、千曲川の流れから少し西北へ入った、平凡な山村であった。「平凡」――そのイメージは地図だけから感じたものである。行ってみれば、おそらく、意外に魅力のある村ではなかろうか。
とりたてて語られる名所も旧跡もない。それが逆に私の心をひきつけた。「ふるさと」とは、平凡な、とある山村であってよい。特殊な地形や歴史が潜んでいる必要はない。この歌が多くの人から愛唱されてきたのは、どこにでもありそうで、それゆえにそれぞれの人が自分の故郷を感じとってきたのではなかろうか。村役場へ問い合わせてみると、そこに生まれ育った高野さんは、この歌の作詞者で、作曲家のほうは別の人である。調べてみると、作曲をしたのは岡野貞一といい、鳥取の出身のようである。鳥取市では近い将来、この歌を記念する歌碑を立てるという話であったが、私の目ざす高野さんの故郷は、まだそんな晴れ晴れしい公開方法は考えていないようであった。
それなら、なおさら、今のうちに訪れてみたい。私には、想像したとおり、その村が、アルプスのふもとのような環境ではなく、さして高くない丘のような山に囲まれた地形であることが気に入った。はたして、春の一日、私が降り立った小さな駅は、「替佐」を「かえさ」と読ませる独特な名にふさわしい、古びた駅舎をもち、降り立った私を、たちまちひと昔前の旅情にひき入れた。飯山線は長野の先で信越線と離れ、千曲川に沿って越後へ向かう、今も数えるほどしか列車を走らせないローカル線である。
高からず低からずの山の連なり、その行くてに、斑尾山が千四百メートル近い高さでひときわ高い。その手前に、目的の村はある。駅から約五キロメートル、来てみればバスも走っていた。
そして、ついにあけた一つの山村、それは、豊田村でも「北永江」という集落であった。バスの止まる辺りには月並みな商店街もあったが、少し歩くと、たちまち農村に変わった。この一見、平凡な丘陵に囲まれた村、これが、ある人の「ふるさと」だった。しかし、それは、もっと多くの人々が心に描く「ふるさと」といってもよかった。
斑尾山が見下ろしている百戸ほどの村は、周囲から隔離されたような別天地に見えた。少年だったころの作詞者が、うさぎを追った山はどこだろうか、小ぶなを釣った川は……。私は行きずりの村人に衝動的に尋ねていた。
「そこの斑尾川、マドロウガワずらな。今でもきれいですよ。」
確かに、急に大地を切り込んで運河のように見える小川は、小川というには立体的で、澄んだ雪どけ水をとうとうと流している。
「ふなはいなかったんね。ふなは濁った川にしかすまんでしょう。おそらく、やまめか、かじかだったんだろう。それを詩にするとき、ふなにかえたんじゃなかろうか。」
この推理は、決して私を失望させなかった。詩人はフィクションをうたってもいい。文学がフィクションであるように、詩と現実が一致しなくてはいけないという規則はない。そして、この事実は、やがて訪れた高野さんの親族の口からも裏付けられた。
うさぎ追いし彼の山 小ぶな釣りし彼の川
夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと
そこに歌われているのは、ふるさとを離れた作者が、はるかにしのぶ心の中の風物である。
私には、こういう故郷がない。それゆえか、物心ついてから、信州へ住みたいと願い、松本の高等学校に身を置いた。そして、今は第二の故郷のような気持ちでなつかしむ信州の一角に、このような「ふるさと」のオリジナルがあったことを改めて知るひとときは、当然ながら、この歌を作った高野辰之という人物の当時の心境に思い及んだ。
彼の生まれ育った家は、今訪れてみれば、その甥にあたる高野助之氏が孫たちと住んでいた。この人もすでに六十歳に達し、地元の郵便局長を勇退し、時おり、おじの辰之氏が残した文章や記録をとり出して、ひと昔前のふるさとをしのんでいる。その家が木の香りも新しい造りであるのには、ちょっと失望したが、郷愁だけを求める第三者の期待にこたえることはできないだろう。そういう現実の変化を、私は批判したくない。とりまく風景はまだまだ昔のままである。現に彼の生家から数百メートル歩けば、あの「小ぶなつりし彼の川」にぶつかった。
それは斑尾山を源とする小さな掘り割りのような川で、両岸にくるみの木が並んでいた。その左右は細かく分けられた「田毎の月」を思わせる水田の広がりであった。川から少しずつ高くなってゆく斜面の地表は、いわば千枚田といってよかった。そして小さな橋の上に立ったとき、ここで歌の作者は、ふなならぬやまめか、かじかを釣ったに違いない、と思った。
「『彼の山』とは斑尾山だという人もいますが、そうとは考えられませんね、もっと手前の、その辺の山ですよ。」
と、助之さんは、私を遵きながら言った。
「大正初期ごろまでは、この辺り一面に、菜の花が咲いていたんです。それがおぼろ月夜の舞台だったんですよ。菜の花はこの村の財源でね。菜種油を採ってそれを灯油にしたんですよ。ランプ時代が終わるとともに姿を消してしまいましたよ。」
こよいはやがておぼろ月夜になるだろうか。私はそれを期待して、あえてこの季節に訪れてみたのだ。
「月は、あの東のほうの、少し北より登りますよ。そして南へ沈んでゆきますよ。」
私はその情景を心待ちしたが、残念ながら頭上の大空は曇っていた。
菜の花畑に 入日うすれ
見わたす山の端 かすみ深し
春風そよ吹く 空を見れば
夕月かかりて においあわし
大正三(一九一四)年ごろの作といわれるこの歌の情景は今も味わえると思った。
月の光と位置も、恐らくそのことと変わるまい。
「ここは飯山へ二里半、信州中野へ三里、飯山線がない時代は、雪深いへき地でね。春が来たという実感が、春の小川の歌にも出ているでしょう。」
春の小川は さらさら流る
岸のすみれや れんげの花が
においめでたく 色美しく
咲けよ咲けよと ささやくごとく
春は桃、桜が一度に花開く。やがて今ではりんごの花咲く初夏が来る。小川は雪どけ水の音を響かせ、岸には菜の花のカーペットのかげで、すみれが咲く。そこに歌われているものは、花や月ではなく、まさに、春の喜びそのものだ。
「おじは、雪深い冬も十歳ごろまでは、飯山の学校へ通っていましたよ。そんな苦労の歳月が、あとになって、なつかしい思い出に変わったんでしょう。」
高野辰之氏は、この地元の小学校を出て、十歳のころから飯山の町に下宿して、長野の師範学校へ通った。飯山に下宿していたのが明治中期だとすれば、氏の夫人が島崎藤村の『破戒』に登場する娘さん自身だということもうなずけるだろう。本名はツルエさんだそうである。週末には飯山からこの実家に帰り、ふるさとの実感を味わったのである。やがて、彼は国語を教える教員免許をとり、故郷を離れ、上田万年氏に師事した。国語学、音韻学の権威だった恩師ならば、弟子の高野さんが、作詞をしたのは当然だろう。しかし、今日の流行歌を作る作詞家とは違った。彼は三十歳を過ぎたときから、文部省に身を置いている。やがて教科書の編纂委員になったが、その関係で積極的に作った音楽教科書の歌詞が、今日のように、いまたで歌われることはなかった。「文部省歌唱」として、おそらくは、教室の片すみに置かれた古びたオルガンの音ともに、それを歌う少年少女の胸の中で、あのメロディーが思い思いの「ふるさと」を浮かび上がらせ、それぞれの生活環境をイメージアップさせたに違いない。やがてこの歌はひと度ふるさとを離れた人々の心に、より強くうったえた。それは、日本の農村のもつ郷愁を象徴するような歌詞であり、第二節、第三節を歌うとき、すべての人に父母の顔を思い出させ、再び帰ることはないかもしれない故郷を浮かび上がらせた。作者自身は、晩年、この村に帰ってきて、余生を送りながら変わりゆく故郷の風物をなつかしんだようである。
いかにいます父母 つつがなしや友がき
雨に風につけても 思い出づるふるさと
そして作者自身も父母を失ってからは、おそらく、第三節の歌詞が、心の底にしてみたに違いない。
志を果たして いつの日にか帰らん
山は青きふるさと 水は清きふるさと
辰之氏は、かつて自ら歌ったように自分の志を果たした。彼の父は八十八歳の米寿まで生きていた。その間、氏ははるか離れた東京で父母の健在を祈ったに違いない。四十歳のときには、念願の『日本歌謡史』の大著で、東大から文学博士の称号も得た。彼は東京にいる間も、ときどき帰省しては、父母と語りながら、故郷の四季をいとおしんだ。暇があれば、即興の歌をつくった。そんなふうにしてできた短歌が、今、甥の助之氏の手ともにはたくさんある。
「七十一歳でなくなったんですが、晩年も愚痴はまったくこぼしませんでしたね。温顔で、酒好きで、それでいていつも書斎で本を読んでいました。たまに居間へ出てくると、即興の歌を披露しましたが、自分で声を出して歌うということはありませんでした。」
助之さんは、庭先にできている辰之氏の記念碑を見ながら、その一挙手一投足を思い出すように語った。その夕べ出された春の夜の食ぜんには、なめこがあった。
「菜の花はなくなり、今はなめこがこの村の財源ですよ。次がお米、そしてりんごです。」
なめこも郷愁の山の幸であった。冬は、歌詞と同じように、うさぎが村の山がけをとぶそうである。私は、さっき見た、この村の全景を思い浮かべていた。今は豊田村、当時の永田村、そこは、東の丘の上から見下ろすと、まるで絵のような農家をちりばめた起伏であった。
心のふるさとは、健在だった。実景として健在だった。私は満ち足りた気持ちで、おぼろ月の昇るよいを待った。

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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:02:18 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 06:36 编辑

第六課 戦災者の悲しみ
昭和十九年八月十七日の朝、一家三人の家族がここに着いてから一年あまりの月日が経過した。その間、私は、執筆しなかったばかりでなく、読書をもほとんどしなかった。こんなことは、私の生涯では異例である。老齢のせいか、近年読書の興味はいちじるしく衰えているのだが、そのためばかりではなく、こちらに来てからは、毎日が忙しくて、昔の言葉でいうところの「書見」などをゆっくりしていられなかったのだ。子供の時から甘やかされて、家庭の俗事などにすこしも使役されなかった私も、この一年間はよく働いた。老妻と児童もよく働いた。彼ら二人は自転車に乗れるので、戸外の用事をもよく勤めたが、乗れない私は、外用よりも、家の内の用事に努力した。掃除もするし雑巾掛けもするし、三度の食事拵えもする。若い時から早起の癖のあった私は、冬の最中にでも、氷結した空気を衝いて、日の出前に起上って、竃の下を焚きつけるのを、厳粛な日常の役目とした。手は凍える。目からは涙が出る、鼻汁がたらたらととめどなく垂れる。そして、容易に火が熾らないので焦慮悲観に襲われることもある。
秋のうち、自分たちはリヤカーで薪を隣村から運んできたり、山から唐松の枯枝を集めてきたりして炊事や暖房の用を足して、どうにか、冬の一日一日を越しながら「春よ、早く来れ」と、それだけを希望としていた。春はおのずからめぐってきたが、温い日差しは皮膚に快く、朝の炊事の苦労も軽くなったが、しかし、春となると、生活には私よりも思慮の深い妻の常識的発意で、隣地の開墾をはじめたので、仕事はいっそう忙しくなった。幼少のころ、傍人の噂話に聞いたのであるが、岡山藩の家老なにがしは、維新後の身の振り方を考慮した果て、大奮発で、家族を挙げて北海道へ移住した。家老の息女などが、牛を牽いて開墾をしているそうだが、寒い淋しい北海道まで行って、そんな荒仕事をするのはおいたわしい噂されていた。私がふとそんな話を思い出したのは、自分たちが馴れぬ身で畑仕事なんかをやるのを、自分自身でおいたわしく感じているためなのだろうか。
独逸のハイデルベルヒで、その地に学んでいた日本の学者某氏と会談した時、「人間は自己の存在が無視されていることに気づくと堪えられないものだ」と、氏は述懐していたが、事実そのとおりである。「あなたの旦那様は何かお勤めを持っていらっしゃるのですか」と、農家の老主婦が妻に向って、浮世話の間に訊ねたそうである。「何もしていません」と答えると、「それではつまりませんわね」と、その人は言ったそうである。さも、さげすむような口吻であったそうだ。農家の老主婦の言葉に毒気があってもなくっても、妻自身の心の影をそこに映して見たのであろう。筆を執って何か書いて、世間に知られ、いくばくかの金を取ることによって、私の存在が、家族にも親戚にも知人にも濃度に認められるので、そうでなければ、私の存在が、たとえ日常顔を見合わせていながらも、はなはだ稀薄に見えるものらしい。「あほらしいことだ」「あほうなことだ」私はこの高原に来てから頻繁に、そういう言葉を吐くようになった。「ようやく火がつきかけたところへ、大きな薪を突込んだから消えたじゃないか、あほうめ」
私は妻に向ってもよくそんな口を利いた。
「百姓家に頭を下げて、高い価を払ってようやく買ってきたキャベツをすっかり腐らせてしまったのもあほうなどことだ。天気の日には朝干しては晩に取りこんでいたのだが、雨がよく降ったものだから黴を生やしてしまった。あほらいいことだ。冬を越させるつもりで輪切りにして軒先に釣るした南瓜も、日の光が鈍いのに、湿気が強いので、これも黴で腐ってしまった。あほらしいことだ」
近年世の中に、あほらしいことばかり流行している。あれもあほうだ、おれもあほうだ。
「あほうめ、せっかく私が、配給の麦と配給の豆とを別々にしておいたのに、ごちゃごちゃにまぜてしまったじゃないの?ちゃんと元のように別々になさいよ。この忙しいのによけいなことされてたまるものじゃない。こんなあほうなことったらあるもんじゃない。袋が足りないから、一つの袋に紐で中仕切りをして麦と豆を入れといたんですよ。あほうあほう」
妻は渋い顔してそう言った。
真っ昼間、机に向って新聞か何か手にしながらコクリコクリ居睡りしている私を、子供はよく見詰めておもしろがるのであるが、妻の翻訳によると、それは「あほうの顔」だと言っているのであった。腑抜け面の、あほう顔に見えるのだそうだ。若い時分からいつの時代にも、絶えず不眠がちであった私が、近来毎夜毎夜正体なく眠れるのみか、昼間でも、椅子に腰かけて黙ってじっとしていると、我知らず眠りに落ちてしかたがないのである。健康にははなはだよろしいのであるが、精神活動が衰えたためであろうかとひそかに気遣われている。自分があほう面をしていながら、他人の顔があほう面にみえるのだから、人間は得手勝手なものだ。
「また鼻緒を切らして下駄をぶら下げて帰ってきた。あほうだなあ。毎日の事だ、なぜしっかり鼻緒を立てておかないのだ。あほうめ」
私は、雨中、学校から帰ってきた児童に詰問口調で言った。児童は、馴れっこになって、我々のあほう呼ばわりを何とも感じなくなっている。
「今時しっかりした布片なんかないのだから、どんなに気をつけてすげてもすぐ切れるんです。」妻は弁護した。「じゃ、そんな脆い下駄は穿かないで、はじめから裸足で行ったらいいわけだね」
「そうは行かないでしょう、裸足で通ってる子はずいぶん多いようですけれど」
「あほうだね」
私はそう断定した。
そういう私自身、どれも傷のついている数足の靴を、取換え引換え、穿きにくい思いをして穿いている。靴屋が修繕をしてくれないためだ。時計だって五六種も所有していながら、どれも皆動かなくなったが、時計屋は修繕を拒むのを常例としているし、何か有利の条件でようやく承諾させても、完全に直らないで、二三日で故障を起こすのだから不思議である。
「今時修繕させるのはあほうだ。法外な修繕費をふんだくられた上に、中のいい機械をすり替えられるかもしれない」と言いながら、机の上に、四つの形は異なっていてもいちように、時を運ばない時計を並べて眺めているのも愚かな姿である。山中暦日なしとは昔風には風雅であろうが、現代人たる私たちにははなはだ間が抜けている。
このごろはラジオまでも壊れたままになっている。私の歯までも傷づいたままになっている。屋根屋が物置小屋に樋をつけてくれないので、雨垂れは竃の前に落ちて、雨の日には炊事場がびしょ濡れになるのである。みんな些細なわたくし事であるが、それらのわたくし事が毎日私たちの心に掛っているので、それらの一つがたまに解決されると、一つの人生の幸福が感ぜられるのだ。
十月十三日は無上の秋日和であった。こういう日和が連続して、冬がなくなったら、この世は天国であると、あるべきからざることを空想したが、私にも人並の空想癖があるので、空想しだすと、際限がないのである。ツルゲーネフかだれか、西洋の作家の小説中の一光景などを、唐松林の間に浮動させて、それを見詰めたりしたが、食物の空想も盛んである。この地のジャガ芋はなかなかにうまい食物で、場ちがいの牛肉よりも我々の舌を喜ばせているが、さような現実の食物は空想境の点国の食物ではない。私には、フランスのパンに、カリホルニヤのオレンヂかグレープフレーツに、砂糖の入った舶来のコーヒー(産地や種類の通は言わず)、それにソールのフライか鎌倉ハムかを添えた食事が、天国の清澄な朝の食事として、非常の魅力をもって空想される。美食についても、他の事物と同様、贅沢な経験のない私には、昔、日本の帝国ホテルで味わった朝餐のうまさが、記憶の底から躍動し私の空想を刺戟するのである。中清の天ぷら、前川の鰻、金田の鳥などが、まぼろしとなって空中に浮んできたが、私の羸弱なる胃袋も、よくいろいろな物を入れて消化してきたものだ。瀬戸内海のうちでも曲がりくねった入江の端である私の故郷の魚類。アナゴ、ハゼ、カレイなど。その他、塵あくたのような小さな雑魚は、生まれ故郷の特殊の味わいをもって私の空想的味覚を刺戟して、故郷懐かしさの乏しい私の目の前にも、だだっ広い旧家の食事部屋が現出するのである。
今の今は、故郷の自然や人間よりも、うろくずに親しみを持っている。自分自身では意識的にそう思っていないのであるが、精神の宿たる私の肉体が、飢餓地獄に堕ちているのであろう。さまざまな魚類が多量に生存している海に取囲まれている日本が、その住民に、つきに一度も、魚らしい魚を恵めないとは心淋しいわけである。
(未完)

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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:02:44 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 06:36 编辑

日本晴れの空は、午前から午後にかけて変化を起きなかった。人体に適した温度を保って、林間にはうららかな光が流れている。この快い秋の光に浴しながら、私の逞うした空想はこんなものであったが、しかし、詩人の奔放な空想だって高は知れている。たまたま「李太白詩醇」の第五巻が一冊、こちらに持参した衣料の箱のなかにまぎれこんであったので、取りだして、朗吟して多少の詩興を催したのであるが、中国の詩歌通有の空想にすぎないのだ。今試みに、そのうちの一首、太白によって始められたと言われる特異の詩体たる、三五七の一首を挙げてみよう。
「秋風清。秋月明。落葉衆還散。寒鴉棲復驚。相思相見知何日。此時此夜難為情。」
写実としても、空想としても、この程度のものなら、ありふれた型のごときもので、漢詩人中の第一人者たる李太白を煩わすにおよばない詩である。落葉が風に吹かれて、ひと所に聚ったのを見ていると、それがまた吹き散らされ、鴉が安らかに巣に留まったと思っていると、また物に驚いて声を立てると唄っているところに、ある心情と呼応した詩的観察があるのだが、それは非凡でもなければ超人的でもない。
爽やかな秋の光を浴びて、食物の空想でも芸術の空想でも楽しんでいるのは幸福だが、苛烈な冬の寒さは、目前に迫っていて、この地に住む限りは、その襲撃から免れることはできないので、東京に家のある人々は、帰り仕度に取りかかっているようである。東京行の家具調度を満載した荷馬車が、おりおり木の間に家のない私たちの目に映るのである。空襲中は、無上の安全地代と言われるこの高原に避難していて、平和の世となると、無傷の自分の家に帰って行って、新たなる日本に適した生活を営みえられるのは、運のいい幸福人であるように空想され羨望された。
焼かれた人は奈落の底に落された劣敗者のようである。ふたたび地上に匐い上ることのできない生物になり下ったようなものである。「ほんとうにお気の毒でございます」と、焼かれざりし人人から、儀礼的に慰め言葉を掛けられるたびに、焼かれし我々は、みじめな自分に気がつくのである。
「自分の家の焼けた話をするくらいあほらしいことはないよ。焼けた同士で話すのなら、同病相憐れむ和やかな気持ちにもなれようが、焼けない人間に話すのは、別の階級の人間に話すようなもので、お互いの気持は懸け離れているのだ」
私は、そういう意味のことを、もっと心理的に苛酷に観察したつもりで、くどくどと、妻に向って説きたてていた。新聞などに、「戦災者」と称せられる者に対するさまざまな救助の方法、慰藉的言語の臚列を読む私は、いつも、セセラ笑いを洩らしたくなるのであった。平和時代の火災とは根底から事情を異にしている今度の火難に会った人々は、回復の望みなき災害を蒙ったわけなのである。
「自分の家が焼けたような気になれませんよ。昨夕もあの二階の寝台に寝た夢を見ましたよ」
妻は、昼間にでも、忙しい仕事に取りかかっている間にでも、ふと、東京の家や庭や、あちらこちらに蓄積してあったさまざまな物品を思いだして、泣きたくなるようなことがしばしばあった。「洋館の階段の下には、ジャムの罐詰が数十箇、蜂蜜の瓶詰に、フランスから持ってきた葡萄酒が何本かしまってあったはずだ。古靴や古下駄でも、石油の空罐に三四杯も詰めこんで、こちらに持ってくるばかりに荷造りして、階段の横に置いていた。」
そう思浮べだすと、連想は果てしなくなって、焼失前の自家の所有物の一々が、眼前に出現するのであった。昨日今日、偶然必要であった謄写版や、秤が、またと得がたい尊いもののごとくに思いだされた。それらのものが身辺近くあった時には用いなかったくせに、焼失させたと極ると、きゅうに日常欠くべからざるもののように見做された。
「今年もここで冬をお越しになるんですか」と、誰れかに訊かれると、「そうなるかもしれません」と、私は曖昧な返事をするのを例としていたが、不動の覚悟を極めて、ふたたびこの寒地で春を待つという毅然たる態度はないのであった。鬼界ヶ島に残された俊寛のように帰京者を見送っているのであった。下界の平野にも、食物は豊富でなく、燃料も豊富でなく、交通は混乱して、人心は険悪であると、絶えず人伝てに聞かされていながら、それは身に染みては感ぜられず、帰京者は、みな「花の都」へ急いでいるらしく空想されるのであった。停車場には、制限された乗車券にありつくために、夜中から出かけている者もあって、旅行は今なお、並たいていの事でないことが推察されるのだが、それでも、「花のお江戸」へでも、海のかなたへでも向って旅をするのは、聞くだけでも生きがいのある楽しさが妄想されるのである。妻は、東京にいた時から知合いになっていたある婦人の外国行を、感激した口ぶりで私に伝えたが、その婦人は欧州のある小国の外交官の正妻となっているのであった。日本の国際的変化から、その外交官は日本滞在が不可能になったので、近日、夫人同伴でアメリカ船に便乗して、帰国の途につくことになったのだそうだ。今の世に、日本を去って太平洋を横断し、アメリカ本土を通過し、大西洋を横切って欧羅巴に入って行くことは、何という興味深いことであろう?幸福なことであろう?

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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:03:20 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 06:36 编辑

第七課 四季

三月の声を聞くと、自然は正直なもので、目に見えて春めいてくる。秋枯れの草花を、いくらかでも冬の間の保温にと、そのままにしておいたのが、急にむさくるしくなった。取りのけると、その下に新しい芽がニョキニョキと土の中から出ている。あるべき所に、あるべき生命が、約束をたがえず登場してくれるのは、やはりうれしい。ふまないように、目じるしのふだを立てておいたが、約束どおりふたばが出てきた。その家の主人がわすれていたところにも、自然の公約をわすれず春の芽がふいて出た。
うめの開花は、所により、はやい?おそいの差は大きいが、北の国でもそろそろ咲き始めた。白うめにも、あおみがかったもの、赤みをおびたものなど、いろいろだが、それぞれに美しい。白うめは、雨もよいの曇り日がとくにきれいだ。花曇りとは、さくらの咲くころ、水蒸気が多くて空がうす曇りになるのを言うのだろうが、晴れかがやく日よりも曇り日の方が、花の色もあざやかなのである。白うめも、広重の絵のあい色に空がくすんでいる日の方が、その白さもくっきりと、安定した静けさがある。
先日この欄で、去年は雨が多かったせいか、くだものの甘味がたりないと書いた。その理由の一つに、雨で肥料がながれたためかとしろうと考えを述べたら、方々から手紙が来て、多雨の年は日照りがたりないからだとの意見が多く寄せられた。植物が根からすい上げた水分と空気中の炭酸ガスとが、太陽のエネルギーによって糖分を生成する。多雨のため日照りが少ないと、この光合成作用もおとろえて、糖分やデンプンの生成量が減退するのだそうである。
普通なら新米がうまいはずなのに、多雨の去年は新米より古米の方が甘味がゆたかだったという。くわの葉は、一日のうちでも日の出前より日没の方がデンプンの含有量が多いそうだ。カキモチやタクアンのだいこんも、人工乾燥より太陽の紫外線でかわかした方が甘味がある。都会地ではスモッグが紫外線をさまたげるので、すべての乾物の味が落ちたという人もある。
冬から春になって、陽光はさんさんとおどりだしたが、植物にしても動物にしても人間にしても、太陽のエネルギーをふんだんに取り入れたものが、生命力にあふれ、太陽を有効にたくさん食うことが命ながらえることなのだろう。

緑の週間が始まる。日本の新緑は美しい。紅葉も日本はみごとだ。お国じまんのひいき目から言うのではない。それは日本列島が植物の種類に富み、多種多様の樹木草木が織りまざっているからである。たとえば「坪刈り」をしてみる。原野や雑木林で一坪だけ刈り取ってみると、欧米大陸や中国大陸よりも日本はひじょうに植物の種類が多いそうだ。
氷河時代に多くの植物は死滅した。ヨーロッパでは、氷河に追われた植物が、東西につらなるアルプスの障壁に妨げられて南下の通路をたたれた。それが欧州中央部の植物区系が種類にとぼしい理由とされる。日本列島には、欧米大陸に見られるほどの氷河をかぶった形跡はほとんどない。また、日本列島は南北に山脈が走っているので、植物が南北に移動するのを妨げるほどの地勢上の障害もなかった。それで氷河時代の寒冷がおそうと、北の植物は南方に疎開を始め、気候が温暖になると、南の植物は北上をつづけた。
それが、日本の国土に寒帯性?熱帯性?温帯性等の植物が多種多様に同居して広く分布している理由だとされる。このバラエティが日本の新緑を多彩で濃淡に富んだ美しいものにする。また、西欧の単調な紅葉とはうって変わった。極彩色の紅葉に織りなす自然の秘法も、この辺にあると思われる。
氷河時代にさえ耐えぬいてきた日本の植物も、戦争以来の乱伐には、ひとたまりもなかった。人災は天災よりもおそろしいことがわかる。坪刈りをすれば、種類は相変わらず多いかもしれないが、山々は見る影もなくはだかにされた。ソ連や中国から引き揚げて来た同胞たちは、久しぶりに見る故国の緑や花の美しさには、かけ値なしに目を見はる。外来客も日本の風土は美しいと言う。しかし一昔前の風勢から見れば、荒れはてたみじめな山河でしかない。
愛国心とは外敵の侵略から国を守ることだけではない。山や川や野や森や、わが住む国土は美しい国だなあと思うところから、しみじみとした生活実感に即した祖国愛が泉のようにわき起こってくる。山や林を緑でおおうことは、単に国の美観だけのことでもない。家や畑や橋や道を洪水から守って、日常生活の安住を保障することは言うまでもない。一木でも多く、一樹でも多く、緑の苗を土におろした。

コスモスの花が東京付近でもぼつぼつ咲き始めた。
信州や那須の高原では一月も前から咲きみだれていた。春の花は南から暖国から開きそめるのだが、秋の花は秋の季節の早く訪れる土地から登場するわけだ。東海道の沿線では、いまヒガンバラが、田のあぜや山すそを赤くいろどっている。それももうしぼむ前の最後のおごりのようである。彼岸はとっくにすぎたのだから。
ススキの穂も、暖かい国では仲秋の名月に間にあわぬが、秋風の早く訪れる高原地帯では、秋風を待つ舞台装置ででもあるかのように、銀灰色の穂並みを早くからそろえる。始末におえぬ雑草だが、青い山波を背景にススキの穂のそよぐのは、日本の秋になくてはならぬ風物だ。それに竹やクズとともに川岸やがけっぷちの土を根で固めるのが重宝でもある。
ほったらかしにしてある庭の小菊もびっちりとつぼみを持ってきた。まだ小さく青くつやつやしている。花を開いてみるとつまらない菊なのだが、堅くてつややかなつぼみのうちも楽しみだ。これが、春先のうめのつぼみのように、なかなか開かず、ひとかたならず気をもたせる。
カキの葉も三枚五枚と紅葉し始めた。葉が落ちるにつれて、カキの実は日当りがよくなり、急に色づいてくる。種類によってはもうすっかり葉をふるい落として、身のほども知らずにすずなりの枝をたわめている。リンゴもカキも一しもごとに赤くなってゆく。
台風の通り道にあたった地方は、落葉樹が潮風にもまれてちぢれてしまった。「台風もみじ」などと風流な言い方をする人もあるが、赤茶けて見ぐるしい姿だ。台風の通った山野では、この秋は美しい紅葉が見られないのではないかと、おしい気がする。
秋色が深まれば、それはそれでいいが、浅いうちの秋もよい。秋も晩秋になると、ゴトンと雨戸が夜中に不気味な音を立てたりして心細くなるが、けさから吹き始めたばかりのような秋風は、感覚的に新鮮である。浅春ということばはあっても、浅秋とは言わぬが、秋も浅いうちが、心やすくつきあえるよさがある。

九州から来た人は、ふぐのうまい季節になりました、と言った。北海道から来た人は、札幌にはもう1メートルも雪がつもり根雪になりそうです、と言った。東京付近でも、しもの朝が多くなった。もう十二月になった。「ことしもとうとう十二月だね。」と一人が言ったら、「おんなじことだよ。」と他の一人が言った。「おんなじじゃないよ、暮れはやはり暮れだよ。」ともう一人が言った。
自然の歩みから言えば、秋の次に冬が来て寒くなり、冬の次には春が来て暖かくなる。人間の社会生活から言えば、十二月はやはり一つの大区切りで、一年の総決算になる。貸し借りも年末にはいちおうきれいにする。平素の不義理も一まとめにしてお義理を果たす。そういうしきたりなのだが、なかなか思うようにならず、師走の声を聞くと、なんとなく心せわしい。
師走気分をさらにあわただしくかき立てるのは、商店の歳末大売出しやクリスマス=セール。それに労働組合の越年闘争。ストも年末行事と化して、師走というものがいっそうあわただしいものとなった。おまけに忘年会がある。クリスマス=イブという名のどんちゃんさわぎがある。クリスマスの方は一日ですむが、忘年会の方は、一回だけでは年忘れができぬとみえて、金とひまと遊興ぐせのある人は何度でもやる。
歳末のあわただしさでは、日本は世界に冠たるものがあるようだ。どこの国でも年末だからといって、日本ほど忙しくあわただしくする所はない。それは一年じゅうのしわ寄せを全部年末にもっていくからでもある。西洋流の暮らし方では、一週間とか一月ごとに小じわで始末してゆく。戦後の日本はよほど小じわ主義になってはきたが、まだまだ大じわ主義の旧弊がぬけきらない。師走だ越年だと重大視しすぎる。
やはり、十二月だって十一月とおんなじことだよ、という生活法にした方が、もっと気楽に暮らせそうである。

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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:03:41 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 06:36 编辑

第八課 他人の目
アメリカの二世についてこういう話を聞いたことがある。日本生まれの父母を持った二世たちは、日常生活ではしたない振る舞いをすると、「そういうことをすると人に笑われる。」「そんなことをすると恥をかく。」と言い聞かされて育つ。だが、やがて彼らはアメリカの社会で成長するにつれて、「他人がどう思おうと知ったことか。自分は自分の道を行く。」という結論に達し、アメリカ人になっていく。この話は、これだけでは説明が不十分であるけれど、日本的思考を端的に表現しているよい例だと思う。
一口に「他人の目」と言うけれども、よく考えてみると、これには二つの意味を与えることができる。一つは世間の人々が見ると、「自分は変なことをしているのではないか?」「笑われるのではないか?」「出過ぎているのではないか?」という一種の卑屈さを伴った、恐れとも言うべき意識であり、もう一つは論理を追って自己の立場を認識した上での、自己を対象化する「他人の目」である。
最近、「若者たちは横暴すぎる。」「他人のことを考えない。」「他人の目を意識しない。」といったことが、大人たちの批判の声としてよく聞かれる。この場合、大人たちの批判の多くは、自分たちの過ごしてきた青春時代の青年像とは余りにも違う現代の気ままな若者たちの姿に、かつての抑圧された、常に他人の目を意識しなければならなかった、屈辱にあふれた自己の青春の像を重ね合わせてつぶやく、悔恨と羨望と嫉妬の混じり合ったものが多い。
姑の嫁いびりが過去長い年月続いてきたのは、自分たちが嫁の時代にされたことを、自分が姑の立場に立った時。再び次の世代に強要することで、辛うじて自分を慰めてきたからである。「他人の目」を常に気にしなければならない長い間の習慣もまたそういうようにして幾世代も続いてきた。だが、敗戦後の価値基準の変化と、海外との交流によって開かれた新しい人間像への目によって、親たちは子供たちに自分たちが子供時代に強要されてきたものを押し付ける自信を失ったし、また押し付けることの成り立たない客観情勢にも気づくようになった。その腹立たしさが根底にあるために、若者たちに対する批判である「他人の目を意識しない傍若無人の振る舞い」という言葉も、姑根性丸出しのいやらしさを伴うようになる。
これに対してもう一つの意味の他人の目は、自己を世界の中で客観視する能力を意味し、自分自身を他人の目でながめることである。今日の社会のない一部の若者たちを育てた親たちにも、エコノミックアニマルという世界の批判を受けた日本の経済進出にも、この「他人の目」を自分の目に置き換えることができなかったということがあるのではないだろうか。
第一の意味での他人の目、つまり「みっともない」とか、「恥をかく」とか、常に他人の価値判断を基準として自分を律していく他律的な習性は、悲しいながら中年以上、戦争以前に青春を送った世代の多くの人たちに、いやというほど身についてしまっている。「みっともない」とか「みばが悪い」とかいう感覚は、単に世間でよしとされている風習の中で、自分が人並みであるか、そうでないかということだけであり、時には並外れて劣っているばかりではなく、並外れて優れていることさえもはばからなければならないことであった。つまり、社会の中で安全であるためには、人の中で決して目立ってはならない。同じように目立たない、よくも悪くもない、自己主張をしないことが賢い処世術だったのである。
日本の今までの子供のしつけ方をながめていると、こういう考え方を親たちは子供たちに植え付けることで、子供たちに社会教育をしたと思い込む。
日本では歴史的に、長い間の封建制度の中で、殊に徳川幕府の政治体制の確立以後、人々は身分制度という秩序の中で、分をわきまえた暮らしをすることが、あたかも美徳であるかのように思い込まれてきた。江戸時代には豪商といえど、余り目立つはでな存在となれば、容赦なく闕所の処分などを受ける恐れもあったし、大名?武家も禄高によってそれ相応の暮らしぶりを考えるのが利口なやり方であった。「身分相応」「分際」「身の程をわきまえた」また、その反対に「身分不相応」「分をわきまえず」「身の程知らずな」といった日本語の表現はすべてこうした身分制度の感覚から生まれたものなのだ。この感覚は、ある場合にはたとえ自分にそれ以上の力があっても、他人の目をはばかって、つつましく見せる、あるいは反対に、それだけの実力がなくても世間体を取り繕うために、無理してはでな振る舞いをしなければならない、ということになる。そして人々はもはや、自分自身のありのままの姿というよりは、世間の目でコントロールされた自分のあり方で一生を送らなければならなくなる。
「他人様に笑われます。」「外聞が悪い」。と人々が幼年時代親たちから言われてきた教訓には、考えてみれば哀れな悲しい見えとも言うべきものも多かった。また、「悪いことをするとお巡りさんが来ますよ。」「先生に言いつけるぞ。」といった脅し文句は、自立的な自己抑制の能力をなくしてしまい、どこか霞の向こうにある、極めて実体の怪しげな権威によってのみ自己を判断する習性となって、人々の間に定着した。そして秩序ある社会を保つために、こうした習性に柔順である者を、体制にくみする人々は道徳的な人間としてたたえたのである。
何か悪いことをすると、その筋の権威に、――お上、あるいはお父さんなり、お巡りさんなり、先生なり、怖いおじさんなりにしかられる、ということでその行為を慎まれてきた人間は、その「他人の目」さえ辺りに見当たらなければ、何をしてもよいわけだから、第二の意味の自己の内部にある「他人の目」で自分を律することなどできはしない。
この場合の「他人の目」つまり第二の意味における「他人の目」とは、他律的人間を育てる他人の目とは本質的に異なったものである。だから、私は最近の若者たちの「横暴さ」に顔をしかめている大人たちの「他人の目を気にしなくなった若者たち」という批判を全面的に口を合わせるつもりは毛頭ない。現に、この文章を書いているのも、世間で言われている若者たちに対する批判に同調しようと思ったからではなく、実はそのような若者たちを育て上げた大人たちが相変わらず後生大事に抱えて、奉っている「他人の目」に、なにを卑屈になることがあろうと、思っているからなのである。
私たちが持たなげればならない「他人の目」とはすでに述べたように自己を測る客観的尺度としての他人の目である。自分が世界の中でどのような位置に置かれているのか?自分のあり方には、自分以外の人々を納得させる筋道が通っているだろうか?自分と相手の立場を換えてみたら、現在の自分はどのように映るだろうか?いわば一人の人間の自己確認にも連なる他人の目をみんなが持つことである。心ない他人の目を恐れたり、そうした他人の目のゆえに自分を卑屈にする必要もないが、鏡に映し出された自分の姿をはっきりと正視する他人の目を自分自身の中に持つことが必要である。

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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:04:23 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 06:36 编辑

第九課 自転車
私は町の自転車屋というものがいまだに一軒として店をたたまず、それどころか大いに繁盛しているらしいのが不思議でならなかった。色とりどりの正札のついた最新型の自転車が彼らのショーウィンドウにずらりと並んでいるのを横目で見ながら、私はあんな物を売りつけられないでも済む方法をみつけたつもりでいた。その方法によれば、私の家ではむこう十年でも二十年でも一台の自転車も購入せずに済ませられるはずであった。というのも――よその土地のことは知らず――私が住んでいるこの海辺の町では、いまだ十分使用に耐える自転車を道端に遺棄することが流行りだしていたからである。
この地区の「粗大ゴミ」集合所に指定されている近所の原っぱに行くと、自転車ならスクラップ並みの古いのからほとんど新品同様のまで、大人用から小児用まで、あらゆるタイプとサイズの自転車が難題も捨ててあった。同じ土地の住民である私はその果敢な捨てっぷりに一驚し、このように急激に、集団的に自転車が不要になる場合について思いめぐらさざるを得なかった。念願の自家用車に取って代わられたのか、それとも新しい自転車に買い替えたのか。それにしてはまだろくに乗った形跡もない新品がまじっているのはというわけか。贓品のたぐいであろうか。しかもこの町のバイスィクル?ライダーの数は、年々増えこそすれ、少しも減っているようには見受けられない。どうやらこのかいわいには、私などの見当もつかぬ金持ちが多いのか、それとも物を粗末にする人間がかたまって住んでいるとしか思えなかった。
自転車だけではなかった。普通一般の家庭で日常使われる家具調度の品目はすべてそこに数え上げることができそうだった。なべかまからはじまって冷蔵庫にガスレンジに流し台、ふろおけにたらいに洗濯機、食堂用のいすとテーブル、応接間のソファのセット、さらには柱時計、テレビ、鏡台、スーツケースの類までひととおりそろっていた。吸入器、かつら、仏壇、わにの剥製といったようなものさえあった。つまり、大ざっぱに言って、グランドピアノ以外の物は何であれそこで――手に入れたければ――手に入れることができるのであった。なるほどそれらの品物は、元来人間どもがいわゆる人間らしい文化生活を営むために必要に迫られてやむにやまれず発明したものにはちがいなかった。だがこうやって用済みになって一個ずつむざんに白日の下にさらされているのを目にすると、そのグロテスクさは思いのほかで、まるで自分の腹からぞうもつをつかみ出して見せつけられたようなぐあいだった。なんとまあ、われわれはたくさんの汚物を自分の体内に後生大事に抱え込んでいることか!
それはともかく、ここ数日また例の原っぱの一角に「粗大ゴミ」が「集合」しつつあった。二月か三月に一ぺん市役所から回収日が告示されると、その一週間ぐらい前から日を追って家具調度の山がきずかれていく。見ていると遠くからわざわざ小型トラックでステレオセットや洋服ダンスを捨てにくる人もいて、ちょっと見ると嫁入り支度でもはじめたのかと思うようだった。おもしろいことには、大きな品物を捨てにくる連中ほど陽気で活気にあふれていて、この情熱的な捨てっぷりを見よと言わんばかりに手荒くがらくたのただなかに投げ込むのだった。彼らの気魄に尻込みしながらも散歩がてらにそれとなく近づいてみて、私はいささか気を悪くしてしまうことも会った。それらの「粗大ゴミ」が私の家で珍重しているミゼラブルな家具類よりもはるかにりっぱであることが多いからであった。
とはいえもちろん私はそれらの物に指一本触れるべきではなかった。私は足元にころがっている銀ピカの真新しそうなトースターをさもばかにしたように靴のつま先でけったりした。また、ほこりをかぶってはいるが最新型とおぼしいミシンやトランジスタ?ラジオも思いきりけとばしてやった。だがそのくせ頭のすみでは、これならまだ使えるじゃないかとか、この程度ならちょっと修繕すればまだ何年も動くだろうにとか、そんなことに未練がましくこだわっているのだった。私は物を捨てるという行為に対する自分の小心翼翼たる心理が度しがたいものに思われた。自分自身ふだん特に物を大事にしているわけでもないのに、いざ他人があんまり見事に物品を蕩尽するのを目撃すると、見当はずれな反省心をかきたてられる。それは私が戦争中の物質欠乏の時代に、いやというほど節倹貯蓄の精神を吹き込まれた憐れむべき「昭和ひとけた」生まれの人間だからか。それに私はきょうは小さな息子を連れてもいた。子供の手前も父親が道ばたに落ちている品物を吸い上げて点検したりするのは好ましくなかった。
そんなふうに好奇心を押しかくして、色彩ゆたかな「粗大ゴミ」の山をさりげなく仰ぎ見ながら、私がひそかに探しているものがないでもなかった。それは――子供用の自転車だった。私の家では上の二人に一台ずつ、いずれは下のも仲間に入ることだからつごう三台の小型自転車を常時確保しておかなくてはならなかったのである。
見わたしたところ、きょうは空き地の道路側には何台かのさびた大人の自転車しか見当たらなかった。私はわきへ回って鉄条網をくぐり抜け、廃品の山の裏手へと踏み込んだ。子供は道の端に立って心配顔に私に呼びかけ、そんなところへ行かない方がいいという意味のことを叫んでいた。冬でもへびが出ると思っているのだ。夏、私はこの草はらでめずらしく青いトウスミントンボを見かけて教えてやったりしたが、子供はその時もたえずへびの不意の出現を警戒しているふうだった。私は、蛇は今頃はねむっているからだいじょうぶだと言いながら、あたりを物色していた。そしてそこの冬枯れた草むらの中に、私はへびではなしに、まだかなり新しい子供用の――白いバスケットまで付いた――自転車が一台ひっくり返っているのを発見していた。だが私はべつに慌ても騒ぎもしなかった。手を触れようともしなかった。真っ昼間に、人通りも少なくないこんなところでわが子の自転車を調達しているのを近所の口うるさい主婦たちに見とがめられてはおもしろくない。――日が落ちてから取りにきたほうがいい。私は足元に横倒しになって冷たく光っている品物をしきりに値踏みして、それがいつか五千円で売りつけられた「粗大ゴミ」よりはるかに上等なものだと判断せざるを得なかった。私はその場は遠目に目星をつけるだけでおとなしく引きかえした。
三歳の息子の手を引いて通りを歩きながら、私はこの子にも当分の間はあの自転車で練習させて、上手になったら新しいのを買ってやればいいと言い訳がましく考えていた。どこのだれかわからない――ひょっとしたらすぐ近くに住んでいるのかもしれない――よその子供のお古をわが子に使わせるのは、父親としてはなはだ心痛む事だが、盗んだ品物ではないのだから恥じる必要もなかった。にもかかわらず私はどこからともなく、自転車泥棒!という声が聞こえてくるように思うのだった。なぜそんなことがいまごろ急に気になりだしたかというと、それにはたわいのない理由があった。――二十年以上も昔に私はそんな題名の忘れがよいイタリア映画を見たことがあったのである。
もっとも、あの映画の自転車は今日私がうるさくせがまれているような子供の自転車ではなかった。まだ自転車が「粗大ゴミ」に成り下がっていなかった戦争直後の混乱の時代に、一台の古自転車を盗まれたがために父と子が悲しい一日を過ごすはめになる時代の話だった。長いこと失業していた父親がやっとビラはりの仕事にありついて、妻のシーツと入れ替えに自転車を質屋から出す。そして幼い息子をつれて勇躍ビラはりに出かける――そんなふうに映画は始まっていたようである。だが主人公はビラをはっているすきにその自転車を盗まれてしまう。K札に届けるが相手にされない。古自転車の市場にも行ってみる。血眼になって探しているうちに自分の自転車に乗った男をみつけるが、逃げられてしまう。父親はいらいらして子供にあたりちらすが、子供は疲れと空腹でしゃがんだきり動かない。(情けないことに、あれほど感動した私ももはや断片的なシーンのいくつかしか覚えていない。白状すると私はこの筋書きも古い映画事典をたよりにたどっているのである。)父親はすねる子供を放って歩いて行くが、そのうちに背後で子供が川に落ちたというさわぎを耳にして慌てて駆けつける。だが息子ではなかった!父は子がいとおしくなり、レストランに入ってわずかの金で料理を食わせ、自分も一杯の酒にいい気持ちになる。だが隣のテーブルではわが子と同じ位の年齢の金持ちの子供が両親に囲まれて豪華な食事を楽しんでいる。軽い財布、家で待っている妻のこと、明日からの仕事のこと――たちまち父親の酔いはさめてしまう。そうしてこの父親は、苦しい一日の終わりにフットボール競技場でとうとう人の自転車をかっぱらい、子供の見ている前で捕らえられる。ラストシーンは、情状酌量のすえ釈放された父親が子供の手を引いて、男泣きに泣きながら夕暮れの人ごみに消えて行くところで終わっていたように思う。
(未完)

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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:04:42 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 06:36 编辑

私はなんだかひどく見につまされて、見終わったあとその主人公の父親のように泣きぬれていた。すべてがついこないだは、ビラはりこそしなかったが、自転車こそ盗まなかったが、食べる苦労にやせ衰えていたのは似たようなものだった。それにひきかえ今の私は――あの映画のうらぶれた父親に遠く及ばない。どんなことをしてでも必死に子供らをくわせるという真剣さにおいて、死んだ自分の父親にすら及ばない。私はせいぜい子供の自転車を調達すべく「粗大ゴミ」の山におそるおそる分け入ったりするぐらいが関の山だった。私の子供らもまたしかりだった。彼らはあの映画の少年のように、かつての私のように、ボロをまとっているわけでも腹をすかしているわけでもなかった。幼い息子は、目の前を消防自動車が通り過ぎると、大きくなったらあれを買ってほしいなどと言うのだった。また市役所の屎尿処理車が通りかかると、あれもいつか買ってほしいなどとせがむのだった。食いふくれて満足を知らない子供たち!
ところで、昼間私が原っぱでみつけて確保したつもりでいた子供用の自転車がどうなったか?――それについて報告しておかなくてはならない。その晩私が夕食のテーブルでおもむろにその一軒を打ち明けると、妻も子供たちも熱心な反応を示したのは言うまでもなかった。とりわけ上の二人の息子は、現在あてがわれているのよりも少しでもましな古自転車をほしがっていたから、われ勝ちに現場へと駆けつけることになった。しかし、私の一家五人が一団となって「粗大ゴミ」の山のふもとに到着した時には、目あてさえあらかに姿を消していた。あんなものはだれも持って行くまいと高をくくっていた私は軽率であった。遅ればせながら私が気づいたことは――どうやら古自転車の回収にかけては私などを上回る常連がいるらしいということだった。それはなんともこそばゆいような光景だった。そこにはすでに何組かの――私に似た――親子づれがいたのである。小さな女の子をつれた若い母親もいた。彼らははじめから手ぶらでやってきたのか、それとも何か廃品を出しにきたついでに掘り出し物をあさっているのか、闇の中でゴミの山を突き崩しては懐中電灯でそこここを照らしていた。それにしても、昼間は人気のないこの原っぱが夜になるとともににぎわいだすというのも愉快な話であった。
あの子供用自転車もきっと彼らの仕業だった。彼らはおそらくこの私以上に子供に新品の自転車を買い与える余裕のない父親や母親にちがいなかった。私はそんな親子のいる家庭をひどくなつかしいもののように想像して、安堵の微笑を禁じ得なかった。このあたりにはふところの温かい連中ばかりが住んでいるかのように思い込んでいた私は、間違っていたようだ。こと自転車に関しては世の中はうまく出来ている。惜しげもなく捨てる人もいれば待ちかまえていて捨って行く人もいる。ただ捨てる人間は白昼堂々とやってくるのに、拾うほうは夜陰に乗じ人目をぬすんでひそかにやってくるという違いがあるのだった。結局町の古自転車の台数はプラスマイナス?ゼロというよりはかなり不足気味で、依然として自転車業者を利する結果になっているのだろう。それにまた彼らだって、銀ペンキを塗って若干手直しを加えるだけで何千円にもなるこの「粗大ゴミ」を見逃すはずはなかった。
先着の一家の中に同年輩の競争者をみつけたために、私の子供たちはひどく刺激されたと見えて、負けじとばかりに廃品の山を崩しにかかっていた。「おい兄貴!来てみろ!こんなものがあるぜ!」「よーし、今行くからな!ちょっと待ってろ!」――兄と弟とが闇の中でけたたましく及び交わしているそのありさまは、まるで宝の山でも探し当てたかと思うようだった。自転車探しのつもりでやってきたのが、今や当初の目的は見失われて物欲をむきだしにしたゴミあさりが展開されていた。暗いからいいようなものの、私はさすがに恥で顔が赤くなるのを覚えてしきりに彼らをしかりつけた。「やめろ!きたならしいことは!」だがだれも耳をかす者はいなかった。彼らの母親までもが、いったい何を探し出そうというのか、幾重にも積み重ねてある家族にむかって叫ぶのをやめなった。「やめろ!いい加減に!そんなガラクタ、いくら欲ばって持って帰ったって使えやしないのだ!使えないからこそ捨ててあるのだ!こじきみたいなまねはよせ!よせ!」そんなふうに口走ることばは、私が日ごろ披瀝している見解とも現にこうしてここにやってきているその行いとも明らかに矛盾しているのだったが、とにかく私は彼らを引き揚げさせるのにやっきになっていた。そしてそのくせ問題の子供用自転車については、もう二、三日待てばまた同じような品物が出るかもしれないなどと考えているのだった。
後刻、一家五人が明かりの下に集合してみると、五人のうち三人までは大なり小なりいかがわしい拾得物をたずさえて規定ることがわかった。あさましいゴミあさりに加わらなかったと言えるのは、かろうじて三歳の子供だけだった。彼は最初から他のどんな品物にも目をくれずに、道端にころがっていた椰子の実――それも虫の食った古い飾り物の椰子の実を一個、ラグビーのボールのようにしっかり小脇に抱えていた。

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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:05:00 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 06:36 编辑

第十課 風景開眼
いままで、なんと多くの旅をして来たことだろう。そして、これからも、ずっと続けることだろう。旅とは私にとって何を意味するのか。自然の中に孤独な自己を置くことによって、解放され、純化され、活発になった精神で、自然の変化の中にあらわれる生のあかしを見たいというのか。
いったい、生きるということは何だろう。この世の中に、ある時、やって来た私は、やがて、何処かへ行ってしまう。常住の世、常住の地、常住の家なんて在るはずがない。流転、無常こそ生のあかしであると私は見た。
私は私の意味で生まれてきたわけではなく、また、死ぬということも私の意志ではないだろう。こうして、いま、生きているというのも、はっきりと意識が動いて生きているわけでもないようだ。したがって絵を描くということも――
私は何を云おうとしているのか。力を尽くして誠実に生きるということを尊いと思い、それのみが、私の生きている唯一の意義であるはずだと思ってはいるのだが。それは、上述の認識を前提とした上でのことである。
私は生かされている。野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。生かされているという宿命の中で、せいいっぱい生きたいと思っている。せいいっぱい生きるなどということは難しいことだが、生かされているという認識によって、いくらか救われる。
私の生き方は、こんなふうに、あまり威勢の良いほうではない。生来の性格の上に、多くの挫折と苦悩を経て辿りついた結果である。幼いときから青年期まで病気がちであった。物心のつく頃から、両親の愛憎の姿を、人間の宿命とも、業とも見てきた。外面にあらわそうとしない私の心の深淵。精神の形成される時期のはげしい動揺。兄弟の若い死。父の家業の倒産。芸術の上での長い苦しい模索。戦争の悲惨。
しかし、私の場合は、こんなふうだったから生の輝きというものを、私なりにつかむことが出来たのかもしれない。私が倒れたままになってしまわずに、どうにか、いろんな苦しみに耐え得たのは、意思の強さとか、それに伴う努力というような積極的なものよりも、一切の存在に対しての肯定的な態度が、いつの間にか私の精神生活の根柢になっていたからではないだろうか。少年期の私は、何事をも疑ってみる時期があった。あらゆる存在に対する不信の思いに耐えられない自己を持てあましていたこともある。しかし、ある諦念ともいうものが、私の中に根ざしてきて、私の支えとなったのだと思う。
私は一年の大半を人気の無い高原に立って、空の色、山の姿、草木の息吹きを、じっと見守っていた時がある。それは、まだ結婚もせず、幼稚園に間借りをしていた昭和十二、三年のことである。八ヶ岳の美しの森と呼ばれる高原の一隅に、ふと、好ましい風景を見つけると、その同じ場所に一年のうち十数回行って、見覚えのある一木一草が季節によって変わってゆく姿を、大きな興味をもって眺めたのである。
冬はとっくに過ぎたはずだのに、高原に春の訪れは遅かった。寒い風が吹き、赤岳や権現岳は白く、厳しく、落葉松林だけがわずかに黄褐色に萌え出している。ところどころに雪の残る高原は、打ちひしがれたような有様であった。その中に、昨年の芒が細く立っているのが不思議であった。深い雪と、烈しい風の冬を経て、頑丈な樅の枝でさえ折れているのがあるのに、どうしてこの細々とした茎が立ちつづけていたのだろう。
春が来ると、一時に芽吹きがはじまる。紅に、黄に、白緑に、若葉に、銀に、金にと、多彩な交響楽。白い素朴な花をつけた小梨の下には、虻がブーンと弦楽の合奏をしている。鶯と郭公は高音と低音の重唱。躑躅、蓮華躑躅の華やかさ、どうだん躑躅の可憐、野薔薇の清楚。
霧が流れ、雨が降る。夏の陽が輝くと、草いきれのする野に、放牧の馬の背が光る。驟雨、烈しい雷鳴、晴れてゆく念場ヶ原に立つあざやかな虹。
薊の茎が伸び、松虫草が咲くと、空が青く澄んで、すきとおるような薄い雲が流れる。落葉松が黄褐色に、白樺が輝く黄になると、芒の穂が白く風になびく。
空が厚い灰色の雲に蔽われ、雪が降ってくる。一面の深い雪。樅の木が真っ黒に見え、雪の上に点々と鳥や兎の足あとが交叉する。落葉松の林が、時々、寒そうに身震いして、白い粉をふりまくように雪を払いおとす。
やがて、再び春が廻ってくる。さて、あおの芒は――雪が降ってきた時は、だんだん下から積って、そのまま倒れずにいるうちに、しまいには、すっぽりと雪の中に蔽いかくされてしまう。雪がとけると、頭のほうから出て来て、こうして春に残るのである。私はこの弱々しいものの、運命に逆らわないで耐えている姿に感動した。
あの時分、どうして私の作品は冴えなかったのだろうか。あんなにも密接に自然の心と溶け合い、表面的な観察でなく、かなり深いところへ到達していたはずである。それなのに、私の感じとったものを、すなおに心こまやかに描くことが出来なかった。表現の技術が拙かったのだろうか。いや、それよりも、もっと大切な問題があった。
私は汗と埃にまみれて走っていた。足元には焼け落ちた屋根瓦が散乱していて、土煙りが舞い上った。汚い破れたシャツ姿のこの一団は、兵隊と云うには、あまりにも惨めな格好をしている。終戦間近に召集を受けた私は、千葉県の柏の連隊に入隊すると、すぐその翌日、熊本へ廻された。そこで爆弾をもって戦車に肉薄攻撃する練習を、毎日やらされていたのである。そんな或る日、市街の焼跡の整理に行って熊本城の天守閣跡へ登った帰途である。
私は酔ったような気持で走っていた。魂を震撼させられた者の陶酔とでもいうべきものであろうか。つい、さっき、私は見たのだ。輝く生命の姿を――
熊本城から眺めは、肥後平野や丘陵の彼方に、遠く阿蘇が霞む広闊な眺望である。雄大な風景ではあるが、いつも旅をしていた私には、特に珍しい眺めというわけではない。なぜ、今日、私は涙が落ちそうになるほど感動したのだろう。なぜ、あんなにも空が遠く澄んで、連なる山並みが落ちついた威厳に充ち、平野の緑は生き生きと輝き、森の樹々が充実した、たたずまいを示したのだろう。今まで旅から旅をしてきたのに、こんなにも美しい風景を見たであろうか。おそらく、平凡な風景として見過ごしてきたのにちがいない。これをなぜ描かなかったのだろうか。いまはもう絵を描くという望みはおろか、生きる希望も無くなったと云うのに――歓喜と悔恨がこみ上げてきた。
あの風景が輝いて見えたのは、私に絵を描く望みも、生きる望みも無くなったからである。私の心が、この上もなく純粋になっていたからである。死を身近に、はっきりと意識する時に、生の姿が強く心に映ったのにちがいない。
自然に心から親しみ、その生命観をつかんでいたはずの私であったのに、制作になると、題材の特異性、構図や色彩や技法の新しい工夫というようなことにとらわれて、もっとも大切なこと、素朴で根元的で、感動的なもの、存在の生命に対する把握の緊張度が欠けていたのではないか。そういうものを、前近代的な考え方であると否定することによって、新しい前進が在ると考えていたのではないか。
また、制作する場合の私の心には、その作品によって、なんとかして展覧会でよい成績を挙げたいという願いがあった。商売に失敗した老齢の父、長い病中の母や弟というふうに、私の経済的な負担も大きかったから、私は人の注目を引き、世の中に出たいと思わないではいられなかった。友人は次々に画壇の寵児になり、流行作家と云われるようになって行ったが、私はひとりとり残され、あせりながらも遅い足どりで歩いていたのである。こんなふうだから心が純粋になれるはずがなかたのである。
その時の気持をその場で分析し、秩序立って考えたわけではないが、ただ、こう自分自身に云い聞かせたのはたしかだ。もし、万一、再び絵筆をとれる時が来たなら――恐らく、そんな時はもう来ないだろうが――私はこの感動を、いまの気持で描こう。
汗と埃にまみれて熊本市の焼跡を走りながら私の心は締めつけられる思いであった。
いま、考えてみても私は風景画家になるという方向に、だんだん追いつめられ、鍛え上げられてきたと云える。人生の旅の中には、いくつかの岐路がある。中学校を卒業する時に画家になる決心をしたこと、しかも、日本画家になる道を選んだのも、一つの大きな岐路であり、戦後、風景画家としての道を歩くようになったのも一つの岐路である。その両者とも私自身の意思よりも、もっと大きな他力によって動かされていると考えないではいられない。たしかに私は生きているというよりも生かされているのであり、日本画家にされ、風景画家にされたとも云える。その力を何と呼ぶべきか、私にはわからないが――

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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:05:33 | 显示全部楼层
第十一課 日本語を考える(対談)
一、日本語の論理性
司馬 今日は、話しことばや書きことばの問題を中心にお伺いしようと思いまして……。今アジアの新興国では、哲学や政治、それに数学などの諸問題を自国語で表現することが、大変重大な課題になっておりますね。
桑原 表現するのが難しいということでしょうか。
司馬 東南アジアのある国のように、とても自国語で哲学の教科書を作りにくいという場合もあれば、朝鮮語のように、李朝五百年間、感じで鍛錬されてきたために、それがわりあいすら すらいくという言語もあります。日本では、明治からちょうど百年たっておりますので、共通語は一つの山坂を越えた感じがいたします。
今、生存者の年齢でいいまして、八十歳ぐらいで断層があるようですね。たとえば大阪ではきちんとした船場ことば、鹿児島でいえばきわめて音楽的な士族語。東京でいえば下町のことばといった、つまり発音法からしてその後の方言とは違うちゃんとした方言が使えるのは、八十歳以上の人ですね。たとえば、お汁粉を江戸弁ではオシロコと言いますね。手ぬぐいをテノゴイ。土佐では花壇のことを鼻音を入れてカンダン(knandan)。島津ということをシマドウ(shimanndu)。水をミンドウ(mindu)。といったふうに伝統のある日本の方言が、八十歳ぐらいのラインで切れてしまっているように思います。これはどういうわけかな。大正十四年に始まった愛宕山の放送と関係があるのでしょうか。その時代から、これらの伝統的な方言に代わって、共通語が出てきたように思いますけど、いかがでしょう。
もう少ししゃべりますと、今の共通語は、論理的表現はできるが、感情表現にはどうも適しておらないように思います。たとえば、大阪弁で「ああしんど。」と言えば、主観と状況のすべてをおおうだけの感情表現ができますが、まだ歴史の浅い共通語ではできにくいようですね。
桑原 それはおっしゃるとおりで、共通語の成立のためには、やはりラジオ・テレビの出現の影響は大きいでしょうね。それともう一つ、学問の普及も影響があった。学問のことばは科学的に正確であろうとしますから、共通語を使う。
愛宕山といえば、ラジオで天気予報をやり始めまして、「あしたは雨が降るでしょう。」とアナウンサーが言った。これにはものすごいショックを受けましたね。今ではあたりまえの表現ですが、それまでの日常の日本語には、こういう言い方はなかった。
司馬 ああ、なるほど。
桑原 昔のおじいさんなら、「あしたは雨が降る。」と言ったでしょう。どうしても未来の感覚を出したければ、「あしたは雨が降るはずだ。」とか「あしたになれば雨が降る。」とかいう言い方をした。「あしたは雨が降るでしょう。」など日本語ではない、と年寄り連中は怒っていたし、若かったぼくも大抑に感じましたね。
司馬 初めて聞いたなあ。
桑原 まあ、日本語は明治で一つの区切りがついた感じですね。明治になってから小学校教育を始めて、ずっと押してくる過程で変わっていった。これはわたしの持説なんですが、明治以降の日本がよいか悪いかは別にして、明治維新で日本は、このままでは民族がだめになるとして切り換えをやりましたね。これは「文化革命」というべきだと思うんです。もしあそこで切り換えが行われていなかったら、日本はどういうことになったかわからない。どこかの植民地になっていたかもしれない。
切り換えということは、汽車や電信・電話を採り入れ、近代的軍隊をつくるだけでなく、生活を変えるわけですから、言語にも大変な影響がありましたね。
つまり、明治維新は、それまでもっていた文化のフォルムをつぶす犠牲においてやったんです。それは基本的には避けられなかったことですがね。
司馬 これは重大なところですね。
二、大衆社会と文章能力
桑原 私は候文を習ったかれど、司馬さんはやりましたか
司馬 やりませんけどれ、見よう見まねで……
桑原 あなたは小説家だから別として、あなたの世代はどうですか。たとえば中学校では。
司馬 習いませんでした。
桑原 わたしの時は小学校も中学校も候文でした。候文はフォルムがありますから、手紙などには便利でしたがね。たとえば、金を借りる時、「御迷惑千万とは存じ候へども、××円ご恩借相成まじく候や。」と書けばいい。頼まれ事を断ると角が立つが、「折角の思召しに候へども」と書けばうまくいく。手紙の書き出しの文句にはいつも悩まされるものですが、昔なら、「春寒料峭の候」とかきまり文句があった。そういうことばをつぶしたわけですね。
司馬 まあ、候文が廃れるとともに、文章の型も崩れましたが、それ以降、論理的表現能力のある文章が出てきますね。そういう意味での文章は、第二次大戦後に確立したのではないでしょうか。明治時代の文章家は、それぞれが我流で書きことばを使っておりましたでしょう。泉鏡花なら泉鏡花手製の日本語で、鏡花が大正末期だったか「東京日本新聞」に、工業地帯のルポルタージュを書いたのを古本で見たことがありますが、鏡花手製の文章では、強化的世界は表現できますけれど、どうにも煙突やガスタンクのある街がとらえられなくて、悪戦苦闘してついに空中分解しているような格好で……。
桑原 それはおもしろいですね。
司馬 つまり鏡花手作りの文章では、ベトナム問題も沖縄問題も論じられませんでしょう。鏡花のルポタージュを読んで、明治・大正を経てきた日本語の苦渋がわかったような樹がしました。だれか書いても同じ文章を民族がもっとと、それは文体の個性を愛する人たちにとってはりそうでないかもしれませんが、文明というものが良かれ悪しかれそのようにもってゆく当然の帰結だと思います。日本では戦後になって、初めてそういう状態になった。
桑原 そのとおりですね。老人たちの中には、戦後教育は成功していない、文章もちゃんと書けないじゃないか、と言っている人もいます。しかし、戦後教育を受けた、たとえば大江健三郎、小田実、高橋和己、こういう人の文章は戦前にはなかった。イデオロギーの好ききらいは別にして、あの文章ではなんでも、素粒子論の論文でも都会の風景でも書けますね。そういう文章は、おっしゃるとおり戦後に確立したのだと思います。国民全体の文章能力がレベル・アップしました。
司馬 ここでフランスのことをお伺いしたいと思いますが、あちらではだれが演説しても、そのまま日本でフランス語の試験問題になるように思いますけれど、そういう状態になったのは、いつごろでしょうか。
桑原 今でもそうはなっていないと思いますね。
司馬 そうですか。
桑原 しゃべったのがそのまま模範文になるというのは、偉い人、エリートだけですよ。それに、彼らは必ず原稿を用意してきて、それを読むのです。文章がちゃんと書ける国民の比率は、日本はむしろ高いのではないでしょうか。フランスでは、高等学校卒業生以上はともかく、小学校を出た人がちゃんとした文章が書けるかどうか疑問です。
司馬 しかし、ソルボンヌ大学の教授の文章とド=ゴールの演説と、ほぼ同じフランス語だろうという感じが、素人のあてずっぽうながらするんですけれど……
桑原 それはそうです。そのかわり、ちゃんとしたフランス語が書けるのは、上のレベルの人たち、つまり高等学校卒業生以上だけではないでしょうか。それに、高等学校は日本ほど多くありませんからね。日本という国は、フランスなどに比べて文化がずっと下まで降りてきている。だから、国民の文章能力は決して低くないと思うのです。
司馬 そうですね。
桑原 フランスでは、十七世紀にデカルトが現れるまで、学術論文は全部ラテン語で書いていました。それをデカルトががんばって、『方法序説』をフランス語で書いた。おそらく当時、キザだとか迎合的だとか言われたにちがいありませんよ。ついで、パスカルが出る。パスカルの『田舎の友への手紙』は、フランス語散文の模範となるものですね。
それから十八世紀に入ると、読み手の数が増えてくるから、文章もおのずと易しくなります。十九世紀の産業革命になると、出版社ができて、読者も一挙に増えたから、文章は必然的に易しくなる。易しくなりすぎたというので、十九世紀の終わりに反発が起きて、象徴主義文学は普通の庶民にはわからないようなものになりましたが、全体の流れとしては文章は易しくなっているんです。
司馬 なるほど。
桑原 日本でも同じですね。徳川時代まで漢文でやってきて、明治になると、言文一致になります。もっとも、明治の言文一致は漢文を相当訓練した人たちが使っていましたので、どちらかといえば漢文脈ですが。わたしなんか漢文を勉強したわけではないけれど、やはりわたしの文章は、若い人からは漢文脈だと言われるんです。わたしには文章をだらだら書くことに対する嫌悪感が、理屈でなしに残っているし、同じ形容詞が一ベージの中に三回も四回も出てくるのは、やっぱり耐えられません。そういう漢文脈の文章を書く者は、わたしくらいの世代で切れてしまいますね。
司馬 昭和初期でも、人によってはまだ手作りをやっていますですね。片岡鉄兵の新感覚派宣言の文章なんかは、火星人が書いたんじゃないか、(笑)と思われるほどに手作りですが、まあ、いずれにしても大体共通の書きことばができあがったのは戦後であるとして、後世の文化史家に書いてもらいたいなあ。
たとえば、松本清張さんが出てこられて、あの人の文章に驚いた記憶があります。センテンスが短い。これは読みやすいというより、むしろ、一つのセンテンスが一つの意味しか背負っていない文章ですね。それまでの多くの文章は、とぎれもなく続いて、一つのセンテンスという荷車に、荷物をたくさん積んでおった感じがしますが、松本さんの出現によって、というよりそういう時期に、新しい文章が出てきた。近ごろは、どこに書かれている文章もほぼそのようになっています。これは、松本さんの影響というより……
桑原 そういう社会になったんでしょう。
司馬 確かに、センテンスがべらぼうに長いといえば、――二十五歳になるイギリスの青年が、日本に帰化しようと思ってきたんです。彼はケンブリッジの日本語科を出ているんですが、そこで習った日本語作文の文章はとめどもなくセンテンスが長くて、彼の論文を見せてもらったのですが、どこで切れるのか、読み手にとってあてどもない旅をしているような感じなのです。だれに習った日本語だと聞くと、ケンブリッジの先生がこう書けといったんだという。平安朝文字の解釈などは、素人のわたしなんかとてもかなわないほどの青年なんですがね。その時、松本清張さんの小説を見せて、現代日本語はこうなっているんだと言ってやりました。このごろ、彼の文章はセンテンスが短くなってきました。
桑原 それはおもしろい話ですね。今おっしゃった。一つのセンテンスが一つのことしかさしていない、これは一種の機能主義的な文章ですね。今の日本語は、もうそういうところへ来ているんですね。だれでも書けるし、あらゆることが言える文章が確立された。これからは、そういう文章で、どういうふうに微妙な心の中の深い問題を表していくか、これが重要になってくる。文章より考え方ということです。
(未完)
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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:05:54 | 显示全部楼层
三、言語と現実
司馬 ところで、先生は以前、「近ごろ、週刊誌の文章と小説の文章が似てきた。これはゆゆしいことだ。」ということを、それも肯定的な態度でおっしゃったことがありましたね。この現象は、どちらが影響し合ったということは別として、やはり日本語としてはめでたきことです。
桑原 ええ。戦後民主主義についてはいろいろの評価がありますが、戦後民主主義が国語に適用されるとそういう現象が起きる。これは週刊誌の文章(内容ではありません)が、いいというわけではない。しかし、そこに共通基盤が見られるということです。一例をあげると、わたしの知人のある若い科学者、彼はすばらしい業績をあげていたが、文章が下手で読むに耐えないので、ぼくは、「君のネタはすばらしい。しかし、こんな文章で絶対売り物にはならへん。」と言ったんです。彼は反省しまして、学校に通う電車の中で毎日必ず週刊誌を読んだ。そのうちに文章がうまくなりましたよ。
司馬 なるほど。型に参加できたわけですな。
桑原 別に科学者として偉くなったわけではないが、彼の文章に商品価値が出て、それによって彼の学説も広まったわけです。
司馬 昭和三十年前後に、ある評論家が、「最近の作家は小説がうまくなった。しかし、大事なものが抜けている。」と慨嘆しているのを読んだことがありますけど、その時わたしは、あれはうまくなったのではなく、文章が共通のものになったせいではないか。だから、だれが書いても水準以上のものができるんじゃないか、ということを思ったりしましたが、まあ、そういう文学論めいたことは外すとして、一般庶民が考えていること、見聞したことを伝えるための日本語は、どうやら七合目、あるいは八合目ぐらいまで来ているのではないでしょうか。ただ、話しことばとしての共通語は、どうもわたしにはものたりない。
桑原 そうですね。
司馬 地方に住んでいる人は、今まで、共通語を使えないということで劣等感がありましたが、最近は、ちょっと開き直って、多少の自信をもつようになったのではないでしょうか。まあ、共通語で話すと感情のデイテールが表現できない。ですから、共通語で話をする人が、そらぞらしく見えてしょうがない。(笑)あの人はああいうことを言ってるが、うそじゃないか。(笑)東京にも下町ことばというちゃんとした感情表現能力のあることばがありますが、共通語一点ばりで生活をしている場合、問題が起きますね。
話しことばは自分の感情のニュアンスを表すべきものなのに、共通語では論理性だけが厳しい。
桑原 なるほど。……ところで、ここで反問すると、現代の共通語は、あなたのおっしゃるほど、それほど論理的でしょうか。
司馬 まあ、これは方言との比較の問題で、厳密には問題はありますね。
桑原 あなたやわたしが関西弁でしゃべり、あるいは東北の人が東北弁でしゃべる場合、その論理性ということはもともと数量では計れないものだし、現実には数量的に表すわけにはいきませんが、わかりやすくするために、かりに六〇パーセントの論理性をもっているとしますね、それに比べて今の共通語には七〇パーセントの論理性がある。それはいえるかもしれません。
しかし、フランス語やドイツ語のもつ論理性に比べて、日本語のほうが論理的であるかどうかは問題ですね。そこでもう一つ反転して、論理的であるかないかを何によって考えるかというと、普通アリストテレス以来の西洋の論理学によってでしょう。ところが、もう一つ、「感情の論理」という問題もありますね。これはフランスの心理学者が使ったことばですが、形式論理からみると非合理的でも、心理的には感情を納得させる論理もあるわけで、「感情の論理」によれば、場合によっては、日本語とフランス語は論理性が同じであるかもわからない。
四、生命力のある雑種文化
司馬 実をいいますと、先ほどの発言は、わたしが多年桑原先生を観察していての結論なんです。(笑)大変に即物的でおそれいりますが、先生は問題を論じていかれるのには共通語をお使いになる。が、問題が非常に微妙なところに来たり、御自分の論理が次の結論にまで到達しなかったりした場合、急に開き直って、「それでやなあ、そうなりまっせ。」と上方弁を使われる。(笑)あれはなんやろかと……
桑原 批判していたわけだ。(笑)
司馬 いや、批判じゃなくて、これはやはり共通語がまだ不自由で足りないところがあるせいだろうと思っております。(笑)話しことばとしての共通語は、論理的であるにしても、おっしゃるように一〇〇パーセントの論理性はない。そこで、感情論理学を背負っている京都で栓をしてしまう。
桑原 ぼくは共通語を使ってはいるが、意を尽くせない時は確かにありますね。そこで思うんですが、社会科学などの論文に、もっと俗語を使って、「さよか。」とか……。(笑)
司馬 「そうだっしゃろ。」とか……。
桑原 「たれ流し、よういわんわ。」とかいうことばが入るようになればおもしろいと思うんですがね。(笑)
司馬 そうです。
桑原 わたし、この前北海道に行って、地方文化の話をした時に、少し見もふたもないことを言いました。いい音楽を聴き、いい小説を読み、うまいものを食う。それはそれ自体結構なことだが、それがその地方の文化を向上させることになるのだろうか。現代日本は、好むと好まざるとにかかわらず、中央志向的な大衆社会になっている。だから、東京とは違う地方文化、たとえば北海道や鹿児島で独特の地方文化をもつのは至難なのではないか。その地方の人々が方言でしゃべることを恥としない、あえて誇りと思わなくても、少なくとも恥としないところにしか地方文化はない。それがわたしの地方文化の定義です、と言ったんです。
そうすると、地方文化がまだあるのは上方だけだということになるかもしれない。わたしは場合によれば京都弁をしゃべる。大阪の作家はみんな日常大阪弁を使う。しかし、たとえば名古屋では、「そうきゃあも。」などという名古屋弁をもう使わなくなりましたね。そこへ、片方からラジオやテレビでローラーをかけていますね。地方のことばを捨てて地方文化を守るのは難しいことだと思うんです。
司馬 テレビといえば、いろんな流行語がテレビから生まれますね。ああいう変なことばは、共通語が感情に向かないので、つまり方言の代わりの役割を軽微ながら果たしているのではないでしょうか。
桑原 それらのことば、かつ消えかつ結びだから型ができない。……とにかく、日本文化の特色は変化が急ピッチで激しいということですね。たとえば、明治中期の中江兆民などの本を、今の大学を出た人は読めないでしょう。森鴎外でも読みづらい。
司馬 難しいでしょうね。
桑原 フランスでももちろんことばは変わるけれど、ここ三百年ほどは日本ほどの変動はありませんね。十七世紀にアカデミー・フランセーズが、使っていいことばと悪いことばを整理した。その整理のために、ある意味では、フランス語のボキャブラリーが少なくなって、あふれるような豊かさがなくなった。そのかわり、論理的で純粋なラシーヌが出てくる基礎となった。フランス語は安定しているので、日本語より型があるわけです。しかし、かなり前のことですが、フランスの雑誌を読んでいたらおもしろい記事があった、フランス語は、日本語やドイツ語と違って新しい単語をあまり造りませんで、昔からあることばにいろんな意味をもたせるんです。たとえばvieという単語があります。これは生命という意味です。がLa vie ectといえば物価が高い。物価という意味もある。そのほか宗教的生などの意味でも使われるし、もちろん人生という意味もある。vie de何々というと、何々伝。そういうぐあいに大変豊かな感じですが、そのかわり、一つ一つのことばが機械的機能的に動かない。
これは専門ではないのでよくわかりませんが、その雑誌に書いてあったとおりに言えば、フランス語は保守的で、新造語をきらうので、理論物理学だとか生態学だとかの、学問の新しい領域には必ずしも適切でない、というのです。純血であることは、ある意味で弱くなることかもしれませんね。その点、日本文化は雑種文化でしょう。純粋性においては欠けるが、生命力は強い。日本語は、そういう強味をもっているかもしれません。
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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:06:38 | 显示全部楼层
第十二課 水仙

越前岬という日本海にのぞんだ断崖に咲く水仙は、野生水仙である。剣型の細い葉と、白または黄色のかわいらしい花を咲かせるこの草は、数すくない冬の花の中でも清楚な感じがして愛好家も多いのであるけれど、越前水仙といわれるものは、野生のためか、都会地の温室咲きの同種の花より、一見して強靭に見える。歯の色も濃緑を心もち増していた。波の打ち騒ぐ強風の丘で育ったためか、強靭にみえても野生であるだけにいっそう可憐にみえぬでもなかった。昨今は、この越前岬に近い、北陸本線の武生駅、福井駅などで、列車が到着すると、水仙を売る、いわゆる花売り娘がいて、小綺麗な金籠に球根をつけた水仙の子束を窓々へ売り歩く。最近、福井県では、この野生の花を「県花」とした。
ところで、この物語に出てくる花売り娘のきみ子は、野生の花が、こんなにまだ人眼にふれないころ、越前岬から、崖にそうて敦賀の方へ約二キロばかり入りこんだ四ヶ浦の字立神に生れた。きみ子は十七で死んだが、十四歳のころから水仙を売っていた。というのは、彼女が生きた戦後直後のころは、まだ、立神の部落の背後にある野生水仙は、駅売りに出るほど有名ではなかった。内職程度に花を切り、これを菰に包み、敦賀や武生あたりの商家へはこんで、正月用の供花に売ったのである。水仙の咲く村々は、断崖に面していたから、耕地は少ない。山に入って炭を焼くぐらいが農家の副業であってみれば、水仙売りはどちらかというと女子たちの恰好の副業といえたかもしれない。戦争中でも、季節がくると、越前の山を、はるばると徒歩で越え、三里の道を武生まで水仙を売りにくる女たちの一行が見られた。

きみ子はその年の十二月二十四日の朝、父親の仙吉と山へのぼり、球根ごと水仙をぬいて、一日の分を菰につつんで下りてくると、その朝にかぎって、食事の時に、
「お父、鉄砲の音がしておそろしい」
といった。しょぼついた眼の父親は、ふいに娘のいった言葉にぎょっとなり、
「鉄砲てそらなんや 猟師がおるんか」ときいた。
「猟師やない、外国の兵隊さんや」
ときみ子はこたえた。
きみ子が、朝方に早く立神の部落を出て海べりを通るころには、背後の南条山系の波状の峯から太陽があがったが、それでも、道は山陰になるので暗かった。その暗い山陰に何台ものジープが止っている。敦賀市からきた進駐軍の兵隊が猟銃をかついで鴨をねらっているのだった。鴨といえば、この海岸は日本海辺でも有数の鴨猟場といわれた。当時はまだ占領下であったから、日本人で鉄砲をもっている者はなかった。村の者たちは、千本ハゴと称する藁シベにとりもちをつけたものを鴨の下りそうな岸べにまいておいて、羽をいためた鴨を手掴みにするくらいが関の山である。いつやらほどからきみ子の通る道に外国兵のハンターがきて狩猟するようになった。
外国兵たちは、白い顔をした兵隊もいたし、黒い顔をした兵隊もいた。どの顔もきみ子には異様にみえる。眼が青いばかりでない。頬ぺたにうぶ毛のような毛が生え、手の甲に長い黒毛が生えているのが気もちわるかった。
きみ子は、この兵隊たちと途中で出会うと、海べりをよけて通った。兵隊たちは、きみ子が背中に水仙を負っているので、微笑をおくる者もいたが、何やらわけのわからぬ言葉で、からかう言葉を投げつけ、口笛をふきならして、せまい道を通せんぼしたりする。しかし、きみ子が顔を赧らめて通りすぎると、それ以上、追ってくるようなことはしなかった。海べりの淋しい道だったから、かわいらしい少女とあったよろこびから、そのようなふざけ半分な仕種をしてよろこんだものと思われる。
しかし、きみ子は、兵隊が鴨を撃つ鉄砲をもっているのが恐ろしかった。きみ子は、戦争中、立神の漁夫で、蓑をきて山へ入った者が猪とまちがえられて射殺された日のことをおぼえていたからであった。猪とまちがえられれば鉄砲に撃たれるということは、それ以来、村じゅうに喧伝されていたので、きみ子は水仙をつつむ菰のいろが、きつね色にみえ、遠くからみると、猪のようにみえるのではないかとおびえた。
「恐ろしゅうても、アメリカさんは、そんな間違いはせんやろ。日本の鴨をとって喰いたいだけなんじゃ」
と父親はいった。娘がその日も水仙をかついで家を出るのを、父親はいつもの顔で見送った。炭焼きを仕事にしていた父親は、この秋に、山で怪我をしたのがもとで、右足の手術のあとが芳しくなく、冬じゅうはぶらぶらしていなければならない境遇だった。娘と水仙をひきにゆくのが精一杯である。娘が稼いでくる金が越年の借金払いとなった。手を合わしたいほどの感謝の心で、娘の出るのを見送ったのであった。
娘は浜へ下りる山角までくると、くるりとふり向き、いつものように手を振って村の家の方角へ笑みをなげた。しかし、この笑みは父親にはわからなかった。娘のたっている背後は荒れた海であった。
高波が大きくうねって岩を噛んでいたのである。

刃物問屋の村上のおかみは、水仙を売りにきたきみ子の顔が、例年にくらべて、妙に蒼くみえ、むくんだような瞼をしているのに気をとめた。
「きみ子さん、どないしたん。あんた、顔いろがすぐれんなあ」
床几に坐らせて、店の者が茶をはこんでくるあいだ、じろじろと花売り娘の装りをみてみると、どこか妙な気がした。というのは、ひどく着くずれがしていたからだ。
いつもなら、手甲も脚絆も痛ましいほど強くしめつけ、小さなふくらんだ赧い手に霜やけをうかべてはいるが、きみ子はきりりとしまったかんじがしていた。ところが、その日にかぎって、襷もかけていない。どことなく帯の結び具合もしどけなくみえる。おかみはめをかげらせた。
「どうしたん、きみ子さん、今日はおかしいやないか」
きみ子は心もち顔に血をのぼらせた。
「べつに」
といったが、すぐに顔を伏せた。
おかみは花の代金を払ってから、なおもきみ子のくずれた装なりをみていたが、ふと、この娘は女になったなと思った。それは年輩の女だけが感じとる勘のようなものである。そう思うと、おかみはきみ子に何もはなすことがなくなった。
「気ィつけておかえりね」
とおかみはいった。きみ子は片頬に笑みをうかべて、また次の得意先へ花菰を背負って消えていった。
きみ子の顔いろが蒼いことと、どことなく元気のないのは、翌日もそうであった。しかし、この娘の変化を、もっと早く感じとったのは、足のわるい父親であった。仙吉は、空になった菰を土間にたてかけて、表の川で手を洗ってからあがってくるきみ子が、いつものようにはしゃいだ声で、得意先での話をしたり、途中で出会った村人のはなしなどしないのを先ずいぶかった。
仙吉は、娘が暗くなってから帰るので、びっこの足をひきずりながら、囲炉裏に火を焚き、夕食の用意をして待っているのが習慣である。杉皮ぶきの、平べったい石置き屋根は、海からじかに吹きつける風で、たえずゆらいでいたが、ゆれている五燭光の裸電球の下に、腹をへらした娘がすわって、どことなく沈んだ気配で箸をとるのをみて、こういった。
「きみ。どないかしたか。顔いろがすぐれんぞ」
「ううん」
ときみ子は首をふった。
「なんでもない、お父、なんでもあらへん」
「寒うなったで、風邪をひいたら町へ出るわけにもゆかん。気ィつけんとあかんな」
こんな時、このヤモメの父親は、早死にした母親のことをすぐに思いうかべる。きみ子が母親にであることもそれに拍車をかけるのだが、母親が生きておれば、この娘にこんな苦労はさせないものをと思うのである。父親は、それでも、三杯の飯をおかわりするきみ子の食欲をたのもしそうに眺めていたが、
「どうや、アメリカの兵隊さんは相かわらず鉄砲もって、浜へ出てるか」
ときいた。
一瞬、きみ子はもっていた箸を静止させ、はさんでいた沢庵の切れを膳に落した。しばらくしてから、
「おる」
といった。
「そうか、みんなジープに乗ってくるんか」
「うん、ジープを山のはなに止めておいてな、岩のかげにかくれて、鴨の来るのンを待っとる」
「撃った鴨は誰がとりにゆく」
「河野の村じゃ、漁師さんがええ日当もろて、海へ船だしてるはなしや」
「ほほう」
と仙吉は、足さえよかったら、舟をだす仕事ぐらいは出来るにという顔になって、
「黒んぼの兵隊もいるて、ほんまか」
ときいた。
「おる」
ときみ子はこたえた。このとき、きみ子はなぜか、見ぶるいを一つした。仙吉は、その娘のおびえた顔をチラとみたが、すぐに歯をだして笑った。
「わいは、鉄砲がきょうといんじゃろ。鉄砲は鴨撃つためにもっとるんじゃから、安心せい。きょうといことあらせん」
と仙吉はいった。
きみ子はいつまでも、箸をもったまま、ほかのことを考える眼つきだった。
(未完)
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 楼主| 发表于 2007-10-12 12:07:06 | 显示全部楼层

きみ子の顔いろは、正月がすぎるといっそう蒼くなった。正月は水仙を売るのも休んだが、旧正月の二月がくると、また近くの町々へ売りにゆかねばならなかった。町の人びとの中で、旧正月を正式の正月とする習慣の家があったからだ。二月は雪が深くなった。水仙は、雪深い渓間にわけ入って岩かげの地面の出た所を掘らねばならない。これには仙吉も二倍の時間がかかった。岬から立神にかけて、段丘状になったこの近在は、うしろに崖のような山がせり上がっていたから、風もひどく、雪も北風をうけて早く凍った。仙吉のひく水仙は少なかったけれど、これは雪道を歩いてゆくきみ子の足どりと並行して、都合のよいことであった。雪道は三倍の時間がかかる。
三月に入ると、黄色い水仙が雪解けの段丘に咲きこぼれた。これは春のしらせだった。山々の谷川は水が湯気をたてて流れ、海へ落ちる水は茶色くよごれてゆるんでいた。黄色い春水仙をひいて、三月二十二日の朝、きみ子は、相当の荷を背負って村を出たが、出がけに仙吉の方をふりかえって、
「お父、薬はまだあったか」
ときいた。薬とは、武生の町の薬局で買ってくるイヒチオールのことである。仙吉はまだ左足の膝関節が痛んでいたから、油紙にのばした黒いイヒチオールをとりかえとりかえ貼っていなければならなかったのだった。仙吉はいったん家の中へ入ってみて、薬函をあたってみてから、
「そうやな、買うてきてもらおか」
といった。
きみ子はうなずいて、坂道を下りた。風のつよい日であった。海からふきあげてくる強風は、それでも、真冬のように冷たくはなかったけれど、仙吉が立って見おくっていると、軀が押し倒されそうなほど強かった。
仙吉は、きみ子は荷を背負っているから、いっそう風をつよくうけて、足をとられはしないかと、岩の端まで出て浜道の方を眺めた。
きみ子が敦賀の方へ急ぐ姿は点になってみた。仙吉は安心した。日ごろから顔いろがすぐれないのが気になっていたからでもあるが、二、三日前は、たべものが腹にあたったといって、きみ子が嘔吐していたのも気になった。いつまでも娘の稼ぎにたよっているわが身が悔やまれると同時に、しつこい足の関節の痛みがかなしかった。
仙吉は、点のように見えたきみ子の姿を、最後だとは思わなかった。武生の薬局で、イヒチオールを買ってくるといって出たのであるから、水仙さえ売れてしまえば、夜になるまでには帰ってくるものと信じていた。
ところが、その日、きみ子は帰らなかった。仙吉はびっくりした。寺の鐘が鳴るのは六時である。その前後には、かならず、岩の端まで出てみると、白い浜道をきみ子がこっちへ急いでくるのがみえるのだが、仙吉の眼には、海の荒いつぶて石の磯が打ちつづいてみえるだけで、きみ子の姿はなかった。日によっては、おそい日もあったので、八時ごろまで心配はしなかったが、九時になっても帰ってこないと、不安がつのった。
風のつよい日だったから、なおさらである。途中の道で、踏みはずして海に落ちでもすれば、大波は荷をかついだ少女ぐらいはひとたまりもなく呑みこんでしまうだろう。海すれすれの低い道もあったし、岩と岩のあいだをとぶようにして渡らねばならない嶮しい崖ぷちの道もあったから、不安はつのった。

きみ子の死骸は翌日の朝早く、米之浦の岩壁近くの、黒い大岩がとびとびに出ている荒磯で発見された。米之浦の漁師の一人が、凪いだ海に舟をだして、たこ壺をあげにきていた。発見されたそのあたりは、磯近くでもかなり深いところなので、たこ壺がいくつもしかけてあった。漁師は岩と岩のあいだを竿をつかって舟をくぐらせていたが、大岩の下方には洞窟のような穴があいて、紫紺色の水が渦をまいたような恐ろしい渕がある。その一角に目をやった時、まるで、絨毯かなんぞのように、こまかい花の散った水面をみて息を呑んだ。
<なんじゃろ!>
漁師は不思議に思って、舟を近づけてゆくと、それは水仙の花であった。花売りの者が、菰につつんだままを、投げ捨てたのでもあろうか。荒波束ねた縄を切られた水仙は、いちめん刺繍をほどこした敷物がうかんでいるように見える。
漁師はしばらくその水仙の散ったあたりをみていたが、急に眼を光らせた。菰づつみの下に、何やら灰いろのかたまりのようなものが見えたからだ。
<人間か!>
そんな気がした。舟をさらに近づけて、舳に寄ってしゃがみこんでみると、あっと声をあげた。
手が出ていた。しかも、その手は白かった。まだ子供のような手だった。水仙の菰づつみの下から、まるで、菰を抱きかかえるように片手を廻している。竿の先で漁師はついと菰づつみをうごかしてみた。すると、菰づつみといっしょにその手はうごいた。と、はずみに、菰にかくれていた黒髪がさっと墨汁を刷いたように海面にうき出た。
<女の子だ。>
漁師はびっくりして、すぐさま岩をとびこえ、磯の道へかけ上ると、四ヶ浦の駐在所へ報告した。この駐在所には、チョビ髭を生やした五十すぎの猫背の巡査がいた。巡査は漁師の報告をきくと、いそいで、これを朝日町の警察にしらせておいて、とにかく、漁師の案内する現場へきてみた。
なるほど女の子であった。木綿絣の半纏をきて、赤い襷をしめている。手甲も脚絆もしたままである。米之浦の若者たちを手伝わせて、死体を磯に上げてみると、
「こりゃ、立神の娘だ」
という者がいた。きみ子が、毎日のように、米之浦を通って武生へ出る姿を見おぼえていた男だったのだ。
「ちがいねえ、色の白いぽっちゃりした娘じゃった。水仙を売りにゆく娘じゃった」
駐在巡査は下顎をふるわせて説明をきいていた。村の者たちはいった。
「こりゃ、自殺じゃ。毎日歩き馴れた道を足をふみはずして落ちるようなところでもなかろ。自殺にちがいないじゃろ」
「いんや待てよ」
と若者がいった。
「荷物の具合からすっと、昨日の朝方に通ったんじゃろ、風のつよい日じゃった。進駐軍の兵隊が大ぜい鴨撃ちにきていたでよ」
「……」
駐在巡査は若者をにらんだ。
「進駐軍が何かしたか」
「いいや、知らね」
と若者はいって、首をひっこめた。当時、近くの敦賀市では進駐軍の集団暴行事件というのがあって、日本の子女が恥かしめをうけて問題になったことがあった。ひょっとしたら鴨撃ちにきていた兵隊が、通りすがった花売りの娘にいたずらをしたのだとも考えられた。だが、確証のあることではない。村の者の一人が、
「ほんまにお前見たか」
と若者を叱りつけるようにきくと、
「うんにゃ。わたしただ鴨撃ちのジープが何台も走るのを見ただけじゃ」
といった。
「確証のないことはいうてはいけんな」
駐在巡査は髭を手をあてていった。
「とんかく、お父に知らせい」
きみ子の父親、櫛田仙吉が、林左衛門をつれて現場にきたのはそれから二時間後であった。仙吉はびっこをひきずって岩場のかかり口にくると、荒莚に寝かされている娘をみて、白蝋のように顔色をかえた。
「きみ、きみ」
仙吉は走りよって、娘の死骸にしがみついた。きみ子はうす眼をあけていた。顔はまだ赮みをみせて、生きているようにさえ思われたが、冷めえた軀は氷のように冷めたかった。
「きみ、きみ、なんでこんな目におうた。なんで、死んだんや、いうてけれ」
びっこの父親は泣きじゃくった。娘はものをいわなかった。
埋葬直前に死体解剖が行われている。県警本部の鑑識医が三名、立神の部落に現れて、菩提寺の庭に幕を張り、一般の立入を厳重に禁止してすすめられた。いったん棺桶に入っていたきみ子の骸はすでに紫斑が諸所に出ていたし、春先のことでもあったので、くさりかけていた。白マスクをかけた医師が慎重に執刀した。その医師の顔いろは変った。
「お父さん、娘さんには、恋人がありませんでしたか」
都会の医者はやさしく仙吉にたずねた。
「知らん」
と仙吉は首をふった。
「あの子はふしだらな娘じゃなかった。そんなかくし男をもつような子じゃなかった」
と仙吉はいった。
医者はうなずいた。もしそれが事実だとすれば、米之浦の青年の推定が濃くなるのであった。当日の現場に進駐軍兵士がおれば、暴行したのは彼らかもしれない。
父親はまくの外に出された。
「妊娠していますね……腹を切ってみましょう」
慎重な腹切開が行われた。下腹部を十字に切って、膨張した子宮をとり出した。
立会った管轄警察署長は、駐在巡査に小声で何やら言いふくめてから幕の外へ出て行った。
「お父さん、やっぱり、娘さんはきれいな軀でしたな。誰にもいたずらなどされていませんでしたな。足をふみすべらせて、朝の海へ落ちなさったんでしょう。……風のつよい日でしたからな」
署長は駐在巡査に代ってそのように仙吉にいった。櫛田仙吉は顔を下げてうなずいた。
昭和二十二年の春の出来ごとである。
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