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发表于 2009-7-1 16:44:00
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宗教界も大きく変動した。1868年3月、政府は王政復古・祭政一致から神道
国教化の方針を採り、神仏分離令を出して神仏混淆{こんこう}を禁止し、神
社を寺院から独立させた。しかし、仏教を排斥する廃仏毀釈{はいぶつきしゃ
く}の嵐が吹き荒れ、仏教界は大打撃を受けたが、廃藩置県後に沈静化した。
政府は、1870年に大教宣布{だいきょうせんぷ}の詔を出し、神道国教化に
取り組んだ。翌年、伊勢神宮を頂点とする神社制度を制定し、全国の神社を神
祇官に所属させて組織化し、神道を国家の精神的支柱とした。政府は神社神道
(国家神道)として特別に保護し、天皇崇拝・国家思想統一に利用したが、仏
教界の反撃で神道国教化の狙いは失敗した。1873年10月、祝祭日を定めた。新
年節・紀元節{きげんせつ}・天長節{てんちょうせつ}を国の祝日、皇室の
祭典日として元始祭{げんしさい}・神嘗祭{かんなめさい}・新嘗祭{にい
なめさい}などを祭日とした。
キリスト教は神道国教化の方針に基づき、五榜{ごぼう}の掲示<注9>で
禁止した。1868年、長崎浦上{うらかみ}のキリシタンが公然と信仰を表明し
たため<注10>、政府は村民3400余人を捕らえて、各地に流罪にした<注11
>。浦上教徒弾圧事件(浦上崩れ)である。列国の抗議を受け、1873年に浦上
信徒を釈放し、キリシタン禁制の高札を廃止、キリスト教の信仰・布教を黙認
した。しかし、キリスト教を監視する役目を、神道と仏教が果たすことになっ
た。
<注9>当初は切支丹邪宗門{きりしたんじゃしゅうもん}は禁制だった
が、外国の抗議を受けて2条に分けられた。
<注10>1865年、大浦天主堂落成の時にフランス人宣教師に信仰を告白し
ていた。
<注11>名古屋以西20藩へ3384人が配流、613人が亡くなり、1011人が転
宗した。
文明開化の風潮は、東京・横浜など大都市中心に広まり、「日本橋での文明
開化」といわれた。東京の銀座通りはレンガ造りの家が建ち並び、ガス灯の立
つ道路に人力車<注12>や乗合馬車が走り、ざんぎり頭に洋服の人々が見られ
た。ざんぎり頭はその象徴とされ、「ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化
の音がする」といわれた。食生活も肉食・牛乳を飲ませる風習が広まった。
<注12>和泉要助{いずみようすけ}らが発明し、1870年に官許{かんき
ょ}された。
1872年、これまでの太陰暦を廃して太陽暦を採用し、明治5年12月3日を明
治6年1月1日とした。七曜制{しちようせい:週7日制}を採用し、これま
での1・6の日の休日を改めて、日曜を休日とした。また、1日24時間制とし
た。 |
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