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发表于 2004-1-23 23:00:00
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三三 小白河といふ所は、
小白河といふ所は、小一条の大将殿の御家ぞかし、そこにて上達部、結縁の八講したまふ。世の中の人、いみじうめでたき事にて、「遅からむ車などは立つべきやうもなし」と言へば、露とともに起きて、げにぞ、ひまなかりける轅(ながえ)の上にまたさし重ねて、三つばかりまではすこしものも聞ゆべし。
六月十よ日にて、暑きこと世に知らぬほどなり。池の蓮を見やるのみぞ、いと涼しきここちする。左右の大臣たちをおきたてまつりては、おはせぬ上達部なし。二藍の指貫、直衣、あさぎのかたびらどもぞ透かしたまへる。少し大人びたまへるは、青鈍(おにび)の指貫、白き袴もいと涼しげなり。佐理(すけまさ)の宰相なども皆若やぎだちて、すべて尊き事の限りにもあらず、をかしき見物なり。
廂の簾高う上げて、長押の上に、上達部は奥に向きて長々と居たまへり。その次には、殿上人、若君達、狩装束、直衣などもいとをかしうて、え居も定まらず、ここかしこに立ちさまよひたるも、いとをかし。実方(さねかた)の兵衛の佐(すけ)、長命侍従など、家の子にて、今すこし出で入りなれたり。まだ童なる君など、いとをかしくておはす。
すこし日たくるほどに、三位の中将とは関白殿をぞ聞えし、かうの薄物の二藍の御直衣、二藍の織物の指貫、濃蘇枋の下の御袴に、張りたる白きひとへのいみじうあざやかなるを着たまひて歩み入りたまへる、さばかり軽び涼しげなる御中に、暑かはしげなるべけれど、いといみじうめでたしとぞ見えたまふ。朴、塗骨など骨はかはれど、ただ赤き紙をおしなべてうち使ひ持たまへるは、撫子のいみじう咲きたるにぞ、いとよく似たる。
まだ講師ものぼらぬほど、懸盤して、なににかあらむ、ものまゐるなるべし。義懐(よしちか)の中納言の御様、常よりもまさりておはするぞ、限りなきや。色合ひの花々といみじうにほひあざやかなるに、いづれともなき中のかたびらを、これはまことにすべてただ直衣一つを着たるやうにて、常に車どもの方を見おこせつつ、ものなど言ひかけたまふ、をかしと見ぬ人はなかりけむ。
後に来る車の、ひまもなかりければ池に引き寄せて立ちたるを見たまひて、実方の君に「消息をつきづきしう言ひつべからむ者、一人」と召せば、いなかる人にかあらむ、選りて率ておはしたり。「いかが言ひやるべき」と、近う居たまふ限り、のたまひあはせて、やりたまふ言葉は聞えず。いみじう用意して車のもとへ歩み寄るを、かつは笑ひたまふ。後の方に寄りて言ふめる。久しう立てれば、「歌など詠むにやあらむ。兵衛の佐、返し思ひまうけよ」など笑ひて、いつしか返事聞かむと、ある限り、大人上達部まで皆そなたざまに見やりたまへり。げにぞけせうの人まで見やりしもをかしかりし。
返事聞きたるにや、すこし歩み来るほどに、扇をさし出でて呼びかへせば、歌などの文字言ひあやまりてばかりや、かうは呼びかへさむ、久しかりつるほど、おのづからあるべきことは、直すべくもあらじものを、とぞおぼえたる。近うまゐりつくも心もとなく、「いかにいかに」と、誰も誰も問ひたまふ。ふとも言はず、権中納言ぞのたまひつれば、そこにまゐり、けしきばみ申す。三位の中将「とく言へ。あまり有心すぎてしそこなふな」と、のたまふに、「これもただ同じことになむはべる」と言ふは聞ゆ。藤大納言、人よりけにさしのぞきて、「いかが言ひたるぞ」と、のたまふめれば、三位の中将「いと直き木をなむ押し折りためる」と聞こえたまふに、うち笑ひたまへば、皆なにとなくさと笑ふ声、聞こえやすらむ。中納言、「さて、呼びかへさざりつるさきは、いかが言ひつる。これや直したる定」と問ひたまへば、「久しう立ちてはべりつれど、ともかくもはべらざりつれば、『さは、帰りまゐりなむ』とて、帰りはべりつるに、呼びて」などぞ申す。「誰が車ならむ。見知りたまへりや」など、あやしがりたまひて、「いざ、歌詠みてこの度はやらむ」などのたまふほどに、講師のぼりぬれば、皆、居静まりて、そなたをのみ見るほどに、車は、かい消つやうに失せにけり。下簾など、ただ今日はじめたりと見えて、濃きひとへがさねに二藍の織物、蘇枋の薄物の上着など、後にも摺りたる裳、やがてひろがながらうち下げなどして、なに人ならむ、なにかは、またかたほならむことよりはげにと聞えて、なかなかいとよし、とぞおぼゆる。
朝座の講師清範、高座の上も光りみちたるここちして、いみじうぞあるや。暑さのわびしきに添へて、しさしたる事の今日過ぐすまじきをうちおきて、ただすこし聞きて帰りなむとしつるに、しきなみに集ひたる車なれば、出づべき方もなし。朝講果てなば、なほいかで出でなむと、前なる車どもに消息すれば、近く立たむがうれしさにや、「早々」と引き出であけて出だすを見たまひて、いとかしかましきまで老上達部さへ笑ひにくむをも聞き入れず、答へもせで、強いて狭がり出づれば、権中納言の、「やや。まかりぬるもよし」とて、うち笑みたまへるぞ、めでたき。それも耳にもとまらず、暑きにまどはし出でて、人して「五千人のうちには入らせたまはぬやうあらじ」と聞えかけて、帰りにき。
そのはじめより、やがて果つる日まで立てたる車のありけるに、人寄り来とも見えず、すべてただあさましう絵などのやうにて過ぐしければ、ありがたくめでたく心にくく、いかなる人ならむ、いかで知らむと、問ひ尋ねけるを聞きたまひて、藤大納言などは、「なにか、めでたからむ。いとにくし。ゆゆしきものにこそあなれ」と、のたまひけるこそ、をかしかりしか。
さて、その二十日あまりに、中納言、法師になりたまひにしこそ、あはれなりしか。桜など散りぬるも、なほ世の常なりや。「置くを待つ間の」とだに言ふべくもあらぬ御有様にそこ見えたまひしか。
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