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发表于 2008-4-11 12:51:36
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月は東に日は西に
【一】
――右京太夫は、夫のもとへもどっていた。
彼女にとっては、すべてが悪夢の中のできごとのようであった。大仏殿で、炎につつまれて喪神し、気がつけば、どこともしれぬ土塀のかげに横たえられて、若い山伏が心配げにのぞきこんでいた。そして、まだ夢見心地のうちに彼はそこを去った。去るときに彼は、「ここを出てはなりませぬぞ」と念をおしたが、しかし彼女はフラフラとあとを追って出た。
彼のあとを追ったというわけではない。彼女はむろん夫のもとへかえろうとしたのである。
が、往来に出るや否や、疾風のごとく駆けてきた騎馬の男にさらいあげられたのであった。
「ご心配あるな、あなたさまを義興さまのおんもとへおつれしようというのです」
と、男はいった。
その通り彼は、右京太夫を鞍の前に軽々と抱きあげ、やさしく支えたまま馬をさばいてゆくのだ。ただ彼は、右京太夫の頭から|被衣《かつぎ》をかぶせ、できるだけ人影の少ない路を走らせていった。もっとも、東大寺炎上をめぐる騒ぎで、怪我をしたり気を失ったりした女はままあったから、この二人乗りの馬を見ても、ことさら奇怪に思うものもなかった。
「あなたはだれですか」
ようやくその男を害意のないものと感じとって、右京太夫はきいた。
「ゆえあって、名乗れませぬが、あなたさまの敵ではありませぬ」
錆をおびた声がこたえた。
鞍のまえにいる右京太夫はふりむくこともできなかったが、彼は覆面しているようであった。走りながら、
「あなたさまを大仏殿の炎の中からお救い申しあげたのは、若い山伏でござりましょうが」
と、こんどは向こうからきいてきた。
「あの山伏がわたしを炎の中から? ……あれはなにものですか」
「もはやお逢いなさることもありますまいが、名だけはおぼえておいてやって下され。伊賀の忍者、笛吹城太郎と申す男です」
「……伊賀の忍者が、どうしてわたしを?」
「あの男は、妻を奪われ、殺されました。その妻が、あなたさまそっくりであったからでござりましょう」
「妻を? だれに妻を奪われたのです」
「右京太夫さま」
覆面の男は、その問いにはこたえず、手綱をひいて馬をとめた。
「あそこに義興さまがおわす。ゆかれませ。……あの男のことは忘れ、きょうの炎も忘れ、京でおしずかに、お倖せにお暮らし遊ばせ」
そういうと、彼はそっと右京太夫を馬から抱き下ろした。右京太夫が向こうの景清門の下にひしめく軍兵の一隊を見やったとき、鉄蹄の音がはなれ、ふりむくと、覆面の男は、ついに顔もみせず、そのまま南へ疾風のごとく駆け去っていった。
こうして、右京太夫は夫義興のもとへ帰った。
妻を炎の中に見失って悩乱し、絶望していた義興は狂喜した。
いかにして妻が帰ってきたか、せきこんできいたが、よくわからない。こたえる右京太夫すらよくわからないのだから、狐につままれたような思いがしたのは当然だ。しかし、義興は、なんであろうと、妻が帰ってきたことだけで歓喜した。
「これ、だれかある、興福寺へいって、きょうの放火の下手人はたしかに興福寺の僧か、しかと調べてまいれ」
と、義興はいった。また――
「弾正のゆくえを探し、探しあてたら、義興これにありと伝えてまいれ」
とも、命じた。ようやくおのれをとりもどしたのである。
しかし彼は、この|期《ご》に及んで、その放火の下手人が松永弾正だとはまだ知らなかった。まさかおのれの妻を奪うために、弾正が東大寺を焼くとは想像を絶しているし、弾正がゆだんのならぬ男だとは知ってはいるが、もしじぶんに叛意があるならば、その機会はあったものを、じぶんには手を出した様子もなかったから、義興が弾正に疑いをもたなかったのも当然だ。
燃える大仏殿のまえで乱舞する奇怪な法師はたしかに見たが、その|凶刃《きょうじん》は三好、松永双方の侍にむけられて、ことさらじぶんめがけて敵対したものとは見えなかった。――この景清門のところまで避難してきたあとでも、刻々入る情報は、どうやら興福寺の僧の放火らしい、という噂ばかりであったから、義興は興福寺へ糾明の使者をむけたのである。
大仏殿はすべて焼けおち、炎の広野と化した東大寺跡に、いま頭を失った大仏は、黒い大魔像のごとくそそり立っていた。
それを見ると、三好義興は、弾正の叛心を知らなかったにもかかわらず、あらためて不吉な熱風に吹かれる思いがした。
「よし、興福寺は追って調べる。弾正には逢わずともよい。――京へひきあげるぞ!」
しかし、このとき弾正を探しあてた侍臣がはせもどってきて、
「松永どのは、飛鳥野にぶじにおわしました。殿のお申しつけを伝えましたところ、やがてまいるが、しばしお待ちを――との仰せでござった」
と、報告した。そして――
「殿、きょうの放火の下手人を見てござります」
と、いった。
「なに?」
「|拙《せっ》|者《しゃ》、松永どのを求めて西の方から飛鳥野へいったのでございますが、途中、馬上にひっくくられて西へ走る囚人様の男とすれちがい、町のものにききましたところ、どうやらそれが放火の下手人にて、松永の手のものにとらえられ、信貴山城へ送られるらしい、ということでござった」
「それは法師か」
「いえ、山伏姿で。――拙者の見たところでは、その囚人を護っているものが法師のむれでござりましたが」
――ときいて、義興はくびをかしげたが、なんともそれ以上判断がつかない。ただ、山伏、ときいて、ふと右京太夫をふりむいて、
「奥、そなたを助けたは、山伏と申したな」
「はい」
「信貴山城に曵かれていったのは、その男ではないか?」
「……さあ」
「面妖な話じゃ。それを護送したのは法師とは――火をつけておったのは、たしかに法師どもであったが」
義興はかんがえこんだ。見たことと聞いたことが逆だ。世に山伏も法師も一人や二人ではないから、なんともいいようがないが、義興はなにやら胸さわぎがした。ここにながくとどまることについて、本能的な不安をおぼえたのだ。文字通り、キナくさい感じ、とはこのことであろう。
三好勢の先駆は、すでに北へうごき出している。
「輿をもて」
と、彼はいった。妻をのせるための輿だ。彼は弾正の挨拶をまたず、いそぎ京へひきあげる決心をしたのである。輿が来た。
輿へ乗ろうとする右京太夫を見て、
「あ、奥。……それはなんだ」
と、義興がきいた。右京太夫が、後生大事にかかえている金襴の包みに眼をとめたのである。
「釜でござります」
「釜?」
「わたしを助けてくれたその山伏からあずかった茶釜でござります」
右京太夫は放心状態でいって、輿に身をかくした。
輿はあがり、北へうごきはじめた。
しかし、簾の中で、右京太夫は愕然としていた。彼女は義興にいわれて、はじめてじぶんがこの釜を――あの覆面の武士に馬上にさらわれながらも――しっかとかかえて放さなかったことに気がついたのである。
持ってきたことはおぼえている。あの男は「おれのもどるまで、ここにいて、その釜を護っていて下され、おれの宝です」といった。そう依頼されたものを持ってゆくことは気がとがめて、途中で彼に逢ったらわたすつもりで、その釜を、そばにあった金襴につつんで持って来た。愕然としたのは、それにしてもその釜を、これほど大事にじぶんが抱いていたということであった。
いや、彼女は、ほんのいま山伏が囚人として信貴山城に曵かれていったときいたとき、じぶんの心が受けた衝撃を、あらためておどろきをもって思いかえしている。
その山伏がじぶんを助けた山伏だ。彼女はそう直感した。
あの山伏が東大寺に火をつけた? ちがう。彼女はそれを本能的に否定した。
あの男は、なんのためにわたしを助けたのか。覆面の武士はいった。「あの男は、妻を奪われ、殺されました。その妻が、あなたさまそっくりであったからでござりましょう。――」
よくわからぬ。しかし、わかるようでもある。ほんのみじかい、ほとんど言葉らしい言葉もかわさないひとときであったが、じぶんを見つめていたあの男の眼は、なんともいえないきよらかな愛情にもえているようであった。――その眼が、いま右京太夫の胸に、恐ろしい光芒をはなってよみがえって来た。
いかにしてじぶんが救われたか、右京太夫は知らないが、気を失う直前にじぶんを包んだ炎の海はおぼえている。あの男は、あの炎の中からじぶんを救ってくれたのだ。――そして彼は、幻のように去った。
名も覆面の武士からきいた。伊賀の忍者、笛吹城太郎。
「なに? 松永が追って来たと?」
輿のそばの馬上で、義興の声がした。
「そして、松永勢はいくさ仕立の陣を組んでおると申すか」
義興はさけんだ。
「よし、輿はさきにやれ、小人数で護って、さきにいそげ。おれは松永の陣くばりを見てやろう」
十人あまりの兵に護られて、右京太夫の輿は、奈良の北――般若野へ走った。
しかし、護衛兵たちはあとのなりゆきが気にかかり、般若野の夏草に輿を下ろして、奈良の方へのびあがった。
そして、ややあって気をとりなおし、かくてはならじとふたたび輿をあげたとき、彼らは輿の中に茶釜一つ残されて、右京太夫さまの姿が忽然と消えていることを発見したのである。
般若野の夏草の中をくぐって、右京太夫は走っていた。迂回しつつ、西へ。――
彼女は、じぶんを救ってくれた若い山伏の安否をうかがい、信貴山城へいってみずにはいられなくなったのだ。もとよりこんな大それたことは、護衛の侍たちや義興にいえることではない。
しかし、まさになにびとも想像し得ないはぐれ鳥の羽ばたきだ。決して彼女を救ってくれた人間への心づくしといっただけでは説明がつかない。それが彼女の胸に残るふたつの瞳の魔力だといったら、彼女はどうこたえたろうか。 |
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