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卒論発表:村上春樹作品に登場した動物形象について

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发表于 2008-2-16 16:16:58 | 显示全部楼层 |阅读模式
村上春樹作品に登場した
動物形象について

要  旨
村上春樹の作品には動物形象が多いという特徴が注目される。長編小説には『風の歌を聴け』の中の反逆児の「鼠」と、『羊をめぐる冒険』の中の、全日本を控える超能力を持っている「羊」と、『ねじまき鳥クロニクル』の中の失踪した「猫」と「ねじまき鳥」などが代表的な「村上の動物」である。それに『象の消滅』、『カエル君、東京を救う』、『螢』、『羊男のクリスマス』などの短編小説も動物を中心にして展開されている。
 本文は主に長編小説に登場した「鼠」、「羊」、「猫」と「鳥」を分析し、動物形象の性格、命名、寓意などの角度から研究してみるつもりである。夏目漱石や志賀直哉、老舎などの作家作品に関連形象との対比を通して、東西文化の食い違いを超えた村上春樹美学のユニークな魅力を発見したいと思う。

キーワード: 村上春樹  動物形象

目    次
1. はじめに……………………………………………………1
2. 鼠…………………………………………………………1
2.1 鼠の登場……………………………………………1
2.2 鼠の創作態度と「僕」の創作姿勢…………………3
2.3  鼠と「僕」の関係…………………………………………4
2.3.1  偶然の出会い、たちまち同調………………4
2.3.2  退屈な夏を一緒に我慢した…………………………5
2.3.3 不平たらたら……………………………………………5
2.3.4        懐旧の思い………………………………………………6
2.3.5  鼠は「僕」の影で、青春歳月のシンボル……………6
3. 羊………………………………………………………7
3.1羊の変身話……………………………………………7
3.2 何故「羊」を?…………………………………………11
3.3 羊の象徴性……………………………………………12
4.  猫とねじまき鳥…………………………………………13
4.1  猫の名前………………………………………………13
4.2 猫と鳥一緒に登場……………………………………15
5.終わりに……………………………………………………17
参考文献………………………………………………………18

1.  はじめに
 村上春樹本人は動物が好きだということが広く知られて
いる。その作品には動物形象が多いという特徴が注目されて
いる。長編小説には『風の歌を聴け』の中の反逆児の「鼠」、『羊をめぐる冒険』の中の、全日本を控える超能力を持っている「羊」、『ねじまき鳥クロニクル』の中の失踪した「猫」と「鳥」が代表的な「村上の動物」である。それに『象の消滅』、『カエル君、東京を救う』、『螢』、『羊男のクリスマス』など短編小説も動物を中心にして展開されている。
 本文は主に長編小説に登場した「鼠」、「羊」、「猫」と「鳥」を分析し、動物形象の性格、命名、寓意などの角度から研究してみる。夏目漱石や志賀直哉、老舎などの作家作品に関連形象との対比を通して、東西文化の食い違いを超えた村上春樹美学のユニークな魅力を発見したいと思うのである。


2. 鼠
『風の歌を聴け』は、村上春樹の処女作品にあたる。また、「鼠三部作」と呼ばれる作品群の最初の作品でもある。「鼠三部作」とは、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』の3部作品のことである。この3部作品は、「鼠三部作」と言われるように、登場しているのがすべて鼠である。

2.1 鼠の登場
本文は主に『風の歌を聴け』に登場した鼠を分析してみる。
実は、作中の「鼠」(以下の呼び方は同)は渾名で、作中の「僕」(以下の呼び方は同)の親友である。作家としての鼠は社会の不公平に不満を持ち、素直に生きている人間である。その性格は以下の原文から推測できるであろう。
(以下引用)
「金持ちなんて、みんな、糞くらえさ。」
鼠はカウンターに両手をついたまま僕に向かって憂鬱そうにそうどなった。
あるいは鼠のどなった相手は僕の後ろにあるコーヒー・ミルルなのかもしれな
かった。僕と鼠はカウンターに隣あって腰掛けていたのだし、わざわざ僕に向
かってどなる必要なんて何もなかったからだ。しかし何にせよ、大声を出して
しまうと鼠はいつものように満足した気持ちでビールを美味しそうに飲んだ。
もっとも、まわりには鼠の大声を気にするものなどだれひとりいなかった。狭
い店は客で溢れんばかりだったし、誰も彼もが同じように大声でどなりあって
いたからだ。それはまるで沈没寸前の客船といった光景だった。
「ダニさ」鼠はそう言っておぞましそうに首を振った。
「奴らになんて何もできやしない。金持ち面をしてる奴らを見るとね、虫酸が走る」  
(村上春樹『村上春樹全作品1979~1989(一)』講談社1990
p12~13
以下『全集』と省略)
 
鼠は作家としても「おそろしく本を読まない」、「テニス・シューズの踵で煙草をもみ消し、吸殻を猿の檻に向かって指ではじいた。」p18(『全集』一)
「僕」と鼠は「黒塗りのフィアット600に乗り合わせる」……とにかく僕たちは泥酔して、おまけに速度計の針は80キロを指していた。そんなわけで、僕たちが景気よく公園の垣根を突き破り、つつじの植込みを踏み倒し、石柱に思い切り車をぶっつけた上に怪我ひとつ無かった……」  
p15(『全集』一)

といったように、鼠はその性格が極端で仇のように悪を憎み、単刀直入に善悪をはっきりしており、少年っぽくて如何にも可愛いのであろう。無鉄砲な「坊っちゃん」とある程度似通っていると言えるであろう。これは以下の引用から分かると思う。
(以下引用)
親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。

親類のものから西洋製のナイフを貰って綺麗な刃を日に翳して、友達に見せていたら、。。。何だ指位この通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸いナイフが小さいのと、親指の骨が固かったので、今だに親指は手に付いている。然し創跡は死ぬまで消えぬ。
            (夏目漱石「坊っちゃん」新潮社)

2.2 鼠の創作態度と「僕」の創作姿勢
鼠は作家であり、彼の創作態度と「僕」の創作姿勢ついて、対比して説明してみる。、
(以下以下引)
鼠の名言:「完璧な文章などといったものは存在しない。完
璧な絶望が存在しないようにね」                   
(『全集』一)p7
「僕」の信念:「文章を書くことは自己療養ではなく、自己
療養へささやかな試みにしかすぎないからだ。」             
(『全集』一)p8
 
 鼠の「絶望」と「僕」の「自己療養」
「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。」                  (『全集』一)p22
「僕」は「何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。」                 (『全集』一)p8
この点に関して、石田直子はその「村上春樹『風の歌を聴け』の表現特性について」という文章にも述べられている。石田は「つまり、両者の共通する点として、自分のために文章を書こうとしていることが挙げられる。「僕」と鼠創作態度は対応しているといえる。」と述べている。といえば、「僕」の創作姿勢には鼠の創作態度は影響を及ぼしていると思う。

2.3  鼠と「僕」の関係

2.3.1  偶然の出会い、たちまち同調
 鼠と「僕」の関係について、次の引用からその出会いのいきさつが分かるだろうと思われる。

僕が鼠と初めて出会ったのは3年前の春のことだった。それは僕たちが大学に入った年で、2人ともずいぶん酔払っていた。。。まるで記憶がない。共通の友人でもいたのだろう。               (『全集』一)p15
 
 次の両者の会話からは二人はいかに自由な雰囲気の中でで
あったのかのぞかれると思われるであろう。

(鼠)「ねえ、俺たち二人でチームを組まないか?きっと何かも上手くいくぜ」
(僕)「手始めに何をする?」
(鼠)「ビールを飲もう」              
(『全集』一)p17
            
2.3.2  退屈な夏を一緒に我慢した
「僕」はつまらない毎日を送り、バーでビールを飲んだだけ。孤独の暗闇に陥った。退廃した世界。偶には心を慰めたのは、傍に居る友人の不平たらたらであろう。村上の叙述を見てみよう。
(以下引用)
一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、「ジェイズ・バー」の床いっぱいに5センチの厚さにピーナツの殻をまきちらした。そしてそれは、そうでもしなければ生き残れないくらい退屈な夏であった。
(『全集』一)p13

2.3.3 不平たらたら
当時(1970)、高度成長期の日本はゴールド・ラッシュの状態に入っていた。社会では物質の追求が盛んに行われていた。鼠は不正行為で急に金持ちになった人々に対する不満を持ち、毎日不平たらたら。
(以下引用)
(鼠)「何故金持ちが嫌いだと思う?」
   ……
    「はっきり言ってね、金持ちなんて何も考えないから
さ。懐中電灯とものさしが無きゃ自分の尻も掻けや
しない」

2.3.4 懐旧の思い
 (以下引用)
晴れわたった空を、何機かのジェット機が凍りついたような白い飛行機雲を残して飛び去るのが見えた。
「子供の頃はもっと沢山の飛行機が飛んでいたような気がするね」鼠が空を見上げてそう言った。
……
「いろんなものがなくなっていくね。」        
(『全集』一)p88

鼠と「僕」の友情は物質にの反感と「いろんな、なくなっていくもの」に懐かしい思いというところで結ばれたと思われる。村上の作には高度発展の資本主義社会を否定し、利益より原始の人情を重視するという主旨ははっきりしたと考えられる。

2.3.5  鼠は「僕」の影で、青春歳月のシンボル
反逆児の鼠と極平凡な「僕」は対極な性格だと一般に思われている。しかし、友人である以上、内心には霊犀があるであろう。その霊犀と言うものは同じく意気盛んな若者であり、チンスプリット(teen spirit)ということだと考えられる。
当時の背景から分析してみれば、20世紀60年代後半のヒッピー(hippie)運動に影響を受けていた「僕」と鼠は多少でも「既存の制度・慣習・価値観を拒否して脱社会的行動をとる」(『広辞苑』)というヒッピー精神に左右されていたと思われる。
村上は当時ちょうど三十歳の頃であった。身は而立の階段に入り、二十代の騒ぎや青春の混乱状態を去り、段々平静していった。然し、心は依然として火のように熱く、流俗に堕落したくなっかた。青春の終わりに迫っている村上は鼠という人物を借り、青春に対する懐かしい気持ちを伝えているであろう。
中国では、これについて、次のような評論がある。
(以下引用)
村上笔下的人物“老鼠”折射着作者自己的影子和灵魂。作者是借“老鼠”的言行举止在向读者传递着自己的理解和信息。
(謝志宇:《20世纪日本文学史——以小说为中心》 p293)  

これにによれば、「鼠」という人物には村上春樹の影が差し込み、霊魂のような光が屈折しているといっても過言ではなかろう。
  
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 楼主| 发表于 2008-2-16 16:17:33 | 显示全部楼层
3. 羊
『羊をめぐる冒険』の中には、不思議な羊が登場した。中国北部、モンゴル地域に伝わった話の通り、羊が人の体内に入ったという。「僕」はその珍しい羊をめぐる冒険が始まった。

3.1羊の変身話
「羊をめぐる冒険」にはこういう変身話がある。背中に星形の斑紋のある羊は凡庸な北海道の貧農の三男坊の体に入り込んだ結果、つまらない少年は右翼頭脳となったという。次の引用を伺ってみよう。
(以下引用)
つまり一九三六年の春を境にして、先生はいわばべつの人間に生まれ変わったんだ。
……
右翼のトップにおどり出たんだ。人心を掌握するカリスマ性、綿密な論理性、熱狂的な反応を呼びおこす演説能力、政治的な予知能力、決断能力、そして何よりも大衆の持つ弱点をてこにして社会を動かしていける能力だ」
(『全集』二p153)

日本文学史においては変身話珍しくない。中国の「人虎伝」からの再創作、中島敦の名作「山月記」には李徴が「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」のせいで、一匹の虎に化けた。
鹿俣浩(1984)は文学作品に反映した日本人の変身意識について、次のように述べている。

(以下引用)
日本昔話記録(柳田国男他編)」では、人間が動物に変身する話が42例,動物が人間に変身する話が92例ある。「疎外変身」は少なく媒介者もない。動物は化けて人とむすばれ、子を生み人間的な愛情を子にそそぐ。野生動物との交情は細やかで美しく、化けていない時も心情的には人間である。
動物はおとしめられた状態のシンボルではなく,動物を劣等視する傾向は弱い。人間も潜在的には動物であり,動物も潜在的には人間であるがゆえに,動物は人に化けることができるとする。このように日本人の意識においては「人間と動物との間の連続性」が著しい。
というのである。
然し、村上の変身話は前文の「人間が動物に変身する」型とは簡単に言えないと思う。人間が動物と特殊な接触体験(いわゆる「交霊」との方式)をしたきっかけに、「疎外変身」に達成する。この点では村上流の変身話は伝統的「日本流」と少し距離を置いていると思う。次の引用はこの点を物語っていると思う。
(以下引用)
「君は羊とのあいだに本当に特種な関係を持ってたのか?」と上司は訊ねた。
「持ちました」と羊博士は答えた。以下はそのやりとりである。

Q「特殊な関係とは性行為のことであるのか?」
A「そうではありません。」
Q「説明してほしい」
A「精神的行為であります」
Q「説明になっていない」
A「うまい言葉がみつかりませんが、交霊というのが近いかと思います」
Q「君は羊と交霊したというのか?」
A「そうであります」
(『羊をめぐる冒険』村上春樹、講談社、1985,文庫本上巻p46~47)

一方、中村禎里(『技術と人間』第4巻 1975 )はヨーロッパの童話や民話に登場する変身話について、こういうように論じている。
「グリム童話」では人間が動物に変身する話が67例ある。これらは魔女などの媒介者によって,動物におとしめられる「疎外変身」がほとんどである。そして動物の姿に堕ちていても,どこか人間らしいところを残していることが話の中心となる。これに対して,動物が人間に変身する話は6例しかなく,しかもそのうち5例は動物におとしめられていた人間がもとの姿にもどるというもので,残る1例については東洋の昔話が混入した可能性が高い。
鹿俣浩(1984)はこの点について、次のような観点を述べている。
ここに「人間と動物の間に越えることのできない断絶」を置くヨーロッパ人の動物観をみる。動物は所詮動物であり,人間と対等にはなれない,劣ったものとみる見方である。
動物はおとしめられた状態のシンボルではなく,動物を劣等視する傾向は弱い。人間も潜在的には動物であり,動物も潜在的には人間であるがゆえに,動物は人に化けることができるとする。このように日本人の意識においては「人間と動物との間の連続性」が著しい。
というのである。
村上の変身話では動物に貶められる傾向は見つからない。動物に対する劣等感もないし、人間としての優越感もない。村上は人間と動物の相互転換という既存の「変身方式」を突破し、「動物性」のある人間を描写する。

3.2 何故「羊」を?
この『羊をめぐる冒険』という小説では、モンゴルからきた妖怪の羊が登場している。一体、羊の伝説はどういう意味があるのか原文を引用して探求してみる。

(以下引用)
連中のあいだでは羊が体内に入ることは神の恩恵であると思われる。
……たとえば元朝時代に出版されたある本にはジンギス汗の体内には『星を負った白羊』が入っていたと書いてある。
(村上春樹『羊をめぐる冒険』講談社 文庫本下巻p57)

それに、何故「羊」という動物をしなけばならないのか、犬儒(2002)は「聖書の百匹の羊の説話が踏まえられているかと思う」と述べている。そのくだりを見てみよう。

あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
 (以上、新約聖書ルカによる福音書15章、新共同訳)

3.3 羊の象徴性
村上(1985)は羊の象徴性について、以下のように述べている。
(以下引用)
前にも述べたように『羊をめぐる冒険』の場合は、キー・ワードとして、つまりゲームのルールみたいなものとして<羊>という言葉があるわけです。そして書いているうちに、<羊>はこういうふうにしようかなと、ちょっと出してくるわけですね。僕も、<羊>はどういう意味なんだろう、と思って考えるんです。でも、それは分からないんですよね。分からないままに書いていくんです。そしてもしこの小説が成功していたとしたら、成功した原因は、<羊>は何かということが僕自身が分からないせいだと思うんですよ。
 読んだ人によく「羊とは何の象徴ですか」と訊かれるんですけど、それは僕にも分からないです。ただ、<羊>という存在感がいつも頭のこの辺にあるわけですね。そして書く。そういうストーリー・テリングの面白さというのを『羊……』で一番感じましたね。

 以上の話によれば、「羊」はどういう意味なのかは村上自分も分からないと言っている。しかし、小説の内容にはヒントがいくつか見つけられていると思う。次の引用を読んでみよう。
 
そして今日でもなお、日本人の羊に対する意識はおそろしく低い。要するに、
歴史的に見て羊という動物が生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったんだ。羊は国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられた。それが羊だ。戦後オーストラリア及びニュージーランドとのあいだで羊毛と羊肉が自由化されたことで、日本における羊育成のメリットは殆どゼロになったんだ。可哀そうな動物だと思わないか?まあいわば、日本の近代そのものだよ。
      (村上春樹『羊をめぐる冒険』講談社 1985,
文庫本上巻p.176)

 ここには、村上は羊の導入の失敗を一例として、「可哀そうな日本の近代」を揶揄している姿勢が見られる。羊は「日本の近代化」のシンボルと考えられるであろう。
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 楼主| 发表于 2008-2-16 16:18:12 | 显示全部楼层
4.  猫とねじまき鳥
 村上春樹は猫が好きであり、何匹の猫も飼った経験があるから、猫には特殊な感情が注ぐ。その作には猫が度々登場する。猫とはだるく、自由な動物であり、ちょうど村上の気持ちに合う。

4.1  猫の名前
 猫の名前はどうして付けられたのか、これに関するくだりは次のようである。
登場人物は運転手と猫であるが、両者のことばのやり取りである

「よしよし」と運転手は猫にむかって言ったが、さすがに手は出さなかった
「なんていう名前なんですか?」
「名前はないんだ」
「じゃあいつもなんていって呼ぶんですか?」
「呼ばないんだ」と僕は言った。「ただ存在してるんだよ」
「でもじっとしてるんじゃなくてある意思をもって動くわけでしょ?意思を持って動くものに名前がないというのはどうも変な気がするな」
(村上春樹『羊をめぐる冒険』講談社 1985,文庫本上巻p.236)

このあと、運転手によって、この猫は「いわし」と命名された。然し、「僕」の話によると、猫は「ただ存在してるんだよ」というので、「呼ばないんだ」というものであろう。物の名前は物の存在感と関係ないと考えられたら、名付けなどは意味も失ってしまう。名前はただつまらない印に過ぎない。だから、何と呼んでも構わないという態度である。猫を「いわし」という魚の名前に命名したことは出鱈目で、命名という行為を否定していると思われる。
ここでは、夏目漱石の『我輩は猫である』(1905)、曽野綾子の『ボクは猫よ』(1982)と同工異曲の効果が見られる。これに関して、次の引用をみてみよう。
 (以下引用)
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。然もあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。然しその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。但彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じが有ったばかりである。掌の上で少し落ち付いて書生の顔を見たのが所謂人間というものの見始であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛を以て装飾されべき筈の顔がつるつるしてまるで薬罐だ。その後猫にも大分逢ったがこんな片輪には一度も出会わした事がない。加之顔の真中が余りに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと烟を吹く。どうも烟せぽくて実に弱った。これが人間の飲む烟草というものである事は漸くこの頃知った。                
(夏目漱石『我輩は猫である』1905)

又、曽野の作には猫は初めて名前があった。
(以下引用)
ボクは猫である。名前はもうある。ネコというのが、その名前である。
            (曽野綾子『ボクは猫よ』1982)

名前ありそれとも名前なし、虚無の本質は同じである。この点においては村上、夏目、曽野この三人は共鳴していると思われるであろう。

4.2 猫と鳥一緒に登場
 『ねじまき鳥クロニクル』の中に「僕」のニックネームは「ねじまき鳥」で、失踪した猫の主人にあたる。「ねじまき鳥」は失業したばかりで、仕事と猫を同時になくした可哀そうな人物である。妻の命令に従い、猫を探す。猫探しの途中、様々な奇遇に会う。「ねじまき鳥」にとって、すべての事の発端はこの猫の失踪によるものである。
 面白いことに、文学作品において猫と鳥一緒に登場した場合は珍しくない。志賀直哉の『濠端の住まい』に鶏と猫の話は有名である。次のものをみてみよう。
(以下引用)
その時不意に隣の鶏小屋でけたたましい鶏のなき声とともに、何か箱の中で暴れる音と、……いたちか猫かがかかったにちがいないと思った。物音はすぐやみ、雌鶏のコツコツとなく声だけがしていた。
……
雛も可哀そうだし母鶏もかわいそうだ。そしてそういう不幸を作り出した猫もこう捕まえられてみるとかわいそうでならなくなる。
……
翌日、わたしが目覚めた時には猫は既に殺されていた。死骸は埋められ、おとしに使った箱は陽なたで、もう大概かされてあった。
                       (『志賀直哉全集 第二巻』)

 又、中国人作家の老舎は《小麻雀》というエッセイの中には雀と猫は一緒に登場させている場面がある。翼に傷ついた雀は腕白な猫に捕らえられ、いじめられる場面である。それを語る内容は次のようである。
 
我向外院跑去,小猫在影壁前的花盆旁蹲着呢。我忙去驱逐它,它只一扑,把小鸟擒住!被人养惯的小麻雀,连挣扎都不会,尾与爪在猫嘴旁搭拉着,和死去差不多。
  瞧着小鸟,猫一头跑进厨房,又一头跑到西屋。我不敢紧迫,怕它更咬紧了可又不能不追。虽然看不见小鸟的头部,我还没忘了那个眼神。那个预知生命危险的眼神。那个眼神与我的好心中间隔着一只小白猫。来回跑了几次,我不追了。追上也没用了,我想,小鸟至少已半死了。猫又进了厨房,我楞了一会儿,赶紧的又追了去;那两个黑豆眼仿佛在我心内睁着呢。
  进了厨房,猫在一条铁筒——冬天升火通烟用的,春天拆下来便放在厨房的墙角——旁蹲着呢。小鸟已不见了。铁筒的下端未完全扣在地上,开着一个不小的缝儿小猫用脚往里探。我的希望回来了,小鸟没死。小猫本来才四个来月大,还没捉住过老鼠,或者还不会杀生,只是叼着小鸟玩一玩。正在这么想,小鸟,忽然出来了,猫倒象吓了一跳,往后躲了躲。小鸟的样子,我一眼便看清了,登时使我要闭上了眼。小鸟几乎是蹲着,胸离地很近,象人害肚痛蹲在地上那样。它身上并没血。身子可似乎是蜷在一块,非常的短。头低着,小嘴指着地。
小猫没再扑它,只试着用小脚碰它。它随着击碰倾侧,头不动,眼不动,还呆呆的注视着地上。但求它能活着,它就决不反抗。可是并非全无勇气,它是在猫的面前不动!我轻轻的过去,把猫抓住。将猫放在门外,小鸟还没动。我双手把它捧起来。它确是没受了多大的伤,虽然胸上落了点毛。它看了我一眼!
       (一九三四年七月《文学评论》第一卷第二期)

 村上、志賀と老舎の作品を対比してみると、鳥は猫のせいで不幸な運命に陥りこんだという点が一致しているのは偶然ではないだろうとも思われる。その上実際には鳥とも猫とも世界(狭い意味では天敵とも考えられるもの)に支配されているものであるから、一種の無常な定めによる無力感が感じられるとも思われる。

5.終わりに
 以上における筆者の分析や考察を通して、次のような観察が得られたと思うが、つまり、「鼠」は村上春樹の影でもあり、懐かしい青春歳月のシンボルでもある。「羊」は日本の近代化を象徴している。村上は羊の導入の失敗を一例として、「可哀そうな日本の近代」を揶揄している姿勢が見られる。「猫」の名前は物の虚無本質の現しであり、「ねじまき鳥」と「猫」の運命は世界に支配されている一種の無常な定めだと思われる。
 村上春樹はさまざまな動物形象を通して、自分の観念を伝えている。既存した東西動物観の食い違いを越えて、ユニークな美学境界に達したことが脚光を浴びているのである。
 以上は筆者の個人の努力による考察と分析であるが、まだまだ村上の作品に関する研究に待つものが多いので、これから続けて研究してより豊富な結果を得たいと思うのである。

参考文献

1.村上春樹『村上春樹全作品1979~1989』講談社1990

2.村上春樹『羊をめぐる冒険』講談社 文庫本1985

3.夏目漱石『坊っちゃん』新潮社1940

4.鹿俣浩 『教育の森の意義とその実現可能性について』1984
http://www.omn.ne.jp/~hyou-tan/doub/niho-kan.html
5.中村禎里『日本人の動物観―変身譚の歴史』星雲社 2006
6.村上春樹『『物語』のための冒険』『文學界』8月号1985 
7.犬儒 本格派「当事者」雑誌 2002
http://homepage1.nifty.com/kenju/murakamiron.htm

8.夏目漱石『我輩は猫である』旺文社1905

9.曽野綾子『ボクは猫よ』文藝春秋1982

10.老舍《小麻雀》、《文学评论》1-2 1934

11.志賀直哉『志賀直哉全集 第二巻』岩波書店 1974

12.謝志宇《20世纪日本文学史——以小说为中心》浙江大学出版社2005
13.W. グリム 、 J. グリム (著)、金田 鬼一 (訳) 『完訳 グリム童話集』   岩波書店1984
14.柳田国男 『日本の昔話』新潮社 1983
15.『広辞苑』 第五版 岩波書店
16.『新約聖書ルカによる福音書』新共同訳
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发表于 2008-2-19 16:03:22 | 显示全部楼层
もしかして、謝先生の弟子さんなの?
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 楼主| 发表于 2008-3-11 17:39:27 | 显示全部楼层

回复 4楼 的帖子

是的 您是.....?
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发表于 2008-5-12 22:29:09 | 显示全部楼层

你好

我也想写村上春书树的论文呢,想问问你,有qq吗?希望能回复,谢谢
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发表于 2008-5-12 22:30:01 | 显示全部楼层
我的是81397595,,很多资料我找不到,想请教下你呢
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发表于 2008-5-14 16:24:57 | 显示全部楼层
这是楼主写的论文吗?
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发表于 2008-5-16 14:33:55 | 显示全部楼层
謝先生~難道是杭州某大學的
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发表于 2008-11-10 15:57:37 | 显示全部楼层
鼠の名言:「完璧な文章などといったものは存在しない。完
璧な絶望が存在しないようにね」    

這個是鼠說的么= =?
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发表于 2008-11-14 14:05:35 | 显示全部楼层
おもしろい、実におもしろい。
ちなみに、そこらへんの先行研究はどうなっているのでしょうか。
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