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[其他翻译] 翻译了篇文章,请大家指点指点错误之处

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发表于 2009-3-8 04:42:11 | 显示全部楼层 |阅读模式
我先看了一点版头上的投票,长篇翻译貌似是大家最不喜欢的一项。

但是,我也只能厚着脸皮向大家请教了。这个文章我译了好几天时间,可是最后译出来还是觉得怪怪的,还是觉得生硬,语法错误也肯定不少。
身边也没有可讨论的人,所以,拜托大家了  



民族と文化

  アイヌ民族出身の民俗学者萱野茂さんは、長生きをした祖母にアイヌ語で育てられたせいもあって、この世帯としてはアイ語を自由に話す稀有の人である。あるとき萱野茂さんは、旭川市で開かれた中国物産展を見に行った。たまたま会場にいた中国人たちが何かで内輪もめとなり、中国語で口論になった。しばらくそれを見ていた萱野さんは、いっしょにいた仲間に嘆息しながら言ったという。--「おれたちもあんなふうにアイヌ語でケンかできたらどんなに幸せだべなあ。うらやましいなあ。」 
  この話を萱野さん自身から最近聞いたとき、わたしはしばらく黙り込んでしまった。間もなく中学校を卒業しようとする諸君に贈る言葉として、このときわたしが思ったことを少し書いてみたい。
  かつてアラビア半島の奥地、サウジアラビアのサバクに、ベドウィン遊牧民の生活を取材するため住み込んだことがある。サバクの生活を切りあげて首都リヤド市に帰り、ホテルに泊まっていたとき、わたしの部屋は三一四号室だった。ある日のこと、受付で自分の番号をいってカギをもらい、部屋の前までいったとき、カギは別室(三一六号)のものであることに気づいた。受付に戻ってカギの番号を見せながら、「部屋に入れませんでしたよ」と、相手を責めないためのの心づかいで、わたしは微笑しながら言った。全く予期しなかった答えが返ってきた。--「あなたが間違った番号をいったのです。」
  わたしが予期していたのは「や、これは失礼しました。」といひとことなのだ。このとき、もしわたしが初めてアラブと接したのだったら、「あるいは自分が違った番号を言ったのかもしれない。」と思っただろう。しかし既に彼らのものの考え方をサバクで学んでいたわたしは、「まさにベドウィン的だ。」と思っただけであった。ベドウィン的な考え方によれば、自分の失敗を認めることは無条件降伏を意味する。例えば皿洗いの仕事をしている人が百円のさらを割って、もし自分の過失を認めたら、相手がベドウィンなら弁償金を千円要求するかもしれない。だから皿を割ったアラブは言う。--「この皿は今日割れる運命にあった。おれの意識と関係ない。」
  これが日本ならどうだろう。普通の日本人だったらこの場所直ちに言うにちがいない。--「まことにすみません。」丁寧な人はさらに、「わたしの責任です」などと追加するだろう。それが美徳なのだ。しかしこの美徳は、世界に通用する美徳ではない。まずアラブは正反対。インド人もアラブに近いだろう。フランス人だと「イタリアの皿ならもっと丈夫だ。」というようなことを言うだろう。
  わたし自身の体験では狭すぎるので、多くの知人、友人または本から、このような「過失に対する反応」の例を採集した結果、どうも大変なことになった。世界の主な国で、皿洗いの人が皿を割って直ちに習性があるところは実は少ない。「わたしの責任です。」などとまでいってしまうおひとよしは、まずほとんどない。日本人とアラブとを正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真ん中よりもずっとアラブ寄りである。中国やベトナムもしかり。ただしヨーロッパでは、自分が弁償するほどの事件にはなりそうにもないささいなこと(体に触った、ゲップをした、など。)であるがぎり、「すみません」を日本人よりも軽く言う。この謝罪は、「謝罪」というよりむしろ一種の習慣だからこそ、社会をスムーズに動かす潤滑油として大切なのだ。
  だが、日本人と確実に近い例をわたしはじっている。それは、かつて訪れたことのあるニューギニアのモニ族や北極地方のエスキモーである。モニ族は、わたしのノートをあやまって破損したときでも、カメラのレンズに土を付けたときでも、直ちに「アマカネ(すみません)。」といって恐縮した。そして、さまざまな国の歴史を比較検討してみると、おおざっぱにいってこんな傾向のあることがわかる。--「異民族の蹂躙による悲惨な体験をもった民族ほど、自分の過失を認めたがらない。」
   日本人やエスキモーやモニ族は、異民族による蹂躙の恐ろしい体験を、一部を例外として、歴史上あまりたなかったようだ。
  基本的なものの見方について考えると、ベドウィンの特徴、ひいてはアラブの特徴は、日本の特殊性よりもずっと普遍的なのだ。わたしたちの民族的性格は、アラブ諸国やヨーロッパや中国よりも、ニューギニアにより近いとさえおもわれる。探検歴の最も豊富な日本人の一人、中尾佐助教授にこの話をすると、教授は言った。--「日本こそ世界の最後の秘境かもしれないな。」
  わたしがアラブア半島から帰国して間もなく見た新聞に、「もう泣き寝入りすまい」という投書が載っていた。交通事故で、自分が悪くないのに謝ったりしては大損だという体験談である。アラブがあれをよんだら、そのあまりにも日本的な現象に驚きあきれるだろう。
  みんぞくが違うと、ものの考え方もこのように違う。それは日本とアラブと「どちらが良い(あるいは悪い)ということではなく、「違う」という事実が重要なのである。
  
  普通わたしたちは、具体的にはどういう民族なのだろうか。どこの国にかぎらず、自分たちの民族的性格や特徴は案外知らないものだ。何かを知るということは、その「何か」を「他」から識別し、取り出すことでもある。まず「他」をしらなければ「何か」を識別することはできない。わたしたち自身を知るためには、他民族を知ることがその第一歩なのだ。地球上のさまざまな民族と接してみると、わたしたちがあたりまえと思っていることが他民族には全く通用しない例がよくある。そうした事実を知って初めて、わたしたちは自らを客観化し、知ることができるようになる。
  簡単な例を挙げよう。わたしたちがコメと言うとき、それは煮る前のコメツブのことであって、食べるときのメシ(ゴハン)のことではない。しかし英語ではどちらもriceである。
  もう少し複雑な例を挙げよう。魚のぶりは、日本語だとその成長段階に応じてシオワカナ、ツバス、ワカナ、はまち、メジロ、モンダイ、ブリ(明石地方の場所)とよび分かる。しかし英語ではすべてyellowtailだ。
  もっと複雑な例として、ベドウィンによるラクダのよび方がある。日本語では「ラクダ」の一語だが、アラビア語ではその各成長段階はもちろん、「乗用」や「荷運び」のような用途別、さらに「妊娠したラクダ」「草を食っているラクダ」など、実に二百とおり近くもの単語に細分されている。エスキモーの場合は雪がそれにあたるだろう。「激しく吹きつける雪」「吹きだまりの雪」「地面を広く覆う雪」「飲料水用に溶かすための雪」といったさまざまな状態、用途に応じて、大変細かく命名されている。
  なぜこのような違いができるのだろうか。それは例えばエスキモーにとっての雪の場合、日本人にとっての雪とは比べものにならぬほど生活と密接に結び付いているからである。エスキモーが生きてゆくためには、北極地方の風土を支配する雪への深い関心がなければならず、関心が深ければ深いほどその対象を表す言葉も豊富になる。アラビア語のラクダ、日本語のコメやビリも同様である。それは言葉だけではない。生活のための道具をはじめとして歌や絵にも反映する。さらには笑い方や歩き方のようなしぐさに至るまで影響するといえよう。例えば中国人と日本人とは顔形で区別がつかなくても、しぐさを見て判別できることもあるのである。
  このようにみてくると、広い意味での文化(カルチュア)というもの、すならち言葉や道具や歌や絵などは、その民族の生活する風土と密接にかかわっていることがよく理解できよう。ものの考え方もまた文化の一つみるならば、民族によって違ってくるのも当然である。アラブの文化が川や森林の全くないサバクの風土と切り離すことができないであろうように、日本人の文化もまた、日本の風土と切り離して考えることできないだろう。
  もちろん風土だけですべてを割り切ることはできない。文化は伝播する性格をもっている。例えば文字というものを人類が使い始めたのは、人類発生以来何百万年の歴史の中ではかなり最近のことで、それも中国やエジプド.メソポタミアといったごく一部の地域だった。日本の場合は中国から漢字が伝えられ、最初「万葉仮名」として日本語を書き表すための文字になった。漢字の伝来までは、地球上の他の多くの民族と同じように、日本にも文字という文化はなかった。
  だが、文化は国境を越えるものの、伝わったあとでは変化する。同じ文字を例にとれば、万葉仮名はやがて平仮名や片仮名といった日本独自の記号に変わって定着した。黒人音楽(ジャズ)は、もともとはアフリカの音楽がアメリカに渡って発達、変化したものだが、アメリカからさらにヨーロッパへ伝わればヨーロッパ的ジャズに、日本へ伝われば日本的ジャズとして土着化するだろう。また土着化しなければそれは単に流行として過ぎ去り、本当の文化として根を下ろしたことにはならない。宗教も芸術も思想も、その民族固有の色彩が加えられて、結局は民族文化となってゆくのである。
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 楼主| 发表于 2009-3-8 04:42:28 | 显示全部楼层
 それでは、日常の立ち居ふるまいから思想に至るすべての文化の中で、民族の存亡にかかわるような重大な核となっているのはなんだろうか。これを奪われることが最も致命的打撃となる文化は?
  それは、着物でもなければ住居でもない。人類が毎日話している言葉、民族それぞれの言語である。ある民族から固有の言葉が失われるとき、その民族文化は最も重大な危機を迎える。反対に、極端な場合には人類的特徴が変わってしまっても、言葉があるかぎり民族文化は滅びないだろう。その典型的な例がイスラエルである。ユダヤ民族が二千年前に祖国を追われたとき、人類的特徴は今のアラブとほとんど同じだった。しかしその末裔のはずのイスラエル人たちは、ヨーロッパ人とあまり区別がつけられないほど体質がかわってしまっている。長い間に繰り返された混血の結果である。しかし彼らはヘブライ語を公用語として復活させた。いかに顔形が変わろうと、ユダヤ文化の中枢はいきているということができる。(もっともそのイスラエル人も、前述の日本的ものの考え方にくらべればやはりアラブに近いのである。)
  わたしたち日本人もまた、日本語という民族文化をもっている。この言語は、日本の風土や歴史、文化の反映として発展してきた。その特徴はいろいろあるが、例えば文の構造上の一面からみると、これは述語中心の言語である。「太郎が花子に本を貸した。と言うとき、中心になる言葉は「貸した」であって、あとの「太郎が」「花子に」「本を」といった言葉は対等の比重で「貸した」に係っている。つまり述語が他の言葉を統括している。だから述語が最後に位置する原則はあるが、他のすべては順序が比較的自由である。
  ところが英語やフランス語だと、この場所は「太郎が」が「主語」になって冒頭に置かれ、さらに英語の場合三人称単数現在なら動詞にSが付く、というように、主語が他の言葉を支配している。しかし日本語の正反対、つまり英語やフランスご以上に主語の支配力が強い例は、アフリカのスワヒリ語であろう。これは主語の支配が他のすべてに及ぶので、英語にたとえれば動詞にSがつくだけでなく、「花子に」「本を」といった目的語まで主語によって変化する。
  民族文化としての言葉はこのように大きく異なるが、それでは日本語と英語とスワヒリ語のどれがより「論理的」で「高級」かというと、三者三様にそれぞれが論理的かつ高級であって、優劣の差など全くない。また日本語のような術語中心の言語は世界でも決して珍しい例ではない。言語はその民族ぶんかを反映したものであり、言語とはすなわちその社会の論理である。したがって「非論理的な言語」などというものは存在しない。ただ使い手がまずければどんな言語でも論理的ではなくなるだけのことだ。
  民族と言葉との関係は、このよう分かちがたい。わたしたちの民族文化としてのにほんごは、わたしたちにとってかけがえのない大切なものである。それは民族のよりどころとさえいえよう。しかし日本語を毎日話したり読んだりしているわたしたち自身、そのかけがえのなさをまだよく認識していない傾向がある。さきにわたしは、日本人は異民族に侵略された悲惨な経験が歴史上少ないことことに触れた。言葉についての認識不足もこのことに関係があるかもしれない。反対に、他民族を侵略した経験となると、日本は過去の歴史にたくさんもっている。かつて日本が周辺のアジア諸国を占領したり植民地にしたりしたとき、そこの国の人々を最も怒らせ、かつ嘆かせたのは、日本語を強制してその国の言葉を禁止した場合だった。これは民族文化の抹殺に通じたからである。
  空気のように何気なく諸君がはなしている日本語というものが、実はどんなに大切なものかと理解していただけただろうか。そしてこのことは、地球上の他のすべての民族についても、それぞれにいえることなのだ。日本語(日本文化)だけが大切で、あとの言語(文化)はどうでもいいというのでは、国粋主義、選民思想になってしまい、ファシズムへのみちに通ずることになる。反対に英語やフランス語が「高級」だとかんがえるのも誤っている。さらに、同じ日本国内にもアイヌ語(アイヌ文化)のような独自の民族文化があることを忘れないでほしい。「単一言語」や「単一文化」といった言葉も、軽々しくは口にしたくない。
  同じことは日本語の内部についてもいえよう。各地の方言はそれぞれ独自の地域文化であって、どこの言葉が「より良い(より悪い)」というようなものではない。まして共通語(標準語)が上等で、方言が下等だと考える人があれば、それは全く誤っている。生活に本当に密着した言葉のひだとしては、むしる方言によるほうが表現力が豊かであろう。
  やがて社会に出てゆく諸君は、国外あれ国内であれ、自分自身の文化と同時に他民族やほかの地域社会の文化をも尊重する日本人になってほしい。そして、冒頭で紹介した萱野さんの感慨のような、文化的被害者の痛みのわかる人間にもなってほしいと思う。
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 楼主| 发表于 2009-3-8 04:42:48 | 显示全部楼层
下来是译文



民族与文化
    阿伊努族出身的民俗学家萱野茂先生,由于从小被高龄的祖母养育长大,是现在少有的精通阿伊努语的人。萱野先生有时会去旭川市 举办的中国产品展览会。会场上偶尔会有些中国人因为某些问题有点纠纷,就用中国话争论起来。偶尔看到这一幕的萱野先生对一起来的同伴一边叹息一边说道:如果我们也能像那样用阿伊努语吵架,该是多幸福的事啊,他们真是让人羡慕。
    萱野先生的这些话我是最近听到的,听到之后我一时陷入了沉默,对即将初中毕业的各位,此时我想写些东西给你们。
    我以前曾为了调查贝都因游牧民族的生活情况而住在了阿拉伯半岛偏远的Saudi Arabia的沙漠中,沙漠生活结束后,我返回了阿拉伯首都利雅得,住在某个酒店的324号房。有一天,我去服务台要了自己房间的钥匙,走到自己房间门口才发现,钥匙是其它房间(316号)的。我回到服务台,一边给他看钥匙的号码一边说“进不去房间哦”。为了不让对方感到自己被责备,我很自然的边微笑边说的。结果却得到了与我预期完全相反的回答--是你说错了房间的号码。
    我以为他会说:啊,真是抱歉。这样一句话。这时候,如果我是第一次接触阿拉伯人,也许可能真的会想“说不定真是我说错号码了吧”。但是,已经在沙漠中了解了他们的思考方式的我,只能这么说,他们的思考方式是非常“贝都因人”的。
    根据贝都因人的思考方式来说,如果承认了自己的失败,就表示无条件的投降。比如,一个洗碗工,打破了一个价值100日元的盘子。如果承认这是自己的过失,对方是贝都因人的话,可能会要你赔偿1000日元。所以,打破盘子的阿拉伯人会这么说:这个盘子今天会破碎是它的命运,与我的意志无关。
    这种情况在日本会怎么样呢?普通的日本人在这种情况下一定会马上说“实在抱歉”,有礼貌的人更是会加上一句“这是我的错”等等。这是一种美德。但是,这种美德在世界上并不是通用的。首先在阿拉伯这一点正相反,印度人与阿拉伯人比较相似。法国人可能会说“如果是意大利盘子的话,应该更结实的”。
    因为只有我自身的经历则十分狭隘,所以很多的熟人,朋友从书上一起收集关于这种“应对过失的反应”,结果十分可怕。在世界上重要的国家,洗碗工对打破盘子马上道歉的习惯其实是很少的。“这是我的错”说出这种话的人更是几乎没有。如果说日本与阿拉伯是正好相反的情况,欧洲各国的情况则与阿拉伯更为相似,中国和越南也是这样。不过,在欧洲也只限于对不需要赔偿的小事情(碰到身体,打嗝之类)会道歉,比起日本人的“对不起”语气也比较轻。这种道歉与其说是道歉,到不如说是一种习惯。正是这种习惯像使社会顺畅的运转的润滑剂一样,非常重要。
    但是,我知道有一些与日本人相似的民族。那是我曾经接触过的新几内亚的尼莫族和极北地区的爱斯基摩族,尼莫人在弄破我的笔记本时,给相机的镜头沾上尘土时,会马上不安的说:阿玛卡内(对不起)。之后我通过许多国家的历史比较研究,大约会发现这样一种倾向--有被其它民族侵略过悲惨历史的民族,对于自己的过失不愿意承认。
    日本人,爱斯基摩人以及尼莫人,在历史上很少有过被异民族侵略的可怕经历,算是少有的例外。
    从基本层面来看,贝都因人的特征,以及阿拉伯人的特征,比起日本的特殊性更加普遍。我们民族的特征,与阿拉伯各国,欧洲或中国相比,反而与新几内亚比较相似。这些话我告诉了探险经历最丰富的日本人之一中尾佐助后,他说:也许日本才是世界上最后的秘境。
    我从阿拉伯半岛回国后不久,看到这样一则新闻《哭着入睡》。有一起交通事故,虽然不是自己的错,但因为给对方道歉,而付出了巨额赔偿的访谈记录。如果阿拉伯人看到这个新闻,大概会对日本的现像感到非常吃惊吧。
    民族不同,对事物的思考方式也不同。这并不是说日本和阿拉伯那一个好(或不好),重要的是“不同”。
    平时,我们都以“日本人”的规范要求自己,可是作为日本人的我们,到底是怎样的一个民族呢?无论那个国家,对自己的民族性格和特征,也许反而并不是很了解。要了解“某物”,有时要通过其它事物来认识。
首先,如果不了解其它事物,就不能认识“某物”。为了了解我们自身,第一步先要了解其它民族。我们与世界上其它民族接触会发现,有很多我们认为理所当然的事情在其它民族是完全行不通的。知道了这个情况之后,我们才能更加客观的认识自己。举个简单的例子,我们说“大米”的时候,指的是没煮之前的米粒,而不是吃饭时的“米饭”。但是在英语里,无论什么情况,都是“rice”。
    再举个稍复杂点的例子,鱼的情况,在日语中对应各个成长阶段的单词有,盐嫩菜,刺巴斯,嫩菜,幼鱼,麦基罗,问题,普里(明石地区的叫法),而英语中只有一种叫法yellowtail。
    更加复杂的例子,贝都因人对骆驼的叫法。日语中只有骆驼一个单词,阿拉伯语中对骆驼各个成长阶段的单词自不必说,连像乘骑用,货运用,这种按用途分类的单词都有,甚至怀孕的骆驼,吃草的骆驼这类单词都有。实际上都细分到了将近两百个单词。这就像爱斯基摩人对雪的划分一样,暴风雪,被吹到一起的雪,大面积覆盖地面的雪,作饮用水用的雪,等各种各样按状态,用途非常仔细的划分,命名。
    为什么会有这么大的差异呢?以爱斯基摩人的情况为例,比起日本人他们的生活与雪是密切相关的。爱斯基摩人为了生存,必需非常关心支配着极北地区的雪。关心程度越高,对那个事物的语言就越丰富。阿拉伯语中的骆驼,日语中的大米和鱼也是如此。不光语言上是这样,日常生活用的道具,歌曲还有绘画也会反映出来,甚至笑的样子和走路的举止都会受到影响。比如从脸形上区别不出中国人和日本人,但从言行举止可以判断。
    这样看的话,在广意的文化中,即语言,工具,歌曲,绘画等,可以通过这些与这个民族风俗习惯密切相关的事物来了解这个民族。如果对事物不同的态度也是文化的一部分,民族之间不尽相同也是当然的。就是阿拉伯文化中不能把沙漠风情分开,日本文也不能把日本的风情分开一样。
    当然不能只是把风俗分开来,文化有着传播的性质。比如,人类开始使用文字,也只相当于人类几百万年历史中最近才发生的事。中国和埃及是最早的一部分区域。中国的汉字传到日本时,被用来书写日本最早的文字“万叶假名”。在汉字传到日本前,日本和世界上许多其他民族一样,日本没有文字文化。
    但是,文化是可以跨越国境的,传播中会有变化。例如,同样的文字,万叶假名变为了平假名和片假名,成为日本独有的记号固定下来。黑人音乐(爵士乐),原本是非洲的音乐,传播到美国后才发展成爵士乐,从美国再传到欧洲后成为欧式爵士乐,如果传到日本,会变成日式爵士乐吧。如果文化不本土化,就只是单纯的流行而已。不能成为真正的文化。宗教也好,艺术也好,思想也好,都能增加这个民族原有文化的色彩,并最终成为这个民族的文化。
    那么,从日常起居乃至思想的全部文化中,关乎到民族存亡最重要的核心是什么呢?什么文化被夺去是对民族最致命的打击呢?
    这个东西,既不是和服,也不是住宅,是人类每天都在说的语言,各个民族各自的语言。当某个民族失去自己固有的语言时,将是这个民族文化最大的危机。反言之,在极端环境下既使是人种改变了,但语言流传下来,民族文化也不会灭亡。典型的例子就是以色列,犹太民族两千年前被国家放逐时,人种特征和现在的阿拉伯人差不多,可是应该是他们后代的的以色列人,体貌特征已经变得像欧洲人一样很难区分了。这是长久以来混血的结果。但是,他们把希伯来语作为公用语使之文化复活了,无论容貌怎么改变,犹太文化的核心一直留存着。(不过以色列人比起之前描述的日本思想意识,还是更接近阿拉伯。)
    我们是日本人,有着日本语的民族文化,这个语言作为日本风俗,历史,文化的一面镜子发展而来。这种特征倒处都有表现,比如从文章的构造上来看,这是以谓语为中心的语言。 在说“太郎借给了花子书”的时候,关键语言是“借给了”,其它的太郎,花子,书这些词语是对等比重,与“借给了”相呼应。也就是说,谓语把其它语法归拢起来,因此,谓语的原则是放在最后,其它语法的次序比较自由。
    然而,在英语和法语中,“太郎”作为主语放在起始位置。英语更是要在第三人称单数现在时的动词后加上S,同样也是主语支配着其它语法,但是在日语中正好相反。 比英语和法语中主语支配力更强的语言大概是非洲的斯瓦希里语。这个主语的支配波及其它全部语法,不像英语中是只是动词要加S,连“花子”,“书”这些宾语都要根据主语发生变化。
    做为民族文化的语言有这样大的不同,如果要从逻辑上说那一种高级,三种都各有优势,没有什么优劣之分。像日语这样以谓语为中的心语言在世界上并不少见。语言反映出一个民族的文化,也就是反映出这个社会的逻辑。所以,不符合逻辑的语言是不存在的。如果说话的人笨拙,那无论他用什么语言都不会有逻辑性。
    民族与语言的关系是难以分开的,做为我们民族文化的日语,对我们来说是无比重要的。这就是所谓的民族基础。但是每天都在说在读日语的我们,还没认识到它的重要性。之前我很少接触过历史上日本人被异民族侵略过的悲惨经历。可能因为这一点,才对语言认识不足。相反,侵略其他民族的经历,在日本历史上有很多。以前日本把周边的亚洲各国占领作为殖民地折时候,那些国家的人们最愤怒,并且叹气的事情是本国语言被禁止使用,强制使用日语。这是对民族文化的抹杀。
  像呼吸空气一样自然的说着日语的各位,能理解这是多么重要的事情吗?而且对于语言,世界上其它民族也各有各的说法。唯有日语(日本文化)重要,其余的语言(文化)都不重要,这样就成了国粹主义,选民思想,会走向法西斯的道路。反过来说,认为英语和法语是高级语言的想法也是错误的。而且,希望大家也别忘记在日本国内也有像阿依努语(阿依努文化)这样独立存在的民族文化。单一文化,单一民族之类的言语,也不要轻率的说出来。
    同样说的是日语,各地的方言是各种各样独特的地域文化,没有所谓的“这个好”“这个不好”的说法。甚至有人认为,普通话是高等的,方言低等,这是大错特错。作为与生活密切相关的语言,其实方言的表现力更为丰富。
    即将踏入社会的各位,无论你们在国内还是国外,在重视自己文化的同时,也要做个尊重其它民族和其它文化的日本人。而且,就像文章开头介绍的萱野先生感叹的那样,做一个能理解文化被害者伤痛的人。
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发表于 2009-3-11 09:08:51 | 显示全部楼层
喜欢他
多过于马伊琍!
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发表于 2009-3-17 20:45:09 | 显示全部楼层

長いですね。

ちょっと長いですけど、交流したいんです。私のQQは513592978です。ご連絡くださいね!
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发表于 2009-6-7 23:12:58 | 显示全部楼层
お疲れ様でした。
面白い文章で、プリントしてからじっくりと読みたいです。
とりま、ありw
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