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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

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发表于 2010-6-20 11:56:42 | 显示全部楼层 |阅读模式
概要

1985 年(昭和60年)に新潮社から刊行され、後に新潮文庫として上下巻で文庫化された。また『村上春樹全作品 1979~1989〈4〉』に収録され、このとき若干の修正が加えられている。村上にとっては外国語訳された二冊目の小説であり、『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』へとつづく新潮社系村上長篇作品の第一作である。

作品は「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」の章に分かれており、世界を異にする一人称視点(「僕」と 「私」)からの叙述が、章ごとに交互に入れ替わりながら、パラレルに進行する。但し、厳密な意味でのパラレルとは言えない(『海辺のカフカ』の同時間軸とは異なる)。『ノルウェイの森』(単行本)のあとがきの中で、村上はこの小説を自伝的な小説であると位置づけている。

また「世界の終り」は『文學界』(1980年9月号)に発表された中篇小説『街と、その不確かな壁』に基づいているが、主人公の選択する結末はまったく逆のものとなっている。

2002年時点で、単行本・文庫本を合わせて162万部が発行されている。

ストーリー

「世界の終り」は、一角獣が生息し「壁」に囲まれた街、「世界の終り」に入ることとなった「僕」が「街」の持つ謎と「街」が生まれた理由を捜し求める物語。外界から隔絶され、「心」を持たないが故に安らかな日々を送る「街」の人々の中で、「影」を引き剥がされるとともに記憶のほとんどを失った「僕」は葛藤する。「僕」は図書館の夢読みとして働きつつ、影の依頼で街の地図を作り、図書館の女の子や発電所の管理人などと話をし、街の謎に迫っていく。時間軸的には『ハードボイルド・ワンダーランド』の「私」がシャフリングを行ったのと同時に(すなわち、「私」の思考システムが「第三の思考システム」に切り換わったのと同時に)『世界の終り』のストーリーが始まるものと思われる。

登場人物

    * 僕 : 「世界の終り」における主人公。「外の世界」から「街」に入った後、「図書館」で「夢読み」という職に就く。「影」を引き剥がされた際、「外の世界」の記憶の殆どを失った。
    * 影 : 主人公の影。「街」に入る際に「門番」によって「僕」から引き剥がされる。主人公の記憶の殆どを所持しているが、うまく使うことができない。
    * 門番 : 「街」の唯一の門を守る男。「獣」達や「影」の世話をしている。仕事がら膨大な数のナイフを所持している。
    * 大佐 : この街を守っていた元軍人。「僕」の隣人の「街」で唯一チェスに強い関心を示す。
    * 図書館の女の子 : 「図書館」の司書。「図書館」で「古い夢」を読む「僕」を補佐する。「街」の他の人々と同様、「心」を持たないが…。
    * 発電所の管理人 : 「街」で唯一の発電所を管理する。不完全な「心」を有しており、その所為で「街」には入れないが、森に追いやられることもない。
    * 獣 : 「街」に生息する一角獣。きよらかで美しい生き物。「ある理由」から冬多くの個体が死ぬ。しかし彼らは再び春に生まれると言われている。
    * 鳥 : 「壁」を飛び越え「街」と「外の世界」を自由に行き来できる唯一の存在。つまり彼らの存在が「壁」の外の世界がある事を示している

ハードボイルド・ワンダーランド

「ハードボイルド・ワンダーランド」は、近未来と思われる世界で暗号を取り扱う「計算士」として活躍する「私」が、自らに仕掛けられた「装置」の謎を捜し求める物語である。半官半民の「計算士」の組織「システム」とそれに敵対する「記号士」組織「ファクトリー」は、暗号の作成と解読の技術を交互に塀立て競争の様に争っている。「計算士」である「私」は、暗号処理の中でも最高度の「シャフリング」を使いこなせる存在であるが、その「シャフリング」システムを用いた仕事の依頼をある老博士から受けたことによって、状況は一変する。

登場人物

    * 私:「ハードボイルド・ワンダーランド」における主人公。人間の潜在意識を利用した数値変換術「シャフリング」を使用できる、限られた「計算士」の内の一人。古い映画や文学、音楽を愛好する。
    * 老博士:フリーランスの生物学者。富豪。都会の地下を流れる水脈の滝の裏に、秘密の研究所を持つ。計算士である「私」に「シャフリング」の依頼を行う。
    * 太った娘:博士の孫娘。「私」曰く、理想的な太った体型。ピンク色の衣服を好み、フレグランスはメロンの香り。博士から英才教育を受け、射撃、乗馬、株など特技は多いが、常識に疎い部分も多い。
    * リファレンス係の女の子:調べもののため「私」が訪れた図書館のリファレンス係の女の子。髪が長く、スレンダーであるが胃拡張であり、「私」曰く、「機関銃で納屋をなぎ倒すような」食欲の持ち主。夫と死別している。
    * 大男:「私」の家に訪れる謎の二人組みの内の一人。元プロレスラー。
    * ちび:「私」の家に訪れる謎の二人組みの内の一人。大男の面倒を見ている。二人は「システム」にも「ファクトリー」にも属さない第 3の勢力に属すると主人公は予測する。
    * やみくろ:地下に生き汚水を飲み、腐ったもののみを食べる生物。東京の地下にあるとされる巨大な巣に生息している。彼らについて多くは解っていないが知性や宗教の様な物がある考えられている。東京の地下鉄の発展と共に勢力を広げた。光が降りそそぐ世界に住む人間達を憎んでいるが人間たちの殆どはその存在を知らない。記号士たちと一時的に手を組んでいる。


その他

    * ボブ・ディラン:「ハードボイルド・ワンダーランド」の挿絵に彼の名前と姿のようなものが描かれている。またこの作品の重要な場面に何度かディランの歌が登場する。
    * 『ダニー・ボーイ』:両編で登場したアイルランドの民謡。本作の根底に通ずる、いわばテーマ曲。
    * 手風琴:「世界の終り」で登場した楽器。
    * 『灰羽連盟』:この作品がモチーフとなったアニメーション作品。原作者の安倍吉俊はこの作品(特に『世界の終り』の章)から非常に影響を受けたと、『Animerica』のインタビューに対し、語っている。実際に(街に入ったときに記憶を失うこと、鳥だけが越えられる意思を持つ壁に囲まれた街、森へ立ち入ることへの禁忌など。)様々な共通点が確認できる。
    * 『ブルックスブラザーズ』:私がお気に入りのブランド
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 楼主| 发表于 2010-6-20 11:57:59 | 显示全部楼层
【ご注意】長文です。おひまの時にどうぞ。

 私にとって、これまで村上春樹は「圏外」の作家だった。中東欧の旅に出るのに、途中のきれぎれの時間つぶしにと、上記の文庫本上下2冊を携行した。始めてすぐに、不思議な小説世界に惹き込まれてしまった。旅の合間合間に、じっくりと味わいながら読み続けた。謎に満ちたストーリーを追いながら、一体これは何だろうと考え続けた。

 たった一作を読んだだけだが、この作家はすごい。私がそういわなくても、もうとうにその評判は確立しているのだろうが、私は、遅ればせながら、いまはじめて村上春樹を知り、その凄さを実感したことを書いてみたい。

 もう20年近くも前(1985年)に書かれたものである。とうの昔に読まれた方は、なんでいまさら?と疑問を持たれるだろうし、これから先の、私のいささか大仰な紹介ぶりを笑われるかもしれない。まあ、そこのところは、私がハルキ・ワールド初心者であるとして、お許しいただこう。ともかく、私にとっては、なぜもっと早く手にとらなかったか、読んでいたら、私の文学世界への関わり方は、きっと変わっていただろうと思うほどなのだ。今からでも遅くない、この人のものにこれから取り組んでみよう、と思っている。

 村上春樹が世に出始めたのは、1980年頃である。そして「ノルウェイの森」で、爆発的な人気をえたのが1987年である。私にとっては、研究者として最盛期だったろうか。そこからマネージメントの世界へと転じ、深夜にただつかの間の睡眠をとりに単身赴任の宿に帰る、という多忙な生活に明け暮れた時期に重なる。「ノルウェイの森」の評判は聞こえていたが、読むひまもなかっただろうし、世の中でもてはやされているものにはそっぽを向くというあまのじゃく気質が災いして、今まで見向きもしなかった。ただの一冊も読んだことがない。

 その村上を読む気になったのは、柴田元幸の翻訳ものに導かれてのことである。私の読書欄でも、いくつか紹介しているが、最近ではポール・オースター、それ以前にポール・セロー、リチャード・パワーズなどになじんできた。アメリカの現代小説に、そのすべてとはいわないが、私にとって波長の共鳴し合う何人かの作家がいる。その作家群と翻訳者柴田元幸に注目してみたら、その世界に村上春樹がいることを知ったのである(これは、最近刊行された三浦雅士『村上春樹と柴田元幸のもう一つのアメリカ』、あるいは村上と柴田の対談集として文春新書から出ている2冊の『翻訳夜話』などのおかげである)。三浦の本のある章のタイトルのように「柴田元幸から村上春樹へ」と導かれたのである。

 そして読んだ『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に、頭をがんと殴られたような衝撃を感じた。ポール・オースターにも、リチャード・パワーズにも通じる並はずれたストーリーの構想力とメッセージの奥深さがある。いや彼ら以上に大きなスケールがあるともいえる。現代日本にこれほどの作家がいることに、それに気づかなかった蒙昧を恥じるとともに、この現在もアクティブな作家を知ったことに幸せを感じている。

 前置きが長くなった。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に向かおう。読み始めると、最初戸惑う。『ハードボイルド・ワンダーランド』と称する物語と、『世界の終わり』という別の物語が、章が変わるたびに交互に出てくる。奇数章が『ハードボイルド・ワンダーランド』、偶数章が『世界の終わり』と、40章をもって終わるまで、入れ替わりに、ふたつの物語りに付き合わされる。読み手にとってはしんどい面もあるが、そこに何か作者としての仕掛けがあるのだろうと、そのこと自体が刺激的でもある。

 『ハードボイルド・ワンダーランド』は、東京で展開される、近未来のいささかドタバタの物語である。『世界の終わり』は、空想上の閉ざされた世界の物語である。『ハードボイルド・ワンダーランド』は「私」が物語る。『世界の終わり』は「僕」が物語る。その二人がどうやら同じ人らしいと想像しながら読み進める。

 交互に語られることに、一つの謎と鍵があるのだろうが、切り離して、それぞれのストーリーを追って紹介してみよう。『ハードボイルド・ワンダーランド』は、ごく近未来とおぼしき東京が舞台である。主人公「私」は「計算士」という仕事をしている。コンピューター技術者というところだが、彼の場合、自分の脳そのものを、計算プロセスの一部として使うという、特別な計算士である。脳に手術が施されていて、「意識の核」と称される脳の一部は、ある状態に固定されていてコンピューターとして働くようになっている。この近未来世界は、管理社会が徹底されたものらしく、計算士である「私」は「組織(システム)」という権力を握った管理組織のために働き、要請があれば、脳コンピューターを使って計算をする。どうやら社会の機密情報を読み解く暗号が彼の脳に組み込まれているらしい。

 このあたりは、20年前に書かれたものと思えないほど、近未来社会の予測として当たっている面がある。「脳とコンピューター」は、科学技術の世界でのホット・トピックスだが、人工的なコンピューターは、どうしても脳に追いつかない面がある。以前紹介したことのあるリチャード・パワーズ著「ガラティア2.2」を思い出す。脳をコンピューターと何らかの手段でつないでハイブリッド・システムを作ることを考える人が出てきても不思議でない。しかし、もし人の脳をパーツとして使うということになると、そこには人間の尊厳性の問題が関わってくることだろう。個人の脳を、もの=道具として使ってもいいか、という臓器移植などを越えた問題が問われよう。

 この物語では、そのようなことを問題としない、冷たい管理社会での話らしく、二十数人が選ばれて、手術を受け、自分の脳を「組織」のために提供させられている。脳のそのような使い方に無理があったらしく、「私」以外の全員は計算に脳を使ったことがもとで死んでしまう。「私」は、計算に提供する「意識の核」と呼ばれる脳の一部が「固い」という素質があり、自分の意識との完全分離ができていて、唯一の生き残りとして珍重されている。

 この社会には「組織」と競合する「記号士」の組織、「工場(ファクトリー)」があり、機密情報を奪取しようとしている。主人公の計算士は、暗号解読の鍵をもつ人物であるゆえにねらわれている。ただそのように状況説明があるだけで、その組織との対立は表面に出ていない。むしろ第3のマイナーな組織の攻撃を受け、「私」は住居の部屋をとことん破壊され、挙げ句の果てに、下腹に傷を負う。こんなところや、そのほかにもたくさんその類のエピソードが挟まっていて、それがハードボイルドなのだろうが、ちょっと安っぽい印象がある。しかし、それが、間に挟まれることによって、もう一つの物語り『世界の終わり』の静謐な世界を浮かび上がらせる効果がある。

 『ハードボイルド・ワンダーランド』の「私」が、ある高名の科学者「老博士」から呼び出しを受けて、博士の秘めた実験室に出かけるところから、じつは話が始まっている。博士は、「組織」の中枢を担うシステムを開発した人であるが、組織の規制を嫌悪し、今は組織を離れて、秘密実験室で自分好みの研究に打ち込んでいるという設定である。青山あたりのあるビルから地下に降りる通路があり、そこには川が流れていて、「やみくろ」という正体不明の邪魔者が住んでいる。それを避けながら、地下道を辿り、老博士の実験室にたどりつく。この老博士こそ、脳を計算に使う方法を発明した人であり、「私」の脳に手術を施した張本人である。彼から秘密のデータの処理を依頼され、第1段階をその場で処理し、第2段階のシャフリングと称する操作を宿題として持ち帰る。帰りがけに老博士から、お礼にと「一角獣」の頭骨をプレゼントされる。並行して進む『世界の終わり』のほうでは、その世界が、秋がやってくると毛足の長い金色の体毛に覆われる一角獣のすむ場所であることが紹介され、ふたつの物語をつなぐものとして「一角獣」がキーワードであることが暗示される。「私」は図書館へ行き、そこで一角獣のことを調べる。そこにいた図書館の女の子が、「私」の自宅に一角獣の資料を届けてくれ、想像上の生物である一角獣について資料を読み解いてくれる。「図書館の女の子」も、ふたつの物語ともに登場し、ふたつをつなぐ鍵である。

 シャフリング操作が終わってまもなく、老博士が襲われたと助けを求める娘からの連絡が入る。娘とともに地下に入り、老博士の研究室を訪ねる。博士は隠し部屋にいて無事であったが、すべてのデータを奪われている。ここで「私」の運命が告げられる。「私」の脳に手術を施したとき、博士は、脳の利用をさらに一段階進める秘密の加工をしてあった。それを解除しないかぎり、あと数十時間で、「私」の通常の意識は失われ、「意識の核」の世界、すなわち「世界の終わり」の世界へ全面的に転移してしまう。いいかえれば、「私」の死を迎える。解除するためのデータを奪われ、今やいかんともしがたい。

 ここで、この小説のふたつの世界をつなぐ秘密が、博士の口から明かされている。「私」の意識の核には、「世界の終わり」が秘められていた、「私」は、通常の意識の死のあと、その世界へ行くしかない、というのである。

 あんたの意識が描いておるものは世界の終わりなのです。どうしてあんたがそんなものを意識の底に秘めておったのかはしらん。しかしとにかくそうなのです。あんたの意識の中では世界が終わっておる。逆にいえば、あんたの意識は世界の終わりの中に生きておるのです。その世界には今のこの世界に存在する存在しておるはずものもがあらかた欠落しております。そこには時間もなければ空間の広がりもなく生も死もなく、正確な意味での価値観や自我もありません。そこでは獣たちが人々の自我をコントロールするのです。

 さて、詳細に語りすぎたが、今度は、『世界の終わり』のほうを見てみよう。この世界は、『ハードボイルド・ワンダーランド』の主人公「私」の意識の底に潜んでいた想像上の世界ともいえるし、「私」の死後の世界ともいえる。

 『世界の終わり』は、乗り越えることのできないほど高い壁に囲まれた閉ざされた世界である。人々は心も記憶も失い、壁の外の世界のことなども考えず、自給自足の閉じた世界で、分業しながら、静かな生活を営んでいる。そこは先にも書いたように一角獣の住む世界で、この獣たちも平和におだやかに草を喰んでいる。主人公の「僕」はどこか分からない世界から、この終わりの世界へ迷い込んだ。門を入るとき、「影」を切り落とされる。「影」を切り落とされると徐々に心を失っていく。「影」は、人の心や自意識や記憶を担う部分を表しているようだ。

 この終わりの世界で、「僕」は「夢読み」という仕事に就く。図書館におびただしい数の一角獣の頭骨が収集されている。その一角獣の頭骨には、古い人々の夢が籠もっている。それに手を当てがって、それを読みとる仕事である。その仕事が完成したらどういうことになるかは語られていない。この世界に入って来た人は、影を切り取られ、影が死ぬとともに、心を失う。その心は、一角獣に担わされる。獣は、担った心の重みに耐えかねて、次々に死んでいく。一角獣の死骸から頭骨が切り取られ、それが図書館に収められているわけである。図書館とはいうものの書物はない。一角獣の頭骨だけである。ここで、表の物語り『ハードボイルド・ワンダーランド』で、博士からのプレゼントとして、一角獣の頭骨が登場したことと、この裏の物語り『世界の終わり』での一角獣の頭骨とが、何か対応しているのだなと謎をかけられる。

 「僕」と一緒に元兵営の住居に住むのが退役した大佐である。外の世界からやってきた「僕」を何くれとなく面倒を見てくれる。心の喪失について悩む「僕」に大佐は語りかける。

「君は今、心というものを失うことに怯えておるのかもしらん。私だって怯えた。それは何も恥ずかしいことではない」大佐はそこで言葉を切って、しばらく言葉を探し求めるように宙を見つめていた。「しかし心を捨てれば安らぎがやってくる。これまで君が味わったことのないほどの深い安らぎだ。そこのことだけは忘れんようにしなさい」僕は黙って肯いた。

 「僕」が夢読みをする図書館。そこには女の子一人が勤めている。この女性とほのぼのとした交流がある。それが静かな終わりの世界での唯一暖かみのある部分となっている。しかし、「僕」は、彼女と会うたびに、何か分からない喪失感にとらわれる。

 おそらくその喪失感は僕の失われた記憶とどこかで結びついているのに違いないと僕は推測した。僕の記憶が彼女の何かを求めているのに、僕自身がそれに応えることができず、そのずれが僕の心に救いがたい空白を残していくのだろう。しかしそれが今のところ僕の手には負えない問題だった。僕自身の存在はあまりにも弱く不確かなのだ。

 ここで、表の『ハードボイルド・ワンダーランド』での図書館の女の子と、裏の『世界の終わり』の図書館の女の子との対応が暗示される。

 影は「僕」の置き去りにした自意識の部分である。その影は、この終わりの世界が、人々は心を失い、獣は人の心を引き受けて死んでいく、おかしな秩序の支配している国だと主張し、この世界からの脱出を「僕」にそそのかす。脱出法を求めて「僕」は、この閉ざされた世界を探検する。しかしその一方「僕」は手風琴を手に入れ、それを奏でようとして、やっと記憶の底から「ダニー・ボーイ」のメロディーを引っぱり出す。それを聴いた図書館の女の子にも心らしきものが戻ってくる。

「僕は君に心を伝えることができると思う」と僕は言った。「時間はかかるかもしれない。でも君がそれを信じていてくれさえすれば、僕はいつか必ずそれを伝えることができる」「わかってるわ」と彼女は言った。そして手のひらをそっと僕の目に当てた。「お眠りなさい」と彼女は言った。僕は眠った。

 いくつか引用した箇所は、いかにも村上らしい表現である。

 いよいよ影と脱出行の時が訪れる。冬の大雪の日である。街を流れる川の水が、南のたまりという場所で、地面に吸い込まれていく。そこへ飛び込めば、外の世界に脱出できるはずだ、というのが影のたどりついた推理である。さあ、一緒に飛び込もうとするときに、「僕」はこの世界に留まろうと翻意する。「僕はここに残ろうと思うんだ」との僕の言葉に、影はぽかんとしてしまう。脱出が当然だと疑いもしなかったからだ。「僕」は、よくよく考えたことなんだ、ここに残るということがどういうことなのかも分かっている、と説明する。影は、なぜ変わったのだと責める。女かい?、と。それに対し、「僕」はそれもあるけれども、それだけではない。あることに気がついたからだという。それは、この世界をつくりだしたのが、僕自身だということだ、と驚くべきことを言いだす。

「僕には僕の責任があるんだ」 と僕は言った。 「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。 君には悪いと思うよ。 本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果さなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」

 影だけが、もとの世界へ戻れる希望を託して、溜まりの水の中に飛び込んでいく。「僕」は、世界の終わりに踏みとどまろうと、西の岡のかなたにある街へと、そして彼女のもとへと戻っていく。これが『世界の終わり』の物語の終わりである。

 『ハードボイルド・ワンダーランド』の最後の部分を残してあった。意識の死を予告された「私」はどうなったか。最後の一日半、それまでのドタバタが嘘のように、静かな日常の生活を淡々と送る。身近のすべてのものに愛惜の情を覚える。図書館の女の子とはじめて一夜を過ごし、朝になって、彼女と一緒に、車で日比谷公園に出かける。芝生の上に寝そべって、ビールを飲み、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャのことを思いだし、「不幸な人生を総体として祝福することは可能か」と、彼女と会話をかわす。「じゃあ、ここで別れよう。僕はしばらくここにいるよ。とても気持ちがいい」と、彼女を去らせる。図書館の彼女は、「私」が最後の時を迎えていることを知らない。

 私はこの世界から消え去りたくはなかった。目を閉じると私は自分の心の揺らぎをはっきりと感じとることができた。それは哀しみや孤独感を超えた、私自身の存在を根底から揺り動かすような深く大きなうねりだった。そのうねりはいつまでもつづいた。私はベンチの背もたれに肘をついて、そのうねりに耐えた。誰も私を助けてはくれなかった。誰にも私を救うことはできないのだ。ちょうど私が誰をも救うことができなかったのと同じように。
 私は声をあげて泣きたかったが、泣くわけにはいかなかった。涙を流すには私はもう年をとりすぎていたし、あまりに多くのことを経験しすぎていた。世界には涙を流すことのできない哀しみというのが存在するのだ。それは誰に向っても説明することができないし、たとえ説明できたとしても、誰にも理解してもらうことのできない種類のものなのだ。その哀しみはどのような形に変えることもできず、風のない夜の雪のようにただ静かに心に積もっていくだけのものなのだ。

 こんな気持ちも去来する。『ハードボイルド・ワンダーランド』で、「私」が死期を悟ってから最後までの数章は、静かで、淡々と日常的で、澄んでいて、実に気持ちのいい描写が続く。人生の終わりをそのように迎えたいと思えるほどだ。最後に彼は車で晴海埠頭へ行き、海を眺めながら、車の中で最後の時を待つ。

 さて、長々と、紹介をしてきたが、一体この小説は何なのだろう。たくさんの謎に満ちている。ふたつの世界の関係。それは外面の私と、内面の僕なのか。それとも『ハードボイルド・ワンダーランド』が終わったあとが、『世界の終わり』なのか。一角獣とその頭骨の意味するもの。『世界の終わり』は理想社会なのか、それとも全体主義的な抑圧国家なのか。あるいは、近代化される前の社会なのか。ふたつの世界が併行して語られる意味はどこにあるのか。心とは何か。死とは何か。近未来の管理社会として描かれているものを、どう考えるか。やみくろとはなにか。いろんな謎をこの物語は問いかけている。それに著者はほとんどヒントを与えていない。小説は、寓話なのだが、すぐそれと読みとれる、押しつけがましい寓意を排しているようだ。はっきりしたメッセージを与えることよりも、作家の想像力の中に浮かんだイメージを直接ぶつけるだけで、あとは読み手にゆだねようというのが、村上の手法なのだろうか。

 この小説を読み解くためには、多分彼のほかの小説も読んでみる必要があるのだろう。たった一冊読んだだけで、この人のメッセージを論じるのは難しい。しかし、ともかく、いっぱい刺激をもらい、そこに豊穣といっていい文学世界のあることを知り、さらにこの人のものを読む楽しみを予感させてくれるものだった。この作家と時代をともに生きていることが楽しくなった。
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