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[其他] 井上靖「元日のこと」

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发表于 2009-1-30 00:00:49 | 显示全部楼层 |阅读模式
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 07:09 编辑

井上靖「元日のこと」
次の文章を読んで、後の問に答えよ。
眼覚めると、静かな元日が来ている。くるまの音のしない、一年で一番静かな日が来ている。朝寝坊 しているので、屠蘇を祝うのは十時か十一時頃になる。それまでの時間を、仕事部屋の縁側の藤椅子に腰かけて過ごす。新聞をひらく。元日の明るく作られた紙面においても、社会面にはいろいろな①シセ イの血なまぐさい事件が報じられている。自動車の事故もあれば、いくつかの死亡記事?font color="#FF0000">②ノっている。一年中で元日一日ぐらい、こうしたことはすべてお休みにできないものかと思うが、地球上にいつぱい人間が詰まって生きているとなると、そういうわけには行かないようである。地球上のどこかでは戦争も行われているのである。いくら元目でも、明るい楽しいことばかり考えているわけにはゆかない。昨年は地球上で実にたくさんの人が生まれ、たくさんの人が死んだと思う。生まれ方は同じだが、死に方はみな異なっている。、今年もたくさんの人が生まれ、たくさんの人が死ぬだろう。そんな思いが、偽らぬ年頭所感としてやって来る。こうしたことは、しかし、どうすることもできない。厳然とした事実なのである。こうした人間交替の思いも、新年だけの特別なものである。平生はこんな判りきった事実に?font color="#FF0000">③カンガイを託すことはない。A私はここ何年か、いつも元日の朝、こんなことを考えている。大勢生まれ、大勢死んで行く。次々に人間は交替し、人間によって作られた時代も交替していくのである。こうした思いがやって来ると、いつも天山の山ひだの中の小さい湖、イシククル湖の畔りに眠つている十九世紀の探検家のことが思い出されて来る。Bこの世の中に、いやに安定した生と死を待った人間も居たものだと思う。その探倹家というのは、ロシアの西域探倹家。フルジェワリスキーである。十九世紀仲頃、モン ゴル、ロブノール、チベット、ゴビ、青海と、何回もイシククル湖畔の道を通って、天山を越えている。そして彼は湖畔において没するが、その遺言によって湖岸に葬られている。
このプルジェワリスキーの場合は生と死とがばらばらにならず、美しいピンで留められている感じである。こうした生と死の結び付き方のできるのは、十九世紀で終わってしまったのかも知れない。C現代はみな不本意に生き、不本意に死んで行っているように思われる。屠蘇を祝って、天気ならばひなたぼっこをする。そして年賃状の束に眼を通していると、、否応なしに自分の年齢が思い出されてくる。お亙いに年齢を加えたがーなどと書いてある古い友人や知人の賀状も混じっている。またたくさんの子供や孫の名を列ね、それにいちいち年齢を書き記しているのもある。昔、十八、。九歳の頃、毎日のように遊ぴ惣けていた友達が、妻を得、何人かの子供をもうけ、叉にその子供の一人一人が、子供を得、そうした大家族の頂きに坐っている。壮観である。その長い人生行路においては、辛いこともあれぱ、苦しみもあり、歓びもあったであろうが、そうしたことは、その一枚の家系図からはいっさい判断はできない。あの一人から、こんなに人間がふえた、そういう意味で、壮観というほかないのである。私の場合も同じである。自分中心に一枚の家系図を作って、それを眼に浮かべてみる。名前と年齢だけである。それでも一家一族の構成は判る。その他のことは一切判らないが、それだけに純粋でさっぱりしている。私は一本の長い階段を設ける。一年三百六十五日経つと、一段上にのぼる階段である。その階段の六十八段目の一番上のところに私が腰を降ろしている。そして妻、二人の息子、二人の娘、その配偶者、そして孫たちというように、長い階段のところどころに、十何人かの男女が配されている。下から二段目のところに、去年生まれた幼児二人が、転がらないように紐で結ぴつけられている。どちらも男の子 である。まだ這うこともできず、口もきけない。しかし、何と言っても、その嬰児二人が際立って溌剌としている。これから何十段でも階段をのぼって行くエネルギーを、その小さな体に詰め込み、いかなることでも実現できる可能性を身内に貯えている。まだ人生のいかなる汚れにも染まっていない。本能的に母を求め、乳を欲しがる以外、いかなる欲望も持っていない。人を羨むことも、人を憎むことも、 ④カンシンを買うことも知らない。栄誉も、金も無関係である。時々笑うが、神さまが笑うことの練習をさせているとしか思われない。ただ無心に笑うだけである。D人間はみな、この嬰児から出発している。そんな思いが突き上げてくる。この二人の嬰児が、私の腰かけているところまでのぼるのは、たいへんである。嬰児の居る二段目のところから上を仰ぐと、気の遠くなるような遠さであろうと思う。三十段目から四十段目あたりにかけてばら撤かれている息子や娘たちは、いつか青春期をぬけて、壮年期に入ろうとしている。当然私などの知らないそれぞれの人生の哀歓を経験していることであろうと思う。私は残念ながら、そこへは入って行ってやることはできない。いかなる問題があろうと、それぞれ自分たちで処理してゆく他はない。父親が苦しんだように苦しまなげればならないし、父親が悲しんだように悲しまなげればならないであろうと思う。そういう自分で歩き、自分で処理して行かねばならぬものが、人生というものであろうからである。午後になって、書斎に引っ込んでいると、幼い者たちの声が聞える。階段の八段目と十段目に腰かけていた幼い者たちで、家の近くの馬事公苑で凧を揚げるためにやって来たのである。これは毎年のことである。元日は凧を揚げる日だと思っているらしい。E私もまた幼い頃、伊豆の山村で凧を揚げたが、揚げる場所は霜枯れた田圃であった。よそ行きの着 物を着、新しい藁草履を履いて、⑤いてついた田圃に出て行ったものである。、そして終日、凧と格闘した。凧はなかなか揚がらなかった。烈風の中に舞い、狂い、突然高く揚がった思うと、他の凧の糸に絡んだり、まっさかさまに落ちて来て、田圃の中に突きささったりする。凧が、こちらの望むように、気待よく高く揚がった記憶というものはあまりない。いつも不如意の連続である。幼い私が凧と格闘したように、孫たちも凧と格闘するがいいと思う。確かに凧が高く揚がることはすばらしいことであるが、そのすぱらしいことはなかなか実現しないのである。風があればあったで、風がなげればないで、凧は言うことをきかないからだ。幼い者たちが馬事公苑に出掛けて行って静かになると、思いは自分のところに戻って来る。今、自分はもう凧を揚げるために、凍てっいた田圃に出て行くことはない。揚げるべき凧も持っていない。しかし、何かを揚げなけれぱならぬ。そんな思いがやって来る。凧に似たものを、高く揚がるものを、烈風の中に舞い、狂うものを、高く揚げなげれぱならぬと思う。そんな思いに取り憑かれる。これも珍しくない、毎年の年頭所感の一つであると言っていいであろう。
予習問題。
問1C19世紀以前に対して現代人が「みな不本意に生き、不本意に死んでいく」のはなぜか。
現代人が失ってしまったものは何か。
問5凧の話は比喩とも考えられる。そうだとすれば何の比喩か。
人はなかなか上手くは生きられないものだということです。
(まとめ)
目覚めると静かな元日の朝が来ている。明るく楽しいことばかり考えるわけにもいかない。人は皆生まれ型は同じだが、不本意に生き、不本意に死んでゆく。嬰児は乳をほしがる以外、何の欲望も持っていない。ただ笑うだけである。凧ではないが、高く上がるものを、烈風の中に舞い、高く揚げねばと思う。これも珍しくない年頭の所感である。

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发表于 2009-2-3 11:36:50 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 07:09 编辑

大哥,这是关于什么啊.
来点说明好么.小弟才疏学浅实在是不解其意啊。

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发表于 2009-2-3 13:26:59 | 显示全部楼层
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 楼主| 发表于 2009-2-3 14:27:44 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 07:09 编辑

这是刘利国{日本文学选读}里的课文。
找到同一篇文章及问题。仅供参考

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