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スプートニクの恋人

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发表于 2010-6-20 12:03:56 | 显示全部楼层 |阅读模式
『スプートニクの恋人』(すぷーとにくのこいびと)は村上春樹の書き下ろし長編小説。1999年4月講談社より刊行され、後に講談社文庫にて文庫化された。

概要
この小説は村上自身が語るように、彼の文体の総決算として、あるいは総合的実験の場として一部機能している[1]。その結果、次回作の『海辺のカフカ』では、村上春樹としては、かなり新しい文体が登場することになった。

第11章、文中にゴシック体で出てくる「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」(文庫版、202頁)という言葉は村上の「世界認識の方法」(同頁)を表している。

あらすじ
「ぼく」の大切な友人である「すみれ」は、いささか変な女の子だった。話し方はいつも怒っているみたいだし、22歳にもなって化粧品一つ持っていなかったし、女の子らしい服もほとんど持っていなかった。それに、ジャック・ケルアックの小説に憧れて、よりワイルドでクールで過剰になろうと髪の毛をくしゃくしゃにしたり、黒縁の伊達眼鏡をかけて睨む様にものを見たりした。

ぼくは、すみれに恋をしていたけれど、自分の気持ちを伝えることが出来なかった。なぜなら、すみれ自身は恋をしたことがなかったし、恋をしたいと思ったこともなかったから。ぼくは、すみれに奇跡的に天啓的な変化が起きる事を願いながら、日々の生活をおくっていた。

ところが、すみれが22歳の春、彼女は突然恋をした。相手は17歳も年上で、しかも女性だった。ぼくが望むものか どうかはとりあえずとして、天啓はおりた。すみれの恋は生まれ、物語は始まる。未知の恋はすべてを巻き込み、破壊し、失いながら進んでゆく。

登場人物
ぼく(K)
    この物語の語り手。12 月9日生まれ。24歳。東京杉並区で生まれ、千葉の津田沼で育つ。東京都内の私立大学へ進学、歴史学を修めた後、小学校教師となる。すみれとは大学在籍中に知り合った。具体的な名前は本文中には記述されていないが、すみれの書いた文章中では「K」と記述されている。
すみれ
    11月7日生まれ。22歳。神奈川県茅ヶ崎生まれ。神奈川の公立高校卒業後、「ぼく」のいる大学へ進学するも、大学の雰囲気に失望し(後で『きゅうりのヘタ』と表現される)、二年生のときに小説家になるために自主退学。以後、両親からの28歳までという期限付きの仕送りと、アルバイトで稼いだ いくらかの収入を合わせて吉祥寺で一人暮らしをしている。ヘビースモーカーで煙草の銘柄はマルボロ。性格は「ぼく」に言わせると「救いがたいロマンチストで頑迷でシニカルで世間知らず」。「ぼく」を頼りにしていて、深夜に さまざまな相談を持ちかける電話をかけてくる。
ミュウ
    39歳。美しい女性。日本生まれの日本育ちだが、国籍は韓国籍。ピアニストを志しフランスの音楽院に留学するが、ある事件がきっかけでピアノを弾かなくなる。父親の死亡をきっかけに帰国、家業である海産物関連の貿易会社を継ぐ。現在は本業のほとんどを夫と弟にまかせ、自らはワインの輸入、音楽関係のアレンジメントに専念している。「ミュウ」は愛称で、本名は本文中には記述されていない。愛車は12気筒の濃紺のジャガー。
すみれの父
    横浜市内で歯科医院を経営。美しい鼻をもつ好男子で、横浜とその周辺に住む歯に何らかの障害を抱えた女性たちの間で、神話的な人気を持つ。
にんじん
    本名は仁村晋一。僕が担任を務める教室の一生徒。顔が細長く、髪がちぢれていることから「にんじん」とあだ名されている。大人しくて、無口。彼が物語の終盤、ある事件を引き起こす。
「ガールフレンド」
    「にんじん」の母親。僕と数回関係を持つ。夫は不動産屋経営。
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 楼主| 发表于 2010-6-20 12:04:33 | 显示全部楼层
「スプートニクの恋人」は大学のゼミのプレゼンのテーマでした。そのときのハンドアウトです。
 新作でまったく評論が出ていない段階での研究発表なので、他作品との比較という形でまとめました。
作者の紹介の部分など、自分が取り扱ったテーマに関することしかあげていないし、うわさや通説の域を出ていないものが含まれていますが、これは好きな人のことは何でも知りたい!語りたい!というファン心理で、決して作者御本人を中傷したり、他の方々の非難をするつもりではないということをご了承願いたいと思います。

文体へのラブレター「スプートニクの恋人」

1、村上春樹という作家

・家事全般、特に料理が得意。

・ジャズファン(作家になる前はジャズ喫茶経営)。外国文学に精通。私小説嫌い。マラソン(フィジカルな活動)が好きで、常に自己管理をしている。

・愛妻家(奥さんは常にファーストリーダー)

・あまり外交的ではない(山田詠美曰く、「文壇の自閉症児」)。

・関西(京都生まれ芦屋育ち)弁から脱出して標準語を話している。

・ペンネームをつけなかったことを後悔している。



2、『スプートニクの恋人』に対する巷の評判



●ダ・ヴィンチ(2000年1月号)より

99年恋愛小説部門第1位

“思いを寄せる人の失踪と青春の喪失“というストーリー展開も、村上ワールドではおなじみのスタンダードナンバー。しかし今回は、誰の思いも誰にも受け入れられないという“拒絶”と“断絶”のモチーフがリフレインされ、寂しさの重低音はいつにもまして重く響く。(中略)期待が高かったぶん、定番のストーリーには賛否両論わかれたが“わかりあえなさをわかりあう”ディスコミュニケーションの時代の絶望と希望を、暗示的に浮かび上がらせた視点の確かさは、やはり今を代表する作家のひとつの成果であり村上ワールドの新たな展開を予告しているのではないだろうか。
(傍線引用者)

→作者のコメント

僕は小説を書き始める前に、いつもその小説の独自の課題のようなものをひとつ設定するのだけれど、『スプートニクの恋人』の場合は、「比較的短めの小説の中で、自分の文体をいろんな角度から徹底的に試して検証してみよう」ということでした。そしてその結果どんな物語が浮かび上がってくるのか、それを見てみようと。『スプートニクの恋人』が「恋愛小説」なのかどうか、もうひとつよくわからないのだけど、恋愛について書かれているのはたしかなので、そういわれてみればそうなのかなと思います。                              
(傍線引用者)



3、主人公「ぼく」



 今回の『スプートニクの恋人』では、今まで村上春樹作品(長編小説)で徹底されてきた「僕」という人称代名詞が「ぼく」というひらがな表記に変わっている。



 そして一人になってから、やれやれ俺はいったい何をやっているんだろうと思ってうんざりした。こんなことをやっているべきではないんだと僕は思った。                    

(『ノルウェイの森』傍線引用者)



 ごくたまに出てくる「俺」は、主人公が(おそらく)声高に叫びだしたいくらいの、「僕」にとってはどちらかといえばネガティヴな感情の高まりがあるときに出てきて、それを読者に視覚的にアピールする。それに比べて「僕」で書かれる通常の文は、常に冷静で客観的で無感動で、まるで他人事を言っているみたいである。つまり村上作品の「僕」で語られる1人称の文章は、村上春樹が自分の分身に「僕」という名前を与えて三人称で語っている文章であるという感覚がある。



「僕」という小説の中の主人公は、僕の仮説なんですよ。ひょっとしたら、僕がそうなりえていたかもしれないもの、人生のどこかの段階で違う方向に歩んでいたら、そうなっていたかもしれない存在なんです。

(村上春樹ロングインタビュー 月間広告批評 231号 マドラ出版)



つまり、『スプートニクの恋人』の主人公は、その名前、「僕」を失っており(もしくは与えられておらず)、いままでの村上春樹の分身たちとは(おそらく)意図的に一線を引かれていると考えられる。



 それまでの「僕」は、勤勉で、読書好きで、家事好き、もしくは生活能力(自己管理能力)に富み、音楽や嗜好品(主にアルコール類)に特定のこだわりがあり、きわめて穏やかな性格であった。反面、「やれやれ」というのが口癖で、ひどく虚脱感のあるところが見受けられ、ときに感情の起伏が著しく乏しい人間である。(→春樹そっくり)



→教師?

 そもそもこの職種そのものにひいた読者も多い。

いままでの「僕」の職業といえば――――



・学生

・広告のコピーや地味な翻訳の仕事

・PR雑誌のようなものに原稿を書いている

・法律事務所(「専門的な使い走り」=事務職)をやめて失業中

・計算士、夢読み

・教科書出版社→ジャズバー経営者



 どちらかといえば人とのかかわりが少ない、オフィスワークが多い。さらに、転職、退職、休業の自由のきく環境であり、責任をあまり追及されないような職種である。特に生きがいを感じているわけではないが、不満や疑問もないので、無難に、「むしろどちらかといえば有能に」仕事をこなしてきている。



この「ぼく」は、今までの主人公達と比べて人とのかかわり方に幾分積極性があり、それを面倒くさがったり嫌悪したりはしてない。悪く言えば凡人じみた、よく言えば一般的な(大衆的な)主人公である。



4、「すみれ」という女の子



・とびっきりハンサムな父親と、「とても物覚えがよくて、字のうまい人だった」という、心臓欠陥のために31歳の若さでなくなった母親のあいだに生まれた子供。

→「すみれ」という名前

 亡くなった母親がこの名前を選んだ。彼女の好きだったモーツァルトの歌曲「すみれ」。

「すみれは自分の「すみれ」という名前を憎んでいた。」



すみれが野原に人知れず頭を垂れていた。

かわいらしいすみれだった!

そこへ若い羊飼いの娘が、足取りも軽く、心も軽く、やってきた。

野原の道を歌いながら。

すみれは思った。

ああこの世で一番きれいな花になりたいと。

ああもうすぐだ。

あのいとしい人が僕を摘んで胸にそっと押し当てるぞ!

ああ、ほんの、ああ、ほんの15分ほどでいいんだ。

少女はきたが、すみれに気づかずに近寄って、

可哀相にすみれを踏んでしまった。

すみれは倒れて死んだが、嬉しかった。

僕は死ぬけれど、でも死ぬのは、あの人の、あの人のお陰。

あの人の足もとで死ねるのだ。

(www.pluto.dti.ne.jp/%7Eosawa/mocon476.htm)



  現実的な「名前を使いながら、しかし日常世界で流通している漢字筆記を行わないことで、この小説は一応事実に基づいた物語でありながら、どこか絵空事めいた雰囲気を漂わせる。         (越川芳明 ユリイカ臨時増刊 青土社)



【例】「ワタナベ君、今起きたばかりみたいじゃない」(『ノルウェイの森』)*「渡辺君、今起きたばかりみたいじゃない」

→鼠、キキ、ユミヨシさん、五反田君、加納クレタ、加納マルタ、綿谷ノボル、岡田トオル、クミコ、シナモン、ナツメグ、アメ、ユキ、笠原メイ、間宮中尉、ハジメ、ワタナベトオル、キズキ、レイコ、イズミ 



この「すみれ」は、名前そのもののイメージや存在感が他作品と比べてあまりに大きい。名前としての機能が十分に備わっている、春樹の世界では掟破りな名前である。 



・都内の私立大学の文芸科を3年で中退し、「救いがたく退屈で凡庸な二級品」(「ぼく」を含む)の学生達のあいだから抜け出す。友達と呼べるのは「ぼく」しかいない。



・「すみれの脳味噌のスペースの大部分を常に変ることなく占有していたのは、小説家になりたいという熱い思いだけだった。」

自分の傾倒する作家(ジャック・ケルアック)の登場人物になりきるためにとんでもない格好をし、全ての時間を自分の執筆活動のために費やす。

「職業的作家になるために文字通り悪戦苦闘して」いる。



・「ひとことで言えば、彼女は救いがたいロマンチストであり、頑迷でシニカルで、よく表現して世間知らずだった。」



・「わたしには性欲というものがよく理解できないの」

恋人と呼べるような相手はいない。初恋もまだ。「ぼく」が察するに、

性的体験はないか、あるいはあったとしてもそれは文学的好奇心からさ

れたものであるのではないか。



 「日曜日の朝の、夜明け前の4時15分」に電話がなる。

「記号と象徴の違いってなあに?」



「天皇は日本国の象徴だ。しかしそれは天皇と日本国とが等価であることを意味するのではない」「つまり矢印は一方通行なんだ。天皇は日本国の象徴であるけれど、日本国は天皇の象徴ではない」   天皇⇒日本国              



「<天皇は日本国の記号である>と書いてあったとすれば、その二つは等価であるということになる。(中略)a=bであるというのは、b=aであるというのと同じなんだ」             天皇⇔日本国                       

「要するに一方通行と相互通行の違いね」



「こんなことを言うのは本当に馬鹿みたいだけど、実をいうと、わたしは恋に落ちたの」

「ぼくに、じゃないよね?」

「あなたに、じゃない」

「今日、暇はある?会って話したいんだけど」

「つまり、君がぼく以外の誰かと恋に落ちたことについて?」

「そう」「わたしが激しく恋に落ちたことについて」



5、「ミュウ」という女性

・国籍は韓国。日本で生まれ育った。

・20代の半ばに決心して学習するまで韓国語はほとんど一言も離せなかった。日本語のほかにフランス語と英語を流暢に話す。

・結婚している(夫は5歳年上の日本人)。39歳。

・ワインの輸入と、クラッシック音楽の演奏家の招聘の企画とアレンジメントを仕事をしていて、すみれをそのアシスタントとして雇う。

・見事に洗練された身なりをして、小さくて高価な装身具をさりげなく身につけ、ジャガーに乗っている。

→「おそらく彼女は、今自分が手にしているものを寸分の妥協もなく護りきろうと決意しているのだろう。」



「ここにいるわたしは本当のわたしじゃないの。今から14年前に、わたしは本当のわたしの半分になってしまったのよ。」    (傍点作者)



「わたしの側には清算すべきものなんてもう何もないのよ。清算するのは彼らであって、わたしじゃない」          (傍点引用者)



ミュウの観覧車の話 

 14年前、ミュウ25歳の夏、スイスの小さな町。遊園地があり、そこの大きな観覧車をミュウはよく自分の部屋から眺めていた。

 ある日、50歳前後の、背が高く、鼻の形が特徴的に美しく、髪が黒くまっすぐでハンサムな男、フェルディナンドと出会う。ミュウは彼に嫌悪感を抱く。彼女はある種の閉塞間を感じ始める。ちょっとしたことが気になり始める。無言電話が来る。フェルディナンドのような気がする。

出て行きたいけど、どうしてかわからないが、自分をうまくその町から引きはがすことができない。

 気晴らしに遊園地に入ろうとする。

「観覧車の中からわたしのアパートメントを眺めてみよう―――いつもとは逆に。」



「マドモワゼル、こちらにいらっしゃい。大事なことですよ。あなたの運命は大きく変わろうとしています。」

「マドモワゼル、そろそろもう終わりです」「そろそろ終わりが近づいている。これが最後の一回だ。一回まわってそれでおしまい」



6、体の陵辱を伴う喪失

 ミュウが観覧車の中から見たもの。それはあのフェルディナンドとセックスをしている自分自身の姿だった。



「わたしにわかっているのは、それがとてもおぞましいことだったということだけ。」

「彼は、そのフェルディナンドは、あっち側のわたしに対してあらゆることをした。」

「それはわたしを汚すことだけを目的として行われている意味もなく淫らな行為だった。フェルディナンドがその技巧の限りをつくして、大きな指とペニスを使って、わたしという存在を汚している。(中略)そして最後にはそれはフェルディナンドですらなくなってしまう。」「あるいはそれは最初からフェルディナンドではなかったのかもしれない」



ミュウは失われる。

「半分のわたしは、あちら側に移って行ってしまった。わたしの黒い髪と、わたしの性欲と生理と排卵と、そしておそらくは生きるための意志のようなものを持ったままね。(中略)でもね、何かか奪い去られたというのではないのよ。それはまだ向こう側にきちんと存在しているはずなの。」



「彼ら」は「純粋な悪意」をもって他人を損ねる。

レズビアンの美しい少女:

「彼女が誰かに対してどう考えても理不尽で無意味としか思えない激しい悪意を抱いていることがわかってゾッとすることもあったし、」(『ノルウェイの森』)



綿谷ノボル:

「たとえばどんなことを彼らは求めているんだろう?」

「あらゆることです」

「あらゆることというと?」

「探し物、運命、未来……なんでもです」      (『ねじまき鳥クロニクル』)



7、村上春樹の言いたかったこと、いい続けていること

 誰もが不完全な存在であり、何かを失いながら、奪われながら、一方で何かを奪いながら、傷つけながら生きている。

「どうしてみんなこれほどまでに孤独にならなければならないのだろう」

 それでも

「どれだけ深く致命的に失われていても、どれほど大事なものをこの手から簒奪されていても、あるいは外側の一枚の皮膚だけを残してまったく違った人間に変わり果ててしまっていても、僕らはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ」

でも

「君にとても会いたかった」

「わたしもあなたにとても会いたかった」

なぜ?

「すごくよくわかったの」「あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身なんだって。」

すみれは「ぼく」という自分自身に電話をかけてきたのだ。それを、「ぼく」を、もう一人の自分を取り戻すために。

「ここに迎えにきて」



「ぼくには準備ができている。ぼくはどこにでも行くことができる。」



そうだね?  村上春樹

そのとおり。 「僕」



 九五年二月に起きたことをフィクションで、全部違うキャラクターで、全部三人称で書こうと決心した。

 『スプートニクの恋人』は、僕自身の方向にというか、僕自身の文体に対する一種のラブレターみたいなものだったと言えるかもしれない。

(村上春樹ロングインタビュー 月間広告批評 231号 マドラ出版)
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 楼主| 发表于 2010-6-20 12:05:13 | 显示全部楼层
 村上春樹『スプートニクの恋人』読了。
   
 村上春樹は『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の中で、自身の作品の変遷
について、デタッチメント(関わりのなさ)・物語性の追求・コミットメント
(関わり)の3つの段階を経て来ているようだと言っている。
 つまり「個人」についての小説、「個人の物語」についての小説、「個人と
個人の関係性」についての小説と言うように変遷してきたと言うことなのだろ
う。変遷したものは、作品のテーマと言うより、多分、もっと本質的な(小説
を書く、そもそもの土台となるところの)世界観と言うことではないだろうか。
   
 『アンダーグラウンド』には、ここで言うコミットメントの「始まり」とし
ての意味があったように思うのだが、この『スプートニクの恋人』はコミット
メントへの小説としての出発を意味するのかも知れない(しかし、この問題に
関して、『国境の南、太陽の西』から始まっていたようにも思える)。
 人間の関係性と言うことについてどのように物語を展開させるのか、あるい
はこれまで書かれてきた個人としての掘り下げはどのように変化しているのか、
と言うのが読む前のさしあたっての興味となっていた。
   
 物語は若い女性、若い男性、大人の女性の3人を軸に書かれていく。語り手
は若い男性である。前半は若い女性のことを中心に語り、中盤から後半は若い
女性を喪失してしまった自身のことを語ると言うようになっていく。大人の女
性はその両者に微妙な距離を保ちつつも、若い男女はもちろん、物語そのもの
にも、深く関わっていく。
   
 『ねじまき鳥』にも失踪した妻を捜す、あるいは待つ夫の姿が描かれていた。
 それは妻の失踪と言う深い喪失を埋めるべく世界を動き回る、あるいは考え
続けるアクティブな夫としての姿だったようにも読めた。
 しかしこの『スプートニクの恋人』では失踪する若い女性について若い男性
も大人の女性も深く傷つきはするものの積極的に動こうとはしない。若い女性
の失踪を受け止め、そしてそのことを理解しようとする。
   
 『スプートニクの恋人』のスプートニクとはソ連の人工衛星のことを指して
いる。物語の中では大人の女性が若い女性の語ること、つまり、小説を書いて
いる、それで好きな作家はケルアック、と言っているのを聞き、ああそれなら
ビートニクね、と言うべきところを勘違いして、スプートニクね、と言った場
面として、このスプートニクと言う言葉が現れる。
 しかし、ソ連の衛星スプートニクとは、人類初の衛星としての一号と、犬を
乗せた、つまり初めて地球上の生物が人類の手により地球外に出された二号が
あると言うことが、この小説をまだ読む前の読者に対してと言うように、扉に
書かれているのである。
 地球を周回し続ける衛星に乗った一匹の犬。犬は無限に周回し続ける一個の
衛星の中で、やはり無限に独りで生き続けている。
 このイメージが冒頭に与えられるのである。
   
 若い女性と若い男性は平行な軌道を周回し続ける衛星であり、大人の女性も
この二人の軌道に微妙に近づきながらも決して激しくぶつかることのない軌道
を持つ衛星のようだ。
   
 『ねじまき鳥』では同じ衛星の中にいた同伴者が消えてしまう経験を書いて
いたのだとしたら、こちらは初めから不在なのである。伴走する隣の衛星とし
ての他者。しかしかけがえのないものとしての伴走者。その喪失。
   
 他者は永遠に理解出来ない。自分の目に映り自分のこころの中に構成される
他者はついに他者そのものになることはない。かと言って、この他者は自分自
身でもない。他者そのものでもなく、自分の延長でもなく、それでも自身の中
に在る他者の姿。決して交わることのない軌道を同じ方向に周回し続ける、隣
あった衛星のような関係としての他者。
 そういうイメージ。
   
 「「人はその人生のうちで一度は荒野の中に入り、健康的で、幾分は
   退屈でさえある孤絶を経験するべきだ。自分がまったくの己れ一
   人の身に依存していることを発見し、しかるのちに自らの真実の
   隠されていた力を知るのだ」
   
   「そういうのってすてきだと思わない?」と彼女はぼくに言った。
   「毎日山の頂上に立って、ぐるっと360度まわりを見まわして、
   どこの山からも黒い煙が立っていないことを確かめる。一日の仕
   事は、ただそれだけ。あとは好きなだけ本を読み、小説を書く。
   夜になると大きな毛だらけの熊が小屋のまわりをうろうろと徘徊
   する。それこそがまさにわたしの求めている人生なのよ。それに
   比べたら大学の文芸家なんてキュウリのへたみたいなものよ」
    「問題は、誰しもいつかは山から下りて来なくちゃならないこ
   とだ」とぼくは意見を述べた。」
          (村上春樹『スプートニクの恋人』8ページより引用)
   
 高い山の上で孤高を守り、そこでひたすらに自分の問題に専心する経験の重
要性をケルアックが説いているのだとしたら、若い女性はその経験への憧れを
素直に語り、若い男性は経験からの社会復帰を危惧している。
 しかし、高い山の上に元々住んでいて、そこから下に降りることが決して出
来ないのだとしたら。そういう状況を望んだり忌避したりする以前にすでにそ
ういう世界に住んでいるのだとしたら。
   
 衛星の小さい窓から見える伴走者たちを目を凝らして視ることしか出来ない
のであるならば。
   
 そして伴走者たちが深く関わろうとすればするほど軌道は接近しやがて互い
に互いを壊す事態にまで接近するしかないと言うこと。
   
 大人の女性が観覧車に閉じこめられるエピソードが語られている。衛星の中
の犬、更にケルアックの山頂の哲学者、そして観覧車に閉じこめられている女
性の姿。どれも絶望的なまでに孤独であるが、同時に完全に充足している姿で
もある。
   
 「象徴と記号の違いについて200字以内に説明する」と言う設問が唐突に
書かれる。少し放っておいた後、物語では若い女性から若い男性への質問と言
う形でそれが蒸し返される。
 象徴は一方通行であり交換は出来ないもの、記号は相互通行であり交換可能
なもの、と言うように説明される。
   
 象徴と言うのはつまりあるモノを以て他のモノを指し示すことだ。記号もま
たあるモノを以て他のモノを指し示している。けれど象徴としてのモノと記号
としてのモノは似て非なるものである。象徴としてのモノには実体があるけれ
ど、記号には実体はない。実体のあるものは互いに交換することは出来ないが、
実体のないものがからめばそれは交換が可能と言うことになる。
 作中で語られている交換の可能性と言うのはそういうことではないだろうか。
   
 ああ、頭が悪い。
   
 個人の内面をひたすらに掘っていく物語において他者は自己と交換が可能な
記号としての意味しか持てず、しかし、他者との関係の物語においては他者は
記号ではなく、実体を持った存在となる。それは衛星の中にいたはずの同伴者
が突然消えると言う記号の喪失ではなく、伴走していた衛星の軌道がずれてい
くと言うような。
   
 本当に頭が悪い。
   
 では大人の女性が観覧車の中での一夜を過ごした後に分離したことはどう解
釈するのか。彼女は観覧車の中から自分のアパートを覗くのであるが、そこに
もう一人の自分を見る。それを見たことにより彼女はこの世界に最終的に留ま
ることが出来たのだとも解釈出来るのだけれど。
 では衛星の中から、あるいは山頂から、観覧車の中から抜けだしていったも
のは一体何だったのか。あるいは残ったものは何だったのか。
   
 記号ではない私やあなたがこの世界で実体を伴って生きる方法。そういう方
法はいくらでもあるように思えるし、そうはないようにも思える。実体として
生きるのがついに孤独でありそれが辛くて仕方がないのだとしたら、やはりそ
れでも孤独な実体として生きていくしかないのだよ、と。
 でもみんなそうやって生きている。
 多分。
   
 交換不可能な還元不可能な自分や他者と言う孤独な実体。それは衛星の中に
いる一匹の犬のようでもあるし、山頂で賢いことを考える独善者のようでもあ
るし、あるいは観覧車の中で実体から抜け出てしまったものをただ眺めるしか
ないもののようでもある。
   
 言うまでもなく小説に解釈なんか存在しない。安易な解釈は小説の可能性を
殺すだけだ。では小説に対してどのような態度を取れば良いのか。書かれてい
る小説自体を読むことにより、生きれば良いのである。読んだ結果が混沌であ
るならばその混沌を生きれば良い。
 そうやって小説の中を生きることによって見えるものもあるし、また何も見
えなくても構わない。
 読書はその小説の中を生きることが一番大事なんだ。
   
 苦し紛れか。
   
 ともあれ村上春樹は『アンダーグラウンド』以降、確かに変わっているよう
に思える。元々どう変わったかを知りたくて読んだのだけれど、それはもうど
うでも良いや。ともかく変わったと言うことで十分だ。
 そして一番変わるべき自分なのだと言うことを知る。
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