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楼主: asuka0226

[好书推荐] [山田風太郎] 忍法帖系列 おんな牢秘抄

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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:17:39 | 显示全部楼层
     三

 姫君お竜が呼び出されたあと、女囚たちは顔を見あわせた。
 しばらく、声もなかったが、やがて、
「いわねえことじゃあねえ」
 と、牢名主の|天《かみ》|牛《きり》のお紺が、ふうっと溜息をついた。
「ふてえあま[#「あま」に傍点]がお奉行さまの御吟味にケチをつけやがるどころか、おつむ[#「おつむ」に傍点]まで何とやら、|大《だい》それたことをほざくからよ。――」
 しかし、まさかいまのお竜のせりふがきかれたのではなかろうと思う。とにかくあの女は、公方さまのお命をねらった大陰謀に加わっている人間だ。きのう、あの同心が「いくどかお奉行さまおんみずから当牢屋敷に御出張あそばし、したしく御吟味に相成るはずであれば」といった、そのときがきたのにちがいない。
 牢屋敷のほぼ中央に、穿鑿所がある。|笞《むち》打ち、石抱きなどはここで行う。そばに拷問蔵もあり、|海《え》|老《び》責め|釣《つり》責めなどの道具がそなえてあった。しかし、ふだんこれを執行するものは吟味方の|与《よ》|力《りき》であって、町奉行じきじきに出座することはめったにない。もって、いかにお竜が重罪の追求をうけているかが、思いやられるというものだ。――
「石を抱かされるなあ」
「あのあま[#「あま」に傍点]、何枚で|音《ね》をあげやがるか」
「二枚――三枚か」
 お紺と、お甲やお伝、牢内役人たる老婆たちが、陰気な声でボソボソと話しあっている。――
 石は、長さ一メートル、幅三十センチ、厚さ十センチ、一つで五十キロある。三枚で百五十キロ――それを|膝《ひざ》のうえにのせられるばかりではない。|尻《しり》をまくられて、むき出しになったその膝の下には、そろばん板という三角形の木をうちつけた板があるのだ。お紺も三枚で白状をした思い出がある。お甲やお伝は二枚で音をあげた。
 やがて、あのひとをくったすッ|頓狂《とんきょう》なあま[#「あま」に傍点]も、血泡をふいてもどってくるだろう。きのうは、妙なわざ[#「わざ」に傍点]を知ってやがって、ひどい目にあわされたが、足腰たたなくなってかえってきたら、どうしてやるか?
 病んだ女囚などをおさえつけて、その顔にピッタリ|濡《ぬれ》|雑《ぞう》|巾《きん》をかぶせ、その上に大きなお尻をのせ、またべつの囚人が胸や腹をドスンドスンと踏みつけてあの世へやってしまうのは、牢内でそれほど珍らしい行事でもない。そこまでしなくとも、うごけなくなった女なら、それをまないた[#「まないた」に傍点]にのせて、ありとあらゆる|辱《はずか》しめをあたえるのに、この老婆たちには智慧も根気も毒念も不足していなかった。――
 からだも心もこわばって、まだお竜に釈然たるところがないばかりか、陰火のごとき|復讐《ふくしゅう》心にもえた老婆たちが舌なめずりして待ちかまえている一方で、なぜか罪を告白しただけでお竜が好きで好きでたまらなくなったお玉は、牢の隅で、そっと|両掌《りょうて》をくみあわせていた。
 しかし、思いはそれぞれ、待っている女囚たちのまえに、どうしたのかお竜は、その夜も、そのあくる日も、そのあくる夜も、かえってはこなかった。――
 お紺が、妙な顔をして、ひとりごとをいった。
「あのあま[#「あま」に傍点]、くたばりゃがったのかな」

 ふしぎなことがある。
 お奉行さまに吟味によび出されたはずの姫君お竜が、よび出された日、うららかな春日をあびて、江戸の町をぶらぶらとあるいていた。しかも、可愛らしい町娘の姿である。
 彼女は、両国広小路の、美しく、汚ならしく、|妖《あや》しく、あさましく、すてきに面白い見世物町を、あっちに立ちどまり、こっちにひッかかって、春の太陽は永遠におちないかのごとく、のんきそうに見てあるいていたが、やがて一つの小屋のまえに立って、そこの|幟《のぼり》を見あげていた。
 幟には、「手裏剣車佐助一座」とあった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:18:00 | 显示全部楼层
    自身番異変

     一

 “幕揚げていまが太夫とちっと見せ”

 “木戸番は愛想づかしの幕をさげ”

 という古川柳がある。むかしから、見世物風景はおなじらしい。
 木戸番のうしろのうす汚ない幕がスルスルとあがると、舞台で二本竹の軽業をやっているのがみえた。|袴《はかま》をつけた男が肩に中の字に組みあわせた青竹を立て、その青竹の上で扇を足にはさんだ娘が逆立ちをしている。――と、みえた一瞬、幕はバサリとおちた。
「おじさん」
 と、お竜は木戸番を呼んだ。
「小金さんって、いる?」
 木戸番の老人は、なれなれしく座元の女房をそう呼んだ娘を見下ろして、ふっと眼を大きく見ひらいた。|埃《ほこり》、|蓆《むしろ》、よごれきった幕――という見世物町の中に、ぱっと輝くような娘の美しさに、びっくりしたのだ。
「おまえさま。……」と、思わずさま[#「さま」に傍点]扱いにして、
「小金太夫を知っていなさるのか」
「知らないよ」
「へ、じゃあ、なんの用?」
「小金さんの弟子になりたいの」
 木戸番はまじまじとお竜を見つめていたが、あわてて番台からとびおりた。軽業の自発的志願者は珍らしい。まして、こんな美しい娘が一座に入ってくるとは――これは充分、小金に報告するねうちがあるとにらんだのだ。
 楽屋で、|衣裳《いしょう》をつけていた小金は、木戸番の知らせをきいて|眉《まゆ》をひそめたが、すぐうしろにつづいて入ってきた娘をみて、これまた眼をまるくした。
「なんだって? あたしの弟子になりたいって」
 大声でさけんだ。――お玉の話で想像していたより美しく|溌《はつ》|剌《らつ》とした女だ、とお竜は思った。
 たしかに小金は張りきっていた。美紀之介と蓮蔵が死に、お玉がつかまって半年――いまや彼女の夫車佐助が座元になり、一座の花形になったのだから、毎日が|生《いき》|甲《が》|斐《い》がある。
「軽業をやりたいといったって、何か芸を知ってるのかい? これからはじめようってつもりなら、おまえさんの年じゃあちっとむりだよ。もっとも、その器量なら、色っぽい踊りかなんかでもお客は呼べるだろうが」
「あの、あなたのように、手裏剣の的になるだけではいけないでしょうか」
「ばかにおしでない。これでもただ棒みたいに立ってるわけじゃないよ。手裏剣をうつ方とうまく息が合わなきゃ、とんだことになるんだよ。ほんとに紙一重のきわどい芸当なんだから――それで見世物になるというものさ」
 そして、ふときいた。
「おまえさん、なんて名だえ?」
「お竜ってんです」
「どこの生まれだえ?」
「小伝馬町」
 小金は、へんな顔をしてお竜を見た。小伝馬町は|牢《ろう》屋敷のある町だ。
「身寄りは?」
「姉がひとりいます。でも、もうすぐ死にそうですから、あたし、ひとりぼッちになっちまうんです。……」
「姉さん、病気なのかい?」
「いえ、打首になるんです。御亭主を|毒《どく》|蜘《ぐ》|蛛《も》をつかって殺したという罪で――」
 小金の顔色が変った。ふるえ声で、
「名は?」
「お玉」
 小金は息をひいて、眼前の娘をにらみすえた。しかし娘はおそれ気もなく、じっと小金を見かえして、
「小金さん、だから、あたしを助けて下さいな。……」
「おまえ、牢からきたね」
 恐怖の表情から、からくも小金は立ちなおった。
「お玉から何かきいてきて、あたしをゆすろうっていうつもりかい?」
「ゆする? あなたを? なぜ?」
 ふしんげに小首をかたむけられて、小金は|狼《ろう》|狽《ばい》した。唇がわなないて、必死のさけびがほとばしり出た。
「そ、そうなんだ。あたしはおまえなんかにゆすられるおぼえはちっともない。あたしは何もしやしない」
「あたしもそう思うわ。でも、あなたは何かを知ってはいらっしゃる」
 お竜は小金の手をつかんだ。
「ね、おねがいです。あなたの知っていることを教えてくれたら、お玉さんは助かるかもしれないんです。姉といったのはうそでした。でも、人ひとり、無実の罪で死ぬのを見殺しにはできないんです」
「あたしが、何を知ってるってのさ?」
「お玉さんにあの紅蜘蛛を売った浪人がだれか、あなた、知りませんか?」
「知らないよ! そんなひと、知らないよ!」
「それじゃあききます。美紀之介さんが殺されたあとで、あなたの御亭主佐助さんが|蝶《ちょう》をつかまえていたとききましたけれど、あの蝶は」
 小金はお竜の手をふりはなそうとしたが、|繊《ほそ》い柔かい手なのに、|膠《にかわ》みたいにはなれなかった。
「蜘蛛を飼うための|餌《えさ》だったのではありませんか?」
 小金はうっとうめいた。全身から力がぬけた。ガックリとうなずこうとして、小金はふと、そのとき楽屋に入ってきた影をみると、きちがいのようにさけんだ。
「おまえさん、こいつをたたき出しておくれ!」
 入ってきたのは、|羊《よう》|羹《かん》色の黒紋付に紅だすきをかけた、からすみたいに色の黒い、眼のするどい浪人者だ。鉢巻に四、五本の手裏剣をさしている。
「この娘が、あたしたちをゆすりにきたんだよ!」
「なんじゃ、うぬは!」
 浪人はかみつくようにわめいた。小金はお竜の手をもぎはらって、その足もとにまろびより、
「あんな可愛らしい顔をして、お玉と小伝馬町で|相《あい》|牢《ろう》だった奴らしいんだよ。お玉から何をきいたか、あたしたちが美紀之介と蓮蔵を殺したっていいがかりをつけるんだよ!」
「そ、それで、おまえは――」
 と、|物《もの》|凄《すご》い顔になる浪人に、
「車佐助さんですね?」
 と、お竜は笑顔で、
「いまね、小金さんから、蜘蛛を飼うためにあなたが蝶をつかまえていたというお話をきいたばかりなんです」
「野郎!」
 と、歯をむき出すと、車佐助の手が鉢巻にはしった。|間《かん》|髪《はつ》をいれず、一本の手裏剣が流星のような尾をひいて、お竜にとんでいった。
 お竜の手があがると、その手裏剣はみごとにはねとばされて、そばの蓆につき刺さった。
 お竜の笑顔はきえてはいなかった。
「こんな芸当じゃあ、お弟子になれないかしら? 小金さん」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:18:24 | 显示全部楼层
     二

 |茫《ぼう》|然《ぜん》とそれをみていた車夫婦のうち、佐助の肩が大きくあえぎ出した。かっとむき出された眼には、まるで魔物でもみるような恐怖のひかりが浮かんできたのも当然だ。
 お竜はあどけない笑顔のままで、
「蝶の意味はわかったけれど、まだわからないことがいっぱいあるの」
 といった。佐助はじりじりとさがりながら、
「お、おれが人殺しというのか?」
「いまの手際じゃ、やりかねないわねえ。……ほ、ほ、ほ」
「なんのために、おれが美紀之介や蓮蔵を――」
「美紀之介には人気をうばわれ、ばかにされ、もと木戸番の風来坊にはいつのまにやら一座を乗っとられ――とくに蓮蔵には、美紀之介殺しの下手人はだれかということをつきとめられかけ、せッぱつまって――という見方もあるわねえ」
「ばかな! おれがやるなら、あんな手数はかけぬ!」
「あんな手数とは?」
 佐助はくしゃくしゃと顔をゆがめて、泣き出しそうな表情になった。小金はがばとくずおれた。
「そりゃあね、あなたは手裏剣の名人だから、人殺しも簡単でしょうよ。けど、下手人がわからないようにするには、人間いろいろと工夫もし、手数もかけます」
 そのとき、楽屋の外で、「太夫、出番――」という呼び声がきこえなかったら、ふたりは何をさけび出すかわからないような顔色になっていた。
「小金、出番だ」
 猛然として車佐助は立ちあがり、小金の手をひったてた。
「えたいの知れぬ女の|世《よ》|迷《ま》い|言《ごと》をきいているひまはない。ゆこう」
 もつれるようにして楽屋から出てゆくふたりを、お竜は見おくったが、べつに追おうとするでもなく、ひとりごとをつぶやいた。
「佐助はたしかに何かをやった。……小金はそのことを知っている。……だけど、あの男は、案外|智《ち》|慧《え》なしのかんしゃくもちらしいわ。……だから、美紀之介や蓮蔵にヤキモチをやいたこともうなずけるけれど、その智慧なしのかんしゃくもちが、あんな手数をかけて人を殺すかしら?」
 舞台の方でチャルメラの音とともに何やら口上の声がながれると、|凄《すさ》まじい佐助のかけ声と、板に手裏剣のつき刺さる音がきこえはじめた。なお、|襟《えり》に手をさしいれてかんがえこんでいたお竜は、突然、はっと顔をふりあげて、
「あっ、あの気合は――いけない!」
 と、さけんで、舞台の方へかけ出した。
 そのとき、急に小屋の中の騒音がぴたっととまった。彼女は、じぶんの心臓もとまったかのような思いがした。次の瞬間、ふたたびわーっという|海嘯《つなみ》のようなどよめきがわきあがった。名状しがたい恐怖の叫喚だった。
 お竜は、舞台の袖に立ちすくんだ。
 反対側に、たたみ一畳大の厚板を背に、小金が大の字に立っている。その両腕は|虚《こ》|空《くう》をつかみ、顔はのけぞっている。全身蛇のようにくねり、のたうつなかに、中心の一点のみうごかなかった。のどぶえにつき立てられた手裏剣の一点だけが。――
 舞台のまんなかにフラリと立っていた車佐助が、
「しまった」
 と、うめくと、泳ぐように小金のところへまろんでいった。
「小金! ゆるせ、手もとが狂ったのだ!」
 のどの手裏剣をひきぬくと、血の噴水が佐助の顔に散って、小金はどうと崩折れた。
 |屍《し》|体《たい》となった女房を抱きしめ、血まみれになって佐助は身をもみながら、絶叫とも号泣ともわからない声をもらした。その|物《もの》|凄《すご》さに見物人たちはさわぐばかりで近よるものもなかったが、ひとりしずかに佐助の肩をつかんだ者がある。
「むざんなことをしたねえ、おまえさん」
 顔をあげて、
「うぬか!」
 と、佐助はさけんだ。
「うぬがつまらねえことをぬかすから、こんなことになったのだ。おれの女房を殺したのはうぬだぞ、さあいっしょに自身番にきやがれ」
 お竜は|蒼《そう》|白《はく》な顔色になっていたが、淡く笑った。
「おまえさん、おかみさんの口がふさがれたら急に気がつよくなったね」
「なんだと?」
「いまにも白状しそうなおかみさんの口をふさぐために、こんなむごいまねをしたか。さっききいたおまえの矢声は、あれはたしかに殺気の声だった!」
 |蒼《あお》|白《じろ》かった|頬《ほお》が紅潮し、たたきつけるように、
「ひきょう者!」
「なにっ、このあま!」
 もうまったくのぼせあがって、手にしていた血まみれの手裏剣をさっとふりあげたとき――その手を背後からグイととらえられた。
 ふりむいて、佐助の腕が急に|萎《な》えた。着流しに|捲《まき》|羽《ば》|織《おり》、|博《はか》|多《た》の帯に|雪《せっ》|駄《た》ばきという|颯《さっ》|爽《そう》たる姿は、いうまでもなく八丁堀の同心だ。騒ぎをきいて入ってきたのか、それとも偶然見物席にいたのか――これは、佐助はむろん知らないが、南町奉行大岡越前守秘蔵の同心|巨《こ》|摩《ま》|主《もん》|水《どの》|介《すけ》であった。
「これ、神妙にいたせ」
「へい!」
 と、佐助は手裏剣をとりおとし、顔をひきゆがめて、
「大変なことをいたしましたが、これアまったくこの女めの言葉がもとで、不覚にも心中|動《どう》|顛《てん》し、思わず手もとが狂ったのでござります!」
「この女が? 何を申したか」
「|旦《だん》|那《な》は、去年の秋、この一座で|蝋《ろう》|燭《そく》わたりの美紀之介と座元の蓮蔵が不慮の死をとげた一件を御存じでござりましょう」
「――存じておる」
「あの下手人はすでに|御《お》|縄《なわ》を|頂戴《ちょうだい》し、ただいま入牢中でござりますのに、その下手人と相牢だったらしいこの女めが、牢内で下手人から何をききましたやら、牢から出てきて拙者に妙ないいがかりをつけてゆすろうといたし、ために拙者、怒りのため平静を失い、思わずかかるまちがいをいたしました」
「きさまにいいがかりとは?」
「美紀之介と蓮蔵を殺したのは、事もあろうに拙者だと申す。……他にすでに下手人をとらえたお|上《かみ》の御明察をないがしろにいたす不敵な女、何とぞお調べ下さりませ!」
 主水介はちらっとお竜をみた。姫君お竜――主水介は彼女を知っているはずだ。しかし、奇妙なことに、彼は何もいわなかった。ただ、背後に、ようやく騒然とあつまってくる小屋者や見物人をふりかえって、
「ともかく、両人、自身番に参れ」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:18:52 | 显示全部楼层
     三

 自身番とは、いまの交番で、武家町では|辻《つじ》|番《ばん》という。町に犯罪が起ると、ひとまずここでとり調べて一応の調書をつくり、送るときまれば仮監のある大番屋というところへやり、ここではじめて入牢証文を作製して小伝馬町へおくる。
 巨摩主水介は、まずいまの騒動について車佐助をとり調べた。事件は|明瞭《めいりょう》簡単だ。ただ佐助は手もとが狂ってのまちがいだというのだが、問題は彼の手もとを狂わせた原因であった。
 そこで、当然、あの紅蜘蛛の事件が呼び起された。
「あれのお裁きに何の疑心があるのか」
 ときく主水介は、むしろ|憂《ゆう》|鬱《うつ》そうだった。佐助はお竜にむかって、
「おれが毒蜘蛛をつかったというのか!」
 と、かみつくようにわめいた。
「おれがあのへんな紅蜘蛛をつかって美紀之介を殺したと、お玉がいったのか?」
「いいえ、お玉さんは、紅蜘蛛を美紀之介の|絵《え》|日《ひ》|傘《がさ》に入れたのはじぶんだといってたわ。ただ……」
 と、お竜はくびをかしげて、
「その毒蜘蛛をお玉さんに売りつけた浪人が|誰《だれ》かということになると――」
「そんな浪人は、おれの知ったことか!」
「あたしはね、お玉さんといっしょにその浪人に|逢《あ》ったはずの小金さんが、あとで知らぬ存ぜぬで通そうとしたのが、かえっておかしいと思うわ」
「小金は、ほんとに知らなんだのだろう。それがなぜおかしいか。きさま、お玉のいうことは信じて、小金のいうことは信じないのか」
「だから、あらためて小金さんにきこうと思ってやってきたのに、小金さんは殺されてしまった!」
「きさまが、そんないいがかりをつけるからだ」
「いいがかり? だって、小金さんは、美紀之介殺しのあとでおまえさんが蝶をとるのに汗をながしてたのは、蜘蛛を飼う|餌《えさ》にするためじゃなかったかとあたしがきいたら、顔色がかわってうっとつまったよ」
「それがいいがかりと申すのだ。小金が顔色をかえたというなら、その証人を呼んでみせろ」
 お竜はじっと佐助をにらんで、ためいきをついた。
「どこまで、|卑怯《ひきょう》な男なんだろう。女房を殺してまで、じぶんの罪をのがれたいのか」
 主水介が声をかけた。
「よし、両人、そういい争っても、いつまでたってもきりがない。お竜とやら」
 なぜか、伏眼になって、
「それでは、佐助が蓮蔵を殺したという疑いについて申してみろ」
 そのとき、自身番のなかへ、ころがるように入ってきた老人をみて、
「あっ、|蓑《みの》|屋《や》どの!」
 と、佐助がさけんだ。
「おう、いまそこの往来を通りかかってきくと、おまえの小屋で大変なことが起ったそうで、おまえは自身番にひかれていったというから、びっくりしてわけをききに来た」
「それもそうだが、蓑屋どの、わしは去年の美紀之介蓮蔵殺しにまであらぬ疑いをうけております。おまえさまのうちで起ったことじゃ。わしが蓮蔵を殺せるわけがないことを、おまえさま、証人になって申しあげて下され!」
「なに、蓮蔵殺し?」
 はじめて老人は、そこに腰かけている同心に眼をやって、土間に膝をつき、
「おう、これは八丁堀の旦那さま。……わたくしは浅草山の宿町で薬問屋をやっておりまする蓑屋長兵衛と申すものでござります。いちじは、この車の小屋の金主をやっておりましたもので――」
「そのことは存じておる」
 と、主水介はうなずいた。
「そ、それで蓮蔵殺しとは?――あれは、もう下手人が御縄を頂戴して――」
「それが、紅蜘蛛をつかったのはわしじゃとこの娘が申すのだ。だが、蓑屋どのはよく御存じであろう、蓑屋どのの茶室で蓮蔵の悲鳴があがり、わしたちがかけつけていったとき、すでに蓮蔵がたおれていたのを――」
「それでも、おまえさんが細工をしようとすればできたはずだわ」
 と、お竜がいった。
「細工? どんな細工を?」
「お玉さんの話のなかに、蓮蔵さんが茶室へゆくまえに、おまえさんが蓮蔵さんの|袖《そで》をつかんで何かいったということがあったわ。あのとき、おまえさんが紅蜘蛛を蓮蔵さんのたもとに投げこんだとしたら?」
「なにっ」
 だれより、|愕《がく》|然《ぜん》としたのは巨摩主水介だ。かるく、石を水になげるようにそういったお竜は、車佐助の表情にあがったしぶきにかえってはっとした。が、すぐに佐助に余裕をあたえず切りこんだ。
「そしておまえは、その罪をお玉さんになすりつけた!」
 蓑屋長兵衛の顔色も変っていた。はげしく佐助の袖をつかんで、
「お、おまえ、あのとき、そんなまねをしたのか!」
 車佐助は返事をしなかった。何かいおうと口をパクパクさせるのだが、言葉にならないのだ。
「蓑屋さんですか」
 と、お竜はあいさつした。蓑屋はわれにかえり、けげんな顔でお竜をみて、
「おまえさんは?」
「お玉さんと相牢だった女泥棒でござんす」
「…………」
「牢のお玉さんにいろいろ親切にして下すってありがとう。お玉さん、蓑屋さんを仏さまのようにおがんでいましたよ。あたしね、お玉さんから話をきいて、どうもあのひと、だれかにうまく|罠《わな》におとされたような気がしてならなかったものだから、こうして女だてらにおせッかいにのり出してきたんです」
「あ、あれは元気でおりますかな。あの女はな、わしの死んだ娘によう似ておるものじゃから、金主にまでなってやったが、あんな大それたことをして、見そこなったと思い、またふびんにも思うておったが、しかし、なんじゃと? この佐助が下手人じゃと?」
「まだそれはわかりませんわ」
 と、お竜はいった。長兵衛はあっけにとられたように口をあけた。
「だって、いま、おまえさんは!」
「まだわからないことがたくさんあるのです。あたし、蓑屋さんにおききしたいことがあるのよ」
「なにを?」
「蓮蔵さんが殺されたとき、あの茶室に紅蜘蛛は二匹いたことを御存じない?」
「な、なんじゃと?」
 と、長兵衛は宙をみて、凝然と思い出そうとする表情になった。
 やがて、
「そんなことはなかろう」
「いいえ、天井をはしってにげた紅蜘蛛と、お玉さんの肩にとまっていた紅蜘蛛と――」
「あっ、そういえば!」
 と、突如大声を発したのは車佐助だ。狂的な眼色になって、ひしと蓑屋にしがみつき、
「蓑屋どの、思い出して下され、そうだ、たしかに蜘蛛は二匹いた。蓮蔵を殺した蜘蛛は、わしの飼っていた蜘蛛ではない――」
 と、いいかけて、急に絶句した。思わずしらず白状したのに、はっとしたのだ。
 猛然と立ちあがった巨摩主水介は、しかし次の瞬間、つぶやくようなお竜の言葉にまた|釘《くぎ》づけになった。
「けれど、わたしは、人を殺すような蜘蛛がこの世にあろうとは思われない。蓑屋さん、どう思います――?」
 そのとき、蓑屋が、突然、土間の一点をさして、
「あっ、そこに赤い蜘蛛が!」
 と、絶叫した。
 お竜と主水介がさすがに、愕然として身をのり出して、佐助の坐っている方から、うすぐらい土間の隅へさーっとはしっていった赤い虫にぎょっと息をひいたとき、佐助が急に両腕をついた。
 その異様な気配に、三人はっとしてふりむいた。
 車佐助の顔色は紫いろになり、その全体がひきつれるようにうごめいた。とみるまに、たったいまわめきちらしていた佐助は、ものもいわずにガックリとつっ伏してしまった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:19:57 | 显示全部楼层
    蜘蛛を売る浪人

     一

「|化《ばけ》|物《もの》蜘蛛め!」
 泳ぐように蓑屋長兵衛が立って、自身番の隅へかくれようとした蜘蛛にとびかかってつかんだが、すぐに「あっ」とさけんで手をふった。
「どうした?」
 巨摩主水介がさけんだ。
 長兵衛は恐怖の表情で、じぶんの掌をにらみつけたままだ。その掌は真っ赤だった。
 すぐにそれは、彼がたたきつぶした蜘蛛だとわかった。しかし、恐ろしいのは、それをつぶした掌を染めているものだ。血としか思われないが、血の赤い蜘蛛が、この世にいるものだろうか。
 いうまでもなく、車佐助の血であろう。佐助の血を吸った蜘蛛にちがいない。たったいま、「人を殺すような蜘蛛がいようとは思われない」とお竜がいったその口の下から、この怪奇な吸血蜘蛛はまた人をひとり殺したのだ!
「…………」
 さすがの巨摩主水介も、佐助を抱き起そうとさしのべていた手をひっこめた。まだこの死人に毒蜘蛛が吸いついていないとは、保証できなかったからだ。死人――見ただけで、車佐助は完全に死人の顔色であった。
「紅蜘蛛――それじゃあ、蜘蛛の赤かったのは、人の血を吸ってそれが透いてみえたのかしら? それとももともと赤い蜘蛛だったのかしら?」
 と、お竜がつぶやいたが、だれもこたえない。長兵衛の掌の蜘蛛はもはや原形もとどめていなかったし、彼は大いそぎで紙でぬぐいすててしまった。
 そして、長兵衛はひざをついた。
「旦那さま。……恐れ入ってござりまするが、お玉めに再度の御吟味をおねがい申しあげまする」
「…………」
「やはり下手人はこやつでござりましたな。……この死様は、御糾明につまって観念したものとみえますが、自ら毒蜘蛛に刺されて死んだは、白状したも同然でござります」
 主水介は苦々しげにうなずいたが、お竜はけろりと長兵衛に顔をむけて、
「蓑屋さん、さっきあなたにきいたことなんだけど――」
「なにか?」
 と、蓑屋はふしんな|面《おも》|持《もち》だ。きかれることより、お玉と相牢だったというこの娘に、どう応対していいかわからないといった表情である。
「あなたのおうちの茶室に紅蜘蛛が二匹いたのではないかということ」
「そんなことはない」
 と、長兵衛はきっぱりといった。
「でも、このひとは、いま死ぬまえに、蜘蛛はたしかに二匹いた、蓮蔵を殺した蜘蛛は、わしの飼っていた蜘蛛ではないと――」
「ばかな! あれは苦しまぎれの世迷い言じゃ。左様なことをいってにげようとしたが、とうてい逃げられぬと知ってこの自害ではないか。――またかりに茶室に蜘蛛が二匹いたところで、それがなんじゃ、こいつめが蜘蛛を売っていたとあれば――」
「じゃあ、あの蜘蛛を売っていた浪人は、やっぱりこの車?」
「そうでしょう。お玉のいっていたことを、わしは実は半信半疑できいておったが、いまになってみれば、蓮蔵はハッキリ打ちあけなんだが、どうやらこの佐助をいちばん疑っていたようなふしもある。わしのところの茶室でどうしようというつもりだったのかよくわからぬが、もし女房のお玉をあやしいと思っているのなら、そんな手間ひまかけることはない。相手が手ごわい佐助なればこそ、人を白状させる茶をのませるとか何とか、一工夫も二工夫もめぐらそうとしたのに相違ない」
「してみると――佐助は、一座の人気者美紀之介にヤキモチをやいてこれを殺そうと思い、蜘蛛売りの浪人に化けて毒蜘蛛をお玉さんに売り、首尾よくお玉さんに美紀之介を殺させたが、蓮蔵の探索がはじまったので、危険を感じて蓮蔵も殺し、その罪をお玉さんにぬりつけたのね。そして、わたしがしらべにやってくると、そのことを白状しそうな小金さんを殺したが、とうとうにげきれないで自害しちまったというのね?」
「そうかんがえるよりほかはあるまい」
「でもね。……もし佐助がはじめから毒蜘蛛をもっているなら、なぜそんなめんどうなことをしたのかしら? その蜘蛛でそっと美紀之介を殺したらいいでしょうに」
「いや、美紀之介が突然怪死をとげたら、お上のお取調べによっては、じぶんも疑いをうけるひとりになるからの。そんな面倒をさけるためには、別にお玉というちゃんとした下手人をつくっておいた方がよい――こう考えたのではないかな」
 といって、長兵衛は急にむっとしたように、
「いやいや、こいつめの心などわしは知らぬわい。なんじゃ、こいつがあやしいと目をつけたのはお前さまではないか」
「あっ、そうだった!」
 と、お竜はあたまに手をやった。それがあんまり愛くるしい身ぶりだったので、主水介はむろん、蓑屋長兵衛も失笑した。
 が、すぐにまた車佐助の|屍《し》|骸《がい》に恐ろしげに眼をやると、
「それでは、わたくしはこのままひきとらせていただきまするが」
 と、主水介に腰をかがめて、
「お玉のことはどうぞどうぞ御慈悲をおねがい申しあげまする。やれ、うれしや、あれが下手人でなかったとは、やはりわしの眼は狂ってはおらなんだ!」
 と、眼をしばたたきながら、自身番を出ていった。
 主水介はちらっとお竜をみた。お竜は何やら思案にくれている。主水介は何か言おうとして、うつむいて、ひとりごとをいった。
「ああ、これはこまったことになった。お玉が下手人でないとすると……御公儀の御威光にかかわるが」
 奉行秘蔵の鬼同心も、なぜかひどく精彩がない。
「しかも、まことの下手人を眼の前で死なせたとは!」
「|木《こ》ッ|葉《ぱ》役人のクヨクヨしそうなことだ」
 と、お竜がつぶやいた。
 主水介はきっとして顔をあげた。お竜はくびをふって、
「けれど、まだこの死人がほんとの下手人かどうかわからない。……」
「えっ?」
「佐助は、小金の口をふさぐために小金を殺した。しかし、佐助も口をふさがれるために殺されたのでは?」
「なにっ」
「と、佐助の|死《しに》|様《ざま》がへんだから、あたしはそう考え出したわ。……それにしても、あの毒蜘蛛をよく恐ろしげもなく蓑屋がつかんだもの――」
 そのとき、自身番にひとりの小僧がかけこんできた。
「あの……うちの旦那さまがここにいませんか。蜘蛛をとってきましたが」
 と、息せききっていう手に、小さな紙包みをもっている。
「蜘蛛? 蓑屋は今しがたここを出ていったが、なんじゃ、きさま」
 と、主水介はとびあがった。小僧は思いがけぬ同心の姿に顔色をかえて、
「あ! て、手前は蓑屋の小僧でござります。さっき旦那さまと、このちかくを通りかかって、知り合いの軽業小屋の女太夫が殺されたことをきき、旦那さまといっしょに小屋にかけつけましたが……」
「蜘蛛をとってきたとはなんだ!」
「旦那さまが手前に、どこからか一刻も早く蜘蛛を一匹つかまえてきてくれと申されましたので一生懸命さがしまわって、小屋の隅からやっと一匹つかまえてきたら、旦那さまはもうここの自身番においでになったということで――」
「その蜘蛛をおみせ」
 と、お竜がいって、紙包みをひったくった。のぞきこんで、
「紅蜘蛛じゃない。ふつうの蜘蛛だわねえ。おまえ、蓑屋さんが、この蜘蛛をどうするつもりかきいたかえ?」
 小僧はただならぬ相手の様子にだんだんあとずさりしながら、くびを横にふった。
「いいえ」
 お竜はにっと笑った。
「あわてたものだから、どうやらとんだところで|尻《し》っ|尾《ぽ》を出したようだ。――けれど、まだわからない、ふつうの蜘蛛でどうして人を殺せたか。それから、このたくさんの人殺しのめあては何かしら?」
 彼女はまた考えこんで、それから|突拍子《とっぴょうし》もないことをふときいた。
「小僧さん。おまえ、蓑屋さんのなくなったというお嬢さん知ってるかい?」
「知ってます。……」
「どんなひとだった?」
「そりアきれいなお方で、色が白くって、面長で、ナヨナヨとして――」
 小僧の美人形容は単純をきわめたが、お竜の眼はひかった。彼女は急に彼女らしくない厳粛な眼で小僧を見つめていった。
「わかった。おまえ、この蜘蛛を自身番にもってきたと、御主人にいっちゃあいけないよ。そうでないと、おまえの命はない。……」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:20:36 | 显示全部楼层
     二

 浅草山の宿町。――
 この町は、いまは花川戸にふくまれているが、春の太陽がおちて、|藍《あい》|色《いろ》に染まってきたその大川端をもどってきた一|挺《ちょう》の|駕《か》|籠《ご》が、薬種問屋蓑屋の裏口から入ろうとして、ふととまった。
 乗っていた人が、駕籠の垂れのすきまから、じっと何かを見ているようだ。駕籠かきもその方を見た。
 暮れてきた川を背に、路傍に|深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》の浪人がひとり坐っていた。
 もし小伝馬町のおんな牢にいるお玉がそれをひとめ見たら、全身水をあびたような思いがしたに相違ない。浪人の足のあいだに、ふたつの|虫《むし》|籠《かご》がおいてあるのだ。しかもその虫籠の中は真っ赤だった。真っ赤なものが、ウジャウジャとうごめいているのだった。
 まわりには、だれもいない。が、遠くから見ている駕籠に気がついたのか、浪人が深編笠を伏せたまま、
「|紅《べに》|蜘《ぐ》|蛛《も》はいらぬかな。……」
 とつぶやいた陰気な声が、かすかにながれてきた。
 駕籠はうごき出して、蓑屋の中に入っていった。
 それからしばらくたって、蓑屋から出てきたひとりの手代風の男が、その蜘蛛を売る浪人のそばへよって何かささやいていたが、すぐに彼をつれて蓑屋の裏口から入った。あとは、とっぷり暮れた夜ばかりである。――
 いや、その|闇《やみ》のなかに、もうひとつの影が|湧《わ》き出した。着流しに宗十郎|頭《ず》|巾《きん》をかぶったその影は、しばらく蓑屋の塀を見あげていたが、その上からのびた一本の枝をみると、ぱっと一条の|縄《なわ》がとんでそれにまきつき、彼はそれをつたって塀にのぼった。この行動以上にあやしいことは、星明りに立ったその男が口にくわえているのは、たしかに朱房の十手だったことだ。
 蜘蛛を売る浪人が案内されたのは、例の庭の隅の茶室であった。
 ふしぎなことに、そこに通されても、彼は深編笠を伏せたままだった。手代が去っても、彼はまえにふたつの虫籠を置いて、厳然と坐っている。
 勝手口の戸が音もなくひらいて、蓑屋長兵衛が入ってきた。暗い眼でじっとその怪浪人をみていたが、やがて、しゃがれた声でいった。
「その紅蜘蛛を買いたい」
「何匹所望」
 と、浪人はこたえた。その声をきいて、長兵衛の眼がかっとむき出された。ふるえ声で、
「虫籠ともに――百両でどうじゃ」
「…………」
「二百両」
「…………」
「三百両」
「何になさる?」
 と、浪人はしずかにきいた。長兵衛はだまっている。深編笠の中で、ひくいふくみ笑いがきこえた。
「これは、ふつうの蜘蛛を、ただ朱にひたしただけのものでござるぞ」
「なに!」
「おどろくことはなかろう。おぬしが薬研堀で売った蜘蛛もそうだったではないか」
「わしが蜘蛛を売った? ばかな! あれは車佐助じゃ」
「車佐助は、小金から紅蜘蛛の話をきいて、美紀之介が殺されたさわぎのさい、あの紅蜘蛛をひろっただけじゃ。なんたるたわけか、その紅蜘蛛を毒蜘蛛と思い、下手人をお玉と思いこんだばっかりに、あいつの心に魔がさした。佐助はもと木戸番の蓮蔵に、いつのまにやら一座の頭株をとられたことを面白くなく思っておったにちがいないが、紅蜘蛛さえひろわなんだら、蓮蔵を殺しはせなんだであろう。たとえ蓮蔵を殺しても罪はお玉にぬりつけることができるとかんがえたればこそ、この茶屋へくる蓮蔵のたもとに紅蜘蛛をなげこんだのじゃ。あまつさえ、それをつきとめられかけると、あわてて女房の小金さえも殺してしまった。あきれかえった|卑怯《ひきょう》者じゃが、またあわれむべき愚か者でもある。紅蜘蛛は毒でもなんでもないのに――紅蜘蛛は、人の眼をくらますための|虚《きょ》の影であったのに――」
「あれは、毒蜘蛛じゃ! その毒蜘蛛をつかってお玉は美紀之介を殺し、佐助は蓮蔵を殺し、そして佐助は自害したのじゃ!」
「まだ左様なことを申しておる。その毒蜘蛛を、自身番で、ようおぬし、素手でつかんだな」
「あれは、夢中、とっさに――」
「はははは、あの蜘蛛は、軽業小屋からひろってきたものであろう。そして、ふところでみずからの胸を傷つけて血を出し、その血を蜘蛛にぬりつけたもの、その細工をした手をごまかすために、とっさに蜘蛛をたたきつぶした血とみせた!」
 蓑屋長兵衛は、|物《もの》|凄《すご》い顔色になっていた。うめくがごとく、
「それでは、車佐助はなぜ死んだ?」
「それはおぬしにききたいこと」
「わしがどうして、車佐助を――」
「佐助が蜘蛛を売っていた浪人ではないということがばれそうなためだ。それから蓮蔵がこの茶室で殺されたとき、佐助のつかった紅蜘蛛のほかにもう一匹おぬしの放した紅蜘蛛がいたことがばれそうなためだ。――おぬしは佐助がつかまったことをきかなければよかったのだ。なまじ、きいたばかりに、何となく不安になり、様子を見に自身番にきたくなり、万一の用心に蜘蛛をつかまえてきて佐助の口をふさごうとしたことが、かえって疑惑をまねくいとぐち[#「いとぐち」に傍点]となった! そういえば、佐助の死んだときも、美紀之介の死んだときも、蓮蔵の死んだときも、蓑屋長兵衛がそばにいたではないか――と」
「…………」
「要らざることであった。車佐助とおぬしとは、あくまで無縁のままですませばよかったものを――美紀之介殺し、蓮蔵殺しがあまりにうまくいったので、ひょいとまたおなじ手をつかいたくなったのが、破滅のもとであったのじゃ」
「…………」
「蜘蛛で人を殺せるなら、必ずしもおぬしがそばにいる必要はない。おぬし、彼らをどうして殺した?」
「教えてやろう」
 蓑屋長兵衛は大きくうなずいた。これがあの|好《こう》|々《こう》|爺《や》かと眼をうたがうような陰惨な悪相に変っている。
「よく、そこまで見ぬいた。まったく車佐助だけは、要らぬ飛び入りじゃった。――わしがきゃつらをどうして殺したか、教えてやるが、わしが仮面をとる以上、おまえもその笠をぬいだがよかろう」
 浪人ははじめて深編笠をぬいだ。男ではない、髪こそあだっぽい|櫛《くし》|巻《まき》にしているが、珠のように愛くるしい女の顔があらわれた。
「ふむ、やはり自身番にいた女じゃな、名はなんという」
「姫君お竜」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:21:13 | 显示全部楼层
     三

「姫君お竜?――稼業はなんだ」
「女泥棒さ」
「女泥棒が、なぜこんな大それた探索にのり出した? ゆすりか、おどしか。金が欲しいなら言ってみるがいい」
「金? ほほほほ、欲しいけれど、そうはゆかないわねえ。|相《あい》|牢《ろう》だったお玉さんの命助けたさに乗り出した仕事なんだからね。ほんとの下手人、つまりおまえさんを御奉行所へつき出さなきゃ、お玉さんは助からない」
 お竜は、伝法ながら、女言葉にもどって笑った。長兵衛の顔色はいちど暗灰色に沈んだが、すぐにぶきみな笑顔になった。
「そうか。何にしても女だてらに|胆《きも》のふとい奴だ。しかし、おれを下手人と知ってこの家に入ってきた以上、ぶじで出られようとは思ってはいまいな」
「そうともかぎらないよ、あたしはこうみえて――」
 と、お竜は笑いながら、笠をすてて腰の大刀の|柄《つか》に手をかけた。
「うごくな!」
 と、長兵衛はさけんで手をふりあげた。
 こぶしにキラッとひかったものがある。針だ。ふといたたみ針だ。
「おい、ただの針だと思うなよ。ここは薬問屋じゃ。皮膚をかすめただけで馬一頭死ぬ毒がぬってあるのだ。おい、刀から手をはなせ」
 と、一歩寄って、お竜のすてた笠を足でうしろへはねのけた。
 飛びさがろうとして、お竜の背が壁にぶつかった。そこはせまい四畳半の茶室であった。たとえ刀をぬいたとしても、かえって邪魔になったであろう。なおわるいことに、うしろの出口は、かがまなければ出られないにじり[#「にじり」に傍点]口一つであった。さすがのお竜の頬から血の気がひいた。
 もえるような眼でにらんで、
「その針で、美紀之介を刺したのか」
「その通りだ。あいつは蜘蛛にびっくりして|蝋《ろう》|燭《そく》からおちて気絶しただけだ。あれの蜘蛛をこわがることは普通ではなかったからの。わしが刺したのはそのあとだ」
「その針で、蓮蔵を刺したのか」
「その通りだ。蓮蔵に、人を白状させるお茶があるといわせたのはこのわしじゃ。この茶室で、蜘蛛だ、紅蜘蛛だとわめかせて、死んだフリをさせたのもこのわしじゃ。死んだ芝居をして、入ってきた一座の連中がどういううごきに出るか、それで美紀之介殺しの下手人がわかるとふきこんでやったのだ。蓮蔵の小利口さが、まんまとそれにひッかかった。死んだ|真《ま》|似《ね》をしてひっくりかえっていたところを、わしがとどめを刺してやったのよ。蜘蛛の|呪《のろ》いとみせかけて、わしが一匹はなしたあとに、もう一匹の紅蜘蛛があらわれてあわてたが、佐助めが蓮蔵のたもとに入れた奴が|這《は》い出したものとは知らなんだ」
「なぜ、美紀之介を殺したの?」
 老人はぞっとするような笑いをうかべて、お竜を見つめた。黒紋付に大小をさした娘の姿は、なんとも名状しがたい奇怪な美しさだ。
「わしは、女好きでの」
「美紀之介にはずいぶん入れあげたが、あれはわしを裏切りおった」
「うそ」
「なに?」
「美紀之介を知るまえから、おまえは蓮蔵一座にちかづいていた。お玉さんがじぶんの娘に似ているなんて大うそをついて。――おまえの娘は面長の病身な美人だったが、お玉さんはまる顔のピチピチした女じゃないか。いくら芝居の金主をするのが道楽だって、軽業の金主までするのはおかしいと思ったが、そんなうそまでついて一座とつながりをつけたのは、何か目算あってのことだね」
「…………」
「美紀之介が原因で蓮蔵を殺したのじゃあなく、おそらく蓮蔵を殺すことがはじめからの目的だろう。美紀之介を殺したのは、その毒針のききめをたしかめたかったこと、それに、蓮蔵を殺した下手人がお玉だと、世間はもとよりお玉さん自身に思わせる下ごしらえだったろう」
「…………」
「きのうおまえが自身番で、人間ひとり変死をとげたら、まわりのものがみな疑われるから、それをのがれるためには、だれかひとり下手人をつくっておいた方がいいといったのは、思わず語るにおちたものさ。可哀そうにお玉さんは、じぶんが悪魔の|罠《わな》のいけにえにたてられたのも知らないで、おまえを一生の恩人だと思いこんでありがた涙にくれてるよ。罪もない女を死罪の|獄《ひとや》に追いこんでおいて、そしらぬ顔で届け物など送るところは、極悪人でなければできない仕業さね」
「お竜……おまえは、わしがこわくはないのか」
「こわいよ。こわいから、しゃべってるんだ。……ところで、江戸でも知られた薬問屋のおまえが、どこの馬の骨ともしれぬ軽業小屋の座元の若僧を、そんな手数をかけてまで殺したがったわけはなんだろう。さあ、そこがわからない」
「お竜、もう|骨《こつ》|箱《ばこ》を鳴らすな」
「これには、きっと、深い|仔《し》|細《さい》があるね? それを知りたいわ」
「それをおまえは知ることは出来ん。……この世ではな」
 老人はまた一歩寄った。
 片手でお竜の肩をつかみ、片手に恐るべき針をふりあげた。
「お竜、死ね」
 ふりおろそうとしたその手くびに、その|刹《せつ》|那《な》、背後からとんできた一すじの|捕《とり》|縄《なわ》が、くるくるっとまきついた。
 いつのまにか、勝手口にすっくと、宗十郎頭巾の男が立っていた。捕縄をつかんでいるのは、八丁堀の名同心、巨摩主水介であった。
 お竜が、がっくり肩をおとしてつぶやいた。
「どうやら、女ひとり命を救ったようだ。……あたしじゃないよ。おんな牢のお玉さんだよ!」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:21:32 | 显示全部楼层
    色指南奉公

     一

 ひとりの女囚に腰をもませていた隅の隠居のお|熊《くま》が、何に腹をたてたのか、急にその女囚をはりとばした。
「こいつ! なめやがったな!」
 若い女囚は、|頬《ほお》をおさえて、ふるえながら、
「とんでもない、わたしが、何を……」
「いいや、なめやがった。さっきから、おれの|仙《せん》|気《き》筋ばかりつねりゃがって……てめえ、侍の女房だったから、|柔《やわら》を知ってるにちげえねえ。それで、そしらぬ顔をして、おれに日ごろの仕返しをたくらんでやがるんだ」
「まあ、思いがけないことを――あっ、御隠居さま、どうぞおゆるしを……」
 お熊はがばとはね起きた。とても仙気持ちにはみえない勢いだ。恐怖に唇をわななかせている女を見おろし、
「もうかんべんならねえ。みせしめにすこし仕置をしてやる。やい、おめえたち、こいつをつかまえて、手足をおさえてろ」
 と、隅っこの女囚たちにかみつくようにいった。女囚たちは息をのんだが、言い出したらあとにひく|婆《ばば》あではない。もういちどどなりつけられて、六、七人の女がおずおずと、その女をおさえつけた。
 女は抵抗もしなかった。つめたい床に大の字に釘づけになって、ただ胸の|隆起《りゅうき》を大きくあえがせ、涙をこめかみにながしている。
「それ、いいというまで、くすぐってやれ!」
 お熊の命令に、女たちはうごめき出した。おさえつけた女囚のあごの下、わきの下、わきばら、へそ、足のうらなど、死物狂いにくすぐり出したのだ。
「ううっ」
 と、この奇妙な拷問に、女はうめきはじめた。歯をくいしばっても、叫び声が出る。うごくまいと思っても腕をもがき、胴がくねり、二本の足がたかくはねあがろうとする。
「イッヒー、イッヒー、イッヒーッ」
 もはや、獣の声であった。眼をつりあげ、犬のように舌をはき、まっしろな乳房も腹部もまる出しにして七転八倒する女を、お熊はむろん、牢名主のお紺も、お甲、お伝たち牢中役人の老婆たちは、|乱《らん》|杭《ぐい》|歯《ば》をむき出して笑いながら見ていた。
 この女囚は、もと|御《ご》|家《け》|人《にん》の女房だったという。お|目《め》|見《みえ》以下の貧乏侍で、ここに入牢するまえ離縁になったということだが、それでももとは武家の|御《ご》|新《しん》|造《ぞ》さまにちがいないのである。色のぬけるほど白い、きよらかで気品のある女だった。――そこが、この世のどん底を虫みたいに這いまわって老いてきたこの婆さんたちの|嗜虐心《しぎゃくしん》をそそるらしいのだ。いまお熊がなんとかいったが、むろんそれは強引な言いがかりだ。この拷問は、とりすました武家の女房一般に対する兇悪な|復讐《ふくしゅう》欲の発現にすぎない。
「これこれ、何をいたしておる」
 |牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の外で、声がかかった。お紺は平然として、
「牢法にそむきましたから、仕置をしております」
 とこたえて、ふりむいた。
 こう答えると、いかに牢内で無惨な私刑が行われていても、いつも牢屋同心は知らぬ顔をしているのがならいだ。
 しかし、ふりかえったお紺は、ふいに眼を大きくむき出して、
「あ、お竜!」
 とさけんだ。みんな、はっとして牢の外を見た。
 |白《しら》|鷺《さぎ》のようなお竜の|白衣《びゃくえ》がみえた。そばに、お竜を呼び出した例の八丁堀の同心が、にがい顔で立って、のぞきこんでいる。
 女囚たちは、お竜を見あげ、見おろした。幽霊かと思ったのだ。彼女がお奉行さまじきじきのお取調べに呼び出されてから、三夜を経た。おそらく|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》で拷問をうけていたにちがいないのだが、それっきりかえってこないところをみると、きっと責め殺されたにちがいないと、みんなで話していたのである。
 それが、生きている。拷問場からかえってくる囚人は、たいてい血まみれになって、半死半生のからだを|釣《つり》|台《だい》にのせられてくるのだが、彼女は両足でちゃんと立っている。
 お竜はしずかに戸前口をくぐって、牢の中に入ってきた。
「お竜さん……」
 お玉が金切声をあげてしがみつき、ゲクゲク泣き出した。
「お玉さん。……」
 肩を抱いて、お竜は奇妙ないたずらっぽい笑顔で、お玉の顔をのぞきこんだ。お玉は気づかず、
「あんた、死んじまったのかと思っていたよ! よく、よく生きていておくれだったねえ!」
「あたしが、死ぬ? どうして?」
「だって、お奉行さまの痛め吟味で――」
「何をいってるのさ、そんなに簡単に殺されてたまるもんか。お奉行さまは、とにかく名奉行といわれてる大岡さまじゃないか」
 と、お竜はいったが、|狐《きつね》につままれているような周囲を見まわして、
「それにあたしを殺しちまったら、将軍さまを|狙《ねら》った一味の残党があとつかまらなくなるからねえ。そりゃあ御丁寧なお調べで、またあしたお呼び出しがあるわ。このぶんじゃあ、あたし、まだだいぶ生きていられそうよ」
 と、笑った。それから、床のうえに顔を伏せているさっきの御家人の女房を見おろして、
「それより、あのひとにいま何をしていたの?」
「牢法にしたがって、仕置をしていたのよ」
 と、お熊はそっぽをむいていった。
「どうせちかいうちに|磔《はりつけ》か獄門になる女さ。ここで責め殺される方が当人の望みかもしれないよ」
「磔か、獄門? なぜ?」
「御家人の御新造のくせに、|中間《ちゅうげん》と乳くりあってよ、|旦《だん》|那《な》にばれそうになったら、その中間をばらしちまったというたいへんな女さ」
「では、これが、あのお|路《みち》さん?」
 名をよばれて、お路はふしぎそうに顔をあげた。お竜はちょっと|狼《ろう》|狽《ばい》して、お熊の方へむきなおって、
「ねえ、御隠居さん、あたしみたいな大罪人を、お奉行さまでさえなかなかお仕置になさらないのに、勝手に牢内でなかまをひどい目にあわせると、それこそいつかきっとお仕置をうけるよ」
「何をいやがる。牢法による仕置は、牢屋敷のならいだ」
「いいえ、天のお仕置が。――みんな可哀そうな女同士とは思わないかえ」
 お熊は、つかみかかるような手つきをしたが、お竜にこっぴどくやっつけられたのはほんのこのあいだのことだから、歯をかみ鳴らしてうめいた。
「きいたふうのことをぬかしゃがる。……いまにみていやがれ。お奉行さまの御吟味から、いつも満足なからだでもどってこれるとはかぎらねえぞ。……」
 ――ところが、そういった当人が、その夜のたうちまわりはじめたのだ。持病の|胃《い》|痙《けい》|攣《れん》を起したのである。まさに天の仕置というべきだが、みんなおどろかなかった。いままで何度もあったことだからだ。
「あいたたたたた」
 お熊は、牢中をころがりまわった。
「おれ、死ぬよう、いたい、いたいっ」
 はじめ気のない看病をしていたお紺が、ついに|癇癪《かんしゃく》をおこしてののしった。
「やかましいね。この婆あ、寝られやしないじゃないか。おまえも月の輪のお熊といわれた女じゃないか。くたばるなら、みっともない|音《ね》をあげないでくたばりな」
「どうしてお医者を呼ばないの?」
 と、お竜の声がきこえた。彼女はそれまで、お路という女囚と、しめやかに何やら話していたのである。
 |天《かみ》|牛《きり》のお紺は笑った。
「ここは牢だよ。――」
 それが、どういう意味か、すぐにわかった。そのとき、お熊の騒々しいうめき声をききつけて何事かと思ったのであろう、|提灯《ちょうちん》をかかげて牢番人が|外《そと》|鞘《ざや》にきたが、ちょっとのぞきこんで、舌打ちをしてすぐに去ろうとしたのである。
 牢内で、病人、しかも重患が出ると、|溜《ため》という|病檻《びょうかん》に移す。江戸には溜が二か所あった。一つは浅草千束にあり、他の一つは品川にあって、それぞれ|非人頭車善七《ひにんがしらくるまぜんしち》、|松《まつ》|右衛《え》|門《もん》があずかっている。しかし、そこで死ななければまたこの牢内へもどすのだが、その手数がわずらわしいので、牢役人たちは知らない顔をしていることが多かった。ここで死ねば、|屍《し》|骸《がい》は家族へもわたさず、アンカにのせて千住に犬猫のごとく捨てにゆくだけだから簡単なものだ。
「お待ち」
 呼ばれて、牢番は立ちどまった。お竜はきっとしてさけんだ。
「お医者を呼んどいで。そうするのが、おまえさんのお役目だろ? お医者を呼ばないと、明日にでもお奉行さまのお調べがあるときいいつけてやるから」
 まもなく牢付の医者がきた。お熊のうなり声はやんだ。
 お熊が手をあわせておがんだ|闇《やみ》のむこうで、お竜の事もなげな声がきこえた。
「それで、お路さん。あなたは――」
「わたしは……」
 闇の中にも、御家人の妻が、恥ずかしさに息もつまらせている様子がわかった。お竜はやさしく、
「それから、どうして?」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:22:03 | 显示全部楼层
     二

 飯田町に住む五十石の御家人|祖《そ》|父《ふ》|江《え》|主《しゅ》|膳《ぜん》は、妙な|中間《ちゅうげん》をひろってきた。
 最初見たときから、ノッペリしたその顔と、からみつくような眼つきに、妻のお路は本能的に不安な予感をおぼえたが、|或《あ》る日、|十《と》|平《へい》|次《じ》というその中間の背なかに「色指南」という|刺《いれ》|青《ずみ》があるのを発見して、夫にいった。
「旦那さま、あの十平次と申す中間は、よほどお気に入りでございましょうか」
「なぜ?」
「なんだか、わたし、恐ろしい。……」
 主膳は、じっとお路の顔を見つめて、|蒼《あお》|白《じろ》く笑った。
「ばかな、たかが渡り中間ではないか。それに、あれはいろいろなおもしろい穴を知っておる」
「穴?」
「ばくち場じゃ」
「まあ!」
 主膳は、そんなところから十平次をつれてきたらしかった。
「それに、給金もろくにやれぬ安御家人のうちに、そう居ついてくれる中間のおらぬことはおまえも知っているではないか。十平次がきてくれる気になったのも、主従ばくちでウマがあえばこそじゃ。はははは」
 |大《たい》|身《しん》の旗本などでは、十何人もの若党や中間をつかっているが、五十石の御家人では、せいぜい一人の中間しかやとえない。しかし、ふだんの庭の掃除、畑仕事、使いなどはむろん、これでも|直《じき》|参《さん》である以上、事あるときはどうしても供の一人くらいはいなければ|恰《かっ》|好《こう》のつかぬことがあるし、第一、客がきたとき玄関の取次をするものが女ではいけないという習いなのである。|知行《ちぎょう》取りの屋敷ならその知行所の百姓などにきてもらうのだが、|蔵《くら》|米《まい》取りの祖父江家では、口入屋から渡り奉公の中間をやとい入れるよりほかはなかった。
 しかし何しろ貧乏で、年三両の給金でさえはらいかねるので、いままで何人もの中間ににげ出されて困っていたのである。
「それは存じておりますけれど……背に、何やら妙な刺青などをして……」
「あはははは、あれは、色指南――色ごと指南という意味だろう。人をくった奴じゃ。おまえも、少し指南をうけるがいい」
「何を仰せられます」
「怒ったか。ふふん、いや心配するな。あんなことを自慢たらしく彫る奴だけあって、いい色おんながおる。ときどきばくち場で|逢《あ》ったが、あいつにはもったいないくらい、ふるいつきたいほどの女だ。まず、おまえの百倍は色ッぽいな」
 あごをなでながら、ぬけぬけとそんなことをいう夫を、お路はかなしそうに見つめた。こんなはずではなかった。こんな人ではなかった。三年まえ、ここに縁づいてきたころは、もっと立派な夫だった。腕もたち、頭もよく、|覇《は》|気《き》もあった男だったのだ。それがこの半歳ばかりまえから、急速にこんなになってしまった。酒びたりになり、|喧《けん》|嘩《か》をし、他家の中間部屋に出入りしてばくち[#「ばくち」に傍点]に日をくらし。――
 それを、お路はとめることができなかった。みまわすと、夫の同輩は、まえからみんなそうなのだ。五十石、御家人、さびれきった飯田町の御家人町――未来|永《えい》|劫《ごう》その境涯から|金《こん》|輪《りん》|際《ざい》ぬけ出すことのできないこの世のしくみであった。腕がたち、頭がよく、覇気があればあるほど焦燥し、絶望し、自暴自棄になる。……
 夫に笑いとばされて、お路はそれ以上押して何もいえなかったが、案の定、それから屋敷に、眼をつぶりたいほどふしだらな空気が吹きこみはじめた。
 十平次が、れいの色おんなを中間部屋にひき入れて、へいきで|痴《ち》|話《わ》|狂《ぐる》いを見せはじめたのだ。主膳にきくと彼女は「死顔の|蝋《ろう》|兵《べ》|衛《え》」というきみわるい名の人形師の娘だということであったが、どうして十平次とそんな仲になったのか、おそらくばくち[#「ばくち」に傍点]場にいっしょにあらわれるというくらいだから、もともとあばずれなのだろうが、まがりなりにも侍の家に入りこんで、あられもない声をあげられるので、お路は耳を覆いたいようだった。
 主膳に告げるのもはばかられるほど恥ずかしかったが、門のすぐそばにある中間部屋では、近所のきこえもあるので、お路は或る日主膳にそのことを訴えた。
「きいたか、お路」
 と、主膳は怒りもしないで、ニタニタ笑った。
「しかし、わしがあちこち他家の中間部屋の|賭《と》|場《ば》に出あるくのじゃから、あまり大きなことは申せぬな。――それより、あれほど大っぴらな声を出して、|羨《うらや》ましいとは思わなんだか」
 トロンとした眼でお路の顔をみていたが、急に抱きよせてその口を吸おうとした。
「これ、たっぷり|唾《つば》のたまるように、ぐっと舌を出しての……」
「何をなされます」
 お路は思わず夫の顔をつきのけて、とびのいた。|驚愕《きょうがく》にあえぎながら、はりさけるような眼で夫を見た。夫が十平次みたいな|下《げ》|郎《ろう》に変ったのではないかという恐怖と、それからひどく申しわけのないことをしたのではないかというおびえの色が、その眼にあった。
 しかし、夫は蒼白い崩れた笑顔で追って、
「何をすると申して、おまえ、わしの女房ではないか。さ、こぬか」
「だって……」
 ずるずると、またひき寄せられ、夫のひざに抱きあげられた。主膳はお路の耳たぶを口でくすぐりながら、
「侍の夫婦じゃとて、遠慮することはないわ。わしに十平次をあまり羨ましがらせてくれるな。それ、わしがここへ手をかけると、腰がかるくあがるだろう。うむ、ふとったようでも、かるいからだじゃ。……」
「あれ、わるい冗談を……それでは、どうも……」
 夫の腕のなかで、お路は息をはずませ胴をくねらせながら、眼まいするような|昂《こう》|奮《ふん》と、なぜかひどくじぶんが堕落したような吐き気を感じた。それにしても、夫は、いつ、だれから、こんなしぐさをおぼえたのだろう?
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:22:32 | 显示全部楼层
     三

 何か、屋敷全体が甘美な|魔《ま》|窟《くつ》になったような数日がすぎた。
 そして、突然、お路はとりのこされた。主膳が急に彼女によそよそしくなったのである。お路はキョトンとした。からだはまだ熱をもっているようなのに、内部がからっぽになったような気がした。
 夫はいったいどうしたというのだ?
 その理由をお路が知ったのはそれからまもなくであった。
 その夕方、主膳は外出して、留守だった。どうしても十平次にたのまなくてはならない使いの用があって、お路は門のすぐ内側にある中間部屋へいった。するとなかで、なまめかしい女のあえぎ声がきこえたのである。
「ね、こうやって、背なかからしっくりと抱いておくれ。男はまた気が変っていいそうだけれど、女はどうも勝手がちがってじれったいわ。手のおきどころがないのにこまらあね。おまえさまのおかみさまは、よくあんなに鼻息もせずおとなしくだんまりでおいでなさる。ほほほ、いつか、そっちへいって、庭できいていたんだよ。まっぴるまから、雨戸をたててさ、にくらしい」
 お路は、ぎょっとして立ちすくんだ。声はまさにあの十平次の情婦お|紋《もん》だが、おまえさまのおかみさまとは?
「わたしは言いたいことを言ってさわぐほどさわがないと、どうも身にならないようだ。よう、舌のありったけ口へ入れてよ……ああ! さげすむならお|蔑《さげす》み、あたし、もうせつなくって、せつなくって! え、あいつがくるって、イヤイヤ、もうだれがきたって、雷さまがおちてもはなさないから、覚悟して!」
 そして、連続的な|濡《ぬれ》|紙《がみ》をたたくような音がした。
 お路の眼前に、障子のはまった格子の窓があった。そこに小さな破れがある。しかし彼女はそこに眼をあてることはできなかった。武家の妻としてのたしなみのせいばかりではない。――見なくてもそのうす汚れた障子に、あのムチムチした白い肌と、厚ぼったく濡れた|真《しん》|紅《く》の唇をもつお紋の|淫《みだ》らな肢態をアリアリとえがくことができた。が、お路の両足を|釘《くぎ》づけにしたのは、それより実に恐ろしいことであった。
 相手はだれだ?
 男の声はきこえない。しかし、妻としての本能が。――
 彼女の足が、立っていられないほどガクガクとふるえ出した。そんなことがあってよかろうか。あのひとは|外《そと》|出《で》からまだかえらないはずだ。……肩で息をつき、眼がくらんで、彼女はよろよろとたおれかかった。
 そのとき障子の向うでは、ながく尾をひく女のさけび声がきこえた。
 お路は耳を覆うと、よろめきながらにげ出した。一|刹《せつ》|那《な》、方角の感覚すら失って、思わず玄関を横に、空地の林のなかへかけこんだのである。
 安御家人でも屋敷は三百坪ほどあったが、むろん正確には林というほどのものでもない。五、六本ヒョロヒョロと雑木林が生えているだけだが、ふとその中に立っている人影をみて、彼女は棒立ちになり、眼をかっと見ひらいた。
 地にはもう|闇《やみ》が沈んでいた。が――|梢《こずえ》にかかる淡い夕月に、妙な光沢をおびた顔でこちらをじっと見つめているのは、なんと夫の主膳ではなかったか!
「旦那さま!」
 お路はとびついていって、その胸に顔をうずめた。
「わたしは……わたしは……」
 いま、途方もない考えちがいをしていたという訴えは声にならなかった。歓喜の激情が全身をおののかせ、背にまわされた夫の指の感触が火のように彼女の官能を|灼《や》いた。
「うれしい! 旦那さま!」
 泣きじゃくるような声をあげながら、このつつましい妻は、めずらしくじぶんの方からまるいあごをあげて、唇を夫の口へよせていったのである。
 その瞬間――彼女のからだを、|戦《せん》|慄《りつ》の冷たい|串《くし》がつらぬいた。夫の顔が死人のようなかたい冷たい光沢にひかって、ピクともうごかないのを見たのである。――が、その笑った眼にはおぼえがあった。
「おまえは!」
 絶叫して、とびさがろうとした。が、彼女の背にくいこんだ指は、彼女のからだを|籐《とう》のようにたわませただけで、解けようともしなかった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:23:08 | 显示全部楼层
    江戸の袈裟御前

     一

「十平次!」
 お路はさけんで、身をもみねじった。死物狂いにもがいて、相手をつきのけ、二、三歩にげたが、すぐにまたうしろから|羽《は》がいじめになった。
「わかりやしたかえ? 御新造さま」
 やはり、|中間《ちゅうげん》の十平次の声であった。しかし、その手は無遠慮にお路の乳房のまろみをさぐっていた。
「何をするのじゃ、放しゃ、十平次!」
 顔をねじむけて、彼女はまたぞっとした。
 まちがいなく、ノッペリした十平次の顔である。しかし、ほんのいま、夫主膳の顔に見えたのはどうしたことだ? |面《めん》? 異様な光沢があったが、あんな、夫そっくりの――|眉《まゆ》、|小《こ》|皺《じわ》、皮膚のいろまでまざまざと似た面があり得るだろうか。
「へへへへ、あっしがもちかけたわけじゃあない。御新造さまの方から、いきなり抱きついてこられたのではござりませんか」
「おまえ……その身なりはなんじゃ」
 やっとお路はそのことにも気がついた。十平次はいつもの紺の|半《はっ》|被《ぴ》に|柿《かき》|色《いろ》の三尺、|尻《しり》をはしょって、からっ|脛《ずね》に|草《ぞう》|履《り》をはいた中間姿ではなく、夫とおなじような――いやたしかに見覚えのある夫の黒紋付を|着《き》|流《なが》しに着ているではないか。錯覚したのは、たしかにそのせいもあったのだ。
「おまえ、そのような姿をして、あたしをだまそうとしたな」
「この姿? へへへ、これァきょう旦那さまから拝領したものなんで……ちょいとここでこれを着てオツな気分になってたところに、御新造さまが、うれしい、旦那さま! としがみついておいでになったじゃあゲエせんか。これァいよいよオツリキでゲスね」
「いやらしい、放さぬか、十平次、旦那さまに申しあげるぞえ!」
「御新造さま、あっしが、この御紋服を|頂戴《ちょうだい》したわけを御存じでごぜえますかえ?」
「…………」
「いま、中間部屋をのぞきなすったろう。お紋といい目をみていなさるのは旦那さまでゲシて――」
「もう御承知のことと思いやすが、お紋ってのアあっしの色おんななんです。てめえの色おんなを献上して、この|羊《よう》|羹《かん》|色《いろ》の御紋服を拝領するなんざ、十平次も見かけによらねえ忠義者でげしょう」
 あえぐお路の顔すれすれに顔をよせて、十平次は笑ったが、お路は相手の顔さえ|靄《もや》の中みたいにぼやけて、脳貧血を起したようになっていた。
「忠義ついでに、御新造さまにも忠義をつくさせていただきてえもので――御新造さま、あっしといちど色をして御覧なせえまし。失礼だが、へへっ、旦那さまとはでえぶちがう――とァ、お紋のせりふで、たとえば、さあ」
 というと、十平次はいきなりお路の小さな口を吸った。ふしぎなことに、お路はじっとしていた。いや、その実、衝撃のために半失神状態に陥っていたのだ。歯のあいだから、男の舌がおしこまれてきた。無意識のうちに、お路のからだをとろけるような感覚がつらぬいた。が、つづいて十平次の手が、一方でお路をあおむけにたおしかかり、一方で|両肢《りょうあし》のあいだをさぐりかけたとたん――彼女は、はっとわれにかえった。
「あっ」
 と、お路はさけんだが、はやくも十平次はそのうえにのしかかっていた。
「さわがねえでおくんなせえまし、それ、これが十平次の色指南。……」
 夕月ほのぐらい草の上に、|髷《まげ》のくずれたお路の髪が、からすへびのようにのたくった。ふいごのような男のあつい息から顔をそむけたお路の前に、髪からおちた|銀簪《ぎんかんざし》がキラリとひかってみえた。
 夢中だった。彼女はそれをつかむと、いきなり男の顔をめがけてつきあげた。
「うわっ」
 十平次は、のけぞって、はねあがった。とびのいて、顔を覆った|両掌《りょうて》のあいだから、月光に墨汁みたいなものがあふれおちた。
「や、やりゃがったな、やい、旦那もみんな承知のうえのことだぞ、それを、てめえ……」
 うめきながら、ふたたびとびかかろうとする十平次の片眼からながれる血潮の|物《もの》|凄《すご》さをみると、お路は、恐怖のために夢中ではね起きて、にげ出した。
 二、三度、立木にぶつかり、およぐようににげてゆくお路は、髪はみだれ、一方の肩はむき出しになり、まるで犯されたあとのようなむざんな姿であった。
 玄関から座敷にかけこむと、彼女は|箪《たん》|笥《す》から懐剣をとり出した。追ってきたらただ一刺しと身がまえたのである。「――旦那さま!」その声が出かかったのは、そのあとだった。すぐにその主膳は、中間部屋でお紋といっしょだということに気がついた。いや、そのことがあたまにいっぱいだから、じぶんはここににげこんできたのだ。いったい、どうしてこんなことになったのか?
 |跫《あし》|音《おと》はきこえなかった。夜の屋敷は、しーんとしていた。お路は世界じゅうに、じぶんひとりになったような気がした。そのとたん、すーっと全身から糸がひきぬかれたような感じがして、彼女はがっくりとまえにつっ伏してしまった。気力がつきはて、失神したのである。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:23:32 | 显示全部楼层
     二

 お路は、悪夢のつむじ風に吹きまわされていた。
 のしかかってくる十平次のノッペリとした顔だ。ふいごみたいな息づかいだ。それから、男と女のあえぎ声だ。「ああ! さげすむなら、お蔑み、あたし、もうせつなくって、せつなくって!」その声がいやらしい男の声に変る。「さわがねえでおくんなせえまし、それ、これが十平次の色指南。……」
 お路は、無意識に舌をうごかせた。じぶんの口の中におしこまれてきた十平次の舌のぬるりとした感じがよみがえったのである。恐ろしいのは、それより、そのとき彼女のからだをはしった吐き気のするような|恍《こう》|惚《こつ》感だった。わたしはそんなに淫らな女だったのか、わたしは十平次に犯されたもおなじことではないか。彼女は夢の中でさけんだ。「おゆるし下さいまし、旦那さま。……」
 十平次の幻影が、ふいに夫主膳の顔に変った。ああ、あのとき、一瞬ではあったが、暗い月のひかりに、十平次が夫の顔にみえたのはどういうわけだったろう? そして、十平次はたしかにいった。
「やい、旦那もみんな承知のうえのことだぞ。……」
 夫の顔が、また十平次に変った。十平次がじぶんを抱き、夫がお紋を抱いて、もだえている。黒いつむじ風のなかに、四人の男と女が、白いはだか姿でからみあって、グルグルとまわっている。お紋を抱いているのは、十平次か、夫か。わたしを抱いているのは、夫か、十平次か。……
「助けて下さい、助けて下さいまし――」
 旦那さま、という声は口の中できえたのに、お路は名を呼びかけられた。
「お路、お路」
 彼女は眼をひらいた。そして|行《あん》|灯《どん》のそばに、腕をくんで気づかわしそうにのぞきこんでいる人の姿を見出した。それが夫の顔だったのに、彼女は恐怖の眼を見ひらいたまま、しばらく声も出なかった。
「どうしたのじゃ? いったい――」
 お路は、じぶんが夜具の中にねかされているのに気がついた。
「どうした?――わたしは、どうしたのでございましょう?」
「それはこちらでききたいことじゃ。わしがかえってみると、そなたがここにたおれておる。びっくりして、寝かせてやったが、心配なので、ここにこうして坐っていたのだ」
 お路は、はじめてじぶんがあの着のみ着のままの姿であることと、夜具の外に懐剣がおちていることに気づいた。しかし、ぎょっとしたのは、何よりもいまの夫の言葉だった。
「かえってきた? 旦那さま、いつ――」
「さあ、もう夜半近かったであろうか。|藤《ふじ》|井《い》どののところで|馳《ち》|走《そう》になっての、ほろ酔いきげんでかえってみると、この始末じゃ。お路、病気か、それとも何か変ったことでも起ったのか、中間部屋に十平次もおらぬが――」
 お路はがばと起きなおった。みだれた姿もわすれて、
「旦那さま! 旦那さまは、ほんとに藤井さまのところへゆかれて、夜中にかえっておいでなされたのでございますか?」
「何をいっておる。そう申して家を出たではないか。うそだと思うなら、藤井どのにきいてみろ」
「けれど、けれど、夕方、旦那さまは中間部屋で――」
「わしが中間部屋で?」
「あのお紋という女と――」
「お紋と、わしが何をしていたというのか」
 お路は、絶句した。主膳の眼がひかってきた。
「お路、そなたは何やら、ききずてならぬことを申す。わしが中間部屋でお紋といっしょに寝ていたとでもいうのか。そなたはそれを見たと申すのか!」
「いいえ、それは見ませぬが……」
 お路は、急速に動揺してきた。じぶんは見なかった。しかし、何となくあれは夫だという感じがした。それから十平次も、「いま中間部屋で、お紋といい目をみていなさるのは旦那さまで――」といった。が、いまにして思えば、お紋のあの言葉づかいはどうしたものだろう? いかに安御家人でも、侍に町人の娘がおまえ呼ばわりするものだろうか? そういえば、あの十平次のいったことなど、とうていあてになるものではない。――けれど、それではあのとき、中間部屋にいた男はだれだろう?
「これ」
 恐怖の眼を宙にすえているお路の肩を主膳はつかんだ。
「そなたは気でもどうかしたのではないか。何があったのじゃ、申せ!」
 その顔は、この日ごろのどこか|無《ぶ》|頼《らい》の|匂《にお》いをおびた夫の顔ではなかった。ずっとまえの、まじめで真剣な夫の――厳然たる眼が、ひたとじぶんを見すえていた。ああ、あたしはやっぱり途方もない考えちがいをしていた! そう思うと、うれしさとくやしさが、全身をつきあげてきた。
「旦那さまがわるいのでございます!」
 一声そうさけんで、彼女は夫のひざに身をなげかけた。童女のような|嗚《お》|咽《えつ》に背を波うたせながら、
「旦那さまが、あの十平次などをつれておいでになったり、紋服をおやりになったりなさったので、こんなまちがいが起ったのでございます!」
「紋服? あれはばくち[#「ばくち」に傍点]のかた[#「かた」に傍点]じゃ。しかし――まちがいとは?」
 お路はぐいとひきあげられた。
「まちがいとは何じゃ。お路、そなたは十平次とどんなまちがいを起したというのじゃ?」
 はじめて、お路は|愕《がく》|然《ぜん》とした。じぶんはもとより、夫もまた潔白であったという感動のために、当然受けなければならないそんな疑惑が念頭をはなれていたのである。しかし、貞節で、|或《あ》る意味では、|稚《おさな》い武家の妻としては、それは当然な心理であった。
 主膳は、|凄《すさ》まじい眼で妻をにらみすえた。
「そうか、そうであったか。……そなたがここにたおれていたのを、はじめ医者を呼ぼうか呼ぶまいかと迷って、ついにやめたのは、実はそのことを案じていたればこそだ。……ううむ、|彼奴《きゃつ》、侍の女房を――」
「あなた、ちがいます!」
 お路は悲鳴のような声でさけんだ。
「わたしは潔白でございます。十平次めは、あたしをとらえて理不尽なふるまいに及ぼうといたしました。けれど、わたしは身をまもりぬいたのでございます。それだけは信じて下さいまし!」
「その姿でか?」
 主膳は口をゆがめて、血ばしった眼でお路のからだを見まわした。お路の一方の乳房はまる出しであった。
「彼奴、どこへ|逐《ちく》|電《てん》いたそうと、きっと見つけ出して、ぶッた|斬《ぎ》ってくれる!」
「斬って下さいませ! あの男を――けれど、|成《せい》|敗《ばい》あそばすまえに、あの男にきいて下さりませ! わたしの身の上に何のこともなかったことを――」
 お路は、夫にしがみついて絶叫した。主膳はうめくように、
「十平次めは、にげた。そなた、何として身の|証《あか》しをたてる?」
「身の証し――ああ! それがたてられるなら、どんなことなりと――」
 身もだえしながら、ふいにお路は、十平次に口を吸われたことを思い出した。悪寒が背すじを|這《は》った。思わず口ばしった。
「にくい、あんなことをして、にくいあいつ!」
 この場合、そのさけびが、夫にどんな反響を起すかを、彼女は悟ることができなかった。ふいに、けがらわしいものをふりはらうように、夜具のうえにつきたおされたのである。
 主膳は立ちあがって、妻の姿を見おろした。お路は、じぶんの胸も足もあらわになっていることを知っていたが、|哀《かな》しみと苦悩のために、ただあえぐばかりで、身づくろいする気力もなかった。
 ふいに主膳の眼に、どんよりとした雲がかかった。片頬がピクピクとひきつり、唇がゆるんで、みるみるあの自堕落な、虚無的な顔に変ってきたのである。
「ふう――身の証しをたてられるなら、どんなことをしてもよいと申したな」
 と、つぶやくと、お路のそばにかがみこんだ。
「これ、お路、あいつに口を吸われたであろう、この口を――」
 といって、美しいお路の口の中へ指をつっこんだ。
「ふむ、この舌をしゃぶられたであろうがな」
 お路は、ただ涙をながしているだけだった。主膳は依然としてどんよりと濁った眼でそれを見たが、
「そして、乳房もいじられたなあ。きゃつのことじゃ、そのくらいのことはしたであろうのう」
 と、乳房をもみねじった。お路は悲鳴をくいしばって、ほそい胴をくねらせた。
「彼奴は、どんな手つきで腹をなでた? 教えてくれい、お路、十平次めから受けた色指南を教えてくれい。……」
 妻のからだをもてあそび、いじくりまわしつつ、主膳は恍惚たる声だ。いつしか彼は夜具の上に坐ったまま、お路を抱きしめて、いつかのようにその口を吸っていた。
 くやしい! 疑いもはらさないでこんなことを! というせつない絶叫が、しだいにお路の心の底で鈍磨してゆく。青い眉をしかめ、白い指を夫の背にくいこませ、彼女はくやしさと愛欲のいりまじったすすり泣きをあげた。
 夫婦とはいえ、ふたりがこれほど狂熱的な|愛《あい》|撫《ぶ》をかわしたことはなかったろう。異常な設定と異常な心理からもえあがった情欲が、ふたりを獣のような|昂《こう》|奮《ふん》の|坩堝《るつぼ》に|熔《と》かしたのだ。|仄《ほの》かな行灯のひかりをあびて、ほとんど全裸にちかいお路は、白い蛇のようにのたうちまわった。じぶんの声が、中間部屋できいたお紋そっくりのあの恥ずかしい声であることを知りながら、お路はそれを天からふってくる音楽のようにきいた。
 ほんとうにつつましやかなこの武家の妻を、こう変えたのは夫の力だけであったか。そうではなかった。結局あの十平次のせいだ。すくなくとも、あの事件のせいだったといえる。泥のようにつかれはて、しびれた官能の底で、お路は「十平次の色指南……」とつぶやいた。唇は笑い、彼女は|嵐《あらし》のすぎ去ったあとのようなけだるい幸福感に|睡《ねむ》った。
 しかし、嵐は去りはしなかった。
 それから、どれほどの時刻がたったであろうか。唇をまたやさしく吸われて、彼女はまどろみの中でかすかに舌さきをうごかせてそれにこたえたが、急にふっと眼をあけた。舌が異様に冷たいものにふれたような感じがしたからだ。
 彼女はひしと夫にしがみついていた。ねむりにおちいったときのそのままの姿態であった。が、それは夫ではなかった!
 十平次だ。十平次が|枕《まくら》をならべて、じっと眼を――傷つけられたはずの眼には一点の血のあともなく、冷たく笑うように眼を細めた顔を彼女にむけていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:24:12 | 显示全部楼层
     三

 世の中でいちばん恐ろしい怪談は、お化けに|逢《あ》って狂気のごとくにげ出した人が、だれかに逢ってそのお化けの話をしたら、相手が「それはこんな顔をしていたか」といって顔をつるりとなでると、それがさっきのお化けだったという怪談だそうだが、そのときお路の受けた恐怖と衝撃は、まさにその怪談以上だったといってよい。
 何をさけんだのかわからない。裸体のまま、彼女は夜具の外へとび出した。
 十平次はけろりとした無表情のままそれを見つめて、なお大胆に寝たままであったが、お路がたたみの上の懐剣をつかむのをみると、さすがに|狼《ろう》|狽《ばい》して立ちあがり、背をみせた。
 ふすまを|蹴《け》たおして次の座敷ににげこむのを、夢中で追う。|闇《あん》|黒《こく》のなかで凄まじい|跫《あし》|音《おと》がもつれあったあと、雨戸にぶつかる音をきくやいなや、彼女はなかば狂ったようなからだをたたきつけた。懐剣がねもとまでつきとおった|手《て》|応《ごた》えと同時に、雨戸と、十平次と、お路は三重にかさなって、庭にころがりおちた。
 そのまま、お路の気が遠くなってしまったのもむりはないが、しかし、こんどはその時間はみじかかった。全裸の肌をなでる夜気の冷たさに、彼女は意識をとりもどしたのである。
 十平次は、身を横にねじったまま、死んでいた。夫とおなじように、これまた裸だが、まちがいなく十平次のノッペリした顔が、|苦《く》|悶《もん》に眼と歯をむき出して、月光にさらされていた。
 お路は裸身の冷えるにまかせて、それこそ氷の彫像みたいにそこに坐ったままであった。意識をとりもどしたといっても、なお理性の|麻《ま》|痺《ひ》がとけなかったのを、だれがむりだと思おう。彼女は気がちがう一歩手前だといってよかった。
 血まみれの懐剣が、彼女と十平次の|屍《し》|体《たい》のあいだに|凄《せい》|惨《さん》なひかりをはねている。――そのむかし、京の|袈《け》|裟《さ》|御《ご》|前《ぜん》はおのれに邪恋をしかけた男に、じぶんを夫と錯覚させて殺害されたが、この貞節な江戸の袈裟は、おのれに邪恋をしかけた男を夫と錯覚して、身を汚されたあげく殺害してしまったのである。
 何かが狂っている。――何が? それは彼女自身であるというよりほかに解釈のしようがない。
 なぜ十平次を夫と錯覚したのか。あの秘戯に狂った人間が十平次だったとは信じられない! 信じられないが、もしあれがほんとうの夫であったなら、それがいつのまに十平次に変っていたのか。そして、見よ、十平次の片眼からは――きのうじぶんが|簪《かんざし》でつき刺した傷からは、凄まじい血しおがながれおちて、黒々とこびりついているではないか。――
 お路は、いまは恐怖すらもおぼえなかった。昨夜のことも、きのうのことも、いやいや、ずっとまえ十平次が中間としてこの屋敷にあらわれたことすらも、すべてこの世に存在しない恐ろしい夢だったような気がした。そして、眼前に横たわっている一個の|屍《し》|骸《がい》さえも。
「おうい、十平次、十平次はおらぬか。――」
 遠くからの呼び声に、彼女はわずかにあたまをあげた。
「御主人さまの御帰館だぞ。女房どの、お路」
 主膳だ。酔っぱらった夫の声であった。|跫《あし》|音《おと》が、|蹌《そう》|踉《ろう》と門からこちらに入ってくる。
 お路はもはやおどろきもしなかった。そんな強烈な機能はもう彼女の心から失われていた。彼女は黒髪をみだした全裸のまま、全裸の男の屍骸のそばに、ボンヤリとうずくまりつづけていた。

 ――女囚お路の話は終った。
 これが、夫の不在中、|女蕩《おんなたら》しの折助の誘惑にまけて密通し、夫の帰宅にあわてて|姦《かん》|夫《ぷ》を殺してしまったという罪で、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される御家人の妻の物語であった。
 もう夜明けにちかい。やがてまた例の「朝声」がかかることだろう。微光のさしてきたおんな牢のなかに、くびもおれるほどうなだれたお路のひざに、滴々と涙がおちている。
 みずからの罪をみとめ、死を覚悟したその哀れな女の姿を、姫君お竜はじっとながめていた。
「そう」
 と、お竜はつぶやいて、ちょっと絶望的な|溜《ため》|息《いき》をついたが、すぐに顔をふりあげて、
「もうすこしききたいことがあるわ、お路さん」
「なにを?」
「それじゃああなたは、二度旦那さまと思ったひとが、実は|中間《ちゅうげん》だったという変な目にあったわけね?」
「はい、わたしはどうしてそんなことになったのかわからないのです。……」
「そして、一度めに中間の眼を簪で刺したのに、二度めに見た中間の眼はぶじだった。……」
「でも、三度めに見た死顔は、やっぱり眼から血をながしていたのです。わたしの眼がどうにかなっていたのです。いいえ、あたまも……」
「それで、旦那さまはやはり何も御存じないの?」
「はい。……もし人殺しなどしなければ、何とか内輪で事をおさめてつかわしたものを、と泣いてくやんでくれました。去り状をいただいたのも、わたしから申し出たことです」
「そのお紋という女のひとは?」
「どうなったのか、存じません」
「お紋さんのお父さん、何ていったっけ? 何だか変な名だったわね?」
「死顔の蝋兵衛。……」
 お竜はまただまって考えこんでいる風だった。――朝がきて、例の餓鬼地獄のようなモッソウ飯のうばい合いのさわぎにも入らず、ひとり羽目板にもたれて坐りつづけていたが、やがて、指を口にいれて、ヒューッとひくく口笛を鳴らしたのである。
 すると――格子の外に、あの八丁堀の同心の影が立った。
「武州無宿お竜、早々|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ|罷《まか》り出ませい!」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:24:36 | 显示全部楼层
    死顔の蝋兵衛

     一

「あの、人形師の蝋兵衛さんのお宅はこちらでしょうか」
 上野の寛永寺にちかい御切手町の、とある長屋の一軒を、こういってたずねてきたひとりの町娘がある。
 そこにたどりつくまえに、ちかくの家で彼女は三度ばかり、その蝋兵衛の住居や人柄についてきいてきた。
 最初にきいた大工は、その長屋の場所をおしえたのち、
「へえ、死顔の蝋兵衛さんのところへゆく? おまえさんみたいな若い娘があの仕事場に入ると、眼をまわすぜ。そりゃあ、うすッきみのわるい人形がならんでるから」
 と、くびをすくめていった。
 次にきいた|桶《おけ》|屋《や》は、あたまをかしげて、
「爺さん、いるかな? もともと恐ろしい飲んだくれだが、娘がお旗本のお|妾《めかけ》か何かになって、その方から銭が入るとみえて、去年の秋ごろからもうしらふ[#「しらふ」に傍点]でいるのを見たことがねえぜ。人形が註文なら、よしたがいい。だいいち、今は作ってはいねえようだ」
 と、吐き出すようにいった。
 三番めにきいた|煎《せん》|餠《べい》|屋《や》のおかみさんは、
「さあ、爺さんはいるかいないか。そうそう、さっき娘のお紋ちゃんがジャラジャラした身なりで|駕《か》|籠《ご》からそこで下りたから、ひさしぶりにかえってきたのだろう。用があるなら、その娘さんに逢ってみな」
 と、七輪を|団扇《うちわ》であおぐ背を見せたままいった。
 そして、その女は、蝋兵衛の家のまえに立ったのである。「人形師の蝋兵衛さんのお宅はここか」ときかれて、奥からくびを出したのは、当人ではなくて二十四、五の女だった。まるで|掃《はき》|溜《だめ》におりた|孔雀《くじゃく》みたいに|濃《のう》|艶《えん》な女だが、どこか|頽《たい》|廃《はい》の色がある。
「何か用?」
「あの、人形を作っていただきたいのです」
「おあいにくさま、いまは仕事はよしているのさ」
 客を客とも思わない、けんもほろろの応対だったが、その註文にきた町娘のあまりの美しさに、ふいと好奇心をうごかしたのだろう。
「人形って、どんな人形?」
「あたしの人形なんです」
「え?」
「あたしそッくりに似た人形。蝋兵衛さんはその名人だときいてきたんですけど」
「そんなものを作って、何にするのさ」
「あたしね、ちかいうちにお嫁にゆくんです。それをかなしがって、死にそうなひとがひとりいるものだから、代りにあたしそっくりの人形をかたみ[#「かたみ」に傍点]に残していってあげようと思って――」
 蝋兵衛の娘がニヤリとしたとき、奥で舌のもつれた老人の声がきこえた。
「お紋、酒はどうした。もうないぞ」
 徳利をふってわめいている気配だ。
「あいよ、いますぐ――お父っさん、客がきてるんだよ」
「客? 仕事はしねえぞ、追っぱらえ」
「わかってるよ、ね、おまえさん、おききのとおりだ。お奉行さまの御註文ならともかく、もう人形は作らないってのが、お父っさんの口ぐせなの。わるいけど、あきらめてかえっておくれ」
「お奉行さまの御註文ならともかく?――なぜお奉行さまなら?」
「なに、この冬酔っぱらって|鑿《のみ》で人をひとり片輪にして町奉行所のお|白《しら》|州《す》にひっぱり出されたとき、大岡さまが大目に見て下すったからさ。だからそんなことをいうんだけれど、まさかお奉行さまが人形を註文なさるわけもないから、つまりもう仕事はしないってことさね」
「そう。……わかりました。残念だけれど、それじゃあかえります」
 と、娘はがっかりした様子でかえっていった。
 その翌日である。この長屋に驚天動地の|椿《ちん》|事《じ》が|出来《しゅったい》した。
 路地の外に豪華な|鋲打黒漆《びょううちくろうるし》の駕籠がとまったのである。それに|紺《こん》|看《かん》|板《ばん》|梵《ぼん》|天《てん》|帯《おび》の|中間《ちゅうげん》が三、四人ついているばかりか、黒い紋付の|捲《まき》|羽《ば》|織《おり》に、刀とならべて朱房の十手をさした八丁堀の同心が従って、小|銀《いち》|杏《よう》にゆったあたまをさげると、乗物の中から、ひとりの姫君があらわれた。
 あっとばかり眼をむいて、猫まで長屋の中へにげこんだ路地のあいだを、その姫君は、同心をさきに、中間をしたがえて、しずしずと奥へあゆんでいく。
 そして、秀麗な同心は、人形師蝋兵衛の|陋《ろう》|屋《おく》の戸をたたいた。
「たのむ」
 出てきたお紋は、はっと顔色をかえて、両手をつくのも忘れ、ワナワナとふるえ出した。
「いや、恐れるでない。われらが参ったのは、蝋兵衛に人形を作ってくれるよう、依頼に参ったのだ」
 腰がぬけたようにお紋がひざをついたとき、奥で呼ぶ声がした。
「お紋、客か、どんな客でも追っぱらえ」
「お父っさんは、あの始末で――」
 と、おろおろとお紋がわびにかかるのを、
「御依頼に相成るのは、大岡越前守さま御息女|霞《かすみ》さまであらせられる。そのため、姫君おんみずから、当家へおはこび遊ばしたから左様心得ろ」
「なにっ、大岡越前守さま?」
 すッとんきょうな声とともに、奥からひとりの老人がかけ出してきて、そこにベタリと腰をついてしまった。もう髪はまっしろで、かまきりみたいに|痩《や》せた老人だ。
 同心のうしろから、しずかに姫君がすすみ出た。
「越前守娘、霞です」
 お紋の表情といったらなかった。偽眼のように眼をひらき、口をあけて姫君の顔を見たっきり、卒倒せんばかりの様子だ。
 霞はすました顔で、
「両人、左様に恐れ入っては、かえって痛み入る。霞はただの客としてきたのです」
 といって、愛くるしく笑った。蝋兵衛は肩で息をしながら、
「して、御用の趣きは?」
「わたしそッくりの人形を作ってもらいたいのです。蝋兵衛はその名人ときいて参ったのじゃ」
「姫さまそッくりの人形?」
「されば、わたしは近いうち縁づかねばならぬ。それゆえ、かたみにわたしそッくりの人形を父上さまにさしあげてゆきたいのです」
 蝋兵衛は、顔をあげて、じっと姫君を見つめた。しぼんだ|眼《がん》|窩《か》のおくに、徐々に青い|燐《りん》のようなひかりがともってきた。
「あい、ようがす!」
 と、彼は大きくうなずいた。
「あなたさまの人形――たとえ大岡さまの姫さまでなくったって、あなたさまなら作って進ぜます。いや、作らせて下さりませ! おお、ひさしぶりに、これほど美しい娘御をみて、どうやら仕事をしたいという心が、むらむらとわいてきた!」
 そして、お紋をふりかえった。
「やい、お紋、酒を片づけろ、そして、汚ねえが、姫さまを仕事場にお通ししろ。お顔の型をとらなきゃならねえ!」
 その声には、いままでの酔ったしどろなもつれはあとかたもないばかりか、生き生きとした壮者のひびきすらあった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:25:04 | 显示全部楼层
     二

 中間たちを外に待たせ、姫君は同心をつれて、人形師蝋兵衛の仕事場に入った。
 仕事場――といっても、二部屋しかない家の六畳を板敷にして、本人が汚ないといったとおり、破れたあぶら障子からこぼれる西日に、浮かびあがった|床《ゆか》は、|惨《さん》|澹《たん》たるものであった。
 かたくなった粘土のかたまり、何やらの形が半分ばかり出来た木彫、絵具皿、筆、|鑿《のみ》、小刀、|砥《と》|石《いし》、紙きれ、布のきれはしから髪の毛までちらばって、それにいたるところ|蝋《ろう》|涙《るい》がおち、ながいあいだ仕事を休んでいた証拠はいかにも歴然として、おそろしい|埃《ほこり》がたまっている。
 しかし、姫君と同心は、壁ぎわをみて息をのんだ。そこに等身大の人形が三つ四つならんでいた。町娘と坊主と老人だが、その皮膚の色、|皺《しわ》から|眉《まゆ》|毛《げ》まで、もしそれが埃をかぶっていなかったら、まったく生きている人間としか思えなかった。人形ばかりではない、壁に七つばかりの|面《めん》がかかっていた。その面もまたまるで人間の顔をはぎとってきたようにみえる。しかし、そのなかに一つ、お紋の顔があったが、そのお紋がそこに|茫《ぼう》|然《ぜん》と立っているのをみればわかるように、みんな細工物なのである。
 それは、かえって生きている人間よりも恐ろしい|観《み》|物《もの》であった。いや、おそらくもっとぶきみな|死《し》|人《びと》は数々見てきたであろう同心が、さすがに顔色を|蒼《あお》くしたくらいだから、死人よりも気味がわるかったといえる。
「おう、神わざじゃ。……」
 と、霞は口の中で、恐怖と感嘆の声をもらした。
「蝋兵衛工夫の蝋細工でござります。……」
 と、老人は誇りにみちた表情で、うす笑いをうかべた。
 蝋細工――現代でも、医科大学や博物館や飾窓の標本や模型で、それがあまりにも真に迫っているためにわれわれをはっとさせるあの蝋細工の、蝋兵衛は江戸のかくれたる創始者であり、研究者であり、達人だったのである。元来彼の本名は|呂《ろ》|兵《べ》|衛《え》というのだが、しばしば死人のデスマスクをとったので、人々はいつしか死顔の蝋兵衛と呼んだ。もっとも彼は、現代の蝋細工で使う|石《せっ》|膏《こう》のかわりに寒天を使用して型をとった。しかし、大量生産は出来ないかわり、それははるかに精妙な作品を生んだ。
 顔の型をとられたあと、霞はもういちど壁ぎわの人形を見つめていった。
「蝋兵衛、そなたはそれほどの腕をもちながら、なぜ仕事をしないの?」
 蝋兵衛は、じろりとうしろのお紋を見てこたえた。
「左様でござります。蝋面を悪用する奴がござりまして」
「なに、蝋面の悪用? どんな?」
 この姫君のあどけない魅力は、ふっと人の口を素直にとく魔力のようなものをもっている。うっかりこたえて、老人ははっとしたらしい。
「いや、ここまでくるには、いろいろと……それに、ごらんのように年もとりましてな、だんだんと|根《こん》がなくなってきたせいもござります」
「そう。でも、もったいないわね」
 と、姫君はあっさりといった。
「毎日、使いのものをよこして、仕事の様子を見にこさせるから」といって、姫君の一行が立ち去ったのは、もう|黄《たそ》|昏《がれ》のころだった。
 家のまえの地べたにひざをついて見送った蝋兵衛|父《おや》|娘《こ》のうち、お紋の顔色は鉛のように変っていたが、路地の外の乗物があがって、消えると、フラフラと立ちあがった。
 じっと立ってかんがえていたが、老人が家の中へ入ったとき、やっと、
「はてな」
 と、つぶやいた。
「あれは、どうみても、きのうの町娘。……でも、お奉行さまのお姫さまがあんな身なりをしてやってくるわけもなし、といって、まさかいまのがお姫さまのにせものであるはずがない。それに、いくら|大《だい》それた人間でも、八丁堀の同心まで化けさせるなんて……」
 そして、|裾《すそ》をからげて、足早やに往来へかけ出した。
 お奉行さまの姫君をのせた乗物をかこむ一団は、しばらく山下の方へすすんだ。下谷広小路の方へ出るのかと思っていると、途中でふいに左に折れて、細い路地に入った。そして、|幡《ばん》|随《ずい》|院《いん》だの広徳寺だのいうお寺がたくさんならんでいる寂しい土塀のあいだにとまった。
「…………?」
 塀のかげにかくれて、お紋はじっとこれを見ていた。何のこともない。駕籠はすぐにあがって、もとのように同心や中間にかこまれて、向うへきえていった。しかし、そのあとに、|忽《こつ》|然《ぜん》と|宵《よい》|闇《やみ》からわき出したように立っている影がある。
 影はしとしととこちらにあるいてきた。お紋はにげようとしたが、あまりの奇怪さに足がすくんで、うごけなかった。それに数歩の位置まで近づいたとき、相手が女だとわかったので、にげるのをやめた。もともとお紋は、娘のころから父親泣かせの不良少女だったのである。
 |黄《たそ》|昏《がれ》のひかりに、土塀の角ではたと顔をあわせ、
「あっ、おまえは!」
 と、お紋はさけび声をたてた。
 相手は二、三歩身をひいて、お紋をみたが、あまりびっくりした様子もなく、にっこりして、
「まあ、蝋兵衛さんとこの……」
 と、いって、おじぎをした。
「きのうはどうも」
 しゃあしゃあとした顔だ。みればみるほどいまのお姫さまとおなじ顔だが、しかし全然別人のようにも思われる。あたまは文金高島田から|櫛《くし》|巻《ま》きになり、きものも町娘風に変っている。だいいち、おなじ人間で、こんなにケロリとしていられるものではない。――とお紋はひどい混迷をおぼえながら、おし殺したような声で、
「おまえさん、いまここを町奉行の娘の駕籠がいったのを見たろう?」
「へ? あれが町奉行の駕籠?」
「町奉行の娘の駕籠だよ!」
「なんだかしらないが、駕籠がきたので、あたし土塀の根ッこにかがんでかくれてたんですよ。へえ、あれがそうですか」
 お紋は、穴のあくほど娘の顔をにらんで、
「かくれた? なぜさ?」
 娘はからだをくねらせて、
「実はあたし、小伝馬町の|牢《ろう》から出てきたばかりなので、まだ風の音にもおっかなびっくりっていう始末なの」
「なんだって、小伝馬町の牢から?」
 お紋はかんだかい声をはりあげた。事はいよいよ意表に出る。
「それじゃあ、きのううちへきて、お嫁にゆくから身代りの人形をつくってくれといったのは、ありゃあうそだね?」
「あっ、ばれちゃった! すみません、実はそうなんです」
「じゃあ、なんのためだい?」
「ひともうけの口なんですよ」
「うちのお父っさんの人形が、どうして?」
「蝋兵衛さんのことを、|相《あい》|牢《ろう》だった女のひとからきいたの。蝋兵衛さんに、人間そっくりの蝋面か蝋人形をつくってもらってね、飯田町の祖父江主膳という|御《ご》|家《け》|人《にん》のところにもっていって、この人形に色指南をしてやって下さいとたのんだら、向うじゃあきっとその人形の代金の倍はよこすからって――」
「相牢だった女――」
「あのひと、たしか、お路といったわ。……」
 夕闇のためよく見えなかったが、お紋の顔色こそ見ものであった。
 しかも、この恐ろしいことをさも面白そうにしゃべる女の、なんと底ぬけに愛くるしいことだろう。こいつは、どこまで知っていて、わたしにむかってこんなことをしゃべるのか。わたしという女が、祖父江の|妾《めかけ》であることを知らないのか?
「でも、蝋兵衛さんのおことわりをくっちゃって、がッかりしたわ。ね、あなた、蝋兵衛さんのおうちの方でしょ。もういちどおねがいしてみて下さらない?」
 お紋は歯のカチカチと鳴るのを必死でおさえようとしたので、妙にひらべッたい声を出した。
「おまえさん、なんという名前なの?」
「おはずかしいけれど、姫君お竜っていいますのさ」
「姫君お竜――」
 お紋のあたまを、すうっとまたさっきの町奉行の姫君の姿がかすめた。なんだかよくわからないが、全身が冷たくなる感じである。
「女泥棒ですよ」
 お竜はにっとして、
「と、ここまで打ちあけた上は、ね、あたしのおねがいをきいて下さるの、下さらないの。それがだめなら、いそいでほかにかせぎの口をみつけなくちゃあ、今夜のおまんまにもさしつかえる境涯でござんすからね、見込みのない仕事に、いつまでもみれんたらしくかじりつかないのがあたしの気性で、それじゃあ、ここでおさらばと――」
「待って」
 と、お紋はあわてて、お竜の|袖《そで》をひきとめた。
「あたし、その祖父江って御家人を知っている。蝋人形など、うちのお父っさんにたのんだら、いつのことだかわかりゃしない。それより、手ぶらでいいから、あたしといっしょに飯田町へいって、いまの話をすりゃあ、それだけできっとあいつ金をよこすよ」
 こういうせりふが、一種の白状になっていることをお紋は感づかない。いや知っていても、焦燥のためによくかんがえてはいられない。この女をにがしてはたいへんだ、首に|縄《なわ》をつけてもひっぱってゆかなければならないという意識のために、お紋は必死だった。
「おまえさん、すぐにこれから飯田町へゆかないか?」
 女風来坊は、あやしむそぶりもみせず、にこにこしていった。
「へ、あなたもいっしょにいってくれるんですか? そしてすぐお|銭《あし》になるの? ありがたいわねえ」
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