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求挪威的森林「日文原版」另- 青木の出京[菊池寛]合集

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发表于 2003-11-9 23:00:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
有求挪威的森林「日文原版」吗?现在网上日文的书籍太少了,有谁能提供呢?





1



 銀座のカフェ××××で、同僚の杉田と一緒に昼食を済した雄吉は、そこを出ると用事があって、上野方面へ行かねばならぬ杉田と別れて、自分一人勤めている△町の雑誌社の方へ帰りかけた。

 それは六月にはいって間もない一日であった。銀座の鋪道の行路樹には、軽い微風がそよいでいたが、塵をたてるほど強いものではなく、行き交(こ)うている会社員たちの洋服はたいてい白っぽい合着に替えられて、夏には適(ふさ)わしい派手な色のネクタイが、その胸に手際よく結ばれていた。また擦れ違う外国の婦人たちの初夏の服装の薄桃色や水色の上着の色が、快い新鮮(フレッシュネス)を与えてくれた。

 雄吉は食事を済した後ののんびり[#「のんびり」に傍点]とした心持に浸っていた。その上、彼はこの頃ようやく自分を見舞いかけている幸撙蛞庾Rし、享楽していた。長い間認められなかった彼の創作が、ようやく文壇の一角から採り入れられて、今まではあまり見込みの立たなかった彼の前途が、明るい一筋の光明によって照され始めていた。彼の心にはある一種の得意と、希望とが混じりながら存在していた。ことに、彼は自分の暗かった青年時代を回想すると、謙遜な心で今の幸撙蛳硎埭工毪长趣扦俊

 彼は、ともかくも晴れやかな浮揚的(ボイアント)な心持で、歩き馴れた鋪道の上を歩いていた。彼の心には、今のところなんの不安もなければ憂慮も存在していなかった。まったく安易な、のうのうとした心安さであった。他人が見たら、彼は少し肩をそびやかしていたかも知れぬほどの得意ささえ、彼の心のうちに混じっていた。彼が、銀座で有名な△△時計店の前まで来た時であった。彼は、ふと自分の方へ動いてくる群肖瘟鳏欷韦Δ沥恕ⅳⅳ胍护膜晤啢蛞姵訾筏俊R娨櫎à韦ⅳ腩啢坤取⒈摔纤激盲俊¥饯欷悉郅螭我凰矔rだった。青木だ! と気がつくと、彼の脚はぴったりと鋪道の上に釘付けにされたように止まってしまった。が、釘付けにされたものは、彼の脚ばかりではなかった。彼のすべての感情が、その瞬間動作を止めて心のうちで化石してしまったように思えた。彼のその時まで、のんびりとしていた心持が、膠(にかわ)のように、急に硬着してしまった。彼の心全体が、その扉をことごとく閉じて、武装してしまったという方が、いちばんこの時の心持を、いい現しているかも知れなかった。雄吉は、身体にも心にも、すっかり戦闘準備を整えて、青木の近よるのを待った。



2



初めて青木を発見したのは、ほんの二、三間前であったのだから、青木が雄吉に近よるのは、二、三秒もかからなかった。雄吉の心持にも劣らないほどの大きな激動が、青木の心のうちにも、存在しないはずはなかった。その上、青木は雄吉のほとんど仇敵に対するような、すさまじい目の光を見ると、心持瞳を伏せたまま近よった。

 二人は目を見合わした。雄吉の目は相手に対する激しい道徳的叱責と、ある種の恐怖に燃えていた。青木の目は、それに対して反抗に輝きながら、しかも不思議に屈従と憐憫(れんびん)を乞うような色を混じえていた。二人はそれでも頭を下げ合うた。

「やあ!」雄吉は、硬ばったような声を出した。

「やあ!」青木は、しわがれて震える声を出した。雄吉は、さっきから青木に対して、どんな態度を取るべきかを、必死に考えていた。青木の出京! それは彼にとって、夢にも予期しないことだった。しかも、その青木と不用意に、銀座通りで出会(でくわ)すなどということは、彼の予想すべき最後のことであった。彼は狼狽してはならないと思った。彼は過去において、青木と交渉したことによって、自分の人生を棒に振ってしまうほどの、打撃を受けていた。その打撃を受けてから六年の間に、彼は、そのためにどれほど苦しみどれほど不快な思いをしたか、分からなかった。が、その苦痛と不快とに堪えたために、彼は今ではその打撃をことごとく補うことができた。今では、青木との交渉によって負うた手傷を、ことごとく癒(いや)すことができたと思っている。しかし、今でも、過去における苦痛と不快との記憶は、ともすれば彼の心に蘇(よみがえ)って、彼の幸福な心持を掻きみだしていった。そして、その打撃から、起因するすべての苦しみを苦しみ、すべての不快を味わうごとに、彼は青木を憎みかつ恨んだ。そして、今ようやくそれらの打撃から立ち直って、やや光明のある前途が拓かれようとする時に、昔の青木が、五、六年も見たことのない青木が、彼の平静な安易な生活を脅(おびやか)すごとく、彼の前に出現したのである。

 彼は、相対した敵の軍隊同士が偵察戦を試みるようにきいた。

「いつ来たんだ!」

「もう一週間ばかり前に来た」と、青木は答えた。その力強い声が、昔の青木そっくりである。彼は過去において、その力強い魅力のある青木の声に、幾度威圧されたか知れなかった。しかも、今自分はかなり得意な、自信のある位置にたち、青木は、数年前失脚したまま、田舎に埋れていたはずだのに、その青木の声から、ある種の威圧を受けるのが不快だった。彼はその威圧を意識すると、全身の力をもって反発せねばならぬと思った。

「何をしに、上京したのだ? 一体君は!」と、彼はきいた。それはある意味の宣戦布告に近かった。彼は、青木が上京して、そのまま滞在するようになるのを、何よりも怖れていた。非常識に大胆で、人を人とも思わないような性情と、ある種の道徳感に欠陥のある青木は、雄吉に対して、またどんなことをやり出すかも、分からなかった。しかも、雄吉は青木の不思議な人格に対して、ある魅力と恐怖とを同時に感じさせられていた。昔の通りの青木が、その持ち前の図々しさで、自分の生活を掻きみだし始めたら堪らないと思った。

「何をしに、上京したのだ?」と、きいておいて、もし青木の返事が、彼の東京に永住することを意味していたら、雄吉は、即座に、「僕は、君とは生涯なんの交渉も、持ちたくない」と、断言する意志であった。

「何をしに、上京したのだ?」という言葉は、それだけでは、普通なありふれた挨拶を、少しく粗野にいい放ったに過ぎなかった。しかし、雄吉がその言葉にこめた感情は、青木に対する全身的な恨みと憎悪とであった。雄吉は、後でその瞬間に、自分の目がどんな悪相を帯びていたかを、思い出すさえ不快であった。まして、その目を真向に見た青木が、名状すべからざる表情をしたのも無理はなかった。その顔は、憤怒と恥辱と悲しみとが、先を争って表面に出てこようとするような顔付であった。それはすさまじいといってもいいほどの恐ろしい顔だった。

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 楼主| 发表于 2003-11-9 23:00:00 | 显示全部楼层
 

3

彼は生涯に、この時の青木の顔に似た顔をただ一つだけ記憶している。それは、彼が、脚気を患って品川の佐々木という病院に通っていた頃のことであった。彼はある日、多くの患者と一緒に控室に待ち合わしていると、四十ばかりのでっぷりと肥った男に連れられてやって来た十八ばかりの女がいた。雄吉はその男女の組合せが変なので、最初から好奇心を持っていた。すると、そこへ医員らしい男が現れた。その医員はその四十男と、かねてからの知合いであったと見え、その男に「どうしたのです。どこか悪いのですか」と、きいた。すると、その男はまるきり事務の話をするように、ちょっと連れの女を振り返りながら、「いやこれが娼妓(しょうぎ)になりますので、健康远悉蝾姢い郡い韦扦埂工取ⅳい盲俊¥饯欷悉饯文肖摔趣盲皮稀锥趣猡いい胜欷垦匀~かも知れなかった。が、娼妓になるための健康远悉蚴埭堡毪长趣颉⒍啶位颊撙湟絾Tや看護婦たちの前で披露されたその女――おそらく処女らしい――その女の顔はどんな暴慢な心を持った人間でも、二度と正視することに堪えないほどのものであった。

 女は心持ち顔を赤らめた。その二つの目は、血走って爛々と燃えていた。それは、人の心の奥まで、突き通さねば止まない目付であった。雄吉は、その目付を今でも忘れていない。それは恥じ、怒り、悲しんでいる人間の心が、ことごとく二つの瞳から、はみ出しているような目付であった。もう、それは三、四年も前のことであった。が、今でも意識して瞳を閉じると、その女の顔が、彼の親の顔よりも、昔失った恋人の顔よりも、いかなる旧友の顔よりも、明確に彼の記憶のうちに蘇ってきた。

 しかるに、今青木の青白い顔の上部に爛々として輝いている目は、この娼妓志願者のその時の目とあらゆる相似を持っていた。彼は青木を恐怖し憎悪した。が、その深刻な、激しい人間的苦悩の現れている瞳を見ると、彼はその心の底まで、その瞳に貫き通されずにはいなかった。しかもその青木はつい六、七年前まで、彼の畏友であり無二の親友であった。雄吉は、その瞳を見ると、今までの心の構えがたじたじとなって、彼は思わず何かしら、感激の言葉を発しようとした。が、彼の理性、それは、彼の過去六年間の苦難の生活のために鍛えられた彼の理性が、彼の感情の盲動的感激をぐっと制止してくれた。彼の理性はいった。「貴様は青木に対する盲動的感激のために、一度半生を棒に振りかけたのを忘れたのか。強くあれ! どんなことがあっても妥協するな」彼は、やっとその言葉によって踏みとどまった。「僕は、一週間ばかり前に上京したのだが」と、青木はいった。彼の目付とはやや違って、震えを帯びた哀願的な声であった。が、雄吉は思った。青木のこんな声色(こわいろ)は、もう幾度でもききあきている。今更こんな手に仱毪猡韦人激盲俊¥⑶嗄兢悉蓼垦匀~を継いだ。



4

「実は明日の四時の汽車で帰るのだ。今度僕は北海道の方へ行くことになってね。今日実は君に会おうと思って、雑誌社の方へ行ったのだが……」と、いいかけて、彼は悄然として言葉を濁した。雄吉は明らかに青木が彼の憐憫(れんびん)を乞うているのを感じた。雄吉と同じく、極度に都会賛美者であった青木が、四、五年振りに上京した東京を、どんなに愛惜しているかを、雄吉はしみじみ感ずることができた。が、一人も友達のなくなった彼は、深い憎悪を懐かれているとは知りながらも、なお昔親しく交わった雄吉を訪(おとの)うて、カフェで一杯のコーヒーをでも、一緒に飲みたかったのであろう。雄吉は、青木のそうした謙遜な、卑下した望みに対して、好意を感ぜずにはおられなかった。が、そうした好意は、雄吉の心のうちに現れた体裁のよい感情であった。雄吉の心の底には、もっと利己的な感情が、厳として存在した。「明日の四時に帰る。しかも北海道へ」と、きいた時、彼は青木の脅威から、すっかり免れたのを感じた。明日の午後四時、今は午後二時頃だからわずかに二十六時間だ。その間だけ、十分に青木を警戒することは、なんでもないことだ。今ここで、手荒い言葉をいって別れるより、ただ二十六時間だけ、彼の相手をしてやればいいのだと思った。否、あるいはその一部分の六時間か七時間か、相手をしてやればいいのだと思った。 

「じゃ、ここで立ち話もできないから、ついそこのカフェ××××へでも行こう」と、雄吉は意識して穏やかにいった。が、初めてそうした世間並の挨拶をしたことが、まったく利己的な安心から出ていることを思うと、少なからず気が咎(とが)めた。

 雄吉が、先に立って、カフェ××××へ入っていくと、そこにいた二、三人の給仕女は、皆クスッと笑った。今出て行ったばかりの雄吉が、五分と経たぬうちに、帰ってきたからである。しかし雄吉はそれに対して、にこりと笑い返すことはできなかった。彼の心は大いなる脅威から逃れていたとはいえ、まだ青木という不思議な人格の前において、ある種々の不安と軽い恐怖とを、感ぜずにはおられなかった。
 
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 楼主| 发表于 2003-11-9 23:00:00 | 显示全部楼层
過去において、青木は雄吉にとって畏友であり、親友であり、同時に雄吉の身を滅ぼそうとする悪友であった。

 雄吉は、初めて青木を知った頃の、彼に対する異常な尊敬を、思い出すことができた。彼の白皙な額とその澄み切った目とは、青木を見る誰人(たれびと)にも天才的な感銘を与えずにはいなかった。彼の態度は、極度に高慢であった。が、クラスの何人(なんびと)もが、意識的に彼の高慢を許していた。青木は傲然として、知識的にクラス全体を睥睨(へいげい)していたのだ。雄吉が、初めて青木の威圧を感じたのは、高等学校に入学した一年の初めで、なんでも哲学志望の者のみに、課せられる数学の時であった。数学では学校中で、いちばん造詣が深いといわれている杉本教授が、公算論を講義した時であった。中学にいた頃には首席を占めたことのある雄吉にも、そのききなれない公算論の講義には、すっかり参ってしまった。すると、雄吉のついそばに座っていた青木――その時、すでに彼の名前を知っていたのか、それともその事実があったために、名前を覚えたのか、今の雄吉には分からない――ともかく、青木がすっくと立ち上ったかと思うと、明晰(めいせき)な湿りのある声で、なんだか質問をした。それは、雄吉にはなんのことだか、ちっとも分からなかったが、あくまで明快を極めた質問らしかった。それをきいていた杉本教授は、わが意を得たりとばかり、会心の微笑をもらしながら、青木の疑問を肯定して、それに明快な答えを与えたらしい。すると今度はまた、青木がにっこり微笑して頷いて見せた。頭のいい先生と、頭のいい青木との間には、霊犀(れいさい)相通ずるといったような微妙なる了解があった。クラス全体は、まったく地上に取り残されていて、ただ青木だけが、杉本教授と同じ空間まで昇っていったような奇跡的な感銘を、雄吉たちに与えずにはいなかった。ことにその頃は、ロマンチックで、極度に天才崇拝の分子を持っていた雄吉は、一も二もなく青木に傾倒してしまった。杉本教授が生徒としての青木を尊重する度合と正比例して、雄吉の青木に対する尊敬も、深くなっていった。

 その上、青木の行動は極度にロマンチックで、天才的であった。雄吉は、ある晩十一時頃に、寄宿舎へ帰ろうとして、大きな闇を湛(たた)えている邉訄訾慰F(ふち)を辿っていると、ふと自分と擦れ違いざまに、闇の中へ吸い込まれるように邉訄訾畏饯丶堡い扦い肭嗄辘ⅳ盲俊¥饯紊n白い横顔を見た時に、雄吉はすぐそれが青木であることを知った。

「青木君! どこへ」と、雄吉は思わず声をかけた。月夜でもない晩に、夜更けて邉訄訾伍湦沃肖丐葰iを撙智嗄兢涡膜ⅳ饯螘rの雄吉には、ちょっと分からなかったからだ。

「ちょっと散歩するのだ」といいながら、雄吉の存在などには、少しも注意を払わずに、痩せぎすな肩をそびやかせて、何かしら瞑想に耽るために、闇の中に消えていく青年哲学者――雄吉はその時、そんな言葉を必ず心のうちに思い浮べたに違いない――の姿を、雄吉はどれほど淑慕(しゅくぼ)の心をもって見送ったか分からない。

 またその頃の青木は、教室の出入りに、きっと教科書以外の分厚な原書を持っていた。雄吉などが、その頃、初めて名を覚えたショーペンハウエルだとかスピノザなどの著作や、それに関する研究書などを、ほとんどその右の手から離したことがなかった。しかも、それを十分の休憩時間などに、拾い読みしながら、ところどころへ青い鉛筆で下線(アンダーライン)を引いていた。

 そうした青木の、天才的な知識的な行動――それを雄吉は後になってからは衒気(アフェクテーション)の伴ったかなり嫌味なものと思ったが、その当時はまったくそれに魅惑されて、天才青木に対する淑慕を、いやが上に募らせてしまった。むろん、彼は意識して懸命に青木に近づいていった。彼の友人というよりも、彼の絶対的な崇拝者として、彼の従順なる忠僕としてであった。



6

青木と雄吉との交情が、何事もなく一年ばかり続いた頃であった。そこに、雄吉に対する大なる災難――それは青木に対してもやはり災難に相違なかった――が、萌芽し始めていた。

 それは、たしか雄吉らが、高等学校の三年の二学期のことだったろう。赤煉瓦の古ぼけた教室の近くにある一株の橄欖(かんらん)が、小さい真っ赤な実を結んでいる頃であった。二、三日前から蒼白な顔を、いよいよ蒼白にして、雄吉が話しかけても、鼻であしらっていた青木が、とうとう堪らなくなったように、教室の壁に身を投げかけるようにしながら、

「さあ! いよいよ田舎へ帰るんだぞ!」と、吐き出すように叫んだ。それは、雄吉にとっては、まったく意外なことであった。雄吉は、自分の君主の身の上にでも、災難が襲いかかってきたかのように、狼狽しながら、

「君が国へ帰る? どうしてだ?」と、きいた。

「どうもしないさ。俺の親父が破産したというだけさ」と、青木は沈痛な、しかも冷静な調子でいった。

 青木の家は、雄吉の知る限りでは、田舎のかなりの資産を持った商人らしかった。青木が、クラスの中で最も多く原書を買い込む事実からいっても、彼がその時まで給与されていた学資は、かなり豊富であったらしかった。

「じゃ、学資が来なくなったわけなんだね」と、雄吉は、この場合にもっと適当した言葉がほかにあると思いながら、とうとうこんな平凡なことをいってしまった。青木は、雄吉の質問をいかにもくだらないといったように、

「まあ! そんなわけさ」と、いったまま黙ってしまった。

 センチメンタルで、ロマンチックで、感激家であった雄吉が、突然青木の身の上に振りかかった危難を知って、極度に感激したのは、むろんのことであった。彼は、どんなことがあっても、青木を救ってやらねばならぬと思った。雄吉にとって、青木を救う唯一の手段は、やっぱり、今自分が世話になっている近藤家の金力に、すがるよりほかはなかった。雄吉は、そう考えると、その日学校から帰ると、自分が家庭教師兼書生といったような役回りをしている近藤家の主人に、涙を流さんばかりに青木の救済を頼んだ。

「本当に、その男は天才なんです、教授連が、すっかり舌を巻いているのです。後来きっと日本の学界に独歩するほどの大哲学者になりそうです」と、自分のいっていることに、十分確信を持ちながら、青木の効能を長々と述べたてた。すると、主人の近藤氏は、実業家に特有な広量な態度で、

「俺は、哲学ということは、どんな学問だか、一向心得んが、いずれ国家に有用な学問に相違なかろうから、その方面の天才を保護するのも、決して無用のことじゃなかろう、君がそうまでいうのなら、青木という人も、家へ来てもらって一向差支えがない」と、こういいながら、何か掘出し物の骨董をでも買うような心持で、青木を世話することを引き受けてくれた。雄吉は、この時ほど、近藤氏を偉く思ったことはなかった。

 雄吉は、自分の手で青木を救い得たことを、どれほど欣(よろこ)んだか知れなかった。雄吉は、その翌日その吉報をもたらして、いそいそとして登校した。その途中でも、彼は、青木がその知らせに接して、どんなに欣ぶか、どんなに自分の親切を感謝するだろうかと考えると、自分の心がわくわくと、鼓動するのを覚えた。

 が、雄吉が、寄宿舎の窓にもたれて、霜柱の一面に立っている邉訄訾蚍判膜筏郡瑜Δ摔埭螭浃辘纫姢膜幛皮い肭嗄兢蛞姢膜堡啤⒔偈悉魏褚猡蛟挙筏繒r――大なる興奮と感激とをもって、話した時、青木はその起きてから間もないと見え、極度に蒼白い顔の筋肉を、ぴくりともさせずに、ただ一言、「そうかい!」と、いったばかりであった。雄吉は、青木の冷静な、ほとんど無関心な態度を、ある種の驚異をもって見た。自分の身の上に湧いてくる危難を、ものの数ともせずに、雄吉の親切などを、眼中においてない青木の態度を、雄吉は怒るよりも、むしろ呆気(あっけ)に取られて見つめるばかりであった。

「じゃまあ! 近藤氏の世話にでもなるか。学校なんかどうだっていいのだが、好き好(この)んでよすにも当らないからな」と、いつものように、傲岸にいい放ちながら、にやりと青木に特有な、皮肉な、人を頭から嘲(あざけ)っているような、苦笑をもらした。雄吉は、自分の全心を投じた親切を、青木のために、こんなに手ひどく扱われながら、それでも青木が、とうとう自分の親切を受け入れてくれて、自分の崇敬措(お)く能わざる青年哲学者の危急を救い得たことを、無上の光栄のように欣んでいた。
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 楼主| 发表于 2003-11-9 23:00:00 | 显示全部楼层
7

青木が、近藤家に寄寓して、雄吉と同室に起臥することになったのは、それから間もなくのことであった。今までもそうであったが、こう二人の生活が、ことごとに交渉することになってからは、雄吉の生活は、ことごとく青木の意志の支配を受けていた。近藤家から命ぜられるすべての仕事は、ことごとく雄吉の負担であった。それと反対に、近藤家から与えられる恩典の大部分は青木が独占した。が、雄吉はそうした自分の従属的な生活を、少しも後悔してはいなかった。思索家、青年哲学者としての青木に対する彼の崇拝は、少しの幻滅をも感じなかったばかりでなく、青木との交情が進むに従って、ますます拡大され、かつ深められていた。ことに、青木が三年になって以来、校友会の雑誌に続けざまに発表した数篇の哲学的論文は、彼の青木に対する尊敬を極度にまで煽(あお)り立てねば止まないものであった。一つは「ベルグソンの哲学の欠陥」といい、一つは「実在としての神」というのであった。その二つの論文が学校中に起した感動(センセーション)はかなり素晴らしいものであった。天才青木! それは、雄吉のクラスだけでの合言葉ではなくなって、ほとんど学校中全体にさえ承認を求めるようにまで進んでいった。雄吉は、青木の天才が、こうした輝かしい承認を受け始めたことを、どんなに驚喜したか、わからなかった。こうして、多くの人々から認められるにつけて、青木の自信と傲慢とは、正比例して増進していった。たしか彼が、近藤家へ移ってからのことであった。その頃、京都大学の哲学教授で、名声嘖々(さくさく)として、思想界の注目をひいていた北田博士が珍しく上京して、大学の講堂で講演をした。それをききに行って帰ってきた青木は、雄吉の顔を見ると、いつものように、吐き出すような調子で、「北田博士から、あの哲学者らしい顔付を除けば、跡には何も残りゃしないぜ」と、いったまま、口をつぐんでしまった。雄吉は、北田博士に対しても、十分な尊敬を持っていたが、彼の崇拝する青木が天下の大学者たる北田博士を一言の下に片づけるその大胆さを、痛快に思わずにはおられなかった。

 雄吉の青木に対する尊敬は、少しも変らなかったが、近藤家に来てから、青木の生活は、妙にぐれ出していた。彼はむろん、実家が破産したということから、ずいぶん大きい打撃を受けていた上に、日常の生活においては、かなり享楽者(エピキュリアン)であった青木は、なんといっても不自由な寄食的生活と、月々給与せられる五円という小額な小遣いとのために、その生活をかなり虐げられているらしかった。彼は、見る見るうちに蔵書――高等学校生としては極度に豊富な蔵書を、売り払ってしまった。彼には、他人の家に宿食してからも、その享楽的な生活を更改することが苦痛らしく見えた。彼は蔵書を売り払った金で、やっぱり本郷あたりのカフェで、香りと味の強烈な洋酒の杯を享楽していた。そのうちに、青木の身辺から、消滅するものはその蔵書ばかりではなくなった。いつの間にか、彼の懐中時計は彼の机上から、影を隠していた。

 そんなことが起っているうちに、だんだん雄吉と青木との二人を襲う災害が近づいてきていたことを、雄吉は少しも気づかなかった。雄吉は、青木のそうした放逸な生活も、天才的な性格にはありがちな放縦として、むしろ好意をもって彼を見守っていた。

 三月の試験が間近に迫ってきた頃であった。雄吉が何かの用で少し遅れて、学校から帰ってきた。すると、よほど前から帰っていたらしい青木は、雄吉の目の前に、いきなりある小さい紙片を広げて見せた。

 それは、金銭上の取引きなどには疎(うと)い雄吉にとっては、かなり珍しい小切手であった。しかも、雄吉ら学生にとってはかなりの大金だといってもいい百円という額面であった。雄吉は、妙な不安と興奮とをもって、青木の手中にあるその小切手を見つめた。

「どうしたのだ、その金は?」と、雄吉の声は、かなり上ずっていた。

「どうもしないさ」と、青木はいつものように、冷静であった。「矢部さんがね、僕の窮状に同情してくれて、翻訳の口を探してくれたのさ。かなり大きい翻訳なのだ、僕が困るといったものだから、これだけ前金を融通してくれたのだ、はははは」と、彼はこともなげに笑った。矢部さんというのは、学校の先輩で、もうすでに文壇にも十分に認められている新進の哲学者であって、青木は二、三度、この人を訪問したことがある。雄吉は、青木に向いてきた幸撙颉⒆苑证韦长趣韦瑜Δ诵溃à瑜恧常─螭馈¥饯欷韧瑫rに、まだ学生でありながら、そうした大きい翻訳に従事する青木を、賛嘆せずにはおられなかった。

「それで、君に頼みたいのだがね、この小切手を、一つ貰ってきてくれないか。○○銀行支店といえば、そう遠くないのだから、四時までには行けるだろう。裏へ署名して判を押すのだが、僕は判を持っていないから、君の名でやってくれないか」

 雄吉が、青木の依頼を唯々諾々(いいだくだく)としてきいたのはむろんである。雄吉は、自分が青木の代人としてそうした大金を引き出すのを、一個の名誉であるがごとく、欣んで○○銀行支店へ駆けつけた。

 手の切れるような、十円札を十枚、汗ばんだ手で握りしめながら、雄吉はあたふたと帰ってくると、青木は鷹揚に、

「やあ御苦労御苦労」と頷いて、雄吉から受け取った札を数えると、その中から二枚を雄吉の前に差し出しながら、「ほんの少しだが、取っておいてくれ給え」といった。中学時代から、貧家に育った雄吉には、二十円というような大金をまとめて掴(つか)んだことは、そうたびたびある経験ではなかった。雄吉は、自分の尊敬する君主から、拝領物をでも戴いたように低頭せんばかりに、

「やあ、ありがとう」と、いいながらそれを押し戴くようにした。

 八十円を懐にした青木は、線香花火のように燦(きらび)やかな贅沢をやった。彼は、クラスの誰彼を、その頃有名に成りかけていた、 鎧橋(よろいばし)際のメイゾンコーノスへ引っ張って行って、札びらを切って御馳走した。そして、二晩も三晩も、寄宿舎へ泊るといって、近藤の家へは帰ってこなかった。

 が、一週間と経ち、十日と経つうちに、青木はまた元のように慎ましい生活を強いられているようであった。それは、雄吉にとっては忘れられない四月の十一日の晩であった。晩餐を済すと、青木は「ちょっと散歩してくる」といって出ていったまま、なかなか帰って来なかった。雄吉はただ一人、春の宵にありがちな不思議な憂鬱に襲われて、ぼんやり机にもたれていると、後の窑⒁簸鉄oく開かれたと思うと、聞き馴れた小間使いの声がして、

「旦那様が、ちょっと御用です」と、いった。

「はあ」と答えると、雄吉は気軽に立ち上った。また、いつものように、到来物の礼状でも書かされるのだなと思いながら、長い廊下を通って、主人の部屋へ行った。いつもは、微笑を含みながら、雄吉を迎える主人が、にこりともしないで、苦り切ったまま座っているので、雄吉はいささか勝手が違いながら、座って礼をした。すると、主人は、「はなはだ不快な用事だが」といいながら、その膝の上に置いてあった紙入から、小さい紙片を取り出して、雄吉の目の前に押しやりながら、

「どうだ、それに覚えがあるかな」と、硬い、凍ってしまったような声でいった。雄吉は、なんだか見覚えがあるように思った。彼は、恐る恐る、それを取り上げた。雄吉の目が、紙面を見詰めた瞬間に、彼の全身は水を浴びせられたように戦(おのの)いた。それは紛れもない、百円の小切手であった。しかも自分が、青木の命令によって、唯々諾々として○○銀行支店へ引き出しに行った百円の小切手に相違なかった。主人は、雄吉の顔面に現れた狼狽を見済すと、以前よりももっと冷たい声で、

「その裏の署名捺印は、お前のに相違なかろうな」といった。雄吉はぶるぶる震える手で裏を返して見た。そこには、明確に過ぎると思われるほど、丁寧な楷書で、広井雄吉と署名されて、捺印されている。

8

「俺(わし)はもう何もいわない。最初その小切手が、俺の手文庫から紛失しているのを発見した時、俺は女中か何かの出来心かと思っていた。それが俺の考え違いであったことを、俺は遺憾に思うだけじゃ。俺は、貴君に対して、別に法律上の制裁を与えようというのでもなければ、その金を返してくれというのでもない。ただ貴君が、俺の家を出るということだけは、この場合、貴君が当然採るべき義務だと思うだけだ。ただ貴君のために一言いっておくが、今度のことで、貴君がなんの制裁をも受けなかったといって、これから後もやはりこうしたことを続けていると、貴君は社会的に、存在し得なくなるからな」と、苦り切ってはいたが、しかし紳士としての自分の品格を、傷つけることを怖れるかのように、その心に動いている雄吉に対する侮蔑と憤怒とを、あくまでも冷静に抑えているらしかった。

 雄吉は、ただ茫然として、すべての考察を奪われた人間のごとく、主人と自分との間にある畳の縁を、ぼんやりと見つめているばかりであった。彼のこれほどまでに尊敬している青木が、主人の手文庫から小切手を盗み出したということが、彼には夢にも予想し得ないことだった。また盗んだものを、白昼公然と、自分に命じて、引き出しにやった青木の大胆さは、ほとんど常識を備えた者としては考えられないことだった。しかし雄吉は主人の前に蹲(うずくま)りながら、この事件から身を脱するのは、なんでもないことだと思った。

「あの小切手は青木が、持っていたものです」といってしまえば、自分だけは手もなくこの災難から脱することができると思った。が、その時の雄吉は――青木の人格的魅力に陶酔しきっていた雄吉は、自分に降りかかって来た嫌疑を、手もなく、青木に背負わせて、自分一人浮び上るのに堪えなかった。彼はその時、ふと青木の今までの行動から、彼の道徳性を調べて見る気になった。青木は一体盗みをするという悪癖を持っているのだろうかと考えた。すると、雄吉の心にふと、一月前の青木に関したある光景が浮んできた。それは学校の教室で、青木が、新しく古本屋から買ったばかりだというドイツ語の辞書を見ていると、すぐ横にいた同じクラスの藤野という男が、

「おやっ! 君はこの辞書をどこで買ったんだい」と、きいた。すると、青木は、何を無礼な質問をと、いったように例のごとく高飛車に、

「なんだってそんなことをきく必要があるんだ。どこで買おうと俺の勝手じゃないか」と、冷淡にほとんど取りつく島もないような返事をした。気の弱い藤野は、青木の剣幕に威圧されてしまったらしく、そのまま黙ってしまった。が、雄吉はそれからしばらくしてから、友達の誰かに藤野が、

「不思議なことがあればあるものだね。僕が盗まれたドイツ語の辞書を、青木君がどこかの古本屋で買ったらしいよ」と、いっているのをきいた。そのことを、青木にきかせるのは、ただ青木を不快にするばかりだと思ったから、雄吉は自分一人の胸のうちに止めておいたが、今、雄吉が近藤氏の前にあって、青木の過去の行動を顧みると、この辞書の問題が、彼の心に大いなる疑念を湧かした。藤野の好意ある解釈、盗まれた本を青木が古本屋を通じて買ったという解釈――むろん雄吉はその当時はそれについて、なんの疑念も懐かなかった――が果して正しいものだろうか。この小切手の事件から思い合わすると、その辞書は藤野の所有から、なんらの仲介なしに、直接青木の所有に移ったのではあるまいか。雄吉はそう考えてくると、もうそれは、動かすべからざる事実のように思われ始めた。

 雄吉が、心のうちで青木の悪癖を確かめているのを、近藤氏は、雄吉が苛責の心に責められているのだと思ったらしく、

「ああもういい。あちらへ行って休み給え。君は見たところ、立派な体格を持っているのだから、心を入れかえて奮闘さえすれば、一人前の人間に成れぬことはない。さあ、もうあちらへ行き給え」と、いった。

 雄吉の沈黙を、服罪だと解釈した主人は、もうこの上責める必要もないと思ったのか、またこの不快な会見を、早く切り上げようと思ったのか、しきりに雄吉を促したてた。

「実は、あの小切手は青木が持っていたのです」と、雄吉は口まで迸(ほとばし)って出ようとする言葉を抑えつけながら、彼は懸命になって、自分の採るべき処置を考えた。天才と病的性格ということを、彼は思い出した。盗癖のある青木が、そうした欠陥にもかかわらず、輝いた天分を持っている。青木の、こうした天才を保護し守り育ててやることが、われら凡庸に育ったものの当然尽すべき義務ではあるまいかと、雄吉は思った。自分が近藤家から追われる! そのことによって、どんな損害を受けても、それは一人の天才の前途を暗くすることに比べれば、なんでもないことじゃないかと、雄吉は思った。ことに、体格の強壮な自分なら、苦学でもなんでも、やれぬことはない。これに反して青木、羸弱(るいじゃく)といってもよい青木にとって、苦学などということは、思いも及ばぬことだった。こう考えてくると、ロマンチックな感激と、センチメンタルな陶酔――それらのものを雄吉は、後年どれだけ後悔し、どれだけ憎んだかわからないが――とで、彼の心はいっぱいになった。――俺は、青木の罪を引き受けてやろう、そうすれば、青木も俺の犠牲的行動に感服して、その恐るべき盗癖から永久に救われるに違いないと雄吉は思った。むろん青木が帰宅して、彼が自分で責任を持って自首するといえばそれまでだが、ともかく、俺はひとまず青木の罪を引き受けて、この主人の部屋を出よう。主人は、俺の後影をどんなに蔑み卑しんで見送ろうとも、俺は一人の天才、一人の親友を救うという英雄的行動を、あえてなした勇士のごとき心持で、この部屋を出てやろう。雄吉はそう決心すると、不思議なほど冷静になって、

「どうも相済みませんでした」と、挨拶しながら主人の部屋を辞した。長い廊下が、目の前の闇に光っていた。雄吉は芝居をしているような心持であった。すべての理性が、脹(ふく)れ返っている感情の片隅に小さく蹲っているような心持であった。その時に、雄吉の頭に、故郷に残している白髪の両親の顔が浮んだ。続いて、それを囲みながら、無邪気に遊び戯れている弟妹の顔が浮んだ。雄吉は水を浴びたようにひやりとした。お前は自分一人の妙な感激から、責任のある身体を、自ら求めて危難に陥れてもいいのかと、彼の良心が囁(ささや)いた。が、雄吉の陶酔と感激――人生の本当のものに対する感激ではなくして、人生の虚偽に対する危険なる感激――とに耽溺(たんでき)している彼には、そうした良心の声は、ほとんどなんの力さえなかった。
 
 
 2003-11-6 17:45:33

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 楼主| 发表于 2003-11-9 23:00:00 | 显示全部楼层
 
 
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9

彼はその夜、青木の帰るのが待たれた。青木がその小切手に対して、明快な弁解をしてくれるかも知れないという、空疎な希望もあった。また青木が、自分の罪を自分で背負って、主人の前に懺悔する。すると、主人は雄吉の潔白とその犠牲的行動とに感激する。そして、雄吉の友情に免じて青木の罪をも不問にしてくれる。雄吉はそうしたばからしい空頼みにも耽っていた。

 青木が帰ったのは、十一時を回っていた頃であった。彼はやはり、いつものように、つんと取り澄ました彼だった。雄吉が、常に青木に対して持っていた遠慮も、今日ばかりは、少しも存在しなかった。

「おい! 青木、ちょっとききたいことがあるんだがね」と、雄吉は青木のお株を奪ったように、冷静であった。

「なんだ!」と、青木は雄吉の態度が、少し癪に触ったと見え、雄吉の目の前に、突っ立ちながら答えた。

「まあ! 座れよ。立っていちゃ、ちょっと話ができないんだ。実は、この間の百円の小切手だがね、あれは君、本当に翻訳の前金として貰ったのかい」

「なんだ、そんなことを疑っているのかい。この間、君にもいったじゃないか。僕が矢部さんと共同でベルグソンの著書を片端から翻訳することになったんだよ。その前金として矢部さんが貰ってくれたんだ」と、青木の答は、整然として一糸も乱れていなかった。その瞬間、雄吉は近藤氏の言い分の方を、何かの間違いではないかと、思ったほどであった。

「そうか。それなら、はなはだ結構だ。実は、さっき、ここの主人に呼ばれて行ってみると、主人があの小切手を出して、これに覚えがあるかと、いうのだ。で、あると俺が答えると、主人は、あの小切手は主人の手文庫にしまっておいたもので、俺が盗んだのだろうというのだ。が、君が本当に翻訳の前金として貰ったというのなら大いに安心した。じゃこれから、主人のところへ行って、弁解してくれないか」

 それをきいた時の、青木の狼狽さ加減を、雄吉は今でも忘れない。青木は、彼が今まで装ってきた冷静と傲岸とが、ことごとく偽物であったと、思われるばかりに、度を失ってしまった。彼の顔は、一時さっと真っ赤になったかと思うと、以前より二、三倍も、蒼白な顔に返りながら、

「君、本当かい、主人が本当にそんなことをいったのかい」と、青木は哀願的に、ほとんど震えるばかりの声を出した。

「本当だとも、今から主人の前へ出れば分かることだ」と、雄吉は厳然としていった。彼はその瞬間、青木に対する自分の従僕的な位置が転換して、青木に対して、彼が強者として立っているのを見出した。彼は、それが快かった。

「あっ! どうしよう、俺の身の破滅だ」と、悲鳴のような声を出したかと思うと、青木は雄吉の目の前に顔を抱えながら、うつぶしてしまった。今までの倨傲(きょごう)な青木、絶えず雄吉を人格的に圧迫していた青木が、今やまったく地を換えてしまって、そこに哀れな弱者として蹲っていた。

「君はどうして、あんな非常識な、ばかなことをやるんだ。泥棒をやるのなら、なぜもう少し、泥棒らしい知恵を出さないのだ」と、雄吉は、青木と交際し始めて以来、初めて彼を叱責した。

「それをいってくれるな。俺のは、まったくふらふらとやってしまうのだ。俺は、そのためにいつかは身を滅ぼすと、思っていたのだ」と、そういいながら、彼はその蒼白な顔を上げた。なんという悲壮な顔だったろう。盗癖という悪癖を――意識をもってはどうともできない悪癖を持っている人間の苦悩といったものを、顔全体にみなぎらしていた。

「どうしよう広井君! (青木が雄吉に君を付けて呼んだのはこれが初めてだった)どうか。俺を救ってくれ、俺は破産した自分の家名を興す重任を帯びているのだ。食うや食わずで逼塞(ひっそく)している俺の両親は、俺の成業を首を長くして待っているのだ。ここを追われると、俺のこの身体で食っていくことさえ覚束(おぼつか)ない。ああどうしよう、広井君! どうかして俺を救ってくれ、主人は君、告発するとか、そんなことはいいはしまいね」

 雄吉の心には、かくまでに参ってしまった青木に対する同情と、今まで自分を見下していた青木が、手を合わさんばかりに哀願しているのを見ている一種の快感とが、妙にこんがらがっていた。そして、その二つともが、彼が青木の罪を負うという決心を固めるのに役だった。

 彼は、主人の部屋を出た時と同じように得々とした心持で、

「実はね、主人の前は僕が責任を背負ってきたのだ。僕は君のために、この罪を背負ってこの家を出ようと思うのだ。君を罪に落したところで、僕が、君をこの家に紹介した責任は逃れないし、また僕が何も知らないで、小切手を引出しに行ったということも、ちょっと弁解が立たないし、これが表沙汰にでもなるというのなら、別問題だが、この家を出さえすれば済むことだから、僕も即座に決心してしまったんだ」

 これをきいた時の、青木の顔が一時に生気を呈したのはむろんであった。が、青木は、なるべくその生気を押し隠すように、涙を――それも嬉し涙であったかも知れぬと雄吉は後で考えた――ぽろぽろと流しながら、「そんなことを! 僕の罪を君に委せて、僕が晏然(あんぜん)と澄ましておれるものか、僕はそれほど卑屈な人間ではない。さあ一刻も猶予すべきでない、さあ主人のところへ行こう」



10

雄吉は、後年になってから、なぜその時青木と一緒に主人のところへ行かなかったかを悔いた。が、不思議な感激と陶酔とに心の底までを腐らされていた雄吉は、威丈高(いたけだか)になるばかりに、

「ばかなことをいっちゃ困る。君が、この家を出たら、どうなると思う。君はその弱い身体で、パンを求めるさえ大変じゃないか。まして、学校をどうするのだ。君は自分で、自分の天分を愛惜することを忘れちゃだめだぞ。僕はこの家を出ても、どうにでもやってみせる」と、感激に溢れた言葉でいった。

「君がなんといっても、君に代ってもらっては僕の良心に済まない。どうか、僕に自白させてくれ給え」と、青木は叫んだ、青木の言葉も、まんざら偽りだとは思われないほど感激していた。

「が、どちらにしても今夜は遅い。主人は寝ているに違いない。それよりか、君も僕も一晩ゆっくりと寝ながら考えよう」

 青木も、それに異存はなかった。雄吉と青木とは、枕を並べながら、眠られない一夜を明した。

 雄吉の決心は、夜が明けても、動いていなかった。が、主人に自白するといった青木は、夜が明けると、そのことをけろりと忘れてしまったかのように、ただ目にいっぱい涙を湛(たた)えながら「済まない済まない」と、口癖のようにいい続けるだけでだった。

 その日の午後に、雄吉は、わずかな身の回りのものを始末して、三年近く世話になった近藤家を去った。

 近藤家を去った雄吉は、自分の壮健な肉体に頼るほかに、なんらの知己も持っていなかった。彼は、その翌日からすぐ激しい労働に従事した。もう卒業までは、わずかに三カ月である。学校を出て大学に入れば、自活の道も容易に見出されると思っていた。が、そうした苦しい奮闘のうちにも、彼は青木から得る感謝と慰藉を、自分の苦闘の原動力としようとさえ思っていた。

 が、そこに雄吉にとって食うべき最初の韮(にら)があった。青木は雄吉の予期とは反対に、雄吉を敬遠し始めた。二人が会って話していると、そこに奇怪な分裂が存在し始めたことを、雄吉は気がつかずにはおられなかった。青木のことを雄吉は、いつの間にか青木! 青木! と呼び捨てにしている自分を見出した。彼は青木に対して、命令的な威圧的な態度に出る自分を見出した。それは、今までの青木と雄吉との位置の転倒であった。今まで、青木に踏みつけられていた雄吉が、奇抜な決死的な手段によって、青木を征服して、上から踏みつけているようであった。傲岸で自意識の強い青木は、雄吉のこうした態度に、どれだけ傷つけられたか分からなかったらしい。

「俺は貴様の恩人だぞ、貴様の没落を救ってやった恩人だぞ。俺のいうことに文句はあるまいな」と、いったような意識が、青木に対する雄吉の態度の底に、いつも滔々(とうとう)として流れていた。青木は、雄吉のそうした態度から来る圧迫を避けるためであったろう。教室へ出ている時にも、なるべく雄吉と話をすることを避けた。雄吉が、それを怨み憤ったのは、もとよりであった。二人の間には、大きな亀裂(ギャップ)が口をあけ始めていた。

 高等学校を出ると雄吉は、学資を得る便宜から、京都の大学に入ることになった。さすがに雄吉との別離を惜しんだ青木は、

「もう僕も、大学生なんだから、月に十円や十五円の内職をすることは、なんでもないことだから、僕が働いて月十円は必ず君に送金する。それは当然僕のなさねばならぬ義務だ」と、青木はその大きな目に涙を湛えながら、感激していった。


 
 
 2003-11-6 17:46:50    
 
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11

雄吉の京都における生活は、かなり苦しい悲惨なものであった。彼は、ある人の世話で、職工夜学校の教師をした。が、それは彼の時間のほとんどすべてを奪って、しかもわずかな報償を与えるのに過ぎなかった。彼は、ノートを購(あがな)うにさえ、多くの不自由を感じた。彼は一時の興奮と陶酔とのために、青木のために払った犠牲のあまりに大きかったのを後悔し始めた。彼は、よく芝居で見た身代りということを、考え合わせた。一時の感激で、主君のために命を捨てる。それはその場きりのことだ。感激のために、理性が盲目にされているその場限りのことだ。雄吉自身の場合のごとく、その感激が冷めているのに、まだその感激のためにやった一時の出来心の恐ろしい結果を、背負わされているのは堪らないことだと思った。

 青木が、涙を流しながら誓った送金は、いつが来ても実現しなかった。雄吉は堪らなくなって、二、三度督促の手紙を出した。青木からは、それに対して一通のハガキさえ来なかった。彼は、最後にほとんど憤りに震えているような文面の手紙を出した。それに対しても、青木は沈黙を守り続けた。

 もう、その頃の雄吉は、自分の身代り的行動を、心の底から後悔し始めていた。それと同時に、現在の苦学生的生活の苦悩が、ひしひしと身に食い込んできた。そのために、彼は自分の過去におけるばからしさと、青木の背信とを恨んだ。

 が、雄吉の食らうべき第二の韮(にら)は、もうそこに用意されていた。雄吉が京都に来た翌年の春であった。雄吉や青木と同じクラスであった原田という男が、故郷の岡山から上京する道で、京都に立ち寄って雄吉を訪問した。彼は、雄吉の顔を見ると、すぐ、

「君は、青木のことをちっとも知るまいな。あいつはこの頃大変だぜ。すっかり遊蕩児になりきってしまってね。友人の品物を無断で持ち出すやら、金を借り倒すやら大変だ。近藤さんのうちも、とうとうお払い箱さ。なんでも、近藤さんのうちの貴金属をずいぶん持ち出して、売り飛ばしていたんだってね。あいつのは、まるきりでたらめなんだ。後で露見しようがしまいが、そんなことは平気なんだ。あいつは悪事をやるのまでが天才的だ、という評判だよ。……今だから、いってもいいが、あいつは君が近藤さんのうちを出た時に、何か君が悪いことをやったように、僕たちの間に触れ回っていたよ。僕たちは、むろんそれを、少しも信じなかったがね」といった。

 雄吉は、それをきいていると、青木のために土足で踏みにじられたように思った。「貴様は俺に恩を施したつもりでいるのか、貴様から受けた恩なんか、この通り踏みにじってしまったのだ。貴様が、一身を賭して、僕のために保留してくれた近藤家の保護を、俺はこちらから御免を蒙ったのだ」といっているような青木の皮肉な顔を、雄吉はまざまざと想像することができた。

 雄吉の心を極度にまで傷つけたことは、彼が青木のために払った犠牲のために、今なお苦しみ続けているのにかかわらず、青木が雄吉のそうした苦痛によってようやく保留し得た保護を、それほど破廉恥に、それほど悪辣に、それほど背信的に踏みにじったことであった。それをきいてから、雄吉は、全人格をもって、青木を恨み、呪詛し、憤らずにはおられなかった。彼は青木に対するすべての好感情を失い、満身を彼に対する憎悪と侮蔑とで、埋めてしまった。しかも、それは、彼の苦学的生活が、苦しくなれば苦しくなるにつれて、深められていった。

 青木が、大学でも不始末を演じて、除名されたという噂をきいたのは、それから間もないことであった。が、その時には、埋もれていく青木の天分を惜しむほどの好意も、雄吉の心のうちには残っていなかった。



12

今、カフェXXXXの一隅の卓(テーブル)を隔てて、その青木は雄吉の眼前に座っている。雄吉の心のうちに、ダニのように食いついて離れない青木に対する悪感を、青木は少しも知らないのかも知れないと、雄吉は思った。青木に対する昔の好意が――自分の身を滅ぼすことをも辞さないほどの好意の破片(かけら)でもが、雄吉の心のうちに残っているとでも、青木は誤解しているのかも知れないと、雄吉は思った。が、どう思っていてもいい、もうわずかに二十六時間だ。いやこの会見をさえ、手際よく切り上げれば、後はすぐ、さっぱりするのだと雄吉は考えた。

 が、雄吉の前に腰かけながら、黙って目を落している青木を見ていると、彼は六年という長い間、田舎に埋れていた青木の生活を、考えずにはおられなかった。負惜しみが強く、アンビシャスであった青木が、同窓の人たちが大学を出て、銘々に世の中に受け入れられていくのを見ながら、無味乾燥な田舎に、その青春時代を腐らせていったもどかしさや、苦しさや、残念さを考えると、雄吉は、自分自身の恨みを忘れて、青木のために悲しまずにはおられなかった。

 が、彼にとっては、煉獄といってよいほどの、苦しい生活を嘗めていたのにもかかわらず、青木はほとんど変っていなかった。雄吉のそうした憫みを受けるべく青木の顔は、昔の若さをほとんど失っていなかった。ことに青木の着ている合着は、雄吉の合着よりも新しくもあれば、上等の品でもあった。

 雄吉には、青木のそうした無変化さが、少し物足りなかった。雄吉の悪魔的な興味は、もう少し零落して、しなびきっている青木を見たかったのだ。

 雄吉は、何か話題を見つけようと思った。が、昔の生活を回想することは、青木にとっても、雄吉にとっても苦々しいことであったし、それかといって、現在の二人の生活には、話題となるべきなんの共通点もなかった。

「君はちっとも変らないじゃないか」

「ああ変らないよ」と、青木は答えた。その声は、昔の青木と少しも変らないように、雄吉にとっては威圧的に響いた。二人はまた黙ってしまった。雄吉は、友達の噂でも話してみようと思った。が、クラスのうちの誰も、皆立派に成功の道に辿りついていて、誰の噂をしても、青木に対して当てつけがましくきこえないのはなかった。雄吉は、やっと岡本という男のことを思い出した。その男は、大学を出るのも、一年遅れた上に、大学を出てからも、職業がなくてぶらぶらしていた。この男の噂なら、青木を傷つけることはないと思った。

「君は、岡本の噂をきいたことがあるかい」と、雄吉がきくと、

「岡本! あああいつか。あいつはまだ生きているのかい」と、青木は突き放すようにいった。「青木! あああいつか。あいつはまだ生きているのかい」という方が、もっと自然らしく思われるその青木が、こうした昔のままの傲慢さを持ち続けていることが、雄吉にはむしろ淋しかった。雄吉が、話題に困っている様子を見ると、青木は、

「どうだい、君や桑野は勉強しているかい。外国のものなんか、盛んに読んでいるだろうな」と、妙に皮肉に挑戦的にきいた。それは、昔の青木とほとんど変っていなかった。そうした青木の攻撃的(アグレシヴ)な言葉に、今でも妙な圧迫を感ずるのを雄吉は自分ながら不快に思った。青木と雄吉との間に起った交渉、それを雄吉は胸に彫りつけているのに、青木はそれをけろりと忘れたように、雄吉に対して、それに対するなんの遠慮も、払っていないらしかった。

「君の単行本はまだ出ないのかい」と、青木は雄吉がたじたじとすればするほど、揶揄(やゆ)とでもとればとれそうな質問を連発した。まだ三、四篇しか作品を発表していない雄吉に、単行本が出せるわけはなかった。

 雄吉は、向い合って話しておればおるほど、不思議な圧迫を感ぜずにはおられなかった。

 六年憎み続けてきた青木、今ではもう、彼の天分を尊敬したことさえ一つの迷妄だと自分では思っている雄吉にとって、青木はなおある不思議な魅力と威圧とを持っていた。久し振りに顔を見合わした当座こそ、恥かしさに面を挙げ得なかったほどの青木が、紅茶を一杯すすっているうちに、いつの間にか、雄吉の上手に出ているのを感じた。雄吉は、そのことがかなり不快であった。青木が全然失敗の男であり、しかも雄吉に対しては、とても償いきれぬような不義理を重ねていながら、いったん顔を見合わしていると、彼の人格的威圧が、昔のように厳として存在しているのが、雄吉は堪らなかった。雄吉は、どうかしてこの不快から逃れようと思った。が、青木と会ってから三十分にもならないのだから、体(てい)よく別れを告げるわけにもいかなかった。

「どうだい! 君、桑野のところへ行ってみないかい」と、ようやく雄吉は一策を考えた。桑野は、やはり同窓の一人で、作家としていちばん早く世間から認められた男であった。

 青木も賛成した。雄吉は給仕女を呼んで、勘定を払おうとした。すると青木はいつの間にか五円札を持っていて、「いや勘定は俺がしよう」といいながら、女中に五円札を渡した。雄吉は強いて争うべきことでもないので、青木のなすままにした。雄吉は、青木の、そうした弱味を見せないぞ、零落はしていないぞといったような態度が、かなり淋しかった。

 二人は、尾張町から上野行の電車に仱盲俊¥栅取⑿奂贤A羲坞娭螘r計を見ると、ちょうど三時を示していた。明日の四時といえばもう二十五時間だ。二十五時間経てば、青木――雄吉にとっては、永久の苦手ともいうべき危険性を帯びたこの男は、東京にいなくなってしまうのだ。もう少しの辛抱だと思った。そう思っていると、青木は、

「君! 雑誌記者なんて、ずいぶん惨めな報酬だというじゃないか。年末の賞与がたった五円という社があるそうじゃないか。君の方はどんなだい」といった。

 雄吉は、また始まったなと思った。

「僕の方は、そんなでもないな」と、答えながら、心のうちで二十五時間を繰り返した。そして「桑野のところへ連れて行けば、桑野がまたどうにか時間潰しをしてくれるに違いない」と、思った。(終わり)


 
 

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发表于 2004-1-29 23:00:00 | 显示全部楼层
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发表于 2004-1-30 23:00:00 | 显示全部楼层
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发表于 2004-2-21 23:00:00 | 显示全部楼层
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发表于 2004-8-22 09:05:21 | 显示全部楼层
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发表于 2004-8-27 21:27:13 | 显示全部楼层
我只有前两章,给你贴上吧


村上春树 ノルウェイの森
第一章

 僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。
 飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの 『ノルウェイの森』だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。
 僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。やがてドイツ人のスチュワーデスがやってきて、気分がわるいのかと英語で訊いた。大丈夫、少し目まいがしただけだと僕は答えた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です、ありがとう」と僕は言った。スチュワーデスはにっこりと笑って行ってしまい、音楽はビリー・ジョエルの曲に変った。僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。
 飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。
 前と同じスチュワーデスがやってきて、僕の隣りに腰を下ろし、もう大丈夫かと訊ねた。
「大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから(It’s all right now. Thank you. I only felt lonely, you know.)」と僕は言って微笑んだ。
「Well, I feel same way, same thing, once in a while. I know what you mean.(そういうこと私にもときどきありますよ。よくわかります)」彼女はそう言って首を振り、席から立ちあがってとても素敵な笑顔を僕に向けてくれた。「I hope you’ll have a nice trip. Auf Wiedersehen!(よい御旅行を。さようなら)」
「Auf Wiedersehen!」と僕も言った。
 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思いだすことができる。何日かつづいたやわらかな雨に夏のあいだのほこりをすっかり洗い流された山肌は深く鮮かな青みをたたえ、十月の風はすすきの穂をあちこちで揺らせ、細長い雲が凍りつくような青い天頂にぴたりとはりついていた。空は高く、じっと見ていると目が痛くなるほどだった。風は草原をわたり、彼女の髪をかすかに揺らせて雑木林に抜けていった。梢の葉がさらさらと音を立て、遠くの方で犬の鳴く声が聞こえた。まるで別の世界の入口から聞こえてくるような小さくかすんだ鳴き声だった。その他にはどんな物音もなかった。どんな物音も我々の耳には届かなかった。誰一人ともすれ違わなかった。まっ赤な鳥が二羽草原の中から何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくのを見かけただけだった。歩きながら直子は僕に井戸の話をしてくれた。
 記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象的な風景だとも思わなかったし、十八年後もその風展を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいようなものだったのだ。僕は僕自身のことを考え、そのときとなりを並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼女とのことを考え、そしてまた僕自身のことを考えた。それは何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくるという年代だったのだ。おまけに僕は恋をしていて、その恋はひどくややこしい場所に僕を撙婴长螭扦い俊¥蓼铯辘物L景に気持を向ける余裕なんてどこにもなかったのだ。
 でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。草の匂い、かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず最初に浮かびあがってくる。とてもくっきりと。それらはあまりにくっきりとしているので、手をのばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思う。どうしてこんなことが起りうるんだろう、と。あれほど大事そうに見えたものは、彼女やそのときの僕や僕の世界は、みんなどこに行ってしまったんだろう、と。そう、僕には直子の顔を今すぐ思いだすことさえできないのだ。僕が手にしているのは人影のない背泉だけなのだ。
 もちろん時間さえかければ僕は彼女の顔を思いだすことができる。小さな冷たい手や、さらりとした手ざわりのまっすぐなきれいな髪や、やわらかな丸い形の耳たぶやそのすぐ下にある小さなホクロや、冬になるとよく着ていた上品なキャメルのコートや、いつも相手の目をじっとのぞきこみながら質問する癖や、ときどき何かの加減で震え気味になる声(まるで強風の吹く丘の上でしゃべっているみたいだった)や、そんなイメージをひとつひとつ積みかさねていくと、ふっと自然に彼女の顔が浮かびあがってくる。まず横顔が浮かびあがってくる。これはたぶん僕と直子がいつも並んで歩いていたせいだろう。だから僕が最初に思いだすのはいつも彼女の横顔なのだ。それから彼女は僕の方を向き、にっこりと笑い、少し首をかしげ、話しかけ、僕の目をのぞきこむ。まるで澄んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。
 でもそんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには少し時間がかかる。そして年月がたつにつれてそれに要する時間はだんだん長くなってくる。哀しいことではあるけれど、それは真実なのだ。最初は五秒あれば思いだせたのに、それが十秒になり三十秒になり一分になる。まるで夕暮の影のようにそれはどんどん長くなる。そしておそらくやがては夕闇の中に吸いこまれてしまうことになるのだろう。そう、僕の記憶は直子の立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるのだ。ちょうど僕がかつての僕自身が立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるように。そして風泉だけが、その十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシーンみたいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。そしてその風景は僕の頭のある部分を執拗に蹴りつづけている。おい、起きろ、俺はまだここにいるんだぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかというその理由を。痛みはない。痛みはまったくない。蹴とばすたびにうつろな音がするだけだ。そしてその音さえもたぷんいつかは消えてしまうのだろう。他の何もかもが結局は消えてしまったように。しかしハンブルク空港のルフトハンザ機の中で、彼らはいつもより長くいつもより強く僕の頭を蹴りつづけていた。起きろ、理解しろ、と。だからこそ僕はこの文章を書いている。僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できないというタイプの人間なのだ。
 彼女はそのとき何の話をしていたんだっけ?
 そうだ、彼女は僕に野井戸の話をしていたのだ。そんな井戸が本当に存在したのかどうか、僕にはわからない。あるいはそれは彼女の中にしか存在しないイメージなり記号であったのかもしれない――あの暗い日々に彼女がその頭の中で紡ぎだした他の数多くの事物と同じように。でも直子がその井戸の話をしてくれたあとでは、僕ほその井戸の姿なしには草原の風景を思いだすことができなくなってしまった。実際に目にしたわけではない井戸の姿が、供の頭の中では分離することのできない一部として風景の中にしっかりと焼きつけられているのだ。僕はその井戸の様子を細かく描写することだってできる。井戸は草原が終って雑木林が始まるそのちょうど境い目あたりにある。大地にぽっかりと開いた直径一メートルばかりの暗い穴を草が巧妙に覆い隠している。まわりには柵もないし、少し高くなった石囲いもない。ただその穴が口を開けているだけである。縁石は風雨にさらされて奇妙な白濁色に変色し、ところどころでひび割れて崩れおちている。小さな緑色のトカゲがそんな石のすきまにするするともぐりこむのが見える。身をのりだしてその穴の中をのぞきこんでみても何も見えない。僕に唯一わかるのはそれがとにかくおそろしく深いということだけだ。見当もつかないくらい深いのだ。そして穴の中には暗D―世の中のあらゆる種類の暗蛑螭膜幛郡瑜Δ蕽饷埭拾迭が――つまっている。
 「それは本当に――本当に深いのよ」と直子は丁寧に言葉を選びながら言った。彼女はときどきそんな話し方をした。正確な言葉を探し求めながらとてもゆっくりと話すのだ。「本当に深いの。でもそれが何処にあるかは誰にもわからないの。このへんの何処かにあることは確かなんだけれど」
 彼女はそう言うとツイードの上着のポケットに両手をつっこんだまま僕の顔を見て本当よという風ににっこりと微笑んだ。
 「でもそれじゃ危くってしようがないだろう」と僕は言った。「どこかに深い井戸がある、でもそれが何処にあるかは誰も知らないなんてね。落っこっちゃったらどうしようもないじゃない か」
 「どうしようもないでしょうね。ひゅうううう、ボン、それでおしまいだもの」
 「そういうのは実際には起こらないの?」
 「ときどき起こるの。二年か三年に一度くらいかな。人が急にいなくなっちゃって、どれだけ捜してもみつからないの。そうするとこのへんの人は言うの、あれは野井戸に落っこちたんだって」
 「あまり良い死に方じゃなさそうだね」と僕は言った。
 「ひどい死に方よ」と彼女は言って、上着についた草の穂を手う払って落とした。「そのまま首の骨でも折ってあっさり死んじゃえばいいけれど、何かの加減で足をくじくくらいですんじゃったらどうしようもないわね。声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かがみつけてくれる見込みもないし、まわりにはムカデやクモやらがうようよいるし、そこで死んでいった人たちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめしていて。そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。そんなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの」
 「考えただけで身の毛がよだつた」と僕が言った。「誰かが見つけて囲いを作るべきだよ」
 「でも誰にもその井戸を見つけることはできないの。だからちゃんとした道を離れちゃ駄目よ」
 「離れないよ」
 直子はポケットから左手を出して僕の手を握った。「でも大丈夫よ、あなたは。あなたは何も心配することはないの。あなたは暗闇に盲滅法にこのへんを歩きまわったって絶対に井戸には落ちないの。そしてこうしてあなたにくっついている限り、私も井戸には落ちないの」
 「絶対に?」
 「絶対に」
 「どうしてそんなことがわかるの?」
「私にはわかるのよ。ただわかるの」直子は僕の手をしっかりと握ったままそう言った。そしてしばらく黙って歩きつづけた。「その手のことって私にはすごくよくわかるの。理屈とかそんなのじゃなくて、ただ感じるのね。たとえば今こうしてあなたにしっかりとくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとはしないのよ」
「じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」と僕は言った。
「それ――本気で言ってるの?」
「もちろん本気だ」
 直子は立ちどまった。僕も立ちどまった。彼女は両手を僕の肩にあてて正面から、僕の目をじっとのぞきこんだ。彼女の瞳の奥の方ではまっ手丐ひ禾澶凰甲hな図形の渦を描いていた。そんな一対の美しい瞳が長いあいだ僕の中をのぞきこんでいた。それから彼女は背のびをして僕の頬にそっと頬をつけた。それは一瞬胸がつまってしまうくらいあたたかくて素敵な仕草だった。
「ありがとう」と直子は言った。
「どういたしまして」と僕は言った。
「あなたがそう言ってくれて私とても嬉しいの。本当よ」と彼女は哀しそうに微笑しながら言った。「でもそれはできないのよ」
「どうして?」
「それはいけないことだからよ。それはひどいことだからよ。それは――」と言いかけて直子はふと口をつぐみ、そのまま歩きつづけた。いろんな思いが彼女の頭の中でぐるぐるとまわっていることがわかっていたので、僕も口をはさまずにそのとなりを黙って歩いた。
「それは――正しくないことだからよ、あなたにとっても私にとっても」とずいぶんあとで彼女はそうつづけた。
「どんな風に正しくないんだろう?」と僕は静かな声で訊ねてみた。
「だって誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなんて、そんなこと不可能だからよ。ねえ、もしよ、もし私があなたと結婚したとするわよね。あなたは会社につとめるわね。するとあなたが会社に行ってるあいだいったい誰が私を守ってくれるの?あなたが出張に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの?私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの? ねえ、そんなの対等じゃないじゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょう? そしてあなたはいつか私にうんざりするのよ。俺の人生っていったい何だったんだ?この女のおもりをするだけのことなのかって。私そんなの嫌よ。それでは私の抱えている問題は解決したことにはならないのよ」
「これが一生つづくわけじゃないんだ」と僕は彼女の背中に手をあてて、言った。「いつか終る。終ったところで僕らはもう一度考えなおせばいい。これからどうしようかってね。そのときはあるいは君の方が僕を助けてくれるかもしれない。僕らは収支決算表を睨んで生きているわけじゃない。もし君が僕を今必要としているなら僕を使えばいいんだ。そうだろ?どうしてそんなに固く物事を考えるんだよ?ねえ、もっと肩のカを抜きなよ。肩にカが入ってるから、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。肩のカを抜けばもっと体が軽くなるよ」
「どうしてそんなこと言うの?」と直子はおそろしく乾いた声で言った。
彼女の声を聞いて、僕は自分が何か間違ったことを口にしたらしいなと思った。
「どうしてよ?」と直子はじっと足もとの地面を見つめながら言った。「肩のカを抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって――どこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの?それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」
僕は黙っていた。
「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。暗くて、冷たくて、混乱していて……ねえ、どうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよ?どうして私を放っておいてくれなかったのよ?」
我々はひどくしんとした松林の中を歩いていた。道の上には夏の終りに死んだ蝉の死骸がからからに乾いてちらばっていて、それが靴の下でばりばりという音を立てた。僕と直子はまるで探しものでもしているみたいに、地面を見ながらゆっくりとその松林の中の道を歩いた。
 「ごめんなさい」と直子は言って僕の腕をやさしく握った。そして何度か首を振った。「あなたを傷つけるつもりはなかったの。私の言ったこと気にしないでね。本当にごめんなさい。私はただ自分に腹を立てていただけなの」
 「たぶん僕は君のことをまだ本当には理解してないんだと思う」と僕は言った。「僕は頭の良い人間じゃないし、物事を理解するのに時間がかかる。でももし時間さえあれば僕は君のことをきちんと理解するし、そうなれば僕は世界中の誰よりもきちんと理解できると思う」
 僕らはそこで立ちどまって静けさの中で耳を澄ませ、僕は靴の先で蝉の死骸や松ぼっくりを転がしたり、松の枝のあいだから見える空を見あげたりしていた。直子は上着のポケットに両手をつっこんで何を見るともなくじっと考えごとをしていた。
 「ねえワタナベ君、私のこと好き?」
 「もちろん」と僕は答えた。
 「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?」
 「みっつ聞くよ」
 直子は笑って首を振った。「ふたつでいいのよ。ふたつで十分。ひとつはね、あなたがこうして会いに来てくれたことに対して私はすごく感謝してるんだということをわかってはしいの。とても嬉しいし、とても――救われるのよ。もしたとえそう見えなかったとしても、そうなのよ」
 「また会いにくるよ」と僕は言った。「もうひとつは?」
 「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」
 「もちろんずっと覚えているよ」と僕は答えた。
 彼女はそのまま何も言わずに先に立って歩きはじめた。梢を抜けてくる秋の光が彼女の上着の肩の上でちらちらと踊っていた。また犬の声が聞こえたが、それは前よりいくぶん我々の方に近づいているように思えた。直子は小さな丘のように盛りあがったところを上り、松林の外に出て、なだらかな坂を足速に下った。僕はその二、三歩あとをついて歩いた。
 「こっちにおいでよ。そのへんに井戸があるかもしれないよ」と僕は彼女の背中に声をかけた。
 直子は立ちどまってにっこりと笑い、僕の腕をそっとつかんだ。そして我々は残りの道を二人で並んで歩いた。
 「本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?」と彼女は小さな囁くような声で訊ねた。
 「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。「君のことを忘れられるわけがないよ」
                 *
 それでも記憶は確実に遠ざかっていくし、僕はあまりに多くのことを既に忘れてしまった。こぅして記憶を辿りながら文章を書いていると、僕はときどきひどく不安な気持になってしまう。ひょっとして自分はいちばん肝心な部分の記憶を失ってしまっているんじゃないかとふと思うからだ。僕の体の中に記憶の辺土とでも呼ぶべき暗い場所があって、大事な記憶は全部そこにつもってやわらかい泥と化してしまっているのではあるまいか、と。
 しかし何はともあれ、今のところはそれが僕の手に入れられるものの全てなのだ。既に薄らいでしまい、そして今も刻一刻と薄らいでいくその不完全な記憶をしっかりと胸に抱きかかえ、骨でもしゃぶるような気持で僕はこの文章を書きつづけている。直子との約束を守るためにはこうする以外に何の方法もないのだ。
 もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いてしまえるだろうということはよくわかっていたのだけれど、その一行がどうしても出てこなかったのだ。全てがあまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手をつければいいのかがわからなかったのだ。あまりにも克明な地図が、克明にすぎて時として役に立たないのと同じことだ。でも今はわかる。結局のところ―と僕は思う―文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う。何故彼女が僕に向って「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。
 そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。
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发表于 2004-8-27 21:28:09 | 显示全部楼层
第二章
 
 昔々、といってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれど、僕はある学生寮に住んでいた。僕は十八で、大学に入ったばかりだった。東京のことなんて何ひとつ知らなかったし、一人ぐらしをするのも初めてだったので、親が心配してその寮をみつけてきてくれた。そこなら食事もついているし、いろんな設備も揃っているし、世間知らずの十八の少年でもなんとか生きていけるだろうということだった。もちろん費用のこともあった。寮の費用は一人暮しのそれに比べて格段に安かった。なにしろ布団と電気スタンドさえあればあとは何ひとつ買い揃える必要がないのだ。僕としてはできることならアパートを借りて一人で気楽に暮したかったのだが、私立大学の入学金や授業料や月々の生活費のことを考えるとわがままは言えなかった。それに僕も結局は住むところなんてどこだっていいやと思っていたのだ。
 その寮は都内の見晴しの良い高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は少くとも百五十年ということだった。根もとに立って上を見あげると空はその緑の葉にすっぽりと覆い隠されてしまう。
 コンクリートの舗道はそのけやきの巨木を迂回するように曲り、それから再び長い直線となって中庭を横切って いる。中庭の両側には鉄筋コンクリート三階建ての棟がふたつ、平行に並んでいる。窓の沢山ついた大きな建物で、アパートを改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したアパートみたいな印象を見るものに与える。しかし決して不潔ではないし、暗い印象もない。開け放しになった窓からはラジオの音が聴こえる。窓のカーテンはどの部屋も同じクリーム色、日焼けがいちばん目立たない色だ。
 舗道をまっすぐ行った正面には二階建ての本部建物がある。一階には食堂と大きな浴場、二階には講堂といくつかの集会室、それから何に使うのかは知らないけれど貴賓室まである。本部建物のとなりには三つめの寮棟がある。これも三階建てだ。中庭は広く、緑の芝生の中ではスプリンクラーが太陽の光を反射させながらぐるぐると回っている。本部建物の裏手には野球とサッカーの兼用グラウンドとテニス・コートが六面ある。至れり尽せりだ。
 この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さにあった。寮はあるきわめて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によって邌婴丹欷皮辍ⅳ饯芜営方針は――もちろん僕の目から見ればということだが――かなり奇妙に歪んだものだった。入寮案内のパンフレットと寮生規則を読めばそのだいたいのところはわかる。「教育の根幹を窮め国家にとって有為な人材の育成につとめる」、これがこの寮創設の精神であり、そしてその精神に賛同した多くの財界人が私財を投じ……というのが表向きの顔なのだが、その裏のことは例によって曖昧模糊としている。正確なところは誰にもわからない。ただの税金対策だと言うものもいるし、売名行為だと言うものもいるし、寮設立という名目でこの一等地を詐欺同然のやりくちで手に入れたんだと言うものもいる。いや、もっともっと深い読みがあるんだと言うものもいる。彼の説によればこの寮の出身者で政財界に地下の閥を作ろうというのが設立者の目的なのだということであった。たしかに寮には寮生の中のトップ・エリートをあつめた特権的なクラブのようなものがあって、僕もくわしいことはよく知らないけれど、月に何度かその設立者をまじえて研究会のようなものを開いており、そのクラブに入っている限り就職の心配はないということであった。そんな説のいったいどれが正しくてどれが間違っているのか僕には判断できないが、それらの説は「とにかくここはうさん臭いんだ」という点で共通していた。
 いずれにせよ一九六八年の春から七〇年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのだと訊かれても答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。
 寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国歌も流れるし スポーツ・ニュースからマーチが切り離せないように、国旗掲揚から国歌は切り離せない。国旗掲揚台は中庭のまん中にあってどの寮棟の窓からも見えるようになっている。
 国旗を掲揚するのは東棟(僕の入っている寮だ)の寮長の役目だった。背が高くて目つきの鋭い六十前後の男だ。いかにも硬そうな髪にいくらか白髪がまじり、日焼けした首筋に長い傷あとがある。この人物は陸軍中野学校の出身という話だったが、これも真偽のほどはわからない。そのとなりにはこの国旗掲揚を手伝う助手の如き立場の学生が控えている。この学生のことは誰もよく知らない。丸刈りで、いつも学生服を着ている。名前も知らないし、どの部屋に住んでいるのかもわからない。食堂でも風呂でも一度も顔をあわせたことがない。本当に学生なのかどうかさえわからない。まあしかし学生服を着ているからにはやはり学生なのだろう。そうとしか考えようがない。そして中野学校氏とは逆に背が低く、小太りで色が白い。この不気味きわまりない二人組が毎朝六時に寮の中庭に日の丸をあげるわけだ。
 僕は寮に入った当初、もの珍しさからわざわざ六時に起きてよくこの愛国的儀式を見物したものである。朝の六時、ラジオの時報が鳴るのと殆んど同時に二人は中庭に姿を見せる。学生服はもちろん、学生服に纹ぱァ⒅幸把
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发表于 2004-8-27 21:39:52 | 显示全部楼层
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发表于 2004-8-27 21:57:08 | 显示全部楼层
下面是引用Mashimaro于2004-08-27 10:39 PM发表的 :
http://coffeejp.com/bbs/read.php ... ;fpage=1&page=1
呵呵,后面的都有 谢了   
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