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日文小説『神様がくれた指』

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发表于 2007-12-19 10:18:11 | 显示全部楼层 |阅读模式
2007年本屋大賞受賞作家--佐藤多佳子の本『神様がくれた指』、一気読みまちがいなしの痛快作。
佐藤多佳子:
1962(昭和37)年、東京生まれ。青山学院大学文学部卒業。89(平成元)年『サマータイム』で月刊MOE童話大賞受賞。『イグアナくんのおじゃまな毎日』で98年度日本児童文学者協会賞、路傍の石文学賞を受賞。著書に『しゃべれども しゃべれども』『神様がくれた指』『ハンサム・ガール』など。

目次
第1部 愚者
第2部 魔術師
第3部 恋人たち
第4部 運命の輪
エピローグ
解説 坂田靖子

第1部
愚者

いつも彼自身が気づいていない落とし穴にむかって、旅を歩き始めているのである。
バーバラ・G・ウォーカー


  辻牧夫は、やっと自分の服を取り戻したのはいいけれど、このチョンチョンの坊主頭がたまらねえなあと苦笑いしながら、早田のお母ちゃんの前に出てゆき、いきなりガバリと抱きすくめられたのには閉口した。
『マッキー!』会いたかったよ!もう、あんたってコは!いくら会いにいっても会ってくれないんだからねえ。看守にいじめられて死にかけれるんじゃないかと思ったよ。心配かけて。どうせ、あんたのことだから囚人服を見られるのがイヤなんだろうって咲は言ってたよ。そうなのかい?馬鹿だねえ。ほんとに馬鹿だよ。あたしらは、おじいちゃんでさんざん見慣れてるじゃないか。わかってるくせにね』
  お母ちゃんはマシンガンのようにしゃべりまくり、熱い抱擁を終えてようやく身体を離すと、今度は厳しい目つきで彼の全身をくまなくチェックしはじめた。
『やっぱり少し痩せたかねえ。あんたはもともとがりがりなんだから食べるもんをちゃんと食べなきゃね。毎日あんたの好物をどっさり作ってあげるよ。まあまあ、あんだかドス黒い顔をして。そんな冴えない目をするんじゃないよ。マッキー!ほんとにこのコったら!』
  マッキーというのは幼名であり、仕事仲間の間での呼称でもある。一年二カ月ぶりに、百万馬力をこめて呼ばれて、なるほど、正門のこっち側はシャバなんだと早くもしみじみと実感させられた。
  同時出所した黒龍組の若手の平沢という男が、出迎えにきた舎弟二人とニヤニヤしながらこちらを見ている。
『うらやましいね。ままのお迎えとは』
  冷やかされて、辻はどんな表情をしたものかわからずに歯をむいてニヤリとした。早田のお母ちゃんは血のつながりという点では本当のママじゃないけれど、生みのママ以上に本物の育てのママなので、冷やかされると恥ずかしい。
『あんたもダッコしてもらえば。オトモダチに』
  挑発的なジャブを返すと、二人の弟分の目の色がすっと変わったが、先刻までのムショ仲間は落ちついたもので。
『俺はきれいな若い女が待ってるからね』
  と悠然と切り返してきた。
  その言葉で、きれいな若い女が自分を待っていないことに辻は気づいた。
  咲がいない!早田咲が。
  彼の顔に浮かんだ疑問符を素早く見てとってお母ちゃんは答えた。
『たいしたことないんだけどね。ゆうべ、ちょっと軽い発作お起こしてね』
  辻はうなずいたが、心臓がドキリと鳴るのがわかった。子供の頃から、咲が喘息の発作を起すのが何より恐かった。あの、息が吐けなくなって吸って吸って吸ってエスカレートしていくヒュウヒュウという恐ろしい音、最悪の時には紫色になってしまう顔。肉体的に苦しいのは当人だろうが、はたで見ているほうだって、やはり肉体的に相当苦しい。
『夏なのにな』
  と辻はつぶやいた。
  発作は春先や秋口などの季節の変わり目にひんぱんに起こった。台風の来る前など大きな天候の変化にも弱かった。
『あんたが帰ってくるっていうんで、少し張り切りすぎたのかもしれないね』
  お母ちゃんは言った。
『何を張り切るんだよ?』
  辻は少しうんざりしたように聞いた。
『気持ちだよ』
  お母ちゃんは芝居がかったジェスチャーで心臓のあたりに手を当ててみせた。
『あの子は、ここ二、三日、人が変わったみたいにおしゃべりになってたんだよ』
  辻の脳裏に幼い頃の記憶が甦った。遠足や運動会の前の晩や当日の明け方に、咲はよく発作を起こしたものだった。

[ 本帖最后由 koume88 于 2007-12-19 10:36 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2007-12-19 16:55:36 | 显示全部楼层
青白い小さな顔、すらりと伸びた細い首、飛び出た鎖骨、薄い肩。ちょっと乱暴に触れれば壊れてしまいそうな華奢な身体つきは、昔からほとんど変わっていなかった。
『冷たいこと言うんじゃないよ。あの子は、ずっと、あんたを待ってたんだからさ』
『病人置いて、来ることないのに』
  辻は話題を変えたくなって、非難のほこさきをお母ちゃんに向けた。
『大丈夫。軽い発作だったから』
  お母ちゃんはうなずいた。
『一緒に行くってきかないのを無理に寝かせて、耕二に見張りを頼んできたんだよ』
  耕二は五つ違いの咲の弟だった。
『マッキーの手をしっかりつかまえて家まで連れて来てって、咲は言ってたよ』
『どこへ行くってのよ?俺が』
  辻は憤慨するように鋭く尋ねた。
  早田のおじいちゃんが死んだ時に家を出て、蒲田にアパートを借りて三年ほど一人で暮らした。しかし、早田家との縁が切れたわけではない。何かにつけ呼びつけられ、遠慮なく押しかけられる。逮捕されて服役が決まると、早田の家の者はさっさとアパートの契約を解除して荷物は家に運んでしまった。まったく、ほかのどこへ帰れるというのだろう。
  黒龍組の連中は黒いベンツで走り去っていったが、辻と早田のお母ちゃんはカッカと照りつける八月の真昼の日差しの中をゆっくりした歩調で南大塚の駅まで歩いた。
『目がくらむだろう?』
  とお母ちゃんが尋ねた。
『別に』
  強がってみせたが、確かに目がチカチカして物が見にくいような感じがした。
『しばらくは苦労するよ。道を渡るのが大冒険さ。車のスピードが読めないんだよ。人込みもうまく歩けない。なかなか流れについていけない。あとは自動ドア、自動改札、けさまれないように気をつけるこったね』
『ものすげえ田舎モンみたいだな』
『そんなモンだよ』
  そんなモンだったかな、と、辻は早田のおじいちゃんのことを考えた。十六回、入所し、半生を刑務所で暮らしたおじいちゃん。
『そういや、いつも手ェ引っぱってたよな』
  おじいちゃんがだいぶ老いぼれてからだが出所後の外出には、必ずお母ちゃんがつきそって手をつないで歩いていた。
『手をしっかりつかまえて家に連れて帰って』
  お母ちゃんは咲が言ったという言葉を繰り返した。そして、言葉どおり、突然、彼の手をつかまえると、がっちりと握りしめた。
  反射的にその手をさっと振り払った。自分でも驚くほど素早く乱暴に。火傷でも負ったかのように。
『いやだねえ。おじいちゃんと一緒だね』
  お母ちゃんは困った顔をして、かぶりをふった。
『いつも、そんなふうに怒られたんだよ。やめろってんだよ!手ェつかむなよ!キンタマよりイテエんだからよう!』
  突然、おじいちゃんの声色でわめきだし、周囲の通行人の注目を集めた。
『えげつないなあ』
  辻は呆れた。
『聞いたことないかい?』
  お母ちゃんは豪快にカカカと笑った。
『あぶないからって手を引っぱってたわけじゃないんだよ。あの手がね、悪さをしないようにあたしが押さえこんでたんだよ』
  あの手、おじいちゃんの手、名人の手、熟練のスリの手。
  辻は歩きながら、自分の右手を目の前にかざした。女のようにほっそりした浅黒い長い指。きちんとそろえて、掌を表裏と交互にひっくりかえして見つめた。刑務所の労役とひどい石鹸のせいで皮膚が荒れて堅くなっている。右手の隣に左手を並べてさらに見つめた。
『そうだね。あんたは両方と使えるなだっけ。連れは二人必要か』
  右手をお母ちゃんに左手を咲にあずけて、川崎駅の構内をしずしずと歩む自分の姿が目に浮かんだ。醜悪というよりは滑稽。
『お連れ様はけっこう』
  辻はきっぱりと断った。
『悪さは致しません。道を渡る時はようく右左を見てから渡ります』
  しかし、お母ちゃんは、ふんと鼻先で笑った。
『おじいちゃんとそっくりだね。あの人も、いつだって、そんなふうに言ってたもんさ』
  西武新宿線の急行。平日の昼下がりの車中はすいていて、辻とお母ちゃんは三人掛けのシートを二人で占領した。
  辻は、向かいの窓の外を流れていく街の風景にうっとりと眺めいった。とりたてて見所のない風景だが、風景が動くということが奇跡のように新鮮だった。
  そして、この匂い!この振動!まさに"帰ってきた"という気分にさせられる。箱師という電車専門のスリとしては、どこよりも、なつかしく、うれしく、胸のときめく場所だった。川崎大師の家に向かうには、何本もの電車を乗り継がなくてはならないが、それぞれの電車にはそれぞれの個性があり、旧友との再会のように楽しみだった。
『ウチのお客さんで田代さんているだろ。ほら、駅前の団子屋の『もちもち』の旦那で、お父ちゃんの競馬仲間のさ』
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 楼主| 发表于 2007-12-21 11:00:27 | 显示全部楼层
全身で電車の感触を楽しんでいた辻は、相変わらず、お母ちゃんは一分と黙ってられないなとがっかりしながら、熱意のない相づちを打った。
『その田代さんの親戚がね、鶴見のほうで板金屋をやっててね、よかったらあんたに来てみないかって話があるんだけどさ。いい話なんだよ。あんたは器用だから、あの気になりゃ何だってうまく出来るじゃないか。まあ、あせって決めることはないけどさ。もちろんウチを手伝ってくれたっていいんだし。今は耕二が店に入ってるけど、ほら、やっぱり親子って遠慮がなくてだめでね、お父ちゃんと喧嘩ばっかり。お客の前で派手なやりあいして、みっともないったらありゃしないよ。あんたがいてくれたら、だいぶ丸くおさまるだろうと思うね。耕二も心強いだろうしね。でもね、ウチのお客さんみんな知合いばっかりだから、あんたもイヤかもしれないと思ってさ、その点、田代さんの話は何もかも全部承知で、しかもマエは隠して働いていいって言うんだよね。いい話だろう?新しい場所ですっぱりと一からスタートってのが、この際一番じゃないかって、ゆうべ、そんな話をしてたんだよ。みんなでね』
『へえ......』
  として辻は言えなかった。遅かれ早かれ就職の話が出ることは覚悟していたが、帰りの電車の中でさっさと切り出されると思っていなかった。
  職についた経験はある。高校を一年足らずで追い出されてから、知り合いのツテをたどって、印刷屋、畳屋、お好き焼き屋、映画館、自動車修理工場など職を転々とした。どれも仕事自体は嫌いじゃなかった。要領がよく、機転がきき、きびきび動いて雇い主にはすぐに気にいられた。でも、続かない。飽きっぽい。なんとなくコツをつかんだ頃になると嫌気がさしている。どこも小さな職場だったので、狭い人間関係が煩わしくなる。何よりたまらなかったのは、手が荒れる、汚れる、疲れることだった。ガス台バーナーの火に焼かれ、インキや油にどっぷりつかり、重い荷物の運搬やドリルの操作で震えがくる。辻にとって、仕事をするというのは手を台無しにすることだった。
  板金屋ねえ   辻は知らずしらず溜め息をついていた。オシャカになりかけた車を再生するのは面白かった。しかし経験したうちでは、一番手にダメージを与えるきつい労働だった。
『まあ、しばらくはゆっくりしてなよ』
  お母ちゃんは辻の溜め息を聞き付けたのか、そんなふうに言った。
『ゆっくり骨休めして。ゆっくり考えて。大事なことだからね』
  一拍置いて続けた。厳しい声に変わった。
『本当に大事なことだよ。今が本当に大事な時なんだよ。ムショに一度入るのはいいさ。でも二度入ったら、あとは、もう底なしだからね』
  十六回入ることになるか、おじいちゃんみたいに、と辻は思った。それだけの根性がないなら、確かに足を洗う潮時なのだと自分でもよくわかっているのだった。
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发表于 2007-12-23 23:12:34 | 显示全部楼层
弄张封面过来。。。。


[ 本帖最后由 无边落木 于 2007-12-23 23:16 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2007-12-26 09:18:33 | 显示全部楼层
楼上的读过整本了么?
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 楼主| 发表于 2007-12-27 15:53:56 | 显示全部楼层
2

    辻が気づいたのは、電車が田無を過ぎて五分ほど走った頃だった。
  スリ眼——。
  ハンドバッグやポケットに狙いをつけるスリ特有の目つき。獲物を突き刺すような鋭い視線。ねばっこく動かない視線。
  スリ眼というのは、刑事の使う言葉である。警視庁捜査三課の刑事たちは、電車や繁華街などの人込みをうろつき、目つきの悪い奴をチェックし、ひそかにしつこくあとをつけ、そいつが予測通りに盗みをしでかせば召し捕ってワッパをかける。
  しかし、スリに言わせてもらえば、目つきの悪いのはお互い様だ。スリ眼を捜す刑事の目も、鋭く怪しくじんわりと底光りする。不快な目つきと気配を感じれば当然スリは手を止めて人込みに隠れる。いわば視線のかくれんぼである。早く見つけたほうが勝ち。うまく隠れたほうが勝ち。

  はじめ、辻は「見られている」ことを感じたのだ。ハッとして本能的に刑事を求めて素早く視線を飛ばしたが、相手の目を捕らえることはできなかった。遅れた。逃げした。これが一年二カ月のブランクというものだろうか。悔しさをかみしめながら、用心深くあたりをうかがって、知った顔の刑事、もしくは刑事の匂いのする人間を捜してみる。
  この車両には子供と女性と老人が多い。小学生男子のグループ、高校生くらいのカップル二組、漫画雑誌に没頭している学生風数名、居眠りをしたり、あるいは声高にしゃべりたてているたくさんの中年婦人たち。男はほとんどがシルバー世代だ。斜め前の七人掛けのシートの左端で吊り革につかまって立っている二人連れだけが若いが、スーツ姿で商談に没頭していて、どう見ても普通のビジネスマンである。
  隣の車両に続くドアは閉じている。ガラス部分から見えるのは、熱心に手帳に書込みをしている三十代のキャリアウーマン風、幼児連れの主婦のグループ、老夫婦。
  とりあえず視界に怪しい人間が映らないので、困ったなと思った。気のせいだったのかな。自分の眼力が衰えて刑事が見分けられないのなら世も末だし、刑事など居もしないのに居るような気がするなら立派な刑務所ボケだ。
  いや、確かに誰かが見ていた——辻は自らの疑問をきっぱりと否定した。刑事じゃないとすると、あの不快な視線は同業者のものか。スリ眼か。
  辻は目を閉じてみた。視線を誘うように、罠を仕掛けるように、そして、心を静めて自分の感覚を研ぎ済ませるように。
  気配というのは不思議なものだと思う。五感のうちの視覚を消しても、聴覚、嗅覚の補助がなくても、人が人に向ける意思のようなものを漠然と感じとることがある。
  見ている。誰かがこちらを見ている。彼が車内を見まわしたことで、警戒心を抱いた人間。彼が目を閉じたことによって、吸い寄せられるように、再び探りを入れてくる視線。間合いをはかるようにして、ぽっかりとまぶたを開くと、一つ、視線を捕らえた。
  意外な視線だった。
  向かいの三人掛けシートの端に座っている少女。膝に黒い小型のトートバッグをのせ、その上で参考書のような本を開いている。高校生?いや、受験生とすると中学生か。そんなことはどうでもいい。冴えない少女だ。つやのないぼさぼさした髪を長く伸ばしている。前髪も長すぎる。髪に養分をすべて吸い取られたのか、ぼーだーのTシャツとデニムのスカートからニュウと伸びた手足は棒のように細長い。顔も細く、不健康な肌の色、目だけが奇妙に大きかった。瞬きをしない目。鋭いというより、つかみどころのないぼにゃりした目だ。
  少女の前には、吊革につかまって立っている高校生くらいの若いカップルがいて、ふざけて互いにつついたり押したりして始終身体の位置を変えていて、その隙間から、ぼんやりとしているくせに奇妙に執拗な視線が彼に向かって流れていた。
  視線が合うと、一瞬、怯えたようにチカリと瞳が光り、たちまちうつむいた。長い前髪が目にかかる。その年頃の少女らしい、はにかみのように受け取れた。
  スリ眼とは、ほど遠い......。
  辻のほうも、なんだか、はにかんでしまって、居心地が悪くなって、座席でもぞもぞとした。もう一度、少女を見てみたかったが、のぞきでもするような気分になる。どうでもいいや、と唇をすぼめた。刑事も同業者もいないみたいだから、どうでもいいや。あのお嬢ちゃんが何で自分を見ていたかなんて、あんまり考えると恥ずかしくなるじゃないか。
  アナウンスが高田馬場への到着を告げた。
『さあ、マッキー、降りるよ!』
  お母ちゃんが景気良く号令をかける。気が早いのでさっさと立ち上がってドアの前へ突進すると、もっと気の早いのがいて邪魔するように最前列を確保しにかかる。向かいに立っていた高校生カップルだ。お母ちゃんは椅子取りゲームに敗れた子供のようにむっとした顔つきになった。
  辻は遅れてのっそりと立ち上がると長い背中を伸ばして、お母ちゃんの横に並んだ。後ろから、例の冴えない少女が近寄ってきたことを鋭く意識した。電車で仕事をするスリがカモを狙うのは乗降の時が最も多い。
  まさかねえ——そう思うのだが、どうしても背後が気になる。
  万引きのような感覚でスリを働く素人が増えている。後ろの少女はそれにしても幼い。飢えた子供が盗みを働くという社会ではない。自分はあのくらいの年齢で一人前に仕事をしていたが、まさか似たような境遇ではあるまい。父親か育ての親が腕っこきのスリで主犯として控えているなら話もわかるが、そんな奴は見当らない。
  少女は自分の真後ろにいた。自分を狙っているなら、ジーンズの尻ポケットか左肩からさげたナイロンのバッグだが、尻ポケットに金を入れて歩くスリがこの世にいるわけもなくてポケットはぺったんこだし、ジョルダー・バッグは左手でないと届かないだろう。もちろん、彼女は左利きかもしれない。だが、そもそも、俺が金を持っているように見えるか?若くて貧乏臭い男というのは一番スリが嫌う人種だがと辻は考え、そこではたと気がついた。もっと早く気づくべきだった。
  少女の右手が伸びる絶好の位置。お母ちゃんの肘からぶらさがっている派手な花柄のビニール製のトートバッグ。ジッパーも留金もないオープンな鞄。無防備なお母ちゃん。にぎやかで太めで目立つお母ちゃん。珍しくきれいなワンピースなんかで着飾ったお母ちゃん。見るからに自営業のおかみさんで、なまじのお金持ちの奥様より小金を現金で持っていそうなお母ちゃん。
  
  プジューッと音をたてて扉が開いた。
   様々な動作が辻の身辺で同時に進行する。それらは極めて微妙ではあるが不自然な動作で、動くべきところを動かなかったり動くべき方向に動かなかったりする数個のボディー、そして、問題の場所に伸びていく一つの手。そういうスリのチーム・プレーは知り尽くしている辻だが油断があった。可能性としては少女の単独犯行しか考えていなかった。
  ドアの前に先まわりするように立っていた高校生カップルが、互いにじゃれあうのに夢中な様子でホームに降りるのが遅れる。ほんのわずかな遅れなのだが、それでも後に続くお母ちゃんが一瞬立ちすくむ形になる。お母ちゃんのトートバッグに意識をすべて集中している辻の足も一緒に止まる。そこを左後ろからぐいと押された。ふいをつかれて辻はよろめき、体勢が崩れて視線がはずれた。
  ほんの一瞬。わすか三、四秒、視線を切っただけ。しかし、あわてて、振り向いた時少女の手は何も握っていなかった。
  辻のあからさまな視線が、少女の手から腕にさげたバッグ、そして顔へと往復した。お母ちゃんの財布を盗って自分のバッグへうまくすべりこませただろうか。あのわすかな時間にそれだけのことができただろうか。
  少女の顔の表情は落ち着いていた。でも、その目が彼を見ようとしないのは不自然だった。彼の露骨な執拗な凝視に対して、驚く、困る、嫌がる、恐がる、そういう感情をまるで見せずに無視してのけるのは、やはり普通ではない。
  盗人。スリ。
  それでは、盗みは成功か不成功か?
  お母ちゃんの財布は、どちらのバッグに収まっているのか。
『いやだよ、マッキー、よたよたしちまってさ』
  何も気づいていないお母ちゃんは、笑いながら辻の腕をとってホームへ引っ張りおろそうとしている。その脇を少女が心持ち足を速めて通り過ぎようとする。
  辻は反射的に少女の黒い小型のトートバッグに手を伸ばした。黙ってひったくるのは抵抗があり、一声かけようとして一瞬迷った。そして、まさにその隙に、本物のひったくりが現れた。辻を左側から追い越して降りようとした少女のさらに左手を追い越して降りていく少年。黒いトートバッグを無言でさらっていく。
『待てよ!おい!』
  辻は叫んだ。空しい叫びになった。
  単純な連係プレーだ。
  典型的なグループ・スリだ。
  変わっているのは、メンバーがそろってガキだというところだ。
  幕が三人、鈎は一人。
  鈎は真打ちとも呼び、財布をスリとる引き抜役のことだ。幕はそれを助ける役。周囲の視線から犯行現場を隠し、引き抜き役がカモから財布を奪いやすい位置へ導く。犯行後は、状況に応じて、財布を引き抜き役からリレーする。
  もちろん、鈎は、あのぼんやりした目つきの食えない女の子だ。幕は、お母ちゃんの前に立ちふさがるようにした高校生らしきカップルの二人。そして女の子のバッグをリレーして逃げた少年。この少年がおそらく犯行時に辻を突き飛ばして目くらましをしたのだろう。
  冗談じゃない、と辻は歯を食いしばった。こんなガキどもにしてやられてたまるか。よりによって出てきたばかりの日に。
  絶対にとっつかまえてやる!
『マッキー!こら、走ったら危ないよ!』
  三歳児を叱るようなお母ちゃんの台詞を背に受けながら、辻は高田馬場の五番ホームを夢中で走った。
  頭にひらめいた予感。
  プラットホームを逃げる時の常套手段。
  乗ってきた電車の扉が閉まる直前に、少年はいきなり中に飛び込むように姿を消した。間一髪、辻もすべりこんだ。予測していなければ到底無理な動作だった。
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发表于 2007-12-27 21:38:52 | 显示全部楼层

回复 5楼 的帖子

没有呢。在读你发在这里的。
前边好像忘记说谢谢你的发布了。
这里补上。谢谢!!
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 楼主| 发表于 2007-12-29 08:44:42 | 显示全部楼层
7楼的,哈哈,我会再接再励的。
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 楼主| 发表于 2007-12-29 16:49:55 | 显示全部楼层
3

    電車は終点の西武新宿に向かってゴトゴトと動き始めた。少年は進行方向に向けて一つ先の車両に乗っていた。辻が後を追ってきたことに気づいたのか、どんどん電車の先頭に向かって突進していく。高田馬場でだいぶ人が降りたので追跡は楽だった。この駅の間は四分ほどで、電車はペースダウンしてやけにのろのろと走る。
  少年はまだリレーされたトートバッグを持っていた。車内にもう仲間はいないはず、と辻は踏んだ。逃げ場はなかった。電車が駅につくまで、通路を逃げ続けることはできない。もうこの先が先頭車両だ。彼は非常用のレバーで緊急停車させて脱出する方法を知っているだろうか。バッグや財布を始末する知恵は?冷房中で窓が閉じているからバッグごと車外に投げ捨てるのは無理だ。財布だけ抜いて他の乗客のポケットや鞄にまぎれこませる可能性はある。
  少年のどんな細かい動きも見逃さないように注意した。でも、彼は、もうすぐそこだ。あと二メートル......、一メートル......、手を伸ばせば届く......。
  電車の端、運転席の後ろで、少年はくるりとこちらを向き直った。
  年頃は十七、八か。黒のTシャツ、ポケットのたくさんついたカーキ色のワーク・パンツをはき、髪は短く刈り上げていて辻の刑務所製坊主頭とよく似ている。中肉中背だが、肩の厚さと二の腕の筋肉の見事な盛り上りは厳しい鍛練で作り上げたものと思われた。
  少年の体格を観察して、辻は少し嫌な気分になったが、軽い調子で声をかけた。
『ゲーム・オーバーだぜ』
  ゲームで終わらせてしまおうと思った。なかなか腕のいいチームだったが、しょせんはガキの集まりだ。腕のいいガキの集まり、というところに少しひっかかるものがあったが、警察に突き出すつもりはないし、説教する柄でも立場でもなかった。
  少年は返事をしなかった。黙ったまま、まるい目玉だけを奇妙にギラギラ光らせている。マッチョな体型や髪型に似合わない、さっぱりした幼い顔立ちをしている。
『それ、よこせよ。中の財布だけでいいよ。なかったことにしてやるからよ』
  早口にまくしたてた。
  周囲の視線が集まった。
  車内アナウンスが終点への到着を告げ、乗客がぼちぼち立ち上がって先頭の扉付近に集まってきていた。
  辻は少年の目の前に右手をすっと差し出した。
『ほらよ』
  少年は反応しなかった。できないのだ。これだけ注目されてしまったら、バッグや財布を相手に渡すのは、当事者同士の問題では済まないと思っているのだろう。
  スリは現行犯逮捕の時でも、被害者が届けを出さないと犯罪として成立しない。だから、この車両の乗客すべてがスリだと騒いでも、辻がいいと言えば警察も手の出しょうがないのだが、少年は知らないだろう。
  左手の窓から歌舞伎町の景色が見える。赤や黄色の派手な看板、ぎらぎら光るビル。まもなく駅に到着する。
『ここしゃ渡せないか?場所を変えてもいいぜ。ビールでも飲みに行こうか?』
  辻は手を引っこめ、その手のやり場に困って自分の坊主頭をてらりと撫でた。相手は未成年だろうからコーヒーが妥当な線だが、なんだかナンバでもするようで馬鹿らしい。それに、シャバに出たら何がなんでもまずビールだ、と決めていた。
『新宿は、久しぶりなんだ』
  新宿だけではない。どの繁華街も、どの街も、皆、久しぶりなのだ。そんな話をしながらゆっくり財布を返してもらってもいいと考えた。彼らの『ゲーム』についても聞いてみたい気がした。
  スリは万引きとは違う。特にグループ・スリは、出来心と趣味的知識だけではとてもできない。誰に、どんな訓練を受けたのか、何のために危険を冒すのか、法を犯すのか。
  辻の誘いに少年は返事をしなかったが、ギラギラした戦闘的な光が瞳から消え、電源を切ったブラウン管の画面のように無機質な黒になった。
  嫌な目つきをしやがる、と辻は思った。刑務所で、ああいう目つきの奴を何人か見た。だいたいが無口な模範囚だ。そのくせささいなことでキレて発作的囚人仲間を絞め殺そうとする。
  辻と少年は並んで電車を降りた。周囲の乗客たちの好奇の視線を浴びたが、声をかえてきたり、駅員を呼んだりするおせっかいはいなかった。
  到着列車は一度ドアが閉まり、すぐそのまま埼玉や奥多摩方面に向かう急行に変わる。三番ホームでは乗車待ちの客が各ドアの前に短い列を作っていた。次の電車は本川越行きの十両編成だと駅員のアナウンスが流れた。先頭のドアから出たため、ホームはたちまちつきた。電光掲示板の下を通って出口に向かう。辻は少年の脇にぴたりとついて同じ歩調で歩いていた。少年は急いでいなかった。速くも遅くもない淡々とした足取り。前方をひたと見つめて動かない視線。連れの存在などまったく気にも留めないその落ちつきぶりに、辻のほうがじりじりと苛立ってきた。
  こいつ、どうするつもりだ。
  入口からの人の流れを横切るように左方向に折れて出口の自動改札に向かう。逃げるとしたら改札を出たところがチャンスだった。辻は集中力を高めた。隣の少年を横目でにらみながら自動改札に切符をすべりこませようとしてギョッとした。南大塚で早田のお母ちゃんが買って手渡してくれたのは高田馬場までの乗車券。四百四十円の切符。これで西武新宿の改札を出られたっけ?少年はもう開いた改札のドアをすたすた通り抜けている。どうしようもない。精算機まで行っている暇はない。一か八か。えい、開けゴマ!胸の中で妙な呪文を唱えて切符を機械にすべりこませた。扉は閉じなかった。まあ、ラッキー!機械が思い直してとおせんぼをしないうちに、辻は走るように改札を飛び出した。
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发表于 2008-1-8 13:02:48 | 显示全部楼层
先顶下~
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 楼主| 发表于 2008-1-9 13:24:48 | 显示全部楼层
少年はダッシュをかけて逃走を始めなかった。立ち止りもしなかった。
『いつまで、シカトこいてるんだよ』
  辻は少年の後ろを平手でぱんとはいたいた。すると、彼はゆっくりと首を曲げて始めて視線をこちらに向けた。敵意に満ちた鋭い目。獲物を返す気などさらさらない目。
  わかったよ、と辻は思った。
『じゃあ、バイバイだな』
  そして、電光石火、トートバッグをかっぱらう——いや、そのつもりだった。
  何をどうされたのか、とっさにわからなかった。あっと思った瞬間、身体が宙に泳ぎ、景色が横転する。床へ伸ばした手が体重を支えられずにガジュッと嫌な音とともに妙な角度によじれる。右肩に激痛が走った。左手で患部を押さえ、思わず呻き声をあげた。
  バッグを持った少年は、前方の階段を飛ぶように駆け降りていた。後を追おうと立ち上がりかけ、肩の痛みに息が止りそうになった。右腕がだらんと下に垂れ下がっている。まるで力が入らない。自分のものでなくなったみたいだ。その一部分だけ突然命をなくして動かなくなってしまったようだ。ひどく気味が悪い。
  柔道の投げ技のようなものを食らい、下手に手をついて、肩の関節がはずれたのだと、だんだん理解ができた。理解ができたところで仕方がなかった。
  甘く見過ぎていた。
  俺の手を——と思った。
  よりによって手を。
  額や脇に脂汗がにじんできた。
  痛い......。それに.....。
  一年ニカ月と少し前、上野の新幹線のホームで警視庁捜査三課の警部に逮捕された時にも、これほどの屈辱を感じなかった。
  暴力が嫌いだった。犯罪に使われる暴力が。特にスリという犯罪に使われる暴力が。力で対抗できたとは思わない。ただ、力に訴えてくるタイプと予測したのに用心を怠った自分に腹が立った。
  床にすべり落ちていたショルダー・バッグを茫然と見つめた。動かせない右手。その右手を支えている左手。どちらの手でバッグを拾い上げたものか困った。右手を使うことは考えられない。右手の補助をはずして、左手で取ろうとして、支えをなくした右腕がぶらぶらと揺れ一層ひどく痛んだ。焼きごてを当てられたような痛みだと思う。焼きごてなど当てられた経験はないのだが、頭の芯までしびれるような、熱いような、刺すような、こんな痛み方をするのではないか。
  どうにかバッグを拾って左肩にかけ、クラゲが泳ぐようにゆらりと立ち上がった。数人の野次馬が遠巻きに見ていたが、彼がにらみつけると、あわてて離れていった。
  
  もちろん、追いつけるわけなどなかった。暴力少年の消えた階段をふらふらと降り始めたのは、何か目的があってというより、あまりのいまいましさに思わず足が動いてしまったというところだった。
  しかし、痛い。数段降りただけでたまらなくなって立ち止まった。関節をはずされるというのは、こうも痛くて、こうも情けなくてこうもみじめで、こうも気が遠くなりそうなものなのだろうか。
  咲の顔が頭に浮かんだ。何か都合の悪いことがあると、なぜか、必ず、あの凛とした静かな瞳の白い顔を思い出すのだ。早く、家に帰らないと、と思った。咲は彼の帰りを待っている。心配させると、またひどい咳が出るかもしれない。
  お母ちゃんはどうしただろう。財布がないことに気づいただろうか。まだ、自分を捜して高田馬場でうろうろしてるんじゃないか。早く、あそこまで戻らなくては。でも、歩くだけでもこんなにつらいのに電車に揺られるのはたまらない。まず、病院だ。新宿の病院で肩を治して、それから電話を入れて.....。いや、電話が先か。電話なら階段を降りた新聞スタンドの先にある。
  辻は左肩を階段の壁にもたせてこするようにしてじわじわと降りた。降りるにつれ、蒸すような熱い空気が身体を取り囲み、息苦しくなった。煉瓦色のタイル敷きの舗道は強烈な日光をはねかえしてギラギラ光っている。
  新宿は夏だった。東京中、日本中、どこもかしこも夏なのだが、電車に乗っている間はそのことを忘れていたような気がした。
  階段を降りきったところで、どうしようもなく胸がむかついてきた。
  舗道を行く人々の派手な夏服の色、色、色。車のクラクションがけたたましく鳴り響く。車は途切れることなく次々と流れてきた鋼鉄のボディーが日差しを反射して次々と光る。排気ガスの匂い。整髪料の匂い。若い女の子たちの悲鳴のような笑い声。
  色と光と熱と音と匂いと、すべての刺激が彼を取り巻き、彼の中になだれこみ、彼とともに激しくぐるぐるとまわりはじめた。
  出所後、しばらくは一人で外を歩けないというお母ちゃんの言葉が頭をかすめた。
  動けなくなった。そのまま、膝を折って、地面にうずくまった。
  わずか二、三メートル先の公衆電話まで、とてもたどりつけそうもない。
  こんなところで気絶すうのは願い下げだった。みっともないし、危険である。チンピラに踏み殺されるかもしれないし、酔っぱらいに間違われてトラ箱に放り込まれるかもしれない。警察のお世話にだけはなりたくなかった。こんなに長い間お世話になっていたのにまた早々にお邪魔したくない。絶対に嫌だ。警察は。留置所は。刑務所は.....。
  思考がぼやけていく。
  誰かに大丈夫ですかと声をかけられ、その声が非常に快いすがしい響きを持っていたこと、その人が顔をのぞきこむようにして身をかがめた時、栗色のなめらかな髪が肩から頬へすべり落ちて、うるさそうにかきあげた手が白くてほっそりとしていたことを覚えている。妙なことだけを覚えているものだ。辻にとって手の記憶はいつも鮮明だった。
  その人と交わした会話も、タクシーに乗せられたことも覚えていない。
  辻は、とても安らかに気を失ったらしい。誰かが自分を道端から拾い上げてくれ、ゴミのように警察に葬り去られなくてすむと知って心の底から安堵したらしい。
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 楼主| 发表于 2008-1-12 16:34:50 | 显示全部楼层
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    去年の夏はもうちょっと涼しかったんじゃないかな、と歌舞伎町の西のはずれの道を駅方向に歩きながら、昼間薫は考えていた。その去年も、確か似たようなことを考えた覚えがある。夏は年々暑さを増して感じられるようで、地球の温暖化現象を憂うべきか、二十代にして体力の衰えを嘆くべきか、どちらにしても気の滅入る話だった。
  住まい兼仕事場に冷房がないのが何よりこたえる。二十世紀初頭に建てられた擬西洋風の老朽屋敷一棟を月十二万円の家賃で借りているのだが、いつの日にか屋敷が重要文化財に指定されるに違いないという妄想に取りつかれた大家が壁に穴を開けるのを嫌って冷房の設置を断固として拒否し続けているのだった。客観的に見て、屋敷は重要文化財というより、重要危険物であった。近い将来に地震か台風で倒壊するに違いなかった。
  昼間が、そんな屋敷を好きこのんでわざわざ借りているのは、一にも二にも職業上の利点だった。暑くても良い。ボロくても良い。むしろ、化け物の出そうな雰囲気を好んで、夏の盛りにも客がきちんとやってくるのだから、自分からすすんで出ていきたいわけなどなかった。
  今回の立ち退き勧告は本気らしい。ヤクザを雇ってでも叩きだすぞと大家の三沢は息巻いていた。家賃滞納はまだ三カ月分だが、家賃滞納そのものが三年間に六度目となると話は変わってくる。
  三十六万円か.....と昼間は小豆色のタイル敷きの舗道を革靴の爪先で蹴飛ばした。大金ではないが、決して少ない金額ではない。その証拠に知人は誰一人としてその金額を貸してくれなかった。歌舞伎町の飲み屋やゲーム喫茶などを数軒まわって金策に努めたが、どこも不景気と見えて無駄骨に終わった。
  それでも、同情か友情か手切れ金か、居酒屋と蕎麦屋の店主のポケットマネーから五万円、三万円と貸してくれたものを、三軒目のゲーム喫茶で金は貸せないけれどちょっと台をイジッてやるから運試ししていきなよと誘惑され、ほんの一本だけのつもりいでうかうかとビデオポーカーに手を出して結局十本も負けてしまった。金策に歩いて、さらに二万円をなくしてしまった勘定になる。
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 楼主| 发表于 2008-2-1 11:19:31 | 显示全部楼层
不定期にオケラになる原因は、そもそもギャンブルにあった。唯一のささやかな趣味。闇カジノのカード・ゲーム。ポーカーかブラック・ジャック。大きな勝負はしない。手元にあるはずの生活資金が底をつくと昼間はいつも悩んでしまう。そんなにスッたつもりはないのだ。しかし、現実に稼ぎはなくなり、貯金もなくなり、大家の三沢の忍耐までがなくなる。言い訳も泣き落としも、もう限界だった。
  金、金、金——いつも金のことばかり考えているなあ——昼間は嘆息をついた。晴れ渡って群青に光る夏空を見上げる。歌舞伎町の上にこんな潔癖な空が広がっているなんて冗談のようなに思えた。あくびをするつもりが光が鼻にしみてシュンとくしゃみが出た。

  昼間薫は別名をマルチェラという。『赤坂の姫』とも呼ばれている。タロット・カードを専門として看板に掲げているが、街角に立つ街占の時は手相、人相も観るし、部屋に客が来る宅占の時は十三星座の話をして、風水の相談にも乗る。そのくらいの融通がきかなくてはこの世界では到底食べてゆけない。
  赤坂三丁目の繁華街、一ツ木通りの間には、櫛の歯のような裏道が多数通っている。その裏道の一つに見台を出して商売を始めたのが三年前の春先だった。赤坂見附駅にほど近いその場所は、みすじ通りの小料理屋『なかもと』の私道だった。店のオーナー・ママの息子が大学法学部の同期で親友であり、そのコネと厚意で私道の片隅を拝借している。
  その親友の中本は六度目の挑戦で司法試験に合格し、昼間の姉夫婦の法律事務所で居候弁護士として働いている。コチコチ頭の真面目一本槍の性格で、親友に道を貸すことは厭わないが、占い師なる得体の知れない職業につくことの後押しをするのは実に遺憾だとぼやいていた。特に中本がいやがっているのは、昼間が女のなりをすることだった。顔を厚く塗り、赤い赤を差す。白い頭巾もしくはチャドルをかぶり、白いロング・ドレスを身にまとう。
  世間をたばかるために女装をするわけではない。若い男に向かって心の悩みを打ち明けたがる客は少ないと考えたのである。百六十センチという小柄で華奢な体格と、色素の薄い端麗な顔立ち、中性的な高い澄んだ声は、そのままでも男女の別をはかりかねる利点があった。
  古来占いの神秘に通じる神々は両性具有であることが多い。占い師マルチェラは、女性というより、女であり男でもある、また女でもなく男でもない、性を超越した存在だと、昼間は考えている。そのように日々心を清めて精進している。美しい女性の客に泣きながらすがられることがあっても、決して、ふらちな同情心を持たないのである。
『赤坂の姫』が生物学的には男性であることは、知る人ぞ知る公然の秘密。時折、困ることも揉めることもあったが、だいたいにおいて、マルチェラの女装は効果的であった。
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 楼主| 发表于 2008-2-1 14:25:46 | 显示全部楼层
通りを隔てた向かい側は、カジュアル・ファッション・ショップ『アメリカン・ブルバード』の煉瓦タイルの壁がえねんと続いている。まるでCMの撮影セットのように、その一角だけが唐突に"アメリカ"である。すっきりと小綺麗に見えるのは、通りのこっち側に並ぶ、カラオケ、パチンコ、立ち食い蕎麦屋、怪しげなビデオ屋、怪しげな薬屋、怪しげな横丁への入口がいかにみ雑多で日本的で美的配慮に欠けるせいかもしれない。
  昼間薫"日本"から"アメリカ"へ通りを渡ろうかどうか迷っていた。西武新宿駅は"アメリカ"の領分にあり、一駅先の高田馬場には姉夫婦の檜山法律事務所があった。
  姉の冬美とは昔から気が合わなかったが、義兄は話のわかる人間だった。姉に内緒でへそくりから三十六万円をこっそり渡してくれそうなタイプだった。
  どうしても金は必要なのだ。
  ギャンブル仲間が貸してくれないなら、ほかを当たるしかないが、学生時代の友人とはほとんど疎遠になっている。まさか客に借金するわけにはいかないし、貢いでくれる女などいないし、手頃な質草もクレジット・カードもないし、サラ金は恐い。もちろん、ほかに親切な親戚など存在するわけがない。
  とりあえず、電話を入れてみようか、と決心した。これは賭けだ。電話に姉か"イソ弁"の中本が出たら負けと認めて無言で切る。義兄が出たら勝ちで話をしてみる。その他の人間、中本以外の若手弁護士か事務員が出たら、義兄に取り次ぎを頼んで、もし義兄が不在であればやはり負けとしてあきらめる。よし。
  昼間薫は通りを渡った。
  まず、西武新宿駅で公衆電話を見つけることにしよう。電話はすぐに見つかった。駅に上る階段の手前に新聞スタンドがあり、その左手に公衆電話が並んでいる。
  しかし、昼間は電話を見つけたとたんに、自分の用件を忘れてしまった。正確に言うと、電話の次に見つけたものに切を取られて、それどころではなくなったのだ。
  一人の男だった。
  階段を降りたところでうずくまっている、坊主頭の長身の鋭い目の男。片手で肩を押さえ、血の気のない真っ青な顔にだらだらと脂汗を流している。一見して具合が悪いことがわかった。しかも、重症だ。肩を撃たれたのかな、と昼間は思った。ヤクザ同士の銃撃など珍しくない土地柄だった。堅気には見えない。服装はくすんだ青の綿シャツに色の落ちたジーンズでヤクザ者らしくはなかったが、髪型、そして全身からただよう野良犬のような隙のない無頼な雰囲気が尋常ではなかった。
  しかし、彼の身体のどこにも血の汚れは見られなかった。どうしたのだろう、どこが悪いのだろうと不思議に思ううちに自然に足が止まり、正面からじろじろと見下ろす形になってしまった。
  好奇心が強い。妙に度胸がある。失うものがないので恐いものもあまりないのかもしれない。ふつうなら、見て見ぬふりで素通りするところを、ついつい引っ掛かってしまう。目があった。
  光の強い目だった。まっすぐに見つめてきた。助けを求めているというよりは、見られたので見返したという単純な気概のようなものが伝わってきた。ふと心が動いた。
『大丈夫ですか?』
  かがみこむようにして声を掛けた。
『肩を、どうしました?私の声が聞こえますか?すぐ救急車を呼びますね』
  相手は必死でかぶりをふった。
『警察は.....いやだ』
『一一〇番じゃない、一一九番』
  昼間は男の耳元に口を寄せるようにして、『キュウキュウシャ、ビョウイン!』
  と一言一言区切るようにはっきりと発音した。それでも、相手はイヤイヤをする。警察はいやだと繰り返す。
『肩をはめればいいんだ。肩がはずれただけだ。家に帰りたい。家に.....。電話を。警察はだめだ』
  かすれた声で懸命にしゃべる。少し頭がぼにゃりしている様子だ。
  肩関節の脱臼か、と昼間は納得した。あれは痛いらしい。自分では経験がないが、経験者を何人か見ている。
  警察もイヤ、病院もイヤということは、かなり物騒な事件に係わりのある人間と見て間違いなさそうだった。
  ギョロリとした大きな鋭い目がにらむように昼間を見据えていた。見据えられて、根が生えたようにその場から動けなくなってしまった。救急車を呼んで、やっかいごとに巻き込まれないうちにさっさと消え失せるのが、大人の分別というものだった。
  一人の太ったブルネットの老女の姿が頭に浮かんだ。ローマの町はずれの安アパートで独り暮らしをするマルチェラという名の老女だった。以前、昼間が、目的もなくイタリアやフランスの町をふらふら流れ歩いていた頃に出会った恩人だ。占い好きでいつも一人でカードを並べていた。タロット・カード。イタリア語でいうタロッコ。
  ケチなギャンブルでもめて、地元のチンピラに半死半生になるまでぶちのめされた彼を道端から拾って怪我の手当をして、宿まで貸してくれたお人好しの陽気なイタリア女。
『うちに来ますか?』
  この男を連れて帰ったら、大家の三沢が何と言うだろうと考えたら、それだけでも馬鹿げた危険を冒す価値があるような気がした。
『肩ね、治してあげますよ。いい医者を知っている。警察には言わないから大丈夫』
  昼間がそう言うと、男はひどく安心したような感謝したような素朴な笑みを見せた。不安をかかえて訪ねてくる占いの客に、良いカードを示して幸運を暗示してやると、そんな心からの微笑を見せられることがあった。いつも、胸の奥がきしむような微妙な痛みを覚える。今もそうだった。
  男をそこに残したまま、タクシーを拾いに行った。千円のチップで手伝ってくれる気のいい運転手を見つけるまでに三台やりすごした。
  身長百八十センチ近くある怪我人は扱いにくく、運転手と二人で大汗かいて車に連れ込んだ。走り始めると、男はほっとしたようにすぐに気を失ってしまった。
  昼間は急に心配になった。肩関節の脱臼だけで気絶までするだろうか。頭かなんか打っているのだったら、やはり病院へ連れて行かないといけないのではないか。早急に。
  迷っているうちに、やがて、男はうっすらと目をあけた。目を開くと同時に右肩を左手で押さえた。痛みでおちおち気絶もしていられないらしい。
『怪我は肩だけ?頭は痛みませんか?頭を打っていないでしょうね?
  昼間は性急に尋ねた。
『チクショウ』
  と相手はつぶやいた。
『頭から落っこったらよかったんだ。下手に手をついたからこのザマだ。』
  思ったより、しっかりした口調だった。
『喧嘩ですか?』
『喧嘩なら、いいさ』
  自嘲気味に薄く笑った。
『やられただけさ』
  昼間は黙ってうなずいた。そして、それ以上の質問は控えた。誰にやられた?なぜ?警察を嫌う理由とともに、あとで人のいないところでゆっくりと尋ねたほうがいい。
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 楼主| 发表于 2008-2-1 15:38:31 | 显示全部楼层
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    かすかにお灸の匂いがした。布製のソファーと、乱雑に雑誌が重ねて置いてある木のテーブルが一つ。狭い待合室は無人だった。受付にも人の姿はない。とにかくここが終点だな、と辻は安心した。路地に車が入れないので、二十センチほども高さの違う華奢な肩にもたれて、よろめきながら歩いてきたのだ。もう限界だった。相手の息もあがっていた。ノックに応えて診察室のドアが開き、白髪まじりのふさふさした眉毛を持ち、白衣を着た体格のいい老人が姿を現した。骨接ぎ、整体、マッサージの三沢医院の主のようだ。気難しい顔つきをしている。二人の姿をみるとさらに不機嫌な目の色になった。
  家賃と立ち退きと弁護士と裁判について、いきなりがみがみと怒鳴られて、痛みと疲労でぼにゃりしていた辻はまた気が遠くなりそうになった。ようやく話の内容が自分のことになったが、やはり風向きは悪い。
『整形外科へ連れて行きたまえ』
  老医師はそっけなく命じたのだ。
『身許の不確かな患者はいやだよ。最近は骨接ぎは流行らない。治療法が気にいらんと言って訴訟でも起こされたらコトだからな』
  ふさふさした眉毛をしかめて、急に疑り深い顔つきになった。
『それとも、何かね、昼間さん、あんた、最初からそのつもりで、一悶着起こすために、その男をかついできたのかね?』
  辻は大声でうめきたくなった。ようやく終点だと思ったのに、何をもめているのだろう。早くしてほしい。骨接ぎの医師だろうが、傘の修繕屋だろうが、こう際ぜいたくは言わないから、早くこわれたところを治してほしい。
  昼間と呼ばれた人物は、医師の不機嫌にまったく動じなかった。
『三沢先生らしくないお言葉ですね』
  そして、老医師がいかに寛大に大胆にワケアリの患者を治療してきたか、その幅広い人間関係についてとうとうと述べたてた。
  老人は文字通り眉毛を逆立てた。
『わしが闇医者だとでも言いたいのかね?患者の弱みにつけこんで治療費をふっかけるような』
『取れるところからはどんどん取るでしょうね。でも取れないところからはきっぱりと取らない。鼠小僧のようなお医者様ですよね』
『侮辱するつもりかね?脅迫かね?』
『とんでもない。めったにいない名医だからお願いに上がっているんですよ』
  医師はうなるような声をたてた。
  えらいところへ連れてこられたな、と辻はあきれた。天使のような親切な女性に助けられたと思っていたが、これは、どうもとんでもない天使のようだった。
『苦しそうですよ。診てあげて下さいよ』
  やゆするような口調が急に素直になって訴えると、医師は無言で相手をにらみつけた。どんな内心の葛藤があったのかは知るよしもないが、やがてありがたいことに診察室のほうにあごをしゃくって、辻に入るように示した。
  ああ、ありがたい。ありがたい。
  老医師のあとについて板張りの床を歩きながら、ずっと左半身を支えていてくれる栗色の髪の"天使"にすみませんねと一言つぶやいた。もっと色々言うべきなのだろうが、言葉が出てこなかった。いえいえ、と相手は小さくかぶりをふった。
  診察台が二つ。薄緑のカーテンで囲われているが、入口に向いた部分は開かれている。医師は左側の診察台に座るように命じた。
  そして——。
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