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楼主: asuka0226

[好书推荐] [山田風太郎] 忍法帖系列 おんな牢秘抄

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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:35:55 | 显示全部楼层
     三

 まだ|人《ひと》|気《け》もない夜明けの町を、お関は半病人みたいにかえってきた。
「お関さん」
 ふいに呼びかけられて、顔をむけ、お関は眼を見はった。家の門口に、ボンヤリと千代吉が立っていた。
「またお前さんがいねえと婆あがいうんだ。心配でならねえものだから、ここで待っていたんだが……」
 その顔の蒼白さは、心配ばかりではない。たしか千代吉は、お関がうちを出るまえ、高熱でウンウンうなっていたはずだ。――しかし、そのこともわすれて、お関は夢中で、わっと泣きながら、千代吉の胸にとびこんだ。
「お関さん、どうしたんだ」
「千代吉、くやしい!」
 身もだえするお関の髪はみだれ、きものはズタズタに裂けている。むき出しになった蒼白い肌を抱いて、ためらうよりも、千代吉はふるえ出した。
「こ、この姿は――お関さん、ど、どこへいってたんだ」
「あの、山伏のところへ」
「そ、そして、何をされたんだ?」
「ち、千代吉! あたし、死にたい!」
 しがみつくお関を、千代吉はいきなりつきとばした。あおむけにひっくりかえったお関は、生まれてはじめて千代吉の恐ろしい顔をみた。しどけないお関の姿を、かっとにらんでいる千代吉の眼は、憎悪の火にもえていた。
「ち、ちくしょう!」
 彼はうめくと、身をひるがえして、家の中へとってかえし、すぐにとび出してきた。その手に、|出刃庖丁《でばぼうちょう》がにぎられている。
「あたしを殺すの、千代吉、ええ殺して!」
「お前さんを殺すのは、あいつをやっつけてからあとのことだ」
 裾をまくってかけ出す千代吉のうしろ姿を、|茫《ぼう》|然《ぜん》として見送っていたお関は、すぐに「あいつ」とは誰のことかと気がついて、
「あ、待って!」
 と、さけびながら、そのあとを追った。
 待って、といったのは、玄妙坊を殺すなという意味ではなかった。千代吉の|憤《ふん》|怒《ぬ》をみて、彼女の心にも炎のような殺意がたぎってきた。そうだ、殺しておくれ、千代吉、あいつを殺しておくれ!
 ところで、千代吉が|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》みたいにはしってゆくのは、白山権現とは逆の吉祥寺の方角だった。これはまだお関が白山にいってきたとはいっていなかったから当然で、お関はそのことに気がついたが、すぐに玄妙法印がもう権現の森にいるわけはない、きっと寺にかえっていると考えた。
 その玄妙法印を見出したのは、あの山伏寺の石段の下であった。どこからかかえってきた|駕《か》|籠《ご》がそれとは気づかず、千代吉は石段をかけあがろうとしてよろめき、肩で息をしたとたん、その駕籠から出てきた人間の姿に眼をやって、彼は立ちすくんだのである。
 真っ白な|頭《ず》|巾《きん》をかぶった男――玄妙法印その人にまぎれもない!
「いやがったか!」
 絶叫して、千代吉は出刃庖丁をふるっておどりかかった。
 突然のことで、玄妙坊は「あっ」と悲鳴をあげて身をそらしたが、ふりおろした庖丁にかすめられて、頭巾がさっと裂けた。が、頭巾を裂いただけで、千代吉は駕籠にぶつかった。庖丁は駕籠の屋根にくいこんだ。
 千代吉が庖丁をぬくのと、うしろから駕籠かきのひとりが、「野郎っ」とわめいてくみついたのが同時であった。庖丁は千代吉の手からはなれて、大きくうしろへとんだ。
「なんだ、うぬは――」
 駕籠かきがねじ伏せた千代吉を、もうひとりの駕籠かきが、|息《いき》|杖《づえ》でなぐりつけた。千代吉はもがいたが、すぐに地に|這《は》った。彼はまだ高熱のある病人だったのだ。
「狂人か?」
 玄妙坊は、あきれたようにその姿を見おろして、
「たわけた奴じゃ。自身番へつき出せ」
 と、冷たくいいすてて、片手で裂けた頭巾をおさえ、石段をのぼりにかかった。
 十|間《けん》ほどおくれてはしってきたお関が、その庖丁をひろいあげた。しかし玄妙坊も、千代吉をなぐりつづけている駕籠かきも気がつかなかった、いや、跫音にふりむいたが、そのときお関は庖丁を|袖《そで》のかげにかくしていたし、十六、七の小娘なので、意にも介しなかったようだ。
 じぶんをちらっと見ただけで、そしらぬ顔で石段をのぼってゆく玄妙坊に、お関の血は逆流した。そのくせ、あの声が、あたまのおくを暴風のように吹きすぎたのである。「五たび、血はながれる。……その血をながすことによって、お前は悪い星からまったくのがれることができるのじゃ。その血をながすものが|誰《だれ》であろうと……娘、おそれずに、その人間から血をながさせろ。……」
 石段を四、五段のぼった玄妙坊は、はしりよってくるお関をもういちどふりむいて、
「うぬも、何じゃ」
 と、いったが、こんどは身をかまえもしなかった。そのわきばらに、お関はいきなり出刃庖丁をつきとおした。
「わあっ」
 ひっ裂けるような声をあげ、玄妙法印は石段の下にころがりおち、のたうちまわった。血の海のなかに、頭巾がいっそう大きく裂けて、顔がむき出しになった。
 ふたりの駕籠かきは、あっけにとられたようにこれをみていたが、玄妙坊の顔がみるみる|藍《あい》|色《いろ》に変ってゆくのをみると、奇声をあげてとびあがり、
「人殺しっ……人殺しだあ」
 と、さけびながら、息杖もほうり出し、こけつまろびつにげていった。
 それをちらっとみて、お関はつぶやいた。
「これでよかったんだわ。……千代吉が人殺しにならなくって、よかったわ。……あたしが殺すのがほんとうだったんだわ。……」
 その手から、血まみれの庖丁がおちた。
「きっと、これからいいことがあるでしょう。……」
 夢遊病みたいなまなざしで、お関は見おろした。玄妙法印は息絶えていた。
 意外なばかりに若い顔だ。まだ二十代だろう。しかし総髪にして、|頬《ほお》|骨《ぼね》のとび出した顔は、みるからに|奸《かん》|悪《あく》そうで、そして――おのれの予言のとおり、五番めに血とともに|生命《いのち》をもながし出してしまったこの教祖のひたいには、「玄妙」と彫った|刺《いれ》|青《ずみ》の文字があった。

 ――女囚お関の話は終った。
 これが、|淫祠邪教《いんしじゃきょう》にまどわされ、身をけがしたあげく、正気をうしなってその教祖を殺害し、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される迷信ぶかい少女の物語であった。
「それで、千代吉はどうして?」
 と、お竜がきいた。
「死んだの」
「え、死んだ?」
「熱があるところに、またひどくぶたれて……それより、あたしが人殺しになってつかまったので、それがひどくこたえたらしいの。医者もうけつけず、御飯もたべず、やせおとろえて、あたしがつかまってから三日ほどのち、お関さんのばか、お関さんのばかといいながら、死んじまったそうよ。……あたし、ほんとにばかだわ、五番めの血がながされても、星はちっともよくならなかったけれど、それがあたりまえだわ……」
 |夕《ゆう》|闇《やみ》のせまってきたおんな牢のなかに、くびもおれるほどうなだれたお関のひざに、滴々と涙がおちている。
「あの銀かんざしは、いつか千代吉が買って、そっとあたしにくれたものなの。……」
 おさない悲恋の想い出のみを|可《か》|憐《れん》な胸にいだき、死を覚悟したその哀れな少女の姿を、姫君お竜はじっとながめていた。
「そう」
 と、お竜はつぶやいて、ちょっと絶望的な|溜《ため》|息《いき》をついたが、すぐに顔をふりあげて、
「可哀そうに、お関さん。……でも、それで死罪や|斬《ざん》|罪《ざい》になるのは、すこしあんまりじゃない? わるいのは、あなたを迷わせ、乱暴をしたその玄妙法印なのだから、それをお奉行さまはくんでくれなかったのかしら?」
「それが、玄妙法印はあたしに何もしなかった――するはずがない――と、弟子の玄光坊がお白州で申したてたの」
「え、どうして?」
「あたしが白山の森の中であんな目にあった夜、玄妙法印はずっとよその|或《あ》るうちにいた――というんです」
「どこに?」
「よそにお|妾《めかけ》がかこってあったというの」
「へえ? そりゃへんだわね、それがほんとだとしたら、たいへんなことだわ、それは……」
「あたしには、そんなことは信じられない! でも、それどころか玄光坊は、最初あたしを|祈《き》|祷《とう》したこと、千代吉がわけのわからぬいいがかりをつけにきたことはおぼえがあるが、あとは、あたしなど、いっさい知らないと申したてたんです」
「すると――森の中の予言はもちろん、犬を刺したり、乾坤堂を金剛杖でぶったことも知らないというのね」
「そうなの……ひどいわ……」
「それじゃあ、乾坤堂さんに|証《あか》しをたててもらえばいいでしょ? 乾坤堂さんはどうしたの?」
「それが、あれっきり姿をあらわさなかったんです。あのとき、ひどく苦しがってたから、病気になったのか、それともあたしが人殺しなどしてしまったので、かかりあいになるのがこわくなっちまったにちがいないわ」
「それだって……それもあんまりだわ」
「しかも乾坤堂とあたしがそんな縁だったということを、ほかに知っているのは千代吉だけだったんです。その千代吉は死んじまって、この世にいない。……」
 お関はたえいるように泣いた。
「あたしが、最初、おっかさんを呪い殺そうとした娘だということが、お奉行さまのお心をすっかりわるくしてしまったらしいの。あたしのいうことは、何も信じてくれないの。……それに、何にしても、あたしが玄妙法印を殺したことにまちがいはないのだから!」
 お竜はだまって、波うつお関の背をなでていたが、ふっと、
「それで、玄々教はその後つぶれてしまったの?」
「いちじ、しずかにしてたそうだけど、こないだ入牢してきたお|縫《ぬい》さんにきくと、こんどは玄光坊をかしらにして、また山伏寺で祈祷をしているらしいわ」
「そう」
 お竜は、壁にもたれて、かんがえていた。
 ――その翌朝、女囚たちは、美しい口笛の音をきいた。そして、牢の外に、同心の姿がまたあらわれた。
「武州無宿お竜、|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ|罷《まか》り出ませい!」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:36:33 | 显示全部楼层
    娘占い師

     一

 ――山伏寺の庭には、白日の下にえんえんと|薪《たきぎ》がもえていた。
 その炎のまわり――本堂の廻縁のあたりから、鐘楼、山門、石段まで群衆がにえこぼれて、みんな|蜘《く》|蛛《も》みたいにひれ伏している。それが、いっせいに、のど[#「のど」に傍点]のおくで、|蜂《はち》のようなうなりをあげている。アビラウンケンソワカ――アビラウンケンソワカ――アビラウンケンソワカ――|南《な》|無《む》|蔵《ざ》|王《おう》|権《ごん》|現《げん》。……
 ――一年前とおなじ光景である。去年の初夏のころ、この寺にこもる玄々教の教祖玄妙法印が、|市《し》|井《せい》の一少女の発作的兇行で不慮の死をとげ、それを機に彼が町に妾をかこっていたことがばれたり、弟子たちが奉行所によび出されて糾明をうけたりして、いちじ信仰の火もおとろえて門前|雀羅《じゃくら》を張っていたのが、また一番弟子の玄光坊を二代目の教祖として、以前とおなじ不可思議な法力をみせたり、|凄《せい》|絶《ぜつ》な|呪《じゅ》|法《ほう》を行うようになってから、また信者のむれが雲集しはじめたのだ。
「ええいっ」
 突然、大きな声がして、もえる松の薪をかこむ|注《し》|連《め》|縄《なわ》がぱっと切りおとされた。
 |折《おり》|頭《ず》|巾《きん》をかぶり、鈴掛をき、|袈《け》|裟《さ》のうえから|念《ねん》|珠《じゅ》をたれた|修《しゅ》|験《げん》|者《じゃ》は、戒刀を|鞘《さや》におさめると、おごそかに九字をきり、はだしの足をあげて、熱火の上をふみわたりはじめた。去年まで、これは左耳の下に小さな|瘤《こぶ》のある玄光坊の|行《ぎょう》であったが、彼が新教祖になってから、いまはべつのもっと若い、しかし同様に|精《せい》|悍《かん》な山伏がこの恐るべき法力の具現者であった。
 ――突然、炎の上の修験者の足がとまった。ほんの二、三度まばたきするほどのあいだであったが、
「|熱《あつ》っ」
 彼は|灼熱《しゃくねつ》の鉄板であぶられるいなご[#「いなご」に傍点]のようにはねあがって、浄火の中からむこうへとんだが、そのまま足をかかえて、うずくまってしまった。
 何百人かの信者たちは、はっと眼を見はったが、だれも身うごきしなかった。こんなことはいままでになかったし、判断を絶したのである。それに波のような呪文のコーラスがながれていて、いまの悲鳴をきいたものもほとんどいなかった。さらにまた、彼は次の瞬間、ばね[#「ばね」に傍点]みたいに立ちあがって、いつものように|法《ほ》|螺《ら》|貝《がい》を口にあてていたからでもある。
 しかし、信者たちには気づかれなかったが、山伏の顔は、苦痛と|驚愕《きょうがく》のためにひんまがっていた。
 彼をおどろかせたものは何か。それは浄火のゆくてにひざまずいていたひとりの武家娘だ。いや、信者のなかに武家の子女も少なくないが、彼女の帯のあいだにキラリとひかったものが、彼をびっくりさせたのだった。その女が懐剣のかわりに帯にさしているものが、朱房の十手であることに気がついたとたん、「熱っ」とさけんで彼は炎からとんでいたのである。
 これは一種の反射的行為であったが、次の|刹《せつ》|那《な》、彼をもういちどとびあがらせたのは、娘がひざまずいたまま、小声でいった言葉だった。
「お立ち、|鳩《はと》をお呼び。……玄々教の行者がやけどをしたと諸人にみられては都合がわるかろう」
 ――そして、法螺貝を吹き終った彼の足もとで、ひくい声がいうのである。
「炎を踏んでわたるのを、町の人々がみればおどろくであろう。けれど、もえる松の薪をふみわたるのは、はたでみるほどむずかしいものではない。松炭は灰がたくさんできるものだから、足のうらに砂などしたたかまぶしてこれをふめば、灰と砂をへだてて火はきえかかる。足をあげればまたもえあがる。――その熱さは、あの日にやけた本堂の|瓦《かわら》とさほどかわるまい、いささか修行さえすれば、眼に見たほど難いことではないときいたが、まことかや」
 ちょっと応答の声もでない山伏の肩に、|碧《へき》|空《くう》からとんできた一羽の鳩が、はたはたととまった。そして、耳にくちばしをさしいれて、あたかも何ごとかをささやくかのようであった。
「よう飼いならしたな。耳の中には豆が入っておろう」
 と、娘がいった。山伏は思わずうめいた。
「うぬは何物じゃ」
「玄光法印の|御《ご》|祈《き》|祷《とう》をうけたい。わたしは八丁堀同心巨摩主水介妹お竜」
 山伏は、ぎょっとして足もとをみた。高島田にゆった娘の顔に、春の日があたっていた。素性をきいて、まばたきしたくなるような可愛らしい、あどけない顔だ。それが、にこっとして、
「はやく、わたしの名を呼ばぬと、鳩が豆鉄砲をくったような顔をしているではないかえ?」
 それより、山伏は、やけただれた足の裏のいたみにたえかねていた。ふるえ声で、
「八丁堀同心、巨摩主水介どの――」
 と、呼んだ。娘はつつましやかに立ちあがった。
「妹御でござるな?」
「はい。――」
 本堂にあゆみ出すふたりのうしろに、どよめきが起った。去年あんな騒動があったのに、いまは八丁堀同心の身内の者まで祈祷をたのみにきたのかという感動のためである。
 しかし、山伏の心は|動《どう》|顛《てん》している。八丁堀同心の妹が祈祷の依頼にきたことはさておき、さっき鳩や浄火わたりの秘密をといてみせたのは、いったいどういう意図あってのことか。だいいち、帯にはさんでいる朱房の十手はなんのためだ?
「き、祈祷とは、何の?」
 山伏はきいた。お竜は平然と、
「|呪《じゅ》|殺《さつ》」
「なに、だれを?」
「去年、ここの玄妙法印を無智な娘に殺させた|傀儡《くぐつ》|師《し》を」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:37:25 | 显示全部楼层
     二

「こ、ここで待っておれ、うごいてはならぬぞ」
 と、外陣の外にお竜を待たせて、さきにかけこんでいった山伏は、なかで、何を相談したのか、ややあって、ふたたびあらわれた。
「参れ」
 と、呼んだ声も、勢いをとりもどして、のしかかるような|凄《せい》|烈《れつ》さがあった。
 ぎぎぎぎ……とうしろで|唐《から》|戸《ど》がしまる。ほのぐらい外陣のなかに入って、お竜はぐるっとまわりを見まわして、空中にもえあがる|陰《いん》|火《か》をうけて蛇の肌みたいにうすびかる円柱のかげに、じっとこちらを見ているものと眼があった。
 三つ脚の台にのっている美しい女の生首だ。脚のあいだには、香炉がるる[#「るる」に傍点]とけむりをはいていた。
「これは、玄光法印の修法により、黒縄地獄の底から救抜された女の首じゃ。見よ、法印が呪法のありがたさ、恐ろしさを。――」
 と、山伏はお竜をふりかえってから、そばの経机にのっている|碁《ご》|笥《け》のふたをひらいて、なかに黒白いりまじってぎっしりとつまっている碁石を、まず右手で、次に左手で、思うままにとるようにお竜に命じた。
 お竜は右手をひらいて、その石の数が、黒六つ、白三つであることを見た。
「|南《な》|無《む》、青面|金《こん》|剛《ごう》、天竜|荼《だ》|枳《き》|尼《に》|天《てん》、右方の石数を告げたまえ。――」
「南無、青面金剛、天竜荼枳尼天、黒六つ、白三つ。――」
 と、みごとにいいあてた。
 お竜は左手をひらいて、黒二つ、白五つであることを知った。
「南無、|鬼《き》|子《し》|母《も》|神《じん》、|氷《ひ》|迦《か》|羅《ら》|天《てん》、左方の石数を告げたまえ。――」
「南無、鬼子母神、氷迦羅天、黒二つ、白五つ。――」
 山伏が、どうじゃ、という表情で、
「すべて、これ、法印の御力の顕現でござる。――」
 と、おごそかにいいかけたとき、お竜はくつくつ笑い出した。
「そんな法力なら、わたしもちゃんともっているぞえ」
「な、なに?」
「青面金剛とは六つ、天竜荼枳尼天とは三つ、鬼子母神とは二つ、氷迦羅天とは五つの合図であろう。神仏の名を以て数の隠語とし、こちらでおまえがのぞきこんでむこうに知らせれば、御苦労にはるばる黒縄地獄の底からくる人を待たいでも、だれにでもわかります」
 かるく言ってのけられて、山伏が口をぱくぱくさせて眼をむいたままなのを、ふりかえりもせず、お竜は手にしていた碁石をピューッと投げた。
 ――と、生首ののっていた台の脚のあいだに、何やらもののくだける異様な音がひびいて、ぱっと香炉がきえ、同時にキラめく破片が四方に散乱した。そして、そのかわりに、台の下にかがんでいる女の胴があらわれた。
「おほほほほほほ」
 笑うお竜の眼のまえで、女の生首はニューッと宙に舞いあがって――いや、台に穴をあけ、そこから首だけのぞかせていた女は、|狼《ろう》|狽《ばい》して立ちあがって、にげかかる。首の下に台をつけたその|恰《かっ》|好《こう》をみれば、お竜ならずとも笑わずにはいられないが、山伏の|形相《ぎょうそう》は笑うどころではない。
「あっ、こ、こやつ、何をいたすっ」
「鏡をこわしてみただけです。三脚の台にあのとおり穴をあけて首を出させ、その脚に三面の鏡をはれば、鏡はあらぬかたの暗い壁と香炉をうつし、遠目にはまるで胴なしの首とみえようが――それにしても、こんな子供だましのからくりで、町の人々をまどわし、その魂と財宝をまきあげるとは、それこそほんとに地獄におちる罪とは思わぬかえ」
 山伏はとびかかろうとしたが、足の裏のいたみによろめき、ふいに背をみせて、内陣の方へはしった。
「各々――お出合い下さい! 無法者でござる!」
 と、こけつまろびつ、唐戸にしがみついて、
「法印どの、仰せのごとくとりはからいましたが、きゃつ、心服いたすどころか、破壇のふるまいに出てござる。お出合い下さい!」
 と、絶叫した。
 ふつう内陣外陣のあいだに仕切りはないが、この山伏寺では、|或《あ》る必要からそれが設けてあった。すなわち内陣でもえる護摩の炎が、鏡の秘密を暴露することをおそれたのである。その唐戸がひらいて、護摩壇のうえにすっくと白頭巾が立ちあがるのがみえた。まわりの修験者たちも、いっせいに騒然となる。
「八丁堀同心の妹と申したな」
 と、白頭巾が、ふるえ声でいった。
「うぬはいったい何しにきたのか。祈祷をねがって入りこみ、わが玄々教の聖壇をけがすに|於《おい》ては、そのままには捨ておかぬ。たとえ町奉行といえども、|調伏《ちょうぶく》の修法にかけるぞ!」
「おおこわい、左様にお奉行さまにつたえておこう」
 と、お竜は胸を抱いて笑った。
「こんなこけおどしの邪教、大山師どもの宗門を、大目に見のがして下されたお奉行さまにつたえたら、さぞくしゃみをなさることであろう。それほど玄々教をごひいきあそばすお奉行さま、なかなか調伏になどかけてすむものか、きけ、去年不慮の死をとげたまえの玄々教祖の玄妙法印の下手人を、一年御探索の|甲《か》|斐《い》あって、このたびそなたらにおしえてやれと、わたしをさしつかわされたぞえ」
「なんじゃと? 玄妙法印殺害の下手人?」
 白頭巾はすっとんきょうな声をあげた。
「それは|塗《ぬ》|師《し》|屋《や》の小娘とわかっておるではないか」
「おお、いかにも玄妙法印を刺したのはお関じゃ。しかし、刺させたものはほかにある。うしろであやつった|傀儡《くぐつ》|師《し》がある以上、だれがあわれな人形のしわざを責められよう」
「傀儡師? それは、なんのことじゃい」
「されば、迷信を信じ易いたちのお関をおどして、五つの予言とかを吹きこみ、さまざま苦肉の策を|弄《ろう》してそのうち四つまでかなえ、五番めに玄妙坊を殺させる破目においこんだ人間のことじゃ」
「なに、それではおまえは、白山権現の森とやらにあらわれた玄妙法印を――」
「あれは、にせもの、ふだん白頭巾をつけておる玄妙法印を利して、べつの人間が化けた。あの白頭巾には、|瘤《こぶ》もつつまれていたろう」
「瘤? ぷっ、すりゃおまえは、あの小娘のいったたわごとをほんとうと思ったのか。いやはや、あきれかえったうつけ者、わしが玄妙法印をあやめて何とする。法印亡きあと、ふたたび玄々教をもりたてるため、骨をけずり、心血をそそぎ――」
「その苦労の|甲《か》|斐《い》あって、おまえがまんまと二代目教祖になりおわせたではないかえ」
「いや、|誣《ぶ》|言《げん》もここにきわまる。わしが左様な|大《だい》それたことをして、なんで町奉行がみのがそうか」
「証拠がないからです。お関のいう言葉のただひとりの証人――大道易者の乾坤堂が、ふたたび姿をみせなんだのも、かんがえてみればいぶかしい。もしかしたら、おまえが乾坤堂をこの世から消してしまったのではないか。――」
「乾坤堂? 左様なものは知らぬわい。いや、言わせておけば図にのって、何を申しつのるやら――同心身内のものというゆえ、いささかまじめにとりあってやっておったが、わしが玄妙法印に化けたとやら乾坤堂を殺したとやら、思いもかけぬいいがかり、さてはうぬも、あの塗師屋の娘同様の狂人じゃな」
 彼はふりかえって、そばの護摩木をつかんで、灯明にさしこんだ。ぽうっともえあがる炎に、お竜の姿がうかびあがる。
「ううむ、かんがえてみれば、同心ならしらず、同心の妹が朱房の十手をもって、不敵な探索面してひとりのりこんできたのも|解《げ》せぬ、それこそそっちがにせものか、狂人か、ゆすりか、他宗のまわし者か――いずれにせよ、かくまで玄々教に大それた|雑《ぞう》|言《ごん》申した奴に、魔天の|冥罰《みょうばつ》下らずにすもうか。いいや、呪殺もまどろい。|斬《き》れ、片腕か、片足か、斬って片輪にして追いかえせ!」
 声に応じて、護摩壇の周囲の山伏たちがどどっと立つ。一瞬、なおためらったのは、朱房の十手におそれたのではなく、相手が娘ひとりということに一種の混迷をおぼえたのだ。
「大事ない。にせものだ! やれっ」
 |撃《ひき》|鉄《がね》をひかれたように、修験者たちはお竜に殺到した。いっせいにぬきつれた戒刀が、護摩木の|火《か》|焔《えん》にまっかにかがやく。
 戒刀の旋風のなかに、お竜はくるくると|胡蝶《こちょう》のように身をひるがえした。|鋼《はがね》と|鋼《はがね》が鳴って、火花とともに一本二本刀身がとびちったのは、お竜の十手にたたき折られたのだ。右へ、左へ、みごとに胴をなぎはらわれて泳ぎ出す山伏をくぐり、ふとい円柱を|盾《たて》にして、彼女は外陣へのがれようとする。
「こやつ!」
「女だてらに!」
「やるなっ」
 いまや完全に、修験者たちは狂乱した|狼群《おおかみぐん》と化した。追いつめられたお竜の背後に、重い唐戸がしまっている。
 兇暴なわめきと乱刃が、お竜の頭上に|奔《ほん》|騰《とう》した。――そのとたん、うしろのないはずのお竜が、ふいにたたたとあおのけざまに遠ざかっていったのである。
 唐戸はひらかれていた。いや、何者かに外から大きくひきあけられたのだ。
「あっ」
 山伏たちは雷にうたれたように、タタラをふんで棒だちになった。のけぞっていったお竜をうしろから、がっしと抱いて受けとめているのは、着流し|捲《まき》|羽《ば》|織《おり》の八丁堀同心の姿ではなかったか。そればかりではない、外陣の壁のいたるところに浮かびあがった御用|提灯《ぢょうちん》。――その下にうごめいているのは、いうまでもなく|捕《とり》|方《かた》の影にちがいない。
 同心に抱かれたまま、お竜はおもしろそうに周囲の壁を見まわしていた。
「なるほど、あれが鬼火の正体なの」
 提灯に照らし出された壁のあちこちには、ぬれ腐った木の枝が|紐《ひも》でつるされていた。|柊《ひいらぎ》である。朽ち腐った柊は、|闇中《あんちゅう》によく|燐《りん》|光《こう》を発するものだが、これが人々をおそろしがらせた陰火の正体なのであった。
 立ちすくんでいる山伏のむれのなかから、白頭巾がよろめき出した。
「御役人衆っ」
 と、かすれた声をあげて、べたと坐ると、
「お手むかい仕らぬ。なにとぞ、御慈悲を――」
「頭巾をとれ」
 と、巨摩主水介はいった。
 あわてて白頭巾をとると、耳の下に瘤のある、泣き出しそうな顔があらわれた。床にひたいをこすりつけ、ふいにふりむいて、
「これ、みな、御慈悲をおねがい申さぬか。――」
 と、いった。山伏たちは刀を投げ出し、土下座して、|鴉《からす》が種をほじくるように、いっせいに|叩《こう》|頭《とう》しはじめた。
 巨摩主水介は拍子ぬけしたようにこれを見ていたが、やおら厳然と顔色をあらためて、
「玄光坊――去年、|塗《ぬ》|師《し》|屋《や》の娘お関をたぶらかして、玄妙坊を殺害させたのはその方か」
「え、玄妙坊を――ああ、まだ左様なことを仰せあるか!」
 と、悲鳴のような声をあげたが、
「すりゃ、この御出張は、玄々教のからくりをあばくためではござらぬのか」
 と、問いかえしたときには、息に安堵のひびきがこもっていた。
「それでは、貴殿も、拙者が玄妙坊に化けていたとお考えか。あの小娘を白山権現の森で犯したのは拙者だとお思いか」
「もとよりじゃ」
 玄光坊はすっくと立つと、なに思ったか、くるくると衣服をとき出した。――「あっ、これ、待て!」と主水介が制止するまもなかった。瘤のある山伏は、みるみる前をはだけ、下帯までとってしまったのである。
 玄光坊の声は一種哀感をおびた。
「これだけで、あの娘の申すことが根も葉もないことがおわかりでござろう」
 巨摩主水介はあわててお竜のまえにたちふさがったが、まばたきをして、思わずうなり声をあげてしまった。
 主水介のうしろからちらっとのぞきこんで、お竜は息をのみ、立ちすくんだ。何ともいえない溜息とともに。
「――しまった」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:37:44 | 显示全部楼层
     三

 白山前の辻に縁台を出し、ひとりの大道易者が、晩春の風に吹かれていた。はじめ、あんまり客がなく、|深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》を伏せて、易者はいつも居眠りでもしているようだったが、そのうち急に|繁昌《はんじょう》し出した。
 ――その理由が、なんとも妙な話だが――その易者が女だという|噂《うわさ》かららしい。実際、何も知らないで、偶然そのまえに立った客は、深編笠のなかからきこえてくる声と|筮《ぜい》|竹《ちく》をおしもむ手の美しさに、口をぽかんとあけるのである。
 そのあきれた顔を笠越しにみて、
「父上が御病気なので、わたしが代って出てきたのです。あたらなかったら、ごめんなさい」
 と、笑う。してみれば、浪人|売《ばい》|卜《ぼく》者の娘なのであろうが、笑い声はそれらしくもなく快活で、なるほど筮竹をならべる手つきはあやしいが、
「あなたはいまお金のことでこまっているでしょう」
 とか、
「あなたは、ふたりの女のどっちをえらぼうかと迷っていますね」
 とか、その占いのよくあたること――そして、
「そんな|旦《だん》|那《な》さまには、七日間ほど御飯をやらないで、壁にむいて坐っていらっしゃい」
 とか、
「そんな男にみれんはさっぱり捨てるのですね。え、捨てられない? そこをがまんして、ふりきるのです。すると、きっとその男があなたを追っかけてきますから」
 とか、その忠告の適切なこと。――
 三日――四日――五日――だんだん商売が繁昌してくるのに、おかしいことにその深編笠の中の声が、逆に曇ってきた。占いもなんだか少々乱暴になって、いちど折助が、その娘占い師の手をとろうとしたら反対にやんわりとにぎりかえされて、それがどうしたのか折助は三尺もとびあがったし、また|狐《きつね》みたいな中年女がしつこく何やらたずねていたら、「あなたが占いなど信じないようになったら、はじめて|倖《しあわ》せになれるでしょう!」とめんどうくさそうに言いすてて、そっぽをむいた。
 七日めの夕方、ぶらりとまえに立った医者風の男が、とうとうあきれたように、
「お前さん、これアもぐりの易者じゃな。その筮竹のならべ方は、まったくでたらめじゃ」
 と、さけんだ。
「どれ、貸してごらん」
 と、筮竹をとる。――細長い、ねむそうな顔をした男だった。もっとも少し酔ってもいるらしい。しかし、いかにも|馴《な》れたその手つきから、笠越しに、娘はしずかに眼をあげた。
「お恥ずかしゅうございます。父が重病で、よく教えてもらえなかったのです。どうぞ、御指南下さいまし」
「はははは、これア逆じゃ。お前さん、教えてやるが、見料をもらうよ」
「はい、どうかわたしを占って下さいまし」
「お前さんの、何を?」
「探しびとでございます」
「探しびと?」
「はい、|乾《けん》|坤《こん》|堂《どう》という易者のいどころを」
 男は筮竹をとりおとして、とびのいて、縁台の布にかかれた文字を見た。それは「心易占、乾坤堂」という文字であった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:38:29 | 显示全部楼层
    八卦見八卦知らず

     一

「乾坤堂とは、おまえさんのことではないか」
「いいえ、わたしは二代目」
 こんな問答がかわされたあと、奇妙な沈黙があった。ふいに相手は笑い出した。
「乾坤堂――とか、天命堂とかいう名は、江戸の易者に何十人いるかわからぬ。いかなわしでも、まえにここにいた乾坤堂とやらが、いまどこにおるか、そりゃわからぬわい」
「まえの乾坤堂がこの|辻《つじ》にいたということをよく御存じでございますね」
 酔いが急にさめたような顔色をした相手のまえで、娘占い師は筮竹をひろいあげて、さらさらとおしもみ、縁台にならべた。
「ほほほほ、おひとのわるい――初代乾坤堂は、あなたではございませんか」
 あまりに平然といってのけられて、男は二の句もつげず立ちすくむ。――娘占い師は、深編笠をとった。
 はんぶん逃げ腰になっていた男は、その顔をみて、ふみとどまった。ようかん色の黒紋付ながら、浪人風の姿をしたふしぎなその娘の顔の、なんという愛くるしさ――真っ黒な眼が、いたずらっぽく笑っている。
「そうではない、とおっしゃらないところをみると、どうやらわたしの占いがあたったようですね」
「――いかにも、わしはまえに乾坤堂といったが」
 と、男はいった。娘の単刀直入ぶりと、しかも童女のようなあどけなさが、とっさに抵抗を不可能にしたのと、それより好奇心が彼の足をしばってしまったのだ。――どじょうひげはおとしているが、まさにこれは乾坤堂であった。
「おまえはいったい何者じゃ。なんの用があって、わしを探す?」
 このとき娘は、れいの黒真珠みたいな眼の一方をつむって、にっとした。乾坤堂はなんのことかわからず、ヘドモドした。だから、遠い路上でこちらをみていたひとりの御用聞風の男が、|脱《だっ》|兎《と》のごとくどこかへ駆け去ったのを知らなかった。
「実は、お関さんにたのまれて」
「お関?」
「ええ、この駒込片町の塗師屋の娘さんで、去年山伏寺の玄妙法印とかいう人を殺したひと。――知ってるでしょ?」
 乾坤堂はじぶんをじっと見つめている娘の眼に、二、三度まばたきをして、
「それは知らぬではないが……しかし、お関坊とおまえさんとはどんな縁があるのかい」
「牢で、いっしょだったんです」
「牢――あの、小伝馬町の」
 乾坤堂は、この可愛らしい娘がそんなところから出てきたのか、とあきれた顔になったし、また不安そうな表情にもなった。しかし、口から出た言葉は、当然|横《おう》|柄《へい》な調子になっていた。
「おまえ……牢に入ってたのか」
「ええ、女泥棒のお竜っていうんです。どうぞごひいきに」
「ば、ばかな――それより、お関坊のたのみとはなんだ」
「乾坤堂さん、あなたは、お関さんがどうして玄妙坊を殺したか知っていますね」
「うむ、あの五つの予言のことじゃろ? それはお関からきいた。それで山伏寺へわしがかけあいにいったくらいじゃ。しかし、むこうの、なんといったかな、|瘤《こぶ》のある山伏めにゆすり呼ばわりされて、いや、さんざんな目に|逢《あ》った。|金《こん》|剛《ごう》|杖《づえ》でなぐられて、わしは二、三日寝こんだくらいじゃ。……そのあいだに、あの娘は、えらいことをしてしまった!」
「乾坤堂さん、けれどあなたは、お関さんがつかまったとき、どうして名乗り出て下さらなかったんです」
「わしが名乗り出てなんになる? あの娘が山伏を殺したことにまちがいはないじゃないか」
「でも、玄妙法印がお関さんをおどし、迷わし、そしてそのはてに|操《みさお》までうばったことの|証《あか》しがたてられたら、もっともっと罪がかるくなったのじゃあありませんか」
「いまになればそう思うが……わしはあのときは、ただこわかったのじゃ。はじめにお関坊を玄々教へつれていったという負い目もあるしの。お奉行所に呼び出されるのも、玄々教ににくまれるのも、考えただけでふるえが起りそうでの。……」
 あたまをかかえる乾坤堂を、お竜ははげますように、
「いまからでも、おそくはないわ。お関さんをたすけてあげて――」
「うむ、じゃが……わしは、玄妙法印がお関に五つの予言をしたとか、操をうばったとか、そんなことは知らんぞ」
「あなた、それをお奉行さまのように、みんなお関さんのでたらめだと思いますか?」
「わからん……わしには、何も言えん。……」
「でも、あなたは玄光坊とかから、|丑《うし》の時参りの|魔《ま》|除《よ》けに、どうしても|呪《のろ》いの人形をのぞかなくっちゃいけないときいたじゃありませんか。だから、お関さんは白山の森へいって、そこで五つの予言をきいたんです。それからあなたはまた玄光坊に、今夜玄妙法印に白山へこいといったじゃありませんか。だからお関さんは森へいって、そこで操をうばわれたんです。お関さんのいうことが根も葉もないものじゃあないことは、あなたなら信じてくれるでしょう――そうお関さんがいうものだから、わたしはあなたをさがしていたんです」
「わ、わしは、あの娘が好きじゃった。責任もある。信じてやりたい。しかし、お奉行さまは――」
「そう、大岡さまほどのお方が、お関さんのいうことをおとりあげにならなかったのは、お関さんに乱暴したという玄妙法印が、おなじ夜、おなじ時刻、よそのお妾のところに泊っていたことが、はっきりお調べがついたからなんです」
「それなら、やっぱり――」
「けれど、わたしはふっと思った。お関さんのいうことはほんとうだ。白|頭《ず》|巾《きん》はたしかに白山の森にあらわれて、五つの予言をし、お関さんに乱暴をした。ただ、それは玄妙法印ではなかったのではないか。――」
「なんじゃと?」
「そういったらね、お関さんが妙なことをいうんです。あの晩、乾坤堂のおじさんも、白山の森へきてくれたのじゃなかろうか。そしてあたしがひどい目にあっているのを、どこかで見てたのじゃなかろうか。なんとなく、そんな気がする。――」
「お関が、そんなことをいったか。……」
「乾坤堂さん、あなたをさがしたのは、そのためもあるんです。あなたは見ていたにちがいない。けれど、こわがって、だまっているんです。あなたは、あの白頭巾が、だれだか知っている。――」
「玄光坊だ!」
 と、乾坤堂はさけんだ。
「そういわれれば、白状する。ありゃ玄光坊だった! しかし、か、かんべんしてくれ、わしはあいつがこわかったのだ。あいつの金剛杖、あいつの|妖術《ようじゅつ》がこわかったのだ!」
 そのとき、うしろの往来をはしってきた|駕《か》|籠《ご》がとまった。御用聞がひとりそばについている。しかし乾坤堂は気がつかなかった。
「あいつは、きっとお関という迷信によわい娘を見こんで|罠《わな》にかけ、頭領の玄妙法印を殺すように追いこんだのだ。それは、あとで、あいつが山伏寺のあるじになったことでもわかる。そう思ってみると、いよいよあいつの底しれぬ悪智慧がおそろしい。もしそんなことを訴えて出たら、あとで配下の山伏たちに、どんな目にあわされるかわからない。――|臆病《おくびょう》なわしがこう考えたのを、どうぞもっともだと思ってくれ!」
「そんなにこわがることはありません。玄光坊には、もうお縄がかかっています」
「え、玄光坊に――」
「うしろをごらんなさい、乾坤堂さん」
 お竜は立ちあがった。乾坤堂はふりかえって、顔色をかえた。駕籠から出てきたのは、あの耳の下に瘤のある玄光坊にまぎれもなかった。
「お関さんの操をうばったのは、この男ですか?」
 お竜の声に、乾坤堂はわれにかえって、もういちど玄光坊を見すえた。玄光坊は|悄然《しょうぜん》として、うなだれている。その手はうしろにまわされて、岡っ引が縄をにぎっている。
 乾坤堂はうなずいて、玄光坊を指さしてさけんだ。
「こいつだ! こいつだ! こいつがお関坊を犯して気絶した姿を見おろして、白頭巾をぬいで汗をふいたのを、わしははっきりとこの眼でみたのじゃ!」
 お竜はだまって玄光坊のそばに寄り、その|襟《えり》をぐいとかきひらいた。乾坤堂はふいに絶句して、棒みたいに硬直してしまった。
 玄光坊の胸には、ふたつの隆起した乳房があった。
 ――この、男よりもたくましく、男よりも|獰《どう》|悪《あく》な、みにくい瘤のある修験者は、まごうかたなき女だったのである。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:39:04 | 显示全部楼层
     二

 お竜が笑った。
「乾坤堂さん、おまえさんは、たしかにこのひとが、女を犯すのを見ましたか?」
 ふいに乾坤堂は、ぱっと横にはねとんだ。
「野郎、にげるか!」
 玄光坊の|縄《なわ》|尻《じり》をすてて、御用聞の銀次がそのうしろにまわる。乾坤堂はくるりと反転した。こちらにみせた顔の、いままでとうってかわった兇悪さに、本能的にお竜は身をしずめる。その頭上を、びゅーっと鎖が|薙《な》いですぎた。
 |玉鎖《たまくさり》という、くさり|鎌《がま》から鎌をとった奴、ふところ|或《ある》いは手中から、鎖だけがかなぐり出されて、その|尖《せん》|端《たん》の|分《ふん》|銅《どう》が、相手の|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》を粉砕する。――相手がまったく警戒していないだけに、ふいをくらうとおそろしい。げんに、身をしずめたものの、お竜の足がよろめいた。
「罠にかけたな、この女!」
 わめきつつ、腕をかえすと、よろめくお竜めがけて、うなりをたてて鎖が|捲《ま》きかえる。――その|刹《せつ》|那《な》、鎖は空中で|戞《かっ》と音をたてて何やらにまきついた。どこからか飛んできた朱房の十手だ。尖端の重さと形が変化して、思わず手のくるった鎖が、縁台をうちくだいて、筮竹が散乱した。
「乾坤堂、御用だ!」
 銀次とは反対の向うの天水|桶《おけ》のかげから、疾風のごとくかけつけてきた影が、どうと乾坤堂を|蹴《け》たおすとみるまに、はやくもそのからだに縄がかかっている。そのはしを口にくわえて、キリキリとしめあげた姿は、八丁堀同心巨摩主水介であった。
「妙なものをつかうねえ。おまえさん、やっぱりただの|鼠《ねずみ》じゃないね」
 お竜は|裾《すそ》をはたきながら、ちかよった。
「罠にかけたのはどっちだ。おまえさん、はじめからこの辻で、丑の時参りをする女――そんな迷信を信じ易い女に、網を張ってたんだろ? 犬の眼を刺したのもおまえさんなら、玄光坊にぶたれたとうそをついて、じぶんのあたまに傷をつけて血をながしたのもおまえさんだ。罪のない娘を、あれだけ念入りに罠にかけて、玄妙法印を殺させたわけはなんだえ?」
 地べたからふりあげた乾坤堂の満面は、泥と鼻血によごれ、それより|憤《ふん》|怒《ぬ》と絶望のためにひきゆがんで|惨《さん》|澹《たん》たるものだった。うめくようにいった。
「玄妙坊は……わしが子供のころからさがしていた親の敵だ!」
「でたらめもいいかげんにおし。玄妙法印は、おまえさんの年の半分くらいじゃないか」
 乾坤堂はふるえながら沈黙した。
 辻にはいっぱい人がたかってきた。そのなかに顔を知っている手先を二、三人見つけると、巨摩主水介は、
「銀次、この二人をひとまず自身番にたたきこんでおけ。あとで拙者が参って泥を吐かしてくれる」
 と、いった。
 銀次と手先が乾坤堂と玄光坊をひきたてて去ったあと、お竜は人々の好奇の眼を深編笠でふせいで、のこっている手先に声をかけた。
「おまえさん、その縁台と筮竹をかたづけて、それも自身番へとどけておいておくれでないか。大事な借物だからね」
 おちついたものだ。そして、主水介とならんで、春の夕風のなかをぶらぶらあるき出した。
「でも、罠にかけたのは、やっぱりこっちかもしれない」
 くすっと笠の中で笑う。
「ここに乾坤堂の看板を出して、うまくかかってくれるかどうか、少し心配だったわ。とにかく江戸八百|八丁《やちょう》のどこへいっちまったかわからない男を見つけようというんだから。――乾坤堂はちょっと酔ってたようだけど、やっぱりふらふらとひっかかってきたよ」
 魚釣りの話でもしているような浮き浮きした声だ。
「ひっかかってきてから、もういちど――ヌラリクラリにげる奴を、玄光坊がお関坊になんとかしたなど、それこそ見てきたようなうそ[#「うそ」に傍点]をつかせて、急所をおさえるまでがさあたいへん」
 ふっと、深編笠をかたむけて、
「女の子を犯し、人殺しをさせ、いざとなりゃ身代りの|傀儡《くぐつ》|師《し》まで用意してた乾坤堂はわるい奴にちがいないけれど、玄光坊の方は可哀そうだわねえ。女人禁制の山伏に化けて、いくらあの顔でもラクじゃなかったと思うわ。もっとも女人禁制といったって、|熊《くま》|野《の》の山伏が破戒の果てに生んだ娘だそうだけど、可哀そうでもあれば、おかしくもある。人々をだましていたのはいけないけれど、なんとか大目にみてやれないかしら? 手下の山伏たちも大峰かどこかに追いかえして、それでかんにんしてやったらいいと思うわ。……ついでに、あのお関坊も、無罪放免とはいかないの?」
 だまっている主水介の頬を、白い指でかるくつついた。
「何をむずかしい顔してかんがえてるのさ。そんな石みたいなあたまだから、こんなことになる。いくら大岡越前さまの秘蔵の家来だって、石あたままで|真《ま》|似《ね》することはないよ」
 巨摩主水介はいよいよ苦りきった表情であった。お竜は笠の中から美しい口笛を吹いて、また言った。
「とにかく、お関坊は打首にはなるまいねえ。どうやら、これで三人めの女の命を救えたようだ。……」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:39:58 | 显示全部楼层
     三

 小伝馬町のおんな牢に、陰湿な|黄《たそ》|昏《がれ》がしずみはじめたころ――お竜がかえってきた。
 恐ろしい|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ呼び出されて十日ちかくになる。いよいよこんどこそ責め殺されたにちがいないと、みんな話しあっていたその当人が、けろりとして入っていったのだが、ふしぎなことに、この夕方までお竜のことを心配して泣いていたお玉、お路、お関までが、彼女にすがりついてはこなかった。
 牢の中に、みんなの心を奪うような|或《あ》る異変が生じていたのである。もっとも、おんな牢で、いままでに決してなかった出来事ではない。出産である。ちかごろ入牢してきた女囚――お|万《まん》という女が、|巾着切《きんちゃくきり》というしゃれた罪名にも似げなく大きな腹をしていたが、この夕方、とうとうあかん坊を産みはじめたのであった。
「懐胎にて入牢いたし候女は、臨月にいたり牢内にて出産させ候事|也《なり》」と「牢獄秘録」という本にあるように、それはめずらしいことではないが、お万の場合にかぎって、いままでの例とはちがう様相をみせた。
「ほうっといておくれ、手を出さないでおくれ!」
 うめきつつ、彼女はそうさけび出したのである。
「あたしゃ産みたくないんだ。死んで生まれた方がいいんだよ!」
 それでも、新しい生命は、このふとどきな母の門を、全力をあげておしひらきつつ、この世に出現しようとしていた。彼女はもだえ、号泣した。しかも、まわりに寄ってくる女たちを口ぎたなくはねつけるのだ。こんな|罰《ばち》あたりな出産は、|娑《しゃ》|婆《ば》はもとよりのこと、牢内にだってざらにはない。
 わるいことに、この女はふだんからひねくれて、牢内役人の老婆たちに、むろん面とむかってさからいはしなかったが、決して心服しているのではないという様子がありありとみえたので、とくに三番役のお勘という婆さんににらまれていた。先天的に虫がすかないらしいのだ。
「放っといておやりよ、本人がそういうんだから」
 と、お勘がそっぽをむいていう。
「かまってやることはない。どっちも死にゃ、それだけ牢内の風通しがよくならあ。なんだ、大きな腹をつき出しゃがってよ、ずいぶん|目《め》|障《ざわ》りだったよ」
 産婦はもうやりかえす余裕もなく、激烈な陣痛に、動物的なうめきをあげていた。あたりにながれる血と羊水のなかに、自然とひらき、むき出しになった両脚がぶるぶると|痙《けい》|攣《れん》し、|鞠《まり》のような腹部の隆起が下にさがってゆく。
 ……さすが罪の血にまみれた女囚たちも、|凄《せい》|惨《さん》の気にうたれて、声をのんで見まもるばかりだ。
「ええ、やかましい!」
 と、耳に手でふたをしていたお勘が、とうとうかんしゃくをおこした。
「おれがあの餓鬼を殺して、ひきずり出してやる!」
 とぬっと立ちあがったとき――そのとき、お竜が入ってきたのである。
 彼女はけげんそうにお万のところへあゆみより、立ちすくみ、すぐに、いまじぶんをつれてきてそのままひきかえそうとしていた牢番を呼びとめた。
「待ちな。……こんなに苦しそうな声がきこえるのに、だまっていっちまう番人はないだろ。産婆を呼んどいで」
 そういうひまにも、血まみれの|股《こ》|間《かん》に、黒ぐろとぬれたあかん坊の髪がのぞいてきたのをみると、さすがにおちついたこの女があわてふためいて、
「だれか――だれか――あかん坊をとりあげたひとはこのなかにいないの」
「あたしが――」
 ひとりの女が眼をあげた。四十にちかい、やさしい、美しい顔だちの女だった。
「ああ、あなた、お|半《はん》さん」
 と、お竜はこの半月ばかりの牢屋暮しにその名をおぼえていて、
「それじゃあ、おねがい、はやく何とかして――」
 と、手をあわせた。
 お万は泣きさけびながら、手をふってはねのけようとした。
「ほうっといて……あたしゃ産みたくない! 生まれてこない方が、この子のために|倖《しあわ》せなんだ!」
「ばかなことをお言いでない」
 と、お竜は|叱《しか》りつけた。ピーンと牢内にひびきわたるはげしい声であった。
「生まれてくる子に、なんの罪があるものか、ここまできて、生まれてきた方がいいかわるいか、そんなことをきめるほどおまえさんはりっぱな母親か!」
 お万はびっくりしたようにちょっとだまったが、すぐにまた床に爪をたてて絶叫した。
「母親――あたしが母親――あたしはわるい女だ! 父親も悪党だ! 血が悪いんだ。こんな悪い血をもって生まれた子供が、どうせまともに育つものか。きっとあたしか、あの男みたいな人間になるにきまってるよ! おねがい――殺して!」
「父親――この子の父親は?」
「いままでだまっていたが、きけばおまえだってあたしのいうことをもっともだと思うだろう。この子の父親は、去年の暮れに獄門になった、|雲《くも》|霧《きり》|仁《に》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》だよ。……」
 牢内には、はたと沈黙がおちた。黄昏が濃くなった。
 その沈黙をまずやぶったのは、力づよいあかん坊の|産《うぶ》|声《ごえ》だった。それから――お勘の号泣する声だった。
「雲霧仁左衛門――そりゃあ、おれの子だ。ここ十年も逢ったことはねえが、仁左衛門なら、おれの|倅《せがれ》だ!」
 ふいにお勘は、骨を鳴らしてお竜にしがみついてきた。
「お、お、お竜さん、ありがとう。すりゃこの子はおれの孫だ。この女は、おれの嫁女だ。よく、よくおれを孫殺しにしないでおくんなすった!」
 あっけにとられていたお竜は、すぐにお勘をひきはなして、
「お婆さん、あたしよりも、はやく孫のほうを抱いてあげなよ」
 新生児は、もうお半の手で、牢の隅におかれてある飲み水用の四斗|樽《だる》のなかへつけられていた。お勘はうれし泣きの声をあげながら、その方へまろんでいった。
 ――底ぶかい感動のどよめきと、笑い声が、いつはてるともなくつづいて、それでも|闇《やみ》とともに|静寂《せいじゃく》にもどったおんな牢のなかで、ひっそりとささやく声がきこえた。
「お半さん」
 羽目板にもたれかかったお竜である。
「どうみてもこんなところに入ってくるとはみえないあなたが、どうしておんな牢にいるのかしら? ふしぎだわねえ。……」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:40:21 | 显示全部楼层
    世は|情浮名《なさけうきな》の横町

     一

 さっきまで、どこかでものうげな爪びきの音がきこえていたが、それも夢のようにきえて、あとはからぁんとした日盛りのなかに、すべてが午睡に入ったような昼下りの裏町。――日本橋の新|和泉《いずみ》町南横町、俗にいう|玄《げん》|冶《や》|店《だな》。
 むかし|岡《おか》|本《もと》玄冶老という御医師が拝領した町屋敷だったので、そういう名がついたのだが、すぐちかくに芝居町たる|堺《さかい》町|葺《ふき》|屋《や》町があるので、このあたりには役者や芝居者がたくさん住んでいる。それ以外にも、お約束どおり、船板塀に見越しの松とかまえたお囲い者が多く、路地路地にときどき鳴る|風《ふう》|鈴《りん》の|音《ね》|色《いろ》さえ、心なしかなまめかしく、|小《こ》|粋《いき》にきこえるようだ。
 ――と、ふいにその風鈴がいっせいに鳴りはじめたかと思うと、犬があちこちで|吠《ほ》え出した。空が急に暗くなった。――と、思うまもなく、さーっと白い雨脚が屋根屋根をぬらしてきた。
「おっ、こいつぁいけねえ」
 雨に追われて、と或る軒先にかけこんできたふたりの男がある。ひとりは三味線をかかえて、|手《て》|拭《ぬぐ》いは吉原かぶり、|藍《あい》|微《み》|塵《じん》の|素袷《すあわせ》に、そろばん絞りの三尺――というと、ひどく|粋《いき》なようだが、その実、すりきれた|草《ぞう》|履《り》の足はほこりだらけ、袷は|垢《あか》だらけで、みるからに|尾《お》|羽《は》打ちからした|門《かど》|付《づけ》|芸《げい》|人《にん》だ。
 あわててにげこんだが、ふいの夕立ちにもうびっしょりになって、うらめしそうに軒にしぶく雨を見あげながら、
「兄貴、こりゃあ泣きっ面に|蜂《はち》だなあ」
「|大《おお》|谷《たに》|広《ひろ》|次《じ》のところへいったって、このざまじゃあ野良犬あつかいで追ん出されるぜ」
 しゃべっている背後から、ガラリと戸があいて、十七、八の娘が顔を出した。
「へへっ、どうも軒を借りたうえに、騒ぎたてて恐れ入りやす」
 と、若い方の男がふりむいて、にっと笑った。
 娘はあわててピシャリと戸をしめかけたが、ふと思いなおした様子なのは、その若者が思いがけなくいい男だったせいか、それとも、もちまえの親切な性質だったのか、
「あら、おきのどくに――」
 といって、しばらくはげしい雨脚をみていたが、
「このぶんじゃ、ちょっとやみそうにないわね。まあずいぶん|濡《ぬ》れて――いっそうちへ入って、かわかしてから出てった方がいいわ」
 と、いった。ふたりの門付芸人はためらいもせず、|図《ずう》|々《ずう》しく、
「兄貴、それじゃあ、すこし休ませてもらうか」
 年とった方は、しばらく娘の顔を見ていたが、やがてくびをかしげて、
「そうよなあ、まったくこのざまじゃあ、先へゆけねえ」
 と、のこのこと家の中へ入ってきた。
「おっかさん、おっかさん、手拭いもってきて! それから、水を入れた|桶《おけ》かなんか――」
 騒々しく呼びたてる声に、奥から三十七、八の美しい女が出てきて、とっさにその様子をみてとって、ちょっと|眉《まゆ》をひそめたが、
「お|波《なみ》、雨がやんだらすぐ出ていただくんですよ」
 といって、すぐに奥へひきかえしていった。
 若い芸人はじろじろと家の中を見まわして、鼻をくんくんいわせた。
「娘さん、このおうちはおっかさんとおふたりだけでござんすかい?」
「なぜ?」
「女ッくせえばかりで、男ッ気がちっともねえ」
 こういわれても、娘にまったく警戒の表情があらわれないところをみると、よほどのんびり育てられたのか、それとも男というものを全然知らないせいだろう。
「え、そうなの、うちはおっかさんとふたりだけなの」
 と、|天《てん》|真《しん》|爛《らん》|漫《まん》にこたえたとき、奥からまた母親が出てきて、
「お波、知らないひとと、むやみにおしゃべりするものではありません」
 と、たしなめた。手に手拭いと手桶をさげていた。
 若い方の芸人は、大袈裟に礼をいって、先ず顔をあらった。袖を肩までまくりあげると、左の二の腕に白い布をまいているのがみえた。それから足を洗おうとして――
「おい、兄貴、洗わねえのか」
 娘は、彼の顔に見とれた。さっきもちょっと眼を見張ったが、さっと水で洗っただけで、まるで役者のようないい男だ。ただ少々自堕落な感じがあるが、そこがまた|凄《すご》いような魅力でもある。
「洗わねえ」
 と、もうひとりの男がいった。依然として、|不精髯《ぶしょうひげ》のはえた垢だらけの顔に、手拭いを吉原かぶりにしたまま、じっと母親の方を見つめている。
「洗わねえ? どうして?」
「洗えねえんだ」
 母親の方は、本能的な不安をおぼえたらしく、
「雨もやんだようです。すぐ出ていっておくれ」
 男は急に手で顔を覆って、上り口に坐ってしまった。
「おい、兄貴、どうしたってんだよ」
「おら、恥ずかしい。面ア洗わなくって倖せだった。おい、|秀《ひで》、ゆこう」
 と、悄然として立ちあがる。母も娘も、その異様なようすにあっけにとられていたが、やがて母親の方がそばによって、
「おまえさん、何が恥ずかしいの?」
 と、のぞきこんだ。男のなおそむけた手拭いの下から、妙におし殺した声がきこえた。
「お半さん」
「え」
「いやさ、お半、久しぶりだなあ」
「そういうおまえは」
「おぬしゃあ、おれを見忘れたか」
 と、彼は手拭いをとった。お半はなおじっとそのうす汚ない顔をみていたが、急に息をひいて、
「まあ、|弥《や》|五《ご》|郎《ろう》さん!」
 とさけんだ。|蒼《あお》|白《じろ》い|頬《ほお》に、さっと血潮がさした。若い芸人はくびをひねって、
「な、なんだ、兄貴、これァ」
「秀、お恥ずかしいが、このお半は、二十年|前《めえ》のおれの|色《い》|女《ろ》だよ!」
 そして、|舐《な》めるように娘のお波を見て、
「実はな、最初この娘さんを一目みたときから、はっと思った。二十年前のお半さんがあらわれたのかと思ったのよ」
「お、おっかさん! こ、このひとのいうこと、ほんとなの?」
 と、娘に金切声でいわれて、お半は唇をふるわせて何かいいかけたが、声にならずうつむいた。
 秀が口ずさんだ。
「|神《かん》|無《な》月、しぐれふるらし小松原、|他生《たしょう》の縁の雨宿り、一河の流れ水まして、あれ|蓑《みの》|笠《がさ》をとりにゆく……チン、ツン」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:40:38 | 显示全部楼层
     二

 弥五郎という男は、お半を二十年まえの色女だといった。ちょいと神経にひっかかる言葉ではあるが、恋人だったというのなら、ほんとうだ。
 思えば、それはお半がちょうど、娘のお波の年ごろでもある。彼女は浅草の水茶屋の看板娘だったが、そこで蔵前の札差しの手代をしている弥五郎と熱い仲になった。恋というと、彼女の一生でそのときがただいちどではなかったかと思う。しかし、そのうちお定まりの|愁嘆場《しゅうたんば》がやってきた。親のために彼女はどうしても|或《あ》る男のところへ|妾《めかけ》にゆかなくてはならないことになったのである。いちど自殺さわぎまで起した|悶着《もんちゃく》があって、彼女は運命にしたがった。
 妾にいったのは、弥五郎の奉公している家ではなかったが、やはり蔵前の札差しだった。弥五郎がぐれたのは、そのせいもあったろう。彼がじぶんの奉公している店の金をくすねたか、盗んだかして、|放《ほう》|蕩《とう》にふけり出し、自身番へつき出されたのはそれからまもなくだった。これはあとで主人の方からとりさげたらしいが、しかし弥五郎はそのままどこかへ姿を消してしまって、その行方もしれなくなった。
 妾にいってから存外幸福だったお半の胸に、ときどきふっと水の泡のようにうかびあがって、切ない想いに沈ませたのは、ただこのことだった。――けれど、時はすべてをおしながす。彼女の胸からは、やがて弥五郎の想い出も遠くなり、消え|失《う》せた。時のせいばかりではない。いまいったように、お半は思いのほか倖せに暮せたからだ。妾にいった主人が、道楽者ではあっても案外愛情のふかい男だったし、お波という娘も生まれたし、その主人は三年前に亡くなったけれど、本宅の|内儀《おかみ》がこれまた珍らしくできた女で、お半をお払い箱にするどころか、|妾宅《しょうたく》もそのまま、月に一度は人を介して娘へという名目で|仕《し》|送《おく》りさえつづけてくれたからだ。この美談にこたえて、お半も、まるで正式の未亡人みたいな、ひっそりとつつましやかな日々を送っている。――
 ――そのお半|母《おや》|娘《こ》のところへ、さて、或る夏の昼下り、|驟雨《しゅうう》とともに、はからずも遠い青春の日の恋人が舞いこんできたのである。彼のもたらしたものは、よろこびか、悲劇か。
 二十年の歳月がながれたとはいえ、いちどは自殺さわぎまでおこして別れた恋人だったのに、再会してもしばらく気がつかなかったほどの弥五郎の変りようだった。
 いったい、そのあいだに何をしていたのか、相棒の若い|秀《ひで》|之《の》|助《すけ》という男の素性は何か、きいても、「いやはや、お話にも何にもならねえよ、これ以上恥をかかせねえでくんな」というばかりだし、また、きかなくっても、だいたいの推量はつく。
 彼らが訪ねてゆこうとしていたのは、役者の大谷広次だった。去年中村座で「八陣太平記」を舞台にかけたとき、江戸ではじめて「せり出し」というからくりをみせて評判になった役者だが、大坂でふと広次の知遇を得たようなことをいっていたから、彼らが|上《かみ》|方《がた》を放浪していたことはうたがえない。
 この玄冶店に、広次の妾宅があるということで、そこに何をしにゆこうとしていたのか――くわしいことは口をにごしていわず、まもなく弥五郎と秀之助という相棒は、雨のあがったお半の家を出ていった。
「弥五郎さん、ゆくところがなかったら、当分あたしのうちにいてもいいんだよ」
 思わずお半がうしろで呼びかけたのは、むろんもう色恋の|沙《さ》|汰《た》ではなく、尾羽打ちからしたその背へのあわれみ以外の何ものでもなかった。
 ところが、その言葉に甘えたか、ほんとにどこにもゆくところがなかったのか、ふたりはまもなくのこのこと舞いもどってきたのである。どうやら、訪問の目的は不調に終ったらしい。
「けっ、役者なんて、薄情なもんだなあ、あのときゃ、江戸へきたらどうぞたずねておいでなんて、うめえことをいやがってさ。こっちがこのざまだと、けんもほろろで、あとで塩をまきゃがる。人間、おちぶれたくはねえものさ!」
 と、弥五郎がぶうぶう悪口をたたいたのが、|双《もろ》|刃《は》の剣でお半をしばる|縄《なわ》ともなり、そのままふたりの男は、なんとなく日蔭の母娘の家へ坐りこんでしまったのだ。
 とんだおしかけ|居候《いそうろう》。――もっとも、ふたりとも、いそいそと水をくんでくれる。|薪《たきぎ》を割ってくれる。あのうす汚ない弥五郎でさえ、ひげをそり、顔を洗うと、急に男前があがり、若々しくもなって、お半にふいと二十年前のことを思い出させた。
 とはいえ、お半はそんなロマンチックな想いにふけってはいられなかった。やはりこの二人には、一日もはやく出ていってもらわなくてはならない。――そう気をもんでいるうち、三日め、案の定、とんでもない事件が起った。
 どちらかといえば、ひよわなたちのお波が、その夕方急に熱を出して、お半が新乗物町の知り合いの医者へかけつけて、薬をもらってかえる途中、夕立ちにあった。しばらく、と或る家の軒下に雨をさけていたが、こうしてもいられないと雨の中へ出たとき――
「あっ、こんなところにいなすったか」
 と、|傘《かさ》をななめに、裾をまくってはしってきた秀之助がさけんだ。一方の腕に、もう一本の傘をかかえている。迎えにやってきてくれたのである。
「あ、ありがとう、秀さん」
 と、お半はほっとしてならんであるき出した。
 そして、息せききってかけもどってきたとき、家の中でただならぬお波のさけび声をきいたのである。
「おっかさん、助けて――おっかさん!」
 夢中でかけこんで、お半はくらくらと眼まいがした。
 床についていたお波のうえに、弥五郎がのしかかっている。それでなくてさえ、夏の宵だ。お波の髪はみだれ、肌はむき出しになり、わが娘ながら眼をそむけたくなるような姿だった。しかも、それを獣のようにおさえつけているのが、人もあろうに弥五郎とは!
 一瞬、立ちすくんだきり、声も出ないお半のうしろから、猛然と秀之助がとび出した。
「兄貴、何するんだ!」
 と、肩をひっつかんでおしのけると、弥五郎はぶざまにころがって、
「野郎、じゃまするな!」
 と、はねおきかける横ッ面を、秀之助は弟分とは思えない勢いで張りとばして、
「兄貴、お波ちゃんのおっかさんに恥じねえか!」
 と、どなりつけた。
 はじめて弥五郎は、|閾《しきい》のところのお半の姿に気がついて、|狼《ろう》|狽《ばい》してひざをそろえると、あたまをがっくりたれた。
「お半……すまねえ、お波ちゃんに、ふいとむかしのおめえを思い出したんだ。……」
 お半はころがるようにお波のところへかけよっていった。お波は母にしがみついて、わんわんと泣いた。お半はその背もおれよと抱きしめて、血の気のひいた顔で弥五郎をにらんで、
「出ていって! 弥五郎さん、出ていって!」
 弥五郎は口をぱくぱくさせたが、そのままうなだれて、しばらくたってからうらめしそうな顔をあげた。
「すまねえことをした、お波ちゃん、かんべんしてくんねえ。……お半、しかしおれァおめえに裏切られたおかげで、こんな男になっちまったんだぜ。……」
 |袖《そで》をぐいとまくると、その左の二の腕に、「一代無法」という|刺《いれ》|青《ずみ》の文字がみえた。
 |悄然《しょうぜん》として出てゆく弥五郎の姿を見、抱きあっているお半母娘を見、困惑したようにもぞもぞしていた秀之助が、
「みっともねえことをしてくれやがったなあ、いい年をしゃがって……しかし、あれでもおいらの兄貴分だ。お半さん、お波ちゃん、礼もしねえでこんなおいとまごいは|辛《つれ》え|次《し》|第《でえ》だが、やはりおいらもここらでおさらばさせておくんなさい」
 とつぶやいて立ちかけるのを、お波が呼んだ。
「待って、秀之助さん。……あなたはここにいて! そうじゃないと、あたし、こわい! またあのひとがくると、あたし、こわい!」
 お半は、どういっていいかわからなかった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:40:57 | 显示全部楼层
     三

「秀之助さん、こんやお星さまに、何をおねがいする?」
「へ? さあ」
「こんやお星さまをおがむと、願いごとはみんなかなうのよ!」
「それじゃあ、お波ちゃんがもっと丈夫になるように――お波ちゃんは?」
「あたしはね、あたしは……」
 口のなかで、何かつぶやいて、お波はくっくっと笑った。
 |七《たな》|夕《ばた》の宵である。せまい庭のまんなかに葉竹をたてて、お波と秀之助はせっせと色紙を糸でむすびつけていた。長い夏の日はくれなずんで、まだ庭はほの明るく、若いふたりの姿は青い竹と五色の紙に彩られて、絵のようにみえる。
 ただひとり、暗い座敷に坐って、お半はしずかに|団扇《うちわ》をうごかしながら、それをみていた。その眼に微笑が横ぎるかと思うと、ほっと重い吐息をつく。
 あの恐ろしい夜から五日目――まだ秀之助はこの家にいる。美男だけに、ほんの先日、|乞《こ》|食《じき》みたいに迷いこんできたのとは別人のように、なんだか若旦那然とさえみえる。その|美《び》|貌《ぼう》と、危難を救われたという感動のためか、お波の心が急速に秀之助に吸われてゆくのを、母のお半はありありと見てとった。
 恋――娘が恋をしている!
 |愕《がく》|然《ぜん》とするとともに、お半は、お波の甘美な声にききとれた。決して|不倖《ふしあわ》せに育ててきたとは思わなかった子だが、いままであんなにはずんだ幸福そうな声をたてたことがあったろうか。やっぱりあの子はさびしかったのだ。そう思うと、はじめてこの二十年の暮しの|翳《かげ》りがお半の胸をしめつけた。あたしの暮しはまちがっていたかもしれない。……
 あの子だけは倖せに生きていってくれるように! ふいにもえあがるような心で、お半はそう思った。そして、女の幸福は、倖せな恋からはじまるのだと。
 けれど――お半は、ここで吐息をつく。お波の恋があの秀之助とは!
 いまは彼女は、弥五郎をひたすらにくんではいなかった。
 弥五郎があのとき、「おれがこんな人間になったのも、おまえに裏切られたせいだ」といった言葉は、いまでも彼女の心を刺す。けれど――娘のこととなると別だ。秀之助は「こんな人間」あの弥五郎の相棒だった若者ではないか。
 彼らふたりがどんなことをして生きてきたか、それはまあ問わないことにしよう。実際、秀之助という若者は、最初の印象がまちがいじゃあなかったかと思われるようなふしもある。
 しかし、そうかといって、やっぱり彼はえたいのしれない男だった。まだはたちを一つか二つこえたくらいだが、親の目からみるせいでなく、ねんねのお波にくらべて、はるかにおとなだ。夢みごこちのお波を、どこやら薄笑いしてながめているようなところがある。――
 庭には、いつのまにか、となりの三絃の師匠の十になる女の子があそびにきていた。
「ねえちゃん、色紙が足りないとは思わない?」
「そうね、そういわれると、ちょっとさびしいようね」
「それじゃあ、すこし買ってこようか」
「え、いっしょにゆきましょう」
 秀之助が、「おいらもゆこうか」といったら、女の子が「あらいやだ、男のひとが、女の子といっしょに色紙買いにゆくなんておかしいわ」と笑ったので、彼はあたまをかいてだまってしまった。
 お波と少女はゆかたの袖をひるがえしながら出ていった。
 秀之助はボンヤリと葉竹を吹く夕風になびく五色の糸を見あげていたが、ふいにこちらをちらりとみて、つかつかとあるいてきた。
「お半さん」
 いままでとちがって、妙に沈んだ声だった。
「なにさ」
「実は……」
 と、秀之助はなおいいよどんでいたが、
「えい、やっぱりいっちまえ。いうつもりじゃあなかったが、おまえさんのやさしい気性、お波ちゃんの罪のなさ……あんた方ふたりのこの暮しをみていると、ドスをかくしてのりこんできたおいらたちが、つくづくあさましくなっちまった。……」
「秀さん、何をいい出したの?」
「お半さん、実はこないだの弥五郎の乱暴はみんなぺてんでさ」
「えっ」
 お半の手から、団扇がパタリとおちた。
「うんにゃ、はじめこの家に雨宿りしたときから|狙《ねら》いをつけてきたんで……大谷広次のうちへいったなんてみんなでたらめの皮でさあ。なんとかしてこのうちへ入りこみ、おいらがお波ちゃんをものにする。弥五郎に乱暴させておいらがたすけるってのァ、はじめっからそのために仕組んだ中村座の役者もはだしでにげる狂言でござんしたよ」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:41:13 | 显示全部楼层
   |百足《ひゃくあし》あるき

     一

 あまりな秀之助の白状に声もないお半に、秀之助はさすがにくびすじをかきながらいうのだった。
「あの弥五郎という男たあ、そんなに|深《ふけ》えつきあいじゃござんせん。ほんのこの春ごろからの知り合いで、もと何をしていたのか、それも知らねえくれえなんです。へ? あっしゃあ、浅草のやくざでさあ。それがね、こんな二人組を組んだそもそものはじまりってのア、|或《あ》る|賭《と》|場《ば》なんでさ。そこであいつがすッてんてんになりやがってね、あっしに、まあ、ちょいとした借りが出来たってわけで――」
「…………」
「そのときに、あの野郎がいい出した。秀、借りは返さなきゃあならねえが、ちょいと談合してえ一件がある。それに片棒かつがせてやるから、うまくいったら借りに棒をひいてくれねえか、いいや、こんなみみっちい借りなんざ、吹きとばすくれえのうめえ話だよ。それであっしが、それアどんな話だときいてみると、実は、おれがむかし――二十年もむかしに|色《い》|女《ろ》だった女が、いま玄冶店に住んでいる。――」
「…………」
「おれを袖にして、蔵前の札差しの妾になっちまいやがったが、罰もあたらねえで、いまは十七、八になった娘といっしょに、玄冶店でぬくぬくと暮しているらしい。らしいどころじゃねえ、こないだそっと様子を見にいったら、旦那に死なれて、ふたりっきりの世帯だが、むかしにまさる色ッぽい年増になりゃがってよ、娘がいるから浮気もできめえが、それだけにあれじゃあきっと男の肌恋しさにもやもやしてるぜ。娘のお波がまた、すこしなよなよしているが、むかしのお半そっくりのいい女――どうだ、何とかしてあの家に|入《へえ》りこんで、おれはお半、おめえはお波を手に入れて、おもしろい目を見ようじゃあねえか。――」
「…………」
「そして、あの日の雨宿りとなった|次《し》|第《でえ》で――おまえさんもお波ちゃんもえらく親切なひとで、存外やすやすとこのうちにゃもぐりこめたものの、さて、おまえさんの様子から、どっこいそのあとがらくに事がはこびそうにねえ。わるくすると、そのうち追ん出されてしまいそうな気配だ。こいつあいけねえってんで、弥五郎のかんがえ出したのが、あの乱暴でさあ。弥五郎がお波ちゃんに乱暴しかけて、おいらが助けていい子になる。そしてお波ちゃんをおいらが手に入れてここにでんと坐りこみさえしたら、あとはこっちのもの、やがてまた弥五郎もひきいれて、お半さんにくっつける。いっときあいつがにくまれ役になるのア、借りのてめえしかたがねえ、はじめはお半さんも怒るかもしれねえが、なんてえたって、むかしの仲だ。そのうち二組ともいい具合にゆくだろうってんで――」
 お半の顔色といったらなかった。……弥五郎がろくでもない人間になっていることは思い知らされてはいたが、それほど悪党だとは思わなんだ!
 |夕《ゆう》|闇《やみ》の中に白く、凍ったようなお半の顔をのぞきこんで、秀之助はニヤリと白い歯をみせた。
「ああサッパリした。おいらもこれでおわかりのように、悪事にかけちゃあ海千山千だが、こんどほど|気色《きしょく》のわるかったことアねえ。それというのも、お半さんとお波ちゃんが、あんまり罪のねえひとで、さすがのおいらも気がさしてしかたがなかったんだ。さあ、これだけきいたら、あっしをお|上《かみ》へつき出しなさるか、それともこのままおさらばした方がようござんすか」
「待っておくれ」
 と、お半はのどに何かからまったような声でいった。
「それじゃあ、またあのひとがこのうちにやってくるの?」
「へ、おいらが、もういいようというまで、あいつあどこかで眼かくしして待ってるはずで――なに、おいらが、もう罪な鬼ごッこはよしたっていやあ、なんとかなるでござんしょう」
 そうだろうか。たとえ秀之助が手をひいたとしても、あたしたちがここにこうしていることをかぎ出した弥五郎が、これからさき姿をあらわさないだろうか?
 お半は全身がつめたくなった。じぶんのむかしの恋人だっただけに、いまの弥五郎の|変《へん》|貌《ぼう》ぶりが、|妖《よう》|怪《かい》のように感じられた。そして、じぶんよりも――お波のために、あの破廉恥な男の再来をおそれた。
「秀さん、よくきかせてくれました」
 と、彼女はふるえ声でいった。庭の空にわずかにのこるひかりのなかに、カサカサと|青《あお》|笹《ざさ》が鳴り、五色の紙がひらめいていた。
「けれど、おまえさん、おまえさんは、もうちょっとこのうちにいておくれ。……それに、あの子は、すっかりおまえさんを信じています」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:41:35 | 显示全部楼层
     二

 それから数日後の、やはり或る日の夕方だった。
 秀之助は朝から留守であった。こうして弥五郎を待っているより、やはりこちらから出かけて話をつけてきた方がいいといって出かけたのに、日がくれてもかえってこないので、お波が心配して、
「おっかさん、秀之助さんはこのままかえってこないのじゃあないのかしら」と泣きべそをかく。それならそれでもいいとお半はかんがえたけれど、ともかく家の外へ五、六歩出てみたのである。
「あ、秀さん。――」
 夕闇のなかを、こちらにかえってきた影に、お半は思わずほっとしてさけんだ。が、その男が、すぐまえに立ちどまったとき、彼女はぎょっとした。
 |黄《たそ》|昏《がれ》にふとその姿を見まちがえたが、顔を見れば中年の――あの弥五郎だったのである。
 うちにいるのはお波ひとりだ。秀之助はいない。――お半は眼をひからせて立ちふさがった。ふたりはしばらくだまってにらみあった。
「悪党」
 と、やっとお半はひくい声でいった。弥五郎はニヤリとした。
「悪党? ああこないだのことか。実アあのことであらためてわびにきたんだ」
「あのことじゃあない。みんな秀さんからきいたよ」
「なにっ、秀に?」
「おまえ、秀さんに|逢《あ》わなかったの?」
「逢わねえ、秀が何といったって?」
「おまえ、はじめからあたしのうちへおしかけ婿にくるつもりでたくらんだってね、ほ、ほ、ふざけるのもいいかげんにおしよ、お半は二十年まえのお半とはちがうんだよ」
「――秀の野郎が、そういったか?」
 弥五郎はうめくようにいった。さすがに狼狽した顔色だ。
「ううむ、あの野郎、うらぎりゃがったな。おい、秀はどこにいる?」
「だから、おまえを探しに出ていったといってるじゃあないの」
「すると、秀はいねえというわけか」
 そううなずかれて、お半はさっとまたからだをかたくしたが、弥五郎は腕ぐみをしてかんがえこんだきり、しばらく顔もあげなかった。
「そうか、そんなことだろうと思った。道理でいままであいつがおれのところにこなかったわけだ」
 と、やがていった。
「畜生、飼犬に手をかまれたとはこのことだ。あいつなら、やりそうなことだ」
「そうわかったら、かえっておくれ」
「お半さん、秀のいったことアだいたい見当がつく。おそらくその九|分《ぶ》通りまでほんとうだ。だが、一|分《ぶ》がうそだね。そのうその一分を信じたら、たいへんなことになる――」
「えっ、一分のうそ?」
「おまえさんの顔色を見れアわかる。おまえさんたちは、すっかり秀を信じているらしいな。うまく|罠《わな》にかかったもんだ。なるほど、はじめこの玄冶店の家のことをおしえてやったのアまさにおれさ。しかし――え、秀はこういったろう、おれがこのうちを乗っ取ろうと|悪《わる》|智《じ》|慧《え》を出したとね。そうだろう?――ちがうね。そのたくらみをもち出したのア、あいつだよ。一分のうそってのはそこだ。そして、よく知っておくがいいぜ。あいつこそ途方もねえ悪党だってことをね。おれをそそのかしてあんな真似をさせたくせに、途中でてめえひとりでうめえ汁を吸おうってんで、約束の裏をかいておれをほうり出そうとしゃがるんだから、血が冷てえといおうか、えげつねえといおうか――」
「そんなこと……おまえがいうだけで、あたしゃ信じられないわ。わるだくみをうちあけたときのあのひとの様子からかんがえても」
「けっ、そこが狙いの逆手だったにはちげえねえが……うまくはめやがったものだなあ。こちとらアあきれて二の句がつげねえや。いまにさんざん骨までしゃぶられたあげく、母娘そろって|羅生門《らしょうもん》河岸の百|文《もん》女郎にたたき売られたって知らねえぞ。おい、お半、おれのいうことがうそだと思ったら、浅草のデブ|亀《かめ》親分――こいつあ|香具師《や  し》の親方だがね――のところへいってきいてみねえ、あの泣く子もだまる親分が、あいつの悪党ぶりだけにア舌をまいてるんだから」
 お半はだまりこんだ。彼女は何を信じていいやら、わからなくなった。
 べつに弥五郎の言い分を全幅的に信じたわけではないが、彼女自身秀之助に不安をかんじていたことは否めないのだ。
「……へんなことをしたら、お上に訴えてやるから」
「何といって?」
 秀之助はまだ何も悪いことを事実の上でやってはいないのである。いや、やろうと思ったがとりやめたとわざわざ申し出たのである。
「ああ、あたし、どうしよう。どうしたらいいのかしら」
「だめだ、あいつに|眼《がん》をつけられたら、|金《こん》|輪《りん》|際《ざい》にげられねえ」
 まるでこちらの苦しみをたのしんでいるような言いぐさに、お半はきっとにらみつけたが、弥五郎の顔は恐怖の色さえうかべていた。
「あんな役者みてえなきれいな面アしてやがってよ、それアおっかねえ男だぜ。片っぱしから女をつくっては、あくびをして捨ててしまう。……おい、お半さん、ひょっとしたら……おめえかお波ちゃんか、もう……」
「ばかなことをお言いでない」
 といったが、お半の顔が|蒼《あお》くなった。お波のことを思い出したのである。
 どうしよう、ほんとうにどうしよう? こうなると秀之助がかえってくるのもこわい。といって、この弥五郎にたよるのもいっそうこわい。
「お半、心配するな、おれが助けてやる」
 と、弥五郎はおし殺したような声でいった。
「あの野郎が裏切ったのなら、おれも義理はねえ。あいつをつかまえて、もう二度とここへ来ねえようにしてやるよ」
「殺すの?」
「お望みなら」
「そんなこと、だれが望むものか。ただおまえも秀さんも、二度とうちへちかづいてくれなきゃいいんだよ」
 弥五郎はお半の言葉もきいていない風で、何やら考えていた。夕闇のなかに、それはなぜかぞっとするほどぶきみな姿にみえた。やがてニヤリとして、ふところに手を入れた。
「おれはな、実はこういうものを持っているんだ」
 小さな紙包みからとり出したのは、ふたつの|蛤《はまぐり》である。その一つの貝のふたをあけると、まっしろな|練薬《ねりぐすり》みたいなものがあらわれた。
「|百足《ひゃくあし》あるきという――」
「え、百足あるき?」
「味もなく匂いもねえが、これをのませるとな、百足あるいて死ぬ――それもな、ひどくのどがかわいて、水が欲しくなって、河でもありゃじぶんでとびこむんだってよ。実はおれも使ってみたことはねえが、いっぺん使ってみてえものだとは考えていた。――」
 そして、ふっとお半の顔をみて、
「おい、お半さん、これを一つやろう」
「そんなきみのわるい薬、いらないよ」
「なに、効かねえかもしれねえよ。おれはな、これから秀の野郎をとっつかまえるつもりだが、ひょっとしてゆきちがいになって、あいつまたここにもどってくるかもしれねえ。そしてな、おれがいったとおり、おまえかお波ちゃんに妙なまねでもしたら、ためしにこいつをのましてみねえ」
 むりにお半の手におしつけた。
「秀に逢えなかったら、あした様子を見にまたくるから」
 |蝙《こう》|蝠《もり》みたいにいってしまった。
 百足あるき――妙な名前の妙な薬を手にして、|茫《ぼう》|然《ぜん》とたたずんでいるお半のうしろで、そっと戸があいた。
「おっかさん」
 蒼い顔のお波であった。
「きいていたわ」
 そしてかけよって、ひしとお半にとりすがった。
「秀之助さんはそんなわるいひとじゃないわ。まえはどうだったかしれないけれど、いまは決してわるいひとじゃあないわ。……おっかさん、あのひとを追い出さないで!」
 急にお波は恐怖に凍ったように夕空をあおいだ。
「もし、あの男が秀之助さんを殺したら?」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:41:56 | 显示全部楼层
     三

 その夜、秀之助はとうとうかえってこなかった。
 朝になって、お半は、お波の頬がゲッソリとこけているのを見出した。一晩じゅう眠らなかったのだと気がついて、お半は何ともいえないきもちになった。もしや……もしや……もしやすると、秀之助は弥五郎のためにどうかされたのではあるまいか?
 その日も秀之助は姿をみせず――夕方になって、やってきたのは弥五郎であった。
「お半……もう安心するがいい。あの野郎はもう二度とここへ来ねえぞ」
 舌がもつれて、顔が|狒《ひ》|々《ひ》みたいだった。酔っているのである。手には一升徳利をぶらさげていた。
「どうだ、ほっとしたろう。祝いの酒をもってきた、ひとつつきあえ」
「…………」
「いいや、二十年ぶりに、おめえの酌で一杯やりたくってよ。さあ、にっこり笑って酌をしてくれ」
「…………」
 ふたりとも、声も出なかった。弥五郎がのこのこと上りかけたとき、はじめてお半ははっとして、その胸をおしもどしながら、
「弥五さん……おまえ、秀さんをどうしたの?」
「どうした? へ、どうしたかな、へへへへ、なんでもいいじゃあねえか、あいつはもう金輪際ここへはこないよ」
 突然、うしろで物音がきこえた。お波が失神してたおれたのだ。
「お波! お波!」
 狂ったようにかけより、お波を抱きあげて、お半は血ばしった眼でふりかえり、
「人殺し! かえっておくれ!」
 とさけぶと、お波を抱いて、奥へ入っていった。床をとってお波を横たえると、お波はかすかに眼をひらいて、
「おっかさん、あたしも死にたい。……」
 といった。その眼から、泉のように涙があふれおちた。
 そのとき、茶の間に、だれかいる気配がした。さては、と出ていってみると、はたして弥五郎がそこに入りこんで、ちゃっかりと長火鉢のそばに坐り、|湯《ゆ》|呑《のみ》|茶《ぢゃ》|碗《わん》に徳利をかたむけて、ひとりでぐびぐびとのんでいた。
「お半、|御《ご》|馳《ち》|走《そう》はねえか」
 顔をあげて、ニヤリと笑い、亭主みたいな口をきいた。胸毛まで朱色に染まって、テコでもうごく気配はない。
 お半の|瞼《まぶた》に、いまのお波の涙がうかんだ。突然、彼女の胸にあの貝に入った薬のことがよみがえってきた。蒼白い風のようなものが、さっと面を吹きすぎた。
 じいっと弥五郎をにらんでいたお半は、ふいに、
「あいよ。……ほんとにしかたのないひとだねえ」
 と、ゆがんだ笑顔をつくって、そばにちかづいた。
「それじゃ何かつくってあげるけれど、おまえさん冷やは毒だよ」
 ――しばらくののち、|胡瓜《きゅうり》もみ、冷やっこなどのお半の手料理で、弥五郎はいよいよ御満悦で酒をのんでいた。
「お半、二十年前を思い出すなあ」
「ほんとにそうねえ」
「二十年前に、おめえと世帯をもってこうして暮していりゃあ、おれももうすこしまっとうな人間になっていたろう。おれの一生を棒にふらしたのアおめえだぜ」
「すまなかったと思うよ。あたしだって、お妾などになりたかアなかった。あのとき、あたしはいっぺん首をつりかけたほどなんだよ。でも、しかたがなかった。……」
「わかってるわかってる。いまになれアわかる。こんどのことも、悪智慧を出したのア秀の野郎だが、おれもついつい乗ったのア、いちどでいいから、おめえとこうして見たかったからよ、かんべんしてくんねえ」
「おまえさん……ほんとに秀さんを殺しちまったの」
「秀のことをいうのはよせ、せっかくの酒がまずくならあ」
「だって……」
「いいよ、いいよ、おめえたちに迷惑はかけねえ。それより、お半――」
 と、いうと、弥五郎はいきなりお半の手をとって、グイとひきよせた。
「あれ」
 と、もがくのもかまわず、片手を背にまわし、片手でお半のあごをぐいともちあげた。|熟柿《じゅくし》くさい息が顔にかかったかと思うと、お半は口を吸われていた。
「う……」歯をくいしばると、弥五郎の一方の手は、はや背からお半の乳房にのびる。
 お半は身もだえした。
「お半、旦那に死なれてから、さびしかったろう。……相手は昔なじみのおれだ。遠慮することアねえぜ」
「お波がいるよ、おまえさん。……」
「だったら、おとなしくして、これ……」
 と、もうお半をたたみにねじ伏せにかかる。夏の宵だけに、それだけのもみ合いで、お半はもうまるはだかにちかい姿になった。まっしろな二本の足のあいだへ、毛だらけの弥五郎の足がわりこんできたとき、お半はたまりかねて大声をあげようとした。――
 そのとき、弥五郎がふいにうごかなくなった。
「…………」
 彼の眼は、白くドンヨリとして宙をみていた。唇が枯葉のそよぎのような音をたてた。
「みず。……」
 と、いったようだ。
 そして、急にお半のからだから手をはなすと、そばの茶碗をつかんで、かぶりつくようにのんだ。しかし、それは例の酒だった。――おかんをして、なかにあの「百足あるき」を溶かしこんだ酒である。
「水。……」
 と、もういちどいった。
 弥五郎はあるき出した。ペロペロと舌を出して唇をなめ、あごがカタカタと鳴っている。――そのまま、およぐように茶の間を出ていった。
 あまりの薬の効きように、お半はあっけにとられて、いまの危機をのがれたのもわすれたように、しどけない姿のまま半身をおこして見送っていたが、戸のあく音とともに、はっとして身づくろいしてかけ出した。
 外はもうとっぷりと日がくれていた。十五夜ちかい月が空にある。その月の下を、弥五郎はふらふらとあるいてゆく。
 路地を出て、堺町の方へあるいてゆく、百歩――いや、百歩はもうとっくにこしたが、彼はたおれない。たおれそうな姿勢だが、ふらふらと|親《おや》|父《じ》橋の方へあるいてゆく。
 この堺町あたりは、明暦のはじめまで、いわゆる元吉原だった。
 それ以前はただ|葭《あし》のおいしげった沼地だったが、ここに|遊《ゆう》|廓《かく》をひらいた|庄司《しょうじ》|甚《じん》|右衛《え》|門《もん》が客を通わせるために作った橋なので、親父橋という。――
 その橋の上に、弥五郎は立ちどまった。そして、欄干をつかんで、じっと水面を見おろしていた。とみるまに、ぐらりとそのからだがかたむいて、石のように川へおちていったのである。
「あっ」
 われしらず、お半は悲鳴をあげた。彼女は橋の上にかけつけて、水をのぞきこんだ。しかし、月に|蒼《あお》くひかる水面は、もうもがく姿もみえず、波紋さえもなかった。
「弥五さぁん」
 お半はさけんだ。ふいに彼女は、たもとに入っていたあの蛤の薬を思い出し、恐怖のあまりそれを川へ投げすてると、一目散に玄冶店ににげかえった。

 そのあくる朝であった。お半は、親父橋のすこし下流の思案橋に、ひとりの男の水死体がひっかかっていたという|噂《うわさ》をきいた。左の二の腕に「一代無法」と|刺《いれ》|青《ずみ》を入れた男の土左衛門だという。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:42:17 | 显示全部楼层
   冥土の呼び声

     一

 ――その水死人は、河におちるとき|杭《くい》か何かにぶつかりでもしたのか、人相はむろん年のころさえよくわからないほど顔が|潰《つぶ》れていたという話であったが、それがだれか、お半だけは知っていた。
 昨夜のさわぎをきいていたとみえて、お波も察したようだ。|母《おや》|娘《こ》は蒼白い顔を見あわせた。しかし、どちらも、何も言わなかった。
 思案橋のたもとに、その|屍《し》|骸《がい》があげられて、|菰《こも》をかぶせられてあるという噂であったが、彼女たちは見にゆかなかった。罪の発覚をおそれるというより、だいいち、土左衛門となった弥五郎を見る度胸はなかった。
 しかし、内心、おそろしいつむじ風が去ったような気がしたことも事実だった。弥五郎に殺された秀之助のことを思うのか、お波はそっと泣いていたようだが、それでもその弥五郎を母が殺したという一種のショックのために、そのかなしみも塗りつぶされたようであった。
 |嵐《あらし》は去った。――日蔭の母娘は、|腑《ふ》|抜《ぬ》けみたいに坐っていた。そして、ともかくこの玄冶店の路地の奥に、以前のとおりのしずかな暮しがもどったように見えた。
 ――ところが、そうではなかったのである。しばらくたってからふたりをぎょっとさせるようなことが起ったのである。
 五日めの朝、お半は台所へいって、何気なく流しのうえをみて、ふと息をのんだ。そこにひとつの蛤がころがっていたからだ。
「お波、お波、おまえ、蛤を買ったかえ」
 と、思わずかんだかい声をはりあげると、
「いいえ」
 と、奥でお波が返事をした。
 その返事をきくまえに、お半の胸は|動《どう》|悸《き》をうっていた。たとえお波が買ったとしても、たったひとつ、蛤がそこにあるということはおかしなことだからだ。いったい、いつ、だれがこんなところにおいたのだろう?
「おっかさん、なあに?」
 立ってくる物音に、お半はあわてて、
「いえ、なんでもないよ」
 と、その蛤をたもとにかくしてしまった。彼女はあの「百足あるき」の蛤を思い出していたのである。しかし、わたしのもらったあの蛤は、たしかに親父橋から河へなげこんだ。もうひとつは、死んだ弥五郎がもっていたはずだ。
 物蔭にいって、そっとその蛤をとり出してみると、なかはからっぽだった。見れば見るほど、大きさといい色といい、おなじ蛤のようだけど……しかし、蛤などというものは、どれだって似たようなものだろう。だれかのいたずらだ。何かのまちがいだ。――お半はそうかんがえて、その蛤を|塵《ごみ》|箱《ばこ》にすててしまった。
 ところが、そのあくる日のことである。庭にたてた七夕の青竹ももう枯れはてたので、お波がそれをとりはらって焼きにかかったとき、突然異様な悲鳴をあげた。
「どうしたの、お波!」
「あれ、あれ、おっかさん」
 と、お波は竹を指さした。
 枯れた竹の葉は、すでに蒼いけむりをあげていた。そのなかに、あちこちと色紙がもえている。色紙は雨にうたれて、みんな色あせていた。ただ――お波の指さしたのは、それにまじって毒々しいほど朱色の色紙だった。数枚ある。お半はかけよって、それをひきちぎって、眼がくらくらとした。
 その|朱《あか》い色紙には、ことごとく「一代無法」という字がかかれてあったのだ。
 それは、たしかに弥五郎の刺青とおなじ文字だった。そして、お波が竹にむすびつけた色紙のなかには、そんなものは決してなかったのである。……
「――どうしたんだろう?」
「――どうしたのかしら?」
 ふたりは唇の色を失って、つぶやいた。お半にいたっては、歯をカチカチと鳴らしていた。きのうの蛤のことが胸によみがえり、吐き気をおぼえ、お波さえいなかったら、わっとさけび出しそうだった。
 その夜、雨がふった。そのくせ、むし暑い夜であった。床をならべた母娘は、じっとりとながれる汗も意識せず、蒼い|蚊《か》|帳《や》の天井に眼をむけていた。そしてお半は、眠ったつもりでもないのに、いつしか悪夢にうなされていたのである。
 酒と獣欲にまっかな顔色になり、眼をぎらぎらとひからせて、じぶんに襲いかかってきた弥五郎の夢だ。口を吸われ、乳房をいじられ、|両腿《りょうもも》のあいだにおしこんできた毛だらけの足の感触。――全身が火みたいにあつくなって、彼女はあえぎ、夢のなかで|虚《こ》|空《くう》をかきむしった。
 ――と、宙がその手で幕をひいたように暗くなって、月明のなかを弥五郎があるいてゆく。そして、橋の上に立って、水を見おろしている|夜鴉《よがらす》のような姿が。……
 夢のなかの弥五郎は、現実の弥五郎よりもさらに恐ろしく、
「ゆ、ゆるしておくれ! 弥五さん!」
 と、彼女がさけんだとき、ふいにその肩をつよくつかまえられた。
「あれ!」
 と、お半はほんとうに悲鳴をあげた。
「おっかさん、おっかさん」
 お波の声だ。
「おっかさんも、あれをきいたの。……あの声を……」
「えっ?」
 雨はなおざあざあとふっていた。母の肩を|爪《つめ》のくいいるほどつかんで、往来の方へ顔をむけているお波の眼は、蚊帳ごしにさす|芯《しん》をほそくした|行《あん》|灯《どん》の灯にとび出すようだった。
 そして軒にしぶく雨音のなかに、ぼそぼそとつぶやく声がたしかにきこえたのだ。
「――そうよなあ、まったくこのざまじゃあ、先へゆけねえ」
 しばらくたって、だれと話をしているのか、力のない陰気の声が、
「――二十年前に、おめえと世帯をもってこうして暮していれア、おれももうすこしまっとうな人間になってたろう。おれの一生を棒にふらしたのアおめえだぜ。……」
 急にお半の眼が白くつりあがった。そして、たまぎるような悲鳴をあげるお波の腕のなかで、彼女は気を失ってしまった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:43:00 | 显示全部楼层
     二

 ――女囚お半の話は終った。
 これが、二十年ぶりに再会したむかしの情人を女らしいやさしさから家に入れたばかりに、まったくごろつきになりはてたその男にだに[#「だに」に傍点]みたいに苦しめられ、娘の恋人を殺された|敵《かたき》を討つためと、じぶんの貞操をまもるために、とうとうその男を殺してしまったという罪で、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される女の物語であった。
 |闇《あん》|黒《こく》のおんな|牢《ろう》のなかに、くびをおれるほどうなだれたお半のひざに、滴々と涙がおちている。
「そう」
 と、お竜はつぶやいて、
「それであなたは、その弥五郎という男の亡霊につきまとわれて、こわさのあまり自首して出たのねえ?」
「ええ、いまから思うと、あんな薬をのませるのじゃなかった。……あのひとはむかしわたしに裏切られて身をあやまり、そのはてにわたしに殺され……わたしを恨んで迷って出たのもあたりまえかもしれない。わたしはいまでも、ときどき、あの力のない――そうよなあ、まったくこのざまじゃあ、先へゆけねえ――という声にうなされるんです。……」
「けれど、お半さん、なるほどあなたは弥五郎を殺したかもしれないけれど」
 と、お竜はいった。
「いまきいた話じゃあ、殺された者にも罪があるわ。それでお奉行さまがあなたをまさか死罪とか|斬《ざん》|罪《ざい》とかにすることはないでしょう」
 お半はだまりこんだ。
「弥五郎は秀之助にその百足あるきとやらをのませろとあなたをそそのかしたんだから、人を|呪《のろ》わば穴二つといっていいんじゃないの。それどころか、じぶんで秀之助を殺したんじゃないの。だからあなたはお波さんのために敵を討ったんじゃあないの?」
「秀之助さんのことは、お奉行さまに言わなかったんです」
「えっ……どうして?」
「秀さんのことをいうと、お波もお|白《しら》|州《す》へひき出されるようになりはしないかと、それがこわかったのです。あの子は心もからだもよわい子だから、なんどもお取調べを受けたりなどすれば、死んでしまうかもしれません。わたしがこんな話をしたのは、お竜さんがはじめてなんです」
「――お波さんはどうしたの」
「蔵前の御本宅のおかみさまにあずけてあります。いえ、まえから旦那さまの忘れがたみだから、ひきとらせてくれないかというお話もあったのです」
 お竜はまじまじとお半の姿を|闇《やみ》の中にすかしてみていたが、
「お半さん、それじゃあお波ちゃんをかばうために、いまあたしがきいた話から秀之助のことをのけて、お奉行さまに白状したという――わたしはどうしても|腑《ふ》におちない」
「何が?」
「ただそれだけのことで、秀之助のことをかくそうとしたわけが」
「どうして?」
「というより、いまの話だけで、あなたが弥五郎を殺す気になったわけが」
「だって――」
「お半さん、あなたはわたしに、まだかくしていることがありますね?」
 お半は、ぎょっとした気配である。しばらくだまっていたのち、お竜がかなしそうな声でいった。
「秀之助の敵を討とうとしたのは、お波ちゃんですね? つまり、弥五郎ののんだ酒に百足あるきを入れたのは、お波ちゃんですね? それだから、あなたは秀之助のことをお奉行さまに申し上げられなかった。――」
 ふいにお竜は、お半にひしとしがみつかれた。恐ろしい力であった。
「ああ、おまえさんにしゃべらなきゃよかった! おまえさんにどういうわけか、ふとしゃべりたくなったのがまちがいだった! お竜さん、お奉行さまに申しあげないで! わたしを下手人にしておいて! お波を……お波を、こんなところに来させないで!」
「だれがそんなことをほかにしゃべるものか。あたしはここにいる女のひとたちとおんなじ身の上、奉行所の犬じゃあないわ。……」
 と、お竜はあわててこたえて、|膝《ひざ》につっ伏したお半の肩をなでたが、暗然とした。
 果然、この女囚は娘の身代りなのだ。娘を罪におとさないためにみずから下手人と名乗り出たかなしい母であった。
 しかし、それならば奉行所での彼女の陳述があいまいをきわめ、おそらく奉行者の心情をわるくしたことも当然だ。彼女が二十年ぶりにたずねてきた古い情人を、たとえ多少のいざこざはあったにせよ、非情に殺害してしまった下手人と目されてもいたしかたはない。「百足あるき」などという妙な薬で、弥五郎がじぶんから河にとびこんだということも信じてもらえず、彼女が弥五郎を水につきおとしたと断定されたのかもしれない。いや、「百足あるき」などいうものは、お竜にさえ信じられない。……
「でも、そんなへんな薬ってあるかしら?」
「それは、ほんとうです!」
 と、お半はさけんだ。ひくいが、必死の声だった。
「わたしでさえ、あの薬の効き方にはびっくりしたんだから、ひとは信じてくれないけれど、でも、それはほんとうですよ!」
「そう……それで弥五郎は死んだ……けれど、幽霊なんてほんとにあるかしら?」
 こんどは、お半がだまった。しかしそれはお竜の疑問に同感したせいではなく、疑うひとにはどうしようもないという絶望の気配がありありと感じられた。
「お半さん、あなた……弥五郎の|屍《し》|骸《がい》をみにゆきました?」
「いいえ」
「ああ、台所に|蛤《はまぐり》がひとつころがっていたのは、五日めのことでしたね。|七《たな》|夕《ばた》の竹にへんな色紙があらわれたのがそのあくる日、雨の軒下で妙な声がきこえたのがその夜――屍骸はもう始末されていたろうし、そうでなくっても真夏のことだから、顔も崩れちまっていたろうし――あ、屍骸の顔は、はじめから|潰《つぶ》れていたといいましたね?」
 お半は、お竜が何をかんがえてそんなことをいい出したのかわからないので、だまっていた。
「お半さん、弥五郎は、ほんとに秀之助を殺してきたといいましたか?」
「二度とうちへは来させないようにしてやったと言いました。だからお波は……」
 お竜はうなだれていたが、やがてひとりごとのようにいった。
「まさか|与《よ》|力《りき》や同心が、刺青と墨でかいたものとまちがえるはずがない。死人に刺青はできないはず……」
 急にはっとして、
「お半さん! 秀之助の左の二の腕に白い布がまいてあったといったようだけれど……」
「お竜さん……あなたは、まさかあの水死人が秀さんだというのじゃあありますまいね?」
 お半も|愕《がく》|然《ぜん》としてさけんだ。
「ちがいます。秀さんの二の腕にもたしかに刺青の文字がありました。いえ、あたしは見たわけじゃあないけれど、お波が見たそうです。秀さんが行水しているときに見たといっていましたけれど、それはたった一字、法、という字が彫ってあったそうで……」
「法?……妙な刺青」
 お竜はくびをかしげていたが、
「弥五郎の素性はわかっているけれど、秀之助とはどういう人間だったのかしら? そうだ、浅草のやくざものだとかいいましたね?」
「ええ」
「あ――さっきあなたは、秀之助がどんな悪党か、浅草のなんとかいう親分のところへいってきけと弥五郎がいってたと言ったじゃあないの?」
「そう、あんまりおかしい名だったのでおぼえていたんです。|香具師《や  し》の親分、デブ亀親分。……」
 お竜は、吐息をついてつぶやいた。
「……それほど手数をかけて、じぶんを世の中から消して、さてどういうつもりなのだろう?」
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