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限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
(かぎりとて わかるるみちの かなしきに いかまほしきは いのちなりけり )
桐壺更衣
源氏物語は 死の和歌から 物語の幕があく
桐壺更衣
光源氏の生母。
父大納言の死後、遺言で桐壺帝に入内する。しっかりした後見がないのを更衣の母は心配していた。身分の低い更衣は帝に大いに溺愛されたため、周囲の恨みを買ってしまう。
数々のいじめに遭い、もともと病気がちだった更衣は身も心も衰弱。光源氏が3歳の夏、急に容態が悪化し夜中過ぎに亡くなる。その直前に、「生き延びたい」という和歌を帝に詠みかけた。
「限りとて」は、帝の詞「限りあらむ道」に応えたもの。
「人の寿命は定めがあるものと諦めてはみても」。
「別るる道の」は、「里下がりのために別れる道」と「死出の道」との両意を掛ける。
辞世の歌である。
格助詞「の」は、同時に二つの機能をはたす。
主格を表して、「別路が悲しいこと」。
連体格を表して、「別路の悲しさ」。
そして、第二句と第三句とを結び付けてゆく働きをもする。
「悲しきに」の接続助詞「に」は、
前者の文脈では、原因・理由の意を含んだ順接の働きをして、「別路が悲しいことなので」の意。
後者の文脈では、逆接の働きをして、「別路の悲しさがあるけれども」の意となる。
助詞の「の」や「に」の機能は、最後まで読まないと判断できない。
上の句までの段階では、どちらとも判断できない。
したがって、両意を合わせて読んでいくのが正しい読み方である。
さて、
両意の文脈を呼び込みながら、
下句へと繋がっていくと、第四句「行かまほしきは」の「行く」は、「行く」と、「生く」との両意を掛ける。
「まほし」は希望・願望の助動詞。
「わたしが生きて行きたいと思うのは」。
第一句第二句で既に、
この別れが永遠の別れになることを悟っている更衣が、
再びここで「いかまほし」というのは、限りない生への願望と執着が表されている。
したがって、上句と下句は、逆接の文脈と考えられる。
「悲しいけれど、それはわかっているが、やはり、わたしの生きて行きたいと思う道は」となる。
第五句「いのちなりけり」は、
「寿命であることよ」「最期であることよ」「運命であることよ」等、さまざまな意がこめられている。
一つのことばで表現してしまったら、この句がもっている豊かな表現性が削がれてしまう。
「生きて行きたいのは、
生の道なのでございます」、
「生きて行きたいのは、生の道なのですが、それも叶わぬ寿命なのでございます」等。
『全集』は「別れ路はこれや限りの旅ならむさらにいくべき心地こそせね」<別れはこれが最期の死出の旅路の別れとなろう、
まったく生きていけそうな気がしません>(新古今集、離別、八七二、道命法師)を指摘する。
丰子恺译本:“面临大限悲长别,留恋残生叹命穷” |
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