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こころ(夏目漱石)上 先生と私

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发表于 2004-4-29 23:00:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
  上 先生と私
中 両親と私
http://coffeejp.com/bbs/read.php?tid=2583
下 先生と遺書
http://coffeejp.com/bbs/read.php?tid=2584

上 先生と私

     一

 私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執(と)っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字(かしらもじ)などはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉(かまくら)である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書(はがき)を受け取ったので、私は多少の金を工面(くめん)して、出掛ける事にした。私は金の工面に二(に)、三日(さんち)を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経(た)たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧(すす)まない結婚を強(し)いられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心(かんじん)の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固(もと)より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分(だいぶ)日数(ひかず)があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留(と)まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子(むすこ)で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人(ひとり)ぼっちになった私は別に恰好(かっこう)な宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙(へんぴ)な方角にあった。玉突(たまつ)きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷(なわて)を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻(くす)ぶり返った藁葺(わらぶき)の間(あいだ)を通り抜けて磯(いそ)へ下りると、この辺(へん)にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯(せんとう)のようにゎ^でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑(にぎ)やかな景色の中に裹(つつ)まれて、砂の上に寝(ね)そべってみたり、膝頭(ひざがしら)を波に打たしてそこいらを跳(は)ね廻(まわ)るのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓(ざっとう)の間(あいだ)に見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋(かけぢゃや)が二軒あった。私はふとした機会(はずみ)からその一軒の方に行き慣(な)れていた。長谷辺(はせへん)に大きな別荘を構えている人と違って、各自(めいめい)に専有の着換場(きがえば)を拵(こしら)えていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風(ふう)なものが必要なのであった。彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外(ほか)に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹(しお)はゆい身体(からだ)を清めたり、ここへ帽子や傘(かさ)を預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切(いっさい)を脱(ぬ)ぎ棄(す)てる事にしていた。
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 楼主| 发表于 2004-4-29 23:00:00 | 显示全部楼层
     二

 私(わたくし)がその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとするところであった。私はその時反対に濡(ぬ)れた身体(からだ)を風に吹かして水から上がって来た。二人の間(あいだ)には目を遮(さえぎ)る幾多のゎ^が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したかも知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫(ほうまん)であったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴(つ)れていたからである。

 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否(いな)や、すぐ私の注意を惹(ひ)いた。純粋の日本の浴衣(ゆかた)を着ていた彼は、それを床几(しょうぎ)の上にすぽりと放(ほう)り出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。彼は我々の穿(は)く猿股(さるまた)一つの外(ほか)何物も肌に着けていなかった。私にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井(ゆい)が浜(はま)まで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人の海へ入る様子を眺(なが)めていた。私の尻(しり)をおろした所は少し小高い丘の上で、そのすぐ傍(わき)がホテルの裏口になっていたので、私の凝(じっ)としている間(あいだ)に、大分(だいぶ)多くの男が塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股(もも)は出していなかった。女は殊更(ことさら)肉を隠しがちであった。大抵は頭に護謨製(ゴムせい)の頭巾(ずきん)を被(かぶ)って、海老茶(えびちゃ)や紺(こん)や藍(あい)の色を波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の眼(め)には、猿股一つで済まして皆(みん)なの前に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。

 彼はやがて自分の傍(わき)を顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言(ひとこと)二言(ふたこと)何(なに)かいった。その日本人は砂の上に落ちた手拭(てぬぐい)を拾い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。

 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿(うしろすがた)を見守っていた。すると彼らは真直(まっすぐ)に波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅(とおあさ)の磯近(いそちか)くにわいわい騒いでいる多人数(たにんず)の間(あいだ)を通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体(からだ)を拭(ふ)いて着物を着て、さっさとどこへか行ってしまった。

 彼らの出て行った後(あと)、私はやはり元の床几(しょうぎ)に腰をおろして烟草(タバコ)を吹かしていた。その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなかった。しかしどうしてもいつどこで会った人か想(おも)い出せずにしまった。

 その時の私は屈托(くったく)がないというよりむしろ無聊(ぶりょう)に苦しんでいた。それで翌日(あくるひ)もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋(かけぢゃや)まで出かけてみた。すると西洋人は来ないで先生一人麦藁帽(むぎわらぼう)を被(かぶ)ってやって来た。先生は眼鏡(めがね)をとって台の上に置いて、すぐ手拭(てぬぐい)で頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が昨日(きのう)のように騒がしい浴客(よくかく)の中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後(あと)が追い掛けたくなった。私は浅い水を頭の上まで跳(はね)かして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標(めじるし)に抜手(ぬきで)を切った。すると先生は昨日と違って、一種の弧線(こせん)を描(えが)いて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。それで私の目的はついに達せられなかった。私が陸(おか)へ上がって雫(しずく)の垂れる手を振りながら掛茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。
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 楼主| 发表于 2004-4-29 23:00:00 | 显示全部楼层
     三

 私(わたくし)は次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した。けれども物をいい掛ける機会も、挨拶(あいさつ)をする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいくら賑(にぎ)やかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその後(ご)まるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。

 或(あ)る時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱(ぬ)ぎ棄(す)てた浴衣(ゆかた)を着ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向きになって、浴衣を二、三度振(ふる)った。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間(すきま)から下へ落ちた。先生は白絣(しろがすり)の上へ兵児帯(へこおび)を締めてから、眼鏡の失(な)くなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛(こしかけ)の下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。

 次の日私は先生の後(あと)につづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。二丁(ちょう)ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼(あお)い海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より外(ほか)になかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜に充(み)ちた筋肉を動かして海の中で躍(おど)り狂った。先生はまたぱたりと手足の邉婴蛞眩à洌─幛蒲鱿颏堡摔胜盲郡蓼蘩耍à胜撸─紊悉饲蓼俊K饯猡饯握嫠疲à蓼停─颏筏俊G嗫栅紊椁椁妊郅蛏浃毪瑜Δ送戳窑噬蛩饯晤啢送钉哺钉堡俊!赣淇欷扦工汀工人饯洗螭噬虺訾筏俊

 しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促した。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路(みち)を浜辺へ引き返した。

 私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。

 それから中(なか)二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋(かけぢゃや)で出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分(だいぶ)長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極(きま)りが悪くなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。

 私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内(けいだい)にある別荘のような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解(わか)った。私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖(くちくせ)だといって弁解した。私はこの間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉(かまくら)にいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり交際(つきあい)をもたないのに、そういう外国人と近付(ちかづ)きになったのは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時暗(あん)に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟(ちんぎん)したあとで、「どうも君の顔には見覚(みおぼ)えがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。

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 楼主| 发表于 2004-4-29 23:00:00 | 显示全部楼层
     十一

 その時の私(わたくし)はすでに大学生であった。始めて先生の宅(うち)へ来た頃(ころ)から見るとずっと成人した気でいた。奥さんとも大分(だいぶ)懇意になった後(のち)であった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。差向(さしむか)いで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたい事がある。

 先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し経(た)ってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。

 先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密切(みっせつ)の関係をもっている私より外(ほか)に敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常に惜(お)しい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利(き)いては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜(けんそん)過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼(だれかれ)を捉(とら)えて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々(うんぬん)してみた。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解(わか)らなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。

 私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。

「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」

「あの人は駄目(だめ)ですよ。そういう事が嫌いなんですから」

「つまり下(くだ)らない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」

「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」

「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」

「丈夫ですとも。何にも持病はありません」

「それでなぜ活動ができないんでしょう」

「それが解(わか)らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」

 奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方がむしろ真面目(まじめ)だった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。

「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」

「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。

「書生時代よ」

「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」

 奥さんは急に薄赤い顔をした。
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 楼主| 发表于 2004-4-29 23:00:00 | 显示全部楼层
     十六

 私(わたくし)の行ったのはまだ灯(ひ)の点(つ)くか点かない暮れ方であったが、几帳面(きちょうめん)な先生はもう宅(うち)にいなかった。「時間に後(おく)れると悪いって、つい今しがた出掛けました」といった奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。

 書斎には洋机(テーブル)と椅子(いす)の外(ほか)に、沢山の書物が美しい背皮(せがわ)を並べて、硝子越(ガラスごし)に電燈(でんとう)の光で照らされていた。奥さんは火悚吻挨朔螭い孔褔猓à钉证趣螅─紊悉厮饯蜃à工铮─椁护啤ⅰ袱沥盲趣饯长い椁摔ⅳ氡兢扦庹iんでいて下さい」と断って出て行った。私はちょうど主人の帰りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。私は畏(かしこ)まったまま烟草(タバコ)を飲んでいた。奥さんが茶の間で何か下女(げじょ)に話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った角(かど)にあるので、棟(むね)の位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさを領(りょう)していた。ひとしきりで奥さんの話し声が已(や)むと、後(あと)はしんとした。私は泥棒を待ち受けるような心持で、凝(じっ)としながら気をどこかに配った。

 三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。「おや」といって、軽く驚いた時の眼を私に向けた。そうして客に来た人のように鹿爪(しかつめ)らしく控えている私をおかしそうに見た。

「それじゃ窮屈でしょう」

「いえ、窮屈じゃありません」

「でも退屈でしょう」

「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」

 奥さんは手に紅茶茶碗(こうちゃぢゃわん)を持ったまま、笑いながらそこに立っていた。

「ここは隅っこだから番をするには好(よ)くありませんね」と私がいった。

「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴(ちょうだい)。ご退屈(たいくつ)だろうと思って、お茶を入れて持って来たんですが、茶の間で宜(よろ)しければあちらで上げますから」

 私は奥さんの後(あと)に尾(つ)いて書斎を出た。茶の間には綺麗(きれい)な長火悖à胜窑肖粒─蒜熎浚à皮膜婴螅─Qっていた。私はそこで茶と菓子のご馳走(ちそう)になった。奥さんは寝(ね)られないといけないといって、茶碗に手を触れなかった。

「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛(でか)けになるんですか」

「いいえ滅多(めった)に出た事はありません。近頃(ちかごろ)は段々人の顔を見るのが嫌(きら)いになるようです」

 こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという風(ふう)も見えなかったので、私はつい大胆になった。

「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」

「いいえ私も嫌われている一人なんです」

「そりゃ嘘(うそ)です」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」

「なぜ」

「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」

「あなたは学問をする方(かた)だけあって、なかなかお上手(じょうず)ね。空(から)っぽな理屈を使いこなす事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと同(おん)なじ理屈で」

「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」

「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空(から)の盃(さかずき)でよくああ飽きずに献酬(けんしゅう)ができると思いますわ」

 奥さんの言葉は少し手痛(てひど)かった。しかしその言葉の耳障(みみざわり)からいうと、決して猛烈なものではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出(みいだ)すほどに奥さんは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。
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 楼主| 发表于 2004-4-30 23:00:00 | 显示全部楼层
     二十一



 冬が来た時、私(わたくし)は偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。

 父はかねてから腎臓(じんぞう)を病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの病(やまい)は慢性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現に父は養生のお蔭(かげ)一つで、今日(こんにち)までどうかこうか凌(しの)いで来たように客が来ると吹聴(ふいちょう)していた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている機(はずみ)に突然眩暈(めまい)がして引ッ繰り返った。家内(かない)のものは軽症の脳溢血(のういっけつ)と思い違えて、すぐその手当をした。後(あと)で医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。

 冬休みが来るにはまだ少し間(ま)があった。私は学期の終りまで待っていても差支(さしつか)えあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを嘗(な)めた私は、とうとう帰る決心をした。国から旅費を送らせる手数(てかず)と時間を省くため、私は暇乞(いとまご)いかたがた先生の所へ行って、要(い)るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。

 先生は少し風邪(かぜ)の気味で、座敷へ出るのが臆劫(おっくう)だといって、私をその書斎に通した。書斎の硝子戸(ガラスど)から冬に入(い)って稀(まれ)に見るような懐かしい和(やわ)らかな日光が机掛(つくえか)けの上に射(さ)していた。先生はこの日あたりの好(い)い室(へや)の中へ大きな火悚蛑盲い啤⑽鍙裕à搐趣─紊悉藨窑堡拷痤拢à胜坤椁ぃ─榱ⅳ辽希àⅳ─霚珰荩à妞玻─恰⒑粑àい─慰啶筏胜毪韦蚍坤い扦い俊

「大病は好(い)いが、ちょっとした風邪(かぜ)などはかえって厭(いや)なものですね」といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。

 先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。

「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平(まっぴら)です。先生だって同じ事でしょう。試みにやってご覧になるとよく解(わか)ります」

「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に罹(かか)りたいと思ってる」

 私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。

「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」

 先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥(ちゃだんす)か何かの抽出(ひきだし)から出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧(ていねい)に重ねて、「そりゃご心配ですね」といった。

「何遍(なんべん)も卒倒したんですか」と先生が聞いた。

「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」

「ええ」

 先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。

「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。

「そうさね。私が代られれば代ってあげても好(い)いが。――嘔気(はきけ)はあるんですか」

「どうですか、何とも書いてないから、大方(おおかた)ないんでしょう」

「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。

 私はその晩の汽車で東京を立った。
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 楼主| 发表于 2004-5-1 23:00:00 | 显示全部楼层
    三十一

 その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。私(わたくし)はむしろ先生の態度に畏縮(いしゅく)して、先へ進む気が起らなかったのである。

 二人は市の外(はず)れから電車に仱盲郡④嚹冥扦悉郅趣螭煽冥蚵劋胜盲俊k娷嚖蚪丹辘毪乳gもなく別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」といった。私は笑って帽子を脱(と)った。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかと疑(うたぐ)った。その眼、その口、どこにも厭世的(えんせいてき)の影は射(さ)していなかった。

 私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が間々(まま)あったといわなければならない。先生の談話は時として不得要領(ふとくようりょう)に終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸の裏(うち)に残った。

 無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。

「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解(わか)ってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」

「私は何にも隠してやしません」

「隠していらっしゃいます」

「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏(まと)め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉(ことごと)くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」

「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」

 先生はあきれたといった風(ふう)に、私の顔を見た。巻烟草(まきタバコ)を持っていたその手が少し顫(ふる)えた。

「あなたは大胆だ」

「ただ真面目(まじめ)なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」

「私の過去を訐(あば)いてもですか」

 訐くという言葉が、突然恐ろしい響(ひび)きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐(すわ)っているのが、一人の罪人(ざいにん)であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼(あお)かった。

「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果(いんが)で、人を疑(うたぐ)りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好(い)いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」

「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」

 私の声は顫えた。

「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増(まし)かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」

 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。

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 楼主| 发表于 2004-5-2 23:00:00 | 显示全部楼层
  「中 両親と私 」はこちら
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 楼主| 发表于 2004-7-28 19:24:48 | 显示全部楼层
丢的帖子太多了,我会另开帖子补充完整。
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