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(今昔物語集巻十七第三十三)
「比叡山の僧、虚空蔵の助けによりて、智(さとり)を得ること」
今は昔、比叡山に一人の若い僧がいた。
□昔、比叡ノ山ニ若キ僧有ケリ。
出家してから、学問をしなければならないという気はあるのだが、つい遊興に熱心になってしまい、一向に実際の勉学に身が入らない。わずかに法華経を一通り習っただけであった。
出家シテヨリ後、學問ノ志ハ有ト云ヘドモ、遊ビ戯ニ心ヲ入テ、學問スル事无シ、纔ニ法花經許ヲ受習奉レリ。
しかしそれでも一応気だけはあるので、たびたび嵐山の法輪寺に詣でて、学問を大成させていただきたいと、虚空蔵菩薩に願をかけていた。
然ルニ、尚ヲ學問ノ志シ有ケレバ、常ニ法輪ニ詣テ、虚空蔵菩薩ニ祈リ申ケリ。
それでも相変わらず勉学に身が入らないまま、無知蒙昧の僧として日の過ぎるに任せていた。
然ドモ、忽ニ思ヒ立テ學問スル事无ケレバ、何ニ事モ不知ヌ僧ニテゾ有ケル。
秋もたけなわの旧暦の九月ごろ、我が身の不勉強を嘆くこの僧が、また法輪寺に参詣した。早く帰ろうとしたが、顔見知りの寺僧とあれこれ世間話をしていると、つるべ落としの秋の日、はや日暮れ時になってしまった。あわてて帰るが、右京を出ないうちにもう日が沈んでしまう。
僧、此ノ事ヲ歎キ悲テ、九月許ニ法輪ニ詣ヌ、疾ク返ラムト為ルニ、寺ノ僧共ノ相知ル有テ物語リスル間ニ、日漸ク暮方ニ成ヌレバ、怱ギ返ルニ、西ノ京ノ程ニテ日暮ヌ。
しかたなく京内の知人の家を訪れると、留守を預かる女中が旦那様は田舎の方へ行っておりまして‥‥などと言う。
然レバ、知ル人ヲ尋ヌルニ、其ノ家主、田舎ニ行ニケリ、留主ノ下女ヨリ外ニ人无シ。
そこで別の知人の家を訪ねてみようとして歩いて行くと、ふと一軒の唐風の門構えの家が目についた。
然レバ、亦、知ル所ノ有ケルヲ尋ガ為ニ行ク道ニ、唐門屋ノ家有アリ。
門前には、かわいらしい娘が、夕暮れ時だいぶひんやりとしてきたせいか、袙(あこめ)を重ね着して立っている。
其ノ門ニ袙メ[v. 17p. 73-74] 數タ着タル若キ女ノ清氣ナル、立テリ。
僧は娘のところに歩み寄ると尋ねてみた。
「法輪寺に参詣して、比叡山まで帰る途中なのですが、日も暮れてしまいました。今晩一晩だけこちらに泊めてはいただけないでしょうか?」
僧、立寄テ、其ノ女ニ云ク、「山ヨリ法輪ニ詣テ罷リ返ルニ、日暮タレバ、此夜許リ此ノ殿ニ宿シ給ヒテムヤ」ト。
「しばらくお待ち下さい。内で聞いて参りましょう。」
娘はすぐに戻ってきて、
「お安いご用です。さあさあ、どうぞお入りください。」
と答える。
女、「暫ク立給ヘレ。申テ返リ来ム」ト云テ入ヌ、即チ出来テ云ク、「極メテ安キ事也。疾ク入給ヘ」ト。
僧が喜んで入ると、母屋から張り出した放出(はなちで)の間に灯をともして置いてある。
僧、喜テ入テ、放出□方ニ火燃シテ居ヘツ。
ほのかな明かりの下に、丈高のこぎれいな屏風や、高麗縁の畳二,三畳が敷いてあるのが僧の目に入った。
見レバ、四尺ノ屏風ノ清氣ナル立タリ。高麗端ノ疊二三帖許敷タリ。
やがて、こざっぱりした服装の若い娘が、高坏(たかつき)に食事を持って、僧の前にしつらえる。
即チ、清氣ル女、袙袴着タル、高坏ニ食物ヲ居ヘテ持テ来タリ。
食事を済ませ、酒まで馳走になり、手を洗いすませて座っていると、内のほうから引き戸がさらりと開いて、几帳の陰から女声で尋ねてきた。「これはこれは、どちら様でいらっしゃいますの?」
皆食テ酒ナド呑テ、手打洗テ居タルニ、内ヨリ遣戸ヲ開テ几帳ヲ立テ、女房ノ音ニテ云ク、「此ハ何ナル人ノ、此ハ入給ヘルゾ」ト。
僧は、自分は比叡山の僧で、法輪寺に参詣して帰ろうとすると日が暮れてしまい、このように宿を借りているのです、と説明した。
僧、「山ヨリ法輪ニ参テ罷リ返ルニ、日ノ暮テ此カク宿レル」由ヲ荅フ。
そうすると女は、「いつも法輪寺にお参りなさるのなら、その時はいつなりとお立ち寄り下さい。」
と言って、引き戸を閉めて引き取って行った。
女ノ云ク、「常ニ法輪ニ参リ給ナレバ、其ノ次ニハ入給ヘカシ」ト云テ、遣戸ヲ閇テ入ヌ。
しかし、几帳の横木が引っかかって、戸は完全には閉まっていなかった。
遣戸ハ立ツレドモ、几帳ノ手ノ□テ立不被畢ズ。
しだいに夜がふけて、僧はふと部屋の外に出た。南に面した建物の正面の半蔀(はじとみ)の前をうろうろ歩いていると、蔀にすき間がある。
其ノ後、漸ク夜深更テ、僧、外ニ出タルニ、南面ノ蔀ノ前ヲ彳彳行テ見レバ、蔀ニ穴有。
そこから覗いて見ると、先程の女あるじと思しき女性がいた。丈の低い燭台に灯をともして、草子か何かを見ている。
其ヨリ望ケバ、主ト思シキ女有リ、短キ燈臺ヲ取リ寄テ、雙紙ヲ見テ臥タリ。
いかにも秋らしく、紫苑の綾の衣。年の頃は二十代、見目麗しく、姿も大変優美である。
年廾餘許ノ程ド也、形チ美麗ニ姿嚴キ事並无シ、紫苑色ノ綾ノ衣ヲ着テ臥タリ。
髪も衣の裾のところで丸めて置くほど長い。侍女が二人ほど几帳の後ろで寝んでおり、少し離れたところに若い娘が一人、こちらは先程食事の世話をしていた者か。
髪、衣ノ裾ニ曲タル程長ク見エ、前ニ女房二人許、几帳ノ後ニ寝タリ。其ヨリ去テ女童一人寝タリ、此ノ物取テ食ツル者ナメリ。
室内の調度もまことにもって立派なもの、棚の上の段に蒔絵の櫛笥やら硯箱やらをさりげなく置いている。わずかに香でも薫いているものか、ほのかな香りが漂う。
内ノ□有カカシキ事无限シ。二階ニ蒔繪ノ櫛ノ箱・硯ノ箱置散シタリ、火取ニ空薫スルニヤ、馥ク聞ユ。
僧はこの女を見ると、あまりの素晴らしさにぼんやりとして理非分別がつかなくなってしまった。
僧、此ノ主ノ女ヲ見ルニ、諸ノ事不思ズ成ヌ。
「私はいったいどんな宿命でここに宿を借りて、この女とめぐり逢うことになったのだろう?」この思いを遂げられなかったら生きている甲斐がない、という気にさえなった。そこで、人々が皆寝静まった頃合を見計らって、先程の完全には閉じていなかった引き戸を開けて、抜き足差し足、そっと女に近づいてかたわらに横になった。女はよく寝入っていて、まったく気づかない。
「我レ、何ナル宿世有テ、此ニ宿テ、此ノ人ヲ見付ツルナラム」ト喜ク思テ、此ノ思ヲ不遂ズハ世ニ生テ可有クモ不思エデ、人皆ナ静マリテ此ノ人モ寝ヌルナメリト思フ程ニ、此ノ立不畢ザリツル遣戸ヲ開テ、和ラ抜足ニ寄テ、傍ニ副ヒ臥ニ、女吉ク寝入ニケレバ、露、不知ズ。
近くに寄ってみると、薫物の香りがいっそう素晴らしい。
近ク寄タル馥サ艶ズ。
起こして言い寄ろうかとは思うものの、女が目を覚まして大騒ぎになるというのではたまらない。
「驚テ云ム」ト思ニ、極メテ侘シ。
せんかたなく、困った時の仏頼み、ひたすら仏を念じながら、女の衣をかき分けて懐にもぐりこんだ。 女は目を覚まして
「どなた?」
と訊く。宿を借りている僧であることを告げると、女は
「仏門の尊いお坊様と思えばこそお泊めしましたのに、こんなことをなされようとは‥‥。」と言う。
只、佛ヲ念ジ奉テ、衣ヲ引開テ懐ニ入ルニ、此ノ人驚テ、「此ハ誰ソ」ト云ヘバ、「然々也」ト云フニ、女ノ云ク、「貴キ人ト思テコソ宿シ奉ツレ。此ク御ケレバ悔クコソ」ト。
僧は近づいてかき口説こうとしたが、女は衣の襟をきっちり合わせて入らせない。
僧、近付ムト為ルト云ヘドモ、女、衣ヲ身ニ纒テ馴レ陸ブル事无シ。
僧は辛苦悩乱することただ事ではなかったが、騒ぎになって人に聞かれるのもいっそう困るので、無理には及ばなかった。
而ル間、僧、辛苦悩乱スル事无限シ。然レドモ、人ノ聞カム事ヲ耻ルニ依テ、強ニ不翔ズ。
女は続ける。「私はあなたのおっしゃることに従わないと言うつもりではありません。私の夫は昨年の春亡くなって、それから私に言い寄ってくる方もたくさんいらっしゃいます。でも、大した事のない方なら、再婚なんかしたくありません。ですからこうやって一人で暮らしているんです。
女ノ云ク、「我レ、汝ガ云事ニ不随ジトニハ非ズ。我ガ夫ナリシ人、去シ年ノ春失ニシカバ、其ノ後ハ云ハスル人數タ有レドモ、『指セル事无カラム人ヲバ不見ジ』ト思テ、此ク寡ニテ居タル也。
再婚どころか、かえって仏門に入ってらっしゃるような方を尊敬するような暮らしをしたいくらい。
其レニ、中々、此樣ナル僧ナムドノ有ルヲ、貴ブ樣ニテハ有ナム。
だから、あなたがおっしゃることをお断りするのは、筋が通らないんですけれども‥‥。」
然レバ、辞ビ可申キニハ非ラネドモ、法花經ヲ空ニハ讀給フヤ、音ハ貴シヤ。
女は、僧に気を持たせるかのように息をついだ。
「でも、あなたは法華経をお読みになります? 暗誦できます? よいお声で唱えられます? もしそれがおできなら、他人には仏の道をお教えいただいているように見せて、こっそりあなたと契りを交わそうと思うのですけれど‥‥。」
然ラバ、經ヲ貴ゾ、ト人ニハ不令見デ陸ビ聞エムト、何ニ」ト。
ドキッ!
「ほ、法華経は、な、習いましたけれども、あ、暗誦となりますと‥‥ち、ちとできませぬ。」
僧ノ云ク、「法花經ハ習ヒ奉タリト云ヘドモ、空ニハ未ダ不浮ズ」ト。
「それは覚えられないとおっしゃいますの?」
女ノ云ク、女ノ云ク「其レハ、浮ベ得ム事ノ難キカ」ト。
「い、いや、何でできないことがありましょうか。う、う、しかし情けないことに、遊びに熱心でやっておりませんだけで‥‥。」
僧ノ云ク、「何カ、浮ベ得不奉ザラム。而ルニ、我ガ身乍モ、遊ビ戯レニ心ヲ入レテ、不浮ザル也」ト。
「それならば、早く比叡山にお戻りになって、法華経を暗記なさってきて下さい! そうなったら、あなたのお気持ち通りこっそり契りを交わしましょう。」
女ノ云ク、「速ニ山ニ返テ、經ヲ浮ベテ来給ヘ。其ノ時ニ忍テ本意ノ如ク陸ビ聞ム」ト。
もう完全に女のペースである。僧は女と寝たいと言う気持ちも忘れて、ようよう夜も明けようとする頃合に、
「されば。」
と、女の部屋から出た。
僧、此ヲ聞テ、切ニ思エツル事モ止テ、夜モ漸ク[アケ]方ニ成ヌレバ、「然バ」トテ蜜ニ出ヌ。
朝食まで馳走になった上で、屋敷を離れたのである。
朝ニ物ナド令食テ出シ遣シツ。
比叡山に戻った僧、あの世の女の美しさ、素晴らしさのことばかり思い出してしまう。忘れられるものではない。
「何とかして早く法華経を暗記して、彼女のところへ会いに行くのだ!!」
と決意も新たに、一生懸命法華経を覚えこんだ。すると、この僧もとよりバカではない。わずか二十日ほどで、法華経二十八巻暗記してしまったのである!
僧、山ニ返テ、此ノ人ノ氣色・有樣ヲ思フニ、難忘ク心ニ懸リテ、「何デ、疾ク、此經ヲ浮得テ、行テ會ハム」ト思フニ依テ、怱ギ浮ベケレバ、廾日許ニ浮ベ得ツ。
そうして日夜法華経を学ぶ間にも女の事は到底忘れられないので、毎日のように手紙を書き送った。
如此ク浮ル間モ忘ルヽ事无ケレバ、常ニ文ヲ遣ル。
女の方からも返事と一緒に着る物やら食べる物やらを送ってくる。
其ノ返事毎ニ付テ、帷ノ布・干飯ナドヲ餌袋ニ入テ遣ス。
「ああ、これは私に気があるのだ。」
などと、僧は嬉しくてたまらなかった。
然レバ、僧、「我レヲ誠ニ憑也ケリ」ト思テ、心ノ内ニ喜ク思フ事无限シ。
さて、僧は法華経暗誦という大きな課題をみごとに達成したので、法輪寺に参詣し、前回同様、その帰りに例の家に行った。
既ニ經ヲ浮ベ得レバ、例ノ如ク、法輪ニ詣ヌ、返ルニ、始ノ如ク此ノ家ニ行ヌ。
先のように食事をして、女あるじと顔を合わせ、世間話をしているうちに夜も更けてくる。
前ノ樣ニ物ド令食テ、家主ノ女房ナド出會テ、物語ナドシテ夜モ漸ク深更レバ入ヌ。
僧は手を洗い清めて、法華経を読み始めた。
僧、手ナド洗テ、經ヲ讀居タリ。
ほれぼれするような良い声である。
其ノ音、極テ貴シ。
しかし、僧の内心は経などそっちのけ。女のことばかり考えていた。
然レドモ、心ノ内ニハ更ニ讀ム空ラ无シ。
夜はますますふけて、家の中の人は皆寝入ったようである。
夜痛ク深更ヌレバ、人共、皆、寝ヌル氣色也。
そこで、僧は初めて来た日のようにそっと引き戸を開けると、抜き足差し足、女の部屋に入った。誰も気づかない。
其ノ時ニ、僧、始メノ如ク遣戸ヲ開テ、和ラ抜足ニ寄ルニ、敢テ知ル人无シ。
女あるじに添い寝すると、彼女は目を覚ました。
寄テ副臥スニ、女驚タリ。
「ああ、私を待っていたのだ。」と、僧が喜び勇んで女の懐に入ろうとすると、女は衣の襟をきっちりと合わせて、またもや僧を入れてくれない。おもむろに女は言う。
「我レヲ待ケル也」ト思フニ、極メテ喜クテ懐ニ入ト為スルニ、女、衣ヲ身ニ纒テ不入ズシテ云ク、「我レ、可聞キ事有リ。其レヲ慥ニ聞テナム。
「ちょっとお伺いしたいことがありますの。それをはっきり伺ってからにしましょう。確かに法華経は暗誦できるようになられた。それだけのことで男女の関係になってしまえば、そのうち世間の目もはばからず、十人並みの夫婦と同じ。
我ガ思フ樣ハ『此ク經ハ浮ベ給ヒツ。其レ許ヲ事ニテ陸シク成ナム後ニ、互ニ難去ク思ハヾ、人目モ不耻ズシテ有ラム。其ノ時ニ、打チ解□聞エム。
それは、ただの殿方と暮らすより、お坊様と連れ添うたならば、けがれのない生活が送れ、後生にも役立つでしょう。
我ガ為ニモ、男ヨリハ中々此樣ナル人ノ具ニ成テ有ラムハ穢カルマジ。
でも、経を暗記しているだけで得意がっているような方といっしょになるのは‥‥。
其レニ、經ヲ讀給ハムヲ賢キ事ニテ有ラム人ノ具ニ成テ有ラム事ナム口惜カルベキ。
どうせなら、きちんと手続きを踏んで学僧になられたような方のほうが‥‥。
同クハ、形ノ如クノ學生ニ成リ給ナムヤ。
それから、ここに住んで公卿のお宅とか皇族のお宅とか出仕されたらよろしいでしょう?
然テ、此ヨリ殿原・宮原ニモ其ノ方ニ被仕レテ行カム後見ヲセムコソ吉カラメ。
経だけを読む人が、どこにも出ずにそのままなんて変ですわ。
只、經許ヲ讀マム人ヲ、出立モセズ、籠メ居ヘテ有ラム事ハ、可有キ事モ非ズ。
こんなことを言うのも、あなたのことが愛しいから‥‥。ほんとうに私のことを思ってくださるのなら、三年ばかりは比叡山で修行して、立派な学僧になっていらっしゃって下さい。そうしたら、あなたと契りを結びましょう。そうでない限りは、たとえ殺されてもイヤ。
此ク氣近ク御スルモ媚ケレバ、同クハ然樣ニテ見聞エバヤ』ト思フヲ、誠ニ我ヲ思フ事ナラバ、三年許山ニ籠居テ、日夜ニ學問ヲシテ學生ニ成テ来給ヘ。不然ザラム限リハ、譬ヒ被殺ル
もちろん修行のあいだもずっと便りはします。暮らしに困らないくらいには仕送りもしますから。」
トモ不用也。山籠ノ間モ常ニ申シ可通シ、亦、不合ニ御セム程ノ事ハ訪ヒ聞エム」ト。
こうまで言われては、肯かざるを得ない。うーむ、まったくその通り、そうまで言うものを無理に押し倒すなんてことは、さすがに考えない。
僧、此ヲ聞クニ、「現ニ然モ有ル事也。心得テ此ク云ハム人ノ事ヲ、慈悲无ク強ニ當ラムモ糸惜シ。
かえって女の仕送りを受けて、出世ができるなら、それもなかなか‥‥などと打算も手伝って、僧は
「くれぐれもお願い申し上げる。」
と念の入った約束をして、明け方、前と同様に食事を馳走になり、比叡山に帰った。
亦、此ク不合ナルヲモ、此ノ人ノ養ハムニ懸リテ、世ニ可有キニモ有ラム」ト思テ、返々ス契リ置テ出ヌ。[アケ]ヌレバ、物ナド食テ山ニ返リ登ヌ。
僧は、帰るや否や学問修行に取りかかり、昼夜怠らなかった。
其ノ後、忽ニ學問ヲ始メテ日夜ニ不怠ズ。
あの人に逢いたい! という一途な思いから、学問がまるで一日を争う火急の要事のように思える。苦心惨憺の学問の末、二年ばかりでとうとう学僧の末座に連なった。
「此ノ人ニ會ハム」ト思フ志ノ、首ノ火ヲ揮ガ如ク思エテ、心ヲ盡テ肝モヲ砕キ、學問スル程ニ、二年 □□□許ヲ經ルニ、既ニ學生ニ成ヌ。
実はこの僧、たいへん聡明な男だったのだ。だからこそ二年と言う短い年月で、とにもかくにも学僧になれたのである。
本ヨリ心聡敏也ケレバ、此ク疾クハ學生ニ成ル也ケリ。
さらに一年、僧はますます立派になっていた。
三年ニ成ルニ、誠ニ止事无キ學生ニ成ヌ。
天皇の御前で行われる教義の宗論や、法華三十講などの場に出るたびに、とうとうと法華経の義を解いて、列席者の賛嘆を受ける。
内論論議・卅講ナド云フ事ニ出ル度ビ毎ニ、人ニ勝レテ被讃ルヽ事无限シ。
同年輩の学僧の中ではピカ一の存在だと、比叡山中で隠れもない存在になった。
等輩ノ齡ノ學生ノ中ニハ此ノ人勝レタリト、山ノ上ヘニ響カス。
そしていつしか約束の三年が過ぎた。
而ル間、墓无クテ三年ニ成ヌ。
学問修行の最中も、例の女のもとからは絶えず便りがあったので、それを支えに心静かに学問に励んでいた。
此クテ、籠リ居タル間モ、彼ノ人ノ許ヨリ、不絶ズ問ヘバ、其ニ懸リテ多クハ静ニモ有ケル也。
とうとう学僧としての地位を確立した僧は、女に会うために以前のように法輪寺に参詣した。帰途、夕暮れ方に女の家を訪れる。
三年モ過ヌレバ、學生ニ成リ得エテ、彼ノ人ニ會ハムガ為ニ、例ノ如ク法輪ニ詣ヌ、返ルニ、夕暮方ニ彼ノ家ニ行タリ。
前もって家に行く由を伝えてあり、いつもの放出の間に座って、几帳越しに長年の気がかりだったことなどを問うと、他人には僧との間の経緯を知らせていなかったので、女房を通じて、
「このように何度もお立ち寄りいただいているのに、直にお話しないというのはおかしゅうございますね。
兼テモ「参ラムズ」ト云タレバ、例ノ方ニ居タルニ、物超ニ年来ノ不審キ事ナド云フニ、主ノ女房モ、人ニハ此ク氣近キ事有リトヤ不令知ネバ、女房ヲ以テ令云ル樣、「此ク度々立寄給フニ、自ラ不聞ネバ恠シク思スラム。
ですから今宵は直接お話ししましょう。」
などと言ってくる。僧は内心どきどきしながら、嬉しさと緊張が入り交じり、
「承知いたしました。」とばかり、言葉少ない。
然レバ、此ノ度ハ自ラ聞エム」ト令云レバ、僧、心ノ内ニ胸騒ギ、喜クテ、「畏リテ承リヌ」ト許言少ニ荅フ。
「こちらにどうぞ」
という声に、はやる心を抑えて入ってみると、女が伏せている枕もとの几帳の外に、こぎれいな畳を敷いて、円座(わらうだ、わらなどで編んだ丸い敷物)を置いてある。燭台が屏風と背中合わせに置かれているので、女房が女あるじの裾のほうに座っているのもおぼろにしか見えない。
「此方ニ入給ヘ」ト云ヘバ、喜ビ乍ラ入テ見レバ、臥タリシ枕上ノ几帳ノ外ニ、清氣ナル疊敷タリ、其ノ上ニ圓座置タリ、屏風ノ後ニ火背ケテ立タリ。女房一人許、跡ノ方ニ居タル氣色有リ。
僧が円座に座ると、女が尋ねてきた。
「長年ずっと心配だったのですが、学僧にはなられたのですか?」
心に染み入るような魅力的な声。
僧、寄テ圓座ニ居レバ、主ノ云ク、「年来ノ不審ム、積タリ。然テモ學生ニハ成リ給ヘリヤ」ト云フ音、愛敬付キ勞タシ。
胸の思いは空にも舞い上がらんばかり、体もぶるぶる震えてくる。
「そう大した物でもありませんが、法華三十講や内論議などでは、おほめをいただきました。」
僧、此ヲ聞ク、心ノ置キ所无ク、身モ被篩テ云ク、「墓々シクハ不侍ネドモ、卅講・内論義ナドニ罷出テハ被讃侍リ」ト。
「ああ、嬉しいことですわ。法華経の納得がいかないところを、いろいろお聞きしましょう。そういうことをお尋ねできてこそのお坊様、お経を読むだけではとてもとても‥‥。」
主ノ云ク、「極テ喜シキ事カナ。不審キ事ト共問ヒ申サム、此樣ノ事ナド問ヒ聞ユルコソ法師トハ思ユレ。只、經許ヲ讀マム人ハ何トモ不思エズ」
そう言うと、女は法華経の序品から始めて、難しくて意味の分からないところをあちらこちらと尋ねる。習った通りに僧が答えると、特に難しい教義の説明を求める。自分で考えながら答えたり、先人の言葉に習って答えたりすると、
ト云テ、法花経ノ序品ヨリ始メテ、疑ヒ有テ難荅キ所々ヲ問フニ、習タルニ随テ荅フ。其レニ付テ、難ク問ヒ成ス、押量リツヽ荅ヘ、或ハ前前キ古キ人ノ云置タル如クニ荅フレバ、
女は
主ノ云ク、
「すばらしい学僧になられたこと。どうしてたった二、三年でなれたの? すばらしく頭がいい方でしたのね。」
「極テ止事无キ學生ニ成リ給ヒニケリ。何デ、此ク二三年ニ成リ給ヒツラム。極テ聡敏ニ御スルニ、ト有ケレ」
と賞賛する。
ト讃レバ、
けれども僧は内心、女の質問に舌を巻いていた。女性ながら、このように仏道に詳しいとは正直思わなんだ。
僧ノ思ハク、「女也ト云ヘドモ、此ク法ノ道ヲ知タリケル、思ヒ不懸ヌ事也。
親しい関係になって、話をするのにもぴったりではないか。
親クテ語ハムニモ糸吉カルベシ。
だから、私に学問を勧めたのだな。
此レハ學問ヲモ勧ムルニコソ有ケレ」
そんなことを考えながら打ち解けて話をしていたが、夜も更けてきたので僧がそっと几帳をめくり上げて中に入ると、
ト思テ、物語ナド為ル程ニ、夜モ深更ヌレバ、僧、和ラ几帳ヲ[カカゲ]テ入ルニ、
女は何も言わないまま横になっている。
女、何ニモ不云ズシテ臥セバ、
僧は心ときめかせて、女に添い臥した。
僧、喜シク思テ副ヒ臥ヌ。
「しばらく、こうしていて。」
女ノ云ク、「暫ク此樣ニテ御セ」トテ、
女と僧は手だけを握り合って、寄り添って寝物語をしていたが、
手許ヲ互ニ打懸ケ通シテ、物語リシ臥タル程ニ、
何と行っても僧は比叡山から法輪寺に参った帰り、歩き疲れていたので、つい気がゆるんで寝込んでしまった。
僧、山ヨリ法輪ニ参リ返ケル間ニ、歩ビ極ジテ、打解テ寝入ニケリ、
ふと、目が覚めた。
驚テ、
ああ、よく寝てしまった。
「我ハ吉ク寝入ニケリ。
私の長年の思いもまだ打ち明けていないのに、と思いながらはっきりと目覚めて見ると‥‥
思ヒツル事ヲモ不云ザリケリ」ト思テ、驚クマヽニ目悟ヌ。
周囲は薄(すすき)の原。その中に寝ていたのだ。
見レバ、薄ノ生タルヲ掻臥セテ、我レ寝タリ。
自分のいる状況がよく呑み込めず、起き上がって周りを見回すと、どことも知れぬ野っ原の中。人っ子一人いないところに、僧一人ぼっち。
びっくり仰天を通り越して、冷や水でも浴びせられたようにぞっとした。
衣服も周りに脱ぎ散らかしてある。
「恠シ」ト思テ、頭ヲ持上テ見迴セバ、何クトモ不思ヌ野中ノ人ホノサモ无キニ、只獨リ臥タリケリ。
心迷ヒ肝騒テ怖シキ事无限シ。
起上テ見レバ、衣共モ脱ギ散シテ傍ニ有リ。
衣の襟をかき合わせて漸う見れば、嵯峨野の東の方の野っ原。
衣ヲ掻キ抱テ、暫ク立テ吉ク見迴セバ、嵯峨野ノ東渡ノ野中ニ臥タリケル也ケリ。
有明の月が晧晧と照っていたが、三月ばかりのことであるから寒いこと寒いこと。寒い上に恐怖も手伝って体が震えて仕方がない。
奇異ナル事无限シ。有明ノ月ノ明キニ、三月許ノ事ナレバ、極テ寒シ。
どこに行けばよいのかさえも分からぬまま、とりあえず法輪寺が近いことを思い出し、とにかく参詣してそこで夜を明かそうと決めた。
被振テ更ニ物不思エズ。忽ニ可行キ方不思エデ、「此ヨリハ法輪コソ近ケレ。参テ夜ヲ明サム」ト思テ、
梅津の辺りで腰まで水につかりながら桂川を渡る。流されそうになるのをようやくこらえて、がたがた震えながら法輪寺に駈け込んだ。
走リ行クニ、梅津ニ行テ桂川ヲ渡ルニ、腰ニ立、流レヌベキヲ構テ渡テ、振々フ法輪ニ参着テ、
御堂に転がり込むと突っ伏して、こんな悲しい恐ろしい目にあってしまいました、お助け下さいませと祈るや、疲れ果てたものか眠ってしまった。
御堂ニ入テ御前ニ低シ臥テ申サク、「此ク悲シク怖シキ事ニナム罷リ値タル」ト、「助ケ給ヘ」ト申シテ、臥タル程ニ寝入ニケリ。
僧の夢の中、几帳の中から頭を青々と剃り立てた、凛とした風情の小さな僧が現れた。
夢ニ「御張ノ内ヨリ頭青キ小僧ノ形チ端正ナル、出来テ、僧ノ傍ニ居テ告テ宣ハク、
「お前が今晩たぶらかされたのは、狐や狸など獣類の仕業ではない。私の謀ったことじゃ。
『汝ガ今夜被謀タル事ハ、狐・狸等ノ獸ノ為ニ被謀ルニハ非ズ、我ガ謀タル事也。
お前は才能はあるのだが、遊びの道ばかりに熱心で一つも学問をせず、学僧にもならない。
汝ヂ、心聡敏也ト云ヘドモ、遊ビ戯ニ心ヲ入レテ、學問ヲセズシテ、學生ニ不成ズ。
しかしそれでいいとは思わず、たびたび私のところに来て、才知をつけ悟りを開かせてくれと願をかけておった。
而ルニ、其レヲ穏ニ不思ズシテ、常ニ我ガ許ニ来テ、「才ヲ付ケ、智ヲ令有ヨト責レバ、
私はどうしてやろうかとあれこれ考えたが、
我レ、「此ノ事ヲ何ガ可為キ」ト思ヒ迴スニ、
お前はたいそう女性に興味を感じておったから、一つそれを利用してお前に悟りを開かせようと、企んだのじゃ。
「汝ヂ、頗ル、女ノ方ニ進タル心有。然レバ、其レニ付ケテ、智リヲ得ル事ヲ勧メム」ト思テ、謀タル事也。
だから少しも恐れる必要はない。早く比叡山に戻って、いよいよ仏道を一生懸命学びなさい。努々、怠るでないぞ。」
小さな僧がそう語るやいなや、夢から覚めた。
然レバ、汝ヂ、怖レヲ成ス事无クシテ、速ニ本山ニ返テ、弥ヨ法ノ道ヲ學テ、努々怠ル事无カレ』ト宣フ」ト見ル程ニ、夢覺メヌ。
「虚空蔵菩薩だ! 虚空蔵菩薩が私を悟らせようとして、あの女に変じておられたのか‥‥」
と、僧は恥ずかしくそして悲しく思った。涙を滂沱と落として、悔い悲しんだ。
僧、然レバ、「虚空蔵菩薩ノ我ヲ助ケムガ為メニ、年来、女ノ身ト變ジテ、謀リ給ヒケル事」ト思フニ、耻カシク悲キ事无限シ。
泣くだけ泣いてしまうと、僧は夜明けとともに比叡山に帰り、いよいよ仏道修行と学問を一心に行った。
涙ヲ流シテ悔ヒ悲ムデ、夜明テ後、山ニ返リテ、弥ヨ心ヲ至シテ、學問ヲシケリ、
そして比類のない学僧になったのである。
誠ニ止事无キ學生ニ成ニケリ。
虚空蔵菩薩のお計らい、あだ疎かにできようか?
虚空蔵ノ謀リ給ハムニ、将ニ愚ナラムヤ。
虚空蔵経に曰く、
虚空蔵經ヲ見奉レバ、
「私を頼みとする人の臨終に際して、たとえ病のため目も見えず耳も聞こえず、仏を念ずることができなくても、私はその人の親兄弟、妻子と変じて、念仏を勧めるのだ。」と。
「我レヲ憑マム人ノ、命終ラム時ニ臨テ、病ニ被責テ、目モ不見ズ耳モ不聞ズ成テ、佛ヲ念ジ奉ル事无カラムニ、我レ、其ノ人ノ父母・妻子ト成テ、直シク其ノ傍ニ居テ、念佛ヲ勧メム」ト被説タリ。
だから、僧が関心を持つようにと、女に化けて学問を進めたのである。まさに経の通り、尊いことである。
然レバ、彼ノ僧ノ好ム方ニ女ト成テ、學問ヲ勧メ給ヘル也。
經ノ文ニ違フ事无ケレバ、貴ク悲キ也。
これは、まさに僧当人が語り伝えた話だということである。
彼ノ僧ノ正シク語リ傳ヘタルトヤ。 |
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