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『外国人が日本語教師によくする100の質問』から

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发表于 2008-1-24 23:54:15 | 显示全部楼层 |阅读模式
1#  Question 「何」はどんな時に「なに」と読み、どんな時に「なん」と読むのですか。
2#  Question 「~人」はどんな時に「にん」と読み、どんな時に「じん」と読むのですか。
3#  Question 「人々」「人たち」は、使い方に違いがありますか。
4#  Question 「重さ」と「重み」はどう違いますか
5#  Question 「鉛筆があります」と「鉛筆はあります」はどう違いますか。
6#  Question 受身文の動作主はどんな場合に「に」「から」「によって」「で」で表しますか。
7#  Question 「まだ見ていません」と「見ませんでした」と「まだ見ません」は、どう違いますか。
8#  Question 「―んです」はいつ使いますか。
9#  Question 「そして」と「それから」は同じですか。
10#  Question 「~の隣」と「~の横」はどう違いますか。
11#  Question 「多い友達が遊びに来ました」は間違っていますか。
12#  Question 「雨が降り始める」と「雨が降り出す」はどう違いますか。


Question 「何」はどんな時に「なに」と読み、どんな時に「なん」と読むのですか。

「何」の読み方については次の場合が考えられます。
A 「何~」の形で用いられる時。
B 単独で用いられる時。
C 「~何」の形で用いられる時。
(このうちCは例がないようですから除きます。)

A 「何~」の形で用いられる時
Aの場合の読み方は「なに」「なん」のいずれもあります。
(1)「何」を「なに」と読ませる場合は、「何」が次の語「~」の内容、様婴洹⒚挨騿枻Δ猡韦扦ⅳ霑rです。その例としては、次のようなものがあります。
1 何新聞(なにしんぶん)
2 何事(なにごと)
3 何者(なにもの)
4 何係(なにがかり)
5 何航空(なにこうくう)

(2)これに対し「何」を「なん」と読む場合は、「何」が次の語「~」に来る語の数量を意味しています。例えば、次の6~10等が挙げられます。
6 何時(なんじ)
7 何円(なんえん)
8 何枚(なんまい)
9 何冊(なんさつ)
10 何個(なんこ)

以上(1)(2)の「何」は語そのものからそれぞれの読み方を知ることができます。
(3)ところが語によっては「なん」「なに」2つの読み方があり、語それだけからはどちらの読み方か分からないものがあります。次を見てください。
11 何人(なにじん/なんにん)
12 何色(なにいろ/なんしょく)
13 何語(なにご/なんご)

上の⑪~⑬の例でも前述の(1)(2)の読み方規則、つまり名前、内容なのか数量なのかということが選択の基準であることを確認してください。
ここで問題となるのは、(3)のような場合、どちらで読むかを決める要素は何かということです。これは前後の関係、即ち文の中で判断されます。次の⑭の「何人」の読み方は迷うことがありません。

14  a A:学生は何人いますか。
     B:15人です。
   b A:あそこに背の高い人がいますね。あの人は何人ですか。
     B:さあ、日本人ではないかと思いますが。

これまでのことをまとめますと、「なに」「なん」との読み分けは合成語の場合、次の特徴があります。
1) 意味の違い、即ち内容・名前を意味するか、数量を示すかによる。
2) 語だけから読み方が分かる場合と、文の中で分かる場合がある。

B単独で用いられる時
 それではBについて考えましょう。「何」が単独で用いられる、つまり助詞がすぐ続く時は助詞によって「なん」「なに」かが選択できます。

(1)「が」「を」「から」「まで」「も」「は」が続く時は「なに」と読みます。
15 あそこに何がありますか。
16 お昼に何が食べたいですか。
17 何をお飲みになりますか。
18 何から何までやっていただいて、どうもありがとうございました。
19 何もございませんが、どうぞごゆっくり。
20 何はなくとも……。

(2)「の」の前では「なん」と読みます。
21今日は何の話ですか。
22 突然の話なので何の準備もしていませんでした。

(3)「で」の前の「何」は意味により読み分けています。
23 A:大阪へは何で行くんですか。
   B:飛行機です。
24 A:こんなところへ何で行くんですか。
   B:仕方がありません。上司の命令ですから。
上の○23のように、「何」が「乗り物」の意味の時は「なに」「なん」のいずれでも読めます。しかし、○24のように、「何」が原因・理由を示す時は「なん」としか読みません。

(4)「か」「に」の前の「何」は「なに」「なん」どちらも使っています。しかし、「なに」の方が落ち着いた印象を与えることもあります。
25 なにか/[なんか]変に思われます。
26 お母さん、何かない(?)
27 晩ご飯、何にする(?)

(5)「と」が続く場合は次の例があります。
1)「と」のみが続く場合は「なに」「なん」いずれもあります。
28 実験には なに/なんと 何が必要ですか。
29 暗闇で なに/なんと ぶつかったのですか。
2)「何という」は「なんという」と読む。
30あれは なに╳/なんという 花ですか。
31あちらの方のお名前は なに╳/なんといいましたかしら。

[ 本帖最后由 優香 于 2008-2-2 23:04 编辑 ]

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 楼主| 发表于 2008-1-27 19:03:34 | 显示全部楼层
Question 「―んです」はいつ使いますか。

 文末に用いられて説明的なニュアンスを表す「―んです」が、実際にはどのような時に使われているのか、例を見ながら観察しましょう。

(1)疑問文で

① a 暑いですか。
  b 暑いんですか。
 
①aの例は、相手が暑いかどうかについてまったく白紙の状態で尋ねる場合であり、bの例は相手がセーターを脱いだり、或いは窓を開けているのを見て、その理由として自分が推測していることを相手に確認する場合と考えられます。次の例ではどうでしょうか。

② a 大学へ行きますか。
  b 大学へ行くんですか。

 ②aでは、例えば進路調査などで相手に関して何の予想もなく白紙の状態で大学へ行くかどうか尋ねて折り、②bでは、相手が受験勉強をしていたり、大学の受験案内を呼んでいるのを見て、自分が推測した内容を相手に確かめるための質問と考えられます。

③ a 昨日は何をしましたか。
  b 昨日は何をしたんですか。

 単に昨日の過ごし方を聞きたい場合には、③aのように質問するでしょう。一方、相手が疲れた顔をしていたり、いつもと違う様子で不審に思ったら③bのように尋ねるでしょう。
 
 ①②③の例から見て、何か質問の前提となる状態や状況があって、そのことについてわけを説明してほしいと思ったり、詳しく知りたいと興味を持ったりした場合には「―んですか」の形で質問すると考えられます。

 気分が悪そうな様子の人を見たら、「どうしたんですか」、夢中で本を読んでいる人を見たら、「何を読んでいるんですか」、また、夜遅くまで帰ってこなかった人に対しては、「どこで何をしていたんですか」と、詰問するようなニュアンスになることもあります。

(2)平叙文で

1)会話のスタートに「―んです」を使うと、どんな意味になるでしょうか。

④ A:昨日、新宿へ行ったんです。
  B:……

 Bは、Aの話がこれで終わらずにもっと続くと期待して待つのではないでしょうか。

⑤ A:昨日、新宿へ行ったんです。
  B:そう。(それでどうしたの)
  A:そしたら、ぱったりダグラスさんに会ったんです。彼、今日本の会社に勤めて…

 このように、会話の始めに「―んです」を使うのは、これから話したいと思うことを切り出すためのようです。

2)相手にわかってほしい気持ち、説明したい気持ちを強くアピールするために使います。例えば、医者に「どうなさいましたか」と聞かれて自分の病状を説明するときは、次のように言うでしょう。

⑥ a 吐き気がするんです。
   b このへんがしくしく痛いんです。
  c 食欲がないんです。

3)相手にわけを尋ねられて、説明するとき使います。

⑦ A:どうしたんですか。元気がありませんね。
   B:頭が痛いんです。
⑧ A:どうして遅くなったんですか。
   B:電車の事故があったんです。

理由を聞かれた時の答え方として、学習者が次のように「―んです」と「―から」を両方使って「―んですから」と言ってしまうことがあります。

⑨ A:どうして遅くなったんですか。
   B:電車の事故があったんですから。╳

 ⑨のように答えると、「仕方がないでしょう。電車の事故があったんですから」のように強い意味に感じられてしまいます。「―んです」に既に理由を説明する意味がある上に、更に理由を示す「―から」を加えたため、必要以上に強い説明になってしまうからでしょう。

 次の会話を見て、以上のことを確かめてみましょう。

⑩ A:昨日は何をしましたか。(白紙で)
   B:ディズニーランドへ行きました。(淡々と)
   A:誰と行ったんですか。(興味を持って)
   B:友達と行きました。(淡々と)
   A:楽しかったですか。(白紙で)
   B:いいえ、あまり楽しくありませんでした。(淡々と)
   A:どうして楽しくなかったんですか。(わけを知りたい)
   B:友達とけんかしたんです。(わけを説明)
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 楼主| 发表于 2008-1-25 00:38:48 | 显示全部楼层
Question 「~人」はどんな時に「にん」と読み、どんな時に「じん」と読むのですか。

「~人」という言葉を挙げてみましょう。まず、「日本人」「外国人」「美人」「老人」「新人」「要人」など、「じん」と読む語群があります。また、「世話人」「管理人」「集金人」「勤め人」のように「にん」と読む語群もあります。そこで「じん」(漢音)と読む場合と「にん」(呉音)と読む場合で使い分けがあるかどうかが問題となりますが、ここに挙げた熟語を見るだけでも一つの規則性を発見できそうです。それは「にん」と読む場合、その前に来る要素は「人の動作を表す語」なのに対し、「じん」と読む場合はそれが「人の属性を表す語」だということです。「世話人」「管理人」「集金人」はそれぞれ「世話する人」「管理する人」「集金する人」と言い換えることができますが、「日本人」「外国人」「美人」「老人」などはそれぞれ「日本の人」「外国の人」「美しい人」「老いた人」の意味であり、「~する人」ではありません。
 
 この規則は新しく言葉を創る時にも用いられて、「地球人」「国際人」「マスコミ人」等は「じん」と読んで、「地球的規模の人」「国際的な人」「マスコミ界の人」という意味になります。そして「~する人」と言う意味の新語を創るとしたら「人」は「にん」になるわけです。例えば「流行の仕掛け人」「働き人(在米一世の間で“worker”の意で使われる)」などでは「仕掛ける人」「働く人」の意味ですから、「人」の読み方は「にん」になるのです。

 このように「~人」は「~」の部分に静的属性を現す語が来た時には「じん」、動作を表す語が付いた時には「にん」と読む、と一応は言えそうです。しかし、これはいつもそうだと言えるような規則でしょうか。残念ながら、事実はもっと複雑です。「~」の部分に形容詞性の語がくる「善人」「悪人」は「ぜんにん」「あくにん」ですし、「罪のある人」は「ざいにん」「病気のある人」は「びょうにん」です。また、「使用人」は「使う人」ではなく「使われる人」です。更に、「じん」と読む「求人」「殺人」は「~する人」ではなく「人を求めること」「人を殺すこと」です。「人を求める人」「人を殺す人」はそれぞれ「求人者」「殺人者」ですが、強いて「~人」と言おうとしたら、「求人人」「殺人人」となって、「きゅうじんにん」「さつじんにん」になるとかんがえられます。ここでは前述の原則が貫かれるからです。

 このように「じん」と「にん」との読み分けは、およそその規則があるという程度で、例外が多くあるのです。ですから日本語学習者は一つ一つの語を個別に覚えるしかないのですが、これは語彙教育に関しては往々にして言えることのようです。しかし、例外の多い原則やおよその傾向ではあっても、その原則や傾向を知っていれば、記憶の助けになったり、類推のよりどころになったりするでしょうから、一概に無意味とは言えません。
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 楼主| 发表于 2008-1-25 01:01:19 | 显示全部楼层
Question 「人々」「人たち」は、使い方に違いがありますか。

 1 日本に来て、人たちがとても親切なのを知りました。╳
 2 以前、私が思っていた日本といえば、人たちはいばっていてあまり親しみのある国では   ありませんでした。╳

これは、外国人の学生の書いた作文の中の一節ですが、やはり「人たち」という表現には引っかかるものを感じます。日本人が極普通に書くとすれば「人々」でしょう。では、なにが違うのでしょうか。

日本語は西欧系の言語に比べ、単複の表現が厳密ではないと言われます。確かに主語の単数・複数によって動詞は影響を受けませんし、また実際の意味は複数でありながら、表現は単数、ということがよく見られます。

 3 観光地は人で溢れていますが、ここは静か過ぎると言ってもいいほど。
 4 地元の人しか知らないような所を好んで歩き回る。

 ある雑誌で見かけた文ですが、これらの「人」は「人々」と入れ換えてもなんら問題のないものです。同様に、例えば「山に囲まれた村」という表現も、当然複数の山を意味しています。しかし、単に「人」或いは「山」だけではもの足りず、時にはその量的な意識をより出して表現したいこともあります。
 5 様々な分野のユニークな人々が、入れ替わり立ち替わり出入りする。
 6 その間、約10人の人たちが切符を買い終わるのをじっと待つのである。

「人々」は、語の構成の面からは「畳語」と呼ばれ、同じ類の語を重ねることによって複数を表しますが、「人たち」は「たち」という接尾語を伴って量の多さを表します。また、「人々の顔は喜びに溢れていた」のように「人々」には、単なる複数のみでなく、「その集団の中の一人一人」を表すことも可能です。

 では、文を構成する上での違いは何でしょうか。前の5,6では、「人たち」のほうが、やや砕けた感じを与えるほかは、大きな差はないようです。
 
次はどうでしょう。7,8の文では「人たち」への置き換えは不可能です。
 7 その村は、人々が昔ながらの家に住み、生活しています。
 8 煙がホワーと立ち上るのを見て、人々の暮らしのあることが分かります。

 「人々」は、それ自体で主格に立つことや、連体修飾語を受けずに文の中に現れることが可能ですが、「人たち」は、その語の前に連体修飾の部分が不可欠です。
 
 それは、畳語の場合は、その構成が「人」という独立性のある語の繰り返しによって出来上がっていますが、「たち」はあくまでも前の語に付属するものとして機能している、という違いによるのでしょう。

 つまり、「人たち」のほうは、まずその「人」がどんな「人」であるかの規定がなされなければ、「たち」という接尾語で一つのグループとしてまとめてくくってしまうことができないのに対し、「人々」の場合はそのような規定がなくとも「人」や「人」の集まりとして独立した存在として使えるのです。

 一見同じような複数の表し方に見えますが、このように、連体修飾語を必要とするか、しないか、などということも、作文の授業の際などに、はっきりと理解させたいものです。
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 楼主| 发表于 2008-1-25 01:16:28 | 显示全部楼层
Question 「重さ」と「重み」はどう違いますか

「重さ」と」「重み]、「厚さ」と「厚み」、「面白さ」と「面白み」、「新鮮さ」と「新鮮み」などのように、語尾に「さ」がつく場合と「み」がつく場合があって、両者は微妙に意味が違うと感じられる言葉のペアがあります。これら対になっている語の意味は、どのように違うのでしょうか。

 この問題を考える前に、まず接尾語「さ」と「み」はどのような語につくか考えて見ましょう。「さ」も「み」も形容詞や形容動詞の語幹について、もとの語を名詞に変える働きを持っていますが、「さ」がほとんどの形容詞、形容動詞の後に付くことができるのに対して、「み」は限られた語にしかつけることができません。

    青い              青さ              青み
    重い              重さ              重み
    楽しい              楽しさ     楽しみ
    悲しい              悲しさ     悲しみ
   うれしい     うれしさ  うれしみ╳
  美しい            美しさ     美しみ╳
   真剣だ              真剣さ     真剣み
   きれいだ     きれいさ    きれいみ╳
   丁寧だ             丁寧さ      丁寧み╳

 思いつく形容詞と、形容動詞で「―さ」、「―み」をつくってみてください。「―さ」と言えても「―み」とは言えない場合が多くことが分かります。また「穏やかさ」「親切さ」「ナウさ」など、「―さ」は和語系、漢語系、外来語系のいずれの形容動詞にも付くことができます。しかし、「純さ」「急さ」「鈍さ」などとは言いませんから、漢字1語に「だ」が付いてできる形容動詞には「さ」は付きません。

 さて、「―さ」と「―み」の意味的な違いについてですが、次のようにまとめられるでしょう。

Ⅰ「―さ」
1)感情、感覚、客観的な状態を表す形容詞に付いて、それぞれの語の属性そのものを客観的なものとして表す。
①旅の楽しさは人との出会いにある。
(旅の中で楽しいこと)
②梅雨時の不快さは、日本の気候に慣れない人には耐えがたいようだ。
 (梅雨時が不快であること)

2)それぞれの語の属性の程度を現す。
「強さ→強度」「高さ→高度」「甘さ→どのくらい甘いか」「厚さ→どのくらい厚いか」「新鮮さ→どのくらい新鮮か」と言い換えることができる。

Ⅱ「―み」
1)それぞれの語の属性概念そのものの触覚的、感覚的にとらえて表す。
③その本を持ってみるとずしりと重みを感じた。
 (持った時の重い感じ)
④厚みのある一枚板で作ったテーブルです。
 (触った時の厚い感じ)

2)その語の属性のような状態である場所や部分を現す。
⑤深みにはまる。
⑥弱みを握られている。
⑦事件が明るみにでた。
⑧あの人の強みは支持者が大勢いることだ。

 このように「―さ」は属性そのものや客観的な程度概念を表すのに対し、「―み」は触れたり持ったりすることによって感じるもの、感覚的にとらえたものを表しています。

 しかし、和語に「み」の付いたごのうち「痛み」「悲しみ」「苦しみ」「すごみ」「楽しみ」「懐かしみ」「哀れみ」などは動詞連用形を同じ形ですから、形容詞に接尾語「み」が付いた「―み」とは、語の成立の事情が異なると考えられます。

 以上のことから、次の⑨⑩のそれぞれa、b二つの文の中の「―さ」と「―み」の使い分けの理由が理解されるでしょう。

⑨ a この荷物の重さは5キロである。
    (客観的な重いことの程度)
  b あの人は人間としての重みを感じさせる人だ。
    (精神的、主観的にとらえられる重厚なこと)
⑩ a  この本の面白さは読んで見なければ分からない。
    (どのくらい面白いか、面白いこと)
    b あの絵には面白みがない。
      (面白いと感じられるもの、そのもの)

[ 本帖最后由 優香 于 2008-1-25 13:05 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2008-1-26 21:08:41 | 显示全部楼层
Question 「鉛筆があります」と「鉛筆はあります」はどう違いますか。

次の例の( )に「が」か「は」の適当なほうを入れて読んでください。

1.A:あっ、佐藤さんだ。
  B:どこに?違いますよ。
   あの人(①)山本さんですよ。
  A:ああ、そうですか。
   あの人(②)山本さんですか。名前だけは聞いていましたが。
  B:ええ。
   佐藤さん(③)眼鏡をかけていませんから。
2.A:あなたのかばん(④)どこにありますか。
  B:あそこに黒いかばん(⑤)ありますね。
  A:ええ。
  B:あれ(⑥)私のです。
  A:そうですか。
3.A:お宅の近くに信託銀行(⑦)ありますか。
  B:いいえ。信託銀行(⑧)ありません。
  A:じゃ、銀行(⑨)ありますか。
  B:ええ。
  A:何銀行(⑩)ありますか。
  B:X銀行(⑪)あります。
  A:X銀行(⑫)どこにありますか。
  B:駅前にデパートと郵便局(⑬)あります。そのデパートと郵便局の間に道(⑭)あります。その道を入って、右側の2、    3軒目にスーパー(⑮)あります。X銀行(⑯)スーパーの隣にあります。
  A:ありがとうございます。
  B:いいえ。
4.鯨(⑰)哺乳動物です。
5.鯨(⑱)哺乳動物であることを皆知っている。

 このようにしてみると、「は」「が」を選択して使っていることが分かります。「は」
「が」の使い方について以下のような見解があります。

[は]                     [が]
主題(topic)                 主語(subject)
                     総記(exhaustive list)
                     ほかならぬ
対比(separating one from others)
古い情報                 新しい情報
真理

前出の例1~4を例にとり、「見解」と対照させて検討してみると以下のようになります。

①古い情報         ②新しい情報
③古い情報         ④主題
⑤新しい情報        ⑥新しい情報
⑦主題           ⑧古い情報
⑨対比           ⑩新しい情報
⑪新しい情報        ⑫古い情報
⑬新しい情報        ⑭新しい情報
⑮新しい情報        ⑯古い情報
⑰真理           ⑱総記

 それでは、標題の文の「鉛筆があります」「鉛筆はあります」の「が」「は」二ついてはどうでしょうか。「が」は主語を示している一方で、「ほかならぬ」といった総記の解釈を受け、「は」は対比の解釈が優先すると思いますが、どうでしょうか。しかし、それは母語話者だから分かることです。私たちは談話を想定して解釈をしているのです。母語話者は前述したような規則を運用しているからこそ単独の文でも解釈できるのです。別の言い方をすれば、次の6、7で挙げるような談話を想定することができるから、理解できるのです。

6.A:机の上に何がありますか。
  B:鉛筆があります。
7.A:そこにペンがありますか。
  B:いいえ。でも鉛筆はあります。

それでは、次の文はどうでしょうか。

8.(小説の書き出しなど)山辺はこう思った。
9.A:映画に行かない?
  B:映画はねえ…….
10.本日、私がお話したことは……

「は」には、既知の情報を導き、未知の情報と関連付ける用法があります。8のようなはじめ方をすると、「山辺のこと」をあたかも前から知っているかのごとく扱い、話に読者を引き寄せる効果があります。また9は対比の意味であり、映画以外のものがいいという意味が読み取れます。10では主題として、聞き手の注意を引く機能を果たしています。

 このように、「は」を用いることによって、中立的に事柄を述べるのではなく、言外の意味を提示することになります。そして、それが主題、対比、旧情報、真理だったりするのです。

 ここまでは、「は」「が」を対立させて考えてきましたが、「は」は「が」とのみ問題を持つのではありません。

11.a パンを食べます
  b パンは食べます。
12.a ここから見えます。
  b ここからは見えます。
13.a 昨日、映画を見に行きました。
  b 今日は、映画を見に行きません。

 「は」は係助詞と分類されることが多いのですが、12で格助詞とともに現れることからも分かるように、格助詞「が」とは本質的に性格が異なります。ですから「は」対「が」ととらえるのではなく、「は」或いは「が」によって何を伝えようとしているのか、何がどう伝わるのか、何が伝えられるのかを検討しなければならないのだと考えます。
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 楼主| 发表于 2008-1-26 21:53:28 | 显示全部楼层
Question 受身文の動作主はどんな場合に「に」「から」「によって」「で」で表しますか。

(1)「に」
受身の動作主は、まず基本的には「に」で示すと考えられます。

①彼は看護婦に支えられて歩いている。
②太郎は二郎に殴られた。

また、迷惑の受身の場合には常にその動作主を「に」で示します。

③赤ちゃんに泣かれた。
④雨に降られた。

 しかし「に」は、受身の動作主以外にもいろいろな意味を表し、文に現れる頻度の高いため、同じ文中に複数の「に」が使われるのを避けたり、他の意味に誤解されるのを防ぐため、「に」の代わりに「から」「によって」等を用いることも多いようです。

(2)「から」

⑤友達から/[に]誕生パーティーに招待された。
⑥相撲協会理事長から/に╳ 優勝カップが贈られた。
⑦彼は皆から/に尊敬されている。

⑤のような場合には、同じ文中に「に」が2回現れるのを避けて「から」を用いられることが多いでしょう。⑥は「に」を使うとカップを贈られた先を示してしまいます。⑤も⑥もその動詞は気持ちや物の移動を意味する方向性のある動詞で、その出所が受け身分の動作主と同一であるため、「から」によって示すことができるのです。⑤は「友達」が招待の出どころであり、⑥においては理事長がカップの出どころです。⑦は「から」を選ぶ積極的な理由はありませんが、「尊敬」の出どころが「みんな」であるため、「に」も「から」も自然に使えます。

⑧1億円のダイヤが何者かから╳ /に奪い去られた。

 ⑧の動詞も移動を表しますが、その方向が⑤~⑦とは逆であり、「に」の代わりに「から」を使うと「何者か」は被害者(出どころ)になってしまうため、この文では「から」は使えません。

(3)「によって」

⑨( )に建てられた塔
⑩( )に描かれた絵。
⑪( )に掘られた井戸

上の⑨~⑪の動詞は、それぞれ何かを創造する意味を持つ動詞です。⑨~⑪の( )二言葉を入れるとすれば、
⑨(広場)に建てられた塔
⑩(壁)に描かれた絵
⑪(庭)に掘られた井戸
 のように、場所を表す言葉を考える人が多いのではないでしょうか。「建てる」「描く」「書く」「つくる」「掘る」など、何かを創造する意味を持つ動詞は、創造された結果そのものが存在する場所を示す言葉、「どこに」との結びつきが一番強いのでしょう。そのため、
⑨(エッフェル)に建てられた塔
⑩(ピカソ)に描かれた絵
⑪(アリ)に掘られた井戸
と、受身文の動作主を「に」で示すと非文法的に感じてしまいます。また、これらの動詞には方向性がないので、「から」も使えません。「つくる」「書く」などの創造することを意味する動詞の場合、もし受身文に「から」を使うと、動作主ではなく、原材料や創造する順番の意味に感じてしまうのではないでしょうか。

 このような動作の受身の動作主を示すためには、
⑨a エッフェルによって建てられた塔
⑩a ピカソによって描かれた絵
⑪a アリによって掘られた井戸
のように「によって」が選ばれます。ただ、上の⑨a、⑩a、⑪aのような文は書き言葉的であり、話す時には
⑨b エッフェルが建てた塔
⑩b ピカソが描いた絵
⑪b アリが掘った井戸
のように言うほうが普通でしょう。
 
「によって」は次の例のように書き言葉の文中で、しかも改まった固い表現の中でよく使われるようです。

⑫反対派によって妨害された。
⑬国家権力によって踏みにじられた自由。

(4)「で」

⑭雨に降られた。
⑮泳げない子供が波にさらわれた。
⑯洪水で水が流された。
⑰風で帽子が飛ばされた。
⑱戦争で何もかも破壊された。
⑲ミサイルで何もかも破壊された。

 受身文の動作主は、自分の意志で動くことのできる生物であることが基本でしょうが、生物でなくても⑭⑮のように自然現象的なものを擬人化して「に」で表すことがあります。また、⑯⑰のように「で」で表すこともありますが、この場合は擬人化の感じはなく、動作主というよりむしろ「原因」のような意味が感じられます。⑱のように人為的なものになると更にその感じは強くなり、⑲の場合も「手段」の意味になって動作主はほかにいると感じます。

 結論的に言えば、受身文の動作主が生物の場合には「―で」で表すことはなく、無生物が受身文において「―で」で表されると、動作主というより、原因や手段の意味になる場合が多いと言えそうです。
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 楼主| 发表于 2008-1-27 18:31:21 | 显示全部楼层
Question 「まだ見ていません」と「見ませんでした」と「まだ見ません」は、どう違いますか。

①A:あの映画、ずいぶん話題になりましたけど、見ましたか。
 B:いいえ、見ませんでした。
②A:あの映画、ずいぶん話題になりましたけど、見ましたか。
 B:いいえ、まだ見ていません。

 上の例は①も②も正しい自然な日本語のやり取りですが、その意味は違います。①の会話から、私たちはその話題の映画はもう終わってしまったと感じ、②の会話から、その映画はまだ上映中であると理解するのではないでしょうか。

 ①の会話を見ると、もう終わってしまって過去のこととなったある一定の上映期間中に、その話題の映画を「見る」と言う事実があったかどうかを尋ねるために、「見ましたか」と、「―ました」の形をとるということが、まず分かります。そしてその問いに対して、その過去の期間中にそのような事実がなかったことを伝えるために、「―ました」に対応する「―ませんでした」の形で、「見ませんでした」と答えることが次に分かります。

 「見ましたか」は、また②の例のようにその映画の上映中、上映し始めてから今に至るまでに、「見る」ということが済んでいるかどうかを尋ねるためにも使われますが、この場合には「もう見ましたか」の「もう」が省略されていると考えるべきでしょう。そして、見る予定はあるが今までにそのことがまだ済んでいないということを伝えるためには、「まだ見ていません」と「まだ-ていません」の形が必要となります。この場合の「まだ」も「もう」と同じく省略可能であり、省略されても文の意味は変わりません。

 もし見る予定が全然なければ、「まだ見ていません」とは言わず、次の③のように答え、「―しません」の形で見る意志がまったくないことを示すのではないでしょうか。

③A:あの映画、もう見ましたか。
 B:見ません。戦争映画は好きじゃないんです。

 では、次の例④のBの答えはどんな意味でしょうか。

④A:あの映画、ずいぶん話題になりましたが、見ましたか。
 B:いいえ、まだ見ません。もう少しすいてから見ようと思っています。

 上の④では、Aが今までにその映画を見るということが済んでいるかどうかを尋ねているのに対して、Bはその問に直接答えていません。そして、見る予定はあるが、まだその時ではないということを意志的に「まだ見ません」と「まだ-ません」の形で伝えています。この場合、「見る」は話者の意志的な行為であるため、「まだ見ません」は意志的なニュアンスを持ちますが、次の⑤~⑦の例のように、第三者の行為を客観的に述べたり、或いは話者の行為であっても意志的でない場合、また人間と意志と関係のない事柄について述べる場合などには、意志的なニュアンスはなく、単にまだその時に至らないということを示すだけのようです。

⑤A:彼、もう起きましたか。
 B:いいえ、まだ起きませんよ。
⑥A:もう終わりましたか。
 B:まだ終わりません。後一時間ぐらいかかります。
⑦A:雨、もう止みましたか。
 B:まだ止みません。よく降りますね。

 以上、①~④そして⑤~⑦はその伝える意味に少しずつ違いが見られますが、初級の学習者の場合には混乱を避け、また、実際に使えるようにするためにも、①と②に絞って確実に指導することが一般的でしょう。
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 楼主| 发表于 2008-1-28 15:22:36 | 显示全部楼层
Question 「そして」と「それから」は同じですか。

 辞書によれば、「そして」にも「それから」にも、1前に述べた動作状態を受けて引き続いて起こる事柄を述べる、2前に挙げたことに更に追加する意を表す、という2つの用法が挙げられており、「そして」には「それから」、「それから」には「そして」がそれぞれ類義語として挙げられています。しかし実際には同じように使えない場合もあります。学習者はそこの違いを知りたいのでしょう。

「そして」には、次の例文のような5つの用法が見られます。これは「―て形接続」の意味と共通する点があるようです。この5つの用法に「それから」が使えるかどうか検討して見ましょう。

(1)並列
①彼はハンサムです。そして/それから背が高いです。

(2)時間的経過
②明日は午前中に床屋へ行きます。そして/それから午後は映画を見に行きます。

(3)<文1>は<文2>の前提
④昨日レストランへ行きました。そして/それからエビフライを食べました。

(4)帰結
⑤二人は結婚しました。そして/それから幸せに暮らしました。

(5)原因
⑥高い車を買いました。そして/それからお金がなくなりました。

 例文から、「そして」「それから」のどちらも使えるのは(1)(2)の「並列」と「時間的経過」です。(3)(4)(5)の「<文1>は<文2>の前提」「帰結」「原因」は「そして」だけにある用法のようで、「それから」を使うと不自然になります。用法の重なる(1)(2)についても受ける感じは微妙は違いがあります。

⑥a 空は限りなく青い。そして限りなく広い(並列的)
 b 駅前にはいろいろな店がたくさんある。それから銀行やデパートもある。(付加的)

⑦a昨日は友達に手紙を書きました。そして11時ごろ寝ました。(時間的経過)
 b 昨日は新宿で映画を見ました。それから渋谷でボーリングをしました。(時間的経過)

 ⑥は前に挙げたことに更に追加する意味の例文ですが、<文1>と<文2>を並列的につなぐ時には「そして」、<文1>に<文2>を付加的に追加していく場合には、実際には「そして」よりもむしろ「―て形」で接続するか、或いは「それから」を使うことのほうが多いのではないでしょうか。「そして」はどちらかというと書き言葉としてよく使われるようです。作文を書く時など「それから」を多用すると、どこか幼稚な感じがします。

 ⑦は前に述べた動作状態に引き続いて起こることを述べる場合で、「そして」「それから」のどちらも使えますが、「そして」で文をつなぐと<文1><文2>にはどこかつながりのある流れが感じられますし、「それから」でつなぐと<文1><文2>はそれぞれ互いに関係のない独立した動作のような感じがするのではないでしょうか。

[ 本帖最后由 優香 于 2008-1-28 15:29 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2008-1-28 21:47:17 | 显示全部楼层
Question「~の隣」と「~の横」はどう違いますか。

「~の隣」も「~の横」も、何かが横列に並んでいる場合の表現であるという点では同じですが、「~の隣」は隣接していなければ言えないのに対し、「~の横」必ずしも隣接していなくてもいいという点でまず違います。しかし、問題になるのはこのようなことではなく、隣接している場合の両者の使い分けである考えられます。例を見ながら考えて見ましょう。

① 一郎は二郎の隣
② 本屋は靴屋の隣
③ ドイツ語の辞書はイタリア語の辞書の隣
④ トースターは電気釜の隣

 上の①~④は、それぞれ同種・同系列・同格のもの同士の位置関係であり、「~の隣」で表してごく自然な例ですが、次の⑤a~⑩a場合には「~の隣」では不自然です。

⑤a トースターは冷蔵庫の[隣]/横
⑥a 赤ちゃんはお母さんの[隣]/横
⑦a 介添人は花嫁の[隣]/横
⑧a テレビは勉強机の[隣]/横
⑨a 一郎は勉強机の[隣]/横
⑩a 空き地は家の[隣]/横

 上の例の「~の隣」が不自然なのは、どうしてでしょうか。その理由を次の整理して見ましょう。

⑤⑥a 同種・同系列だが大きさが違う。(同格でない)
⑦a 同種で大きさも特に問題とならないが、主・従がはっきりしている。(同格でない)
⑧a 同系列で大きさも特に問題とならないが、価値観における順位が違う。または、どちらかというと固定されたものと移動可能なもの。
⑨⑩a 異種・異系列なもの。

 以上の整理から、異種・異系列の場合、また種類や系列が同じでもいろいろな意味で格が違う場合には「~の隣」ではなく、「~の横」でその位置関係を表すと言えそうです。異種・異系列の場合にも純粋にそれだけの理由というよりは、むしろ何らかの意味で基準になるものと従うものという関係が感じられ、やはり格の違いを認めているのではないかと思われます。

 「~の隣」の場合、二者は同格ですから「一郎は二郎の隣」を「二郎は一郎の隣」と言うこともできますが、「~の横」の場合はそうは行きません。

⑤b 冷蔵庫はトースターの横 ╳
⑥b お母さんは赤ちゃんの横 ╳
⑦b 花嫁は介添人の横 ╳
⑧b 机はテレビの横 ╳
⑨b 机は一郎の横 ╳
⑩b 家は空き地の横 ╳

「~の横」の場合は、「従たるものは主たるものの横」の公式があるようです。

[ 本帖最后由 優香 于 2008-1-28 21:49 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2008-1-29 16:13:50 | 显示全部楼层
Question 「多い友達が遊びに来ました」は間違っていますか。

普通、形容詞はそのままの形で述語としても連体修飾語としても使うことができます。「この花は赤いです」と言うことも「赤い花を買いました」と言うことも両方可能だということです。しかし、日本語話者ならすぐ分かるとおり、「私は友達が多いです」とは言えても、「多い友達が遊びに来ました」と言うことはできません。「友達が大勢遊びに来ました」または、「友達がたくさん遊びに来ました」と言い換えなければなりません。「多くの友達」「たくさんの友達」ということもできますが、やや書き言葉的な感じがします。この点で「多い」はほかの形容詞とは違った性質を持っています。つまり「多い」は述語としては使えても連体修飾語としては使えないのです。

 ただし、「多い」の前にほかの語があって、それ全体が「多い」の後にくる名詞の属性を現しているような場合には、「~が多い~」ということができます。例えば、「兄弟が多い人」「雨の多い年」「中国人が多いクラス」などは可能だということです。この場合、多いのは「人」「年」「クラス」の数量ではなく、「兄弟」「雨」「中国人」の数量であり、「兄弟が多い」「雨が多い」「中国人が多い」がぞれぞれ「多い」の後の「人」「年」「クラス」を修飾し、「どんな人か」「どんな年か」「どんなクラスか」を説明しています。

 同じことが「多い」の反対語、「少ない」についても言えます。「少ない」も「~が少ない」と言うことはできても、「少ない~」のように、それだけで連体修飾語として使うことはできません。「東京には緑が少ない」や、「このクラスには女子学生が少ない」は可能ですが、「東京に少ない緑がある」とか「このクラスには少ない女子学生がいる」などとは言えません。「少ない」は「多い」の場合と異なり、「少しの」を使っても不自然なことが多いようです。「~が少ない」または、「少数の~」のような言い方をしなければなりません。

① この辺には少しの╳ /多くの外国人が住んでいます。
② この辺には外国人が少し /たくさん住んでいます。
③ この辺には少数の /大勢の外国人が住んでいます。

 「少ない~」も「子供が少ない家族」や「甘みが少ないお菓子」のように、連体修飾語の述語として使われる場合には可能なことは、「多い」の場合と同じです。

 また、「数量が少ない」という意味ではなく「限られた数量」という意味なら「少ない」という言い方ができます。「少ない給料をやりくりして何とか生活しています」「少ない時間を有効に使いましょう」などは、「限度のあるお金、時間」という意味で「少ない」を使っているわけです。この質問者に対しては、「多い友達」や「少ない学生」は間違いであり、「~が大勢(たくさん)」「~が少し」といわなければならないことを徹底させる必要があるでしょう。
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 楼主| 发表于 2008-2-2 22:55:50 | 显示全部楼层
Question 「雨が降り始める」と「雨が降り出す」はどう違いますか。

(1)雲一つない青空のいい天気に日に突然雨が降り[はじめる]/だすことがあります。狐の嫁入りと言われる現象です。
(2)横を歩いていた友人が急に走り[始めて]/だしていってしまった。

上の例で「―はじめる」はしっくりこない気がします。次の例ではどうでしょうか。

(3)雨が降り始めた/出した。
(4)走り始めた/出した。

(1)と(3)、(2)と(4)は「突然」や「急に」の有無という点だけが違っています。「突然」や「急に」は、行為・動作の出現が予想外であったり、変化の仕方が激しい時に用いられます。このことから、
1.行為・動作の予測が付かない時やそれが困難なことを伝える語とは「―出す」の方が「―はじめる」より共起しやすいことが分かります。また、
2.行為・動作が起こることの予測が難しいということは、その始動時の予測、特定も難しいということになります。1,2からその始動時が特定できない、また特定し難いという時には「―出す」を使い、「―はじめる」は避けられる理由が分かります。次の例でそれを確かめてください。

(5)にこにこ笑っていた子供が、不意に大声をあげて泣き[はじめた]/出した。
(6)よく晴れていると思っていたら、突如ごろごろ雷が鳴り始めた╳/出した。
(7)兎は目を覚まして我に返ると、慌てて走り[始めた]/出した。
(8)壊れていると思っていた時計の針が不意に音を立てて動き始めた/出したからびっくりした。

3.上記1,2のほかに、始動の時が問題になっていない時も「―出す」の方が多いようです。これとは逆に、始動時そのものが問題の時は「―始める」の方が適当でしょう。次の(9)(10)は「動作」そのものの始まり、(11)は「動作の習性」の始まりの例です。

(9)主任さん、お客さんは何時に入れ始めたら/出したら╳ いいでしょうか。
(10)うちの子が話し始めた/[出した]ときはうれしくてね。
(11)私が皇居の周りを走り始めた/[出した]時、ジョギングはまだはやっていませんでした。

4.さらに、自分の意志でコントロールできない場合も「―出す」を使っています。

(12)物見高い私は、人ばかりを見て思わず走り[はじめた]/出した。

さて、標題の文を考えましょう。

(13)雨が降り始めた。
(14)雨が降り出した。

以上の1~4から考えると、「ポツッ、ポツッと雨の滴が落ちてきた。一雨くるかな」といった予測が可能な時は「降り始める」という感じがしますが、普通は雨がいつから降ったか、などということは気にしていませんから、「降りだす」を使っているのではないでしょうか。

ところで、標題の質問からは少しはずれますが、「―出す」にはもう一つ「出来上がったものがある」という意味があります。次の例文を見てみましょう。

(15)……つくりはじめた╳(始められた)/出された作品はいま、全世界の人々の心を和ませている。
(16)裏の畑から黄金を掘り始めた╳/出した。
(17)新しい製法をあみ始めた╳/出した。

上の例から、「―出す」は、「出す」の本来の意味、即ち「―」の行為・動作の結果何かが出来上がったり、現れたりする意味も伝えていることが理解できます。「―始める」にはこの意味はありません。参考までにこのような例を下に挙げておきましょう。

(18)思い出す(だから記憶がある)    思い始める╳
(19)書き出す(だからメモがある)    書き始める╳
(20)考え出す(だから案がある)     考え始める╳
(21)聞き出す(だから情報を得た)    聞き始める╳
(22)掃きだす(だからごみは外にある)  掃き始める╳
(23)(ない獝{を)絞り出す        絞り始める╳

また、「―始める」「―出す」はそれぞれ「―始め」「―だし」(連用形)の形で名詞として用いられることがあります。しかし、上の(15)~(23)の例で取り上げたような「―」が結果を示さない動詞の場合は、「―だし」は使えません。

(24)夕べの雨は降り始め/だし╳はすごかったけど、全体として大したことはなかった。
(25)走り始め/だし╳の頃は周囲の様子を見る余裕などなかった。
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发表于 2008-2-20 20:47:42 | 显示全部楼层
太好了,谢谢分享!
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发表于 2008-3-11 11:32:00 | 显示全部楼层

ありがとう!!!

いい物載ってくれてありがとう。
もっと沢山の資料が欲しくて優香さんのサイトに行ったんが、案外優香さんもドウカンに住んでいるのをわかりました。
私もドウカンに住んでいます、縁が有るみたいからこれからよろしくね! 
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发表于 2008-3-15 19:28:32 | 显示全部楼层

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ありがとうございます
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