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『信長公記』

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发表于 2010-6-19 19:49:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)とは、日本の安土桃山時代の戦国大名である織田信長の一代記。著者は信長の家臣であった太田牛一。江戸時代初期に成立。信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)とは、日本の安土桃山時代の戦国大名である織田信長の一代記。著者は信長の家臣であった太田牛一。江戸時代初期に成立。

豊臣秀吉の命により、太田牛一の日記を元に作られたようで、一部を除き非常に正確な内容であるため、信長の足跡を辿るには無くてはならない史料とされている。織田信長が足利義昭を奉じて上洛した1568年(永禄11 年)から信長が死去する1582年(天正10 年)について綴られている。十六巻十六冊・安土記とも。

写本を入れると20種類以上も残されており、表題も『永禄十一年記』・『安土日記』・『信長記』・『信長公記』・『安土記』など様々。首巻は、巻一~巻十五よりも後に書かれたと思われる。自筆のものは以下の通り。

    * 『永禄十一年記』(一巻):永禄十一年部分のみ。尊経閣文庫所蔵。
    * 無題(一巻):天正四年四・五月、天正八年八月、天正十年六月。織田家所蔵。
    * 『信長記』(十五巻):池田家文庫本。首巻なし。重要文化財。
    * 『信長公記』(十五巻):建勲神社本。首巻なし。重要文化財。

藤本正行は著書『信長の戦争』の中で、同じ本の中でありながら、信長に対して「上様」「信長公」「信長」と表現が変わっている部分や、徳川家康を「家康」と呼び捨てにしていたり「家康公」「家康卿」「家康殿」と敬称をつけている箇所などがある点に言及し、さまざまな時期に書いたメモのようなものを切り貼りして一冊の本として作り上げたものであるとしている。
■戦国時代■
 日本の歴史上、最も華やかだったのは戦国時代。応仁の乱の混沌から、キラ星のごとく英雄が生まれ、戦国の大乱をくぐりぬけ、一つの国家に統一されていく。戦略、戦術、陰謀、裏切り、大合戦、すべてが極東の島国とは思えないほど壮大だ。同じイベントの繰り返しが多い三国志とは違い、物語にメリハリがある。史上最長の叙事詩マハーバーラタのように長大で、ホメーロスの叙事詩のように面白い。叙事詩のさまつな定義をさておけば、戦国大乱は、日本が生んだ最高の叙事詩かもしれない。

 戦国時代、日本の半分を支配する王であった織田信長は、常時10万もの大軍を動員できた。16世紀の世界で、これほどの常備軍を保有した王は少ない。戦さがあろうがなかろうが、常時、兵を雇っておくのが常備軍である。当然、雇用する側の負担は大きい。そのため、現代の日本でさえ、3人に1人が非正規雇用だ。しかも、普通のお仕事で。

 さらに、戦国時代には、1000丁を超える鉄砲が戦場で火を噴いたが、こんなハイテク物量戦は世界でも類を見ない。日本が世界史に登場するのは、近代に入ってからである。だから、日本史はちっぽけなローカル史にすぎないと卑下するのは正しくない。戦国時代は、スケールと内容において間違いなく、世界史に匹敵する。

■応仁の乱■
 こんな壮大な戦国時代だが、事の始まりは、どこにでもあるようなもめ事だった。山城守護の畠山家の家督争い、つまり、タダの内輪もめ。1467年、畠山政長は、畠山義就との家督争いにやぶれ、京都で陣をはった。腹立ちまぎれに、最終手段に打って出たわけだが、両軍の後ろ盾が問題だった。畠山政長には細川勝元、畠山義就には山名宗全がついたが、この2人は、幕府を二分する大勢力であった。結果、ローカルなお家騒動のはずが、天下を二分する大乱にまで発展したのである。これが、有名な『応仁の乱』だ。

 愚にもつかないもめごとで歴史が変わる、よく出来た話だが、畠山家の相続争いがなくても、応仁の乱は起こっただろう。この頃、幕府内部では、巨大で複雑な力学が働いていた。時の権力者、室町幕府8代将軍の足利義政は、政治ともめごとが大嫌いであった。彼は、自分に与えられた強大な権限を、銀閣寺に代表される東山文化にしか使わなかった。

 足利義政は若い頃から隠居願望が強く、子がないことを理由に、なんと、弟を養子にする。適当なところで、弟に将軍職を譲り、余生を送ろうという魂胆だった。こうして、弟 義視(よしみ)は次期将軍を約束されたが、彼の後ろ盾が、細川勝元であった。ライバルの山名宗全が面白いはずがない。

 ところがここで、事態は一変する。足利義政の妻 富子が男子を産んだのである。じつは、この富子が難題であった。富子は夫の義政と違い、政治と権力に執着する、気性の激しい女だった。富子は、自分が腹を痛めた子を将軍にすえようと画策し、これに飛びついたのが山名宗全である。宗全にしてみれば渡りに船で、これで、細川勝元に対抗する手だてをえたわけだ。宗全は喜んで、富子の子 義尚(よしまさ)の後見人となった。

 こうして、次期将軍の候補2人に、幕府の二大勢力が張りついたのである。争乱は火を見るより明らかだった。その最中に起こったのが、先の畠山家の相続争いである。完全武装の軍団が、数メートル離れて向き合ったところで、誰かが発砲するようなものだ。誰が撃ったかは(直接原因)、重要ではない。すぐに、京の都を戦場とする大乱がはじまった。

■歴史はカオス■
  このてんまつは、歴史がカオスであることを証明している。カオスとは『混沌(こんとん)』を意味し、『カオス理論』なる仰々しい理論体系まである。決して、あやしいものではないのだが、従来の古典的理論とは違い、何かあやしい?難しい理屈はさておき、その特徴は、
「最初のささいな違いが、結果として巨大な違いを生み出す」
なるほど、家督争い、応仁の乱、戦国時代とつづく歴史は、カオスそのものである。

 この大乱の結果、京の都は焼け野原となり、朝廷も幕府も権威を失った。将軍 足利義政は、そんなことには気にもとめず、わが子 義尚に家督を譲り、京都の東山に隠居する。趣味の世界に引きこもったのである。こうして生まれたのが、先の東山文化であった。一方、京の文化人たちも、混乱を避け、地方に散っていた。地方の守護大名たちは、この都人(みやこびと)を積極的に受け入れ、軍事、経済、文化を大いに発展させた。のちに、守護大名は戦国大名と呼ばれるようになり、日本史上希にみる群雄割拠を生んだ。これが戦国時代である。

■織田信長■
 戦国時代最大の巨人が、織田信長である。織田信長は、『奉行のせがれ』というパッとしない『生まれ』からスタートし、阿修羅のごとく領地を切り取り、日本の半分を支配した。偉大な心理学者であり、まれにみる大統率者だった武田信玄。戦場においては、無敗の軍神、上杉謙信。応仁の乱後、日本を統一した豊臣秀吉。日本史上最長の徳川300年の礎を築いた徳川家康。これらの英傑たちがかすんで見えるほど、織田信長は巨人である。信長は、革新性や非情さで知られるが、性格は複雑怪奇、常人の理解を超える。『二重人格』では説明がつかないのだ。

 織田信長の残虐さを示す第一のエピソード。1574年元旦、信長の本拠地である岐阜城に、京都や隣国の諸将が年賀の挨拶に参上した。この頃、信長の支配地は尾張、近江、越前、畿内に限られていたが、すでに日本国王のように振る舞っていた。祝宴が終わり、来客者が退出したあと、信長の直属の馬廻り衆だけで、内輪の祝宴がはじまった。そのとき、『珍奇なお肴(さかな)』が披露されたのである。その肴というのが、浅井父子と朝倉義景の首であった。それもただの首ではない。頭蓋骨を漆(うるし)で塗り固め、金粉までふりかけた、背筋が凍るほど珍品である。

 信長は、妹のお市を浅井家に嫁がせた後、浅井父子に裏切られ、朝倉家には、何度も辛酸をなめさせられた。その恨みを買って、こんな末路となったのである。それにしても、斬首したままさらす方が、まだ慈悲深い。わざわざ、漆と金粉で美しく飾って笑いものにするというのが怖いのだ。

 このエピソードは、太田牛一が記した『信長公記』にも記されている。信長公記は信長の生涯を記した書で、最も信憑性が高いされる。作者の太田牛一は、織田信長に仕えた人物だ。この書の中で太田牛一は、
「以上3つの首を、酒の肴として出されて、またご酒宴となったのである。まことにめでたく、世の中は、思いのままであり、信長公はいたくお喜びであった」
と記している。とすれば、当時としては想定内の残虐行為だったのかもしれない。なんといっても、時は戦国時代。

■叡山燃ゆ■
 つぎに、太田牛一でさえ、あまりの残虐さに絶句したエピソード。有名な比叡山延暦寺の焼き討ちだ。血で血を洗う戦国時代の中にあっても、ひときわ血なまぐさい。延暦寺は、歴史的に僧兵をかかえた政治勢力で、浅井・朝倉に味方したのだが、それが信長の恨みをかったのである。太田牛一の信長公記は、そのときの様子を詳細に伝えている。一読しただけで、胸が悪くなるほどのすさまじさだ。以下、信長公記の要約。

 9月12日、信長公は叡山におしよせ、根本中堂をはじめすべての建物を焼き払われた。老若男女みな、あわてふためき逃げまどった。それを4万の兵が、ときの声をあげながら攻めたてる。僧、童、学僧、上人、すべて捕えてきては首をはね、信長公にお目にかけるのである。これは、叡山でも知られた高僧などと、いちいち報告するのであった。このほかにも、美女、童も数え切れぬほど捕らえて、信長公の前に連れてこられる。
「悪僧は首をはねられてもいたしかたありません。わたしはお許しください」
と口々に嘆願するのも、許さず、ひとりひとり首を打ち落とされた。目もあてられないありさまだった。数千の死体があたりかまわずころがり、まことに哀れななりゆきであった。

 これぞ生き地獄、想像するのも恐ろしい。一方、気になる一節もある。
「美女、童も数え切れぬほど捕らえて、信長公の前に連れて…」
という部分。比叡山延暦寺は、天台宗の総本山で、源流は奈良時代末期の名僧 最澄までさかのぼる。いわば、歴史的な聖域だ。その聖域で、高僧と童と美女が寝食を共にして修業を積んでいた?

 織田信長という人物は、この手の矛盾、堕落を極端に嫌うところがあった。信長特有の怒りが炸裂し、延暦寺にまつわる時間と空間を地上から抹殺しようとしたのかもしれない。この事件後、信長は『第六天魔王』と呼ばれるようになった。第六天とは、仏教の世界観の中の六欲天の一つで、別名『天魔』。

■ドラキュラ伝説■
 このような悪名をかせられた人物は、世界史にも登場する。人間串刺し王、ヴラド ツェペシュだ。ヴラド ツェペシュは、ワラキア公国の王で、のちにドラキュラ伯爵のモデルとなった。ツェペシュは、歴史上最も有名な残虐王の一人で、何百何千という人間を大地に串刺しにした。さらに、その光景を眺めながら、食事を楽しんだという。その並外れた残虐さゆえに、ドラキュラ伝説とリンクしたのだが、織田信長同様、誤解も多い。

 この時代、世界最強の国は、オスマン トルコ帝国であった。1453年には、かの東ローマ帝国も滅ぼしている。この強国に敢然と立ち向かったのが、ワラキア公国の王ヴラド ツェペシュであった。ワラキア公国はルーマニアにあって、カトリック、ギリシャ正教、イスラム教が入り乱れ、戦争と殺戮が絶えなかった。当然、民衆は苦しみにあえいだ。いわば、ルーマニアの戦国時代である。ワラキア王ツェペシュは、残虐な方法で、自分に逆らう者、犯罪者、捕虜、ジプシーを殺害したが、一方で、国内の治安は保たれた。収拾不能な大混乱にあっては、恐怖統治しかないのかもしれない。

 キリスト教徒のツェペシュは、イスラム教 オスマン帝国に果敢に挑み、幾度か勝利した。しかし、最後には敗れ、首を打たれてしまった。その後、ツェペシュの首はオスマン帝国のスルタンに送られたが、残された胴体は修道士によって埋葬されたという。ツェペシュは残虐な刑を科す一方で、国内に多くの修道院を建設した。ツェペシュは、異教徒の侵略を防ぎ、故国の独立を守った英雄であり、民衆もそれを知っていたのである。ツェペシュと信長は、収拾困難な混乱を解決するために、合理的に『残虐』を選択したのかもしれない。

■山中の猿■
 このように尖った残虐さを現す一方で、織田信長は信じられないほどの慈悲も示した。それが、信長公記のエピソード『山中の猿』である。以下、信長公記の要約。

 美濃の国と近江の国の境に、山中というところがあった。その道のかたわらで、不具者が雨にうたれて、こじきをしていた。信長公はこれを京への上り下りのたびに、ご覧になり、あまりにかわいそうに思われた。あるとき、
「だいたいこじきというものは、その住所が定まらず流れて行くものなのに、この者だけはいつも変わらずこの地にいる。どのような事情があるのか」
とご不審のあまり、土地の者に尋ねられた。土地の者は、
「この山中でその昔、常磐御前(源義経の母)を殺した者がおります。その因果によって、子孫に代々不具者が出て、あのようにこじきをしているのです」
とお答え申し上げた。

 6月26日、信長公は急に京にお上りになった。諸用に紛れてご多忙であったにもかかわらず、あの山中の猿のことを思い出された。そして、木綿20反を自ら取りだし、お持ちになって、山中の宿に行き、
「この町の者は、男女すべてがここに集まるように。言いたいことがある」
とおふれを出された。人々は、どのようなことをおっしゃられるのかと、緊張しながら御前に出た。すると、信長公は、木綿20反をこじきの猿に与えられ、
「この反物半分でもって、だれかの家の隣に小屋をつくってやり、餓死しないように情けをかけてやってほしい。この近くの者はこのこじきのために、麦の収穫のときには、それを一度、秋には米を一度、一年に二度ずつ、毎年安心できるように少しずつ、このこじきに与えてくれれば、自分は嬉しい」
とおっしゃられた。もったいなさのあまり、こじきの猿はいうまでもなく、この山中の町中の者で、ありがたさに涙を流さぬ者はいなかった。お供の者も、もらい泣きしたのである。

 先のエピソード『珍奇なお肴』や『比叡山焼き討ち』と同じ人物の話とは思えない。明らかに欲得ずくではない、弱者に対する慈悲が見てとれる。しかも信長の指示は、具体的でこまやかであり、高見に立って良きに計らえ、のたぐいではない。身勝手で、冷酷な性格からは絶対に出現しない言動だ。冷酷さと残虐さとは別物なのだろうか?慈悲と冷酷さは相容れないが、慈悲と残虐さは共存できるのかもしれない。人間の心理は深い謎である。

原文:http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html
現代語訳文:http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
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