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負け犬の勲章

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发表于 2010-1-7 09:11:38 | 显示全部楼层 |阅读模式
目次
負け犬の勲章
離れ褄
黒の輪舞
凶悪のラストベッド
欲望の崩壊
真夜中の重役
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 楼主| 发表于 2010-1-7 09:13:23 | 显示全部楼层
本帖最后由 Kitty.nr 于 2010-1-8 15:01 编辑

<一>負け犬の勲章


終業ベルが鳴った。
藤原は、体の力を抜くと、帳簿の上を走らせていたペンの動きをとめ、視野の端で同僚たちの様子を、そっと観察した。
誰も立ち上がらない。終業ベルが鳴ったことなど、気づかぬ振りで、算盤を弾いたり帳簿をめくったりしている。
そのくせ部屋には、七時間半の拘束から解き放たれた、けだるさが漂っていた。
藤原は、チクリとした胃の痛みを覚えながら、勇気を出して立ち上がった。
四、五人の同僚たちが、藤原に視線を流したが、すぐに無関心装った。
藤原は、取締役経理部長の根津の視線を、右の頬に感じた。
鋭い痛みを感じる視線であった。
出納・財務・経理・監査の四課からなる経理部には<出来るだけ遅く帰ることが美徳>とする伝統的な風潮があった。
たいていの経理部員は、根津が腰を上げるまでは、帰る準備をしない。
根津は午後七時、八時にならないと、帰る気配を見せないのが普通だった。
根津は根津なりに、経理担当専務である吉田の帰宅時間を気にしているのである。
吉田専務は。社長の遠縁に当たり、仕事に口うるさい男であった。
「もう帰るのかね、藤原君」
根津が、声をかけた。
声に、冷やかな響きがあった。
「ええ......」
藤原は、小柄な体を根津のほうへ向き変えて答えた。
根津の鼻がフンと鳴った。
藤原はあと半月ほどで定年である、怖いものなど何もない、という半ば捨て鉢気味な開き直りの気持ちがあった。
だが、根津と視線が合うと、矢張り彼の鼓動は高まった。胃の痛みが、ひどくなる。
藤原は、自分のその弱さが、悔しかった。
彼は、同僚たちの視線を小さな背中に感じながら、経理部の部屋を出た。
藤原は、私大の商科を出て三十六年間、経理畑を勤めあげてきた。
その六十年の人生に、間もなく一区切りがつこうとしている。
彼は会社の内親によって、定年日の一ヵ月前に、退職金の小切手を根津から受け取っていた。
本来ならばこの時点で、系列会社への再就職の話が持ち出される。
しかし、藤原には「長い間、ご苦労さん」の事務的な一言があっただけだった。
藤原は、会社を出て少し行ったところで振り返った。
大企業にふさわしい八階建の立派な本社ビルが、彼の目に侘しく見えた。間もなく、(倒産でもしてくれないかな......)
藤原さんは、ふと、そう思った。
自分と関係のなくなった会社など、どうなってもいい、という気持ちが激しい勢いで湧き上がってくる。
彼は、本社ビルに背を向けると、力なく歩き出した。
今の彼には、一人の部下もいない。三ヵ月前までは経理課の主任であったが、二ヵ月前になって無任所にされていた。
所属は一応、経理課のままであったが、経理課から少し離れた日当たりの良い窓際の机に、一人で座っている。
藤原は、十五年前の悪夢を思い出しながら、地下鉄の駅へ向かった。
会社に於ける彼の人生は、その悪夢を契機として狂い始めた。
当時、彼は金銭を直接払う出納課の課長であった。
この出納課の大金庫から、ある日、五百万円の現金が消えたのだ。
大金庫は経理部の帳簿保管室にあり、二本の鍵と二つのダイヤルによる四段ロック式の金庫であった。
金庫の開閉は藤原が担当し、毎日午前九時に開けられ、午後五時に閉じられていた。
就業時間中は、二本の鍵は掛けられずダイヤルによるロックだけであった。
紛失時間は、経理部員が昼食に出かけた昼休み時間と見られた。この時間に、誰かが帳票保管室に入って、金庫を開けたと考えられるのだ。
帳票保管室は、出納課の脇に頑丈な鉄のドアを一枚隔ててあり、経理部員は帳票の出し入れに、一日に何度も出入りしていた。
大金庫のダイヤル番号は、四十五名の経理部員のうち、十六名が知っていた。部課長と出納課長全員、そして定期人事異動で、出納課から経理や財務へ移っ者たちである。
会社の体面を考え、事件は表沙汰にはされなかったが、結局犯人不明のまま、藤原は経理課主任として左遷され、今日まで忍従の日々が続いていた。
経理部で定年を迎えた者は、これ迄にも何人かいたが、全員が十二、三ある系列会社の何処かへ再就職している。
だが、藤原は、自分には系列会社への再就職話はまわってこないだろう、と最初からあきらめていた。
藤原は、地下鉄の階段を降りていった。一日の仕事で疲れた右手に、持ちなれた黒い革カバンの重さがこたえた。
階段を降りきったところで、彼の足がとまった。
正面の壁の縦一メートル、横一メートル半ほどの広告スペースに、彼の会社の商品広告があった。会社の往き帰りに、あきるほど見続けてきた広告である。
白いスーツを着た有名な女優が、商品を手にして微笑んでいた。
帰宅を急ぐ勤め人が、黙々と藤原の左右を流れていく。藤原は、何かを思いついたように、いま降りてきた階段を足早に登り始めた。
彼は地上に出ると、会社のある方角に目をやった。老いて視力の衰えた目に、本社ビルが小さく映った。
(私の人生を駄目にしてしまった会社だ)
藤原は、そう思った。
この思いは、五百万円消失という、あの悪夢の日から今日まで続いていた。
ただひたすら耐え続けてきた、屈辱の十五年間であった。耐えることで、敗者復活の機会が与えられるだろう、という淡い期待があった。だが、その期待は実現しなかった。真面目で内向的な性格の彼は、この十五年の間、転職を真剣に考えたこともない。この会社で駄目なら、他の会社へ行っても救われまい、というあきらめの気持ちのほうが強かった。
それほど、彼の心は深く傷ついていた。
(倒産でもしてくれないかな)
藤原は、車の排気ガスの向こうに霞んで見える本社ビルを眺めながら、また、そう思った。会社が潰れて、吉田専務や根津部長が右往左往している光景を想像しただけで、気が安まるような気がした。
藤原は、右手に持っていた革カバンのチャックを開けると、中からマジックペンを取り出した。
彼は、マジックペンのキャップを外し、壁に沿ってゆっくりと階段を降りていった。
左手に、マジックペンを隠すようにして持っている。
彼は、自分の会社の広告スペースに左肩をこすりながら、さり気なく通り過ぎた。
マジックペンが、広告面に黒い線を引いた。藤原の背後を歩く大勢の勤め人たちは、誰も気づかない。
藤原は、人の流れに押されるようにして改札口の前まで行くと、命令された兵隊のように、くるりと踵を返した。
彼は、同じ階段を登り、同じ行為を繰り返した。
女優が手にしている商品の上に、二本の黒い線が引かれた。
彼は、体を硬直させながら、逃げるようにして改札口を入った。ホームは、人であふれていた。
彼は、心臓が早鐘のように鳴っているのを知った。
"やった!"という気分であった。
だが、そのあとからすぐに、どうしようもない虚しさが襲ってきた。
藤原は、自己嫌悪を覚えた。
こんなことをしても、過ぎ去った六十年の人生は取り戻せない、と思った。
そう思うと、無性に情けなくなってきた。
彼は、ホームの売店で就職情報雑誌を買うと、老眼鏡を掛けた。
ページを繰っていると、なぜか目尻に涙が滲み出た。
藤原は、人さし指の先で目尻を押さえた。
彼は、自分をこんなみじめな気分に追い込んでいる奴は吉田と根津だ、と思った。
五百万円が消失した当時、根津は経理部の次長で、吉田が経理担当常務として経理部長を兼務していた。
だが、吉田にも根津にも、五百万円消失の責任は及ばなかった。
貧乏くじを押しつけられたのは、出納課長の藤原だけであった。藤原一人が苛酷な処分を受けることで、吉田と根津が救われた感じがあった。
少なくとも経理部員たちの多くは、そう見ていた。
吉田も根津も、会社に対して藤原を弁護しようとする姿勢は、全く見せなかった。その姿勢は、まるで二人で申し合わせたように、今日に至るまで一貫して続いている。
「倒産してしまえ」
藤原は、吐き捨てるように呟いた。
傍にいた二、三人が、びっくりしたように藤原を見た。
電車が線路を鳴らして、近づいてきた。
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 楼主| 发表于 2010-1-7 17:11:44 | 显示全部楼层
本帖最后由 Kitty.nr 于 2010-1-8 14:50 编辑


家に帰った藤原は、仏壇に線香と蝋燭を点した。
正座した藤原の靴下の先に、小さな穴があいていた。
仏壇には、妻のサワの位牌があった。サワは六年前に子宮癌で亡くなっている。
藤原は、仏壇に短い合掌を済ませると、台所に立って冷蔵庫を開け、秋刀魚の干物を取り出した。もう三日間、夕食のおかずに秋刀魚の干物が続いている。
3DKの団地は、一人で住むには充分の広さであった。古い団地のためにコンクリートの壁一面に黒黴がはえていた。
自分黒黴を落として、白いペンキを塗ったこともあったが、黒黴の繁殖力の強さは、ペンキで押えることが出来なかった。
(倒産でもしてくれないかな)
藤原は、秋刀魚の干物を焼きながら、心底からそう念した。
だが、経理部にる藤原は、会社が高収益をあげていることを知っていた。
倒産どころか、新規事業に乗り出す計画があるほど資金力の豊富な会社であった。その好業績が、定年を迎える彼には癪であった。
藤原は、自分と関係がなくなる会社に、発展してほしくはなかった。
倒産して、会社の全員が路頭に迷えばいいのだ、と思った。
居間の電話が鳴った。
藤原は、緩慢な動きで居間へ入って行くと、大儀そうに受話器を取り上げた。その動作に、はっきりと老いがあった。
四年前に結婚した、一人娘の玲子の声が、藤原の鼓膜を打った。
玲子の声は、華やいでいた。
「......それでね、彼が見込まれて京都支社の課長代理で、栄転することになったの。大抜擢よ」
「転勤か......」
「わたし、一度でいいから京都に住みたいと思っていたの。胸がわくわくだわ」
「京都ねえ......」
藤原は、電車で数十分の所に住んでいる娘を、急に遠く感じた。
玲子は、父親と遠く離れることより、夫が抜擢された喜びで夢中であった。
藤原は、東京と京都の距離を考えながら、これで孫の顔をあまり見られなくなるな、と思った。
玲子は一人で喋り続けたが、藤原は上の空で殆ど聞いていなかった。
玲子にかわって、三歳になる孫の康雄が電話口に出たが、藤原はそれもぼんやりと聞き流した。
電話を切ると、一気に寂寞感が襲ってきた。
(とうとう一人になってしまった。)
藤原は、台所へ戻った。
秋刀魚が、ガス・テーブルの上で黒焦げになっていた。
藤原はガスの元栓を切ると、黒焦げの秋刀魚を摑んで、流した台に叩きつけた。掌が焼けるように熱くなった。
「あの事件さえなければ、私だって今頃は次長になっていた。」
彼は、自分に向かって言った。
藤原は、自分をかばってくれなかった吉田専務と根津部長を怨んだ。
あの二人が、もう少し部下思いであったら、自分もこんなみじめな思いをしなくても済んだはずだ、と思った。
藤原は、三畳の書斎へ入っていくと、椅子に座ってぼんやりと煙草を吸い始めた。
書棚と書棚の間に小型耐火金庫があり、その上に十四インチのテレビが乗っていた。
金庫の中には、退職金として貰った八百万円の小切手が入っている。
「わが人生、八百万円か......」
藤原は、呟いた。
退職後の生活をどうするか、全く当てはなかった。
厚生年金の受給資格はあったが、毎月四万八千円の家賃を払うと、年金だけの生活は、かなり苦しい。
黒黴の団地から脱け出して、マンションに住みたい気持ちはあったが、経済的に実現できそうになかった。
(死ぬまで此処で辛抱するのか)
そう思ったとたん、ぼろりと涙がこぼれた。
彼は、地下鉄の売店で買った就職情報雑誌に目を通した。
涙で活字がかすんだ。
藤原は、手の甲で涙を拭った。
就職情報雑誌が募集しているのは、たいてい三十五歳までであった。
たまに中高年者の募集があっても、嘱託か期間雇用ばかりだった。時間給も四百円から五百円と安い。
「馬鹿にしおって」
藤原は、就職情報誌を襖に投げつけた。
襖が破れて、左手に持っていた煙草の灰が膝の上に落ちた。
(奴らが悪いんだ)
藤原は、吉田専務と根津部長の顔を思い出して、歯ぎしりした。
彼にとって我慢ならないのは、自分一人が苦汁を舐めさせられ、経理部の最高責任者である吉田と根津が、順調に出世していることであった。
吉田が出世するのは、社長の縁者ということで、まだ我慢ができた。だが、根津までが何の責任も負わずに出世していることが、藤原には承服できなかった。
彼は、苛立ちを抑えながら、煙草を吸い続けた。
じっとしていると、これからの生活の不安が、膨むばかりだった。
彼は金庫を開けて、八百万円の小切手と銀行預金の通帳を取り出した。預金残高は、三百六十万円ほどである。
三年に及ぶ妻の癌との闘いで、預金の大半が消えていた。
彼は、妻の死に対しては、心残りはなかった。妻の闘病に要した金を惜しいと思う気持ちは、全くなかった。むしろ、精一杯のことをしてやれた、という安堵感のようなものがあった。
退職と預金を合わせると、千百六十万円である。三十六年間、大企業で働き続けてきた彼の全財産が、これだけだった。あとに残る物は、何もない。
彼が受け取った退職金の額は、最下限だった。
平社員でもたいていは、二、三百万円の功労金が上積みされる。管理職になると、功労金だが、藤原には、一銭の功労金も加算されなかった。十五年前、会社が被った五百万円の損失が、藤原の退職金計算に生きているような、扱いだった。
藤原は、その非情な扱いにも、正面から反発できなかった。反発することの虚しさを知っているだけに、耐えることのほうがたやすい、という気持ちがあった。
しかし、自分を抑えれば抑えるほど、吉田や根津への敵愾心が、胸の内側で頭を持ち上げた。
彼は、机の上に小切手と通帳を投げ出すと、大きな溜息をついて居間へ行った。
彼は受話器を取り上げると、遠い目つきをしてダイヤルを回した。
二、三度発信音があって、玲子の声がした。
「なあ、玲子。京都へ行くの、よさないか。夫など単身赴任させておいて、お前は此処へ帰ってきたらどうだ」
藤原は沈んだ声で切り出すと、玲子がいきなり「何てことを言うの、お父さん」と、金切り声をあげた。その勢いに押されて藤原は、反射的に受話器を置いた。
娘夫婦の生活の中へ、一度も踏み込んだことのない藤原であった。
彼は、自分でも、理解ある父親だと思っていた。親が出過ぎると、娘夫婦の生活に支障があるだろう、と自分を戒めてもきた。
彼は、自分のそんな自制心が、音をたてて崩れていくのがわかった。
誰かに縋りつきたいという気持ちが、腹の底から突き上がってくる。
藤原は、娘の金切り声に他人を感じた。
結婚前は優しい娘だったのに、と思うと余計に孤独感が強くなった。
娘が、一つの独立した生活単位を抱えている現実は理解できても、押し寄せてくる淋しさに、ともすれば打ちのめされそうであった。
「ちくしょう......」
藤原は、根津部長を呪った。
こうなったのも、全て奴のせいだ、という気がした。
次長になっていれば、自分だってもっと泰然たる男でおれたんだ、という気がした。
藤原は、土地付きの家を貰って、そこへ娘夫婦と一緒に住むことを夢見ていた。
だが、五百万円消失事件による降格と、昇給賞与の著しく厳しい査定が、その可能性を根こそぎ奪い去っていた。そこへ、妻サワの闘病による追い打ちが加わった。
藤原は、次長になっていたら老後の経済的余裕も、今の二倍半はあったはずだ、と思った。老後に於ける、二倍半の違いは大きい。
彼は、全ての生活サイクルが根津によって狂わされてしまった、と信じて疑わなかった。
そう信じて根津を憎悪することが、定年を迎えようとする自分の、奇妙な心の張りにもなっていることを、彼は知っていた。
「奴は鬼だ......」
藤原は、宙を睨みつけながら、歯を噛み鳴らした。
そのとき、不意に上腹部を、激しい痛みが襲った。針で刺すような痛みであった。藤原は、体を二つに折って呻いた。
痛みは、背中を突き抜けるようであった。
彼は、これも根津のせいだ、と自分に言って聞かせた。
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 楼主| 发表于 2010-1-8 16:09:30 | 显示全部楼层
本帖最后由 Kitty.nr 于 2010-1-12 10:50 编辑

3
翌朝、地下鉄の駅を降りた藤原は、地下通路を歩きながら流石に罪の意識を覚えた。
彼は、そんな気の小さな自分がいやであった、どうしてもっと、堂々と出来ないのだろう、と悔んだ。
彼は、階段の登り口まで来て、自分の会社の広告ポスターに視線を走らせた。
二本の黒い線が、広告面の端から端までひかれていた。
藤原は顔を歪めると、急いで階段を登った。
(かまうもんか)
彼は、気持ちを奮い立たせようとした。
ふと見ると、数メートル先を、根津部長が歩いていた。大企業の取締役経理部長らしく濃紺のいい背広を着て、大股にゆっくりと歩いていた。
藤原は、煮えたぎるような気持ちで、根津の後ろ姿を見つめた。
何事にも怯えやすくなった、自分の小心さは、根津十五年間抑圧され続けてきたためだ、という気がした。
横断歩道が、赤信号になって、根津の足がとまった。藤原と根津の距離が縮まっていく。
根津が、なに気なく振り返った。
二人の視線が、藤原の前を行く女性の肩ごしに出会った。
「あ、おはようございます、部長」
藤原は、いま気づいたばかりのような笑顔を見せて、頭を下げた。
心とは裏腹の自分の態度を、藤原は苦々しく思った。
もっと冷淡な態度をとってやろう、という意思はあったが、気持ちのほうが先に竦んだ。
根津は、鷹揚に頷き返してみせた。無言のまま頷くところに、"お前とは違うんだ"という、自信が漲っていた。
藤原は、おずおずと根津の半歩後ろに立って、信号を眺めた。根津の前では出来るだけ姿勢を低くしよう、とする本能のようなものが、自然に出ていた。
人の波が青信号で動き始めると、根津が藤原に肩を寄せてきた。
「きみ、最後の最後まで、きちんと仕事をしてくれないと困るよ。職場規律を乱さないようにな」
根津が、低い声で言った。
藤原は、顔を高潮させながら、
「はあ......」
と答えた。
「きのうは、殆どの者が午後八時まで仕事をしていた。先に帰ったのは君だけだ」
根津は、そう言い残して藤原から離れた。
藤原は、キリキリとした胃の痛みに襲われた。一言も、根津に言い返すことの出来ない自分が情けなかった。
(有給休暇だって、殆どとらずに今日まできたんだ。就業ベルが鳴ったあとぐらい自由にさせてほしいもんだ。)
藤原は、根津の背に向かって、大声でそう叫びたいところであった。
会社へ近づくに従って、胃の痛みはひどくなった。この痛みは、退職金を受け取った直後から起こっている。
彼は、革カバンの中から、町の薬局で買った神経性胃炎の錠剤を取り出すと、口に含んだ。錠剤は、喉の途中でひっかかって、容易に食道へ落ちなかった。
藤原は、会社へ駆け込み、洗面所に飛び込んで水を飲んだ。
鏡に自分の顔が映っていた。老人性のシミが浮き出た額から、脂汗が吹き出ている。
どう見ても不健康な顔であった。老いが、はっきりと出ていた。
藤原は、胃痛に顔をしかめて、経理部の部屋へ入っていった。
「顔色が青いですよ」
若い社員が、藤原を見て心配そうに言った。
「社員の定期健康診断は、確か今日のはずだったね」
藤原は、自分の席に座りながら、訊ねた。
「ええ。経理部は午後一時からの番になっています。調子が悪そうだから、よくS診てもらったほうがいいですよ」
「うん、そうする」
藤原が頷いたとき、部長席の根津の視線が藤原のほうへ向いた。
藤原は嫌な予感がして、根津の視線に気づかぬ振りをした。
だが、耳朶が自然に熱く赤くなっていくのがわかった、
「藤原君は退職したら、のんびりするだろう。今さら健康診断でもあるまいに」
根津が、突き放すような口調で言った。
始業準備でざわついていた部屋が、根津の一言で水を打ったように静まり返った。
藤原の顔が、真っ赤になった。
藤原は、膝の上で両手を組むと、視線を机の上に落とした。
両手が激しく震えた。赤い顔が次第に青ざめていく。耳朶だけは朱色のままであった。胃痛が、一層ひどくなった。
「会社の健康診断は、退職する人には必要ないよ。会社に貢献し続ける者を対象とした制度なんだから」
根津がそう付け加えたとき、始業ベルが鳴り響いた。
誰もが、救われたように、仕事を始めた。
藤原は、椅子を蹴って立ち上がった。乾いた唇が、ぶるぶると痙攣していた。
仕事を始めようとしていた経理部員たちが、手を休めて心配そうに根津と藤原を見守った。
藤原は。拳を握りしめて、根津の机に歩いて行った。
経理部員たちは、固唾を呑んだ。
「き、きみ......」
根津が、藤原の尋常でない気配に気づいて、椅子から腰を上げた。
藤原は、目を血走らせて根津と向かい合った。
根津が、眼鏡ごしに、藤原を睨み返した。
「何か不服があるのかね」
根津が、声を荒らげた。バリトンの効いた、威嚇的な響きがあった。
藤原は、その声に気圧されて、表情を緩めた。
「胃が痛いので......ぜひ診療所へ行かせて下さい」
藤原は、小さな声で言った。
「なんだ、そんなことか、おどかすな」
根津が、肘付き回転椅子に腰を下ろして舌打ちした。
中腰になって険悪な事態を見守っていた課長や係長たちが、ほっとしたように姿勢を正した。
「仕方がない、行ってきまえ」
根津が、灰皿で煙草を揉み消しながら言った。声に、さきほどの威圧感はなかった。
藤原は、根津に一礼して経理部の部屋を出た。
彼は、診療所へは行かずに、エレベーターで屋上に上がった。屋上には誰もいなかった。
藤原は、根津に立ち向かえなかった自分に愛想を尽かした。
(なぜ私一人が、こんな屈辱を......)
老いた頬に、涙が伝った。
藤原は、五百万円を盗んだ犯人を呪った。犯人は、どう考えても、経理部の人間としか思えなかった。
彼は、涙で濡れた顔をハンカチで拭うと、屋上の端に立って見なれた景色を眺めた。
スモッグの少ない日は、ビルとビルの間に富士が見える。
「お前が憎い......」
藤原は、根津の顔を想い浮かべながら、吐き出すように言った。
屋上を吹き抜ける風が、薄くなった彼の髪を乱した。
彼は、退職までにはなんとしても、根津に対して真正面から反抗心をむき出しにするつもりでいた。一度でもそうしないと、気が済まなかった。それが、自分の人生の総決算のような気がした。
しかし、根津の前に立つと、決まって心臓が震え足が竦むのだった。頭の中で準備していた罵倒の言葉も、気管のあたりにひっかかって出てこない。
小心の彼が、最近になってようやくできるようになったのは、終業ベルが鳴ると同時に仕事を切り上げることであった。それも退職金を手にして、ようやく実行に移せた<反抗>であった。
「藤原さん」
誰かに、背後から声をかけられて、藤原は振り返った。
財務課長の加侍信造が、複雑な表情で、屋上の出入口のところに立っていた。
藤原は、それほど親しくもない加侍の顔を怪訝そうに眺めた。
日頃は、滅多に話を交わしたことのない二人である。
「恐らく、此処ではないかと思いました」
加侍は、藤原の目が赤いのに気づいて、視線をそらしながら言った。
彼は、昨年春の人事異動で、横浜支社の経理課長から本社の財務課長に栄転してきた、藤原の二年後輩であった。経理部内で、誰に対しても礼儀正しい人物として、評判がよかった。
加侍は、藤原と肩を並べて、スモッグに包まれた灰色の都会を眺めた。
「私も、あと二年で定年です」
加侍が、しんみりとした口調で言った。
藤原の表情が動いた。彼は、眩しそうに加侍の横顔を見つめた。
「一番下の娘が、まだ大学一年なんですよ。私大なんで金がかかりましてね」
藤原は、暗い声で言う加侍に、黙って煙草を勧めた。加侍が、恐縮しながら煙草を一本抜き取った。
「藤原さんを見ていると、自分のことのようにつらくて......」
加侍が、煙草をくゆらせながら呟いた。
藤原は、加侍の正直すぎる言葉に、やりきれなさを覚えた。
「加侍さんは課長だし、定年前になって私のような、ひどい扱いは受けないですよ。それに根津部長の信頼の厚いようだから、次長にはなれるでしょ」
「どうですかね。会社というところは、用のなくなった人間には冷たいですから」
「私は、十五年前の事件の責任を負わされているんですよ。ご存知でしょう。五百万円の盗難事件」
「本社勤務の浅い私は、詳しいことは知りませんが、藤原さんが責任を負わされて人事的制裁を受けられたことは、噂として知っていました」
「加侍さんは有能だから、定年迎えても、根津部長が系列会社への再就職を、世話して下さいますよ」
「人生なんて、淋しいものですね」
「加侍さんには、ご家族がおありなんでしょう。六十になった今の私には、一人の家族もいないんです。妻は病死したし、一人娘も結婚して家を出ました。手元に残っているのは退職金と預金を合わせた千百六十万円だけです。これがいわば私の人生の決算書ですよ」
「人生の決算書......」
呟く加侍の口元が歪んだ。
加侍は、二年後の自分を考えて、自分も藤原のようになるのではないか、と不安になったのである。
その一方で、藤原よりは世渡りが上手いから、彼のようなみじめさを味わうことはあるまい、という控え目な自信もあった。
「此処へは、私のことを心配して?」
「ええ、他人事とは思えなくて」
「ありがとう、加侍さん」
「感情を抑えて言ったつもりであったが、藤原は、語尾が震えるのを隠せなかった。」
衆目の中で、根津に恥をかかされた後だけに、人前で弱気を見せたくはなかった。意地でも、根津なんか平気なんだ、という態度をとりたかった。
「うちの会社、倒産しませんかね」
藤原は、二本目の煙草をくわえながら言った。矢張り語尾が震えていた。
加侍が、え?と訊き返した。
藤原は、あいまいに笑った。
「近いうちに、二人で一杯やりませんか」
加侍が、盃を呷る真似をして言った。
藤原は、
「いいですね」
と、頷いた。
藤原は酒を殆ど呑まなかったが、加侍の誘いが胸にこたえた。
胃痛は、いつの間にか消えていた。

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 楼主| 发表于 2010-1-12 11:27:57 | 显示全部楼层
本帖最后由 Kitty.nr 于 2010-1-12 11:40 编辑


藤原は、とうとう健康診断を受けなかった。
根津の言葉を弾き返すためにも、健康診断は受けてやろう、という気はあった。だが、いざとなると、根津に反抗する勇気は萎えてしまった。
彼は、根津の言動が、自分を一刻も早く会社から追い出そうとしているように思えてならなかった。目ざわりで仕方がないと、という態度を、所かまわず露骨に見せているような気がした。
一日の仕事を終えて、会社を出た藤原の足は重かった。
彼は、歩道に視線を落としながら、これかれの自分の人生に何か楽しいことがあるかどうかを、考えてみた。
気持ちが明るくなるような出来事が、一つぐらいあるかもしれない、と真剣に模索した。
「老人ホーム......」
藤原は、なに気なく呟いた。
どうして老人ホームという言葉が口から出たのか、自分でもよくわからなかった。
そこに、何か楽しいことがある、と思っている訳でもない。むしろ彼は、
「老人ホーム......」
と呟いた自分に、衝撃を受けていた。
これまで一度だって、老人ホームのことなど考えたことはなかった。
狭い部屋に詰め込まれた老人たちの哀しげな光景が、藤原の目の前に浮かんで消えた。
(老人ホームだけは絶対に入らんぞ)
彼は、自分にそう言い聞かせた。
気がつくと、いつの間にか地下鉄の階段降り口まで来ていた。
彼は、再びマジックペンを手に持って、階段を降り始めた。
三本目の黒い線は、商品を持つ女優の顔の真上を狙った。
藤原は、不思議に最初ほどの興奮は覚えなかった。自己嫌悪に陥ることもなかった。
馬鹿馬鹿しさだけが、虚しい後味となって残った。
彼は、ホームに通じる階段を降りながら、ふと足をとめた。
いつもは帰宅の遅い根津が、階段に近いホームに新聞を読みながら立っていた。根津の掛けている金ぶち眼鏡が、ホームの明かりを反射して光っている。
「今さら健康診断でもあるまい」
と言った根津の言葉が、不意に藤原の耳元で甦った。
藤原は、新聞を読んでいる根津の横顔を、じっと睨みつけた。根津に対する抑えようのない憎悪が、体の中で轟々と音をたてているようであった。
ホームは上下線とも、乗客で溢れていた。
階段を降りた藤原は、根津が並んでいる列の後ろのほうに立った。
藤原は、根津がそこにいる、というだけではらわたが煮えくり返るようであった。
電車がやってきた。
根津が、新聞を四つに折りたたんだ。
電車のドアが開いて、乗ろうとする客の列が、電車から降りようとする客とぶつかり合った。
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发表于 2010-1-19 13:57:39 | 显示全部楼层
是一篇好文章,这就结束了?
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 楼主| 发表于 2010-4-6 13:49:15 | 显示全部楼层
回复 6# 七湘
不是 没有结束 我好久没写了 等我下个月再开始写吧
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 楼主| 发表于 2010-8-17 13:23:42 | 显示全部楼层
哎。。还是从下个月再开始写吧 最近好忙好忙的
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 楼主| 发表于 2010-10-13 11:37:12 | 显示全部楼层
这个月底开始继续写
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 楼主| 发表于 2010-11-18 14:28:26 | 显示全部楼层
不再写了
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