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[原创](每日小说)太平記

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发表于 2003-11-22 23:00:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
太平記





巻 第一







後醍醐天皇御治世の事附武家繁昌の事





 神武天皇から九十五代目の帝、後醍醐天皇の御代に相模守平高時といふ武士がゐた。此人の時代から天下は乱れに乱れて、戦争の続くこと四十年にも余り、其間に一人の長生きをする者もなく、人々は皆身の置き所もない有様であつた。事の起りを原(たづ)ねると、それは元暦年間に後白河天皇が鎌倉の右大将源頼朝を、平家討滅の功によつて、六十六箇国(一)の総追捕使(二)に補任せられた事に始まつてゐる。これ以来武家が追々と勢力を得て、天下の実権を握るやうになつた。源氏は僅かに三代で滅びたが、頼朝の舅にあたる遠江守平時政の子孫が其後を引き請け、時政の子の義時の時から其勢力が愈々盛んになつて来た。そこで時の太上天皇(三)であらせられた後鳥羽院は、此義時を亡ぼさうとせられ、遂に承久の乱となつたが、不幸にも官軍は敗北し、畏れ多くも後鳥羽院は隠岐の国へ遷幸せさせ給うたので、義時は遂に天下を己が掌中に収めてしまつた。

 其後、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時と、七代の間武家政治が続いたが、其徳望はよく人民を撫し、権勢に驕らず、謙譲で、仁恩を施し、礼儀を正しくする等の善政を行つて、鎌倉幕府の基礎を固めた。承久の乱後は、皇太子或は摂政家等の中から、治世安民にすぐれてゐられる貴族を一人鎌倉に御下りを願つて征夷将軍(四)と仰ぎ、一同は礼を厚くして之に御仕へ申したり、又京都に両六波羅、鎮西に探題を置いたり、内治外防に意を用ひた為め、天下の人々は皆其権勢に服従してゐた。

 所が時政より九代目の高時に至つて、暴政を行つて人民を疲弊せしめ、権勢に驕つて遊惰の限りをつくし、見る人聞く人皆眉を顰め、悪口を云はぬ者はないといふ有様であつた。此時の帝、後醍醐天皇は御年三十一の時御位に即かせられ、御在位の間三綱五常(五)の道を正し、一切の政を忽かせになされず御精励遊ばされたので、天下の万民は皆御高徳に悦服した。凡て諸道の廃れたものは興し、一善事をも嘗めさせられた為め、神社寺院は繁昌し、仏道儒道の大学者達も其望みを達する事が出来た。栅擞证趣胜}主、明君であられると、御徳化を称へ奉らぬ者がない有様であつた。





関所停止の事





 各地の関所は、元来国の禁制を知らしめ、非常の時に備へる為めであつたが、今では通行の旅人から税金を取り立てゝ通商の妨げをなし、年貢咚亭藷─窑ⅳ毪趣い栅韦恰⑨狨旎胜洗蠼颉⒏鹑~の二筒所以外は関所をやめられた。

 又元亨元年の夏に大旱魃があり、畿内畿外とも土地は赤焼(あかやけ)となり、田には一もとの青苗もなく、餓死する者が相尋ぐ有様であつた。天皇はこれを聞召されて、「朕が不徳ならば朕一人を罪せよ。何の咎があつて人民は斯る災ひに遭ふのか。」とおつしやられ、御自身で御朝食をやめられ、飢ゑ苦んでゐる者に施しをされたが、それでも尚万民の飢ゑは救へないと、検非違使(六)の別当に仰せて、裕福な者の蓄へてゐる米を売らせたりせられた。その為め商賈は互に利益を得て、人々は皆多くの蓄へがあるやうになつた。

 又訴訟人の出た時に、下々の有様が御自身に通じない事があつてはと、天皇み親ら記録所へ出御あらせられ、直々に訴へをお聞きになり、理非を決断されたので、国内の訴へは直ちになくなり、刑鞭(七)は朽ち、諌鼓(八)を撃つ人もなかつた。栅酥问腊裁瘠握韦摔郡堡丹护椁欷俊⒘⑴嗓拭骶瘸皮厣辘工伽扦ⅳ搿

 



立石の事附三位殿御局の事





 文保二年八月三日に後の西園寺太政大臣実兼公の御娘藤原禧子が后妃の御位につかれた。此家から女御(九)を立てられた事は既に五代で、一家の繁昌は天下の人々を驚かした。

 此方は御歳十六で宮殿に上られたが、桃の花が春の陽になまめくやうな御顔、しだれ柳が風になぶられるやうな御姿、東西古今に比類のない絶世の美人であられた故、定めて天皇の御寵愛も深からうと思はれたが、其御情は木の葉よりも薄く、一生をお側近くへ参る事もなく、宮殿の奥深くに明け暮れ恨み欺いてゐられた。

 その頃安野中将公廉の娘で三位の局といふ女房(一〇)が中宮(一一)にゐた。天皇は其方を一目御覧になられてから他に比べる者もない程の御寵愛ぶりで、直ちに准后(一二)の勅をお下しになられた。

 



儲王の御事





 天皇には次々と宮が御誕生になり、十六人もあられた。中でも第一の宮尊良親王は、御子左大納言為世卿の娘為子の御腹であられたが、吉田内大臣定房公が御育て申したから十五の御歳から和歌の道にすぐれてゐられた。第二の宮も同じ腹からお産まれになり、幼時から妙法院といふ寺に入(はい)られて仏教を学ばれた。仏道に励まれる傍和歌の道をも修められ、風雅にも長じてゐられた。第三の宮は、民部卿三位殿の御腹で、御幼少から賢くいらせられたから、天皇は御位を此方に御譲りにならうと考へられたが、御治世の事は、後嵯峨院の御代から大覚寺殿(一三)と持明院殿(一四)とが代る代る遊ばされる事に定められた為め、今度の皇太子は持明院殿の方を御立て申した。国事は一切北條氏の計らひで定められ、天皇の御考へ通りにはならなかつたから、此宮は御元服の儀を改められ、梨本の寺に入(はい)つて承鎮親王の御弟子となられたが、一を聞いて十を知る程のすぐれた御性質であられた故、天台宗の奥義を究め、深くその教を会得遊ばされた。そこで衰へかけた天台宗を興し、絶え/゛\となつてゐる仏教の命脉をつなぐは此御門主の時だと、一山の僧徒は合掌して仰ぎ奉つた。第四の宮も同じ腹であられたが、此方は聖護院二品親王の御弟子であつたから、三井寺で仏教をお学びになられた。此外多くの皇子が皆立派な方々であり、皇室の御固めは愈々確かで、王業再興の御撙伍_ける時機が来たやうに見受けられた。





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发表于 2003-11-23 23:00:00 | 显示全部楼层
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发表于 2003-11-23 23:00:00 | 显示全部楼层
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发表于 2003-11-24 23:00:00 | 显示全部楼层
语言文学版比较适合的说.........
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发表于 2003-11-24 23:00:00 | 显示全部楼层
幸亏我们现在在学习日本历史,所以勉强看得懂
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发表于 2003-11-25 23:00:00 | 显示全部楼层
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