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こころ(夏目漱石)下 先生と遺書

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发表于 2004-5-1 23:00:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
  上 先生と私
http://coffeejp.com/bbs/read.php?tid=2580
中 両親と私
http://coffeejp.com/bbs/read.php?tid=2583

下 先生と遺書


     一

「……私(わたくし)はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいから宜(よろ)しく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入(い)ったものと記憶しています。私はそれを読んだ時何(なん)とかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。ご承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどうすれば好(い)いのかと思い煩(わずら)っていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。馳足(かけあし)で絶壁の端(はじ)まで来て、急に底の見えない谷を覗(のぞ)き込んだ人のように。私は卑怯(ひきょう)でした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度において煩悶(はんもん)したのです。遺憾(いかん)ながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの糊口(ここう)の資(し)、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は状差(じょうさし)へあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。宅(うち)に相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって藻掻(もが)き廻(まわ)るのか。私はむしろ苦々(にがにが)しい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥(いちべつ)を与えただけでした。私は返事を上げなければ済まないあなたに対して、言訳(いいわけ)のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾(ぶしつけ)な言葉を弄(ろう)するのではありません。私の本意は後(あと)をご覧になればよく解(わか)る事と信じます。とにかく私は何とか挨拶(あいさつ)すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
 その後(ご)私はあなたに電報を打ちました。有体(ありてい)にいえば、あの時私はちょっとあなたに会いたかったのです。それからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。あなたは返電を掛(か)けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺(なが)めていました。あなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、あなたの出京(しゅっきょう)できない事情がよく解(わか)りました。私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありません。あなたの大事なお父さんの病気をそっち退(の)けにして、何であなたが宅(うち)を空(あ)けられるものですか。そのお父さんの生死(しょうし)を忘れているような私の態度こそ不都合です。――私は実際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。そのくせあなたが東京にいる頃(ころ)には、難症(なんしょう)だからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。私はこういう矛盾な人間なのです。あるいは私の脳髄(のうずい)よりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません。私はこの点においても充分私の我(が)を認めています。あなたに許してもらわなくてはなりません。
 あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それでその意味の返事を出そうかと考えて、筆を執(と)りかけましたが、一行も書かずに已(や)めました。どうせ書くなら、この手紙を書いて上げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです。
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 楼主| 发表于 2004-5-1 23:00:00 | 显示全部楼层
     二



「私(わたくし)はそれからこの手紙を書き出しました。平生(へいぜい)筆を持ちつけない私には、自分の思うように、事件なり思想なりが撙肖胜い韦丐た嗤搐扦筏俊K饯悉猡ι伽筏恰ⅳⅳ胜郡藢潳工胨饯韦长瘟x務を放擲(ほうてき)するところでした。しかしいくら止(よ)そうと思って筆を擱(お)いても、何にもなりませんでした。私は一時間経(た)たないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の遂行(すいこう)を重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれは否(いな)みません。私はあなたの知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右前後を見廻(みまわ)しても、どの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ鋭敏(えいびん)過ぎて刺戟(しげき)に堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になったのです。だから一旦(いったん)約束した以上、それを果たさないのは、大変厭(いや)な心持です。私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。

 その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支(さしつか)えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命(いのち)と共に葬(ほうむ)った方が好(い)いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目(まじめ)だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。

 私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝(じっ)と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫(つか)みなさい。私の暗いというのは、固(もと)より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫理上の考えは、今の若い人と大分(だいぶ)違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着(そんりょうぎ)ではありません。だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。

 あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対する態度もよく解(わか)っているでしょう。私はあなたの意見を軽蔑(けいべつ)までしなかったけれども、決して尊敬を払い得(う)る程度にはなれなかった。あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。その極(きょく)あなたは私の過去を絵巻物(えまきもの)のように、あなたの前に展開してくれと逼(せま)った。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮(ぶえんりょ)に私の腹の中から、或(あ)る生きたものを捕(つら)まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜(すす)ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭(いや)であった。それで他日(たじつ)を約して、あなたの要求を斥(しりぞ)けてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴(あ)びせかけようとしているのです。私の鼓動(こどう)が停(とま)った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。

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 楼主| 发表于 2004-5-2 23:00:00 | 显示全部楼层
     四

「とにかくたった一人取り残された私(わたくし)は、母のいい付け通り、この叔父(おじ)を頼るより外(ほか)に途(みち)はなかったのです。叔父はまた一切(いっさい)を引き受けて凡(すべ)ての世話をしてくれました。そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。

 私は東京へ来て高等学校へはいりました。その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐(さつばつ)で粗野でした。私の知ったものに、夜中(よる)職人と喧嘩(けんか)をして、相手の頭へ下駄(げた)で傷を負わせたのがありました。それが酒を飲んだ揚句(あげく)の事なので、夢中に擲(なぐ)り合いをしている間(あいだ)に、学校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃんと、菱形(ひしがた)の白いきれの上に書いてあったのです。それで事が面倒になって、その男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。しかし友達が色々と骨を折って、ついに表沙汰(おもてざた)にせずに済むようにしてやりました。こんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞かせたら、定めて馬鹿馬鹿(ばかばか)しい感じを起すでしょう。私も実際馬鹿馬鹿しく思います。しかし彼らは今の学生にない一種質朴(しつぼく)な点をその代りにもっていたのです。当時私の月々叔父から貰(もら)っていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べると遥(はる)かに少ないものでした。(無論物価も違いましょうが)。それでいて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず数ある同級生のうちで、経済の点にかけては、決して人を羨(うらや)ましがる憐(あわ)れな境遇にいた訳ではないのです。今から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。というのは、私は月々極(きま)った送金の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。

 何も知らない私は、叔父(おじ)を信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。その関係からでもありましょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く篤実一方(とくじついっぽう)の男でした。楽しみには、茶だの花だのをやりました。それから詩集などを読む事も好きでした。書画骨董(しょがこっとう)といった風(ふう)のものにも、多くの趣味をもっている様子でした。家は田舎(いなか)にありましたけれども、二里(り)ばかり隔たった市(し)、――その市には叔父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が懸物(かけもの)だの、香炉(こうろ)だのを持って、わざわざ父に見せに来ました。父は一口(ひとくち)にいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでも評したら好(い)いのでしょう。比較的上品な嗜好(しこう)をもった田舎紳士だったのです。だから気性(きしょう)からいうと、闊達(かったつ)な叔父とはよほどの懸隔(けんかく)がありました。それでいて二人はまた妙に仲が好かったのです。父はよく叔父を評して、自分よりも遥(はる)かに働きのある頼もしい人のようにいっていました。自分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の材幹(さいかん)が鈍(にぶ)る、つまり世の中と闘う必要がないからいけないのだともいっていました。この言葉は母も聞きました。私も聞きました。父はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます。「お前もよく覚えているが好(い)い」と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにいます。このくらい私の父から信用されたり、褒(ほ)められたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただでさえ誇りになるべき叔父でした。父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです。

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 楼主| 发表于 2004-5-2 23:00:00 | 显示全部楼层
     七

「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年経(た)った夏の取付(とっつき)でした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷(ふるさと)がそれほど懐かしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂(にお)いも格別です、父や母の記憶も濃(こまや)かに漂(ただよ)っています。一年のうちで、七、八の二月(ふたつき)をその中に包(くる)まれて、穴に入った蛇(へび)のように凝(じっ)としているのは、私に取って何よりも温かい好(い)い心持だったのです。

 単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断る、断ってさえしまえば後(あと)には何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托(くったく)した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。

 ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好(い)い顔をして私を自分の懐(ふところ)に抱(だ)こうとしません。それでも鷹揚(おうよう)に育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母(おば)も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。

 私の性分(しょうぶん)として考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍(にぶ)い私の眼を洗って、急に世の中が判然(はっきり)見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくなった後(あと)でも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっともその頃(ころ)でも私は決して理に暗い質(たち)ではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊(かたま)りも、強い力で私の血の中に潜(ひそ)んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。

 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪(ひざまず)きました。半(なかば)は哀悼(あいとう)の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の呙蚴丐毪伽摔椁似恧辘蓼筏俊¥ⅳ胜郡闲ΔΔ猡筏欷胜ぁK饯庑Δ铯欷皮馐朔饯胜い人激い蓼埂¥筏匪饯悉饯Δ筏咳碎gだったのです。

 私の世界は掌(たなごころ)を翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。何遍(なんべん)も自分の眼を疑(うたぐ)って、何遍も自分の眼を擦(こす)りました。そうして心の中(うち)でああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気(いろけ)の付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目(めくら)の眼が忽(たちま)ち開(あ)いたのです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。

 私が叔父(おじ)の態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然(がぜん)として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の行先(ゆくさき)がどうなるか分らないという気になりました。

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发表于 2004-5-2 23:00:00 | 显示全部楼层
長い間、僕はコーヒーにこられなくて残念なことでした。

みなさんの応援にありがとう。文学のこと、一緒に学びましょう。
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发表于 2004-5-3 23:00:00 | 显示全部楼层
他估计有一段时间要忙了,暂时上网也不太方便。
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 楼主| 发表于 2004-5-3 23:00:00 | 显示全部楼层
     八

「私は今まで叔父任(まか)せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母(ちちはは)に対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体(からだ)だと自称するごとく、毎晩同じ所に寝泊(ねとま)りはしていませんでした。二日家(うち)へ帰ると三日は市(し)の方で暮らすといった風(ふう)に、両方の間を往来(ゆきき)して、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を口癖(くちくせ)のように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の掛(か)かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕(つら)まえる機会を得ませんでした。

 私は叔父が市の方に妾(めかけ)をもっているという噂(うわさ)を聞きました。私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪(あや)しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚(おぼ)えのない私は驚きました。友達はその外(ほか)にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他(ひと)から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。

 私はとうとう叔父(おじ)と談判を開きました。談判というのは少し不穏当(ふおんとう)かも知れませんが、話の成行(なりゆ)きからいうと、そんな言葉で形容するより外に途(みち)のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑(さいぎ)の眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。

 遺憾(いかん)ながら私は今その談判の顛末(てんまつ)を詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこへ辿(たど)りつきたがっているのを、漸(やっ)との事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を執(と)る術(すべ)に慣れないばかりでなく、貴(たっと)い時間を惜(おし)むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません。

 あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。あの時あなたは私に昂奮(こうふん)していると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました。私がただ一口(ひとくち)金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎悪(ぞうお)と共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐(ちんぷ)だったかも知れません。けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷(ひや)やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体(たい)が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。

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 楼主| 发表于 2004-5-3 23:00:00 | 显示全部楼层
     十四

「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息(ひといき)するのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。しかしその頃(ころ)の私たちは大抵そんなものだったのです。

 奥さんは滅多(めった)に外出した事がありませんでした。たまに宅(うち)を留守にする時でも、お嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を能(よ)く観察していると、何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、或(あ)る場合には、私に対して暗(あん)に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。

 私は奥さんの態度をどっちかに片付(かたづ)けてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。しかし叔父(おじ)に欺(あざむ)かれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いを挟(さしはさ)まずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、どっちかが偽(いつわ)りだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私には呑(の)み込めなかったのです。理由(わけ)を考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字に塗(なす)り付けて我慢した事もありました。必竟(ひっきょう)女だからああなのだ、女というものはどうせ愚(ぐ)なものだ。私の考えは行き詰(つ)まればいつでもここへ落ちて来ました。

 それほど女を見縊(みくび)っていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私の理屈はその人の前に全く用を為(な)さないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、気高(けだか)い気分がすぐ自分に仱暌皮盲评搐毪瑜Δ怂激い蓼筏俊¥猡窅郅趣いΣ豢伤甲hなものに両端(りょうはじ)があって、その高い端(はじ)には神聖な感じが働いて、低い端には性欲(せいよく)が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕(つら)まえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体(からだ)でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭(にお)いを帯びていませんでした。

 私は母に対して反感を抱(いだ)くと共に、子に対して恋愛の度を増(ま)して行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それが互(たが)い違(ちが)いに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを忌(い)むのだと解釈したのです。お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌(きざ)さなかった私は、その時入(い)らぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。

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 楼主| 发表于 2004-5-3 23:00:00 | 显示全部楼层
    十五

「私は奥さんの態度を色々綜合(そうごう)して見て、私がここの家(うち)で充分信用されている事を確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。他(ひと)を疑(うたぐ)り始めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、欺(だま)されるのもここにあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです。私は他(ひと)を信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。

 私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかったのです。私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと力(つと)めました。ところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の国元の事情を知りたがるのです。私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない。帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。お嬢さんは泣きました。私は話して好(い)い事をしたと思いました。私は嬉(うれ)しかったのです。

 私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。それからは私を自分の親戚(みより)に当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。むしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の猜疑心(さいぎしん)がまた起って来ました。

 私が奥さんを疑(うたぐ)り始めたのは、ごく些細(ささい)な事からでした。しかしその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父(おじ)と同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようと力(つと)めるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に見えた人が、急に狡猾(こうかつ)な策略家として私の眼に映じて来たのです。私は苦々(にがにが)しい唇を噛(か)みました。

 奥さんは最初から、無人(ぶにん)で淋(さむ)しいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私もそれを嘘(うそ)とは思いませんでした。懇意になって色々打ち明け話を聞いた後(あと)でも、そこに間違(まちが)いはなかったように思われます。しかし一般の経済状態は大して豊(ゆた)かだというほどではありませんでした。利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。

 私はまた警戒を加えました。けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を嘲笑(ちょうしょう)しました。馬鹿だなといって、自分を罵(ののし)った事もあります。しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです。私の煩悶(はんもん)は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくって堪(たま)らなくなるのです。不愉快なのではありません。絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。

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 楼主| 发表于 2004-5-4 23:00:00 | 显示全部楼层
    十七

「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物を拵(こしら)えろといいました。私は実際田舎(いなか)で織った木綿(もめん)ものしかもっていなかったのです。その頃(ころ)の学生は絹(いと)の入(はい)った着物を肌に着けませんでした。私の友達に横浜(よこはま)の商人(あきんど)か何(なに)かで、宅(うち)はなかなか派出(はで)に暮しているものがありましたが、そこへある時羽二重(はぶたえ)の胴着(どうぎ)が配達で届いた事があります。すると皆(みん)ながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、折角(せっかく)の胴着を行李(こうり)の底へ放(ほう)り込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると邜櫎饯坞刈扭宋t(しらみ)がたかりました。友達はちょうど幸(さいわ)いとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津(ねづ)の大きな泥溝(どぶ)の中へ棄(す)ててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の所作(しょさ)を眺(なが)めていましたが、私の胸のどこにも勿体(もったい)ないという気は少しも起りませんでした。

 その頃から見ると私も大分(だいぶ)大人になっていました。けれどもまだ自分で余所行(よそゆき)の着物を拵えるというほどの分別(ふんべつ)は出なかったのです。私は卒業して髯(ひげ)を生やす時代が来なければ、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。それで奥さんに書物は要(い)るが着物は要らないといいました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。買った本をみんな読むのかと聞くのです。私の買うものの中(うち)には字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありながら、頁(ページ)さえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました。私はどうせ要らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。その上私は色々世話になるという口実の下(もと)に、お嬢さんの気に入るような帯か反物(たんもの)を買ってやりたかったのです。それで万事を奥さんに依頼しました。

 奥さんは自分一人で行くとはいいません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩き廻(まわ)る習慣をもっていなかったものです。その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少躊躇(ちゅうちょ)しましたが、思い切って出掛けました。

 お嬢さんは大層着飾っていました。地体(じたい)が色の白いくせに、白粉(おしろい)を豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。

 三人は日本橋(にほんばし)へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより暇(ひま)がかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々反物(たんもの)をお嬢さんの肩から胸へ竪(たて)に宛(あ)てておいて、私に二、三歩遠退(とおの)いて見てくれろというのです。私はそのたびごとに、それは駄目(だめ)だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。

 こんな事で時間が掛(かか)って帰りは夕飯(ゆうめし)の時刻になりました。奥さんは私に対するお礼に何かご馳走(ちそう)するといって、木原店(きはらだな)という寄席(よせ)のある狭い横丁(よこちょう)へ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる家(うち)も狭いものでした。この辺(へん)の地理を一向(いっこう)心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。

 我々は夜(よ)に入(い)って家(うち)へ帰りました。その翌日(あくるひ)は日曜でしたから、私は終日室(へや)の中(うち)に閉じ唬à长猓─盲皮い蓼筏俊T玛驻摔胜盲啤⒀¥爻訾毪取⑺饯铣盲绚椁饯Δ饯売绚我蝗摔檎{戯(からか)われました。いつ妻(さい)を迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君(さいくん)は非常に美人だといって賞(ほ)めるのです。私は三人連(づれ)で日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます。

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 楼主| 发表于 2004-5-4 23:00:00 | 显示全部楼层
    十八

「私は宅(うち)へ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかし定めて迷惑だろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんな風(ふう)にして、女から気を引いて見られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその時自分の考えている通りを直截(ちょくせつ)に打ち明けてしまえば好かったかも知れません。しかし私にはもう狐疑(こぎ)という薩張(さっぱ)りしない塊(かたま)りがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいと留(と)まりました。そうして話の角度を故意に少し外(そ)らしました。

 私は肝心(かんじん)の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に大分(だいぶ)重きを置いているらしく見えました。極(き)めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。それからお嬢さんより外(ほか)に子供がないのも、容易に手離したがらない源因(げんいん)になっていました。嫁にやるか、聟(むこ)を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。

 話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は機会を逸(いっ)したと同様の結果に陥(おちい)ってしまいました。私は自分について、ついに一言(いちごん)も口を開く事ができませんでした。私は好(い)い加減なところで話を切り上げて、自分の室(へや)へ帰ろうとしました。

 さっきまで傍(そば)にいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、背中をこっちへ向けていました。私は立とうとして振り返った時、その後姿(うしろすがた)を見たのです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にして坐(すわ)っていました。その戸棚の一尺(しゃく)ばかり開(あ)いている隙間(すきま)から、お嬢さんは何か引き出して膝(ひざ)の上へ置いて眺(なが)めているらしかったのです。私の眼はその隙間の端(はじ)に、一昨日(おととい)買った反物(たんもの)を見付け出しました。私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。

 私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解(わか)らないほど不意でした。それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然(はっきり)した時、私はなるべく緩(ゆっ)くらな方がいいだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。

 奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入(い)り込まなければならない事になりました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の呙朔浅¥蕢浠蚶矗à浚─筏皮い蓼埂¥猡筏饯文肖饯紊瞍涡新罚à长Δ恚─蚝崆肖椁胜盲郡胜椁小ⅳ饯椁长Δい﹂Lいものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男を宅(うち)へ引張(ひっぱ)って来たのです。無論奥さんの許諾(きょだく)も必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。ところが奥さんは止(よ)せといいました。私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。だから私は私の善(い)いと思うところを強(し)いて断行してしまいました。

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发表于 2004-5-4 23:00:00 | 显示全部楼层
懐かしい、卒業論文のテーマは、「罪と恥意識ー心を見て」だったけど
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 楼主| 发表于 2004-5-5 23:00:00 | 显示全部楼层
     二十一

「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を騙(だま)すような不埒(ふらち)なものに学資を送る事はできないという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを私(わたくし)に見せました。Kはまたそれと前後して実家から受け取った書翰(しょかん)も見せました。これにも前に劣らないほど厳しい詰責(きっせき)の言葉がありました。養家先(ようかさき)へ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、こっちでも一切(いっさい)構わないと書いてありました。Kがこの事件のために復籍してしまうか、それとも他(た)に妥協の道を講じて、依然養家に留(とど)まるか、そこはこれから起る問題として、差し当りどうかしなければならないのは、月々に必要な学資でした。

 私はその点についてKに何か考(かんが)えがあるのかと尋ねました。Kは夜学校(やがっこう)の教師でもするつもりだと答えました。その時分は今に比べると、存外(ぞんがい)世の中が寛(くつ)ろいでいましたから、内職の口はあなたが考えるほど払底(ふってい)でもなかったのです。私はKがそれで充分やって行けるだろうと考えました。しかし私には私の責任があります。Kが養家の希望に背(そむ)いて、自分の行きたい道を行こうとした時、賛成したものは私です。私はそうかといって手を拱(こまぬ)いでいる訳にゆきません。私はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを跳(は)ね付けました。彼の性格からいって、自活の方が友達の保護の下(もと)に立つより遥(はるか)に快よく思われたのでしょう。彼は大学へはいった以上、自分一人ぐらいどうかできなければ男でないような事をいいました。私は私の責任を完(まっと)うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思う通りにさせて、私は手を引きました。

 Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。しかし時間を惜(お)しむ彼にとって、この仕事がどのくらい辛(つら)かったかは想像するまでもない事です。彼は今まで通り勉強の手をちっとも緩(ゆる)めずに、新しい荷を背負(しょ)って猛進したのです。私は彼の健康を気遣(きづか)いました。しかし剛気(ごうき)な彼は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。

 同時に彼と養家との関係は、段々こん絡(がら)がって来ました。時間に余裕のなくなった彼は、前のように私と話す機会を奪われたので、私はついにその顛末(てんまつ)を詳しく聞かずにしまいましたが、解決のますます困難になってゆく事だけは承知していました。人が仲に入って調停を試みた事も知っていました。その人は手紙でKに帰国を促(うなが)したのですが、Kは到底駄目(だめ)だといって、応じませんでした。この剛情(ごうじょう)なところが、――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないといいましたけれども、向うから見れば剛情でしょう。そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。彼は養家の感情を害すると共に、実家の怒(いか)りも買うようになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果(ききめ)もありませんでした。私の手紙は一言(ひとこと)の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。私も腹が立ちました。今までも行掛(ゆきがか)り上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。

 最後にKはとうとう復籍に決しました。養家から出してもらった学資は、実家で弁償する事になったのです。その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。昔の言葉でいえば、まあ勘当(かんどう)なのでしょう。あるいはそれほど強いものでなかったかも知れませんが、当人はそう解釈していました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに継母(けいぼ)に育てられた結果とも見る事ができるようです。もし彼の実の母が生きていたら、あるいは彼と実家との関係に、こうまで隔(へだ)たりができずに済んだかも知れないと私は思うのです。彼の父はいうまでもなく僧侶(そうりょ)でした。けれども義理堅い点において、むしろ武士(さむらい)に似たところがありはしないかと疑われます。

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 楼主| 发表于 2004-5-6 23:00:00 | 显示全部楼层
     二十六

「Kと私(わたくし)は同じ科におりながら、専攻の学問が違っていましたから、自然出る時や帰る時に遅速がありました。私の方が早ければ、ただ彼の空室(くうしつ)を通り抜けるだけですが、遅いと簡単な挨拶(あいさつ)をして自分の部屋へはいるのを例にしていました。Kはいつもの眼を書物からはなして、遥à栅工蓿─蜷_ける私をちょっと見ます。そうしてきっと今帰ったのかといいます。私は何も答えないで点頭(うなず)く事もありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。

 ある日私は神田(かんだ)に用があって、帰りがいつもよりずっと後(おく)れました。私は急ぎ足に門前まで来て、格子(こうし)をがらりと開けました。それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。声は慥(たし)かにKの室(へや)から出たと思いました。玄関から真直(まっすぐ)に行けば、茶の間、お嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という間取(まどり)なのですから、どこで誰の声がしたくらいは、久しく厄介(やっかい)になっている私にはよく分るのです。私はすぐ格子を締めました。するとお嬢さんの声もすぐ已(や)みました。私が靴を脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで手数(てかず)のかかる編上(あみあげ)を穿(は)いていたのですが、――私がこごんでその靴紐(くつひも)を解いているうち、Kの部屋では誰の声もしませんでした。私は変に思いました。ことによると、私の疳違(かんちがい)かも知れないと考えたのです。しかし私がいつもの通りKの室を抜けようとして、窑蜷_けると、そこに二人はちゃんと坐(すわ)っていました。Kは例の通り今帰ったかといいました。お嬢さんも「お帰り」と坐ったままで挨拶しました。私には気のせいかその簡単な挨拶が少し硬(かた)いように聞こえました。どこかで自然を踏み外(はず)しているような調子として、私の鼓膜(こまく)に響いたのです。私はお嬢さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひっそりしていたから聞いて見ただけの事です。

 奥さんははたして留守でした。下女(げじょ)も奥さんといっしょに出たのでした。だから家(うち)に残っているのは、Kとお嬢さんだけだったのです。私はちょっと首を傾けました。今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして、宅(うち)を空けた例(ためし)はまだなかったのですから。私は何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。お嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に笑う女が嫌いでした。若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れませんが、お嬢さんも下らない事によく笑いたがる女でした。しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断(ふだん)の表情に帰りました。急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと真面目(まじめ)に答えました。下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません。私は沈黙しました。

 私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。やがて晩食(ばんめし)の食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。下宿した当座は万事客扱いだったので、食事のたびに下女が膳(ぜん)を撙螭抢搐皮欷郡韦扦工ⅳ饯欷い膜伍gにか崩れて、飯時(めしどき)には向うへ呼ばれて行く習慣になっていたのです。Kが新しく引き移った時も、私が主張して彼を私と同じように取り扱わせる事に極(き)めました。その代り私は薄い板で造った足の畳(たた)み込める華奢(きゃしゃ)な食卓を奥さんに寄附(きふ)しました。今ではどこの宅(うち)でも使っているようですが、その頃(ころ)そんな卓の周囲に並んで飯を食う家族はほとんどなかったのです。私はわざわざ御茶(おちゃ)の水(みず)の家具屋へ行って、私の工夫通りにそれを造り上(あ)げさせたのです。

 私はその卓上で奥さんからその日いつもの時刻に肴屋(さかなや)が来なかったので、私たちに食わせるものを買いに町へ行かなければならなかったのだという説明を聞かされました。なるほど客を置いている以上、それももっともな事だと私が考えた時、お嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。しかし今度は奥さんに叱(しか)られてすぐ已(や)めました。

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 楼主| 发表于 2004-5-7 23:00:00 | 显示全部楼层
     三十四

「私はKに向ってお嬢さんといっしょに出たのかと聞きました。Kはそうではないと答えました。真砂町(まさごちょう)で偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入った質問を控えなければなりませんでした。しかし食事の時、またお嬢さんに向って、同じ問いを掛けたくなりました。するとお嬢さんは私の嫌いな例の笑い方をするのです。そうしてどこへ行ったか中(あ)ててみろとしまいにいうのです。その頃(ころ)の私はまだ癇癪(かんしゃく)持(も)ちでしたから、そう不真面目(ふまじめ)に若い女から取り扱われると腹が立ちました。ところがそこに気の付くのは、同じ食卓に着いているもののうちで奥さん一人だったのです。Kはむしろ平気でした。お嬢さんの態度になると、知ってわざとやるのか、知らないで無邪気(むじゃき)にやるのか、そこの区別がちょっと判然(はんぜん)しない点がありました。若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方(ほう)でしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが宅へ来てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬(しっと)に帰(き)していいものか、または私に対するお嬢さんの技巧と見傚(みな)してしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面(りめん)にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。しかも傍(はた)のものから見ると、ほとんど取るに足りない瑣事(さじ)に、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは余事(よじ)ですが、こういう嫉妬(しっと)は愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。

 私はそれまで躊躇(ちゅうちょ)していた自分の心を、一思(ひとおも)いに相手の胸へ擲(たた)き付けようかと考え出しました。私の相手というのはお嬢さんではありません、奥さんの事です。奥さんにお嬢さんを呉(く)れろと明白な談判を開こうかと考えたのです。しかしそう決心しながら、一日一日と私は断行の日を延ばして行ったのです。そういうと私はいかにも優柔(ゆうじゅう)な男のように見えます、また見えても構いませんが、実際私の進みかねたのは、意志の力に不足があったためではありません。Kの来ないうちは、他(ひと)の手に仱毪韦瑓挘àい洌─坤趣いξ衣饯蛞郑à担─ǜ钉堡啤⒁粴iも動けないようにしていました。Kの来た後(のち)は、もしかするとお嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を制するようになったのです。はたしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けているならば、この恋は口へいい出す価値のないものと私は決心していたのです。恥を掻(か)かせられるのが辛(つら)いなどというのとは少し訳が違います。こっちでいくら思っても、向うが内心他(ほか)の人に愛の眼(まなこ)を注(そそ)いでいるならば、私はそんな女といっしょになるのは厭なのです。世の中では否応(いやおう)なしに自分の好いた女を嫁に貰(もら)って嬉(うれ)しがっている人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑(の)み込めない鈍物(どんぶつ)のする事と、当時の私は考えていたのです。一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだぐらいの哲理では、承知する事ができないくらい私は熱していました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時にもっとも迂遠(うえん)な愛の実際家だったのです。

 肝心(かんじん)のお嬢さんに、直接この私というものを打ち明ける機会も、長くいっしょにいるうちには時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました。日本の習慣として、そういう事は許されていないのだという自覚が、その頃の私には強くありました。しかし決してそればかりが私を束縛したとはいえません。日本人、ことに日本の若い女は、そんな場合に、相手に気兼(きがね)なく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと私は見込んでいたのです。
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