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楼主: asuka0226

[好书推荐] 山田風太郎忍法帖3 伊賀忍法帖

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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:47:29 | 显示全部楼层
     【三】

「ううむ。……」
 城太郎はうなり声をたてた。水呪坊はこちらを見た。
 城太郎はなお苦しげにうめきながら、わななく手に刀身をかきさぐるようにつかみ徐々に刃をおのれのくびにあげていった。
「や! 生きておったか!」
 と、水呪坊はさけび、よろよろと立ちあがった。
「そうだ、こやつはいつかおれの月水面をかぶりながら、|執《しゅう》ねくも生き返ってきたやつであった。生きているとあれば……殺せぬ」
 彼はちかづいて来た。その背後から、さらに|跫《あし》|音《おと》が地を鳴らしてくる。
「生きて信貴山城に|曳《ひ》いてこい――とは、|漁火《いさりび》さまの仰せであったが、いまはおれたちも同意じゃ。らくらくとは死なさぬ。ようもわしの背をこれほどいためたな、信貴山城で、十日かかってうぬのからだにマキビシをうちこみ、この世ながらの地獄を味わわしてくれる」
 水呪坊は一間の距離にちかづいて――それから、なにを感じたか、ぱっと大鴉みたいにうしろへとびずさろうとした。
 ひとかかえはありそうな杉の木立の下に両足投げ出していた笛吹城太郎が、その片ひざを立てるのと、片手で顔の朱面をむしりとるのと、全身が前へおよぎ出したのとが同時であった。
 とびずさろうとしたが、水呪坊の一方の足が残っていた。城太郎の刀はそれを|薙《な》いだ。その左足一本を、ひざの下から路上にのこし、水呪坊は四十五度の角度でうしろへのけぞっていった。
 なお追い討ちをかけようとして、城太郎はまたはねもどった。跫音が回ってくるのをきいたからだ。
 羅刹坊があらわれたとき、笛吹城太郎の姿はそこにはなかった。彼は杉の木の背にまわり、しかもその六尺の高さにいた。刃をくわえ、手と足が杉の皮にふれると、まるでそこに吸盤があるかのごとく吸いついていたのだ。
「――やっ、水呪坊!」
 羅刹坊はさけんだ。
「やられた。きゃつ、おるぞ、そこらにおるはず――逃がすな!」
 羅刹坊はそのまま疾駆して、杉と堂のあいだを数間駆けぬけたが、すぐに反転して来て、
「おらぬぞ!」
 とわめいた。
「おらぬはずはない。そこの堂にでも逃げこんだのではないか」
 と、水呪坊が血ばしった眼をさまよわせたのは、いかな彼もいまのけぞってゆくあいだに、笛吹城太郎のゆくえをつきとめることはできなかったとみえる。
 羅刹坊はぎらっと、眼をむけたが、
「よしよし、逃がしはせぬ」
 と、うなずいていきなり彼をひっかついでしまった。
「羅刹坊、なにをする。早くきゃつを討たぬのか!」
「いま、あとの面々がくる。それより、おぬしを手当てせねば」
「たわけ、そんなことをしていて、もしきゃつを逃がしたら、おれは浮かばれぬぞ」
「浮かばれぬ――そんなことのないように、手当てをするといっておるのだ。壊れ|甕《がめ》を行なう」
「くそっ、足の一本ぐらいがなんだ」
「きゃつの命より、おぬしの足一本の方が大事だ。きゃつはいつでも討てるが、おぬしの足はいま壊れ甕の忍法をほどこさねば死んでしまう。おぬし、顔色からみて、あまり血がないぞ、ふだんの場合とちがう――」
 そういいながら、羅刹坊は血みどろの水呪坊をかつぎ、斬られた一本足をぶらさげて、スルスルともと来た道へひきかえしてゆく。……さすがに堂にひそんでいるかもしれぬ敵にそなえて、安全地帯に退却したのだ。
 堂から七、八間もはなれて――見はらしのいい路上に水呪坊を置いたとき、三人目の空摩坊が走って来た。
「きゃつだ。その堂界隈におるぞ。逃がすな」
 注意して、彼はふところから針と糸をとり出した。この針は彼独特の技術で人骨を削ったもので、糸は女の陰毛であった。
 つづいて、風天坊、金剛坊、破軍坊、虚空坊と宙をとんで駆けつけて来たとき、羅刹坊は、もうものもいわず、水呪坊の足をつなぎ合わせる手術にとりかかっている。
 残り五人の僧がジリジリと古い堂をめがけてちかづいているころ――高い高い杉の木の上に、笛吹城太郎はのぼりきっていた。|颯《さっ》と夜風に杉の梢がざわめいた。影は二間もはなれたとなりの杉に飛び移った。風のそよぎとともに、さらに二間となりの杉の木へ、黒い影が翔けた。
「む、無念だ。せっかく追いつめながら……」
 路上で「壊れ甕」の手術を受けながら、水呪坊はうめきつづけた。
「最後に、うかと油断をしたばかりに――」
「りきむな水呪坊、りきむと血がまたながれる」
「まだなんの合図もないところをみると、きゃつ逃げたのではないか」
「逃げてもよい。あの伊賀の忍者め、伊賀へかえらんで、やはりおれたちをつけ狙っておったことがわかっただけでも、このたびの奈良捜索の甲斐があったといえる」
「しかし、いま見たところでは平蜘蛛の釜は持っていなかったようだが……いったいきゃつはどこへ――?」
 といいかけて、水呪坊の眼がかっとひろがった。
 むろん彼は路上にあおむけに寝て夜の大空を見ていたのだが、ほそい三日月しかないはずのその空になにを見たか。――とっさに声も出ない驚愕の数秒を、もとより夢想の境地にある羅刹坊が知る由もなく、
「水呪坊いましばらく、雑念は捨てろ」
 といったとき、ふいにまだ完全に足のつながっていない水呪坊が狂気のごとく彼をつきとばした。被術者からそんな待遇を受けるとは、羅刹坊にとってまったく思いがけぬことだ。
「な、なにする」
 忍法僧らしくもなく、針と糸を持ったままあおむけにひっくりかえったとき、その上から――まさに天空から|隕《いん》|石《せき》のごとくふってきた物体が手にした一刀を垂直にその腹へつき立てた。
 なんたる凄じさ、それは羅刹坊の腹をつきたて、鍔まで入った。刀身のほとんどすべては地中にまでめりこんだのである。そして、その物体は、刀身と土、鍔と羅刹坊の肉体の弾力を利用して、鞠のごとく宙にはねもどり、また路上に立った。
 笛吹城太郎であった。
 彼は天空を飛んで来た。
 彼は杉の大木の頂上にちかい枝に忍者道具たる麻綱をむすびつけ、それをひいて、離れた杉の木へ移動し、そこから巨大な人間振子と化して大空に舞いあがった。綱の長さに、振って来た反動の飛翔力が加わった。しかし綱から手をはなすときに、常人では及びもつかぬ忍法の体術が加わった。
 いちど森の中ではしくじったが、こんど二度目は成功した。
 笛吹城太郎はみごとに羅刹坊を大地に縫いとめたのである。――とみるや、血まみれになってまろび逃げる水呪坊には眼もくれず、ふたたび羅刹坊のところに馳せ寄り、この魔僧自身の戒刀をぬきとって、刺傷よりも打撃のために即死しているその首を斬った。
「……一人!」
 こんどこそ、ほんとうに一人だ! まさか、いかに死びとをつなぐ幻妖の忍法僧といえども、おのれ自身はつなぐわけにはゆくまい。だいいち、念のために、この首はおれがもらってゆく。
 しかも、まずこの羅刹坊を斃せば、もはやあとのやつら、いままでのように幽霊のようにふたたびこの世に甦ってはこまい。――城太郎が、まずこの羅刹坊を斬りたいと望んだのはこのためであった。
「……おういっ、来たっ、きゃつ天から降って来たぞっ」
 半分つながった足をひきずって、尺取虫みたいに逃げてゆく水呪坊を追おうとして笛吹城太郎はニヤリと笑い、身をひるがえして草の中へその行者頭巾を沈めていった。羅刹坊の首を抱いたまま。
 狂気のごとく殺到して来た五人の忍法僧は、口もきけず水呪坊がただ指さす空をあおいだが、そこにはただ細い三日月があるばかりであった。

 ちょうど三日のちである。
 信貴山城にある松永弾正は、おびただしい行列をととのえ城を出ようとして大手門の|甍《いらか》の上に恐ろしいものがのせられているのを見た。
 根来僧羅刹坊の首であった。
 弾正の眼に驚きの色がひろがったが、すぐにもちまえのむっとした顔で「けがらわしきもの、とり捨てい」といって、その門の下を馬にゆられていった。あれほどのものが、だれにどうして討たれたのだろう、という疑問はもったが、討たれてふびんに思うやつではない。
 山を下る弾正の眼には、彼らしくもない夢みるようなひかりがあった。
 京にある主君三好長慶の嫡子義興さまとその|御《み》|台《だい》右京太夫さまが、このたび奈良の大仏に御参詣あそばすについて、その案内を命じられて、彼はこれから奈良へゆこうとしているのであった。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:47:53 | 显示全部楼层
    大仏炎上


     【一】

 さて、松永弾正が信貴山城を下っていってから、約半刻ほどのちである。
 城の方から一隊の行列が下りてきた。一隊といっても、ほんの小人数――十数人の侍だ。その中に一挺の|輿《こし》を護っていた。
「待ちゃ」
 輿の|御《み》|簾《す》がひらいて、美しい顔が大手門の屋根の上をあおいだ。――弾正の寵妾|漁火《いさりび》である。
 武士たちはどよめいた。城門の上の生首に気がついたからだ。しかし漁火はそれほど驚いたようすもなく、じっとそれを凝視していたが、
「あれを持って来や」
 と、命じた。
 武士たちはその首がなにものかはすでに知っていたので、この命令をべつに異とはしなかったが、やがて取ってきたその生首を、漁火の方が抱きかかえ、輿の|簾《すだれ》をバサと下ろしてしまったのには胆をつぶした。

 輿の御簾の中で、漁火は羅刹坊の首を胸に抱いた。さもいとしげに。――
 さもいとしげに――にはちがいないが、人間が人間に対するもののようにではない。動物、おもちゃ、いやそれ以外、それ以下のものに対するような、ちょっと形容の言葉もない愛撫の相であった。
 彼女の顔は|篝火《かがりび》の顔だ。首から下はもとのままの漁火だ。彼女は篝火にして漁火であり、また篝火でもなければ漁火でもなかった。
 あらたに生まれ出た別の女であった。
 しかも、肉体的には以前の淫蕩な漁火のわだちがくびれ残り、脳髄には以前の篝火の聡明なはたらきの余波がある。――いやもとの漁火のころ心をなやましていた右京太夫さまへの嫉妬や、伊賀の笛吹城太郎への執念の記憶も残っている。しかし、それらのものすべてをドロドロに溶かし、彼女を燃やしているのは、ただ凄じい肉欲だけであった。そして、肉欲と反するすべてのものに対する奇怪な、悪魔的な憎悪だけであった。
 いま漁火は、羅刹坊の首を抱いている。それは愛情ではなく、篝火として犯されたときの憎悪の記憶からだ。しかも、それが漁火特有の肉欲に溶けて、なんとも形容すべからざる愛撫のかたちをとる。
 輿の簾の中で、ゆるやかに身をゆられながら、漁火は醜悪な羅刹坊の首を抱き、そのむき出した眼球をなめ、鼻に歯をあて、はや腐臭をはなちはじめている厚い唇をすすった。彼女のからだの深淵からふつふつと湧きのぼってくるのは、しびれるような陶酔の感覚であった。
 この奇怪な遊戯にふけりつつ、漁火は、これからじぶんのゆこうとしている奈良に想いを馳せている。
 弾正は奈良へいった。主家の若殿夫妻の大仏参詣の案内をするためだ。
 しかし、まことは奥方の右京太夫さまの顔を見るためであった。漁火は、それを知っている。
 じぶんはあの伊賀の女の顔を得た。それは右京太夫さまそっくりの顔であるそうな。――それなら、右京太夫を恋う弾正に、なんの不満もなかろうではないか。むしろ、じぶんの淫技をもってすれば、弾正がほかの女に心をむける余地のあろうはずはない。――そう漁火は自負していた。
 事実弾正はじぶんに溺れ切っているように見えた。そう思って、すっかり安心していたのに、こんど突然京の三好家から使者が来て、大仏参詣の案内をせよという口上をのべたとたん――急に弾正がソワソワとおちつかなくなったのだ。
 そして彼は、じぶんの感情を知っているはずなのに、知らない顔をして、いそいそと奈良へ出かけていった。いや、あの有頂天のようすをみると、知らない顔どころか、まったくじぶんの感情など思いやってくれていないかもしれない。
 弾正が奈良へいってなにをしようとしているのか、漁火は知らない。たんに若殿夫妻の案内だけではすまないような予感があるが、しかしなにが起こるのか、彼女は知らない。それでも彼女は追ってゆく。――そのことを、弾正もまた知らぬはずだ。
「なんにしても」
 と、漁火は、生首になまめかしい唇を這わせながら、妖しく眼をひからせてつぶやいた。
「思い通りにさせてはあげぬ」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:48:17 | 显示全部楼层
     【二】

 室町幕府の実権者といわれる三好長慶は、ここ数年病んでいた。
 もともと|管《かん》|領《れい》細川氏の被官であったのが、しだいに声望を得て、一時は天下の第一人者となったところ、彼もまた乱世の雄にちがいない。
 かつて彼は、俳人|紹巴《じょうは》らと|連《れん》|歌《が》の会をひらいていた。その席で「すすきに交る葦のひとむら」という句が出て、衆みな|付《つけ》|句《く》に苦しんだ。そのとき長慶のうしろに家来がやって来て、なにかささやいた。彼はただうなずいただけで顔色変わらず、やがて微笑して付句ができたといって披露した。「古沼の浅き方より野となりて」それから決然と起っていった。「ただいま弟|実休《じっきゅう》討ち死せりとの報を得た。われこれより戦いに赴かん」と。
 これほど豪胆な長慶も病いにはかちがたく、嫡男の義興夫妻に、奈良の大仏に平癒祈願の参詣を命ずるほど気力がおとろえていた。
 奈良へゆく義興に彼は注意した。
「まさかとは思うが、弾正には気をつけいよ」
 彼は病んでから、おのれのつかんでいた権力が、しだいに信貴山城にある家老の松永弾正に移りつつあるのを、ひしひしと感得していたのである。一子義興はおのれの子に恥じぬ胆力の持主だが、なにぶん、まだ二十歳をこえたばかりの若さである。それに父に似ぬ明朗さがあって、その明るいところが、この敵も味方もわからない端倪すべからざる戦国の世にはかえって不安だ。とくに老獪松永弾正にそういう点で太刀打ちできるとは思われない。
 そんな危惧を抱きつつ、いまのところ弾正が三好家にとって忠実な顔を変えていないので、彼をどうするというわけにもゆかないのだ。
「心得ておりまする」
 義興は平気でこたえて、さてじつに意表に出た使者を信貴山城へ送った。じぶんの奈良にあるあいだ、弾正に案内せよと伝えたのである。
 なにをするかわからないところのある松永弾正に、公然、おのれの護衛を命ずる。――濶達な義興らしい逆手であった。
 不敵な逆手ではあるが、しかしこのときまさか弾正に叛心があろうとは思いもかけなかったからこその処置だ。いわんや彼が、じぶんの妻の右京太夫に年甲斐もなく、不義の恋慕を燃やしていたとは、ゆめにも義興は悟ってはいなかった。

 じつは弾正自身、右京太夫を見るまでは、おのれの叛心を自覚してはいなかった。
 ほんとうをいえば、三好義興の使者を受けるまで、それによってじぶんの心にいかなる変化が起こるか予測もしていなかったのである。彼は|変形新生《へんぎょうしんせい》した漁火に満足しきっているつもりであった。ところが――奈良へこんど右京太夫がやってくる、ときいた瞬間から、彼は夢見心地になってしまった。
 このごろ弾正は、あまり京の三好家にもゆかぬ。主君の長慶がじぶんにそそいでいる疑惑にみちた眼がこそばゆかったからである。いっても、もとよりほしいままに右京太夫に拝顔するというわけにはゆかない。――
 その右京太夫を、ひさしぶりに奈良の宿舎でひと目見たとたん、弾正の心はまったく一変してしまったのだ。
 ちがう。漁火とはちがう。
 はじめてあの伊賀の女を見たとき、右京太夫そっくりだと思った。その顔を、いま漁火が持っているのだが――、いつのまにか漁火は、最初見たときの伊賀の女の顔とすら、しだいに変わってきたようだ。そんなはずはないし、事実やはり右京太夫と酷似しているにちがいないのだが、にもかかわらず、似ても似つかぬ印象がある。
 あれはニセモノだ、弾正はそう痛感し、断定せざるを得なかった。漁火を地獄の花とするならば、右京太夫は天上の月輪であった。
 しかも、清純高貴、|玲《れい》|瓏《ろう》たる右京太夫に、あの漁火の夜々の痴態が重なるのだ。――この右京太夫に、あのようなあさましい姿態をさせたなら? その妄想は、弾正をほとんど狂人に変えてしまった。
 しかし、なんといってもいまや実質的に群雄を操縦し、支配している男だ。理性と計算が歯どめをかけた。それは、現在の時点においては、京の三好家に公然叛旗をひるがえすのに、いろいろの事情からまだ時期尚早であるということであった。だいいち、数百騎はひきいてきたものの、そのつもりで信貴山城を出て来たのではない。三好義興のつれて来た供侍はそれにややまさる人数であり、ここでことを起こすには自信がないし、第一それなら同時に京の三好長慶をも襲撃せねばならぬところだがむろんそんな手は打ってない。
 といって、右京太夫が、じぶんの勢力下にある奈良へやって来たということは、天からあたえられて、またとめぐり逢えそうにない絶好の機会にはちがいない。一日彼女を奪うことが遅れれば、一日じぶんの人生が短くなることだとすら思う。
 弾正は迷った。
 その弾正の狂念の歯どめをはずしたのは、六人の根来法師であった。
 義興夫妻の宿舎に伺候して、じぶんの宿舎にかえってきた弾正のまえに、忽然と例の忍法僧があらわれたのである。
「うぬら、平蜘蛛の釜はとりもどしたか」
 弾正はいった。声が陰々としていたのは、釜よりも右京太夫に対する執念に胸がふさがれていたゆえであった。
「……いま、しばし」
 六人の法師はうめいた。彼らは暗い庭に、それこそ平蜘蛛のようにひれ伏していた。
「羅刹坊が討たれたな、討ったのは、あの伊賀の女の夫であろうが」
「……きゃつ、かならず逃がしはいたさぬ」
 だれともしれず、復讐に|嗄《しわが》れた声がいった。
「羅刹坊を討たれ、伊賀者は討ちもせず、平蜘蛛の釜は失ったまま……それで、なにしにおれの前へ出たか」
 卒然として弾正は、そうだ、今宵あの釜と淫石があったならば、と思い出した。あれさえあれば、なにくわぬ顔をして右京太夫さまに魔の茶を服ませることができるのだ。……せっかくその機を得ながら、こやつらの大不覚のために、みすみす手をつかねて、このように悶々としておらねばならぬ、とかんがえると、腹立たしさに歯ぎしりしたい思いであった。
「伊賀者は討ちまする。これは、われわれ自身のこと」
 と、風天坊が昂然といった。つづいて空摩坊が、
「平蜘蛛の釜も、かならずとりもどしまする」
「さりながら……いったんきゃつを捕捉しながら、無念やとり逃がし、以来、きゃつ笛吹城太郎と申すやつ、天に消えたか地にもぐったか、いずこにも姿をあらわしませぬ。……あいや、殿、しばらく」
 と、虚空坊が手をあげると、金剛坊がひきとって、
「殿、殿が平蜘蛛の釜をとりもどせ、と仰せらるるは、しょせん、右京太夫さまをおん手に入れられんがためでござりましょうが」
「その右京太夫さまを得られる工夫がつきましたるゆえ、われら、殿が奈良へおいでなされたと承り、恥をしのんで|罷《まか》り出た次第でござる」
 と、破軍坊がいった。
「なに、右京太夫さまを手に入れる工夫があると?」
 と、弾正は声をはずませた。
「されば、ちと手荒うござるが。……」
「手荒いこととは、三好家とことをかまえても、ということか。それが成るものならば、うぬらには頼まぬ」
「あいや、三好家と弓矢をまじえるというわけではござらぬ」
「では?」
「明日、三好義興さま、奥方さま、大仏へご参詣でござりましょう。そのとき大仏殿に火をかけまする」
「…………」
「大仏殿のみならず、東大寺すべてを|紅《ぐ》|蓮《れん》の炎につつみまする。阿鼻叫喚のさわぎとなるは|必定《ひつじょう》、その混雑にまぎれて、われら右京太夫さまをさらい、ひそかに信貴山城にお移し申しあげまする」
「…………」
「火をかけたは松永家のものとは思わせませぬ。近来、東大寺と興福寺の仲悪しゅう、いくたびか法師どもがたがいに争いおるは世上だれも知るところ、されば、これは興福寺の陰謀による放火と、われらあとより|巷《ちまた》へ流言をはなてば、それですむこと」
「…………」
「ひとたび右京太夫さまを信貴山城におはこび申しあげたあとは、その秘密をしかとお包み下さるならば、殿の大願それにてご成就と申すものでござりましょうが」
「…………」
「われらが師匠、果心居士さまは、われらをもって直接右京太夫さまをさらうことには反対でござったが、ここまで度はずれた奇策をこらせば、天性のあのおいたずら好きゆえ、かならずやにっと笑んで、それもよかろうと、うなずかれるに相違ござらぬ」
 まさに、度はずれた奇策だ。いや、天人ともにゆるさざる大暴挙だ。
 たった一人の女人を手に入れるために、|天平《てんぴょう》以来一千年、音にきこえた奈良の大仏、いや|華《け》|厳《ごん》宗の大本山、東大寺すべてを炎上させるとは。――
 さしもの松永弾正が、凝然と息をのんだまま、しばし声もない。
 しかも、この六人の根来僧は、まったく痛みも恐れもない眼をあげて、|恬《てん》|然《ぜん》と弾正を見あげているのであった。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:48:40 | 显示全部楼层
     【三】

 天平以来一千年、といったが、正確にいえば、大仏の原型および東大寺の建築そのものは天平時代のものではない。
 東大寺をひらき、最初の大仏を安置したのはまさに|聖武《しょうむ》天皇だが、のち四百三十年ばかりを経た治承四年、南都僧兵の叛乱に怒った平家がこれを攻めて、興福寺とともに焼いたのである。
 その後、源頼朝の手によって復興再建され、建久六年頼朝以下鎌倉武者が参列して、|落《らっ》|慶《けい》供養が行なわれた。
 しかし、それからでもなお三百七十年ばかりたつ。
 大仏殿の規模そのものは天平時代のものと変わらないし、南大門、西大門、東西七重塔、大講堂、戒壇院など、その後の南北朝の兵乱や|応《おう》|仁《にん》の乱などの戦火をくぐり、天変と時代の風霜にたえて、堂塔伽藍は|巍《ぎ》|々《ぎ》として空にそびえ立っている。
 三好義興は、妻右京太夫とともに、東大寺の僧にみちびかれてその大仏殿に上がり、石座、銅座、仏体合わせて七丈一尺五寸とつたえられる|金《こん》|銅《どう》の|大《だい》|毘《び》|盧《る》|遮《しゃ》|那《な》|仏《ぶつ》に合掌した。
 |森《しん》|厳《げん》な微光に、やがて顔をあおのけた右京太夫は、素直に感嘆の吐息をもらした。彼女ははじめて大仏を見るのであった。
「まあ、なんというご立派な。……」
「しかし、ちょっと、首の座りがわるいようだ」
 父の平癒祈願に来たくせに、義興はこんな遠慮のない批評をした。
「大地震でもあれば、あれは落ちるぞ」
「そんなことおっしゃると、罰があたりますよ」
 いかにもむつまじく、こんな対話を交しているふたりを――いや、薄明に浮かぶ右京太夫の夢幻のような横顔だけを、朱塗りの大円柱のかげにうやうやしく立って、しかし妙にひかる眼でじっと見つめていた松永弾正久秀のそばへ、ひとりの家来がちかづいて、なにやらささやいた。
「なに、興福寺の僧が。……」
 あとで、そばにいた東大寺の僧は、弾正がこんなことをつぶやいたのを思い出した。いや、そのときも、仲のわるい興福寺という声をきいて、そこの僧がどうしたのだと気にはかかったのだが、その声は小さかったし、弾正がスルスルと大殿堂の外へ出てゆく姿にも、それほどあわてたそぶりは見えなかったので、それ以上心にかけず、そこで合掌していた。
 火が起こったのは、その直後だ。
 炎は東大寺の数ヵ所から、突如巻きあがった。
 むろんこのとき、寺の境内には、千人を越える三好、松永の兵がいたのである。三好の兵はもとより、松永の兵たちも、まさか弾正の「奇策」は知らされてはいなかったから、ひたすらいかめしい顔つきで詰めていたのだがふしぎなことに、無数といっていい彼らの眼は、なぜこの火が起こったのか、どの眼も目撃することができなかった。放火にはちがいないのだが、怪しい影など、誰ひとりとして見たものはなかったのである。
 彼らは仰天し、うろたえ、走り出し、ぶつかり、渦まき、絶叫した。
「殿!」
「殿――っ!」
 三好の軍兵も松永の軍兵も、次の瞬間、どちらもそれぞれの主を思い出し、大仏殿の方へ殺到しようとした。そのゆくての建物や回廊にまた炎が燃えあがった。彼らはとびずさり、通路をさがし、おたがいと衝突し、ついにあちこちで逆上して白刃さえひらめかしはじめた。
 火と争闘と、まるで蜂の巣をつついたごとく、蜘蛛の子をちらしたごとく、東大寺内外は収拾すべからざる騒擾におちいった。
 混乱が起こったのは、大仏殿も同様だ。
 はじめ大仏殿の入口から、中門の方にあがった火光と叫喚を見聞きしたときは、数人、「すわなにごとか」といった|体《てい》でその方へ駆けていったにすぎなかったが、その瞬間,この大仏殿そのものも、異様な風音につつまれたのである。
 それは大仏殿の東西の外壁に走った炎の音であった。
 だれも見ていたものはなかったが、そこに火の|瀑《ばく》|布《ふ》がたばしりながれたのは、最初からそこに油でもひいてあったとしか思われなかった。
 人々は入口に殺到し、だれかつまずいて倒れると、それにつんのめり、折り重なり、もみあい、へし合い、つかみ合って逃がれようとした。
「おちつけ」
 三好義興はおどろきながらも、沈着な声でさけんだ。
「境内はひろい、おちついて出ろ」
 しかし、彼の周囲も人々がぶつかり合い、三歩とつづいて走れなかった。ほんの眼前の入口とのあいだには、一瞬に鉄の壁がふさがったようであった。
 義興はいちど身をひるがえし、妻の手をつかんだが、両側の壁にぶきみな音響がとどろき出したのをきき、事態容易ならずと知るや、
「どけ、斬るぞ」
 と、さけび、妻の手をはなし、|佩《はい》|刀《とう》の鞘をはらった。
 武士や僧はあわててとびのいた。とびのかなかったものは、ほんとうに義興の一刀で斬られてのめり伏し、外へのがれたものは回廊から石段の下へまろびおちた。
 ようやく突破口をひらいて、いっきにその石段の下まではせおりた三好義興は、そこからまたはねもどって、ひきかえそうとした。
 石段の上の回廊に、五、六人の僧が乱舞しているのに気がついたのはそのときであった。
 最初、狂乱した東大寺の僧かと思った。しかし、狂っているにしても、それはあまりに途方もない行為であった。
 二、三人が|大瓢箪《おおびょうたん》をふる。なにやら液体がぱあっとあたりいちめん壁や柱や扉にしぶき散る。すると、ほかの二、三人が、手にした|松明《たいまつ》をそれにたたきつけるのだ。どうっとそこから火がふきはじめる。
「うぬらだな、曲者は!」
 義興はかっと眼を見ひらいた。
 その奇怪な法師のむれは、いずれも袈裟頭巾で面をつつんでいたが、彼らの所業をはっきりと見たものは、このとき石段界隈にのこっていた十数人にすぎなかったろう。
 三好の家来も松永の侍も、つぎの刹那猛然と刃を舞わせて彼らにとびかかった。
「きえーっ」
 人間の声とも、金属のうなりともしれぬ異様なひびきとともに大薙刀が一閃し、その一閃だけで、とびかかった七、八人すべてが血けむりたてて石段の下へ斬りおとされた。
「曲者、うごくな」
 義興は絶叫して、石段をはせのぼった。彼の脳中にあったのは、このときまだ大仏殿の中に残っている妻だけであった。
 法師たちは炎の彼方へ蝙蝠のようにはばたいて消えた。追おうとした義興の面を、両側の扉から炎が吹きつけ、彼は顔を覆ってとびずさった。
「うまくいった!」
「ところで、右京太夫は、たしかに外へは出られぬな?」
「まちがいない。それだけは、よく見張っておった」
 もはや、殿内に人影はない。あるものは、踏みつぶされたか斬られたか、あるいは気を失って伏している武士や僧ばかりだ。
 その中に、ただひとり巨大な大仏だけが、|慈《じ》|悲《ひ》|忍《にん》|辱《にく》の相で、しかもいまや|赤熱《しゃくねつ》のかがやきをはなって鎮座していた。
「南無、毘盧遮那仏」
「|寂滅為楽《じゃくめついらく》」
 と、ふざけた声で唱えかけて、この破戒無惨の法師らはふいにぎょっと息をのんだ。
「右京太夫はおられぬぞ」
「そんなはずは――」
「しかし、女人の影はない!」
 彼らは,灼熱した大仏のまわりを、こんどはほんとうに狂ったように駆けめぐった。すでに大仏殿は、熔鉱炉の中さながらだ。
 しかし、燃えたぎる炎に照らしぬかれた大仏殿の中には、絶対にここから逃がれたはずのない女人の姿は、そのあでやかな袖の一片すらもとどめていないのであった。
「右京太夫さまはどこへ?」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:49:01 | 显示全部楼层
    臈たき人


     【一】

 ――笛吹城太郎は、右京太夫を両腕に抱いて走っていた。
 右京太夫は、城太郎の一方の腕からながい黒髪を、他の一方の腕からみだれた裾を地にひいて、気を失っていた。がくりと天にむけた白いあご――その顔をのぞいたら、だれしもこれは地上の女人かと疑うだろう。いや、それよりも、たとえ女体とはいえ花たばのように軽がると両腕にかかえ、しかも群衆の流れに逆行して、風のごとく走る山伏のふしぎさに――だれひとりとして気づかなかったのは、なんといってもその背景に、東大寺炎上という驚天の壮観があったからだ。
「――ああっ、焼けおちる。……」
「――おうっ、大仏さまが……」
 群衆はさけんだ。さけびというより、うなりの波濤であった。
 奈良の町は血いろにやけただれている。梅雨に入りかけた雨もよいの日であったが、まだ|夕《ゆうべ》にはときがあるのに、町の空は黒煙のために墨色の雲にふたをされたようになって、しかも下界は夕焼けのごとくぶきみな赤さに染められているのであった。
 城太郎はふりむいた。足が|釘《くぎ》づけになり、息をのんだ。
 東大寺は|坩堝《るつぼ》と化している。そのなかで最も巨大な炎をあげているのは、いうまでもなく大仏殿であった。すでにだいぶはなれているのに、それは眼前のものに見えた。
 天空にそそり立つ百五十尺の大仏殿は、いまや炎の大伽藍であった。とみるまに、その四周の壁や|甍《いらか》が轟然たる地鳴りをあげてなだれおち、大仏殿はただ大空にえがき出された壮大な幾何図形となった。その中に、七十一尺五寸の大毘盧遮那仏が端然として座っているのがあらわに浮かびあがった。|紅《ぐ》|蓮《れん》の炎にあぶられて、慈悲忍辱の相は、このときかえってこの世のものならぬ怪奇な大魔神のようであった。
 その大仏の全容が見えたのも一瞬であった。空にかかった虹のように|梁《はり》がかたむくと、それは炎の旗をひきながらおちていって、そこから奈良じゅうの人間の耳も魂も聾するような音響が巻きあがり、凄惨とも壮絶とも形容を絶する火の粉の大龍巻が舞いあがった。
「……ああ」
 思わず、城太郎もうめいた。
 火の粉の大渦巻がうすれたあとに、大仏の首が消滅しているのを見たからである。さなきだに、力学的に危い均衡を保ってのせられていた大仏頭は、焼けおちる梁に打たれて折れ、石座をくだいてから炎の海へころがったのだ。
 そのあと一瞬、名状すべからざる静寂がおちて、奈良は冥府と化したかのようであった。それから、ただ、音の世界を占めるものは万丈の炎のひびきだけであった。
 ――なんたるやつらか!
 と、城太郎は身の毛をよだてた。例の根来僧のことだ。あまり文化的な観念のない城太郎といえども、恬然として東大寺を焼きはらった彼らの大暴挙には、心から戦慄せざるを得ない。
 城太郎は信貴山城に羅刹坊の首を投げたあと、松永弾正が城を出て奈良へ来たのを追った。もとより弾正は復讐の相手の元凶である。数百の軍兵に護られてさえいなければ、彼にむかって、破邪の刃をふるったところだ。
 弾正を追って、城太郎は、はからずもひとりの女人を見た。――右京太夫だ。
 東大寺が炎上したとき、城太郎は大仏殿の大円柱の上に、蜘蛛のようにとまっていた。もとより下界からの眼にふれるような忍者笛吹城太郎ではないが、ただ忘我のために、じぶんから落ちかけた。右京太夫が大仏を仰いだときだ。
 敵への憎しみと、その女人を見たときの忘我と――心の波が渦まいたとき、突如として火が起こり、そして彼は、火を放ったのはあの根来僧であり、それは三好義興の妻右京太夫を奪うためであることを知った。
 彼らが炎の中を狂奔しているとき、城太郎は失神している右京太夫を抱いて、大仏殿背面の格子窓を破って逃がれ出したが、しかし根来僧らの目的を知らずとも、彼は右京太夫を抱いて逃げ出したであろう。たとえ、その炎の中こそ、法師らの一人でも二人でも斃す機会であると承知していても。
 城太郎は、ちらと腕の中の女人を見た。そしてまた走り出した。
 彼がやっととまったのは、興福寺の南側の崩れた土塀のかげであった。
 奈良に住むあらゆる人間の眼は炎上する東大寺へむけられていたが、しかし彼はあたりを見まわし、崩れた土塀のあいだから中に入り、そこに右京太夫を横たえた。
 城太郎はあらためて、その女人の顔に眼をそそいだ。遠雷のような叫喚は彼の耳から消え、彼はふたたび忘我におちいった。
「……|篝火《かがりび》」
 なんたる女人がこの世にいたものであろう。彼は最初この女人を見たとき、篝火がふたたび現われたかと思った。――いまでは、もとより彼女の名も素性も知っている。理性では知っているのだが、こうしてふたりだけになると、またしても彼は幻覚の世界にさまよいこんでしまう。
 いったい、ここはこの世であろうか。死後の世界ではなかろうか。うなされたように顔をあげると、興福寺の五重塔や三重塔は真紅に染まって、どうしてもこの世のものとは思われなかった。――女人の顔も薔薇色に染まっている。しかし彼女は眼をとじたまま、沈黙している。
「……篝火! 篝火!」
 と、城太郎は絶叫して、右京太夫をゆさぶった。
 彼は幻覚しつつ、からくも現実にひきもどされた。
 ともかくも、彼女を甦らせなければならぬ。水が欲しい。――彼は、すぐちかくに猿沢の池があることを思い出した。
 城太郎はふいに背の|笈《おい》を下ろし、中から平蜘蛛の釜をとり出し、猿沢の池に走った。釜に水を汲んで、彼は馳せもどった。それから、しばらくかんがえこんでいたのち、この釜の水を口にふくんで、失神している女人の唇に、口うつしにそそぎこんだ。それよりほかになすすべはなかった。
 冷たい水がのどを通って、右京太夫は眼を見ひらいた。
 そして、彼女は笛吹城太郎を見た。右京太夫は、はじめて笛吹城太郎を見たのだ。驚愕し、恐怖して身を起こしてしかるべきであった。しかし彼女は、まだ夢みるように彼の顔をながめているだけであった。
「……わたしはどうしたのでしょう?」
 ようやく彼女はそうつぶやいた。
「……あなたは、だれですか?」
 城太郎は声も出ない。ひらいた右京太夫の眼も篝火そっくりなら、その声もまた篝火とおなじであった。
 ぶきみなほど黙りこんでいる異風の若者におびえもせず、右京太夫はまだウットリと見まもっている。彼女は先刻の炎の衝撃といまの失神から、完全には醒めないのであろうか。
 城太郎にとっては、時の観念のない時が過ぎた。
 ふいに彼の耳がかすかにうごいた。それはこの場合、なお無意識に生きている忍者としての耳であった。彼はちかづいてくる一人ではない|跫《あし》|音《おと》をきいた。それから遠く、ききおぼえのある「――あっちだ」とさけぶ声をきいた。
「……出なさるな」
 と、はじめて彼はいった。
「ここにおりなされ。出てはなりませぬぞ」
 彼は立ちあがった。
「おれのもどるまで、ここにいて、その釜を護っていて下され。おれの宝です」
 そういうと、彼は戒刀の柄をおさえ、崩れた土塀のあいだから外へ出ていった。
 血色に染まった路上に出ると、彼は東の――東大寺の方角から鴉の飛ぶように駆けてくる六人の法師の影を見た。
「――いたっ、あそこだ!」
 ひッ裂けるような恐ろしい絶叫があった。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:49:30 | 显示全部楼层
    【二】

 これよりやや先、猿沢の池から釜に水を汲んで走る笛吹城太郎の姿を――やはりこのあたりにも群れてはいたが、しかしみんな燃える東大寺のみをふりあおいでいる人々の中で、ちらりと見て、かすかなうめき声をたてたものがある。
 金剛杖をついている一人の法師だ。彼は左足が、ひざの下からなかった。一本足であった。
 それは水呪坊であった。過ぐる日、笛吹城太郎に斬られ、羅刹坊の忍法壊れ甕で接合されかかったものの、羅刹坊の死によって、その手術は未完成に終わりついにその足を失ってしまった水呪坊だ。
 それだけの重傷を受けながら、数日にして金剛杖をただ一本ついて|徘《はい》|徊《かい》しているのは、やはり不死身にちかい魔僧にはちがいないが、なんといっても行動の不自由さはまぬがれ得ないから、きょう東大寺の放火には、彼ひとりは加わらなかった。東大寺から仲間が右京太夫をさらってくるのを、猿沢の池のほとりで待っていたのだ。
 それでも、さすがに大仏炎上の凄じい景観に眼をうばわれて、右京太夫を抱いて逃げてきた笛吹城太郎には気がつかなかった。もっとも、城太郎の走ってきた路が、猿沢の池のほとりにたたずんでいる彼の眼にはふれない方角からであった。しかし、その池から水を汲んで駆け去る山伏姿はたしかに目撃したのである。
 金剛杖をふりふりあとを追ったが、片側が土塀の路までくると忽然と城太郎の姿は消えていた。さらに探索しようとして、ふいにひき返したのは、もとより不具となりはてたじぶんに自信がもてなかったからだ。彼は身をひるがえし、いっさんに東大寺の方へ駆けた。
 そして、大仏殿の背面に、やっと切り破った格子窓を見つけ出し、そこから飛び出して狂奔している五人の仲間にめぐりあい、急を告げて、みちびいて来たものであった。
 城太郎がきいた「――あっちだ」という声は、もとより水呪坊の声である。
 城太郎は、じぶんが追われ、つきとめられたことを知った。右京太夫の居場所を知られてはならぬ。それで彼はみずからそこをおどり出て、南の猿沢の池の方へ走った。
 城太郎は、いまここで法師らとたたかう意志はなかった。法師らすべてを相手に死闘して不利なことは、胆に銘じて承知している。さればこそ、苦しんでいるのだ。――それに、いまはただ、右京太夫から法師らの眼をそらせるだけが目的であった。
 しかし彼はたちまちその追跡の|飄風《つむじかぜ》からのがれることの不可能を知った。
 包囲されることをおそれて、池を背にまなじりを決して立ちどまった城太郎に、四人の法師がせまり、何思ったか、一人は池を回って反対側へ駆けた。
 ただならぬ殺気の風に吹かれて、火事見物の人々は、蜘蛛の子をちらすように逃げた。
「笛吹城太郎、ついに見つけた」
「よくも先夜は羅刹坊を討ち果たしたな」
「生け捕りにしようと思うたゆえ、いままで手心を加えたのだ。もはや容赦はない。ここで|膾《なます》にしてくれる」
 ちかづく法師らの眼が血色にかがやいているのは、炎の|火《ほ》|照《て》りのゆえばかりではない。
 びゅっと左からうなりをたてて斬りこんだ虚空坊の戒刀を避けて、城太郎が飛んだ右側から、|灼《やき》|金《がね》のようなひかりをひいて空摩坊の大薙刀が走る。
 城太郎は池畔の柳を盾としたのだが、大薙刀はその柳の幹をも|麻《お》|幹《がら》のごとく切って、片ひざついた城太郎の行者頭巾の上を走りすぎた。
 間髪を入れず、風天坊の金剛杖が正面からふり下ろされ、横に薙ぎはらいながら城太郎はうしろへ飛んで立ったが、きびすはあやうく池に落ちようとする。つづいて左から殺到してくる破軍坊に、一間の距離で城太郎は、足をあげて柳の幹を蹴った。
 いま空摩坊に切られた柳は、まだ徐々に池にむかって倒れつつあったが、その残りの幹一尺あまりが、|戞《かつ》と音して宙にとび、襲いかかる破軍坊の顔面を打った。横に薙いだ城太郎の一刀で、残りの幹からさらに|切《せつ》|断《だん》されたやつを、城太郎は蹴はなしたのだ。
「わっ」
 吹きあがる鼻血をおさえてのけぞる破軍坊のまえで、柳は水けぶりをあげて池に倒れた。
「ま、待て」
 と、水呪坊が声を出した。
 破軍坊の醜態にもかかわらず、しょせん敵は袋のねずみと見たか、一本足の水呪坊は|汀《みぎわ》の石に腰うちかけて、うす笑いして観戦をきめこんでいる。
「こやつ、平蜘蛛の釜を持っておらぬぞ。そのゆくえをただしておかねば、殺してからではかなうまい」
 それから、ギラリと眼をひからせて、
「ひょっとすると、右京太夫をさらったのもこやつではないか。おお、そういえばさっき釜で水を汲んで駆けていったが、あれは右京太夫に運んだものではないか。――若僧、白状しろ。白状すれば、あるいは命だけは助けてやらぬでもない。――」
「おい、要らざる忠言して息をつかすな」
 と、破軍坊が鼻血をぬぐって、血に染まった歯をむいた。
「右京太夫をこやつがつれ出して、釜で水を運んだというのがまことなら、右京太夫はこのちかくにおるに相違ない。平蜘蛛の釜もそこにあるにちがいない。こやつを片づけてから、あたりを六人で探せば見つかるにきまっておる。――」
 城太郎はおのれ自身の恐怖ではなく、髪も逆立つ思いがした。彼は一瞬うしろの池をふりかえった。できれば水の上を飛んで、右京太夫のところへ馳せもどりたかった。あの場所に、とどまるなかれ、いまのうちに逃げよというために。
 その一瞬のすきを見のがさず、また二本の乱刃がたたき下ろされた。
 城太郎はとびずさり、池になかばつかった柳の木に|鶺《せき》|鴒《れい》みたいにとまった。
「あとがないぞ」
 水呪坊が冷然と笑った。
「水にとびこんでもだめだ。左様なこともあらんかと、金剛坊が向こうにまわって、|天扇弓《てんせんきゅう》の用意をしておる。――水の中は、うぬにとっては血の池地獄」
 そして、彼自身も衣の袖へ手を入れた。いうまでもなく、月水面の|紙礫《かみつぶて》をとり出したのだ。
「おうっ」
 獣のさけびをあげ、風天坊が空におどりあがった。
 たわみ、ゆれる柳の木にとまった城太郎の頭上から、まっさか落としに金剛杖をふり下ろす忍法「枯葉返し」。――かわすというより、城太郎はうしろざまに水の上にとんだ。これは万やむを得ぬ絶体絶命の逃避であったが、水けぶりとともにそのからだから一条の鎖がほとばしり出て、水際にいた水呪坊のくびにからみついた。
 水呪坊はこのとき一本足で立ちあがっていた。それは池の向こうからわたってきた、ただならぬ金剛坊の絶叫をきいたからであった。
「――おういっ、敵に助太刀があらわれたぞ!」
 一本足で立ち、ふせぎもかなわず池におちた水呪坊をふりかえるいとまもなく、こちらのあと四人の法師らもがばと水際に身を伏せた。
 バシャバシャと水面に波をたてたものがある。柳の枝にぴしいっとつき立ったものがある。それは十幾すじかの矢であった。
「あっ」
 泥の中から血ばしった眼をあげると、池に沿う路を|疾風《はやて》のように走りぬける七、八騎の影が見えた。
「な、何者だっ」
 まったく予想もしない敵の援軍だけに愕然となり、つぎの瞬間、憤怒して立ちあがろうとした四人の法師の前へ、いちどゆきすぎた騎馬隊はまた馬を返して来た。
 みな黒い頭巾で|面《おもて》をつつんでいたが、手にはいずれも半弓をひきしぼっている。そして、いっせいにまた雨のように矢をとばして来た。
 さしもの忍法僧らが、地に伏したまま身うごきもできなかったのは、決して矢を恐れたのではなく、あまりにも意外な敵の出現に動顛して、とっさに行動の判断力を失ってしまったからであった。
 この不敵な往復をいくたびか、ようやく奇怪な騎馬群が去ってかえらぬと見きわめて四人の忍法僧は猛然と立った。
「きゃ、きゃつは? ――水呪坊は?」
 気がついて、ふりむくと、猿沢の池はまだ遠い東大寺の炎を映して朱色に染まり、水の上を|煤《すす》をふくんだ黒い|業《ごう》|風《ふう》が吹いて、まさに血の池さながらだが、同時に地底のごとく|寂《じゃく》としずまりかえって、笛吹城太郎や水呪坊の影もない。
 数分凝視していたが、何者も浮かびあがってはこない。
「おういっ」
 池をめぐり、金剛坊が血相かえて駆けて来た。
「こちらにも来たか。……いまの騎馬の黒頭巾は何者だ?」
「――伊賀?」
 と、風天坊がさけんだ。
「ありゃ、伊賀者ではないか?」
 彼らの頭を、いつかの雨夜の|般《はん》|若《にゃ》|野《の》を伊賀の方角へ去った十三騎がかすめたのは当然だ。あの連中がまたひそかに奈良へひきかえして来たのではないか?
「伊賀者らが、正面きって喧嘩を買って出たというのか」
「――おもしろい」
 空摩坊と破軍坊がさけんだ。|怪鳥《けちょう》のようにカン高い声にふるえをおびていたのは、武者ぶるいか、ほんとうの戦慄かわからない。
「まだ蹄の音がきこえる。――」
「追え!」
「そして松永衆に知らせろ!」
 彼らはいっせいに駆け出した。
 いつしか五人、五つの方角にわかれて走っていることに気がついたのは、その鉄蹄のひびきも四方八方に散って消えてゆくことを知ったのと同時であった。水呪坊のことは忘れていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:49:52 | 显示全部楼层
     【三】

 水呪坊の生首をかかえて、笛吹城太郎は猿沢の池に浮かびあがった。
 ――水におちながら、一本足の水呪坊を鎖でひきずり落としたのは、ひとまず彼を人質にして、いまの窮地をのがれようという意図以外の何物でもなかった。
 鎖は水呪坊の|頸《けい》|椎《つい》を折れんばかりに絞めあげたにちがいないのに、水呪坊はひきずり寄せられながら、すっくと水中から立った。ふたりのあいだに、ピーンと死の鎖が張った。水呪坊は赤い紙礫を投げつけた。それは水にぬれて大半礫のままにとどまったが、それでも四、五枚ぱっとひらいて、城太郎の顔に吹きつけた。城太郎は水の中に沈んだ。そして死力をしぼって鎖をひいた。
 一本足の水呪坊は水中にたおれ、城太郎にひきずり寄せられた。それまでは一分か二分の音なき決闘であったが、水底の死闘は数分にわたってつづいた。
 そしてようやく水呪坊の首をかき斬ってからも、城太郎はなお数分水底にあって、波もたてずに移動した。忍者ならでは――そしておそらくこれだけは、根来僧らも及ばないであろう伊賀忍法「無息の術」であった。
 まったく思いがけぬ池の西側のふちに浮かびあがり、根来僧らの姿があたりにないことを見すますと、彼はあらためて小脇にかかえた水呪坊の首を赤いひかりにすかした。
「――これで二人!」
 と、つぶやいた。それからざぶっと波をたてて岸にはねあがった。
 先刻の奇怪な騎馬群はちらと彼も見ている。しかし彼にも、その正体がよくわからなかった。
 伊賀の服部伯父が助けにきてくれたのか? と一応は思ったが、しかしあの般若野の|勁《けい》|烈《れつ》な叱咤を思い出すと、とうていそんなことはあり得ないように思われる。
 ともあれ、そんなことを探索しているひまも、思案しているひまもなかった。
 城太郎は走って、さっきの土塀のかげにつくと、壁の崩れから中に入った。|流石《さすが》に全身綿のように疲れ果て、両足がおののいてもはや立ってはいられないほどであった。
 ――いられるか?
 ――それとも、逃げられたか?
 からだよりも、城太郎の心をおののかせていたのは、その疑問であった。
 しかし、右京太夫はそこにいた。城太郎に命ぜられた通り――さっきのままの姿でウットリと横たわっていた。
「もどりました」
「……どこへいっていたのです」
 といって、眼をこちらにむけた右京太夫は、さすがに驚きの表情になった。
 人間の生首をひっさげた城太郎は、血と泥にぬれつくし、地獄から這い出して来た山伏のような姿であったからだ。
「それは何者ですか。あなたはなにをして来たのですか」
 まさに城太郎は地獄からもどって来たのだ。しかし彼はそのことは右京太夫にはいうまいと思った。ただ首のことだけはかくせないから、
「これは、おれの女房を殺した敵の首です」
 と、だけいった。
 右京太夫は恐怖したのか半身を起こしてなにもいわずに城太郎を凝視したままであった。
 見つめられると、城太郎の胸からはまたもや「篝火! 篝火!」という声がほとばしり出そうであった。歯をくいしばって耐えると、こんどは篝火のかなしげな声が耳に鳴った。
「――笛吹城太郎は、篝火のほかに女を断つという誓いを忘れないで!」
 ――篝火に似ているが、むろん、このひとは篝火ではない。と身ぶるいして、彼は心につぶやいた。
「右京太夫さま」
 と、彼はひくい声でいった。
「殿さまのもとへ帰られませ。殿さまは案じて、お探しでござりましょう」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:50:09 | 显示全部楼层
    |漁火《いさりび》


     【一】

「いいえ、わたしは帰らぬ」
 と、右京太夫はいった。そして、なおじっと城太郎を見つめている。
 城太郎はぎょっとした。右京太夫はまたいった。
「わたしは京へ帰りとうはない。そなたといっしょにどこかへゆきたい」
 城太郎の脳髄を硬直させたのは、まず理由のない歓喜の衝撃であった。いや、理由はある。それは、ふたたび襲った、これは|篝火《かがりび》ではないかという錯覚であった。すぐにその錯覚ははらいのけたが、つぎに彼をとらえた恐怖にちかい思念は、あの平蜘蛛の釜の魔力であった。右京太夫が突然こんなことをいい出したのは、あの茶を服んだせいではないか?
 いや、じぶんはこの女人に茶を服ませたおぼえはない。飲ませたのは水だ。それに例の白い石は、べつにじぶんの懐中にある。
「か、釜は?」
 と、城太郎は右京太夫の言葉をそらそうとし、眼をあらぬ方にそらした。
「釜はここにあります」
 右京太夫はちらとじぶんのうしろを見た。平蜘蛛の釜はいつのまにか、きらびやかな|裲襠《うちかけ》につつまれてそこにあった。
「それより、ほんとうにわたしを、おまえといっしょにどこかへつれていっておくれではないか?」
 右京太夫は、城太郎を、あなたと呼び、そなたと呼び、そしていまおまえと呼んで、そしてひしとしがみついてきた。さっきまでの右京太夫とは思われないような、なまめかしいはげしい眼であり、動作であった。
 しがみついて、城太郎をふりあおいだ眼が、むしろ|淫《みだ》らにちかい妖しい炎にもえている。城太郎は、彼女がひとが変わったかと思った。――篝火のかなしげな声が耳を吹きすぎた。
「篝火のほかの女は断って。――」
「いいえ、なりませぬ」
 城太郎は必死に彼女から身をはなした。
「あなたさまは、三好義興さまの|御《み》|台《だい》さまです。お帰りにならねばなりませぬ」
 そして、土塀のところまですざって、崩れた穴から外をのぞき、
「お、どうやら東大寺の火事も盛りがすぎたようです。逃げてきた武者がこの界隈までウロウロしはじめた姿が見えまする。あ、身をかくされませ。松永の兵に見つかっては一大事」
「なぜ?」
 右京太夫は、じぶんをさらおうとしたものが、弾正|麾《き》|下《か》の根来僧であることをまだ知らないのだ、ということにはじめて城太郎は気がついた。
 そのことはおぼろげに――いや、ほとんど確実に城太郎は知っているが、弾正の恋情をよく知らない城太郎には、まだよくわからないふしもある。で、そのわけをいま簡単に説明することはむずかしい。
「とにかく、三好の衆ならようござるが――もし、三好の衆が通られたら、お呼びなされ。往来からは見えぬように、こちらから見張っておって下され」
 土塀の外を、いかにも武者のむれが三々伍々通り出した。あわただしく駆けて通るのは、ひょっとしたらまだ所在のわからぬ松永弾正や三好義興を求める武者であったかもしれないし、手負いのものをかついでゆくのは、|火傷《やけど》でもしたのを収容してゆく武者であろう。
「あ……あれは」
 数十人の武者が通過してゆくのを、土塀の中からそっとうかがっていた右京太夫が、やっとさけんだ。
「あれは、三好のものどもじゃ」
「おお、では」
 城太郎は右京太夫の手をひいて往来に走り出した。
「もしっ、右京太夫さまはご無事でここにおわしまするぞ。どうぞ義興さまへおとどけ下され」
 そして、手から手に見えない糸がひき、その糸を断つ思いで、
「右京太夫さま、では、おさらばでござる」
 と、彼女を軍兵におしやった。
 手は、はなれなかった。彼女は城太郎から手をはなさなかった。
 そして、ふいにさけんだ。
「ものども、この男を捕えや」
 城太郎は、あっけにとられた。
 軍兵が黒い津波みたいに彼をつつんだ。――右京太夫はようやく手をはなした。
「これが平蜘蛛の釜を盗んで逃げた女の夫じゃ。――いや、平蜘蛛の釜を、さっきまでこの男が持っておった。――」
 両腕をとらえられても、城太郎にはまだわけがわからない。
 すでに軍兵の波の向こうへ消えつつ、女はふりむいて笑った。
「いまは、釜は持ってはおらぬ。あそこに裲襠で包んであるのは、あれはおまえが殺した羅刹坊の首、これは松永の兵、そしてわたしは――」
 その笑顔が、右京太夫とは似ても似つかぬ邪悪な花に見えたのはその刹那であった。
「右京太夫ではない。――」
「――あっ」
 城太郎がさけんだとき数十人の松永の軍兵は、彼の上に折り重なった。さすがの城太郎も、刀も忍法もふるいようのない一瞬のできごとであった。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:50:32 | 显示全部楼层
     【二】

 東大寺の炎は下火になったが、その代り、黒煙が濃くなった。その煙か、雲か、ひくくたれこめた空から、煤のようなものがふってくる。その墨色の雨にうたれつつ、|飛鳥《あすか》|野《の》に馬をとどめた松永弾正は、まるで黒い魔神のような形相であった。それは心に吹きたける焦り、|悶《もだ》え、恐れ、怒りなどの黒い感情が、あぶら汗とともに外面ににじみ出してきたせいでもあった。
 ――右京太夫さまはどうなさったか?
 ――三好義興はどうしたか?
 その疑問に応じて、兵が駆け出し、また馳せもどって報告する。
 三好義興さまは景清門のあたりまで立ちのかれているが、それより一歩も去らず、なお右京太夫さまをお探しなされている。ほとんど狂乱状態である。きょうの火事がいかにして起こったか、まだお知りなさらぬようである。右京太夫を喪われた懊悩のあまり、それどころではないように見える。――
 弾正の知りたいのは、もとより義興の動静ではなく、右京太夫のゆくえだ。
 報告を受けつつ、弾正はきょうの火事が興福寺の僧の放火にあるらしい、という流言をはなつ一方、また右京太夫を求める兵を八方に出した。義興よりも、弾正の方が懊悩狂乱の度が|甚《はなは》だしいように見えた。まだ|余《よ》|燼《じん》消えやらぬ大仏殿に、捜索の兵を突入させようとすらしたのである。
 ――きゃつら!
 と、切歯する。
 例の根来僧どものことだ。彼らはあれっきり弾正のまえにあらわれ出ない。
 きゃつら、大それたことを仕出かしおって――右京太夫さまをさらうどころか、万が一、大仏とともに焼き殺して見よ、もはや、ただではおかぬ、きゃつらもまた生きながら火あぶりにしてくれる。
 じぶんがあの大暴挙に賛成したことは忘れ、悔いるよりも、ただ怒り悶えている松永弾正であった。
 その弾正のまえに、根来僧たちが現われた。
「おおっ、殿」
「ここにおわしましたか!」
 弾正がまだ一語も吐かぬうちに、
「無念です」
 と、風天坊が絶叫した。
「かねてのもくろみ通り、大仏殿より右京太夫さまをお移し申しあげようとする寸前、例の伊賀の忍者笛吹城太郎めにさらわれ、これを猿沢の池まで追いつめましたるところ――」
「突如、黒衣の一隊が弓矢をもって襲いかかり、右京太夫さま城太郎をとりにがしたのみか――」
「水呪坊まで討たれました!」
 ――先刻、その黒衣の騎馬隊を追って走り、それが八方に散ったのを知って、ようやく敵の|攪《かく》|乱《らん》戦術にかかったと感づいて、あわてて猿沢の池に駆けもどった彼らは、そこに浮かんでいる首なしの水呪坊の死骸だけを発見したのであった。
 いかにも彼らは五人に減じている。弾正は怒るのも忘れた。
「なに、黒衣の一隊? そりゃ何者だ。三好の手のものか」
「三好勢がなんの要あって覆面いたしましょうや――われらほどのものを相手に、あれほど水際だった駆け引き――思うに――」
 と、虚空坊が歯ぎしりして絶句すると、金剛坊がうめいた。
「伊賀のものどもに相違ござらぬ!」
「伊賀者とや?」
「されば、笛吹城太郎を援助する、おそらくは服部一党のものども、殿! いそぎ軍兵を奈良の北へむけ、きゃつらの退路をおふさぎ願わしゅう存ずる」
 そのとき、まわりにむらがる兵のうしろから、
「なにを大げさな悲鳴をあげているのじゃ、頼み甲斐なき男ども。笛吹城太郎はこのわたしがとらえたわ」
 と、いう女の声がした。
 ふりむいて、弾正は眼をむいた。右京太夫がそこに現われたのかと思ったのだ。
「殿、|漁火《いさりび》でござります」
 にっとした笑顔の妖しさから、それが信貴山城に残してきた愛妾漁火にまぎれもないことをたしかめて、弾正はいよいよ口がきけなくなった。
 五人の忍法僧もかっと眼を見ひらいている。彼らを仰天させたのは、漁火の出現よりも、そこに高手小手にくくられた笛吹城太郎の山伏姿であった。
「う、右京太夫は?」
 と、弾正があえいだ。
「殿、なによりもまず、それをおききになりとうございますか」
「い、いや、ことの次第を知りたいと思うただけのことじゃ」
 弾正は狼狽して、
「そもそもおれには、なぜそなたが奈良に現われたのかもわからぬ。ましてや、そのそなたが、どうしてこの曲者をとらえたか、まるで魔法のようじゃ」
「――わたしはそのとき興福寺におりました。そして東大寺の火事を見ておりました」
 と、漁火はいい出した。
「そして、火事の美しさにひかれ、ひとり興福寺を出ようと――とある土塀の崩れたところへあるいてゆきますと、この山伏が、右京太夫さまを背負うて入ってきたのでございます。それが右京太夫さまだということはすぐにわかりました。なぜなら、わたしそっくりでございましたから」
 漁火は声もなく笑った。
「右京太夫さまは気を失うておられました。この若者は平蜘蛛の釜で猿沢の池の水をくんできて、口うつしに飲ませたりして介抱しておりました。それもわかります。右京太夫さまは、この男の死んだ妻にそっくりでございますから」
「しかし、右京太夫さまだ。こやつ、よくも下郎の|分《ぶん》|際《ざい》で、右京太夫さまに口うつしに――」
 おのれを制することを忘れ、馬上で歯がみする弾正を、漁火は皮肉な眼で見て、しいて抑揚のない声でつづける。
「すると、そこのまぬけ法師どもが探しつつ追ってくる跫音をきいて、城太郎は外に出てゆきました。城太郎は右京太夫さまに、そこをうごかぬようにいい置いて出てゆきましたけれど、ややあって――わたしが右京太夫さまにどう声をかけよう、としばし思案しているあいだに、右京太夫さまは――おそらく義興さまのところへおゆきになるおつもりでございましょう、ふらふらと塀の外へ出てゆかれたのでございます」
 城太郎は眼をとじてきいている。
 右京太夫が三好義興のもとへかえるのを漁火は願っていたのではないか、と弾正は思った。
「わたしがそれを追って塀の崩れまで駆けつけたとき――外の往来を走ってきた黒頭巾の一騎が、いきなり右京太夫さまをさらいあげて、風のように駆け去ってゆきました」
「騎馬の黒頭巾、そりゃ何者だ」
「それはわたしも存じませぬ」
「笛吹城太郎、うぬは知っておろう?」
 弾正は馬をすすめて来た。
「うぬの一族、伊賀者であろうが? 言え!」
 鞭がうなって、城太郎の顔をななめに、ぴしいっと打った。城太郎は身うごきもせず、眼をとじ、口をとじている。
「知りますまい」
 城太郎の面にみるみるななめに浮きあがってきた赤いすじを、うす笑いして見つめていた漁火は、弾正がまた鞭をふりあげたのをみると、こういった。
「やがて血と水にびしょぬれになって、土塀のところにもどってきたこの男は、右京太夫さまとわたしをまちがえたくらいでございますから、なにも知らないはずでございます」
 城太郎は、ここへ曵かれてくる以前からじぶんをあざむいたこの女が何者であるか、ようやく知っていた。彼は、雨の般若野で篝火の死霊が告げた声を思い出していたのだ。
 あの篝火の死霊をやどした女は、じぶんを、
「――顔は漁火という弾正の妾でございます。けれど、からだは篝火のもの。……」
 といった。すなわち、この女は、その逆だ。
「――屍骸の首とからだはとりかえられ、ふたりは甦りました。……信貴山城にいるわたしの顔をした女は、もはや篝火ではないということ。――」
 これは漁火という弾正の妾にはちがいないが、しかし顔は篝火のものだ、似ているというにはまだ足りない。いま冷やかにじぶんを見つめる眼、恐ろしい言葉を口にする唇、これはまったくかつての篝火そのものであったのだ!
 城太郎がこの女に戦意を喪失したのは、なによりもまずその想いであった。
「ううむ」
 と、弾正はうなって、
「漁火、ところで、平蜘蛛の釜は?」
「右京太夫さまにかかえられたまま、その黒衣の騎馬とともに。――」
「そこなふたりの足軽にもたせてあるのは?」
「一つは信貴山城にあった羅刹坊の首、一つは猿沢の池で討たれた水呪坊の首でございます」
 いままで、憎悪に凍りついたように立っていた五人の法師が、いっせいに大薙刀をとりなおし、戒刀をぬきはらった。
「殿」
 殺気にしゃがれた声で、
「ここで、こやつのそっ首、斬りとばしてようござるな?」
 そのとき、軍兵の向こうになにを見たか、弾正がふいに瞳をひらいて、
「やあ、これは」
 と、さけんだ。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:51:07 | 显示全部楼层
     【三】

 軍兵たちをかきわけ、ちかづいてきたのは三人の武士で、二人は供侍らしいが、先頭に立っている沈毅で篤実な顔は――柳生の庄のあるじ、柳生新左衛門だ。
「松永どの」
「新左衛門、おぬしは……まだ奈良におったのか」
 と、弾正がいったのは、柳生新左衛門が信貴山城を去ったのはほんのこのあいだのことだからだ。まだ――とは、もとより新左衛門が奈良にいたことを知っていたからの問いではなく、柳生の庄へかえる途中、そのまま奈良に滞在していたのかと思ったのである。
「いや、いちどは柳生に帰ったのでござるが、ふと|上泉《かみいずみ》伊勢守さまが、奈良の某所に来ておいでなさるときいて、いそぎまた出かけて来たわけで――来てみれば、大変なことでござるな、大仏さまが焼けるとは」
 そのことについては弾正は話すのも胸がいたむから、
「それで、伊勢守には逢うたのか」
 と、ほかのことをきいた。
「いや、誤報でござった。――それよりも」
 柳生新左衛門はただならぬ顔色で、
「いま、景清門の方できいたことでござるが、あそこにおる三好どのの軍兵が、なにやら殺気立って、松永にさらわれた右京太夫さまが帰られた。右京太夫さまをさらったのは松永じゃ、といいかわし、陣を組みはじめておりましたが」
「なに、右京太夫が帰られた?」
「三好、松永は主従の縁、そのあいだに不穏の気がみなぎっておるのは、大仏を焼いた炎にのぼせあがったか、それとも天魔に魅入られたか、新左衛門には判断もつきませぬが、万一不測のことでも起こればこの火事よりも一大事と、いそぎ報告に来た次第でござる」
 松永弾正の顔にさっと|一《ひと》|刷《は》|毛《け》蒼いものがながれたが、すぐにむらっと満面に血をのぼらせて、叛骨と闘志の権化のような形相に変わった。すねに傷もつ弾正だ。右京太夫が義興のもとへ帰ったのがまことならば、新左衛門の急報したような事態は十分起こり得ることと覚悟せざるを得ない。
 いま柳生新左衛門は、三好、松永を主従といった。それはそうにちがいないが、現在実質上の権力を掌握しているのは京にある三好家ではなく、大和を|睥《へい》|睨《げい》している松永であること、小国柳生がからくも存在を保っているのは、三好のおかげではなくひとえにこの弾正のおかげであることは、新左衛門はとくと承知しているはずだから、彼がこんな注進をしてきたのは当然といえる。
「……そうか、ではやはりあれは三好の手のものであったか。――よし、毒食わば、皿までじゃ」
 うなずいて、そばの近習たちに|怪鳥《けちょう》のように口早に指図した。たちまち近習たちは四方に散って、これまたこちらも陣形を組みはじめる。物見が景清門の方へ飛んでゆく。――
 みるみる飛鳥野一帯にみなぎりはじめた戦気に、しばしあっけにとられていた様子の根来法師らは、やっとわれにかえって、
「殿、こやつ、いくさの血祭りといたしましょうか」
「そなたら、信貴山城へつれてゆきゃ」
 と、漁火がいった。
「いまはそのような若僧にかまっておるときでない。――それに、その男、いちどにあっさり殺すには惜しい。わたしに思うことがあれば、さきに信貴山城に曵いていって、わたしたちが帰るまで生かしておきゃ」
「漁火、そなたも信貴山城へ帰れ」
 と、弾正がいった。漁火はぶきみに顔をひきつらせて笑った。
「いいえ、わたしは殿を見すてて、この場をはなれる気にはなれませぬ。もし三好家とのあいだにことが起こればどうなるか、――殿が首尾よう右京太夫さまをお手にお入れあそばすか、それを見きわめずには漁火はかえれませぬ」
 素直にきける漁火の言葉でないことはわかっているが、こういわれると弾正には|反《はん》|駁《ばく》できない。――漁火は委細かまわず顔を横にむけて、
「根来衆なにをしていやる」
「しかし」
「城へかえったら、石牢に入れや、……地底のあの石牢へ」
 あの石牢といったのは、あきらかに信貴山城の地底の石室に作った檻を指している。そこには、あの淫石製造のために肉欲の狂人となりはてた女たちが、動物のように投げこまれていた。
「あそこへ、こやつを」
 と、法師たちはうめいた。
「わたしの前身たる女が愛した男、それがそこでどのように苦しむか、わたしは見たいのじゃ」
 漁火はぞっとするほど|淫《いん》|猥《わい》で残酷な笑くぼを唇のはしに彫った。
「苦しめて、苦しめて、そのあげくになぶり殺しにしても遅くはあるまいが」
「かしこまってござる!」
 はじめて根来僧たちは、本性をとりもどしたように、眼をひからせて立ちあがった。
 なお小姓たちになにやら怒号して命令していた弾正は、やがて五人の法師が、はだか馬にくくりつけられた笛吹城太郎とともに、魔風のごとく西へ駆け去るのをちらと見たが、それには声もかけず、
「待て新左衛門」
 と、立ち去ろうとするべつの影に呼びかけた。
「なんでござる、弾正どの」
「伊賀はその方の隣国じゃの」
「されば」
「服部一党を存じておるの」
「存じておりまするが、隣の他人で」
 新左衛門がこういったのにはわけがある。大和国の東部から伊賀にかけては、もともと豪族筒井氏の勢力範囲で、いちじ柳生衆もこの筒井氏のために亡国の憂き目をみたことがある。その筒井氏もいまは松永弾正に圧迫されて|逼《ひっ》|塞《そく》しているが、元来服部もこの筒井氏に属する一族であったからだ。べつに柳生と服部が直接たたかったという歴史はないが、よそよそしい仲であることはたしかだ。
「いまのところ、おたがいの領国を通過するとき、挨拶をかわすだけの縁でござる」
「では、服部半蔵が、いま奈良へ来ておることは知っておるか」
「いや、存じませぬ、半蔵は先般、堺から帰国したとき柳生を通りましたが、それ以来、こちらに出た形跡はござらぬ」
「それが――来ておるふしがある」
「そんなはずはござらぬ」
 断乎としていう柳生新左衛門に、弾正の表情は動揺した。彼はまだ右京太夫をさらった覆面の騎馬隊が三好の手のものであるということに一抹の疑惑をぬぐい得ない。ひょっとすると、三好と伊賀者が組んでおるのかもしれぬ、その可能性はないとはいえない――とかんがえたのだが、柳生新左衛門が信頼できる人間だけに、新たな混沌が黒雲のごとく脳裡に渦巻かざるを得ない。
 彼は新左衛門の知らせを受けるまでは、みずから馬を馳せてそのにくむべき覆面の騎馬隊を伊賀街道に追おうかと決心したほどであったから、いま新左衛門の言葉をきいてまた迷ったが、すぐに一思案を胸に浮かべた。
「柳生、頼みがある」
「なんでござろう」
「おぬし、もう奈良に用はなかろう。すぐに柳生にかえれ。……そして、伊賀との境をよくかためて、西から帰る伊賀者があれば通らすな。また一歩たりとも西へ出すな」
「はっ?」
 けげんな顔の柳生新左衛門に、弾正はいった。
「ことと次第では、伊賀一円を弾正踏みつぶしてくれるわ。そのあかつきは、伊賀はおぬしにくれてやる」
 念のため、手をうっておく気になったのだ。
「すぐ、ゆけ」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:51:36 | 显示全部楼层
    月は東に日は西に


     【一】

 ――右京太夫は、夫のもとへもどっていた。
 彼女にとっては、すべてが悪夢の中のできごとのようであった。大仏殿で、炎につつまれて喪神し、気がつけば、どこともしれぬ土塀のかげに横たえられて、若い山伏が心配げにのぞきこんでいた。そして、まだ夢見心地のうちに彼はそこを去った。去るときに彼は、「ここを出てはなりませぬぞ」と念をおしたが、しかし彼女はフラフラとあとを追って出た。
 彼のあとを追ったというわけではない。彼女はむろん夫のもとへかえろうとしたのである。
 が、往来に出るや否や、疾風のごとく駆けてきた騎馬の男にさらいあげられたのであった。
「ご心配あるな、あなたさまを義興さまのおんもとへおつれしようというのです」
 と、男はいった。
 その通り彼は、右京太夫を鞍の前に軽々と抱きあげ、やさしく支えたまま馬をさばいてゆくのだ。ただ彼は、右京太夫の頭から|被衣《かつぎ》をかぶせ、できるだけ人影の少ない路を走らせていった。もっとも、東大寺炎上をめぐる騒ぎで、怪我をしたり気を失ったりした女はままあったから、この二人乗りの馬を見ても、ことさら奇怪に思うものもなかった。
「あなたはだれですか」
 ようやくその男を害意のないものと感じとって、右京太夫はきいた。
「ゆえあって、名乗れませぬが、あなたさまの敵ではありませぬ」
 錆をおびた声がこたえた。
 鞍のまえにいる右京太夫はふりむくこともできなかったが、彼は覆面しているようであった。走りながら、
「あなたさまを大仏殿の炎の中からお救い申しあげたのは、若い山伏でござりましょうが」
 と、こんどは向こうからきいてきた。
「あの山伏がわたしを炎の中から? ……あれはなにものですか」
「もはやお逢いなさることもありますまいが、名だけはおぼえておいてやって下され。伊賀の忍者、笛吹城太郎と申す男です」
「……伊賀の忍者が、どうしてわたしを?」
「あの男は、妻を奪われ、殺されました。その妻が、あなたさまそっくりであったからでござりましょう」
「妻を? だれに妻を奪われたのです」
「右京太夫さま」
 覆面の男は、その問いにはこたえず、手綱をひいて馬をとめた。
「あそこに義興さまがおわす。ゆかれませ。……あの男のことは忘れ、きょうの炎も忘れ、京でおしずかに、お倖せにお暮らし遊ばせ」
 そういうと、彼はそっと右京太夫を馬から抱き下ろした。右京太夫が向こうの景清門の下にひしめく軍兵の一隊を見やったとき、鉄蹄の音がはなれ、ふりむくと、覆面の男は、ついに顔もみせず、そのまま南へ疾風のごとく駆け去っていった。
 こうして、右京太夫は夫義興のもとへ帰った。
 妻を炎の中に見失って悩乱し、絶望していた義興は狂喜した。
 いかにして妻が帰ってきたか、せきこんできいたが、よくわからない。こたえる右京太夫すらよくわからないのだから、狐につままれたような思いがしたのは当然だ。しかし、義興は、なんであろうと、妻が帰ってきたことだけで歓喜した。
「これ、だれかある、興福寺へいって、きょうの放火の下手人はたしかに興福寺の僧か、しかと調べてまいれ」
 と、義興はいった。また――
「弾正のゆくえを探し、探しあてたら、義興これにありと伝えてまいれ」
 とも、命じた。ようやくおのれをとりもどしたのである。
 しかし彼は、この|期《ご》に及んで、その放火の下手人が松永弾正だとはまだ知らなかった。まさかおのれの妻を奪うために、弾正が東大寺を焼くとは想像を絶しているし、弾正がゆだんのならぬ男だとは知ってはいるが、もしじぶんに叛意があるならば、その機会はあったものを、じぶんには手を出した様子もなかったから、義興が弾正に疑いをもたなかったのも当然だ。
 燃える大仏殿のまえで乱舞する奇怪な法師はたしかに見たが、その|凶刃《きょうじん》は三好、松永双方の侍にむけられて、ことさらじぶんめがけて敵対したものとは見えなかった。――この景清門のところまで避難してきたあとでも、刻々入る情報は、どうやら興福寺の僧の放火らしい、という噂ばかりであったから、義興は興福寺へ糾明の使者をむけたのである。
 大仏殿はすべて焼けおち、炎の広野と化した東大寺跡に、いま頭を失った大仏は、黒い大魔像のごとくそそり立っていた。
 それを見ると、三好義興は、弾正の叛心を知らなかったにもかかわらず、あらためて不吉な熱風に吹かれる思いがした。
「よし、興福寺は追って調べる。弾正には逢わずともよい。――京へひきあげるぞ!」
 しかし、このとき弾正を探しあてた侍臣がはせもどってきて、
「松永どのは、飛鳥野にぶじにおわしました。殿のお申しつけを伝えましたところ、やがてまいるが、しばしお待ちを――との仰せでござった」
 と、報告した。そして――
「殿、きょうの放火の下手人を見てござります」
 と、いった。
「なに?」
「|拙《せっ》|者《しゃ》、松永どのを求めて西の方から飛鳥野へいったのでございますが、途中、馬上にひっくくられて西へ走る囚人様の男とすれちがい、町のものにききましたところ、どうやらそれが放火の下手人にて、松永の手のものにとらえられ、信貴山城へ送られるらしい、ということでござった」
「それは法師か」
「いえ、山伏姿で。――拙者の見たところでは、その囚人を護っているものが法師のむれでござりましたが」
 ――ときいて、義興はくびをかしげたが、なんともそれ以上判断がつかない。ただ、山伏、ときいて、ふと右京太夫をふりむいて、
「奥、そなたを助けたは、山伏と申したな」
「はい」
「信貴山城に曵かれていったのは、その男ではないか?」
「……さあ」
「面妖な話じゃ。それを護送したのは法師とは――火をつけておったのは、たしかに法師どもであったが」
 義興はかんがえこんだ。見たことと聞いたことが逆だ。世に山伏も法師も一人や二人ではないから、なんともいいようがないが、義興はなにやら胸さわぎがした。ここにながくとどまることについて、本能的な不安をおぼえたのだ。文字通り、キナくさい感じ、とはこのことであろう。
 三好勢の先駆は、すでに北へうごき出している。
「輿をもて」
 と、彼はいった。妻をのせるための輿だ。彼は弾正の挨拶をまたず、いそぎ京へひきあげる決心をしたのである。輿が来た。
 輿へ乗ろうとする右京太夫を見て、
「あ、奥。……それはなんだ」
 と、義興がきいた。右京太夫が、後生大事にかかえている金襴の包みに眼をとめたのである。
「釜でござります」
「釜?」
「わたしを助けてくれたその山伏からあずかった茶釜でござります」
 右京太夫は放心状態でいって、輿に身をかくした。
 輿はあがり、北へうごきはじめた。
 しかし、簾の中で、右京太夫は愕然としていた。彼女は義興にいわれて、はじめてじぶんがこの釜を――あの覆面の武士に馬上にさらわれながらも――しっかとかかえて放さなかったことに気がついたのである。
 持ってきたことはおぼえている。あの男は「おれのもどるまで、ここにいて、その釜を護っていて下され、おれの宝です」といった。そう依頼されたものを持ってゆくことは気がとがめて、途中で彼に逢ったらわたすつもりで、その釜を、そばにあった金襴につつんで持って来た。愕然としたのは、それにしてもその釜を、これほど大事にじぶんが抱いていたということであった。
 いや、彼女は、ほんのいま山伏が囚人として信貴山城に曵かれていったときいたとき、じぶんの心が受けた衝撃を、あらためておどろきをもって思いかえしている。
 その山伏がじぶんを助けた山伏だ。彼女はそう直感した。
 あの山伏が東大寺に火をつけた? ちがう。彼女はそれを本能的に否定した。
 あの男は、なんのためにわたしを助けたのか。覆面の武士はいった。「あの男は、妻を奪われ、殺されました。その妻が、あなたさまそっくりであったからでござりましょう。――」
 よくわからぬ。しかし、わかるようでもある。ほんのみじかい、ほとんど言葉らしい言葉もかわさないひとときであったが、じぶんを見つめていたあの男の眼は、なんともいえないきよらかな愛情にもえているようであった。――その眼が、いま右京太夫の胸に、恐ろしい光芒をはなってよみがえって来た。
 いかにしてじぶんが救われたか、右京太夫は知らないが、気を失う直前にじぶんを包んだ炎の海はおぼえている。あの男は、あの炎の中からじぶんを救ってくれたのだ。――そして彼は、幻のように去った。
 名も覆面の武士からきいた。伊賀の忍者、笛吹城太郎。
「なに? 松永が追って来たと?」
 輿のそばの馬上で、義興の声がした。
「そして、松永勢はいくさ仕立の陣を組んでおると申すか」
 義興はさけんだ。
「よし、輿はさきにやれ、小人数で護って、さきにいそげ。おれは松永の陣くばりを見てやろう」
 十人あまりの兵に護られて、右京太夫の輿は、奈良の北――般若野へ走った。
 しかし、護衛兵たちはあとのなりゆきが気にかかり、般若野の夏草に輿を下ろして、奈良の方へのびあがった。
 そして、ややあって気をとりなおし、かくてはならじとふたたび輿をあげたとき、彼らは輿の中に茶釜一つ残されて、右京太夫さまの姿が忽然と消えていることを発見したのである。

 般若野の夏草の中をくぐって、右京太夫は走っていた。迂回しつつ、西へ。――
 彼女は、じぶんを救ってくれた若い山伏の安否をうかがい、信貴山城へいってみずにはいられなくなったのだ。もとよりこんな大それたことは、護衛の侍たちや義興にいえることではない。
 しかし、まさになにびとも想像し得ないはぐれ鳥の羽ばたきだ。決して彼女を救ってくれた人間への心づくしといっただけでは説明がつかない。それが彼女の胸に残るふたつの瞳の魔力だといったら、彼女はどうこたえたろうか。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:52:03 | 显示全部楼层
     【二】

 柳生新左衛門から、三好勢に、じぶんに対する不穏な気配がみえる、ときいた弾正は、破れかぶれ、ここで謀叛もやむを得ぬという決意をかためた。
 もともとそんなつもりで信貴山城を出たわけでなく、東大寺に火をつけたあとでも、まだそんなことはかんがえていなかったから、これはまったく不本意な行動である。兵の数からいっても、必ずしも勝てる自信はないが――その三好勢が急遽京へひきあげはじめたときいて、一瞬安堵し、つぎに義興を京へ帰せば、あとでいっそうぬきさしならぬ絶体絶命の立場に追いこまれると思いなおした。それで三好勢を追ってきたのだが、極力さりげないように見せたものの、さすがに義興はそれを看破したとみえる。般若坂に待ちうける三好勢にただならぬ戦意を見て、いまはこれまで、と弾正は観念のほぞをかためた。
 山雨到らんとして風楼に満つ。――
 と、そのとき三好勢に突如として混乱の雲が渦まいたのを彼は見てとったのである。
「だれかある、三好方になにが起こったか物見して来い」
 と、彼は命じた。
 たちまち物見の兵が草の中を狼のごとく身を沈めて走り去り、ややあって駆けもどってきて、その異変のゆえんを報告した。般若野で右京太夫が消え失せて、どうしても見つからないというのだ。
「右京太夫さまが?」
 さすがの弾正にも、これはなんとも判断を絶した。
――ふりかえって、
「わかるか」
 と、きく。
 そこに被衣をかぶって、漁火がいた。
「……わかりませぬ」
 と、彼女はくびをふった。彼女にも、ほんとうにわからない。ふっと、先刻の覆面の騎馬の武士が脳裡をかすめたが、彼、または彼らの正体が不明である以上、いまそれを、どう結びつけていいのか見当がつかない。
「しかし、あの三好勢のあわてぶりは、罠ではないぞ」
 弾正がつぶやいたとき、漁火は声をかけた。
「殿」
「なんじゃ」
「殿のお望みをいよいよ果たせるときが来たと思われませぬか」
「おれの望み」
「右京太夫さまではありませぬぞえ」
 被衣のなかで、声が笑った。
「天下をとるお望み」
「いま義興さまを討てと申すか」
「いまいくさを挑んでも、勝てるとはかぎりますまいが。……まして京にはまだ長慶さまもおわしまします」
「……ううむ、実はそれで迷っておる」
「兵をおひきなされまし。あとはこの漁火にまかせて」
「なにを申す」
「わたしが義興さまのところへまいります」
「な、なにをしようというのじゃ、そちは」
「右京太夫さまに化けて、三好のふところの中へ、わたしが入ろうというのです」
 弾正は、眼をむいた。が、美しい被衣にさえぎられて、漁火がどんな表情でいっているのかわからない。彼女は、冷静にいう。
「殿、右京太夫さまがいちどでも義興さまのところへお帰りになったうえは、十中八九までは殿のおんたくらみは向こうに知れたに相違ござりませぬ。三好勢が山あらしのように毛をたてたのは、そのためでありましょう。といって、いま義興さまとたたかってもあぶない、京の三好家に公然叛旗をひるがえすのはいよいよ時期尚早です。これは殿もよくご存じでございましょう。そんな見込みのあるものならば、きょうをまたずしてそうせずにはおられぬ殿でしょうものを」
 漁火は弾正の心事をたなごころを指すがごとくいう。――以前のただ白痴美のかたまりのような漁火とはまさに別人であることを、弾正はあらためて思い知らされずにはいられない。
「わたしが右京太夫さまとして義興さまのふところに入れば、三好方の松永への疑心暗鬼を解くことができましょう。そのあいだに、殿――ご用意をととのえられませ」
「右京太夫さまとして、と申して、漁火、いかにもそなたは右京太夫さまそっくりではあるが、果たして義興さまが――」
「見破られるような漁火ではありませぬ」
 自信にみちた漁火の声だ。
「もし、ほんとうの右京太夫さまが見つかったら?」
「むこうをにせものとして追いはらいます」
 弾正は、唖然とした。漁火はまた笑った。
「たとえ見破られたとしても、そのときはもう義興さまはわたしの手中にあるといってようございましょう。あの方を色餓鬼にしようと――あるいは一服盛ろうと、わたしの思うがまま」
 弾正の眼が、ぎらっとひかった。
「なに、一服盛ると?」
 このときの弾正の思考ははなはだ複雑であった。
 三好義興に一服盛る。父親の長慶が重病の床にあるだけに、それは三好家の崩壊を意味する。夢想の花がひらいた思いであった。
 しかし、それが漁火にできるかと思う。いや、右京太夫に化けられるかと思う。右京太夫に化けるということは、彼女が義興に抱かれるということだ。それがたえがたいほどねたましく、また一方で彼女がじぶんのそばから消えることに、吐息のでるほどほっとした感じにもなった。とくに右京太夫がまたいなくなったときいたいまではなおさらのことだ。こととしだいでは、右京太夫をいまじぶんの手にとらえる機会があるのではないか?
 いったい、右京太夫はどこへ消えたのか? グルグルとまわる思考の火花をじっとおさえて、弾正は故意につくった悩ましげな表情でいった。
「漁火、いってくれるか?」
「はい。――右京太夫さまが見つかってはこの妙案も水の泡、ではいそいで」
「いつかえる?」
「わかりませぬが、遠からぬうち――義興さまのおん首とともに」
 漁火は被衣をとり、皮肉で|妖《よう》|艶《えん》きわまる笑顔をみせた。
「けれど、殿がほかの女を、漁火にもましてご寵愛ときいたら、すぐに信貴山城に帰りますぞえ」
 ――漁火が草の波に消えてから、弾正は松永勢に数町退くように命じた。ややあって、三好勢の混乱も|終熄《しゅうそく》し、隊伍をととのえ、北へうごきはじめた。宇治を通る奈良街道へ向かい出したのである。
 漁火はぶじ三好のふところへ入った。――途中まで漁火を送っていった兵がそう報告した。
 弾正はなんとも形容しがたいぶきみな笑顔でうなずいていたが、やおら命じた。
「草の根わけても右京太夫さまを探せ」

 さて、この日の三好と松永の駆け引き――一方が戦意を抱けば一方が乱れ、一方が追えば一方がひくという微妙なくいちがいがあったが、双方の意図を、双方ともにつかみかねて、一触即発の気をはらみながら、ついに何事も起こらなかった。
 なによりもまず最初に、景清門にある三好勢が、松永に対して不穏のうごきを示している――という情報が誤っていたのだが、その誤報の提供者たる柳生新左衛門は、なんのつもりであのようなことをいったものであろうか。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:52:21 | 显示全部楼层
     【三】

 笛吹城太郎は、信貴山城の石牢に投げこまれた。
 現在信貴山にある|歓《かん》|喜《ぎ》|院《いん》|朝護孫《ちょうごそん》|子《し》|寺《じ》は、いにしえの聖徳太子が創立されたそのものではなく、これがいちど滅び失せ、そのあとに松永弾正が信貴山城を築き、さらにこれが滅び失せたあと、豊臣秀頼が再建したものであるが、ここを訪れる人はふかい山中に忽然としてあらわれる龍宮[#電子文庫化時コメント 底本「竜宮」、S47を参照、字体統一]のような大寺院に眼を見張り、かつ|断《だん》|崖《がい》と奇岩と巨石をつらねる大伽藍の大奇観におどろかざるを得ない。
 ましてや、これは城だ。
 地底にある石室とは、ことさら石を運んできてたたんだものではなく、最初から存在する巨石をうがったものであった。それだけに、人間の建造物でない、もの凄じい威圧感がある。
 ここに投げこまれて、城太郎は戦慄した。
 それは石牢そのものよりも、そこにあるべつのさらに恐るべきものにつつまれたからであった。
 女だ。
 女だ。
 女、女、女、女、女、女、女。……
 それが、きものをまとっているというものの、ズタズタにひきさかれて、ほとんど半裸だ。いや、完全に一糸まとわぬものが半分はある。これが壁を塗りつくし、格子にまつわりつくし、|床《ゆか》をうずめつくして、けだるげにうごめいている。
 けだるげに――そうではない。城太郎がそこに投げこまれるや否や、それがいっせいに眼がさめたように波うちはじめた。
「男」
「男」
「男、男、男、男、男、男、男。……」
 吐息とも叫喚ともつかないどよめきであった。しかしこの場合、無数の口はそう|喘《あえ》いでいるのに、男は笛吹城太郎ただひとりであった。
「寄るな」
 城太郎は絶叫した。
「おれにちかづくと、腕でも足でもへし折るぞ」
 事実彼は、じぶんの足や腰にまといついた腕を――折りはしなかったが、骨の関節をはずした。彼の手のはしるところ、女の腕はことごとく|脱臼《だっきゅう》させられて、白い蛇のようにぶきみにのたうった。
 それでも、逃げるからだはない。とびのく足はない。恐怖の声はない。
 ――みな、狂女なのだ!
 そうと知って、城太郎は眼をかっと見ひらいた。どこを見まわしても、からす蛇のごとくみだれる黒髪、欲情にうるむ眼、ひらかれた赤い唇、あえぐ舌、ながれる|涎《よだれ》、波うつ乳房、くねる腰、のたうつ胴、そして、われとひろげる足、足、足。……
 ここにいるのは、破戒無惨の根来法師らの「淫石製造」のいけにえとなって、ただ肉欲本能のかたまり、色情狂と化した女ばかりであった。
「あ、は、は、は」
「どうじゃ、伊賀者」
「その女どもを相手に、どんな忍法をつかう」
「音にきこえた伊賀忍法とやらを見せてくれ」
 ふとい石の格子の外で、五人の忍法僧はのどぼとけが見えるほど、そっくりかえって哄笑した。哄笑は、わあああん、と石にこだまし、こだまして、はるかな地上へ消えてゆく。――
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:52:44 | 显示全部楼层
    鐘が鳴るなり法隆寺


     【一】

 ――しかし、その夜は根来法師らはそのままひきあげて、どこかへいってしまった。
 じつは、さすがの彼らも人間なみにくたびれたのである。東大寺に火をつけて、猿沢の池で血みどろの死闘をして、奈良から笛吹城太郎を曳いていっきに信貴山城へ駆けもどって、そのうえに――いや、それ以前から、城太郎を捜索して奈良界隈を駆けまわっていたのだから、ともかくめざす城太郎をつかまえて一段落ついたと思い、信貴山城に帰ったとなると、ここでどっと疲れが出たとみえて、城中の一室で酒をあおり、そのまま泥みたいにねむってしまったのだ。
 が、笛吹城太郎はねむるどころではなかった。
 いまは彼も、この女たちがいかなる女たちであったか知っている。あの根来僧らが伊賀街道でいきなり理不尽に襲いかかって|篝火《かがりび》を奪っていったことといい、奈良若草山で遊女たちを犯したことといい、また東大寺で右京太夫さまをさらおうとしたことといい――これは、松永弾正の淫欲の祭壇にささげられるために、根来法師らの恐るべき忍法にかけられたいけにえのなれの果てなのだ。
 哀れと思う。無惨と思う。
 とくにこれから恋妻篝火の死の様相を類推すれば、髪も逆立ち、血も逆流するのをおぼえる。
 しかし、涙をそそぐべく――相手は狂女なのだ。しかも、肉欲の牝獣なのだ。
 すでに人間としての会話はない。ただ、あえぎ、うめき、吹きつける欲望の熱風。――城太郎にとっては、いままでのいかなる死闘もこれほどではないといっても誇張ではない、恐ろしい一夜であった。
 彼女たちが犠牲者であると知って――
「ゆるせ」
 そういいながら、まつわりつく無数の腕、足の関節をはずし、当て身をくわせたのもいっとき――やがて、彼は、無言で女たちとたたかいはじめた。
 彼の足もとに、白い魚みたいに女たちが横たわり、つみ重ねられる。彼はそれを避けて逃げた。仲間がどういう目に会おうが、狂える女たちに反応はない。無言なのは城太郎だけで、女たちのあえぎはますますたかまり、四肢の関節をはずされてうごめきながら、なお狂笑しているものもあった。さなきだに石室にみちみちていた女たちであった。それが算をみだして横たわっては、ついに城太郎は足をおくところもなくなった。
 城太郎とて、疲労|困《こん》|憊《ぱい》している。それは根来僧よりはるかにはなはだしかったかもしれない。彼の網膜にはただ白い乱舞がねばりつき、彼の肌には熱い粘液がヌルヌルとまといついて、しだいに城太郎はその感覚に埋没してゆくような気がした。
 もとより彼は、ここで死のうとは思ってはいない。なんとかして逃げ出し、かならずあの法師らをみなごろしにせずにはおかぬ覚悟だ。篝火を思えば――
「……篝火」
 その復讐の意志と脱走の工夫をふるい起こすために、そう呼んだ声は、
「おれを助けてくれ!」
 しだいに、ただ女たちをふせぐためだけの、悲鳴のような呪文と変わった。
 ほとんど半睡半醒のうちの妖しい死闘の一夜がすぎて――地底のこの石牢にも、どこからともなく蒼白い暁のひかりがさしてきた。なお夢中で女たちとたたかっている笛吹城太郎の頬は、まるでのみ[#「のみ」に傍点]で|削《そ》いだように変わっていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:53:06 | 显示全部楼层
     【二】

 その暁の信貴山城の大手門にひとりの女が立った。
「漁火です」
 と、彼女はいった。――門番はあわてて門をひらいた。
 右京太夫であった。
 彼女は、なにも知らない。三好義興の妻ではあるが、まったく深窓の花のような彼女は、家老松永弾正のひそかなる叛心や大それたじぶんへの|恋《れん》|慕《ぼ》など、なにも知らない。
 ただ、漠然と、弾正という男が恐ろしい人物であることは感づきはじめている。また夫義興の話から、東大寺に放火したのは奇怪な法師らで、その法師らを使っているのが弾正らしいとは気がついている。
 しかし、それらの関係や、意図を、彼女は正確に読みとることができなかった。
 知らないから、彼女はひとり信貴山城へやって来た。――じぶんを救ってくれた笛吹城太郎という山伏を救うために。
 彼が東大寺放火の下手人であるという嫌疑でとらえられ、信貴山城に送られたときいて、それはまちがいだと信じ、その誤解を訂正するために彼女はやって来た。三好家の家老たる松永の城に、じぶんがのりこんでゆけば、ただちにその誤解はとけるだろうと彼女は無邪気に思ったのだ。知らないということは、恐ろしい。
 右京太夫は、漁火という名すら知らなかった。彼女が何者たるかも知らなかった。
 それを知ったのは――信貴山下の外廓の門で、番兵の方から、
「……おお、漁火さま、お帰りなされませ」
 と、呼ばれて、うやうやしくおじぎをされたからだ。
「おひとりで?」
「…………」
「殿は、どうなされました?」
「…………」
 右京太夫は、返事のしようがない。黙って、しずかに門を入り、山をのぼってゆく。
 ようやく漁火とは、弾正の妾らしい、と感づいた。その女は、弾正とともにいま奈良へいっているらしい。――それからその女は、ほかの誰がみても見まちがえるほど、じぶんによく似た女らしい。
 そうと知っても、右京太夫は、この方の誤解はあえて解こうとはしなかった。それは松永弾正に対する漠たる恐れからきた本能的な知恵であり、またじぶんがここへやってきたという行為の無鉄砲さはよく承知していたから――ほんとうは彼女は、その無鉄砲さの身の毛もよだつばかりの意味を知らなかったのであるが――得べくんは、三好義興の妻がひとり信貴山城へやってきたということを、まずだれよりもあとで夫に知られたくなかったからだ。それで通るなら、それでいい。
 ――事実彼女は、それで門を通った。
「漁火さま」
 おどろいて迎える顔に、
「そう」
 うなずいて通る。山の下から大手門までのあいだに、彼女は悠揚たるおちつきすら身につけていた。
 これでなんのこともなかったのはわけがある。第一に、だれがこの世にこれほどよく似た女人がいると思うだろうか。城兵たちはそれまで右京太夫さまの顔を見たことがなかったのだ。第二に、その京の三好家の若殿の|御《み》|台《だい》さまが、たったひとり飄然と信貴山城にやってくるとは、だれが想像するだろうか。第三に――そもそも漁火という主君の寵姫が、奔放無比といおうか、人もなげなるふるまいといおうか、そのゆくところ妖気の風を曳き、このほうこそただひとり城に帰ってきて、門々をかろく会釈して通っていっても、だれもことさらふしぎとは思わないようなところがあったのだ。
「漁火じゃ」
 本丸に入ると、右京太夫はあわてて出迎えた四、五人の侍にいった。
「奈良からとらえてきた山伏はどこじゃ」
 まったく素直にこうきいたのだが、その侍たちは、五人の根来僧から、「漁火さまがお帰りになるまで、こやつは天守閣下の石牢に入れておく」ときいていたのである。
「例の石牢に入れてありまするが……法師どのらはまだ眠っておられまする。起こして参りましょうか」
「いや、よい。それよりまず見たい。案内しや」
 そして、右京太夫は武士たちといっしょにその地底の石牢へ下りていった。
 入ってきたいくつかの影に、格子の彼方で笛吹城太郎は、ねばりつくようなまぶたをあけて、さすがに眼を見ひらいた。
 右京太夫はじっと彼をながめた。心中、この石牢の景観の妖しさにおどろき、さらにたった一夜で別人のようにやつれはてた山伏の顔に息をのんでいる。
 ……さて、彼をどうして城からつれ出したらよかろうか。入るには入ってきたが、この男をつれてまたひとり城から出たら、こんどはだれしも怪しく思うであろう。
「あの男を縛って、牢の外に出してたも」
 彼女はいった。
 武士たちは槍をかまえて入り、城太郎を縛りあげて格子の外に出した。
 地上へ出る石段と、天守閣の内部へ上る石段と、ふたつにわかれたところへくると、
「わたしは、この男にちとききたいことがある。そなたたちは退っていや。法師らは、わたしが呼ぶ」
 と、右京太夫はいった。
 そして、茫然と見送っている侍たちの眼を、背に灼けつくように感じながら、彼女は城太郎の縄をひいて、天守閣への石段を上がっていった。侍たちの姿が見えなくなると、彼女はふりむいた。
「笛吹城太郎」
 城太郎は血ばしった眼で睨んだ。
「東大寺で救われた三好義興の妻です」
 ほとんど判断力を失ったような城太郎の顔に、しだいにひろがってきた亀裂のような驚愕であった。
「あなたを救いにきました」
「――右京太夫さま!」
「くわしく話しているひまがありませぬ。一刻も早うこの城を出ねばならぬが、ふたりで出ていったら、怪しまれてすぐに追手がかかりましょう。どうしたらよかろうか」
「上へ」
 と、城太郎はいった。
 ――泥のような眠りからさめた五人の根来法師が、この怪事の報告をきいたのは、約一刻ののちであった。
 やがて、天守閣の最上層の高欄から、眼もくらむような断崖の下へ、ながいながい一条の綱がたれ下がっていることが発見された。
 この報告をきき、この綱をみても、とっさに根来僧らにも判断がつかなかった。
 しかし、ともかく石牢から――いや、信貴山城から笛吹城太郎が消滅したことだけはたしかだ。
 彼らは足を空に、信貴山城をとび出した。
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