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谁有"「縮み」志向の日本人" 的日文版的?

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发表于 2007-12-3 22:19:16 | 显示全部楼层 |阅读模式
「縮み」志向の日本人
  著: 李御寧
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发表于 2008-1-9 20:53:32 | 显示全部楼层
「縮み」志向の日本人

李御寧 著

第一章 裸の日本論
1 「日本論」祭り


 幻の衣を着た「日本論」
 私はいまここで鬢(びん)に白いものが混じり出した大学教授として、もしくは〇・二の近視メガネをかけた文芸評論家として日本を語ろうというのではありません。それよりは、まず小学校時代の子供にかえって日本の姿を見、考えてみたいと思うのです。書斎の本棚にさし込まれた本――何よりも日本について述べているあのたくさんの本はしばらくうっちゃっといて、小さな肩に背負ったランドセルの白いノートとちびた鉛筆だけを持ちたいのです。ことに欠かせないのは柔らかでよく消える消しゴムかもしれません。
 ただのアレゴリーではありません。ほんとうに私の日本語やその主な知識は、太平洋戦争が終わって、韓国が植民地統治を脱するときまでの小学校の教室で得られたものです。それなのになぜ私は、貧弱な日本語やその知識を省みずに、むしろその少年時代にかえって日本を語ろうとするのか。この大胆にして不思議とも思える冒険をあえてするのは、よく知られているアンデルセンの童話『裸の王様』が、私にその勇気を与えてくれたからです。大人は、群衆が作りだした幻想の衣を通じてしか王様を眺めることができません。たとえ王様が裸であるのに気づいても、間違っているのは自分のほうだと思って、よくそのことを口に出せません。なにも着ていない王様の素肌を見つけたのは子供の眼でした。と同時に、それを大きな声でいえたのも子供の口でした。
 これまで日本について書かれたものはフランスのファッション雑誌のように華やかであり、それだけに流行したものも数多くあります。そこには、日本人、外国人を問わず、立派な学者、芸術家、評論家をはじめ、観光の旅費のタシにするために書かれた無名の旅行者のものにいたるまで、きりがありません。日本に一日だけ滞在する外国人は秋葉原に行き、一週間では富士山を見に行き、一ヵ月を過ごす人は日本論を書くという次第ですから。
 戦前はともかく、戦後に日本で著わされた日本論の著作は少なくとも千冊以上に達しています。『菊と刀』『「甘え」の構造』『タテ社会の人間関係』など、その題名がとられて、のちに流行語となったものもあり、逆に「日本株式会社」「エコノミック・アニマル」など、流行語を本の題名にしたものも少なくないのです。日本で日本論がベストセラーになるということは、御神輿(おみこし)になるということを意味します。すぐ人々がそれを担(かつ)ぐお祭りがはじめられるのです。
 それらの流行語は、新聞では見出しに、雑誌では巻頭座談会のトピックスに、また放送では時事解説者の合言葉として使われています。書き手にしてみれば、かなりアカデミックな講堂でつくられた用語が、いつの間にか演歌の花道を通っているのです。
 そのために、このようなお祭り騒ぎを通じてでなく、直接自分の眼で日本文化の素肌を見るということは、ほとんど不可能な状態にあります。自分も知らないうちに、「群衆と流行がつくりだした幻想の衣」というヴェールがかぶせられているからです。そんなわけで、私は小学校の子供となって、日本文化の裸身を見て論ずるという、小さな決心をしてみたのです。

 「甘え」は日本独特の言葉ではない
 日本人が書いたものであれ、外国人が書いたものであれ、その日本論に「幻想の衣」がかぶせられがちなのはどうしてでしょうか。そしてその虚構を剥(は)いだ子供の眼とは、そもそもなんなのか。それを見るために、日本論祭りの御神輿のひとつとなった『「甘え」の構造』を例にあげたいと思います。土居健郎氏のこの本は「日本人論」それ自体を明らかにするうえにおいてもまた欠かすことのできない名著だからです。私がこの本に興味を寄せた理由は、内容そのものより、日本人独特の心理を掘り下げようとする発想法とそれをのべてゆくその論理の展開にありました。
 土居氏は「日本人の心理に特異的なものがあるとすれば、それは日本語の特異性と密接な関係があるにちがいない」と、その方法論を明確にしています。そうして手に入れた玉手箱がすなわち、「日本語独特の語彙であると確信」した――「甘え」という言葉でした。
 しかし、はたして「甘え」は日本人独特の語彙か、これをまず問いたださなければ、その玉手箱から出るものは、空しい煙だけということにもなりかねません。
 ところが、はなはだ恐縮な話ですが、氏自身もあとで是認しているように「甘え」という「言葉」は、日本からジェット機で葉巻一本吸っているうちに着いてしまう、すぐ隣の国にも路傍の砂利のようにころがっているのです。韓国語には甘えよりもその使い方がもっと細分化された「(オリグアン)」と「(ウンソク)」という言葉があり、それがまたさかんに日常生活で使われています。「甘えん坊」は「(ウンソクパジ)」、「甘える」は「(ウンソクプリダ)」といいます。「甘やかす」は「(ウンソクバツタ)」、「甘える様子」は「(オリグアン)」です。ことばの意味ばかりでなく、韓国の子育ての大きな特徴をなしていますから、「甘え」は日本より韓国の精神構造とより深い関連があるといってもいいくらいです。大げさに痛がったり、苦痛を誇張して訴えることによって他人にもたれかかる「(オムサル)」ということばなどは、たんなる「甘え」よりずっと複雑です。
 それなのにどうして、土居教授のような立派な学者がそんな大きな過ちを犯したのでしょうか。客観的な論拠なしに自己の信じていることをすぐ確信してしまうのが、つまり日本人独特の心理の「甘え」だということをみずから証明してみせるためだったとは信じられません。それは土居教授個人に限らず、明治維新以来、日本人の脱アジア的思考の産物ではないだろうかと思われるのです。すなわち、土居教授が、「甘え」が日本独特の語彙であると「確信」したのは、日本語の達者なイギリス婦人との対話からです。彼女はみな英語で話していたのに、子供の幼年時代のことに及んだとき、急に日本語で「この子はあまり甘えませんでした」とのべたというのです。なぜ、そのことだけ日本語でいったのかと聞いてみると、それは「英語ではいえませんと答えたのである」ということなのです。
 そうだから甘えが日本独特の語彙であるというじつに珍しい論理は、明治の開化以来、日本人にとって知らず知らずのうちに、英語がすなわち西洋全体あるいは世界の言語として刻み込まれているという証拠でもあります。そうとでも思わないと、英語にないからそれは日本語の特異性だという論理が、すぐに生まれてくるはずがありません。そこに「日本と日本人論」の「幻想の衣」を解くカギがあるかもしれません。
 日本人がこれまで書いてきた日本・日本人論には、『「甘え」の構造』のように英語にないから日本語の特異性だという、主として英米人との単純比較を通じて得られたものが、かなり見受けられます。もう少し広い視野で書かれたものであっても、白人(欧米人)文化との比較論の域を出ていません。
 その証拠に、土居教授がイギリス婦人の代わりにフランスやドイツの婦人を考えてみる可能性はじゅうぶんにあっても、韓国婦人はどうかとなると、それはほとんど期待できないことでしょう。「甘え」が日本だけのことばであるかどうかを知るには、欧米諸国より先に日本語ともっとも類似性の多い韓国語から調査してみる方が、正常な思考というものです。

 海草と人糞の日本論のウソ
 それができないから、意外にも日本人が日本特有の精神構造であると指摘しているもののなかに、じつは韓国や東洋一般の普遍的な特性に該当する事がらが多くあらわれているということがあるのです。複雑な例をあげるまでもありません。たとえば、樋口清之さんは「世界の文明国の中で、海草を食べる国は日本だけです」といっていますが、ひところ韓国産の輸入規制をめぐって論議のかまびすしかったノリは海草ではないというのでしょうか(もっとも韓国は文明国ではないといわれれば、それまでですけれども)。
 また梅棹忠夫さんを始め日本人学者五人の共著である『日本人の心』という本では、「人間の排せつ物を野菜にやる有機物のサイクル、人糞を肥料に使うとはおどろくべき発見」と声を大にして主張しています。しかもその「高度の農業技術」は他の民族には見られない、ひとり日本人だけの創案だとも断定されています。しかしほんとうに驚くべき発見は、盲人であっても韓国のどこかの農村に、ほんの十分ほど立っているだけで、その驚嘆してやまない有機物のサイクルが日本民族特有の「高度の農業技術」でないことを鼻だけで知ることができるのに、なぜそれを日本特有のものだと確信するのかということなのです。
「甘え」の場合と同じように、欧米社会になければ日本独特のものと短絡させてしまう例の習慣的思考のためです。人糞肥料の日本論者らは、「『日本人は野菜に人糞をかけて食う』と書いてあるという」フランスの教科書を、その根拠にしていたのです。
 それはともかく、私は大して名誉でもない「甘え」やとくに芳しくもない人糞肥料の専有権をめぐって論争する気はすこしもありませんし、ある特定の学者の著書に論駁を加えるのも、私の目的とするところではありません。私のいいたいのは、これまで欧米人が書いたもの、日本人が書いたものを問わず、日本論のその流行的テーマを扱っている一般的な本が、ときに日本とはあまり関係のない「幻の衣」をまとったものであり、その原因が欧米対日本だけの比較という図式から来たものである事実を明らかにすることにあります。白人文化の対立概念は日本文化ではありえません。日本を含めた黄色人種ではありえても、特定の民族の狭い概念をそこにあてはめるわけにはいきません。ところが、直接日本とそれを比較したときには、本来東北アジア圏の普遍的な特性が日本だけのそれであるかのように誤解される論理の飛躍が生じてきます。
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发表于 2008-1-9 21:17:01 | 显示全部楼层
2 フォークと箸


 東洋を忘れた視線
 一国の文化が、魔法の杖で一夜のうちに作られた城ではないことを知らない日本人はいないでしょう。そうでありながら、日本人が西洋ばかりでなく、日本の文化にもっとも長い年月にわたって影響を与えた中国や韓国との比較を通じて、自己の特性を発見しようとつとめた例は、そう多くありません。日本的思惟方式の特性を仏教文化のコンテクストから捉えている中村元さんですら、韓国の仏教のことにはあまり触れていません。日本に仏教を伝えた韓国の仏教、日本人が昼夜をわかたず眺めることのできる百済観音を生んだもっとも近い韓国の仏教をです。
 最近、日本の一部専門学者の間には、日本の歴史の源流を知るために韓国の言語や古代史に関心を寄せる人々もいますが、一般的な日本人論の類書はいまだに欧米一辺倒の立場やその比較によってしか書かれていないのです。
 これと同じことが欧米人によって書かれた日本論でも起こってくるのです。かりに韓国や中国の文化をまったく知らない欧米人が、日本人の食事する光景を見たとしましょう。彼らにはフォークの代わりに箸を使い、パンの代わりにご飯を食べ、それを皿ではなく、茶碗によそって食べるすべてが不思議に思えることでしょう。そしてそれはみな日本的なものだと信じることでしょう。
 実際、ヨーロッパ最大の知識人の一人であったロラン・バルトの日本論が、まさにそれでした。気の毒にも彼は『表徴の帝国』で「日本料理の価値をうむ唯一の要素」を「ねばねばしていながら同時にまたぱさぱさしている煮た米」に求めているのです(パリには中華料理店がたくさんあるので、さすがにバルトも中国と比較して日本料理を論じてはいますが、不幸にも中華料理のメニューにリ・ナチュレル[めし]と書いてあるのを見ていなかったようです)。「破片であり軽い凝固物」である「煮た米」をさらに特徴づけるものとしてあげた例が、また「二本の箸の一突きでつきくずされる時」というものです。
 しかし、欧米人ではない韓国人が日本人の食事風景を見たとしたら、どうでしょうか。ご飯を食べるのも、箸を使うのも、すこしも珍しいとは思いません。また箸以外にも匙(さじ)を使ってご飯を一杯一杯茶碗に盛って食べることだけが異なるものとして眼に映るでしょう。だから、韓国人には、日本の特異性がご飯や箸にあるのではないということがはっきりわかります。つまり、日本だけの特性をいますこし細かく見分けるには、欧米人の眼より韓国人の視線ということになります。
 ところが、西洋人がどう食事するのかは知っていながらも、韓国人や中国人が箸を使ってご飯を食べるということ、そしてそちらのほうがむしろ本家であるということを知らない日本人がいるとしたら、どうなるでしょう。結果的に欧米人と同じく、箸を使うのと米の飯を食べるのは日本だけの特性である、と思い込むのはいうまでもありません。日本人の書いた日本論が欧米人の書いたそれと大差がないように見えるのも、そのためです。日本には、アルファベットからなる英語に「甘え」に当たる語がないのは知っても、(カナダ)からなる韓国語に「甘え」があるのはよく知られておりません。リンカーンやカントを勉強する日本人は多くても、世宗大王や李退渓を知っている人はごく少数しかいないからです。
 ですから、真に日本的なものを発見するためには、欧米の眼ばかりでなく、言語、風俗、文化などが酷似しており、またむかし日本文化にも大きな影響を与えた韓国の眼をこそ通すべきだという常識論があっても、日本人がそれを実践することはなかなかむずかしいというわけです。

 日本は本当にタテ社会か
 ルイス・フロイスの日欧文化比較に日本の子供たちの風俗として指摘されたものをみると、二十四項目のうち、本当に日本的な特異性としてあげられるのは、わずか四つか五つにすぎません。箸を使うことをはじめ、最初に読み方を習ったのちに書き方を習うこととか、「幼い少女がほとんどいつでも赤児を背中にくくりつけて歩く」ことなどは、韓国の風俗とすこしも違いません。韓国の風俗を知らないフロイスの見聞だけでは、どれが本当の日本人の特性か、つかめないのです。
 ジャンボ・ジェット機のとびかう時代になっても、この事情はあまり変わっていません。日本が経済大国になったのは日本人の団結力によるものであり、その画一主義的共同体的精神を生み出したのは背中に子供をおんぶする習慣から来たものであるという説が、現在でもまじめに書き続けられているからです(残念ながら、同じく子供を背中におんぶして歩く韓国は、そういう説にもかかわらず、これまで経済大国になれずにいますけど……)。
 そしてもう少し高級な文化論になると、フロイスの観点はルース・ベネディクトのそれに移ります。ただ違いがあるとすれば、より抽象的であるため、アマチュアにはすぐに識別がつかないということだけです。ベネディクトの代表作『菊と刀』には「義理人情」とか「恥」や育児法に至るまで、むしろ儒教文化的、韓国的な特性といわれる部分が、みな日本独特なるものと述べられています。
 韓国のことをよく知らず、その文化の影響を忘れてしまっている日本では、箸が日本的なものであるかのような『「甘え」の構造』が書かれ、「タテ社会」論が書かれています。タテ社会の構造でしばしば言及される、そのタテの序列意識を、日本語の独特なものと考えている敬語法に求めたりする人もいますが、実際のところ、敬語の本家は韓国なのです。韓国の敬語法は、日本とは比較にならないほど細かいし、また複雑に発達しています。
 ですから、イザヤ・ベンダサンは日本人かユダヤ人かという話ほど無意味なものもありません。どちらであってもかまわないのです。『日本人とユダヤ人』の著者が羊の肉(遊牧)と米(農耕)を対応させて日本的特性を説明しているかぎり、どちらでも双方の考え方にはそれほど違いはないからです。
 日本人が欧米人とは異なる視座から日本的特性を発見しようとするなら、韓国やその他の東洋の国について欧米人以上の知識をもっていなければなりません。ですから、日本人が欧米社会でなく韓国社会を詳しく研究したとすれば、かつて韓国の村には日本の「若衆宿」のような体制が存在しなかったとか、そのようなことからみても、日本の人間関係はタテよりもむしろヨコにより強い特性を帯びていると、正反対のことを書くようになったかもしれません。韓国語をよく知っていたなら、土居教授は「甘え」ということばよりも、かえって依存心ならぬ独立心を強調する日本語の「大丈夫」や「裸一貫」ということばのユニークさに注目したはずです。なぜかといえば、同じ漢字を使用しながらも、韓国語で「大丈夫」といえば、文字通り「男」という意味でしか使いません。そして「裸一貫」ということばも韓国語にはありません。これはみな男らしい独立心をあらわしている現象なのです。
「日本人は中国人や韓国人と同じ漢字文化圏に属していながら、それにまた、儒・仏・仙(日本では神道)三教を共存させるほとんど同じ宗教的態度と類似したことば、米の生活様式を持っていながら、なぜひとり日本だけが近代化に先駆けることができたのか。どうして日本だけがひとりアジアの例外国として工業経済で欧米と同じ隊列に加わることができたのか」――これが欧米人の質問であり、また日本人からすれば脱アジア的な響きのする自負の声であります。そうであるとするなら、欧米人や日本人自身が明らかにしようとする日本的特性は、欧米人との差異よりも同じ東洋人の韓国人や中国人とのそれがもっと強調されてしかるべきなのです。

 西洋文化のヒマワリ
 明治初期に日本に来ていたドイツ人のベルツ博士は、横浜の波止場で雷が落ちているのに悠々とタバコを吸っている日本の船乗りを見て心底びっくりし、日本人は沈着で泰然たる国民だと論評しています。欧米人の眼からすれば、日本人は東洋的な特性があるのんびりした気質の持主と映るかもしれません。しかし、より大陸的で儒教的な気質を持っている韓国人の眼からすれば――日本を旅行した十八世紀末、正祖代の官吏、徐有素の『燕行雑録』をひもといてみると――「日本人の性情はきわめて躁急、軽薄で、おのれに利益があれば、大いに喜んでミソサザイみたいに振舞い……一人として度量の広い人間はいなかった」ということになっています。
 現代においてもしかりです。米国の詩人ギルバートは茶室の露地の飛石を見て、日本人を世界でもっとも自然の美を愛する審美的な国民であると礼讃したことがあります。門から部屋まで最短距離で行くには直線の道をつけなければならないという欧米人とはちがい、日本人は曲りくねった非機能的な道(飛石)を作って庭をいろいろな角度から鑑賞するようにしたというわけです。しかし、韓国人にすれば、日本の飛石は自然の美とは反対に、人工的、画一的なものとしてうつるのです。自然に融けこんで生きようとした韓国人の眼には、飛石という人為的な道をつけたこと自体が、不自然とうつるのであり、もっとも自然な人間の歩幅や歩き方まであらかじめ飛石で限定させてしまったことを不自由と考えるのです。
 直線的な道に象徴される人工的な文化のなかで育った米国の詩人には、日本の飛石が自然愛好の精神に見えたかもしれませんが、歩いているうちにおのずと道はできるという考えを持って育った韓国の詩人には、それこそ人為的なものとしかうつらないのです。
 性急さを恐れずにいえば、日本と日本人論は韓国人の観点、もしくは韓国の文化風俗との比較を通して書かれたとき、その特性により接近できる可能性があるのではないだろうか、というのが私の考え方です。そしてまた、日本が韓国を忘れているということ、韓国をよく知らないということは、韓国のために不幸なのではなく、日本人自身のためにまずいことなのです。韓国を知らなければ、日本の素肌を知ることがむずかしくなるときも多いのです。つねに欧米文化という太陽に顔を向けつづけるヒマワリ文化では、裸の王様(日本文化)の素肌は見えないのです。
 日本に対する無知は韓国人にもあります。植民地三十六年の紋切り言葉から始まる日本論は、雄弁大会以上のものにはなれないのです。そして私もそのようなひとりであるかもしれません。
 しかし、日本人の好む私小説的発想に基づいていうならば、私を日本論に向かわせたのは、私自身が日本を経験した特異な立場なのです。よく似ていながらも、それでも本能的に違うと感じられる日本の特性を、私はかぞえで八つのとき、小学校の教室で経験しました。日の丸と乃木大将の肖像がかかっている植民地の教室で教わったのは、内鮮一体ということでした。そのためろくに韓国人という民族意識すらもったことがないままに、幼年時代を送ったのです。そうでありながらも、私の文化なのだと強要された日本文化のうち最後まで同化しきれないもろもろの要素が強烈に私の頭の中にこびりついていたのです。
 民族や文化意識をまだ持ち合わせていなかった小学生の経験においても、はっきり自分のものとは異なるものと感じられたあの日本的な異質性、それから書きはじめていけば、アンデルセンの童話の子供になれるかもしれない、という気がするのです。きわめて日本的なあの「確信」かもしれませんが……。
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发表于 2008-1-9 21:17:17 | 显示全部楼层
3 小さな巨人たち


 一寸法師との出会い
 植民地の灰色の教室でようやく文字を習いはじめた子供の眼にまっさきに映った日本の像とは、いったいどんなものだったでしょうか。子供だったので、明らかにそれは森永キャラメルでもあり、王様クレヨンの商標の絵のようなものだったかもしれません。しかし、そのように実在するものは、「日本」の印象というより、ただのお菓子であり、ただのクレヨンが与えている感覚にすぎません。
 子供とは一方、現代文明のなかで生きていく原始人でもありますから、神話的な鋭敏な触角をもっており、それによってこの世界のことや文化を解釈したりもします。ですから、私が一番先に会った日本人も、教室の壁にかかっている乃木大将や、毎日、朝礼のたびに国民宣誓を奉唱していた禿げ頭の校長先生でなかったのは当然のことです。
 私がまず不思議に思った日本人たちは、昔話の路地で会った、あの一寸法師であり、桃太郎や金太郎や牛若丸だったのです。そしてそれらに共通したひとつの印象があったとすれば、小さな巨人たちという点です。
 針が刀となり、お椀が舟となり、箸が櫂(かい)となるその世界では、かすかな息が台風となり、いくら小さい水の波動でも津波となります。しかし一寸法師はカエルのエサになるほどけっして弱くはありません。小さいから、かえって巨大な鬼にも見つからず、自由に彼を攻略できたのです。結局、桃太郎と同じく、大きな鬼を退治して、宝物を取り返してくる小さな巨人のひとりでした。
 これらの主人公は、韓国の説話ではよく出会えない人物なのです。学校で日本語によって聞かされた話ではなく、何百年の昔から田舎の訛りことばで伝わってきた韓国の説話には、バカが賢い人や悪いトッケビ(鬼)と争って勝つ話は多いのですが、小さい子供や小人が自分より大きい大人や巨大な鬼を打ち負かす話はありませんでした。そもそも一寸法師のような縮小された人間が出てくる「小人」の話はそう多く見つかりません。韓国の昔話に登場する代表的なヒーローは、ワキの下にウロコの生えているチャンスゥ(巨人)であり、弥勒(山にある巨大な岩)たちです。そしてぶたれればぶたれるほど大きくなるタマゴ鬼神の話はあっても、ぶたれるほどどんどん小さくなる「頭でっかち尻すぼみ小僧」のような昔話はありません。
 まったく同じ系統の昔話でも、日本のものは韓国のそれとはちがいます。「舌切り雀」と「興夫伝」がそうです。「興夫伝」では、燕の足を折ってそれを糸で巻いてやりますが、「舌切り雀」ではそれが雀の舌となっているのです。足を折ることと舌を切ることは、その残忍さにおいてもそうですが、想像力の細やかさにおいても比較になりません。

 豆と「ワン」の接頭語
 そうみると昔話だけがそうなのではないということに気づくようになります。韓国語には拡大を意味する接頭語はあっても、縮小をあらわすそれはありません。韓国語のワン()という言葉は英語のキングサイズのキングに当たる意味なので、これがある事物の名の上につくと、並以上の大きさを表すようになります。ちょっとした日本人観光客も飲み屋で韓国語で話せるワン・デポは特大の杯であり、ワン・ヌンは大きな眼、ワン・ボルは熊蜂のことです。
 しかし、日本語では反対に拡大の接頭語よりも、縮小をあらわすほうがもっとも一般的なことばづかいになっています。それが日本人の愛用する「豆」であり、「ひな(雛)」であるのです。丸い球体の豆は凝縮した宇宙の形です。そのため、何でも豆の字がくっつけば、にわかに小さく縮まって、一寸法師になってしまうのです。一寸法師を豆太郎、豆助ともいうごとく、豆本、豆自動車、豆人形、豆皿は普通のものよりみな小さく縮小されたものなのです。時代が変わってローソクがランプになり、ランプがまた電球になっても、やはり豆はあい変わらずその頭について、豆ローソク、豆ランプ、豆電球になるのです。ひなも、またひよこを意味したので、ひな人形、ひな形、ひな菊など、縮小語の機能に使われます。
 私が幼いころ、これは自分たちのものとは違った日本のものだという感じを受けたところには、昔話の想像世界であれ、言葉の世界であれ、物の世界であれ、きまって韓国では見つけられない一寸法師の影があったのです。土間の穴に落ちた豆粒を追って他界に行くという日本の「豆話」のように、小さい豆粒を追っていけば、ひな人形とか盆栽のようなあのすばらしいミクロの世界、独特な日本文化を垣間みることができるのです。
 日本では何かを作ることを細工といいます。作るということはすなわち、細かく縮小する工作なのです。それでも気がすまないので、細工の上になお「小」という文字を加えて小細工ともいいます。まるで「豆」「ひな」の接頭語ひとつでは足りないかのように、小型の赤本を「ひな豆本」と接頭語を重ねて使ったのと同じ例です。そうですから体裁などがぶざまだったりすることを日本語では不細工というのです。このように縮小されたものは、たんに小(ち)っぽけなものとはちがい、本来のものよりもっと可愛いもの、もっと力強いものになるということで、異様な特色を帯びてくるのです。
 日本的な特性が事物を拡大するより、縮小するところにあるという印象が、幼かったときの私の脳裡に焼きついたのは、韓国の日常生活用品に比べ、日本のそれがすべて三分の一ほどの比率で縮小されていたからでもあったようです。ご飯を盛る日本の茶碗は、同じ用途に使う韓国のサバルに比べてそうだし、座布団とボリョがそうで、膳、酒盃、扇もほぼ同じ縮小比率をあらわしています。
 昔から中国人と韓国人が、日本のことを倭国、日本人のことを倭人とよんでいるのは、かならずしも日本人の体躯が小柄だからそうしたのではないという気がします。スウィフトのあの『ガリバー旅行記』が、サミュエル・パーチェスの旅行記やドイツ人ケンペルの『日本誌』などからヒントを得て書かれたものではないかという面白い研究(ジョンソン、ウィリアムス、北垣らの共著)が出ているのを見ても、ヨーロッパ人にとっても日本が小人の国のように思われていたといえるのです。

 島国の風土論でいくな
「それは島国だからだ」と、簡単にあの例の風土論を持ちだす人もいるでしょう。しかし、日本人の意識のなかに自分たちの住んでいる環境を島国として考える認識が芽生えはじめたのは、近代的な地図がつくられて西欧文明と接触した以後に普遍化したイメージなのです。日本人の特性を「島国根性」という言葉であらわした最初の人は、ヨーロッパを巡遊して帰った明治維新後の久米邦武だといわれています。じつのところ、日本は狭い国、海に取りかこまれた島国として感覚的に捉えられるほど、その国土が小さいわけではありません。大陸に接しているとはいえ世界屈指の山岳国であり、狭い盆地の韓国より、日本はもっと広びろとした空間、いわば地平線が見える根釧(こんせん)原野や武蔵野の野をもっている国なのです。
 かりに島国という意識が昔から日本を支配していたとしても、日本文化にあらわれている「縮み志向」を、そう簡単に風土論で片づけることはできないのです。同じ島国でも英国の文化型は、まるっきり反対であることを考えてみれば、すぐわかるはずです。彼らが大陸とよんでいるフランス、ドイツに比べて、ものごとのスケールでも、考え方でも、けっして小さいとはいえません。むしろ「縮み」ではなく「拡がり」の文化を志向しているのは、七つの大洋を支配した島国、英国の方なのです。
 いわば外部的な与件のせいでやむなく小さなものになったのではなく、日本人の意識の底に「縮み志向」があったからこそ、進んでそうなったのだと考えられるべきでしょう。だから夏目漱石も「菫(すみれ)程な小さき人に生れたし」といったのでしょう。
 私が大きくなって、一寸法師のような小人の話は日本だけのものではなく、世界のどの国にも見出せ、しいて探してみれば中国にも、また韓国にも二、三の例を見つけられるということや、トンプソンの『説話文学索引』によればT540―T549の異常誕生のひとつとして分類されている話だということを知ってからも、かえって幼いときに焼きつけられた一寸法師と日本文化の関係は、いっそう強く密着して発展していったのです。
 西洋の小人は日本のそれとはちがって精霊と関係があるのだとか、一寸法師のばあいのように小さいがゆえにむしろ強いという逆説とはちがうとかの内容の比較よりは、まったく同じ「小人の話」でも、それがその国で他の話より、いかによく好まれているか、もしくはいかに多く知られているかを明らかにする方がより重要なのです。そしてそれは民俗学者にではなく、子供たちに聞いてみるべきでしょう。一寸法師が日本的だとの証拠は、他ならない異邦の八つの子供にまでも、それが知られているという事実だけでじゅうぶんなのです。
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发表于 2008-1-9 21:18:29 | 显示全部楼层
4 俳句と大豆右衛門


 障子の穴で見る世界
 日本人の想像力の水源である『古事記』や『日本書紀』でも、小さな神様が出てくるのです。茶碗でなく、白鑑(かがみ)の皮の舟に乗り、鷦鷯(さざき)の羽を着た小さ子、粟の茎に弾かれて常世の国に渡ったという小さな神の話が、それです。記紀とよく比較される韓国の『三国史記』とか『三国遺事』には見つけられない神です。
 いや、小人の話だけではありません。文学を学びはじめたとき、私の胸に芽生えた日本文学のイメージも、まさにあの小さな巨人であったのです。世界でもっとも短い形式の詩をつくりあげたのが、他ならない日本人なのです。俳句は漢詩でもっとも短い絶句の半分の量であり、韓国の最短詩形の「時調(シジヨ)」に比べて、ちょうど三分の一ぐらいの長さです。だから、一茶は枕元の行灯に灯をともす小さなつけぎに、あの複雑な人生と時のうつろいを書くことができたのです。たったの十七文字に広い宇宙と四季の時間を表した俳句は、「縮み志向」をあらわす日本文化のテクストなのです。俳句はたんに短い詩であるというところにのみ特色があるのではありません。大きく広い、そして漠然とした世界を、小さく縮小しようとするところに、いわば小さな巨人をつくるところに、そのユニークな美学があるのです。もちろん病臥中のこともありますが、一茶はまたあの広い夜空をそのまま眺めようとはしませんでした。破けた障子の小さい穴を通じて、空を、天の川を見ようとするときに、俳句が生まれてくるのです。それが「うつくしや障子の穴の天の川」なのです。
 小さい一寸法師の中に巨大な力をみた日本人はまた、細かくて緻密なものの中に、もっとも美しい「美」を発見したのです。『万葉集』に一番多く歌われた花は萩で、百四十一首にのぼるといわれていますが、萩は中国でも韓国でもめったに歌われることのない花です。中国人がよく歌う牡丹とはちがって、萩は日本人が好んだ他の秋の七草にも共通しているように、その花自体が小さくて、しかも稠密(ちゆうみつ)に詰まった群集性の群れをなしている花なのです。桜はもちろん、昔の女学生が愛好した便箋にきまって印刷されていたスズランとか、人名はもちろんいまの東京でもバー、スナック、喫茶店の店名に一番多く使われている藤(ふじ)にしても、それらは萩と同様に、みな花自体が小さくて緻密に凝集した花なのです。
「美」をあらわす日本語の語源を調べてみても、日本人が小さなもの、緻密なものを「美」としてとらえていたことがわかります。「うつくし」という言葉は平安朝以前には、「愛」という意味で使用されました。『古事記』に出てくるものは、みなその意味です。そこで現在のような「うつくし」いものをあらわすときには、「くはし」という言葉を使ったというのが通説になっているといいます。容姿の妙なる美しさをもつ女性のことを「麗(くは)し女」(『古事記』の久波志売(くはしめ))と呼んだのが、それです。
 また「目ぐはし」といえば、視覚的に密度が緻密な結晶をなしている風景などを意味すると、今道友信さんはのべています(『東洋の美学』)。「『くはし』は何か精密な要素の充実したまとまりといふものに関係するに違ひない。『くはしもの』といふのは手の込んだ細工物やそれから転じた上品な人を意味するのであらうから、存在度の充実を示すことはたしかであらう」。そして大野晋さんが『万葉集』の巻十三の短い長歌の三三三一の歌を解釈するときに、「木が細かく繁って、見れば見るほど隙き間のないやうになっているといふこと、これが山のくはしであり、つまり美しいことなのである」といったのを引用しています。
 こんないい方でいけば、萩、藤、桜などの花は、つまり「くはし花」といえるのです。日本人にとって美しいものとは、「くはし」いこと、小さくて緻密で凝集している結晶物であったのです。
 小説でも同じことがいえます。長篇小説よりはこぢんまりした短篇小説、さらには日本独特の様式である掌篇小説に、日本的特性をくみとることができるのです。永続きはしませんでしたが、大正末の岡田三郎、武野藤介らが原稿用紙二、三枚の超短篇を唱えた発想とか、川端康成が百篇以上の掌の小説を書いたことなどは、外国の文学ではなかなか見つけることのむずかしい例なのです。

 ラブレーの巨人と江戸人の夢
 私はヨーロッパの夢をラブレーのガルガンチュアの姿に見ますが、日本のそれは浮世草子(うきよぞうし)の「大豆(ま め)右衛(え)門(もん)」の話(『魂胆色遊懐男』)に読み取るのです。乳を飲むのに一万二千九百十三頭の牝牛を必要とし、肌着ひとつ作って着せるのに九百オーヌ(約千メートル)の生地がなければならなかったガルガンチュアを生んだラブレーのあの大ボラには、巨人になりたいというルネッサンス以来の西欧人の夢が隠されています。神に抑えつけられた矮小な人間に、新しい自信と能力を呼び起こそうとしたこの近代人は、ノートルダムの鐘を馬鈴として走り回る巨人の想像のなかで、偉大な人間の朝を告げるヒバリの声を聞いていたのです。
 大きくなれ、もっと大きくなれ! この巨大主義の象徴であるラブレーの夢は、ほぼ同じころの日本にくると、「小さくなれ、もっと小さくなれ」という声にかわります。それがあの江島屋其磧(えじまやきせき)の大豆右衛門です。もちろん一方は哲学的な小説であり、もう一方は浮世草子の大衆小説です。けれども民衆の夢をよくあらわした虚構の人物としては変わりありません。江島屋其磧が大豆右衛門を通じて夢見たのは、ガルガンチュアのような巨人ではなく、芥子粒(けしつぶ)ほどの小人に縮まりたいという「豆男」だったのです。
 この主人公は、母親が馬を呑む夢を見て生んだ貧乏な醜男。ところがある日、逢坂山で仙女に会い、一粒の金丹と秘伝書を授けられます。この薬を飲むと芥子人形ほどの小男となって、どんな男でもその懐に飛び込めば、魂がたちまち入れ替ると教えられます。彼は弾む心で都に走り、その秘薬のおかげでいろんな色遊びを経験し、あげくには大名の局(つぼね)に忍び入るのです。捕まって虫と間違えられて、爪の先で押しつぶされそうになる。しかし運よく助かった大豆右衛門は大名に取り立てられて奉公勤めをするようになります。
 大豆右衛門もやはり一寸法師のように小さな巨人だったのです。
「小さいものが強いものである」という「極小主義(ミニチユア)」の、あの逆説的信仰が見事に描かれている小説です。これが作者、江島屋其磧ひとりだけの思いでなかったということは、この本が江戸の人々にいかに人気を博したかを考えてみればわかるでしょう。当時、それに似た類似の本があいついで出て、「大豆右衛門」は流行語となり、普通名詞と化して「豆男」という言葉が辞典に収録されるようになったことだけでも、彼が日本の逆立ちしたガルガンチュアだということがわかるでしょう。
 人間が豆粒ほどに縮小するこの話は、また女性にも例外でなく、『潤色栄花娘』(お豆が女主人公です)等の話を生みもしました。
 巨人でなく、小人の夢を見ているこの縮みの想像力が日本人のひとつの発想法となって、いろいろな文化をつくりだしているという仮説は、巨樹を縮小した盆栽にも、宇宙を縮めた石庭にも適用できるものです。現代ではトランジスタからはじまり、あの小さな巨人、パソコン文化が出現しています。
 小学生のランドセルのなかから出て来た日本論は、ですから各国民性を諷した次のような一篇の小咄に整理することもできるでしょう。

 小咄・国民性比較論
 宇宙人が地球人の各国民性をテストしてみるため、地球人がこれまで見たこともない物体をひとつ、道の真んなかに落とし、彼らは空飛ぶ円盤のなかに隠れて、それを拾う地球人たちの反応を見守る、と仮定してみましょう。そのとき、もしその物体を拾ったとたん、眼の前にかざしていろいろな角度から見つめる人がいれば、それはフランス人だろうし、反対に耳にもっていって振ってみる人がいれば、それはドイツ人に違いない。絵画的なフランス人は眼(視覚)で事物を理解しようとするし、ベートーベンを生んだ音楽的な民族であるドイツ人は耳(聴覚)でそれを認識しようとするからです。
 ところが、闘牛の国のスペイン人なら、その疑問を解くために眼や耳にもっていったりはせず、拾い上げるや、叩き壊してみるでしょう。
 英国人は走ったのちに考えるというスペイン人のように振舞おうとはしない。拾い上げた物体を何日間か根気強くあれこれと使ってみます。そしてその物体が何であるかを経験した上で家族全員が集まっておごそかに投票で決定するでしょう。
 中国人はその点、英国人よりはるかに大人びて忍耐強い。まず彼らは拾う前に、あたりを用心深く見まわします。だれも見ていないのを確かめた上で、その君子はうやうやしく拾い上げて袖のなかに入れる。その物体が何であるかは問題になりません。まず保存しておくことが重要である。それが何であるかは、いずれおいおいわかる日が来るであろうから。
 むかし日本の植民地時代にひもじい生活をしていた韓国人なら、それをまず舌でなめてみたでしょう。
 ここで東と西を代表する米国人とロシア人を抜かすわけにはいきません。それだけに期待も大きい。しかし、その期待とは裏腹に、彼らは何の反応も示さないでしょう。そもそも頭を痛めて考えようとする態度を見せない。というのは、米国人はコンピュータにまかせ、ロシア人なら党かKGBに報告してしまえば、それですむからです。
 さて、問題は日本人です。彼らは眼の前にかざしてみたり、耳に当てて振ってみたりしない。また、こわしてみたり、袖のなかにこっそり入れたりもしない。それに好奇心の強い彼らであってみれば、コンピュータや党にそれをまかせたりすることもない。
 そうです。日本人はそれを拾い上げるや、いち早くそれとそっくり同じものを作ってみるでしょう。それもただ原寸大に作るのではなく、トランジスタ化して、もっと精巧に縮小し、手のひらに入るように作るはずです。そしてそれをじっと眺めて「なるほど!」と膝を打つのです。
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发表于 2008-1-9 21:19:56 | 显示全部楼层
    ↑
「第一章 裸の日本論」おわり。

估计楼主已经不需要这个了。因此不再继续贴了。

[ 本帖最后由 无边落木 于 2008-1-17 22:01 编辑 ]
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发表于 2008-1-28 17:35:49 | 显示全部楼层
偶没`~~问问别人~
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发表于 2008-2-6 23:07:13 | 显示全部楼层
我有复印本的。。。。
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发表于 2008-2-10 01:02:12 | 显示全部楼层
看了一下,有些不懂的地方,想請問一下

「美」をあらわす日本語の語源を調べてみても、日本人が小さなもの、緻密なものを「美」としてとらえていたことがわかります。「うつくし」という言葉は平安朝以前には、「愛」という意味で使用されました。『古事記』に出てくるものは、みなその意味です。そこで現在のような「うつくし」いものをあらわすときには、「くはし」という言葉を使ったというのが通説になっているといいます。容姿の妙なる美しさをもつ女性のことを「麗(くは)し女」(『古事記』の久波志売(くはしめ))と呼んだのが、それです。
 また「目ぐはし」といえば、視覚的に密度が緻密な結晶をなしている風景などを意味すると、今道友信さんはのべています(『東洋の美学』)。「『くはし』は何か精密な要素の充実したまとまりといふものに関係するに違ひない。『くはしもの』といふのは手の込んだ細工物やそれから転じた上品な人を意味するのであらうから、存在度の充実を示すことはたしかであらう」。そして大野晋さんが『万葉集』の巻十三の短い長歌の三三三一の歌を解釈するときに、「木が細かく繁って、見れば見るほど隙き間のないやうになっているといふこと、これが山のくはしであり、つまり美しいことなのである」といったのを引用しています。
 こんないい方でいけば、萩、藤、桜などの花は、つまり「くはし花」といえるのです。日本人にとって美しいものとは、「くはし」いこと、小さくて緻密で凝集している結晶物であったのです。

如果要用中文清楚說出「うつくし」與「くはし」,是什麼呢?   美麗與完美嗎?
那麼「目ぐはし」又該怎麼說呢?

謝謝給我的解惑.......
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发表于 2008-2-18 17:02:10 | 显示全部楼层
可以跟您要这本书的文挡吗
谢谢
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发表于 2008-2-19 13:45:08 | 显示全部楼层
原帖由 allguys 于 2008-2-18 17:02 发表
可以跟您要这本书的文挡吗
谢谢


文件已丟失。
萬分遺憾。
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发表于 2010-4-28 09:29:22 | 显示全部楼层
谁还有后面的啊?急求~~~~~~~~~~
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