3. 羊
『羊をめぐる冒険』の中には、不思議な羊が登場した。中国北部、モンゴル地域に伝わった話の通り、羊が人の体内に入ったという。「僕」はその珍しい羊をめぐる冒険が始まった。
3.1羊の変身話
「羊をめぐる冒険」にはこういう変身話がある。背中に星形の斑紋のある羊は凡庸な北海道の貧農の三男坊の体に入り込んだ結果、つまらない少年は右翼頭脳となったという。次の引用を伺ってみよう。
(以下引用)
つまり一九三六年の春を境にして、先生はいわばべつの人間に生まれ変わったんだ。
……
右翼のトップにおどり出たんだ。人心を掌握するカリスマ性、綿密な論理性、熱狂的な反応を呼びおこす演説能力、政治的な予知能力、決断能力、そして何よりも大衆の持つ弱点をてこにして社会を動かしていける能力だ」
(『全集』二p153)
日本文学史においては変身話珍しくない。中国の「人虎伝」からの再創作、中島敦の名作「山月記」には李徴が「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」のせいで、一匹の虎に化けた。
鹿俣浩(1984)は文学作品に反映した日本人の変身意識について、次のように述べている。
(以下引用)
日本昔話記録(柳田国男他編)」では、人間が動物に変身する話が42例,動物が人間に変身する話が92例ある。「疎外変身」は少なく媒介者もない。動物は化けて人とむすばれ、子を生み人間的な愛情を子にそそぐ。野生動物との交情は細やかで美しく、化けていない時も心情的には人間である。
動物はおとしめられた状態のシンボルではなく,動物を劣等視する傾向は弱い。人間も潜在的には動物であり,動物も潜在的には人間であるがゆえに,動物は人に化けることができるとする。このように日本人の意識においては「人間と動物との間の連続性」が著しい。
というのである。
然し、村上の変身話は前文の「人間が動物に変身する」型とは簡単に言えないと思う。人間が動物と特殊な接触体験(いわゆる「交霊」との方式)をしたきっかけに、「疎外変身」に達成する。この点では村上流の変身話は伝統的「日本流」と少し距離を置いていると思う。次の引用はこの点を物語っていると思う。
(以下引用)
「君は羊とのあいだに本当に特種な関係を持ってたのか?」と上司は訊ねた。
「持ちました」と羊博士は答えた。以下はそのやりとりである。
Q「特殊な関係とは性行為のことであるのか?」
A「そうではありません。」
Q「説明してほしい」
A「精神的行為であります」
Q「説明になっていない」
A「うまい言葉がみつかりませんが、交霊というのが近いかと思います」
Q「君は羊と交霊したというのか?」
A「そうであります」
(『羊をめぐる冒険』村上春樹、講談社、1985,文庫本上巻p46~47)
一方、中村禎里(『技術と人間』第4巻 1975 )はヨーロッパの童話や民話に登場する変身話について、こういうように論じている。
「グリム童話」では人間が動物に変身する話が67例ある。これらは魔女などの媒介者によって,動物におとしめられる「疎外変身」がほとんどである。そして動物の姿に堕ちていても,どこか人間らしいところを残していることが話の中心となる。これに対して,動物が人間に変身する話は6例しかなく,しかもそのうち5例は動物におとしめられていた人間がもとの姿にもどるというもので,残る1例については東洋の昔話が混入した可能性が高い。
鹿俣浩(1984)はこの点について、次のような観点を述べている。
ここに「人間と動物の間に越えることのできない断絶」を置くヨーロッパ人の動物観をみる。動物は所詮動物であり,人間と対等にはなれない,劣ったものとみる見方である。
動物はおとしめられた状態のシンボルではなく,動物を劣等視する傾向は弱い。人間も潜在的には動物であり,動物も潜在的には人間であるがゆえに,動物は人に化けることができるとする。このように日本人の意識においては「人間と動物との間の連続性」が著しい。
というのである。
村上の変身話では動物に貶められる傾向は見つからない。動物に対する劣等感もないし、人間としての優越感もない。村上は人間と動物の相互転換という既存の「変身方式」を突破し、「動物性」のある人間を描写する。
3.2 何故「羊」を?
この『羊をめぐる冒険』という小説では、モンゴルからきた妖怪の羊が登場している。一体、羊の伝説はどういう意味があるのか原文を引用して探求してみる。
(以下引用)
連中のあいだでは羊が体内に入ることは神の恩恵であると思われる。
……たとえば元朝時代に出版されたある本にはジンギス汗の体内には『星を負った白羊』が入っていたと書いてある。
(村上春樹『羊をめぐる冒険』講談社 文庫本下巻p57)
それに、何故「羊」という動物をしなけばならないのか、犬儒(2002)は「聖書の百匹の羊の説話が踏まえられているかと思う」と述べている。そのくだりを見てみよう。
あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
(以上、新約聖書ルカによる福音書15章、新共同訳)
3.3 羊の象徴性
村上(1985)は羊の象徴性について、以下のように述べている。
(以下引用)
前にも述べたように『羊をめぐる冒険』の場合は、キー・ワードとして、つまりゲームのルールみたいなものとして<羊>という言葉があるわけです。そして書いているうちに、<羊>はこういうふうにしようかなと、ちょっと出してくるわけですね。僕も、<羊>はどういう意味なんだろう、と思って考えるんです。でも、それは分からないんですよね。分からないままに書いていくんです。そしてもしこの小説が成功していたとしたら、成功した原因は、<羊>は何かということが僕自身が分からないせいだと思うんですよ。
読んだ人によく「羊とは何の象徴ですか」と訊かれるんですけど、それは僕にも分からないです。ただ、<羊>という存在感がいつも頭のこの辺にあるわけですね。そして書く。そういうストーリー・テリングの面白さというのを『羊……』で一番感じましたね。
以上の話によれば、「羊」はどういう意味なのかは村上自分も分からないと言っている。しかし、小説の内容にはヒントがいくつか見つけられていると思う。次の引用を読んでみよう。
そして今日でもなお、日本人の羊に対する意識はおそろしく低い。要するに、
歴史的に見て羊という動物が生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったんだ。羊は国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられた。それが羊だ。戦後オーストラリア及びニュージーランドとのあいだで羊毛と羊肉が自由化されたことで、日本における羊育成のメリットは殆どゼロになったんだ。可哀そうな動物だと思わないか?まあいわば、日本の近代そのものだよ。
(村上春樹『羊をめぐる冒険』講談社 1985,
文庫本上巻p.176)
ここには、村上は羊の導入の失敗を一例として、「可哀そうな日本の近代」を揶揄している姿勢が見られる。羊は「日本の近代化」のシンボルと考えられるであろう。 |