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楼主: junshan_yin

[本科专业课] 文化史

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 楼主| 发表于 2009-6-18 22:49:07 | 显示全部楼层
古墳文化のノート
古墳文化…3期区分
 ・古墳…形状-前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳など
     葺石、埴輪、濠をめぐらす
  ・前期古墳…大規模、竪穴式石室、円筒埴輪、呪術的副葬品
        箸墓古墳が代表
  ・中期古墳…巨大化、竪穴式石室→横穴式石室、形象埴輪、軍事的副葬品
        誉田御廟山古墳と大仙陵古墳が代表
  ・後期古墳…群集墳・横穴墓・装飾古墳、横穴式石室、円筒・形象埴輪
        武具・土器など、石舞台古墳・高松塚古墳

 ・渡来人の伝来
   新文化・技術の伝来…鉄器や須恵器の生産、
             機織り・金属工芸・土木工事など→品部に組織
   王仁・阿知使主・弓月君らの渡来
   漢字・儒教・仏教の伝来
    仏教…百済の聖明王が欽明天皇に仏像などを伝えた。
       538年(元興寺縁起など)と552年(日本書紀)説

 ・生活…竪穴住居・平地住居に住む、土師器・須恵器の使用
     衣服-筒袖の衣、男は袴・女は裳
     頭髪-男は美豆良、女は髷を結う

 ・祭祀…祈年祭・新嘗祭、禊・祓  占法-太占・盟神探湯
     自然神を祀る…大神神社、宗像神社の沖津宮など
     氏神を祀る…天照大神を祀る伊勢神宮内宮
           大国主命を祀る出雲大社など


┃文章
 弥生時代後期、有力者の墓は大きな墳丘墓だった。3世紀後半~4世紀初頭
に瀬戸内海沿岸から近畿にかけて古墳{こふん}が現われ、4世紀後半に各地
へ広がった。古墳は、特定の個人を埋葬した墳丘を持つ墓である。古墳が作ら
れた時代を古墳時代といい、特徴によって前・中・後期と区分される。古墳の
形は、前方後円墳{ぜんぽうこうえんぷん}・前方後方墳{ぜんぽうこうほう
ふん}・円墳・方墳など様々である。そして、墳丘の斜面は葺石{ふきいし}
で覆われ、墳丘の周りに濠をめぐらすことも多い。また、埴輪{はにわ}<注
2>を表土に列をなして並べられた。

  <注1>数は円墳・方墳が多く、大規模なものは前方後円墳である。
  <注2>素焼きの焼き物。土留め・器台形土器の発展など諸説がある。

 前期古墳は、畿内の台地や丘陵に大規模な前方後円墳が造営された。竪穴式
石室や粘土槨{ねんどかく}に木棺・石棺を収納し、銅鏡や玉{ぎょく}など
呪術的なものが副葬された。被葬者は、司祭者的性格を持つ者と推定される。
埴輪は、円筒埴輪が多い。中期古墳は全国に拡大し、平野部では巨大化した。
竪穴式石室に木棺・石棺を収納していたが、4世紀末に九州北部に横穴式石室
が現われ、5世紀末に近畿地方に広まった。副葬品は武器・武具など軍事的な
者が多く、武人的性格を持つ者が埋葬されたと推定される。埴輪は、各種形態
の形象埴輪を製作した。

 竪穴式石室は、遺体を埋葬後に長方形の石室を作り、上部から土をかぶせた
ものである。横穴式石室は、入口をふさぐ石を取れば玄室{げんしつ:遺体安
置場所}までいけるため、いつでも追葬できる家族墓的性格を持っている。

 後期古墳は全国に拡大し、近畿中央部では大規模なものが作られたが、各地
には小型古墳(群集墳{ぐんしゅうふん})が増加した。横穴式石室が全国的
に普及した。副葬品は武具などの他、飲食用の土器なども多くなった。円筒・
形象埴輪を盛んに使ったが、畿内では次第に減少する。また、山腹や台地の縁
辺に穴を掘った横穴墓{よこあなぼ}や石室の壁画に絵画を描いた装飾古墳も
見られる。

 有名な古墳も多い。前期は奈良県の箸墓{はしはか}古墳、中期はともに大
阪府の誉田御廟山{こんだごびょうやま}古墳と大仙陵{だいせんりょう}古
墳、後期はともに奈良県の石舞台{いしぶたい}古墳と藤ノ木{ふじのき}古
墳、高松塚{たかまつづか}古墳などが知られる。大仙陵古墳は日本第1位、
誉田御廟山古墳は日本第2位の大きさの前方後円墳である。石舞台古墳は蘇我
馬子の墓といわれ、盛り土が失われて巨石を積んで築かれた横穴式石室が露出
している。高松塚古墳は、装飾古墳の代表である。


 5世紀頃、新しい文化や技術が朝鮮半島からやってきた渡来人によって伝え
られた。彼らは、鉄器や須恵器{すえき}の生産、機織{はたお}り・金属工
芸・土木工事などの諸技術や文字が伝えられた。ヤマト政権は、彼らを韓鍛冶
部{からかぬちべ}・陶作部{すえつくりべ}・錦織部{にしごりべ}・史部
{ふひとべ}などの品部{しなべ}に組織し、技術や知識を活用した。

 応神天皇朝に、王仁{わに}・阿知使主{あちのおみ}・弓月君{ゆづきの
きみ}らが渡来した。王仁は百済の博士で、『論語』や『千字文{せんじもん
:識字・習字のテキスト}』をもたらし、文筆・出納{すいとう}に従ったと
いう。西文氏{かわちのふみうじ}の祖とされる。阿知使主は文筆に優れ、史
部を管理したという。東漢氏{やまとのあやうじ}の祖とされる。養蚕・機織
りを伝え、秦氏{はたうじ}の祖とされる。

 大陸から漢字・儒教・仏教が伝わった。漢字・儒教は、王仁が儒教の経典を
伝えたとされる。漢字が伝わったことで、漢字の音を借りて人名や地名を表わ
すことが出来るようになり、政権の記録、出納、外交文書の作成もできるよう
になった。欽明天皇朝頃には、大王家の系譜『帝紀{ていき}』と神話・王権
物語『旧辞{ぎゅうじ}』が編纂された。漢字の銘文を持つ刀剣・鏡も相次い
で見つかった。埼玉県の稲荷山{いなりやま}古墳から出土した鉄剣、熊本県
の江田船山{えたふなやま}古墳から出土した鉄刀、和歌山県の隅田{すだ}
八幡神社が所蔵する人物画像鏡などがある。

 儒教の思想は王仁の時に伝わったが、6世紀初めの継体{けいたい}天皇朝
に五経{ごきょう}博士が百済から来日し、五経<注2>を講じて儒教を伝え
たとされている。6世紀中頃の欽明天皇朝に易{えき:占い}・暦{れき}・
医博士が来日し、学術も伝えた。

  <注3>易経{えききょう}・詩経{しきょう}・書経{しょきょう}・
      春秋{しゅんじゅう}・礼記{らいき}の5つ

 仏教は、百済の聖明王{せいめいおう}が欽明天皇に仏像と経論{きょうろ
ん}などを伝えたとされる。公的には『元興寺縁起{がんごうじえんぎ}』や
『上宮聖徳法王帝説{じょうぐうしょういくほうおうていせつ}』は538年、
『日本書紀』は552年とあるが、538年が有力とされる。また、『扶桑略記{ふ
そうりゃっき}』には、司馬達等{しばたっと}が私宅で仏像を礼拝したとあ
り、その時期が「継体天皇即位十六年(522年)」とあることから、私的には
それ以前に伝わっていた可能性が高い。


 この頃の民衆は、竪穴住居・平地{へいち}住居に住んでいた。土器は、土
師器{はじき}と須恵器が使われた。土師器は、弥生土器の製法を受け継ぎ、
800度前後で焼かれた赤焼きの土器で、主に日用具とされた。須恵器は、ろく
ろ・登り窯{のぼりがま}など朝鮮半島伝来の新技術を用い、1000度以上の高
温で焼かれた灰色・硬質の土器で、主に祭祀用に用いた。2つとも平安時代に
まで製作・使用された。

 衣服は上下に分かれ、男女とも筒袖{つつそで}の衣{ころも}をつけ、男
は下に乗馬ズボン風の袴{はかま}、女はスカート風の裳{も}をつけた。そ
して、男は頭髪を中央から左右に分け、耳の当たりで輪のようにして緒{お}
で結んだ。美豆良{みずら}という。女は髷を結んだ。この姿は人物埴輪から
分かってきた。


 水稲耕作の普及・発達により、農耕祭祀が大切なものとなった。春に五穀豊
穣{ごこくほうじょう}を祈る祈年祭{としごいのまつり/きねんさい}と秋
に収穫を感謝する新嘗祭{にいなめのまつり/しんじょうさい}は、特に重要
だった。また、禊{みそぎ}や祓{はらえ}で身を清め、けがれをはらった。
禊は、心身の罪やけがれを海・川・滝などの清浄な水で身を洗い流すことであ
る。祓は、水以外での方法での罪・けがれを除去することである。

 一方、神々の意向を知るために占法が行なわれ、呪術的な風習も盛んに行な
われた。太占{ふとまに}は、鹿の肩甲骨{けんこうこつ}を焼いて、そのひ
び割れの形で今後の策を占うことである。盟神探湯{くかたち}は、熱湯に手
を入れて、やけどの有無で真偽を確かめるもので、氏姓の不正を正すために行
なったという。

 自然神を祀る神社の中には、この頃を起源とするものもある。三輪山{みわ
やま}を神体とする奈良県の大神{おおみわ}神社、玄界灘の孤島沖ノ島{お
きのしま}を神体とする福岡県の宗像{むなかた}神社の沖津宮{おきつのみ
や}などである。沖ノ島には5~9世紀の祭祀遺跡も多く、出土品の貴重さ・
豊富さから「海の正倉院」ともいわれる。

 氏神も祀るようになった。天照大神{あまてらすおおみかみ}を祀る三重県
の伊勢神宮内宮{ないくう}、大国主命{おおくにぬしのみこと}を祀る島根
県の出雲大社{いずもたいしゃ}、海神を祀る大阪府の住吉{すみよし}大社
などがその例である<注4>。また、土地の神を祀る産土神{うぶすながみ}
も祀られた。

  <注4>伊勢神宮は神明造{しんめいづくり}、出雲大社は大社造、住吉
      大社は住吉造で作られる。
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 楼主| 发表于 2009-6-18 22:50:35 | 显示全部楼层
弘仁貞観文化のノート
弘仁貞観文化…平安前期の文化
 特徴…唐の文化の消化、漢文学の隆盛、密教の発展
 文学 漢詩文 勅撰…『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』
         私撰…『性霊集』(空海)、『菅家文草』(菅原道真)
     評 論…空海の『文鏡秘府論』  説話集…景戒の『日本霊異記』
     その他…『新撰姓氏録』、菅原道真の『類聚国史』
         円仁の『入唐求法巡礼行記』
 書道 三筆(嵯峨天皇、空海、橘逸勢)

 教育 紀伝道の重視
     大学別曹 学館院-橘嘉智子 弘文院-和気広世
          勧学院-藤原冬嗣 奨学院-在原行平
     空海の綜芸種智院

 宗教
  最澄の天台宗…延暦寺?園城寺、台密、後に円仁派と円珍派に分裂
  空海の真言宗…金剛峰寺?東寺、東密
  修験道…役小角を祖。大峰山、白山などが舞台

 密教美術
  建築…室生寺金堂?五重塔
  彫刻…一木造、翻波式
       密教彫刻…神護寺薬師如来像、室生寺金堂釈迦如来像など
       神像彫刻…薬師寺僧形八幡神像など
  絵画…神護寺と教王護国寺の両界曼荼羅、不動明王像
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 楼主| 发表于 2009-6-18 22:51:01 | 显示全部楼层
┃文章
 弘仁?貞観{こうにん?じょうがん}文化は、嵯峨?清和{さが?せいわ}
天皇朝の弘仁?貞観年間を中心とする平安時代前期の文化である。唐の文化の
影響を受けながらも、次第にそれを消化していった。密教と密教芸術の発展、
漢文学の隆盛などを特色とする文化である。

 文学では、文章経国{もんじょうけいこく}思想から漢詩文が全盛となり、
天皇の命で勅撰漢詩文集が撰定?編纂された。特に嵯峨?淳和{じゅんな}両
天皇の在位中に撰集されたのが、『凌雲集{りょううんしゅう}』、『文華秀
麗集{ぶんかしゅうれいしゅう}』、『経国集{けいこくしゅう}』を三大勅
撰集(3勅撰漢詩文集)という。嵯峨天皇を初め、宮廷の漢詩文への強い意欲
を繁栄している。文章経国思想は、文芸は国家の支柱で国家の隆盛の鍵である
とする思想である。

 『凌雲集』は初の勅撰漢詩文集で、嵯峨天皇の命で小野岑守{おののみねも
り}らが撰集した。『文華秀麗集』は、嵯峨天皇の命で藤原冬嗣らが編集し、
天皇自ら作品を撰定した。『経国集』は、淳和天皇の命で良岑安世{よしみね
のやすよ}らが編集した。

 また、空海の漢詩文などを弟子の真済{しんぜい}が、『性霊集{しょうり
ょうしゅう}』(『遍照発揮性霊集{へんじょうほっきせいれいしゅう}』)
にまとめた。菅原道真は、『菅家文草{かんけぶんそう}』を編集して醍醐天
皇に奏進し、大宰府へ流された後に『菅家後集{こうしゅう}』を撰した。著
名な漢詩文作者には、小野篁{おののたかむら}?都良香{みやこのよしか}
らの文人官僚が知られる。

 漢詩集以外に、空海の『文鏡秘府論{ぶんきょうひふろん}』は、六朝?唐
代の文学?評論を選び、詩文の格式や声韻などを評論したものである。景戒
{きょうかい}の『日本霊異記{にほんりょういき}』は現存する最古の説話
集で、仏教思想の影響を受けた因果応報譚{たん}が多い。『新撰姓氏{しょ
うじ}録』は古代の畿内諸氏1182氏の系譜を書いたもので、氏姓秩序の混乱を
収拾するのが編集の目的である。菅原道真が編集した『類聚{るいじゅう}国
史』は、六国史の内容を部門別に分類し、編年順に並べた史書である。円仁
{えんにん}の『入唐求法{にっとうぐほう}巡礼行記{こうき}』は、五台
山{ごだいさん}などを巡礼した旅の日記である。

 書は唐風の力強い筆蹟が尊ばれ、嵯峨天皇?空海?橘逸勢{たちばなのはや
なり}の3人を三筆{さんぴつ}という。空海が最澄に送った『風信帖{ふう
じんじょう}』、最澄が泰範{たいはん}に送った『久隔帖{きゅうかくじょ
う}』が有名である。

 教育は、大学教育が最盛期を迎えた。中国の歴史?漢詩文を学ぶ紀伝道が独
立教科となって、重視された。また、有力氏族は一族の子弟を寄宿させる大学
別曹{べっそう}を設け、大学で試験や講義を受けるのに便利なようにした。
大学の付属機関として公認されたが、運営は各氏族が行なった。和気{わけ}
氏の弘文院{こうぶんいん}、藤原氏の勧学院{かんがくいん}、皇族?在原
{ありわら}氏の奨学院{しょうがくいん}、橘{たちばな}氏の学館院{が
っかんいん}が知られる。また、空海は、庶民教育を目的に綜芸種智院{しゅ
げいしゅちいん}を設置し、儒?仏?道教を教えた。


 仏教は、奈良末期の山林修行の系譜を引く天台?真言両宗が開かれた。最澄
が開いた天台宗は、法華宗を中心経典とし、人間の仏性{ぶっしょう}の平等
<注1>を説いた。延暦寺{えんりゃくじ}?園城寺{おんじょうじ:三井寺
{みいでら}とも}が中心寺院である。最澄の主著には、『顕戒{けんかい}
論』と『山家学生式{さんげがくしょうしき}』がある。前者は大乗{たいじ
ょう}戒壇<注2>設立に反対する南都諸宗に論駁{ろんばく}した書、後者
は学生を大乗戒で教育して、さらに大乗戒壇設立を目指した書である。

  <注1>仏性の平等は、仏の前における絶対平等の意。
  <注2>大乗仏教独自の戒壇

 後に、弟子の円仁?円珍{えんちん}によって天台教団の基礎が大成され、
天台宗の密教化を進めた。天台宗の密教の意味で、台密{だいみつ}という。
しかし、両者の仏教解釈の相違から、その末流が対立し、993年に円珍派が山
を下って園城寺に入って独立し、寺門派{じもんは}となった。延暦寺の円仁
派を山門派{さんもんは}といい、両派は対立した。

 空海が開いた真言宗は、大日経{だいにちきょう}?金剛頂経{こんごうち
ょうきょう}を中心経典とし、加持祈祷{かじきとう}で現世利益{げんぜり
やく}が得られ、秘密の呪法(真言)で悟りを開けると説いた。金剛峰寺{こ
んごうぶじ}?教王護国寺{きょうおうごこくじ:東寺{とうじ}とも}が中
心寺院である。また、本来が密教で、台密に対し、東寺の密教の意味で東密
{とうみつ:真言密教とも}という。空海の主著の『三教指帰{さんごうしい
き}』は、自己の思想遍歴を語る中で、儒?道?仏の三教のうち、仏教が優れ
ていると説いた。

 真言密教の加持祈祷や即身成仏{そくしんじょうぶつ}の教えにみる現世利
益的傾向が、皇族?貴族の支持を受けて発展し、密教の流行をもたらし、天台
密教とともに仏教の祈祷儀式に影響を与えた。

 修験道{しゅげんどう}は、密教?神道?陰陽道{おんみょうどう}<注3
>などの影響を受けて、日本で成立した呪術的な山岳信仰で、呪術者の役小角
{えんのおづの、えんのおずぬ}を祖師と仰いだ。山岳修行により験力{げん
りき}を得た者を、験を修めた者という意味で修験者{しゅげんじゃ}と呼ん
だ。山に伏して山の霊力{れいりょく}を受けることから、山伏{やまぶし}
ともいう。

  <注3>古代中国の陰陽五行説{いんようごぎょうせつ}に基づいて、天
      文?暦学?易{えき}を説明する学問


 建築は、室生寺{むろうじ}金堂?五重塔が知られる。当時の寺院は、深山
幽谷{しんざんゆうこく:奥深い山や谷}に建てられることが多かった。室生
寺に代表されるように、堂塔{どうとう}は地勢に応じて形式にとらわれない
自由な配置で建てられた。金堂?五重塔は、この時期唯一の遺構である。な
お、室生寺は高野山{こうやさん}の女人{にょにん}禁制に対し、女性の入
山を許されたので、後世「女人高野」といわれた。

 彫刻は、一木造{いちぼくづくり}が主流で、衣文は鋭いひだとなだらかな
ひだを交互に刻む翻波式{ほんぽしき}で表現された。また、密教の影響を受
け、量感に満ち、神秘性がただよっている。一木造は木像で頭部と胴体が一木
の木材で作られているもので、肉が厚いので深く彫れる。

 薬師寺僧形{そうぎょう}八幡神像、神護寺{じんごじ}や元興寺{がんご
うじ}の薬師如来像、室生寺金堂釈迦如来像?弥勒堂釈迦如来像、観心寺如意
輪{かんしんじにょいりん}観音像、法華寺{ほっけじ}十一面観音像、教王
護国寺講堂不動明王像などが知られる。

 絵画は、密教画が隆盛となった。特に、仏の世界を壇{だん}の形式で図示
した曼荼羅{まんだら}や不動明王像が知られる。神護寺と教王護国寺の両界
曼荼羅、園城寺?高野山明王院の不動明王像が有名である。両界は、金剛界と
胎蔵{たいぞう}界のことである。園城寺の不動明王像を黄不動、高野山明王
院のそれを赤不動といい、京都青蓮院{しょうれんいん}の青不動と合わせて
三不動として有名である。密教画以外に、西大寺十二天像もある。
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发表于 2009-6-19 00:14:10 | 显示全部楼层
哦哦哦

让我突然想起了初中历史老师,他的领带特别可爱。。
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 楼主| 发表于 2009-6-19 21:54:57 | 显示全部楼层
鎌倉文化のノート
鎌倉文化…12世紀末~14世紀前半の鎌倉時代の文化
 ・特徴…伝統的な公家文化の継承と武士の気風も反映
     宋・元文化の影響、宗教的色彩の強い文化
 ・仏教…鎌倉仏教-法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗
          日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗
     旧仏教の革新-戒律の復興、社会事業
 ・神道…神本仏迹説、度会家行の伊勢神道、山王神道・両部神道

 ・建築…大仏様-東大寺南大門   禅宗様-円覚寺舎利殿
     和 様-蓮華王院本堂、秋篠寺本堂、石山寺多宝塔など
     折衷様-観心寺金堂

 ・彫刻…奈良仏師作-東大寺南大門金剛力士像(運慶・快慶ら)
           興福寺無著・世親像(運慶)
           六波羅蜜寺空也上人像(康勝)など
     そ の 他-明月院上杉重房像、東大寺重源上人像など
 ・絵画…肖像画-似絵(藤原隆信・信実が名手)、頂相
     絵巻物-『一遍上人絵伝』『蒙古襲来絵巻』など
 ・工芸…甲冑-明珍 刀剣-吉光、正宗、長光ら
     陶器-瀬戸焼、常滑焼など
 ・書道…青蓮院流(尊円入道親王の『鷹巣帖』)

 ・文学
  ・和 歌…『新古今和歌集』(藤原定家ら)、『山家集』(西行)
       『金槐和歌集』(源実朝)
  ・説話集…『古今著聞集』(橘成季)、『沙石集』(無住)
       『宇治拾遺物語』『十訓抄』
  ・随 筆…『方丈記』(鴨長明)、『徒然草』(卜部兼好)
  ・軍記物…『平家物語』-琵琶法師の平曲
       『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』など
  ・歴史書…『愚管抄』(慈円)-道理と末法思想から歴史を見た
       『水鏡』『吾妻鏡』、『元亨釈書』(虎関師錬)
  ・学 問…古典注釈-『万葉集註釈』(仙覚)
            『釈日本紀』(卜部兼方)
       有職故実-『禁秘抄』(順徳天皇)
       金沢文庫(北条実時)
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 楼主| 发表于 2009-6-19 21:55:40 | 显示全部楼层
文章
 鎌倉文化は、12世紀末~14世紀前半の鎌倉時代の文化である。特徴は、伝統
的な公家文化を継承し、武士の気風も反映したものである。また、宋・元の文
化の影響を受けるとともに、宗教的色彩も強い文化である。

 仏教は、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗、栄西
の臨済宗、道元の曹洞宗が生まれた。鎌倉仏教と呼ばれ、それに押される形で
旧仏教の改革も起こった。旧仏教では戒律の復興に努めたり、社会事業などに
当たる僧も現われた。仏教史で説明したため、省略する。

 神道は、鎌倉末期に神本仏迹説{しんぽんぶつじゃくせつ}(反本地垂迹説
{はんほんじすいじゃくせつ})が興った。この説は、蒙古襲来以後の神道思
想の発展の中から神を本地、仏を垂迹とする主張である。度会家行{わたらい
いえゆき}は、伊勢神宮の外宮{げくう}を内宮{ないくう}と同等以上の立
場に上げることを目的に、伊勢神道を唱えた。彼の著『類聚神祇本源{るいじ
ゅうじんぎほんげん}』が、後世の神道に与えた影響は大きい。また、天台宗
系の山王{さんのう}神道、真言宗系の両部{りょうぶ}神道も唱えられた。


 建築は、大仏様・禅宗様{ぜんしゅうよう}・和様・折衷様の建築様式で多
くの建築物が建てられた。大仏様は、東大寺再建に重源{ちょうげん}<注1
>が採用した宋の建築様式で、簡単で雄大豪壮な構成美を持つ。東大寺南大門
がその代表建築である。禅宗様は、宋から伝来した技法で、細かい材木を用い
て整然とした美しさを出している。円覚寺舎利殿{えんがくじしゃりでん}や
正福寺{しょうふくじ}地蔵堂<注2>がその代表建築である。

  <注1>東大寺再建の際に大勧進職{だいかんじんしき}に任命され、募
      金から建築まで一切指揮し、宋人の陳和卿{ちんわけい・ちんな
      けい}も請われて参加した。
  <注2>正福寺は東京都東村山市にある。

 和様は、大仏様・禅宗様に対し、平安時代以来の伝統的・日本的な建築様式
である。蓮華王院{れんげおういん}本堂<注3>、秋篠寺{あきしのでら}
本堂、石山寺多宝塔{いしやまでらたほうとう}がその代表建築である。折衷
様は、和様の手法を中心に禅宗様・大仏様の手法を巧みに取り入れた技法であ
る。観心寺{かんしんじ}金堂<注4>がその代表建築である。また、武家の
住居は武家造で造られたが、武家らしい住宅様式のことで、特有の様式がある
わけではない。

  <注3>内陣{ないじん}の柱間が33間{ま}あるため、俗に三十三間堂
      {さんじゅうさんげんどう}といわれる。
  <注4>観心寺は大阪府河内長野市にある。


 彫刻では、奈良仏師の活躍が大きい。彼らは興福寺を拠点に、奈良を中心に
活躍した仏像彫刻師たちである。運慶{うんけい}がその代表で、運慶の父の
弟子が快慶{かいけい}とされ、運慶には湛慶・定慶・康弁・康勝{たんけい
・じょうけい・こうべん・こうしょう}と4人の子がおり、それぞれ仏師とし
て活躍した。

 奈良仏師の作品は、運慶・快慶らの合作『東大寺南大門金剛力士像』、快慶
の『東大寺僧形八幡神{そうぎょうはちまんしん}像』、運慶の『興福寺無著
・世親{むちゃく・せしん}像』、康弁の『興福寺天灯鬼・竜灯鬼{てんとう
き・りゅうとうき}像』、康勝の『六波羅蜜寺空也上人{ろくはらみつじくう
やしょうにん}像』、湛慶の『三十三間堂千手観音坐像』などがある。それ以
外に、『明月院{めいげついん}上杉重房{しげふさ}像』、『東大寺重源上
人像』、『高徳院{こうとくいん}阿弥陀如来像』<注5>などもある。

  <注5>通称は鎌倉大仏。1495年の津波で仏殿が流出し、それ以後は再建
      されず、「露坐{ろざ}の大仏」となっている。

 絵画では、似絵{にせえ}・頂相{ちんぞう、ちんそう}・絵巻物がある。
似絵は、実際の人物を写実的に描き、その個性まで表現した大和絵の肖像画で
ある。藤原隆信・信実{たかのぶ・のぶざね}父子が名手といわれた。『源頼
朝像(伝)』<注6>『平重盛像』は隆信、『後鳥羽上皇像』は信実の作であ
る。また、成忍{じょうにん}の『明恵{みょうえ}上人樹上坐禅図』、専阿
弥{せんあみ}の『親鸞聖人像』(鏡御影{かがみのごえい})も知られる。
頂相は、禅宗で修行僧が一人前になった時に与えられる師や、徳の高い先輩僧
の肖像画である。

  <注6>近年、頼朝と異なる人物との説が出されている。

 絵巻物もその種類が多くなった。縁起{えんぎ}物は、高階隆兼{たかしな
たかかね}の『春日権現験記{けんき}』や『石山寺縁起絵巻(前半)』、作
者不詳の『粉河寺{こかわでら}縁起絵巻』がある。伝記物は、土佐吉光{と
さよしみつ}らの『法然上人絵伝』、円伊{えんい}の『一遍上人絵伝』、作
者不詳の『男衾三郎{おぶすまさぶろう}絵巻』などがある。合戦物は、『平
治物語絵巻』、『後三年合戦絵巻』、竹崎季長{たけざきすえなが}が描かせ
た『蒙古襲来絵巻』などがある。説話物は、『地獄草紙{ぞうし}』、『病草
紙{やまいのそうし}』、『餓鬼草紙{がきぞうし}』などがある。

 工芸では、甲冑{かっちゅう}・刀剣・製陶が知られる。甲冑は、明珍{み
んちん}が名高い。刀剣は、京都の粟田口吉光{あわたぐちよしみつ}、鎌倉
の岡崎正宗{おかざきまさむね}、備前の長船長光{おさふねながみつ}が有
名である。また、加藤景正{かげまさ}は尾張瀬戸に窯を開き、瀬戸焼の祖と
される。製陶は、常滑焼{とこなめやき}・備前焼も知られる。書道は、青蓮
院流{しょうれんいんりゅう}が隆盛となり、この流派の祖である尊円{そん
えん}入道親王は『鷹巣帖{たかのすじょう}』を書いた。


 文学も幅広く発達した。和歌集は、藤原定家{さだいえ、ていか}らの『新
古今和歌集』、西行{さいぎょう}の『山家集{さんかしゅう}』、源実朝の
『金槐{きんかい}和歌集』がある。『新古今和歌集』は、後鳥羽上皇の命で
編纂された勅撰和歌集である。説話集は、無住{むじゅう}の『沙石集{させ
きしゅう}』、橘成季{たちばなのなりすえ}の『古今著聞集{ここんちょも
んじゅう}』、作者未詳の『十訓抄{じっきんしょう}』や『宇治拾遺{うじ
しゅうい}物語』がある。『古今著聞集』は、説話の末尾に教訓を加えてい
る。『十訓抄』は、年少者への教訓としてもので儒教的色彩が濃い。

 随筆集は、鴨長明{かものちょうめい}の『方丈記{ほうじょうき}』、卜
部兼好{うらべかねよし:兼好法師}の『徒然草{つれづれぐさ}』がある。
『方丈記』はすべては流転し、人生の無常・天変の世相を説いた。『徒然草』
は、人間や社会を鋭い観察力で批評したものである。紀行文は、源親行{ちか
ゆき}の作とされる『東関{とうかん}紀行』、作者未詳の『海道紀{かいど
うき}』がある。日記は、阿仏尼{あぶつに}の『十六夜{いざよい}日記』
がある。この日記は、所領の争論解決のために鎌倉に赴いた時の紀行文で、12
月16日に京を出発したのが書名の由来である。

 軍記物は、『平家物語』、『源平盛衰{せいすい、じょうすい}記』、『保
元物語』、『平治物語』などがある。『平家物語』は、信濃前司行長{しなの
のぜんじゆきなが}が東国生まれの生仏{しょうぶつ}と協力して作ったとい
う説が有力である。平家の興亡を記した流麗重厚な文を盲目の琵琶{びわ}法
師が平曲{へいきょく:『平家物語』を琵琶の伴奏で語る芸能}として語り継
ぎ、民間に普及した。

 歴史書は、編者不詳の鎌倉幕府の記録書『吾妻鏡{あづまかがみ}』、慈円
{じえん}の『愚管抄{ぐかんしょう}』、虎関師錬{こかんしれん}の『元
亨釈書{げんこうしゃくしょ}』、藤原為経{ためつね}作とされる『今鏡
{いまかがみ}』、中山忠親{ただちか}作とされる『水鏡{みずかがみ}』
などがある。『愚管抄』は歴史の展開としての道理と末法思想によって歴史を
見たもので、後鳥羽上皇に献上して討幕計画をいさめたといわれる。『元亨釈
書』は、日本の高僧の事績を知らないことを指摘されて書いたと言われる。日
本初の仏教史である。

 古典注釈は、仙覚{せんがく}の『万葉集註釈{ちゅうしゃく}』、卜部兼
方{うらべかねかた}の『釈日本紀{しゃくにほんぎ}』などがある。有職故
実は、朝廷や公家社会の儀式・礼儀・年中行事・官職などを研究する学問で、
順徳{じゅんとく}天皇の『禁秘抄{きんぴしょう}』がある。

 北条実時{さねとき}は、武蔵国に金沢{かねさわ}文庫を作った。仏書が
多く、幕府が滅びた後に散逸したが、再興された
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发表于 2009-6-20 10:34:37 | 显示全部楼层
楼主,10月份正好打算考这科呢,麻烦你也给我发一份。谢谢!
gao_yan617@163.com
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 楼主| 发表于 2009-6-20 12:03:59 | 显示全部楼层
已发送,请查收!
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 楼主| 发表于 2009-6-20 12:06:23 | 显示全部楼层
弥生文化のノート
弥生文化…BC4世紀頃~AD3世紀頃
 ・薩南諸島~東北地方→北海道は続縄文文化・擦文文化・オホーツク文化
            南西諸島は貝塚文化(南島文化)
 ・弥生土器…薄手・硬い、赤褐色、甕・壺・鉢・高杯など
 ・金属器…鉄 器(工具・農具・武器に使用)
      青銅器(祭器・宝器に使用、銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸)
 ・水稲耕作…初 期:湿田に田植え、石包丁で穂首刈り、木臼・竪杵で脱穀
           木製農具の使用(鍬・鋤、えぶり、田下駄、田舟)
       中期末:乾田の登場、鉄製刃先を付けた鍬・鋤、鉄鎌で根刈り
           磨製石器から鉄製工具へ
 ・集落…竪穴住居・高床倉庫、集落の増加
     環濠集落(吉野ヶ里遺跡)・高地性集落(紫雲出山遺跡)
                     →身分・貧富の差、戦いの発生
 ・埋葬方法…伸展葬
       甕棺墓・箱式石棺墓・支石墓(九州北部)、再葬墓(東日本)
       土壙墓・木棺墓・壺棺墓・方形周溝墓(各地)
       大きな墳丘墓(平安後期、東日本)
 ・代表遺跡…登呂遺跡、神庭荒神谷遺跡、垂柳遺跡など
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 楼主| 发表于 2009-6-20 12:06:46 | 显示全部楼层
文章
 弥生文化は、通説では紀元前4世紀頃に九州北部で始まり、薩南諸島から東
北地方まで紀元3世紀頃まで栄えた文化である。農耕・金属器・弥生土器を特
徴とし、階級社会を生み、小国家の段階に進んだ。なお、北海道は農耕を行な
わず、漁労と狩猟を中心とする続縄文文化・擦文{さつもん}文化・オホーツ
ク文化となった。沖縄を含む南西諸島は農耕が及ばず、貝類などの食料採集を
行なう貝塚文化(南島文化)となった。

 弥生土器<注1>は、縄文土器に比べて薄手で硬く、赤褐色{せきかっしょ
く}を帯びている。形態は煮沸用の甕{かめ}、貯蔵用の壺{つぼ}、盛り付
け用の鉢{はち}・高杯{たかつき}など、実用を旨として分化した。金属器
は、鉄器と青銅器がほぼ同時に伝来した。青銅器は祭器・宝器に用いられ、銅
剣・銅矛{どうほこ}・銅戈{どうか}・銅鐸{どうたく}などがある。銅鐸
は日本独特の釣鐘型青銅器で、生物・人・高床倉庫などの絵が描かれており、
農耕祭祀に用いられたと考えられている。鉄器は、工具・農具・武器に用いら
れた。

  <注1>1880年、東京府本郷区向ヶ丘{むこうがおか}弥生町(現、東京
      都文京区弥生2丁目)の向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡とも)で発見さ
      れた。そこで発見されたため、弥生土器という。この遺跡は東京
      大学農学部構内にあったとされるが、正確な位置は確定しておら
      ず、複数の候補地がある。

 水稲耕作は、縄文晩期に伝わったと考えられている。稲作は、低湿地に水田
(湿田{しつでん})を作って田植えを行ない<注2>、実ると石包丁{いし
ぼうちょう}を使って穂首刈{ほくびが}りした。木製農具がたくさん使われ
た。耕作具に鍬{くわ}・鋤{すき}、水田をならすえぶりを使い、足が水田
にもぐらないように田下駄{たげた}を履いた。収穫した穂首束{たば}を田
舟{たぶね}で運び、高床倉庫や貯蔵穴に収めた。木臼{きうす}・竪杵{た
てぎね}を使って脱穀した。

  <注2>もみを水田に直接播{ま}く方法もある。

 中期末に灌漑{かんがい}水路を備えた乾田{かんでん}が現われ、鉄製の
刃先を付けた鍬・鋤で耕し、収穫も鉄鎌を使って根刈りした。また、肥料から
踏み込む大足{おおあし}も使われた。木製工具の制作も、次第に磨製石器か
ら鉄製工具へと代わっていった。

 これまでの狩猟・漁労・植物採集も行なわれた。水稲耕作が始まり、集落も
丘陵地から平地に移ったが、竪穴住居に住み、穀物を保管する高床倉庫も造ら
れた。集落も20~50戸程度に増えた。一方、貧富・身分の差が発生し、耕地や
生産物をめぐる戦いも発生した。環濠{かんごう}集落や高地性集落はこうし
た状況下で出現したと考えられ、勝った集落は負けた集落を統合し、小国に発
展した。

 環濠集落は周囲を濠{ほり}や土塁{どるい}で囲んだ集落で、防御的機能
を持っている。佐賀県の吉野ヶ里{よしのがり}遺跡、奈良県の唐古・鍵{か
らこ・かぎ}遺跡、大阪府の池上曽根{いけがみそね}遺跡などが知られる。
高地性集落は生活に不便な山頂に位置する集落で、香川県の紫雲出山{しうで
やま}遺跡、兵庫県の会下山{えげのやま}遺跡など瀬戸内沿岸を中心とした
西日本に分布している。


 死者は手足を伸ばして葬る伸展葬{しんてんそう}が主流で、集落近くの共
同墓地に埋葬された。九州北部に甕棺墓{かめかんぼ}・箱式石棺墓{ほこい
りせっかんぼ}・支石墓{しせきぼ}、東日本で再葬墓{さいそうぼ}、各地
に土壙墓{どこうぼ}・木棺墓{もっかんぼ}・壺棺墓{つぼかんぼ}・方形
周溝墓{ほうけいしゅうこうぼ}が見られ、弥生後期に東日本で大きな墳丘墓
{ふんきゅうぼ}が見られた。

 甕棺墓は、土製の甕形の棺{ひつぎ}に死者を入れて埋葬した墓である。箱
式石棺墓は、扁平{へんぺい}な板石を長い箱形に組み合わせ、同様な板石で
ふたをした棺に遺体を収めた墓である。支石墓は、自然石の支柱の上に大きな
平石をのせたもので、その下や周囲に甕棺が群がる。再葬墓は、死者の骨を洗
骨した後に、壺に入れて改めて葬った墓である。土壙墓は地中に穴を掘り、棺
を使わず遺体を埋めた墓である。方形周溝墓は、方形の低い墳丘の周りに溝を
めぐらせたものである。墳丘墓は、盛り土をして墓域を画した墳丘を持つ墓で
ある。


 この時代の遺跡も数多い。静岡県の登呂{とろ}遺跡は太平洋戦争中に発見
され、戦後の調査で住居跡・高床倉庫群・畦・水田跡を発掘した。島根県の神
庭荒神谷{かんばこうじんだに}遺跡は、銅剣358本・銅矛16本・銅鐸6個が
まとまって出土した。また、加茂岩倉{かもいわくら}遺跡は、山の中腹から
銅鐸39個が出土した。福岡県の板付{いたづけ}遺跡は、水田跡を発掘した。
青森県の垂柳{たれやなぎ}遺跡や砂沢{すなざわ}遺跡も有名である。
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发表于 2009-6-20 21:18:02 | 显示全部楼层
楼主真是神啊!这些资料弥足珍贵,《日本文化》日文版的书买都买不到。
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发表于 2009-6-21 15:47:55 | 显示全部楼层
收到了楼主的资料了!!太感谢了!楼主的无私奉献,真的给了我们很大的帮助啊!问一下,为什么收到的压缩包只有十一个文档,可是楼主之前列出来的清单有二十多个单元的?
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 楼主| 发表于 2009-6-21 20:58:28 | 显示全部楼层
其他部分有待收集整理。
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 楼主| 发表于 2009-6-21 21:02:08 | 显示全部楼层
天平文化のノート
天平文化…8世紀の奈良時代の文化
 ・特徴…国際色豊かな文化、豪壮雄大、貴族的、仏教的色彩が濃い
 ・仏教
   国家仏教…僧尼令の規制、官寺の建立、鎮護国家の法会
   南都七大寺・唐招提寺、南都六宗、戒壇の設置
   社会事業…光明皇后の施薬院・悲田院、行基の民間布教など

 ・教育…大学(式部省管轄)・国学(国司管轄)、石上宅嗣の芸亭

 ・文学…歴史書-『古事記』『日本書紀』  地 誌-『風土記』
     漢詩集-『懐風藻』        和歌集-『万葉集』
 ・建築…法隆寺伝法堂・夢殿、東大寺法華堂・転害門、正倉院宝庫、
     唐招提寺金堂・講堂など
 ・彫刻…東大寺法華堂日光・月光菩薩像と執金剛神像、戒壇院四天王像
                               (塑像)
     興福寺八部衆像・十大弟子像、東大寺法華堂不空羂索観音像
     唐招提寺鑑真像(脱乾漆像)
 ・絵画…薬師寺吉祥天像(仏画)、正倉院鳥毛立女屏風(美人画)
     過去現在絵因果経(絵巻物の最初)
 ・工芸…正倉院宝物、東大寺大仏殿八角灯籠など
     百万塔陀羅尼(世界最古の印刷物)
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 楼主| 发表于 2009-6-21 21:02:31 | 显示全部楼层
文章
 天平文化は、聖武天皇朝の天平時代を中心とした8世紀の奈良時代の文化の
総称である。盛唐文化を中心とした国際色豊かな文化で、律令国家最盛期を繁
栄して豪壮雄大で、貴族的で仏教的色彩の濃い文化である。

 奈良時代の仏教は、国家の保護・支配の下に置かれた国家仏教<注1>であ
る。僧侶は、僧尼令{そうにりょう}の規制を受ける国家公認の官僧のみが認
められ、許可なく得度{とくど:出家}する私度僧{しどそう}は禁止され
た。また、僧尼を統轄する僧綱{そうごう}という官職が設けられた。官寺が
多く建てられ、鎮護国家の法会{ほうえ}を行なった。

  <注1>寺田{じでん:寺所有の田}が不輸租{ふゆそ:税金がかからな
      い}で、僧の課役{かえき:調庸と雑徭}も免除された。

 官大寺制は、8世紀末に大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・法隆寺・東大寺
・西大寺が南都七大寺とされた。寺院は、鑑真{がんじん}が建立した唐招提
寺{とうしょうだいじ}も有名である。官寺には仏教教学を研究する学派があ
り、三論{さんろん}宗・倶舎{くしゃ}宗・律{りつ}宗・成実{じょうじ
つ}宗・法相{ほっそう}宗・華厳{けごん}宗の6学派を南都六宗と総称さ
れた。東大寺などには数派が同時に存在した。

 正式な官僧になるには得度して修行し、戒壇で授戒{じゅかい}する必要が
あった。授戒は、一定の戒律{かいりつ}<注2>を所定の手続きで授けるこ
とをいい、それを行なう場所を戒壇{かいだん}といった。754年に初めて鑑
真が東大寺大仏殿前に築き、翌年から常設の戒壇院を建立した。東大寺戒壇院
と下野薬師寺・筑紫観世音寺{ちくしかんぜおんじ}の戒壇を天下三戒壇とい
う。

  <注2>僧尼が守るべき一定の規範。戒は心の規律、律は行動の規範。

 国王(ここでは天皇)が仏教を尊崇すれば、諸仏が国を護ってくれると説い
た教典を「護国の経典」といい、法華経{ほけきょう}・仁王経{にんのうき
ょう}・金光明経{こんこうみょうきょう}を護国三部経といった。また、一
切経{いっさいきょう:大蔵経{だいぞうきょう}とも}の写経が盛行した。
仏典を書写する写経事業も行なわれた。

 政治と仏教が深く結びついたため、玄〔日方〕{げんぼう}や道鏡{どうき
ょう}のように政治に介入する僧侶もいた。民間への布教は禁止されていた
が、行基は民間に布教して弾圧を受けた。戒律を伝えるため、盲目になりなが
らも来日した鑑真も有名である。

 仏教思想に基づく社会事業も行なわれた。光明{こうみょう}皇后は、皇后
宮職{ぐうしき}<注3>に施薬院{せやくいん}・悲田院{ひでんいん}を
設置した。施薬院は、病人に薬を施して治療を行なう施設である。悲田院は、
貧しい人々や孤児を収容して飢餓から救う施設である。和気広虫{わけのひろ
むし}は、仲麻呂{なかまろ}の乱に連坐した人々の助命を乞い、乱後の捨て
子を養育した。称徳天皇は、仲麻呂の乱による戦没者の霊を弔うために木製の
三重塔百万基(百万塔)を作った。行基は民間に布教し、灌漑施設や橋、布施
屋{ふせや:休憩宿泊所}を設けるなどの社会福祉事業を行なった。大仏造営
に協力し、大僧正{だいそうじょう}に任じられた。

  <注3>皇后に付された家政機関


 教育では、中央に式部{しきぶ}省管轄の大学(大学寮)が置かれ、貴族や
東西史部{やまとかわちのふひとべ}の子弟を学生{がくしょう}とした。明
経{みょうぎょう}・明法{みょうぼう}・文章{もんじょう}・算などが教
授され、大学の試験を通ると太政官に推薦され、式部省で秀才・明経・進士・
明法の4科に分けて試験を受けて登用された。また、中務{なかつかさ}省管
轄の陰陽{おんみょう}寮では陰陽・暦・天文を教え、宮内{くない}省管轄
の典薬{てんやく}寮では医学・薬学(本草{ほんぞう}学)を教えた。地方
には国司管轄の国学が置かれ、郡司の子弟を教育した。修了者は上京して、大
学修了者同様に試験を受けて、官吏に登用された。

 さらに、石上宅嗣{いそのかみのやかつぐ}は旧宅に公開図書館を開いた。
芸亭{うんてい}と呼ばれ、仏教以外の書を好学の士に閲覧させた。


 文学では、歴史書の『古事記{こじき}』『日本書紀{にほんしょき}』、
地誌の『風土記{ふどき}』、漢詩集の『懐風藻{かいふうそう}』、和歌集
の『万葉集{まんようしゅう}』が編纂された。

 681年、天武天皇は『帝紀』『旧辞』を検討し、記憶力に優れた稗田阿礼
{ひえだのあれ}に誦{よ}み習わせた。また、勅語で川島皇子{かわしまの
みこ}・刑部{おさかべ}親王ら12名に「帝紀及び上古の諸事(旧辞)を記し
定める」よう命じた。

 『古事記』は、稗田阿礼が誦み習わせた推古天皇までの天皇系譜や皇室の伝
承を太安万侶{おおのやすまろ}が筆録して、712年に元明天皇に献上したも
のである。漢字の音訓を用いて、口頭の日本語を文章表現した。『日本書紀』
は、神代~持統天皇に至る天皇中心の国家成立史を漢文・編年体<注4>で記
した、最古の官撰正史である。編者は舎人{とねり}親王らで、720年に元正
{げんしょう}天皇に献上された。この後に編纂される六国史{りっこくし}
の最初である。

  <注4>時代を追って出来事を記述する歴史叙述法。

 『風土記』は、713年に諸国に地名の由来・産物・伝承などを記して提出さ
せた各国別の地誌である。現存は常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5か国のみ
で、出雲だけが完全に残っている。

 『懐風藻』<注5>は、64人の詩120編を集めた日本最古の漢詩集である。
撰者は淡海三船{おうみのみふね}、石上宅嗣といわれるが不明である。天武
天皇の皇子大津皇子{おおつのみこ}はその代表詩人である。

  <注5>先人の遺風を懐{おも}う美しい藻(詩文)の意

 『万葉集』は、奈良時代後期までの約4500首を収録した日本最古の歌集であ
る。撰者は、大伴家持{おおとものやかもち}が有力である。漢字の音訓を用
いて日本語を表わす万葉仮名を使い、詩形・作者とも幅広い。歌風は素朴で力
強く、万葉調と呼ばれる。恋愛を詠む相聞歌{そうもんか}、死者を哀悼する
挽歌{ばんか}、両者に属さない雑歌{ぞうか}などに分かれる。短歌・長歌
以外に、東歌{あずまうた}や防人{さきもり}の歌も多く収められている。
代表的歌人に、『貧窮問答歌{ひんきゅうもんどうか}』で知られる山上憶良
{やまのうえのおくら}、大伴旅人{おおとものたびと}、山部赤人{やまべ
のあかひと}、大伴家持らがいる。


 建築では、法隆寺伝法堂{でんぽうどう}・夢殿、東大寺法華堂・転害{て
がい}門、正倉院宝庫、唐招提寺金堂・講堂などが知られる。法隆寺伝法堂は
橘古那可智{こなかち}(聖武夫人)宅<注6>の移築とされ、当時の貴族住
宅を知る貴重な遺構である。夢殿は、八角形の仏殿である。東大寺法華堂は、
毎年3月に法華会{え}が行なわれるので、三月堂ともいう。正堂{しょうど
う}は創建時、礼堂{らいどう}は鎌倉時代のものである。転害門は、東大寺
に現存する創建当時の建造物7棟のうち、唯一の門である。

  <注6>橘三千代{みちよ}(光明子の母)宅とも

 正倉院宝庫は東大寺宝庫群で現存する唯一のもので、南・中・北倉の3倉に
分かれ、南と北は校倉造{あぜくらづくり}で作られている。校倉造は、柱を
用いず断面が三角形の木材を井桁{いげた}に積み上げて、壁面を構成したも
のである。唐招提寺金堂は、奈良時代の金堂で唯一現存する遺構で、和様建築
の起点とされている。講堂は平城宮朝集殿{ちょうしゅうでん}<注7>を移
築し、鎌倉時代に修築されたが、平城宮唯一の遺構である。

  <注7>儀式の時に臣下が参集する場所で東西2棟あった。


 彫刻は、粘土で作る塑像{そぞう}と漆で固めて作った乾漆像{かんしつぞ
う}がある。乾漆像には脱{だつ}乾漆と木心{もくしん}乾漆があり、前者
は土の原形の上に麻布を漆で塗り固め、土を抜いて木枠を入れるもの、後者は
原形を木で造り、麻布と漆で整形するものである。ともに、経費と時間がかか
る。

 塑像は、東大寺法華堂日光・月光{がっこう}菩薩像と執金剛神{しつこん
ごうしん}像、東大寺戒壇院四天王像(持国天{じこくてん}・増長天{ぞう
じょうてん}・広目天{こうもくてん}・多聞天{たもんてん})、新薬師寺
十二神将像{しんしょうぞう}(迷企羅{めきら}大将像など)などがある。
脱乾漆像は、興福寺八部衆像(阿修羅{あしゅら}像など)・十大弟子像(須
菩提{すぼだい}像など)、東大寺法華堂不空羂索{ふくうけんじゃく}観音
像、唐招提寺鑑真像<注8>・金堂盧舎那仏像などがある。木心乾漆像は、聖
林寺{しょうりんじ}十一面観音像などがある。

  <注8>松尾芭蕉は唐招提寺でこの像を拝み、「若葉して 御{おん}め
      の雫{しずく} ぬぐはばや」(若葉で鑑真の見えなくなった目
      の涙をぬぐって差し上げたい)と詠んだ(『笈{おい}の小文
      {こぶみ}』)。

 絵画は、仏画の薬師寺吉祥天{きちじょうてん}像、美人画の正倉院鳥毛立
女{とりげだちおんなの}屏風(樹下美人図)、絵巻物の最初とされる過去現
在絵因果経がある。鳥毛立女屏風の髪や衣服には日本のキジの羽毛が貼ってあ
ったが、現在は剥落している。

 工芸は、正倉院宝物<注9>が有名である。この宝物は、光明皇太后が聖武
上皇の没後に冥福を祈って東大寺に寄進したのが始まりで、それ以外の献納物
をあわせると1万点余になるという。奈良時代の貴族文化の実際を見ることが
出来る。また、由緒・来歴が明白で、宝物の数量が多く、世界性・国際性があ
ることなどに価値がある。現在は鉄筋コンクリート造りの新宝庫に保存されて
いる。螺鈿紫檀五絃琵琶{らでんしたんごげんのびわ}、銀薫炉{ぎんのくん
ろ}、白瑠璃碗{はくるりわん}<注10>、瑠璃杯{るりのつき}、漆胡瓶
{しっこへい}などの他に、光明皇太后44歳の書『楽毅{がっき}論』も納め
られている。

  <注9>毎年、秋の虫干しの期間だけ正倉院展として一般公開される。19
      46年に始まり、毎年異なる宝物が奈良国立博物館で公開されてい
      る。
  <注10>瑠璃は中国でガラスのこと

 正倉院宝物の他に、東大寺大仏殿八角灯籠{はっかくどうろう}・大仏蓮弁
毛彫{れんべんけぼり}がある。また、世界最古の印刷物とされる百万塔陀羅
尼{だらに}(経)は、称徳天皇の発願で作られたものである。
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