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[连载]吸血鬼同人小说「何がニナを引き止める」

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发表于 2004-12-2 00:07:16 | 显示全部楼层 |阅读模式
第1部 死体泥棒

──ある墓地で何かに取り憑かれた様に墓を掘り返す男がいた。
 辺りには人影が無く、男のスコップの音と荒い息づかいしか聞こえない。
 男がふと空を見上げると真冬の夜空に明るい月が白い光を放っている。

「真逆ね──」

 男は一抹の不安と希望を込めて再び掘り始めた。
──それが、永久に続く彼の闇の生の始まりになろうとは、思いもよらなかったに違いない。

 スコップの先端が硬い物に触れ、カキンと金属音を発した。男の心臓は破裂しそうなほど速く鼓動し、その表情は酷く険しくなった。
「ニナ──」
 男はほとんど誰の耳にも聞こえないほど小さく低い声を発した。次の瞬間には手に持っていたスコップを投げ出し、膝を付いて自分の手で土を掘り返した。事のほか土は柔らかく、簡単に掘り返す事が出来た。
 凍てつく寒空の元、凍える手も止めず、一心不乱に土を掘り返す彼の脳裏をある思い出がかすめた──生涯忘れる事は出来ないであろう、辛い過去が──。

 いや、これは過去ではないのかもしれない──彼自身にも判らないのだ。
 本当なら夢であってほしい、ただそれだけははっきりと言えた──。

 不安は確信に変わっていた。希望は絶望がとって代わろうとしていた。いや、その時点ではすべてが霧の中だったといえるだろう。男の額からは先程から冷たい汗が絶え間無く流れていた。その汗が掘り返す行動から出たものではない事は確かだった。ましてや、気候のせいでも。
 この蓋を開けなければ、絶望は希望のままでいられるかもしれない。
 このまま家に帰れば、残りの人生を平和に、幸せに送る事ができるかもしれない。だがもはや、そんな考えも彼にとっては無意味だった。
 己の人生すべてを賭けて愛した者の居なくなった今では。

 月が、雲に隠れた。
 今から起こる凶事から目を背けでもしたかのように。
 男は、静かに棺の蓋に手を掛け、ふと思い出した。蓋に掛けた手を思考が拒む。

──最近、連続殺人事件が街を騒がしており、もう幾人もの犠牲者が出ている。現在の時点で、新聞には十四人と書かれていた。とてつもない勢いでみな殺られている。十五人目も、もう既に手に掛かっているのかもしれない。

 十三人目が自分の愛しい人だとは思いもよらなかった。

──発見は失踪から一ヶ月程だった。その美しいプラチナブロンドの髪も、透けるような肌も変わりなかったが、一縷の望みも空しく冷たい身体での対面となった。彼女を見た瞬間、何故か嫌な予感がよぎった。死因が不明だったというのもそうだが、首筋に見た事の無い傷痕があったからかもしれない。

 自分が今、こんな所にいるのは「予感」を確かめたいからなのか、それとも──

──それより目の前の棺に集中するか。

 元々腕力には自信がある方だったので、棺に打ち込まれた釘を取り除く作業にはさして苦労はしなかった。棺の蓋を釘で打ち付ける習慣。埋葬する地方ならば当たり前の事だが、過去に幾度も繰り返されてきた行為に対して疑念がよぎる。これは棺の中の死者に誰かが悪戯をしないように接触を断っているのか、それとも──死者が現世に戻ってくるのを妨げる為なのか。いや、どちらであろうと構うまい。
 力を込めて棺の蓋を握り締める。彼の顔からはもはや恐怖や迷いは消えていた。早く彼女に会いたい。行方知れずとなった彼女を捜し求めたこの1ヶ月間は永遠に続くのかとも思えた。思えば、ただこの瞬間をのみ待ち続けていたのかもしれない。
 ろくに食事も取れずやせ細った彼は、冷たい土の上に膝まづき、先刻から自分の手で掘り返していた為に泥にまみれており、その泥はこけた頬を覆う伸び切った髭にこびりついていた。
 辺りが暗いのでよくは判らなかったが、指先には細かい傷がついてしまったようだ。月明かりに照らして見てみると、左手の薬指がキラリと光った。
彼女との楽しかった日々が脳裏に浮かぶ。こんな形で再会する事になろうとは──
 一気に蓋を開け、中を覗き込む。そこに恋人の姿を見た刹那、我知らず両目から熱いものが流れて落ちた。眼前の姿を霞ませるそれを汚れた手で拭うと、彼の口からは叫びが、いや、他に聞いているものがあったならうめき声に思えたであろう物がこぼれた。

「ああ──」

 彼の悲痛な、しかし掠れて余りにも小さな叫びは、それでも人気の無い墓地の中では重く響いた。棺の中には横たわる恋人の姿があった。生前と何も変わっていない彼女の身体は、彼女が死んでから1週間経った今でもまったく腐敗が進んでおらず、あくまでも美しい。失踪の直前、彼女にプロポーズを告げた晩、彼に愛していると応えた姿が重なって見える。
 彼女の白く透き通る肌に優しく手を触れ、愛らしい唇にキスをしたかった。あの晩愛し合ったように彼女を抱きしめたかった。
 彼女との死別、もうそんな現実は無意味に思える。左手に自ら身に付けているものと同じ指輪の感触を確かめながら、右手を無意識の内に彼女の頬へと伸ばす。彼の記憶の中よりも、やや蒼白く見えるその頬に手が触れたと思った瞬間、彼は小さく悲鳴をあげ反射的に後方に跳びすさった。何か手応えのあるものにすがる思いで、左手の指輪をきつく握り締める。
 無意味に思えていた現実が、自分の中に大きな位置を占めていた事がまざまざと知らされる。

「ニナ──生きているのか?」

 彼女の肌は弾力にあふれ、頬は生者の如く温かみを帯びていた。温かいというよりも、氷のように冷え切った男の手にはむしろ熱く感じられた。生前手をとった時よりもはるかに──。
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 楼主| 发表于 2004-12-2 10:51:34 | 显示全部楼层
殺人事件に関しては首都から派遣されてきた警察もまったく手掛かりをつかめていなかった。警察が首都から派遣されたのはその事件が国全体を揺るがすような大きいものだった訳ではなく、村の中にははっきりした警察組織が形成されていないというだけである。
 通常、村の中で何か犯罪が起きたとしても、村人同士はお互いに十分顔と素性を知っている訳だから、その犯罪者の周りの人物が責任を持って事に当たる為、わざわざ国の法律に照らしあわせなくても村自体の掟があれば事が足りていたのだった。それに、外から村へ新参者が入って来ればどうしたって目立ってしまう。それゆえに、犯罪自体が起きにくい土壌が築き上げられていたのだ。にもかかわらず、犠牲者は一向に減らず、容疑者の特定も出来ていなかった。
 村人にとっては遺憾な事ではあったが、村内の者が犯罪に関わっている可能性が最も高かった。
 ニナ以外の犠牲者は不思議な事に皆村外れなどに住んでおり、他の村民と接触を持たないような身寄りの無い浮浪者や漂流民ばかりであったので、殺人者の目的はニナ1人で、他の者はその目的を隠す為に殺されたのだという噂もまことしやかに流れた。
 しかし、村長の考えは違っていた。すなわち、村に伝わる中世暗鼤r代の方法で解決しようというものだった。死者が蘇って生者に仇をなす、食い止める為には死者の墓を暴き、首をはね、火葬に付す。
 それを考えただけで私には耐えられなかった。美しいニナ。あと数ヶ月後であったならば、自分の家族として墓に入っただろうニナの身体を、死者を冒涜するように扱うとは。
 その夜、私が墓場に赴いたのはとりたてて計画が有った訳でもなかった。或いはそのように自分に対して口実を作り、もう一度ニナの姿を見たいだけだったのかもしれない。

──汗はいつしか乾ききっていた。ゆっくりとニナの元に戻って、もう一度頬に触れてみる。熱い。しかしこの熱さは、きっと土中の成分か何かが発酵して温度を保っているのだろう。だが、私にとってはその温かみが恋人の生きている証であるように思えて仕方がなかった。気がつくとそっと恋人の身体を抱き、かつて愛した、そして今も愛し続けている婚約者の頬に自分の顔を寄せていた。彼女の白い頬に涙が零れ落ちる。私の目からとめどなく溢れる涙が。

「──誰だ?そこにいるのは?──ルガース?貴様、ニナの!」
 突然、激昂した声が聞こえた。張りのあるバリトンには聞き覚えがある。ジョシュア。
「何をしている──!」
ニナの体を抱いたまま、わたしはゆっくりと振り向いた。ジョシュアがこちらに向けた懐中電灯の灯かりが眩しい。
「まさか──お前が殺したのか?お前が犯人だったのか──?なにか、証拠を消しに──?」
 ジョシュアはこちらを伺いながら、恐る恐る近づいてくる。
 ジョシュアの姿が近づく。
 駄目だ。
 奴の汚れた手にニナを触れさせる訳にはいかない。

 私は無意識の内に走り始めていた。手には婚約者の身体を抱いたまま。まるで花嫁をさらう悪鬼の様に。
 墓地の中を真っ直ぐに抜け、隣接する森の中へと駆け込む。長い間灯の外で目を慣らしていた私を追うジョシュアは、懐中電灯に頼るしかなく、暗闇に紛れる私を機敏に追う事が出来なかった。後ろの方で怒号が聞こえる。額には再び汗が浮かんできた。汗が体にこびりついた泥を流し、肌に白い縦縞を作るのが判る。

「──ルガース」

 どれくらい走ったのだろう。私は周りを見渡した。村の境にある広く大きな森。たとえ今いる場所がその入り口だと言っても、人が深夜に徘徊できるような場所ではない。両腕に抱いたニナに目を向けると、かすかに唇が動き、

「──ねえ、寒いわ──。それに、とてもお腹が空いたの──」

 それはニナが最初に口にした言葉だった。
 初めは聞き間違ったのかと思った。

「それに──とても──」

 目の焦点が合わない。幻聴が聞こえているのかもしれない。口が開いたように見えたのも、走っていて身体が揺れた事から起こっただけに違いない。気が付くと、足は止まっていた。そこから一歩も動ける自信はなかった。その場に崩れ落ちそうになるのを必死にこらえながら、今自分が置かれている状況を理解しようと努めた。しかし、現実は、私が対応するよりも早くその表情を変えてゆく。

「とても──何だい?ニナ」

 ピエロの泣き笑いの様な表情で、それだけ聞いてみる。しかし、それだけで自分の立場が非現実的なものに変わった事に、私は気付く余裕も無かった。
 ニナの手は母親にすがり付く嬰児の様に私の肩を抑える。もう1人で大丈夫、とでも言うかの様に。私がそっとニナを身体を地面に降ろすと、驚くべき事にニナの足は自らの力でその体を支えた。ニナは試すようにしながら立ち上がると、それまで閉じていた両目を開いて私を正面から見詰めた。ニナは生前同様、いや生前以上に澄んだ瞳をしている。私が声を掛けようとした瞬間にニナは経帷子を翻し静かに歩き出した。

「ここは危険だわ──私に付いて来て」

 遠くに複数の男の声が聞こえる。中でもひときわ大声を張り上げているのはジョシュアだ。村に戻って助けを呼んで我々を探しているのか。ニナの後ろ姿を見ながら、私たちは森の奥へと導かれていく。

 今日は月明かりが見えないだけ星が綺麗に輝く。空気中の水分が少ないせいで、星はさらさらと音をたてるように瞬いていた。
 ニナとこの森を共に歩いたのはいつだったか。ついこの間の筈なのにひどく久し振りの様な気がする。ニナの姿は水面に浮く木の葉のように自然に、そしてかなりの速度を保ちつつ進んでいく。私は見失わない様に、黙々と後を付いていった。
 村の境に大きく広がる森の中、この先には湖があったはずだ。ニナとよく来る所なのでこの辺りで迷う事はあるまい。だが、そんな不安よりもニナの足が速い事に疲れを感じ始めていた。

「そろそろ休まないか」

 その時既に緊張感と両足の疲労に耐えられなくなっており、無意識の内に後ろからニナに声を掛けていた。それほどあせらずとも、多分ここまで来たら、ジョシュア達にも簡単に知れる事はあるまい。それに、一月ぶりに見た恋人の顔を、そして声を、ゆっくり聞きたかった。

「──お腹が空いてたんだっけ。木の実だったら採れるけど──二ナが好きな実は、どれだったっけ」

 空腹だからといっていつでも木の実を食べている訳ではないが、この寒さと疲れから、木の実くらいの簡単なものが適当だろうと考えたのだ。私自身は何も口にする余裕はなかった。いや、自分が空腹であるかどうかすら判断できない。目線の上に枝がある木に近づいてゆき、振り返ってニナに声を掛ける。

「まだ──寒い?」

 かなり早足で歩いていた為、この寒い中に汗までかいていた。そのおかげで、すっかり二ナの方の寒さを忘れていた。あわてて自分の汚れた上着を脱ぎ、ニナに掛けてあげようと振り返ると、湖の傍で先を急ぐように彼方を見詰めていた二ナが、何時の間にか自分の真後ろに立っていた。いつでも間近に見ているはずの瞳は何故か鬼気を帯びた印象を与え、そのせいか思わず息をのみとっさに話す事ができない。ニナは何も言わず、静かに微笑んでいる。

「──驚いた、振り返ったらこんな美人がいるなんて」

 内心の動揺を隠すために放った冗談は、その動揺を深刻なものに変えただけでその場に冷たく漂う。

「ありがとう、ルガース。でも、わたし、木の実はいらないわ」
「木の実は、って、ここには、他に何もないけど?」

 途端、会話が途切れた。気まずいような沈黙が、重くのしかかる。ふと、ニナが顔を近づける。息も掛かりそうなほどの距離ではあったが、ニナは緊張していないのか、呼吸が荒く聞こえる事も無い。むしろ、呼吸をしてないのではないかと思える静かさだ。二ナは、キスを求めたのかと思えばさにあらず、私の肩に顔をうずめると、指先で首を撫で、耳の後ろに両手を回していた。

──何かが違う。

 そう思った瞬間、二ナの唇が首を舐め、軽く吸い付いた。そのまま、少し尖った犬歯でそっと噛む。

「うわっ」
「ああ」

 二人の声はほぼ同時だった。
 自分の声はむしろ悲鳴に近かった。予想もしなかった事だが、ニナが噛み付いた時に肉を食い破ったのだ。痛さよりも、思いもよらない突発的な行動による衝撃の方が大きかった。当の二ナは、うろたえて何か口走っている。

「同じ匂いがする──でも、この血は──飲めない──」

 何かまだどこか具合が良くないのだろうか。意識が混濁している様にも思える。考えてみれば、一ヶ月の間も土中に閉じ込められていたのだから、体に支障をきたさない方がおかしいのかもしれない。しかし、それにしてもおかしな行動が多すぎる。これが埋められていた弊害で体調が万全でないというのなら、早く元の体に戻してやらねばなるまい。

 だが、今ニナが放った言葉、気にならないといえば嘘になる。一体、どういう意味なのだろうか。血が飲めない、とは。同じ匂いとは、血に匂いが有るというのだろうか。私は父親が生まれたときから居なかった。血に特別な部分があるとしたら、半分流れているその父のものが特別だとも考えられるが、今では判るはずも無い。それに、「血を飲む」という言葉自体が異常である。ふと、幼い頃見た若い母の顔を思い出した。異常なまでに悪魔の迷信にこだわって、不浄の者達を近づけないという、真っ赤なパンを食べさせられたっけ。

──不浄の者?
 それが今ニナが跳んで離れた理由なのだろうか。いや、あれは迷信だ。たとえ実際に効力があったとしても、断じて二ナは不浄の者ではない。

 さっき噛み付かれた時には、キスした時に何か苦痛があって、思わず歯に力が氦盲郡韦趣馑激盲郡⒈镜堡献畛酩楹恧驀yみ切る事が目的で近づいたのではなかったのか?そして、自分の血を啜ろうとしたのではなかったか?
 吸血鬼だとでもいうのか。愚かな考えだ──

 可哀想なニナ。苦しそうにうずくまって震えてしまっている。早く元気にしてやりたい。そして、陽光の元で再びこの場所を二人で走ろう。そう考えながらふと夜空を見上げているとため息が出た。
──自分たちが村を離れてもう数時間が経とうとしている。
村では大騒ぎになっていることだろう。何せ墓場から遺体を奪って逃げてきたのだから。
 だが、私のニナはここにいる。
 ここに生きているではないか。
 かわいそうに、急激な状況の変化か、すっかり脅えているニナに何と言ってやればいいのか。

「ニナ──」

 ニナはゆっくりこちらを振り向いた。湖の周りにはほとんど明かりはなかったが不思議と星の光だけで事足りる。その時、ニナの目が銀色に輝いていることに気付いた。ニナの瞳は、自分や村の皆のそれとは違う深い海のブルーではなかったか。いや、これは星の光がなせる錯覚なのだろう。

 それとも、私の記憶が錯覚なのだろうか。
 木漏れ日の中を走るニナの姿も、あれも錯覚だったのかもしれない。

 とにかく、一刻も早くここを離れなくては。原因はどうあれ、古い慣習の根強く残る故郷の村では、一旦死んだ者が生き返るなどあってはならない事なのだ。

「行こうか、ニナ──」
「ええ──ルガース」

 私はすっかり冷たくなったニナの手をとって立たせ、森の奥へ再び歩き始めた。

 森を進むにつれ、木々の枝は幾重にも重なり合い、いつしか二人の唯一の道標でもある星の明かりを遮断していた。もう私にはほとんど何も見えていない。始めはニナを先導して森を走っていたが、いつしかニナに手を引かれる形で奥へと進んでいる。

「もう少し行くと、山小屋があるわ。そこで休みましょう」

 ニナの言葉にふと疑問を感じた。ニナは昔からどちらかといえば外に出たがらないほうだった。森に遊びに来た時でも、ルガースが誘う事がほとんどで、一人で森に入るなど尚更あり得ない。もちろん、昼間であっても場所としてはいくらかの危険が伴うため、それが普通なのだが。
 ニナがこんなに暗い中を平気で進む事が出来るうえに、大人でもめったに足を踏み入れないこんな山奥に山小屋がある事まで知っているとは。先刻からあまりにも不可解な事が多すぎる。そう考えると不信感は加速度的に高まってくる。

「ニナ、いったいどうしたっていうんだ。何があったっていうんだ!」

 自分の激情が抑え切れず叫んでみたが、その瞬間、自分を見詰めているニナの瞳に気づいてにわかに自己嫌悪を覚えた。しかし、それで自分の不信感が払拭できるはずもなく、闇の中唯一の道しるべだったニナの手を振り解き、そのきゃしゃな肩を力強く揺さぶった。その行動に少し戸惑いながらもニナは冷静に答えた。

「まず休めるところへ行きましょう。そこで何もかも話すわ」

 是が非でもそこへ行かなければ済まない様だ。ニナの後に付いて暫く歩くとニナは前方を指差したが目の前には暗闇しかない。私がすがるような視線を彼女に送ると、ニナは少し微笑を浮かべ私に付いてくるようにと言った。そんな事を言われなくとも付いて行くしか方法はあるまい。

 それに──とにかく全ては山小屋に付いてからなのか。

 確かに山小屋はあった。いくら暗闇といえども近づくほどにその姿は見えてくる。あれかと目を凝らして見るとかなり朽ちているようだ。今は使われていないのだろう。
 だがいったい何のために、誰がこんな所に山小屋を建てたのだろう?
 この辺りの村は狩猟だけで暮らしているわけではなく、家畜もいるし農耕もしている。山小屋を必要とするほど遠出をしなければならない村と交流があるとは思えない。

──何だか解らない事ばかりだ。

 山小屋へと近づくにつれ、疑念から解放されるだろうという期待や、純粋な好奇心といったものはなりを潜め、恐怖感が体を支配してくる。私は今一度自分に言い聞かせるように手足に力を込めて、拒否をしめす体を引っ張るようにそばに立った。

 既にニナは戸口に立っており、軋むドアを引き開けている。

 その不吉めいた音に思わず躊躇する。近づくほどに生理的な嫌悪感を全身で感じていたがドアの前に立ってその感じが更に高まった。しかしどんな事が待っていようとも入るしかないのも解っている。もはや村へは帰れまい。
 ゆくゆくは隣村に抜けてどこか離れたところでニナと暮らすのだろうが、森を一晩で歩いて抜けるのは不可能だ。今夜はここで寝るという事なのだろう。ここならばジョシュア達には見つかりにくいだろうし、私自身も知らないような所なのだから村の誰も訪ねてくる事はあるまい、理性の外から忍び寄ってくる恐怖感にそう言い聞かせながら、小屋の開いたままの扉の奥に広がる更なる暗闇に身を躍らせた。
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 楼主| 发表于 2004-12-5 20:31:58 | 显示全部楼层
村ではジョシュアを先頭に村の男たちが総出で死体泥棒を探していた。彼らの手にはライフルが握られている。いつでも発砲できるよう弾が込められ、安全装置も解除されていた。
 この地方では狩猟も生活に欠かせない食料調達の手段となっていたので、ほとんどの家が必ずといっていいほど銃を所持していた。また最近は、闇にまぎれ餓えた狼が家畜を襲いに来る事件も起こっていたので新しく銃を持つ家も珍しくはなかった。

「見つけたらルガースを殺してもかまわん!だがニナだけは必ず取り戻せ!」

 ジョシュアが怒りに震えた声で叫ぶと、その声は静かな暗い森に響き渡った。
村の男たちは一連の不審な連続殺人事件の為に苛立っていたらしくその言葉にかなり興奮した様子をみせた。
 ジョシュアは一通り村の若い肖酥甘兢蚪Kえると、村役場に近く、周りの家の高さから比べてひときわ大きな事が目立つ建物に入っていった。ほとんどの家が灯かりを消して寝静まった深夜、その建物にはまだ煌々と明かりが点っていた。
 苛だたしく机の上に猟銃を放り出し、引き出しの中から狩猟用のボウイ・ナイフを取り出して腰のベルトに取りつけようとしているジョシュアに、後ろから近寄る影が有った。
「親父──か」
「ジョシュア、一体何が気に入らんのだ」

 村長が半ば呆れたような口調で息子を非難すると、ジョシュアの顔に朱が走った。

「親父、あいつはニナの死体を盗んでいったんだぜ?」
「だからどうした。死体が一つ消えたくらい問題ではない。みなの眠りを妨げてまで取り戻す必要の有る事かと言っておるんだ!」
「親父──!?」
「村長と呼べ」

 村の中でも唯一といえるくらい近代的な建物だったが、建てられてから年数が経っているのか、石油ストーブを使わなければ凍えてしまいそうに部屋は冷えていた。あと2、3時間で夜明け、という深夜であって、季節を考えれば仕方の無い事かもしれない。

「息子よ。それよりもむしろ問題なのは村の中に殺人犯が居るという事だ。これは、村人の相互の信頼を崩す無視できないもの。一旦信頼関係が崩れたらあらゆる共同作業に支障をきたして村は衰退する。それならあの男がいなくなってくれるほうがずっと都合はいい。追放したのと同じ事なのだからな。どの道、ニナの死体は掘り返して火葬し直す予定だったのだしな」
「今時吸血鬼かよ。馬鹿馬鹿しい」
「重要なのは吸血鬼が居るか居ないかではない。村のものが信じているかいないかだよ。それに、ニナがどこぞから得体の知れん疫病を持ってきたという可能性もある。一緒に消えてくれたのは幸いだな」
「とにかく、俺はあの男を追う。見つけ出してニナを取り返す。生きている時にも横からかっさらっていったやつだ。死んだ後まで同じ事をするのは許せねえ」
「事を荒立てるんじゃない。この事が公になれば観光での収入にも影響するだろう。死体に欲情するような変態1人に関わってわしに迷惑をかけんでくれ」
「何を言っているんだ、親父!血は繋がっていなくてもあんたの娘だろう?それにやつは俺の目の前でニナを持っていったんだぞ!黙っていられるか!村の若い肖酥堡皮猡椁盲皮ⅳ文肖蜻Bれ戻して八つ裂きにしてやる!」

 ジョシュアはそう言って机の上からひったくるように猟銃を取り上げると空いた手で荒々しくドアを開け、深い闇に飛び込んでいった。

「ジョシュア、おい!──まったく、愚か者が──」

 まだ近代化されきっていない村の闇は深い。村長が明かりを消すと、周りは真の闇に包まれた。
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 楼主| 发表于 2004-12-6 17:02:25 | 显示全部楼层
森の中は暗く、それでも星が出ていたので少しは目の助けになっていたのだが、ニナが山小屋の扉を開けた瞬間、そこに真の暗闇が広がった。山小屋の中は外よりも暗い。誰も使っていないような小屋なので明かりがないのはもちろんだったが、窓すら取り付けられていないようだ。もしくは、長く使わないために閉ざされているだけなのかもしれないが。
 山小屋の中には光とともに音もない。ニナの気配は感じられず、自分の息遣いが荒く聞こえるほどだった。その静寂を破ってニナがつぶやく。

「私の事、愛してる?」

 その言葉は明るい陽光の元で何度か聞いたことがある。それに対する答はいつも決まっていた。しかし、今はその答を発する時に刹那の躊躇を要した。彼女の言葉が、それまでと違って邪悪な響きを持っているように思えたからだ。あるいは、森の中に潜む魔力がそれを感じさせたのかもしれない。私は自分を恥じ、ニナに応えた。

「ああ、愛しているよ」
「──私が何であってもずっと愛してくれる?」

 その先のニナの答は予想を反したものであった。いつもならばすぐにニナを抱きしめるはずだが、咄嗟に返答が出来ず、体はこわばって前にすすめない。ニナは答を促すかのように一歩近づいた。暗闇の中にニナの白い顔が浮かぶ。

「応えてくれないの──」

 ニナの目が銀色に光ったような気がした。私はそれを涙と思い、それが歓喜のものでないことは容易に想像できたので、次の瞬間には即座に答えていた。

「何言ってるんだ、ずっと一緒に決まっているじゃないか」
「本当に?」
「本当だとも」

 普通の恋人同志であれば、何と言うことはない、ありきたりの会話だろう。また、特別な場合であっても、陽光の元であればその言葉は祝福されたのだろう。だが、我々の場合はそのどちらでもなかった。私がその後の呙蛑盲皮い郡椤ⅳ猡σ欢瓤激à皮榇黏à郡韦坤恧Α¥长窝匀~がその分岐点だったかもしれない。いや、それでも答えは変わらなかったのか。ともかく私はただ、恋人に再会できた興奮から彼女を受け入れることしか頭にはなかった。が、ニナは私の胸に飛び込むことはせず、手を腰の辺りに下ろして言った。

「ここは今のあなたじゃ暗すぎるわね」

 ニナの顔に微笑みが浮かんだかに見えたため、特殊な状況に置かれた緊張感をなくそうと、精一杯のおどけた口調で言葉を続ける。

「本当だ。これじゃ君の綺麗な顔を見ることもできない」
「少し待ってて。ランプをもってくるわ。暖炉があるからそれを使いましょう」

 その言葉からすれば、ニナがここに来るのは初めてではないようだ。でも一体なぜ?ここは誰の家なのだ?誰に招かれて来たのか、少なくとも私の知っている人物の中には心当たりはなかった。簧巳兢幛椁欷坎课荬宋ㄒ簧胜蛴毪à皮い骏衰胜谓U帷子が部屋の奥へ消えると、再び真の暗闇が襲ってくる。漆紊螯a。眠りの冬も近く、虫の声すら聞こえない。この森の中に生命はニナと自分の2人だけのように思えていた。そんな心細さからニナの姿を奥に探すが、自分の手も見えない暗闇に動くことが出来ない。しばらく待っているうちに、外の寒さから解放されたせいか少し自分が落ち着きを取り戻していることに気づいていた。そうすると、ニナの言葉に疑問が浮かぶ。暖炉があることを知っているという事は、外からのぞいた程度ではなく、数回利用していることになり、しかも暖炉を使えるほどに家の勝手を習熟しているということだ。幼い頃、よく村外れの空家を見つけては秘密の隠れ家を気取ったものだが、今この事態はそれほど楽観的でないもののように思える。そこで、ニナの言葉が再び頭をよぎる。

「全てを話すわ──」

 私はそれを待っている。ただ彼女を信じて待つよりほか無い。死んだと思っていたが現に目の前に現れたニナ。一体彼女の身に何が起こったのか。
 疑念を遮るように鼻をつく匂いに現実へと引き戻される。これはニンニクの花の匂いだろうか。

 ニンニク──?飾るにしてはあまりにも珍しい花だが。

 部屋の奥の暗闇に光点が浮かぶ。その後に続いてニナの姿が目に入る。彼女は手に火の灯ったランプを下げていた。今まで真暗闇に慣れていた瞳孔はすっかり小さくなっており、急激な光量の変化にしばし眩惑されてしまう。

 眩しそうに顔をしかめる私の顔をニナはただ不思議そうに見詰めるばかりであった。それでも、こちらに何か異常があったのは見とめたらしく、思い出したように顔を覗きこむ。

「大丈夫?」
「ああ、急に明るくなったから──。もう大丈夫だ」

 わたしが目を徐々に開いていくと、そのわずかな光はランプの回りに光輪を描き、それがとても神々しい情景を作り出していた。実際にランプの中では火が燃えているのだが、その事実以上に温かみを感じさせるその光は、冷えきった部屋の中にあっという間に浸透してゆき、自分の凝り固まった疑念も溶かしていくかのようであった。神は愛、愛は光、そんな神の前では人間などなんと小さな存在であろうことか。神の意志の前では、自分の想像など取るに足らないものだと感じられる。ニナは今、こうして私のすぐ側にいるではないか──。

 まだ少しぼやけてはいたが、そこには以前のように微笑むニナの姿があった。思えば1ヶ月前の失踪事件以来、まともに彼女を見ることができたのはこれが初めてだ。埋葬された時のままの白い屍衣。ただでさえ細い体がよけい弱々しく見える。
少し土に汚れた教帷子から露出した肌は衣服にも勝るほど異様に白く、その細い首筋には2つの小さな赤い傷痕が見て取れた。
 その傷を見ると、ニナの死顔を見たときの事を思い出す。体中の血が失われているという恐ろしい状態だったのだが、不思議と汚れてはおらず、死顔はとても美しかった。しかし、その顔が棺の中に吸い込まれていくときの喪失感、引き裂かれるような気持ちは忘れることはできない。するとあれは自分自身の妄想ではなかったのか。あれが現実なら、目の前にいるニナはいったい──。

「こっちに来てよく顔を見せてくれ」

 ニナを引き寄せる私の手は心なしか震えていた。長時間外にいたせいで冷えきったためか、極度の緊張から解放されて体が悲鳴をあげているのか、あるいは。そんな感情を払うようにニナを抱き寄せた腕に尚更に力をこめる。そうして、彼女に生命の躍動が宿っていないことを確かめながら当惑していた。その内心を悟ったのか、ニナはゆっくりと私から上体を引き離すと、肩に手をかけて囁いた。

「向こうに行って少し暖まるといいわ」

 ニナが近くの小机に手を伸ばし、置いていたランプを持ち上げる。光がやがて部屋の中心に引き上げられてくるときに初めて、私はそこに机があるのだと気がついた。辺りに目を向けると、外から見るといかにも朽ちた廃屋という印象だったのが、それでも頻繁に誰か出入りがあるらしく最低限の手入れはされており、生活の匂いは失われていなかった。入り口にはまだ最近のものと思われる紐で吊るしたニンニクがドアノブに吊り下げられており、さっきの臭いの謎はこれと知れる。

 正面の壁には鹿やキジの剥製が飾られ、部屋の中央には丸いテーブルが置かれてあり、その上には年代物と思われる三又の蝋燭台と瓶に入った水のような液体があった。机からランプが遠ざかるにつれて明かりは移動してしまい、液体の色までは判らない。
 周りの壁にはひとつ、ふたつ…、大小混ぜると7個の十字架が掛けられ、その内の4つはキリストの磔刑像がついていた。村の年寄り連中にはまだ信心深いものがいるので、部屋の中に複数そういった聖像などを飾るのは特におかしな話ではないのだが、それでも数が多すぎる。この小屋の利用者は、何に恐れを抱いていたのか。窓が閉ざされていることからも身を守る必要を感じていたのは確かであり、そこには邪悪な存在を感じるが、その対象はまるで思い当たらない。

 もしそれが今回の一連の殺人事件に関係するとすれば、この家を良く知るニナにも関係が及ぶのではないだろうか。ランプに照らされたニナの目が銀色に光る。その微笑みは周りの聖なる物品を不釣合いなものに変えていた。

──何かが違っている。

 ともあれ、ニナに説明をしてもらわないことには何も始まらない。あとは、そう、自分の体を暖めないことには。ニナの方を振り返ると彼女は少し待ちくたびれたような表情を見せて部屋の右手へと歩き、小屋の奥に入っていった。それにつれて、再び部屋に静寂と漆伍湦Lれる。わたしは明かりを求めて、彼女の後に続いた。
 思えばこの数時間緊張と驚きの連続だった。殺されたと思ったニナが生きていたり、そのニナをさらって村を逃亡同然に出てきたり。どうかしていたのかもしれない。ニナはランプを床に置き、私の為に暖炉に火を起こしてくれている。しばらく経てばこの部屋も暖かくなるだろう。
──?

 私の為に──、どうしてそう思ったのだろう。いや、まさにそんな素振りだったのだ。冷静に見詰めなおすとニナの振る舞いは以前の記憶とまったく違っていた。どこがどう、と言われると急に自信が無くなるが、全体的にまったく別人物といった印象を受ける。

 暖炉はこれまでも使用者がいたのか短時間で火が点いた。我々は火を中心にして対称に長椅子へ座り、静かに燃える炎を見詰めながらお互いに話す機会を探していた。ニナは先程から何かを伝えると言うのだが、まだ彼女の口からは何も話されてはいない。
 だが、私の気持ちに反してニナの態度は何か重要な事があっても言えずに煩悶している様ではなく、興味の無い話について今更言う気も無いといった風であった。丁度、朝食に何を食べたか聞かれて思い出しているという程度だろうか。すると、彼女が連続殺人に直接関わっている訳ではないのかもしれない。
 どれほど沈黙が続いたのだろう、部屋が少し暖まって来たせいか、夜を徹してきた疲れからか、私は何時の間にかうとうととまどろんでいた。
                                            第一部~おわり~
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 楼主| 发表于 2004-12-15 14:33:42 | 显示全部楼层
第2部 青白い目覚め

 森の中を女が歩いている。夜とはいえ、月は煌々と輝いており、ランプの灯りがなくとも足元に不安は無い程であった。それに、女にとって歩きなれた道は、普段はさすがに一人で歩くことはしないものの、恐怖を覚えるようなものではなかった。こんな深夜ならば、誰に出会うこともあるまい、そんな考えと、先を急ぐ心が女の気持ちを軽くしていた。
 森の道も半ばにさしかかったところで、ふと妙な感覚に襲われる。後ろに何かがついてきているようだ。はっきりと足音が聞こえるわけでもないのだが、直感にも似たその感覚にとらわれたとき、通いなれた道は途端にその表情を変える。女は直ちにそこを去ろうと歩を早めた。しかし、その気配は一定の距離を置いて、正確に追ってくる。女はいつしか、前へ倒れこむように走り出していた。不意に、後ろから声をかけられる。
「ちょっと、待って下さいませんか」
 脈絡と今の状況を冷静に考えて決して気を許したわけではなかったのだが、下手に刺激するよりも安全かと、女はゆっくりと振り向いた。
「はい」
「失礼。こんな夜更けに、女性に声を掛けるなんて。しかし、ここは誰も通らない道らしくてね。困っていたのですよ」
 女が手にしていたランプをかざすと、男は言葉とは裏腹な態度で口元だけで笑った。少しヤセ型の背の高い男は、この辺りでは珍しい金色の髪を持っている。少なくとも皆がブルネットの髪を持っている女の村の者ではない。それは、女に見覚えがなかった事でも明らかだった。
 その両手は体の前にそろえられていたが、どちらにも灯りの類を持っていないところから見ると、夜でも目が見えるというのだろうか。もっとも、今日の様に月が綺麗な晩ならば、灯り無しでも外に出てみようと思うのかもしれないが。あるいは、何かのっぴきならない理由でここにいるのかもしれない。そう思えば、男の服装は森の風景に不釣合いなほど綺麗に整っており、村の富裕層とも違った気品を感じさせる。野盗にでも襲われたのだろうか。
「何をお困りなのでしょう」
 男に困った様子は少しも見られなかった。不思議に、女の顔を見詰めたまま微笑を浮かべている。第一、この状況で平然としていられる方が稀だろう。ランプ一つで森を抜ける女もそうだったが、まるで場違いな様相を呈している男の場合は尚更だ。いくら森に対する畏敬が薄れているとはいえ、危険が無い訳ではない。女にしても、それくらいの心構えはしている。
 男はその質問に答えようとはしなかった。かといって、襲いかかろうと近づく様子もない。そんな態度が余計に不気味に思えてきた女は、男の元から走り去る機会を探っていた。手にしたランプに、虫が近づいて燃える。その微かな音を合図に、身を翻そうとした瞬間、男は再び口を開いた。

「ニナ」

 突然名前を呼ばれた彼女は、背筋から冷たい汗が流れるのを感じた。得体の知れぬ恐怖感がニナを襲う。反射的に足を後方に動かそうとするが、不思議と足はその場に据えられたままだ。かといって、自身が恐怖におののいているというわけではない。全身に力が入らなくなっているのだ。しきりに危険信号を送る脳に反して、その手足はぴくりとも動かない。手足に落としていた視線を男の方に戻すと、その目が視界の中央に入ってきた。途端、意識が遠のき、足元から崩れ落ちる。

 暗転。

 目を開くと、そこは室内だった。自分はどこかで横になっているようだ。白い天井が見える。天井の端の漆喰は剥がれ落ち、その下の地肌が見えていた。まだ頭は朦朧としていたが、自分が森の中で倒れたことを思い出した。わたしと一緒にいたのは確か──。
 ゆっくりと上体を起こすと、少し眼の奥に痛みを感じた。血が足りないのだろうか。目眩がする。粗末な作りの、狭い部屋。まったく見覚えはなく、少なくとも知っている者の家ではない。左手の扉が音もなく開き、金髪の男が部屋に入って来る。そう、確かわたしが気を失ったのは、あの男の目を見て──。
 男は、ニナから距離を置いて立ち止まり、声を掛ける。
「大丈夫ですか?貴方が倒れられたので、馬車を拾って私の家までお連れしたんです」
「ここは──」
「あなたのいた森の道からは少し離れていますが、馬車を使えばそれほど時間はかかりません。貴方はあそこで何をしてらしたんですか」
 本来ならば助けてもらった礼を述べるべきなのだろうが、ニナにその気持ちが湧く事はなかった。男の話している内容はあまりにも常軌を逸し過ぎている。確かあのとき、男は困っている、と話したはずだ。この辺りは人通りが少なく、困り果てていると。もっとも、あの辺りは元々あまり村のものも通らない道であるし、なおかつ月明かりがあったとはいえあんな深夜に外を出歩く方がどうかしている。ましてや、馬車が通るはずがない。おまけに、この男は村の者ではないので、そんな彼がどうやって馬車を呼びに行けたというのか。何をしてたのか、不審なのは男の方である。
 だがその時、男の問いにニナは自分が何をしようとしていたのかを明確に思い出した。自らの婚約者に会う約束をしていたのだ。今が何時なのかは判らないが、約束の時間に大きく遅れてしまったことは確かだ。村に戻らなければ。
「あの、もう大丈夫ですので帰り道を教えてもらえませんか」
 ニナは一刻も早くこの場を去ろうと、立ち上がろうとする。しかし、立ちくらみからか体勢を崩した。
「駄目ですよ、いきなり倒れるくらいなのですから。しばらく身体を休めていくといいでしょう」
 語調は柔らかだったが、その目は聞く者に否定の意思を告げる事を許さぬかのように見据えられており、逆らうことができない。ふと、男の目が少し細まって、声のトーンが落ちる。

「ニナ」

 ああ、やっぱりこの男は私を知っている──そして再びニナは意識を失った。

 再び暗転。

 暗い。今日は月が出ていないから、足元も見えない。いや、ランプを持っているはずの自分の目も見えない。違う、これは自分が目を閉じているだけだ。私はどこにいるのだろうか。目を開けようとしても瞼が動かない。助けを呼ぼうにも、声が出てこない。首がちりちりする。何かが当たっている感触。身体中の感覚が薄れて茫洋としている中で、そこだけが熱い。不意に痛みが強まる。耐えきれないほどの痛み。痛みをやわらげようと声を出そうとしても声は出ず、両手も動かないため何かに掴まる事もできない。暗闇の中から、更なる暗闇の中へ落ちていく。しかし、上下の感覚はない。助けて、助けて──。

 ああ、ルガース!

 婚約者の顔が浮かぶ。目を開いているときには思い出せなくても、眠る瞬間にはいつも思い出すその顔。だが、自分の記憶にはいつも笑っている印象の彼の顔は、今は無表情だった。目を閉じて、血の気が無く──、ゆっくりとその眼が開かれると、そこにはた斩搐ⅳ毪肖辘坤盲俊

 暗転。

 目が開く。今までの映像は夢だったのだろうか。しかし、眼を開いても周りは暗闇につつまれており、しばらくじっとしていても一向に眼が暗闇に慣れる様子はない。耳をすましても、痛いほどの静寂がかえってくるばかりで、無音がやかましく感じられる。今自分が居るのは何処なのかと身体を起こそうとしても、身動きがとれないほど狭い空間に閉じ込められている事が判るのみだ。
 手を動かして壁面を探るが、自分の爪が掻く音だけがこだまする。ふと、遠くから、何かを打ち合わせるような音が聞こえてくる。少し湿った感じの、でも決して柔らかくない音。金属のような、明らかに固い音も混じっている。音はゆっくりと、だが確実に近づいてくる。どうやらそれは自分の前方から聞こえてくるようだ。前方と言っても、自分はどうも横にさせられているようだから、これは上方と言うべきなのか。まったく身動きがとれない状態で、音はその速度を早めない。
 ニナは、自分の意識が過去の記憶に向かっていることを感じた。今まで自分がしてきた、とるに足らない日常を反芻する。寒い。暗い。過去の記憶も、まるで誰かから映像を送られているかのように偏ったものしか思い出すことができなかった。身体とともに、思考の自由まで奪われているのだろうか。
 駄目だ。
 どうしても暖かい想い出が出てこない。

 辺りが急に真っ白になる。光?暗闇から解放されるのかしら──。

──目が開く。
 最初に眼に入ったのは森の木々の間からこぼれる月の光。続いてちくちくとした痛み。じいという低い音が頭の上の方から聞こえてくる。身体を起こして辺りを見まわすと、そこには見慣れた木々が並んでいた。それに架かる強い月明かり。枯れた小枝が散乱している道の真中に、どうやら倒れていたようだ。持っていたランプは幸いなことに倒れておらず、寝ていたすぐそばに落ちていた。火も消えてはいない。何をしていたんだろう。そう、あの金髪の男に声をかけられて、そうしてどこかの部屋に寝ていて、いや、違う、何か狭いものの中に閉じ込められて、光が──?
 何回か夢を見ていたのだろうか。夢の中で味わった奇妙な感覚は、こんな変な場所に寝転がっていたからなのか。そう考えると、急に馬鹿馬鹿しくなってきた。
 こんなところでぼうっとしている訳にはいかない。ルガースを待たせている。彼の元へ行かなくては。
 其処でどれほどそうしていたのかは知れなかったが、月があまり傾いていなかったことを考えると、気を失っていたのはほんの数分のことだったのだろう。それならば、遅れたとしてもルガースが待ってくれているはずだ。背中についた枯れ枝を払い、裾の土を落とすと、再び森の道を走り出した。月明かりとランプのおかげで、ほぼ疾走に近い速度で進むことができる。
 森の道は真っ直ぐに続く単調な一本道で、灯りの続く限りずっと前方が見渡せる。すると、道の中程になにやらげ激欷踏幛浦盲い皮ⅳ毪韦姢à俊eに気になる程のものではなかったのだが、道を通る際に明らかに邪魔なほど大きな障害であったので、半ば苛立ち混じりに通りざま振り返って布に目を凝らす。
 奇妙な大きさの布きれからは、白い何かが飛び出している。それが何かと考えるより先に、彼女は理解した。それは人間の手であった。
 途端に、目の前のボロが異物に変わる。変な格好にねじくれてはいたが、それは紛れもなく人間の身体であった。ニナは自分の肌が粟立つのを感じたが、それを残して立ち去ることが余計に恐怖感を募らせるような気がして、ランプをかざしながらおそるおそる頭の部分を覆っている布を捲って見る。それは確かに人間であった。目は輝きを失っており、一目で生命を停止していると理解できる。自分では冷静に状況を把握したつもりだったが、その口からはほとんど音にならぬような押し殺した悲鳴が漏れた。
 死顔はまだ原型を留めており、顔の形からそれが誰か判る気がした。その顔には見覚えがある。確か、村の外れに住んでる──いや、住んでいた──。
「ニナ、お目覚めかい」
「きゃあっ」
 唐突に背後から声を掛けられ、悲鳴をあげながら飛びすさる。声の聞こえた方向に目をやると、慌てて取り落としたランプに照らされて男の姿が浮かび上がる。金髪碧眼の男は、腰を抜かした格好のニナを無表情に見下ろしている。思わず口に手を当て、叫びそうになるのをこらえた。夢に出てきたのと同じ男に違いない。するとあれは、夢ではなかったのか?
 首筋がちりちりと痛む。突いたり切ったりといった単純な痛みではなく、そこに熱いものを押し当てられたような痛さ。思わず首を押さえるが、そこには何もない。男の見下ろす視線が気にかかる。ニナは急に喉の渇きを覚えた。今や首の熱さは身体全体に回ってきたようで、熱いものがこみあげてきており、しきりに喉が乾く。まるで熱病に浮かされているかのようであった。
「どうしたのかな?」
 男が少し首を傾げてこちらを見詰める。ブロンドの髪がさらりと音を立てたように額にかかり、初めて崩した表情は、体裁としては心配を表しているが、内心楽しんでいるかのように不諏gなものであった。冷たい汗を感じながら上目遣いににらみつけるニナの視線を眠そうな表情で応え、その実は全ての状況を見透かしているかに見える。ニナは奥歯を噛締めながら、必死に身体の不調に耐えていた。
「い──いえ、私はもう帰らないと」
 悲鳴を上げて走り出すほど分別のない女だと自分でも思わなかったが、身体全体が恐怖に震えており、逃げ出そうとしても首筋がちりちりして、身体の自由を奪うかのようにニナをそこに引き止めている。
 男の催眠術にでもかかったのだろうか?
 目の前のブロンドの男は口の前に指を当てて微笑を浮かべた。嫌な笑いだ。
「実は、君には少し付き合って欲しくってね、ちょっとした魔法をかけたんだ」
 男の目に生理的嫌悪感を催すような表情が浮かぶ。あれは、絶対的に力の劣る獲物を前に、獣がいたぶって遊ぶときの目だ。侮蔑と優越感。段々と話し方ももってまわった言い方になっており、極めて聞き苦しい。魔法?自分が御伽噺の王子様にでもなったつもりなのかしら。ニナは心の中で急速に反感を覚え、悪態をついていた。
 ともあれ、自分が何か妖しい術にかかったのは確かなようで、逃げようと身体を動かす度に首が痛み、行動を拒否する。
「なに、命に別状はないさ。今のところはね」
 男はこちらに目線を合わせたまま器用に後ろを振り向き、後ろ手に手招きする。ついて来い、という事か。転がっていたランプを手に取り、服の土を払って男を追いかける。どうやら彼の指示に従う行動には抑制はかからないようだ。ニナの視界の先には男の後姿が小さく見える。先に立って歩く男は優雅な立ち振る舞いで足を撙证ⅳ饯芜M行は速く、ついていくのがやっとだというのに男の方には一向に疲れる様子がない。森を抜け、湖を横切る頃にはニナはへとへとになっていた。先に意識を失った事もあってか、体調は完全ではないようで、また気が遠くなりかけて足元の力が抜ける。
 ふっ、とその場に崩れる瞬間、ブロンドの男が体を支えた。男の香料だろうか、何かの匂いがする。その匂いを嗅いで、何故だかまず先に思い出したのは母の顔だった。いや、でも母とは違う、もっと昔に出会った女性のつけていた香水だったのか──。

 何かとても昔に嗅いだ事の有るような匂い。

 再び暗転。しかし今度は閉所に閉じ込められる映像も見なかった。
 瞼に明かりを感じ、ゆっくりと目を開けると黄ばんだ天井が目に入る。ここはどうやら薄汚れた小屋か何かのようで、薄い明かりに気付きスプリングの固いベッドから身を起こして辺りを見まわすと、私の持ってきたランプが傍らに置いてある。また夢かと思ったのだが、今度はどうやらそう簡単にはいかないようだ。ランプの明かり以外にも、部屋に光源があることに気付く。部屋の左隅には机が備えつけてあり、その上に三叉に分かれた燭台があって蝋燭に火が灯っている。燭台の向こうで何やら動く影は、男が書き物をしているようだ。

 しばらく見ていると、男がペンをインク壷に持っていくのが判る。今時、インクをつけるタイプのペンで物を書くなんて。男は私が目を覚ましたのに気付くと、ゆっくりこちらを向いた。男の鼻の上には金縁の眼鏡がかけられている。眼鏡を外すと、その手に弄びながら椅子の向きをニナの方に変えた。
「最近は便利な物があるね。僕は生まれつき視力が弱かったんだ。生き物以外を見る時はとても助かる」
 ニナには何をいっているのかさっぱり理解できない。先ほどからの行動を見ていれば、とても正気とは思えないが、かといって「今のところ」男には危害を加える気は無さそうだ。ただ、いつ逆上するかしれないが。
「済まなかったね。君の体力を超えた邉婴颏丹护皮筏蓼盲啤¥长长蟽Wの家だ。かりそめの住まい。なかなかいい所だろう」
 御世辞にも良い所とはいえない。暗いので良くは見えないが、張り詰められた床板も程度のよいものではなく、部屋の中は窓が締め切られているのか、少し湿っぽくて饐えた匂いがする。こんな廃屋の様な小屋、まるで漂流民も嫌うような──。

──まさか、まさかさっき私の目の前に倒れていた人の家なのでは──。
 ニナの目は咄嗟に見開かれ警戒の色が走るが、男はそれに気付かなかったのか、それとも敢えて無視したのか、それまでと変わらぬ口調で続けた。
「ニナ、君には話さなければいけない事が沢山有る。君が帰るのは僕の話が終わった後。いや、君が帰るかどうか選択する、といった方がいいのか。どっちにしろ、夜明けまでには終わるよ。安心して」
 男の目は先程の夜道でニナを見つけたときのものとは違って、どこか優しげな愁いを帯びていたのだが、彼女にはそれを汲み取るだけの余裕はなかった。むしろ、それに気付いたところで彼女は男の狂気の為せる技と解釈していたであろう。

 ああ、何と私の不撙适陇坤恧Γ·长螭士駳荬韦趣辘长趣胜毪趣希
 ニナは己の身に降りかかった不幸と、加えて自分の愚かさを嘆いていた。あんな時間にあんな道を通りさえしなければ。いや、もう少し早く家を出ていればルガースとの待ち合わせの時間を気にして焦る事は無かったのだ。ルガース、せめて貴方がここにいれば、もう少し気分が楽になれるかもしれないのに──。
 男はいつの間にか眼鏡をどこかにしまい、こちらに向き直って口元だけで笑いかけていた。努めて笑顔を作ろうとしているのかもしれないが、その目はこちらの挙動を見逃すまいとまっすぐに注がれているので、場を和ませようという試みは見事に失敗に終わっていた。それが相手に簡単に悟られてしまうということは、あるいはとてつもなく人付き合いが下手なのかもしれない。じじ、という音と共に蝋燭が揺らめく。ふと、男のつけている香水か何かだろうか。懐かしいような芳香がニナの鼻をくすぐる。抱きとめられたときにも感じていた記憶の中のほころびが、再び蘇ってくるような感覚をニナは味わっていた。部屋の中の明かりは蝋燭とランプのみで、その炎の揺らめきが、男の視線を魅惑的なものに変え、それ自体が独立して生命を持って、今にも外に出てくるような錯覚を与えた。

「さっきは驚かせてすまなかった。僕自身には君に危害を加えるつもりはない。だが、人間には不幸と言うものがある。君の母親のように、受け入れるものの選択次第で自らの呙蚱茰绀藢Г妊预Δ长趣猡ⅳ搿¥饯欷涎预Qえれば、自滅を望んでいたと言う事になるかもしれないし、僕はそれをまったく無意味だと考えているが、人間とは得てしてそういう道を選ぶものなのだよ」
 男は静かに立ちあがり、し櫀槫畏饯藲iいていく。窓にはガラスがはめ込まれているが、外から雨戸なのか、何か板状のものをあてがってあるらしく、外の風景は見えない。男は窓枠の下の部分を指でなぞっていた。見ようにとっては埃を弄ぶようにも見えないこともないが、男にはその意思はないのだろう。何か遠い記憶に想いを馳せているような態度を示していた。
「母親?」
「覚えて──いないのだろうな。おまえは幼すぎた──」
 ニナは声を高め、閉じられた窓枠を見入っている男の横顔に問い掛ける。
「一体何を言っているの」
「時間もない。単刀直入に言おう。おまえは私の娘だ。実の母親は、僕の妻は、もうこの世にはいない」
「な──、私の両親はまだ生きているわ。父と、母と、兄と──」
「村長一家はおまえと血の繋がりを持ってはいない。信じられないという顔だな?それじゃあ聞くが、おまえは小さい頃の記憶を何か持っているか?おまえがこの村にいたという証があるか?」
 男が詰問口調に変化したこともあるが、それよりも先にニナにはその問いに即答することが出来なかった。元々ニナ自身もそれには疑問を持ったことがあり、幼い頃は何度か両親に聞いていたようだ。第一、村の皆の髪の色がブルネットであり、ニナのそれは純粋なプラチナブロンドであることからも子供たちから遠慮の無い揶揄を受けていた。そうして家に泣き帰る度、両親にそれを尋ねた。父親は黙って口を閉ざすばかりだったが、母親は顔色を失ってニナを抱きしめながら、ニナを実の娘だと繰り返すのだった。両手でニナの肩を抱きしめるさまは、ニナの恐怖を払うためと言うよりも、母親自身が何者かからの怯えを逃れるために、ニナに縋り付いていたかのようであった。母親の目に涙が光るのを見たとき、ニナは子供心にもうこの話は口にすまいと決めた。血が繋がっていなくとも、優しくしてくれる両親を苦しめることを望まなかったからである。いずれ時が来れば真相を聞けるかと思っていたが、母はその後心臓を悪くして床に伏せることが多くなり、はっきりと聞けないまま今に至っていた。幼い頃とは違い、同年代の者ももはやニナの出生を話題にはしない。

何故それをこの男が──。

ニナは、苛立ちを覚えていた。男のもってまわった語り口調も気に入らなかったのだが、何より初対面の男のたった一言で動揺している自分に憤りを感じていた。内面だけの変化ではなく、とっさに言葉を失う程の動揺を示す事は、今まで育ててくれた家族への裏切りの行為にも思えたのだ。
「そんな事は──どうでもいいわ」
 その言葉には嘘が含まれていた。自分の長年の疑念を晴らしたい、ニナが内心そう思っていたのは確かだったからだ。しかし、それを知ってしまったら、元の幸せな家族に戻ることはできないかもしれない、そんな不安がニナに虚飾の科白を作らせた。
「大体、そんなに小さい時の記憶を鮮明に覚えていなくたって別に不思議なことじゃないわ。それが貴方と私の血が繋がっているという証拠にはならないわよ」
「それでは、順を追って話していく事にしよう。長い話だ。口を挟まずに、最後まで聞いてくれるね?」
 男は再び椅子に背をもたせかけた。そうしていると、いかにもそのタイプの椅子に座りなれているような仕草だった。時代がかっているが、不自然なところは無い。ただ、何処かに獣じみたしなやかさが動作に付きまとっており、それがぎこちない印象を与える。男はニナの返事を待っており、ニナは黙って頷く事でこれに応えると、男は満足げに口の端をわずかに上向けた。
「ニナ、目を瞑ってごらん。これから僕はおまえの思考に直接話しかける。何も不思議に考える必要はない。人は誰もこうした潜在的な力を持っているのだ。いや、人はそういった能力に拒否反応を示しているというべきか。僕はそれに気が付いた。ただそれを解放しただけなのだ。太古の昔、人となるべき存在が持っていた、地上に生きる獣の眷族としての証。人はそれに目を背け、自らが最も優れていると言う根拠の無い傲慢の衣を着ているに過ぎない。とにかく、我々は最も単純にお互いを理解する方法を持っている。特に血の繋がりがあれば、無意識の中の深い部分まで共有することが出来るのだ。恐れる必要はない。困難な事もない。おまえはただ、目を瞑って私の思考に耳を傾けているだけでいいんだ。」
 男に対する疑いを隠せないまま、それでも自身の中の好奇心に勝てないニナは、ゆっくりと瞑目し、耳をすました。ランプの芯が燃えて音を立てる。ニナは何か言葉が掛けられるとも思っていなかったのだが、目を閉じている以上耳からの情報に頼らざるを得ず、丁度街の劇場での公演が始まる前のように静寂に意識を集中していった。
 突然、周りの景色が変化する。
 村?いや、ニナの住んでいる村ではない。むしろもっと牧歌的なものだ。いや、それより前に今は深夜だったはず。どうして日光が感じられるのか──?
「ここがおまえの生まれた村だ」
 ブロンドの男の声が低く響く。声のする方向は前方のようだが、男の姿は見えない。ニナが驚いて目を開くと、目の前に先程ニナが目を閉じる直前の光景が戻ってきた。薄暗い部屋の中に男が座っている。男の声は続くが、目の前の男の唇は動いておらず、直接頭の中に響き渡る。
「──そして、おまえの母親、僕の愛した女性の生まれ故郷でもある」
 男は再び瞑目した。瞼の裏に浮かぶ光景を必死に留めているかの素振りで。
「おまえの母親がこの村を選んだのは、あるいは──故郷の村に似ていたからかもしれないな」
 男の言葉は、先程までと違い小さく聴き取れないものだった。言葉が発せられる時、今度は彼の唇が動くのを見たが、果たしてその言葉は誰に向けられたものだったか。それきり、男はしばらくうつむいて黙りこくってしまい、目の前のニナの事を忘れてしまったかのようだ。余りにもそれが静かであったので、ニナは男が眠りについたのかと思った。男の息遣いが極めて静かだったことに気付いたら、死んだと勘違いしても不思議ではなかったろう。だが、ニナは懸念に気を取られ、男の次の言葉を待つのに集中することができない。男の非現実的な物言いに、若干の疲れを感じたニナは、いつのまにか恋人との約束を思い出していた。
 ルガースは2,3時間したらまた来てくれ、といっていたが、部屋には時計も無く、ニナ自身も慌てていたせいか家に腕時計を忘れてきてしまっていたので、まったく時間がわからない。とにかく、かなり夜が更けており、約束の時間はとうに過ぎているだろう事は確実だった。それまで恐怖と身の危険から忘れていたのだが、さしあたっての安全が保証されてくると、途端に恋人の事に思考が傾いていた事に気づき、ニナは内心苦笑していた。しかし、ルガースと出会って過ごした時間はとても素晴らしく、彼女の人生の中でまったく経験していなかった刺激であった。
 それに加えて今日は、特別な日でもあった。ルガースから結婚の約束を持ち出されていたからだ。もうニナにとっては他の相手を探すことなど考えることもできなくなってきていたので、即座にイエスの返事をしたのだったが、ルガースは何か形になるもので証を残したいと話していた。もう一度訪ねてくれ、ということは何かプレゼントを用意しているのだろうか。それにしても、そんな手際の悪いところも、なんだか彼の人柄の良さと純朴さを表しているようで、それを思うと自然と笑みがこぼれてしまう。そんなものなんて無くても、私の気持ちは変わることはないのに──、ただ今は、それが伝えられないのが悔しかった。
「他の事は考えなくて良い。ルガースという人物の事も」
「えっ、あ、ハイ」
 男の困ったような物言いに、つい学校の先生に怒られたような錯覚をしてしまう。どうやら冗談やペテンの類ではなく、本当にニナの考えを読んでしまっているようだ。もっとも、誰が見てもニナが他の事を考えていることだけはわかったかもしれないが。
 別に怒られたからというわけでもないが、従っているうちはこちらに危険はないようだし、興味を抱いたのも確かだった。ニナは素直に応じることにし、目を閉じると再び風景が目の裏に広がる。牧歌的な村が見え、その映像は生々しく、まるで草原の匂いが感じられるかのようだ。
 視界の中央に小さな小屋が見える。牧歌的な風景の中でもそこは特に周りに人家もなく寂しげなところで、人影も見当たらない。村の外れの空家、といったところだろうか。小屋の窓から中が覗ける。中には、1組の男女が寄り添っているのが見られるが、ここに住んでいる様子ではない。村人の目を盗んでの逢引といったところかもしれない。ニナは心の中でそんな古臭い表現を思いついたことに顔に血が上る気がした。そんな気持ちになったのも、2人の様子は何か古めかしく、逢引といった古典演劇のような言葉がふさわしいと思えたからだ。特別な動きをするわけではないのだが、その素振りから、2人が深くお互いを愛しているだろう事は見て取れた。男の方には見覚えがある、というよりも先程まで自分の目の前にすわっていたブロンドの男だ。しかし彼の様子が今とまったく変わっていないところを見ると、最近の映像なのだろうか。いや、この場合は最近の記憶と言った方がふさわしいのか。

 一緒にいる女性は、やや年上に見えるが、それでも若々しく美しい。髪の色は灰色に近い白銀で、それが年齢を高く思わせるが、彼女が元から持っていたであろう気品をさらに引き出すことに成功していた。2人ともが上品な感じの若者なので、場所を考えなければ恋愛小説に出てくるような貴族の恋の場面ともとれる。2人はしばらくテーブルをはさんで談笑していたが、女性が何かそっとささやいたのをきっかけに男は椅子を彼女の隣に近づけた。男は少し驚いた風だったが、その表情はすぐに喜びのそれに変わっていた。彼は女性の肩に手をまわし、愛しそうに髪を撫でた。視点がさらに近寄る。2人の表情の変化まで、微妙な部分もさらに識別することができるようになった。それに、会話の一部も聞こえてくる。

「子供か」
「ええ、そう──出来たみたいなの」
「そうか──やっと私達にも、子供が──」

 二人とも満面の笑みを浮かべている。気のせいか、男の顔に一瞬不安の翳りがよぎる。これは、子供を持つという事が決まった男性特有のものなのだろうか。それとも、何か特殊な事情でも──ニナは自分がこれからこの男女に起こるであろう出来事について、不吉な予想をしていることに気付き、慌てて打ち消した。そんな悲しいことはあってはならない。あの女性の喜びを見たならば。
 あの女の人、どこかで見たことがある気がする──。
 いや、知っている誰かに似ているのかもしれない。いったい誰だろう──。
 急に視点が遠のいていく。女性は少し自分のお腹を触りながら、幸せをかみしめている。視点が遠のくとともに、こちらとは逆の方向を向いていた男の表情は隠れてしまって見えなくなっていた。

ホワイトアウト。

 急激に辺りが閃光に包まれてゆき、2人の輪郭だけを残して何もかもが見えなくなっていく。
 徐々に光が弱まり視力が戻ってくると、辺りが再び識別できるようになってくる。
 場所はさっきと同じ部屋。窓から差し込む光線の具合から、先程とは時間帯が異なっているように思われる。最も違うところは、部屋の中にいる人数の構成か。女性の姿は見られず、ブロンドの男が1人、椅子に腰掛けている。その表情は先程の幸せそうなものとはまったく異なり、苦痛に歪んでいる。それはあるいは心の動きから来るものかもしれなかった。喉の奥から苦しげな声が漏れ出す。それは文章としてはなりたっておらず、もちろん他に部屋の中に誰もいないのだから誰かに聞かせることを目的として放たれた言葉でないことは確かだ。
「いけない──リーテル──子供は──だが私は──」
美しいともいえる男の顔は今や歪みきっていた。苦しさに口元からはややとがった犬歯もあらわに嘔吐の格好を示している。
「このまま生まれてしまうなら──私は──」
「ああ──リーテルを──」
 途切れ途切れに聞こえる言葉の断片から推測するに、リーテルというのが先程の女性の名であるようだ。
 悲しみ、苦しみ──、そのすべてが凝縮されたとき、人は泣くこともできないのか。しかし私の目には、その男が血の涙を流しているかのように見えた。その命を削って体中で遺憾さを表現しているとでもいうかのように。
「私にはできない──だが、やらねば──」
 男は立ち上がる。しかし、その顔に浮かんだのは歓喜の表情ではなかったか。その目は空ろで、一瞬その中に狂気が浮かんだともとれたが、それは男が避けられ得ぬ呙蜃苑证槭苤Zしたということだったのだろうか。

 再び目を覆う白。

 視界が戻ると、場面は同じ小屋の中。だが、部屋は先刻とは変えているようで、今度は食事をする為の場所のようだ。部屋の中央には大きめの木製のテーブルが据えられており、食事を終えたばかりなのだろうか、薄い明かりの中に座る男女の間には平和な空気が流れていた。雰囲気から察するに、この家には彼ら2人のみが住んでいるのだろう、誰にも邪魔されることのない空間は、逆にその平和を危ういバランスに保っている印象を与える。先に2人が現れた時から時間の経過が大きくなされているようで、灰色の髪の女性、リーテルの腹部は目立って大きく膨らんでいた。リーテルはゆっくりと自らの腹の辺りを撫でている。中に育った命の姿を明確にイメージしているのか、その触れ方自体にメッセージを込めているように見える。ブロンドの男は優しい眼差しを投げかけ、リーテルの座る椅子の後ろに歩み寄る。
「どうしたの、クディック」
 クディックと呼ばれた男は、背後から腕を回し、リーテルをそっと抱きしめた。優しく、あくまでも優しく。壊れやすいガラス細工を扱うように、そっと。
 クディックはリーテルの肩から腹部を覗き込むように顔を寄せた。自然と、頬が触れ合う。お互いの温かみを実感しつつ、クディックは愛しそうに目を伏せた。再び開かれた目の中には、寂寥とした枯野を思わせる寒さが見え隠れする。クディックはリーテルの首に唇で触れた。途端、リーテルの体を覆っていた生気が抜け、リーテルは糸の切れたあやつり人形のように力を失い、椅子から自重で床に崩れ落ちた。木の床は音を吸収してことり、と一つ音を立てたまま部屋中の物音を奪った。
 クディックは彼女を抱きかかえベッドに撙印ⅳ饯盲惹蓼护俊1摔弦巫婴虺证盲匹佶氓嗓伟椁俗辍ⅴ戛`テルの手をとって静かに見守っている。安らかに寝息を立てていたリーテルは急に痙攣を起こしたかと思うと、苦しそうにうなされ始めた。クディックはそれを予想していたのか、リーテルの手を先が白くなるほど強く握り締めている。リーテルの苦しげな声は段々と明らかなものに変わっている。その額には苦悶の度合いを示すように汗を浮かべていた。子供の生まれるときの苦しみとは少し違うようだ。何か、悪い病気にでもかかっているのだろうか──。

 また一瞬の白い閃光。しかし、先ほどと場面と視点が変わっていない事と、窓にカーテンがかけられて外からの光源が遮られていることからさほど時間が経った印象が感じられないが、それでもリーテルの表情にはやつれた疲労のあとが見られるので、しばらく日数が重ねられているのだろう。

 土気色のリーテルは瞼を震わせながら目を覚ました。
 傍らに座るクディックはずっと眠ってもいなかったのか、先に目にしたときとまったく変わらぬ姿勢でリーテルの手を握っていたが、リーテルが目を覚ましたことに気付くと、その手を引き寄せ、明らかに喜びを表現した。
「身体は、大丈夫かい」
「ええ──気分はいいわ」
「何か欲しい物はあるかい」
「──いえ、今のところは平気よ」
 クディックは細い眉をわずかにひそめ、リーテルの顔を覗きこんで言った。
「──大切な話しがあるんだ」
「ええ」
「君を驚かせてしまうかもしれない」
「ええ」
「また、体調を悪くさせてしまうかもしれない」
「──私なら大丈夫。話して」
「うん──」
 リーテルは優しい目でクディックをみつめていたが、それでもクディックは次の言葉を言い淀んでいるらしく、しばらく握ったリーテルの手をもみほぐしていた。
「私は、私はね、リーテル、私はヴァンパイアなんだ」
「ヴァン──何」
「ヴァンパイア、吸血鬼だ。人の血を吸う悪鬼なんだ」

──。

「私は人間と変わらぬ心を持っている。いや、持っていると信じている。元々、大して違いはないのだが──」
「普通の人ではない、というのは薄々気付いていたけれど──」
「厳密に言うと人とは少し違うのかもしれない。だが、感じ方、考え方は人とまったく変わらないんだ。もちろん、根本からまったく異なる同族もいるが──とにかく、私の心には問題が生じた。それは、君を愛してしまったことだ」
「ああ──クディック──」
「我々ヴァンパイアが人間と結ばれることは禁止されている。理由は、もしもヴァンパイアと人間の間に子供が生まれた場合、その子は伝説的な吸血鬼殺しとなり得るからだ。昔より、吸血鬼をもっとも良く殺すのはその子であると言われて来た。こんな村外れに隠れて住んでいるのも、君のご両親に反対された事だけが理由ではないんだよ」
「──なんてこと──」
「吸血鬼殺しになり得るのは男子だけなのだが──ところでリーテル、ヴァンパイアに噛まれた人間は一旦死を迎え、ヴァンパイアの同族となって復活するというのは知っているかい」
「ええ──小さい頃、親に聞いた事があるわ──まさか、クディック、わたしを──」
 クディックは沈黙で応える。リーテルは目を見張り、すべてを悟ったかのようにつぶやいた。
「ああ、それならこの子は吸血鬼同士の間に生まれた子供と言うことになるのね──」
「その通りだ。私のようにヴァンパイアの血族に入ってまだ年数の浅い若者が人間と結ばれることはまったく許されない。ヴァンパイアの血族の長に子供を作らない、という条件で、同族から命を狙われる事態だけは避けることはできたのだが、私には約束を守ることができなかった。私が禁を破った報いを受けるのは仕方のない事だが、君や子供にまで危険が及ぶのは耐えられない──」
「クディック──そんな事は言わないで──」
「しかしこれは君の人としての命を奪うこと。どうしても言うことができなかった。それによって君の心を失うのが恐ろしかったんだ。でも、誓って言う。私は君を愛している。君を愛しているからこそ、こういう決断を下したのだ。許してくれ、リーテル」
「判っています──私も──あなたを──」
 リーテルの次の言葉は聞き取れず、唇が力なく動くのが確認されたのみだった。しかし、クディックには充分通じたようで彼は満足げな笑みを浮かべた。
再び視点が遠ざかる。今ではもはや当然とも思えるように視界が白くぼやけていく──

 視界が晴れていく。
 先のベッドが目に入る。かろうじて最低限度の清潔さは保っているが、みすぼらしさは隠せない。リーテルがその上に横たわり、苦しそうに喘いでいる。これはニナも何度か目にしたことがある、陣痛の苦しみだ。しかし部屋にはそれを看取る者も無く、彼女の心細さを紛らわす物は見当たらない。リーテルは憔悴しきっており、血の色も失せ、蒼白というよりも純粋な紙の白さにまで近くなっていた。リーテルの喘ぎが叫びに変わった刹那、クディックがドアを乱暴に開け中に飛び込んでくる。
 右手には紅い液体の入ったゴブレットを持っているが、それはリーテルの横たわるベッドの傍に据え付けられた小さなテーブルの上にも置いてある。クディックは杯をテーブルに置くと、既に置いてあった方を手に取り、中を覗きこむ。
「何も摂っていないのか──リーテル」
 リーテルは、その言葉に驚く様子もなく、当惑した様子もなく、ただクディックにすがるような視線を投げると、震える唇を笑みの形に曲げた。
「子供にだって良いはずがない──もちろん、君にもだよ」
「ええ──ええ──でも──」
 クディックはリーテルの額に汗で貼りついた髪をかきあげると、その額にキスをした。リーテルは時間をかけながら搾り出すように次の言葉を継ごうとするが、かすかな息が漏れるばかりで声にならない。クディックは、じっとリーテルの目を見詰めながら、すべて判ったとでも言う様に静かにうなづき、リーテルの唇に指で触れその言葉の断片を切った。大きな息と共に脱力するリーテル。クディックは黙って髪を撫でている。

 リーテルの息遣いも収まり、眠りにつくかに見えたその瞬間──

 絹を裂くような悲鳴とともにリーテルが半身を起こした。それは、クディックの力を持ってしてもにわかには抑えられないほどの激しさで、リーテルの目は苦痛に一杯まで見開かれている。これは出産が近づいたことによる現象なのか。それにしては苦しみが強すぎる気がするのだが──
 リーテルの叫びが部屋にこだまする中、クディックの喉からも嗚咽が漏れる。リーテルの上半身を抱えつつ、おのれの無力さを呪うかのように。嗚咽が慟哭に変わる頃、クディックの両目から涙が流れ始めていた。紅い、紅い涙が──

 暗転。
 先程までの白い霧ではなく、月の出ない闇のような暗さに包まれた。
 出産の光景が次に来るのかと思われたが、場面は一向に展開しなかった。その光景達はクディックと呼ばれた男が見せているようだったが、これがあの男の記憶から出たとすれば彼自身、苦しみを感じていたのだろう。その暗闇と場面転換の遅さは、そのまま気持ちの切り替えを自らに許していない事の表れなのかもしれなかった。クディックの気持ちに整理がつくまで、ニナは待つことにした。特に耳から音が聞こえることは無かったが、心なしか、誰かのすすり泣くような声が聞こえた気がした。それは、錯覚だったのか──。

 暗闇の向こうに明かりが見える。しかし、その冷たさは日光ではない。電気によるものとも違う。寂しい、冷たい月の光。ニナ自身は月夜が嫌いではなかったのに、身を斬られる程切ない気持ちにを感じていた。ニナの目が暗闇に慣れてくると、月光の元に辺りを見渡す余裕ができてくる。枯れた樹々、錆びた鉄柵──そこは墓地のようだった。月光の下に色彩はない。クディックが一つの墓石の前に立っており、彼の服装も簧扦ⅳ毪郡幛摔饯物L景に色彩を加えることに手を貸していない。クディックが屈み込み、その手元に一つの色が加わった。真の赤。身体を流れる血液の赤。生命の色、情熱の色。その赤色が気分の高揚を生まないのは、月の明かりに熱を奪われてしまうからなのだろうか。クディックの目は、その月と同じ銀色をしていた。

 クディックは片手に持った一輪の薔薇の花を死者に捧げると、静かに語り始めた。クディックの長い髪が顔に垂れかかり、その表情は知れない。だが、声はあくまで低く落ち着き、深海の死の静けさを連想させた。
「すまない、リーテル──。君は、自分の生命を永らえるよりも、他人の命を救うことを選んだのだね。最期まで、他人の血は飲まず──。生きる為の糧を得ていれば、自らが命を落とすこともなかったろうに──。いや、下手に血族の仲間に入らず、人の間に居たならば、ニナの命と自分の命を引き換えにすることもなかったのだろうか──すべては、私の愚かさが呼んだ結果なのか──。ニナ、そう、生まれた仔はニナと名づけたよ。可愛らしい娘だ。ああ、娘が生まれると判っていれば、君を隔離する必要もなかったんだ──。私が愚かだったんだ──」
 クディックは両手で顔を覆っていたが、やがてゆっくりとその手を下ろすとその場に立ちあがった。墓場を一陣の風が撫でる。葉をつけていない死んだ樹が悲しみの声をあげたあと、クディックは言葉を続けた。
「ニナをその手に抱くことも出来なかった可愛想なリーテル。ニナはあの村に預けることに決めたよ、君が一度だけ立ち寄ってすぐに愛したあの村に。人の間で育つならば、私の血が目覚めることも無いだろう。能力は封印しておいた。我々の血族の長の力を借りてね。この力を解くのは同族でなければ不可能だ。余程の事が無い限り、ニナが血を欲することはあるまい。他の人間と異なる所は出てくるだろうが、血を欲しなければ平和の中に暮らしていけるだろう。娘の幸せを祈ってくれ、リーテル。そして、君の魂が居場所を見つけられることを私も祈っているよ──、いや──私にはその資格はないのだろうか──君から陽光を奪った私には──」
 クディックの声は咆哮に変わっていた。悲痛な慟哭は、その響き自身が血を流しているように錯覚させる。
「──人は死を迎えると、その魂は光の国に導かれるという。ならば、ヴァンパイアは、我々血族の魂はどこに行くのだろう。教えてくれ、リーテル、そして私を導いてくれ──、私を救ってくれ──」
 墓地に再び冷たい風が吹く。その風が止まったかと思うと、辺りに霧が立ち込め始めた。ぁF世の光を反射しない雲が月を隠す。途端に、辺りの景色が目でとらえられなくなる。霧はいっそう深く、クディックと、そしてリーテルの眠る場所を捕らえた。闇はしばらくその中に紅い一点を残していたが、やがて月が完全に隠れると共にそれも消え、あたりは漆税蓼欷咯ぉぁ

 浮上する。闇の中から。
 朝の、目覚めにも似た夢からの帰還は、自分が生きて居ることを実感させ、その喜びを私に味あわせた。意識が元通りに戻ってくると、ニナは目を閉じている自分を感じることが出来た。確かめるようにしながら貼りついた瞼を剥がして、頭の後ろのほうにかすかに感じる痛みをこらえながら、眠りから覚めたときに誰しもするように放心からの立ち直りのために意識を整えていると、夢に見たクディックの事が思い出されてきた。
 そうだ。ここは彼の部屋で、ニナは彼の言葉のまま、夢とも幻ともしれぬ意識のみの旅行をしていたのだ。今思えば、あれは時間を超えた旅行だったのだろうか。クディックと、そしてリーテルの悲しい記憶。ぼやけた焦点を合わせるように眼に軽く力を込めると、意識を飛ばす前に見た光景と変わらぬ部屋の眺めが戻ってきた。ニナの正面に置かれた椅子には、ブロンドの男が座っている。先の映像に出てきた、クディックだ。
 クディックは先と変わらぬ姿勢で、表情を失ったまま見詰めている。さっきは気付かなかったが、あの映像でみたときと変わらぬ格好をしている。ただ、今目の前にいる男の姿の方は、幾分服装も古びて色褪せており、全体的に疲れた印象が漂っていた。
「判ったろう、ニナ。この世にヴァンパイアは存在している。そして、君は私の実の娘という事が」
「私は家族と血が繋がっていないかもしれないと疑いはしたけれど──すぐにそんな話しを信じられないわ」
 クディックは椅子から立ちあがり、先程の机に向かうと、自分が何やら書きつけていた紙を手で弄んでいる。動作がゆっくりなのは、優雅であるというよりも先程の映像を見たおかげですごく老成したものに思えた。
「まったく、そういう所はリーテルにそっくりだな。私は、人間の遺伝という物は後天的に教育として受け継いでいく物だと信じていたのだが。血液内に記憶の情報などが含まれているのかもしれない。本当の意味で、リーテルは君の中に生きているという事か。ならば、人間とは我々よりも永遠の生命を持っていると呼ぶにふさわしいのかもな──」
「──何を言っているの」
「ああ、すまない。こちらの話だ。さて、夜明けも近い。私の本当の用件はこれからだ。最後まで聞いてもらうよ」
 クディックは再び眼を細め、ニナの心をすべて見透かすかのように顔を見詰めた。
「リーテルは、君の母親は最初私の愛人の1人だった。元々、我々には永遠の伴侶という者は存在し得ない。同じ眷族に招き入れてしまえば、どうしても主従関係になるからね。かといって、温血者の恋人はあまりにももろく、年老い、死んでしまう。リーテルはその内の一人でしかなかった。年老いて死んでしまえば次の恋人を見つける、というだけの仮初めの愛人だ。だから、心底愛するという事はないはずだった。もっとも、その時までに私は自分自身の愛情が枯渇しきっていると信じて疑わなかったよ。だが──」
「貴方はリーテルを愛したのね」
「きわめて人間らしい表現だな。そんな不確かな物ではないよ。ただ、それを表わす言葉を知らないから、否定はしないけれど」
「貴方が誇大妄想狂じゃないとしたら、とても信じる事の出来ない話だと思うわ。私にもまだ分別というものが残っていると思っているし。確かな事はあなたが私の父親である可能性がある、というだけね」
「とりあえずはそれで充分だ。君にはリーテルについて知って欲しかっただけさ。リーテルに対する私の想いとね」
 クディックはあと幾時もおかず陽が昇るであろう東の空を眺めながらゆっくりと話し始めた。
「いいかいニナ、私は今夜お前の封印を解いた。どういう意味か解るね」
 先のクディック自身の言葉を信じることにすれば、ニナはヴァンパイア同士の子供、と言うことになる。とすれば純粋なヴァンパイアの種族ということになるが、それを封印したことによって、人間と変わらぬ特徴を持っているのだという。ならば、その封印が解かれたとするならば、当然ながらヴァンパイアとしての血が目覚めるということになる。
私がヴァンパイアに──。そう心の中で繰り返して見ても、荒唐無稽な考えに実感は沸いてこない。
──馬鹿馬鹿しい。
 しばらく自分の立場を仮定してみた後、ニナは考えるのを止めた。しかし、自分が少なからず混乱させられている事にも気付いている。そのせいで、冷静な判断が出来ていないようだ。こんな時に、ルガースが傍らにいないことが本当に辛く思えた。
「あと10日程でお前の中に眠るヴァンパイアの血が完全に目覚めるだろう。これは仕方の無いことなのだ。──辛いだろうが諦めてもらおう。そういう『時』が来たのだ」

 そういう『時』?辛いだろうが?ヴァンパイアの血──?
 私は今のままで充分なのに──。
 そんなものは──、必要ない。

「ニナ、もし封印のかかったままその血が目覚めてしまうとお前の意識まで崩壊することになる。そうなったら最後、血を求めるただの獣と化すのだ。そんなものに──、自分の娘をそんな姿に変えたい者などいまい。たとえどんな種族だったとしても、だ。君はこれから徐々にヴァンパイアの血を現わしてくる。そして完全なる日を迎えるんだ」

──私が。
──ヴァンパイアに。

 クディックは窓に顔を向け、そのまま言葉を放った。
「ヴァンパイアの生は長い。我々は永遠に生き続ける。自分で望まない限り、死ぬことはない。いや、自分で望む事すら出来ないか──。永遠は──永い」
「私はヴァンパイアになるつもりはありません。突然そんな事を言われても──私は──私には」
「ルガース、とかいったか。それはお前の愛しい人か?」
 そう、ルガース。先程からニナの気にかかっていたのは恋人の事だった。もしも自分がヴァンパイアになってしまったら──?
 クディックは元の冷やかな目で再び睨むように見詰める。
「その者のことは諦めねばなるまい」
 薄々は感じていたけれど、今日初めて見た人物から告げられた出生の経緯。父さんと母さん、それと吸血鬼、ヴァンパイア。何よりも──ルガース。
極度の緊張状態と、想像を超えた不条理な状況に、ニナの精神は限界に達していた。
「そ、そんなことは貴方に言われる筋合いではないわ。それに、私にはヴァンパイアになるつもりはないし──大体そんなこと有り得る訳ないでしょう」

 このヴァンパイアが私の父親だなんて──そんなはず──。
 ニナは椅子代わりに腰掛けていた粗末なベッドから立ちあがり、おぼつかない足でクディックを横切ると、彼の背後にあるドアに向かった。クディックは慌てて椅子から身を起こし、ドアの方を振り返るが、ニナはその心配気に振舞うであろう男の顔も見る事に絶えられなかったので、背を向けてドアノブを握ったままつぶやいた。
「何よ──どうして私なの──。私はそんなものを望んだ訳ではないのに──」
 クディックは残念そうに声を詰まらせながら私の背中に向かって語り掛ける。
「育ての親は本当にお前に何も言わなかったのだな。いや、彼ら自身も知らなかったのかもしれない。ヴァンパイアと人の間に子が授かるなどとは私も想像もしなかった事だし、リーテルがヴァンパイアになった後、産まれた時もお前はまったく通常の赤ん坊と変わりはなかった。急に施した封印だったがそれでも人の間で育てれば眠る血も目覚めないと考えたのだが──。だが、だがな、ニナ!違うのだよ。私は知った。リーテルが身ごもったときは完全な人間だった。それが妊娠中にヴァンパイアに変わったとしても生まれてくるのは純粋なヴァンパイアではないんだ。封印をすると言うことは吸血鬼としての能力を封じるものなのだが、お前の場合は人としての特徴を前面に押し出しているに過ぎなかったのだ。人とヴァンパイアでは血の優劣が違い過ぎる。両親から均等に授かったとて、私の血はリーテルのものを凌駕してしまうのだよ。その血の干渉が何を呼ぶか。狂気と暴走だ──、判るな」
 ノブを握るニナの肩が震える。それは恐怖だったのか。それとも理不尽な吸血鬼に対する怒りだったのか。彼女自身にもそれは判じかねていた。
「判らないわよ、判らないわよ!あなたには判らないんでしょうね、人でないあなたには!そんな問題ではないのよ!」
 ニナは振り返ってクディックの目を睨んだ。その目には涙が光るのかと思われたが、ニナの両目に光るのは純粋な怒りであった。或いは義憤であったのかもしれない。
「あなたは奪ったのよ。理由はどうあれ、私の幸せを、そして私を育ててくれた父と母の──!」
「違う!それは違うニナ!わたしは、私は──」
 最後のセリフを聞かぬまま、ニナは部屋を飛び出していた。全身が震えるほどの怒りにかられたニナの頭の中には、逃げ出す素振りを見せることの危険性や、部屋の間取りの事などはまったく浮かんでこなかった。どこをどうして通り抜けたか判らなかったが、部屋にランプを置き忘れても道を走ることができたことからして、外はもう明るくなりかけていたのだろう。小屋を出て白んできた朝の道を歩き出しても、吸血鬼が追ってくる事はなかった。
 朝日を吸収した森は再び生命を取り戻し、それに呼応するように小鳥たちも囀りはじめる。木々の間を射し込む陽射しがいつもより眩しく感じられ、いつもなら気持ちいいと思えるこの風景に、今日に限ってニナは何故か嫌悪感を抱いた。
「何これ──気持ち悪い──何か──変だ」
 思わずそう呟いていた。小屋を出てから全力で走っており、直に呼吸を整えるため歩く速度を落としていたが、それすらも出来ず眼を一杯に開いたまま歩けない。
 クディックという男の話が本当なら、ニナの中の吸血鬼が覚醒するまであと十日。彼女が感じる嘔吐感、日光への不快感はその証拠だというのか。だとすれば、さっきのクディックの話は急に現実味を帯びてくる。ならばその間に、ニナは何らかの答えを出さなくてはならなくなる。人として死を迎えるのか、不死の血族の門を叩くのか。そのどちらの選択肢もが地獄への階段を登ることになっても。
 太陽はますますその意地悪な光線をニナに投げかけ、彼女の視力はほとんど奪われて前が思うように見えなくなっていた。それに連れて思考能力も落ちているのか思考はますます混乱を極め、吸血鬼の魂はどこにあるのか、そんなことをぼんやりと考えているうちにニナの足は自然と自らの家に向いていた。
 決して暑い季節ではなかったが、日差しがじりじり身体を焼くようで足取りも思うように進まない。ようやく深い森を抜け、湖に辿り着くころには太陽が真上近くまで昇っていた。森を抜け、日光を遮るものが無くなって光景は開放感にあふれたものになったのだが、それはニナにとって閉塞を意味していた。
 全身に日光を浴びたその時、心臓が激しく鼓動し、体中に激痛が走る。
 そのうえ突然睡魔が襲い、立っているのも辛い状態になってきた。
 急がないと──。ニナは即座にそう思い立ったのだが、果たしてそれはどのような経験から生み出されたものだったのか。それとも、彼女の中に生きる血の記憶が彼女の生命に警鐘を鳴らしたのか。ほとんど意識を失ったまま、ニナは自室にたどりついたらしく、気が付くと自分の寝室に横になっていた。
 自室に辿り着きはしたが、眠れるような心境ではなく、窓という窓のカーテンをすべて閉じた後、掛けた布で身体を包み隠してやっと落ち着くことができた。日光が差さない部屋の中は即席の暗闇を作り出しており、その暗闇がニナの心に安らぎを与えていた。これも吸血鬼の血が及ぼす効果なのかしら──。本来なら恐怖や嫌悪感を覚えて然るべき状況なのだが、それよりも今の彼女には睡眠を取りたいという欲望が勝っていた。ニナはそう思いながら、眠りにつけることに喜びを感じてしまっている。まだそんなに遅い時間でもなかったのだが──。その解答として、ニナは昨日一睡もできなかった事を考えた。しかし、徹夜をした経験が無い訳ではない。自分でも不味い解答のように感じられた──。

 トントントン。
 ニナは寝室のドアをノックする音で眠りから引き戻される。どうやらしばらく眠ってしまっていたようだった。カーテンの隙間から差しこんでいた明かりも今は無い。ノックを三回するのは、父親の癖だった。最近は、父親が娘の部屋に来る事は全くと言っていいほど無かったので、ニナにもそれは何かきっと大事な用が、それもあまり好ましくない用事があるに違いないと直感的に感じられた。
「入ってもいいか」
 ドア越しに父親が声を掛ける。どことなくうわずったその声に、ニナは何か秘密が隠されている事を確信する。
「いいわよ」
 ニナがそう言うと、父親はゆっくりとドアを開けて入ってきた。手に持った蝋燭が眩しく感じられ、ニナは一瞬光から目をそらした。どうやら眼が光に対して敏感になっているらしかった。目を細めたまま父の顔を見つめ返す。父親が蝋燭を手にしている事からも、時間の経過が感じられた。
「大丈夫か、ニナ。昼間帰って来た時のお前は普通じゃ無かったぞ」
 心配げにそう言う父親の顔には、蝋燭の赤い炎を受けても蒼ざめているのが判る。
「大丈夫よ」
 心配をかけまいとして、逆にぶっきらぼうな調子で答えてしまう。そっちの方が普段のニナらしい。そう言って顔から知られないようにニナは表情を消して振り向いた。
「ニナ──」
 父親はそういうとあからさまに恐怖の表情を浮かべ、後ずさった。
「お前──。やはりあの男に──」
「あの男って」
 ニナはまだ知らない顔を通した。クディックとかいう男の話しからしても、両親とは顔見知りである可能性は高いのだが、わざわざ説明することではないだろう。だが、長年ともに暮らしてきた強みか、娘のそんな素振りで誤魔化されるような父親ではなかった。
「隠さなくてもいい。お前の顔を見てみろ」
 ニナの部屋にはそれほど家具調度品は置いていなかった。元々ニナ自身に興味が無かったせいもあるが、家族の経済的な制約もある。彼女の父は村長をしているし、家庭が実際に貧困に苦しんでいる事はないのだが、かといって村内の窮状をつぶさに目の当たりにしているニナにとって、浪費家を気取って昔の貴族めいた暮らしをするつもりなど毛頭なかった。とはいえ最低限度の身繕いは欠かすことはできなかったので、それなりの家具はそろえてあり、部屋の隅に据えられた姿見もその一つだった。もっとも、この姿見もニナの母親が以前使っていたものだったのだが。
 父は、ニナの手を取り姿見の前に連れてくると、自分の顔を見るように手振りで指し示した。その真剣な表情に押された形でニナも鏡の中を覗きこむが、そこにはいつもと変わらない自分の顔が見詰め返しているだけだった。昨日極めて不規則な生活をしたせいで幾分顔色が悪い気はするが、それ以外は何も違って見えない。
「変なところなんてないわ」
「よくみてみろ。あいつと同じ呪われた所があるはずだ」
「あいつと同じ所──」
 ニナには一瞬その言葉の意味が判らず、鏡の中を覗きながら考えると、突然首筋に痛みを感じた。その痛みはつい1日前にも体験したものだ。そう、あの夢とも現実ともしれないまどろみの中で、首に感じた激しい痛み。
 あの時は耐えられないほどの眠気に身体が拒否することを忘れていたが、普段の状態ならば気絶するかもしれないという痛みであったのはずだ。しかし、現在の痛みはそれほどでもなく、むしろ心地よいものに感じられた。そして、痛みと共にあのまどろみの中の感覚が戻ってくる。首筋にかかる生温かい息。それに対して冷たい歯が当たる。その接触点が二つと少ないところから、触れている者の歯が特殊な形状をしていることが想像される。まるで犬歯のような、そう、上顎から突出した狼の牙のような。その2本の牙が首筋に突き刺さる。
 思い返しただけでニナには苦痛が蘇った。反射的に顔を歪め、痛みの表情を作ったニナは、鏡の中の自分の姿がかつての自分と違っている点を見つけた。首筋に感じた痛み、それを引き起こした正体を。そして、自分の上顎の、長く目立った犬歯。眼に映るそれは、人間の物とはかけ離れて長く、また鋭く尖っていた。
 息を呑んでいたのも束の間で、次の瞬間には別の欲望が起こっていた。不思議とそれに驚く時間は多くを必要としなかった。それよりも、本能的にそれを試したいという気持ちに駆られていたのだ。ニナは、鏡の中の自分が笑いをこらえた様な表情になるのに気付く。それは泣き笑いとも取れたのだが、ニナ本人はどちらの感情も持ってはおらず、むしろ無感動にその表情を見つめていただけだった。鏡の中の私の後ろに立つ彼女の人間の父親は、ただ怯えるしか自分の身を守る術を持っていない、哀れな存在に思えていた。

 ふいに体の内から湧いてくる衝動。
 懐かしいというよりもっと古い、自分がまだ生まれる前から存在していたかのような原初の胎動。
──殺意。
そうも言えるかもしれない。だが、その時のニナは最もそれに適した言葉を見つけ出していた。そう、狩りの時間なんだ。ニナの眼には父が、血液の詰まったただの柔らかい腸詰めのようにしか映っていなかった。
 それもヴァンパイアの血がさせる事なのだろうか。男の言うように、元の私は駆逐されてしまうのか。そう考えた途端にニナに理性が戻ってくる。彼女は荒々しく父を突き飛ばし、彼が部屋の壁にしたたか打ち付けられるのを見るか見ないかのうちに家を飛び出していた。

──外は真の暗闇。
 しかし、ニナはそこについ昨日まで覚えていたような恐怖を見出す事は無く、むしろ自分の獣性の開放感に酔い痴れていた。人間としての心が弱くなっていることにも、悲しみを感じることはなかった。体の奥から力が無尽蔵に湧いてくる。今ならば花を摘むよりも簡単に人の命を奪うことができるだろう。
──だが。
 再び失われていた理性が戻り、冷たい風が身体を冷やす。何の考えも無しに、家を飛び出してはみたが、かといってどこに行くあてもない。しかし、自分の父親とあのクディックという男との間には何らかの関係があるらしく、こんな事になってしまった今、父には言い訳をすることもできない。それよりももっと切実な問題で、父親に対して芽生えた殺意をどうしたらいいというのか。考えがますます混乱する中、ニナは昨日の夜に自分が考えていたことを再び思い出した。
 とりあえず、ルガースの元へ行かなければならない。昨日自分が行方をくらました事で彼には相当心配をかけたはずで、あのクディックとかいう男の話を打ち明ける訳にはいかないが、何らかの理由を説明しない事にはいけない。普段歩きなれた道を通っていたのでその時は気付かなかったが、ニナは月の隠れた夜であるにもかかわらず、その手に明かりも持たずに木々の間を疾走していた。
 青く塗られたドアの前に立つ。窓からは部屋の明かりがもれており、家の人がまだ起きていることを示している。部屋の中からは少し笑い声が聞こえている。ルガースと、ルガースの母親が話しているのだろう。そこまでルガースに逢いたい一心で走ってきたが、いざドアの前に立つと躊躇が先に出る。
 まずはルガースに黙って待ち合わせの約束を破ってしまった事。たとえそれが突然の事故のようなものだったとしても、深夜に見知らぬ男性と、それが自称私の父であるとしても、村の中の人間でないことと、外見の若さからそんな話は信じられないことだろう。ルガースは許してくれるかもしれないけど、彼の優しさを利用するような行為は、あまり諏gであるとは思えなかった。加えて、クディックの話した、自分に吸血鬼の血が流れているという言葉も気にかかっていた。ルガースに、クディックについて聞かれたらどう話したら良いか思いつかない。まさか吸血鬼だと説明するわけにもいかず、ニナは失踪の言い訳を一所懸命考えて、それは数十にものぼっていた。しかし、いくら夜が深くないとはいえ扉の前にずっと立ち止っている訳にもいかず、ニナは意を決してルガースの家のドアをノックした。
「どちらさまですか」
 家に入ってすぐの居間にいたのか、部屋の住人の応えは早かった。彼の家にはルガースとお母さんの二人しか住んでいないので、男性の声であればルガースと判る。もっとも、ルガースの声を聞いてニナが判らないはずがなかったのだが。一旦その声を聞くと、今すぐにでも扉を開けてルガースに逢いたい衝動に駆られた。まるで、さっきまで彼を避けるように考えていたのが嘘のように思えた。
「だれ?」
 彼への想いと、今の自身に対する戸惑いが交じって次の言葉を出しあぐねていると、ふいに扉が開いた。中からルガースが顔を出す。
「ニナ!」
 いつもと変わらないルガース。いや、今日はかなり心配をしていたのか、少し憔悴していた。ニナはとっさに彼の言葉に応える事ができず、ただ眼を見開くばかりだった。
「ニナ──」
 彼に会ったら話そうと決めていた挨拶や言い訳も、その懐かしいとも思える顔を見た途端にすべて忘れてしまった。何かを話そうとしても話せず、途方に暮れていたニナを、ルガースは中に招き入れた。奥から、ルガースの母親が顔を出す。ニナが少し挨拶をすると、昨日の婚約の話しをルガースからある程度聞いていたのか、にっこり笑って奥の部屋に姿を消した。ルガースはそちらに眼をやると、ニナを自分の部屋に導いた。
 ルガースの部屋には机があったが、1人分の椅子しかない為にニナと2人で話すときにはベッドに腰掛けるのが常だった。そこで、ニナは自分の特等席に腰を下ろす。ルガースはゆっくりと横に座ろうとしたが腰をあげて、何か飲むものを持ってこようかと尋ねたが、ニナは黙って彼の袖を引き彼を制した。ルガースは息を継ぐと、苦笑いを浮かべたような顔で再びニナの横に座った。
「ルガース、私──」
 ニナは思いきって打ち明けようとしたが、その声は震えており後が続かなかった。次の言葉が生み出される雰囲気は起きず、ただ沈黙を過ごすのかとニナがみじめな気持ちになりかけたとき、ルガースは静かにつぶやいた。
「いいさ」
「な──何を?」
「ニナが無事なら別に構わない。何か事情があったんだろうけど、言いにくいなら気が向いたときでいいよ」
 ルガースの言葉に、胸の中に何か渦のような甘いものがこみ上げる。それは以前のニナだったらきっと、涙に変えて外に放出していたことだろう。でも今は、ただ下をうつむいて黙っているしかできなかった。ルガースも彼女が泣いていると思ったのか、眼の下に指で触れるが、そこにあるはずの涙は顔を濡らしてはいなかった。
 彼の厚意に真面目なきもちで感謝をしながら、ニナは目を閉じ、彼の言葉に応える代わりに頭を彼の肩に持たせかけた。目を閉じて意識を集中すると、彼の姿が視界の端に捉えられる。それは、記憶が生み出す想像の姿ではなくて、彼の生気が形になって目に映ったのだ。ニナの身体の中で、何かが変わり始めていると言う事なのだろう。だが、彼の横でその暖かい気を感じることで、抱えている様々の不安はすべて取り除かれていくようだった。以前からその温かみには周りの人間を安心させる何かがあったのだが、ニナが変化し始めた身体で父親を見た時の印象とは違って、彼の生命力は眩しすぎるくらいに感じられた。

 ああ、この人は生きているんだ。あらためてそれを感じていた。
 おそらく他の誰を見てもこれほど生命の輝きを感じることは無かっただろう。それにしても、ルガースだけが特別に見えるのは、何ゆえだったのだろう。クディックが告げたタイムリミットも、実の母の事も、今はニナにとっては重要ではなくなっていた。彼の横にいられるのならば、このまま命を落としてしまってもいい、そう考え始めていた。
 寝静まった村の中で、2人の部屋は言葉1つも生まれないまま長い夜を過ごそうとしていた。

                            第二部~おわり~
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发表于 2004-12-15 18:22:40 | 显示全部楼层
我的天啊!
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发表于 2004-12-17 15:14:00 | 显示全部楼层
像恐怖小说。
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发表于 2004-12-17 22:57:46 | 显示全部楼层
好多啊!!!!!!!!!!!!!!!!!
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 楼主| 发表于 2004-12-19 11:59:28 | 显示全部楼层
希望偶继续连载的讲
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发表于 2004-12-19 21:26:35 | 显示全部楼层
收藏了!
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 楼主| 发表于 2005-1-7 09:46:52 | 显示全部楼层
第3部 不死への渇望

どうかしたの、という母親の呼びかけに我に返る。止まっていた手を動かしながら手元の弓を見つつ答えた。
「いや、なんでもないよ」
「あしたは狩猟祭でしょうに、そんな調子じゃ鹿と間違えて撃たれるわよ」
「鹿?」
 母親は笑いながら奥の部屋に入っていった。いや、僕は笑う気にはなれない。
──ニナ。
 何故、来なかったのだろう。
 今までそんなことは一度も無かったのに──。
 来る途中に何かあったのだろうか。
 それともプロポーズを受けるのが嫌になったのかな──?
 まさか、ね。
──それとも、村長に止められたのだろうか。しかし、まだ婚約の事はニナのお父さんには話していないし、止められる理由も特に見当たらない。
 ニナ──ニナ、いま何処にいる──。

 まったく僕という男は──。
 確認しようにも彼女の家に行くこともできないのは判りすぎるほど判っていた。今はこんな無駄な考えにとらわれることなく、明日の狩猟祭の準備に取り掛かるほうが大切だ。
 ふと、静かな夜を一つの音が遮る。トントン、トントン──。
 玄関の戸が音を立てている。そこに不審な点はなく、いつもであれば何気なく聞いていた事だろう。ただ、遅すぎる時間が問題だった。こんな遅い時間に客だなんて──。何か悪い知らせでなければいいけれど──。
 手にした弓の弦を指で弾く様に試しながら、奥の部屋を振り返る。母親は奥の部屋で寝ているのか、部屋から出てくる様子はない。
「どちらさまですか?」
 扉を開ける前に向かいにいるであろう相手に声をかける。しばらく返答を待ってみるが、返って来る筈のそれは聞こえない。ドアの向こうでなにかの気配が動くのも感じられない。もう一度確かめてみようとするが、自然と声が低くなるのが自分でもはっきりと判った。
「だれ?」
 相変わらずノックの主の返答はなかったが、その時瞬時に閃くものがあった。
 陽光の中で僕に笑いかける婚約者の姿。
「ニナ!!」
 半ば叫ぶようにしながら勢い良くドアを開けた。そこには予想した通りの相手が立っていたので、自分に起こった奇跡に打ち震えようとしたが、彼女の曇った表情はその気持ちを冷めさせた。彼女は何かを話したげに口を開いたまま、言葉を告げられずに立ちつくしているのみだった。
「ニナ──」
 外は寒い。ニナの体が震えていたとしてもそれは不思議なことではなかったろう。しかし、彼女の寒さは外気に触れたからだけではないようで、僕の心をかきみだした。とにかく、外に立たせたままだというのでは、どんな相手であろうと礼を欠いているに違いない。それが愛する者なら尚更で、僕はいつものように彼女を家に招き入れ、自分の部屋に導いてベッドの上に並んで座った。母が起きてくるかとも思ったが、その気配はない。普段から寝つきはいいほうだが、時間が遅いせいもある、仕方あるまい。僕の部屋で落ち着くところはあまりない。部屋には机と椅子が一人分しかないせいで、客にはいつも不自由をさせるのだ。しかし、これから話す内容は、いくら母が寝ているとはいえ、隣の居間でしやすいような話ではないように思える。未だ一言も話そうとしないニナに、何か飲み物を持ってこようかと聞くが、彼女は黙って僕の服を引っ張ることでそばにいて欲しいという意思を告げた。
「ルガース、私──」
 ニナの声が震えている。必死で僕に何かを伝えようとしているのだが、何かショックな事でもあったのか、次の言葉を継げられないのだ。窓の外は真っ暗な闇。ベッドで隣に座ったニナの方を向くと、ニナ越しに夜の闇を見ることになる。夜の闇に浮かぶニナの白い頬。普段から特に色素の薄いニナだったが、今は明かりのせいだけではなく蒼白になっていた。まるで顔からすべての血が流れ出してしまったかのように。
 僕は、ニナの様子から気付く。彼女は、昨日の約束の事について何か言いたいのではないだろうか。昨日僕が彼女に結婚の約束を告げたのは彼女にも伝わったはずだ。もっとも、僕の不手際で実際に指輪と共に申し込むのは深夜になってしまったのだが。ああ、僕が最初から指輪を用意していれば、何も問題なく終えたのに。一旦はニナが呆れて気変わりをしてしまったのかとも思ったが、今日こうして僕の元を訪ねてくれたのは、正式にプロポーズを受ける意思を持っているということなのだろう。指輪は、今母親が眠っている部屋の机の中にしまってある。自分の部屋に置いておいた方が安心は安心なのだが、厳重に鍵が掛けられる入れ物は母親の化粧箱なので、用心に越したことはない。無くしてしまったら、もう一度すぐに用意できるようなものではないんだ。少なくとも、僕にとっては。
 母が眠ってしまったのだとしたら、いくら僕たちの重要なこととはいえ、起こすのはあまり良くないかもしれない。そうするにはあまりにも時間が遅すぎるのだ。頭の中で色々な考えが浮かんでは消えて行く。はっと我に返ると、ニナも言葉を失ってしまっているようでその場にはしばらくの間沈黙が漂っていた。
 何か話してあげなければ。彼女は何を言おうとしているのか。いや、彼女は僕に何を求めているのか。考えがまとまらないままの僕だったが、口をついて出た言葉は意外にも単純な許容の言葉だった。
「いいさ」
 ニナは僕の答えがあまりにも意外だったのか、伏せていた顔を咄嗟に僕の方へ向けた。その口元は、えっ、という言葉を音のないまま発していた。
 ニナは何かをかなり気にしているようで、いつもと様子が違う。さっきから身体の震えも止まらないようで、僕は何を先においても、彼女を安心させてあげたかった。その次に出た言葉は、彼女を安心させるという意味を持っていたが、咄嗟に思いついたにしろ内容は僕の気持ちに反したものにはならなかった。
「ニナが無事なら別に構わない。何か事情があったんだろうけど、言いにくいなら気が向いたときでいいよ」
 僕の目を見ていたニナが再び顔を伏せる。両手は握られたまま小刻みに震えている。その震え方は、さっき外にいたときのものとは違っていた。泣いているのかな、と思い目元に指で触れたが、そこに涙はなかった。僕は自分の意識の過剰さに恥ずかしい思いをしたが、僕の意思は彼女に伝わったのか、彼女は小さくうなずくと、僕の肩に頭をもたせかけてきた。軽いけれど、彼女の重みを体で感じる。ニナの髪が僕の頬に触れると同時に、甘い匂いが漂ってくる。彼女のその無防備な態度と併せて、僕はぼんやりしはじめながら、さっき自分が放った言葉を反芻していた。確かに、気にならないといえば嘘になる。ニナが昨日、僕の婚約の意思を知りながら約束を破ってまで訪ねていたのは何処なのか。今朝になって村長にも聞いてみたが、ニナは一晩中まったく行方がしれなかったらしい。もう少し彼女が帰ってくるのが遅ければ、何らかの犯罪に巻き込まれたと考えられて村のみんなで捜索を始めていたところだ。しかし、今までニナが何の理由もなく約束を違えたことはないし、あったとしても止むに止まれぬ理由がきちんと存在していた。今回にしても、彼女には何か重大な理由ができたのだろうと思う。ただ、僕との待ち合わせの意味を考えると、それをどう説明したらいいのかを考えているに違いない。
 どれほどの間、そうして言葉一つも交わさずにいただろうか。しかし不思議と息苦しさは感じなかった。ただ彼女がここにいてその存在を感じていられるというだけで、僕は満足だった。ニナも、先程までのショック状態から解放されたのか、すっかり落ち着いているようだ。昨日のことは、ニナの気持ちが落ち着いてからゆっくり話してくれればいい。今はただ、二人で一緒に時間を過ごせることが重要に思われた。
 ふと気がつくと、外はやや白みかけている。いくら婚約を交わす仲とはいえ、彼女のお父さんの手前もある、僕はニナを家まで送っていくことにした。家の近くまで送っていくと、彼女はここでいいと立ち止まる。僕はニナにキスをすると、そのまま家路についた。途中のことはあまり頭に残っていない。夢の中の出来事のようにおぼろげなまま、狩猟祭の用意もそこそこにベッドに倒れこんだ。
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 楼主| 发表于 2005-1-8 16:31:15 | 显示全部楼层
翌日──。

 中央広場には大半の村人がつめかけていた。中央の泉の周りに狩猟祭へ参加する僕ら未婚の若者を中心として、腕に自信の有る無しに関わらず健康な男ども全員が集まり、その家族や女たちが周りを囲んでいた。みな一様に、これから始まる年に一度の娯楽に期待を膨らませていた。それを代弁するかのように、晴れ渡った青空には雲ひとつない。ただ、僕の気持ちはあまり晴れやかとはいえなかった。結局、ニナからは何も聞くことができなかったからだ。もちろん、彼女の気持ちを考えればそっとしておくのが一番なのだろうと思うが、指輪を渡して結婚を申し込むタイミングも見事に逸してしまっていた。
「ルガース!」
 呼ばれて振り返ると満面の笑みを浮かべたパトラスが駆け寄ってくる。パトラスとは年が近いせいもあって、普段から仲良くしている。今度の狩猟祭においても一緒に行動しようと話していた。パトラスも僕と同じで狩りの腕は大した事はない。よって、お互いに足を引っ張ることはなく、のんびり行こうと言う訳だ。
「いよいよだなぁ。今回は頑張ろうぜ、ルガース。そうそうジョシュアなんかに負けてられないからな」
 そうだった。前回の優勝者はあのジョシュアだ。村長の息子という立場も関係有るのか、ジョシュアは毎年最高級の道具を使って狩猟祭に挑む。もっとも、彼自身の腕も我々よりは数段優れているので、誰もそれに異存を唱えるものはない。だからといって、村の中で小さい頃から比べられてきた我々にとってはそう面白い状況でもないのは確かだ。
 狩猟祭とは言っても、細かなルールがあるわけではない。村の行事として、山に入り動物を狩り、一番成果のあったものが優勝者となるという点が同じなだけで、どんな動物を、とか区域はどこまで、とかはすべてその年の優勝者が決められることになっている。ということは今回もあいつがルールを決めるのか。
 でも今はそれどころではない。毎年それほど熱っぽく行事に参加するわけでもない僕だったが、今年はそれに輪をかけて集中することができなかった。どうしても昨夜のニナの様子が気になって仕方が無いのだ。
「──なんだってよ。嫌になっちまよう、まったく。おい!聞いてるのか?ルガース」
「えっ?ゴメン。なんだって?」
「だからジョシュアのやつが決めた今年のルールのことだよ」
「どうやら今年は2日間で得た獲物の総数で決めるらしいぜ」
 パトラスは本当に嫌そうな顔をしながらそう言った。
「2日間?何言ってるんだ。毎回1日だけじゃないか」
 日数を延ばすことで何か得になることがあるとは思えない。狩猟祭に出ている間はみなが終日それにかかりきりになるわけで、すなわち村の働きもそれだけの期間停止するということだ。それゆえに毎回1日限りで決めていた筈だが、どうして今回だけ。
「よく分かんないけどさぁ。特別ルールだとよ。夜行性の動物も対象にしたいらしいよ。って、お前何も聞いてないな」
 夜行性、何故──危険な夜まで──。
「あぁ。ちょっと遅れて、さっき来たばかりなんだ」
 そう。僕は昨夜遅かった事と、ニナのことが気にかかっていたおかげでなかなか寝付けなくて寝坊をしてしまったんだ。僕が来た時にはもう村長の挨拶も前回優勝者のジョシュアの戯言も終わっていた。気もそぞろな僕の態度にパトラスも諦めたのか大げさに両手を上げて降参の意思を示すと、広場の中央に据えられた高台の上で懐中時計を見る村長の方に向き直った。後は開始の合図を待つだけだ。
──だが?ニナの姿が見当たらない。村の者は総出でここに来ているはずなので、彼女だけ別の行動をしているとは考えにくい。だが、先程から探していても一向に見あたらなかった。この場所に来ていないのだろうか。
 そうこうしているうちに、村長が右手を上げて開始の合図を青空に響き渡らせた。
「ほら、ルガース!」
 一斉に森に駆けて行く村人達の中で、パトラスと僕だけが出遅れてしまったようだ。周りで見ている女たちの中からも笑い声がもれる。
「悪い、パトラス、先に行ってくれ。今日は調子が悪いみたいだ。あとからゆっくり行くことにするよ」
「よっしゃ!じゃぁな、ルガース。お互い頑張ろうぜ」
 そう言うと陽気なパトラスは皆と一緒に森の方へ駆けていった。

 ニナ。一体どこへ行ってしまったのか。彼女の家に行って確かめたい気持ちを抑えながら、僕も森へと入っていくことに決めたつもりだったが、やはり二ナの事が気になる。
こういう小さな村では、村人たちが集まるイベントは極めて重要なことだ。ここで示す行動は、それを観察する独身の女たちや、ひいては彼女たちの家族の目にもとまる。つまり、今後の人生の公的な評価が決められると言うわけだ。子供の頃はさして重要ではないと考えていたこんな行事も、年齢を重ねる毎に重みを感じることになろうとは。ましてや、決まった相手のいないパトラスのような独身男にとっては、最も力を発揮すべき時なのだ。とはいえ、こんな状況では狩りなんてする気にはなれない。獲物の動物よりも、探すべきなのは何か、僕には判っているつもりだ。村長親子に何か言われるのは分かっている。村人の団結を乱すな、手を抜くな──。
 しかし、優勝の名誉を得たところで、何が手に入るのというのか。たとえ優勝したとしても、たいしたことのない賞品に、たいしたことのない賛辞──。そして小さな区域での小さな名声。
 いや、今の僕には世の中の全ての物が色褪せて見えるだけなのだろう。この世のどんな利益に対しても何の興味も沸かない。
 さすがに村の中へ取って返すことはできなかったが、意を決し、狩りへの山道と反対の、よく二ナと歩いた湖の方へ向かった。
 村長とジョシュアが普通に祭に参加していることから、ニナが家に一人で残っているとは考えにくい。家に居ないとすれば、どこかに出かけている可能性が強い。山は皆が入っていくので目に付く確率が高く、一人で遊びにきているとするなら村の女たちの受けも悪いし、何より狩場に立ち入るのには危険が伴う。ならば、僕との想い出もあるこの湖に来ているのではないかと予想してみたが、見渡しの良い場所にも関わらず、ニナの姿は見えない。本当にニナはどこに行ってしまったのか。案外、昨日の夜更かしがたたって、家で眠りこけているという平和な想像もしてみたが、それには現実味が伴っていない。他の可能性を考えてみた途端、一昨日感じた不安が再び顔をもたげてきた。とにかく、湖は森と隣り合わせになっているので、僕の視界の外にいるだけかもしれない。森の中も徹底的に捜してみないことには。

──森を歩く。父親を早くになくした僕は母親が家で仕事にかかりきりだったこともあって、特に引止められる事もなかったために森の中は小さな頃からの遊び場で、ほとんど知らない場所はないと言って良かった。だからこそ、たとえ人1人といえども隠れられる可能性のある場所はすべて探したはずだったが、ニナの姿を見つけることはできなかった。いくら慣れた場所とはいっても、道のないような所まで探したせいで足の疲れは限界になってきていた。どこで引っ掛けたのか、服の袖は破れて腕があらわになってしまっていた。これで、獲物はなかったにしても、狩りをしてきたという言い訳になるだろうか。森が途切れ、目の前には湖が広がっている。森の中を一周して、元の場所へ戻ってきたようだ。手近な木を見つけ、湖が見渡せる位置でもたれかかり、体を休める。立てた膝の上に腕を仱弧ⅳ郅盲认ⅳ颏膜¥长沥椁涡呐浃蕷莩证沥趣涎Y腹に、湖はあくまでも静かに風に吹かれるままに水面を揺らしている。綺麗に透き通った水も、底には土を蓄えているのだろうか。僕の心は、その土が巻き起こって濁っている状態かもしれない。泥。泥のように、泥のように眠りたい。何もかも忘れて。
 僕は、うとうとと浅い眠りに落ちていくのを感じていた。
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 楼主| 发表于 2005-1-8 16:32:00 | 显示全部楼层
──今は会いたくないの。

ニナ?

──今の私じゃだめ。まだ──

 何、どこにいるんだ──?

──もう少ししたら、あなたに逢いに行くわ──

 いつ、どこへ?ニナ、何を言っているんだ──?

──話せないかもしれないけど──

 判らない、話せないって、一体何を?いつ逢えるっていうんだ?

──今──私のいるところ──

 ニナの儚げな微笑が消え、目の前には変わらず静かな湖がたたずんでいた。夢、だったのか。
 額が濡れている。冷や汗なのだろうか。
 意識がはっきりしてくるとともに、目の前にニナを見付けられない現実が重くなってくる。目を閉じて瞼の裏にニナの像を結ぼうとする。だが、それはあまりにも儚く、白くぼやけて遠く逃げていってしまう。
 夢でなければ、君を見ることはできないのだろうか、ニナ。
 風が、湖の表面を撫でる。その中央に、頭上から飛んでいった木の葉が舞い降りた。
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发表于 2005-1-8 18:12:33 | 显示全部楼层
还有吗?继续阿!支持!
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 楼主| 发表于 2005-1-8 19:00:05 | 显示全部楼层
土の中で眠るようになって何日が経ったのだろうか。時計はおろか、新聞すら見ることが出来ない為、時間の感覚がまるで無くなってしまっている。目を覚ますと、そこには只暗闇が広がっているだけなのだが、それがかえって自分を安心させていることに気付いて戦慄する。もっとも、寝ている間にこの寝床を暴かれていたらもう2度と目を覚ますことはないのだろうけれど。自然に目が覚めたという事は、多分日が沈んだと言うことなんだろうな。これまでの数日で、そういった自分の体の非現実的な変調にはもう慣れてきていた。山の中では私を捜しているのと、あの可哀想な犠牲者達を増やすまいと警備を続ける村人達の姿がちらほら見られた。顔も見た事のない制服姿の人まで見られた。彼らはきっと中央から派遣された警察官なのだろう。うちの父親も事件の解決に本気になっているということだろうか。でも、そんな人間的な考え方だけであの人を捉えることはできまい。あの人は狐の様に狡猾で、狼のように残忍だ。下手に手を出せば、彼らが次の犠牲者になってしまう。あの人のように、私も彼らの目を盗んで、国境まで歩いていけるのだろうか。さすがに昼の間は姿が目立ちすぎるので外に出ることが出来ないし、また急激に眠気が襲ってくるので危険が伴う。かといって明かりなしでは進める距離もたかが知れているし、おまけに私を捜している彼らから隠れるように進まなければいけないのでなかなか山を越えることが出来ない。飢えや渇きも深刻で、辺りに落ちている木の実や雨水を口にすることでなんとか生命を保っているが、それもどこまで保つのか知れない。疲労も限界だ。何より、日毎に決意が萎えて行く。一番の気懸かりは、ルガースをここに残して立ち去ることだ。あの日、自分としてはルガースに別れを告げに行ったつもりだったのだが、結局何も説明することができないまま村を出てきてしまった。心配していることだろう。でも、それも数年も経てば、すべて忘れて誰か別の女性を見つけて幸せに暮らしていけるに違いない、私と過ごした日の事もすべて。彼を巻き込むのだけは何としても避けなくては。彼の命を絶つ事に最も近いのは私の存在なのだから。いっそのこと、このまま土中で過ごしていて、誰かに発見されるのを待ったほうがいいのだろうか。きっと発見した人は私を化け物と見なして葬ることだろう。そうなってしまえば永遠に楽になれるに違いない──。

──駄目だ。このところ、あの人の凶行のせいか、或いは私の中の血が覚醒し始めているのか、意識を失う瞬間が多くなっている。この調子で行くと、完全に獣としての本性が目覚めてしまったらどうなるか判った物ではない。まったく意識を保った状態でさえ、父親を壁まで突き飛ばすほどの剛力が発揮されたのだから、これが完璧に放たれたらと思うとゾッとする。誰かれ構わず襲いかかるか分からない。父親が私を見た顔、恐怖に歪んだ顔を忘れることができない。自分の狂気に支配された姿を、愛した人にだけは決して見せたくない。それをする事により、愛した人に怯えた目で見つめられたくはない。それは、自分の身が死ぬよりも恐ろしい事だ。それだけは、それだけは避けなくては。
 もう少し遠くへ行こう。そう思い土の中から手を使って外の世界に顔を出す。上に被せてあった落ち葉に塗れながら、また山の向こうへと歩を進めた。幸い、この辺りはまだ捜索の手が伸びていないようだ。私の着ていた服はすっかり血に塗れてしまってべとつき、極めて不快なのだが、こんな山奥では着替えることもできない。走る気力もなく、とぼとぼと歩いていく。
「どこへ逃げるつもりなんだい」
 この数日間ですっかり聴き慣れた声。私には死の宣告にも等しい。振り返るより速く、声の主から逃げ去る為に駆け出す。
「無理だよ。これは呙坤椤⑹埭比毪欷毪瑜晁悉胜ぁK饯趣筏皮猡挨蚱茰绀藢Г郡悉胜い韦坤省筡
 目の前に回り込んだクディックの腕には、哀れな新しい犠牲者が抱かれている。まだ息はあるようだが、彼の呙悉猡悉錄Qまっているのだ。
「さあ、おいで──」
「や、やめ──」
 クディックは長い爪で犠牲者の喉を引き裂いた。犠牲者のす袱袱撙亢恧诵迈rな朱の色が走ると、クディックはそこに片手を突き入れ、一気に横に薙いだ。動脈が切断され、体中を巡っていた命の奔流が外へとその方向を変えて迸る。私は血のシャワーを浴びせられ、口の中に血が入ってこないように息を止めて駆け出す。だが、人間としての飢えと渇きに苦しんでいる私にとって、それはまるで再生を司る神酒の様に思えてくる。だが、その再生は人としてではなく、まったく別の生き物としてのものなのだ。すなわち、人としては死ぬに等しく、それこそが彼の言う「破滅」ではないのだろうか?
 逃げる、逃げる──。夜が明けるよりも速く、時間よりも、呙瑜辘猢ぉぁ

 きっと本気になればクディックは私に追い付く事が出来るのだろう。でも、今のところ私が本気で逃げているうちはそれ以上の追跡をしないようで、一旦振り切れば大丈夫だと思うのだが、果たしてこんな事が何時まで続くのだろうか。私が目を覚ます度に、誰かの命が奪われる。私がクディックを拒絶したと同じ数だけ関係のない人が殺される。とはいえ、自分でも永久にこんな状態が続けられないことも判っている。私が国境を超えたところで、クディックにはそんな事は関係なく、血の追跡を止めることはあるまい。いずれは彼の思惑通り、人間ではない魔性の物になってしまうのではないか。或いは、その前に自分が獣になって人を襲い始めることになるのだろうか。正直な話、最近では血を浴びるたびに自分の体が反応している事も認識できているのだ。それに気付くと共に、決まって意識の混濁が訪れる。上顎の犬歯が長く鋭く生長するのを感じ、歯茎に痛みと疼きを感じる。だが、それは耐えられない物ではなくて、むしろ心地よいものに思えてくるので更に驚愕と嫌悪感を覚える。何か自分の中のもう1人の自分が、胃の辺りから口元まで出てきているような錯覚も感じた。あと1歩、何かを契機として自分を失うことがあれば、瞬時に私は私でない別の私に体を支配されてしまうことだろう。
 頭が痺れるように痛い。自分が何か別のものへ変貌してしまう感覚を味わい、その波が去った後は必ず体の各器官の不調がやってくる。頭だけでなく、手足の関節も痛むようになってくると、歩くのもままならなくなってその場に崩れ落ちてしまった。夜が明けるまでの間に身を隠さなければ。見つかってはいけない、連れ戻されてはならない──。
 どうしてこんな事になってしまったのだろう?
 私は何も悪いことはしていないのに。どうしてこんな苦しい思いをしなければならないの?もう放っておいて欲しいな。このまま寝かせて、楽に死なせて──。
 ゴッ。
 私の頭を爪先で蹴る物がいる。痛い。ただでさえ頭痛に苦しんでいるのに、これ以上苦しめないで。
 ゴッ。
 私が顔を上げようとすると、自然にうめき声が出たのか、それが相手にも伝わったようだ。
「あんだ、姉ちゃん、生きてんのか。1人でこんなところで、何してんだ」
 私の前に立っているであろう男は、私を起こそうとはしない。目を開いて睨み付け様としたが、そんな力はなく、ただ目を細めて見つめる事ができただけだった。男は髪や髭を伸ばし放題にしており、獣の皮をかぶっているのか体中が剛毛に覆われているような印象を受ける。手には蛮刀を持っており、しかし狩人のような均整の取れた風体ではない。私を蹴ったのは、汚れたブーツのようだ。先に金具がつけられている。
「なんだ、それは、血か?汚ねえな。こんな服じゃ売れねえなあ」
──何を言っているの?
「まあいいや、適当に楽しんでから殺してやるよ。それとも先に死んだ方がいいか?死ぬより辛い事っていうのがこの世にゃあるってな。お前らみてえな姉ちゃんにも教えてやらあ」
 男が私の服に手をかけた瞬間、私は自分でも信じられないほどの速さで後方に飛び退いた。体の痛みに耐えながら、男の目を睨み返す。その目は蛮愚と悪意に満ちており、口元からは不潔な涎が滴っていた。
「お、元気じゃねえか。そういうのも面白っれえ。泣いて命乞いをさせてやらあ」
 愚鈍そうな外見とは裏腹に、男の動きはすばやく、咄嗟にかわしたつもりだったのだが、その右手から放たれた一刀は私の着ている血で汚れた衣服を切り裂いた。自分の胸元を見下ろすと、裂かれたブラウスの間から傷が見える。見る間に、血が滲み出してきた。
「おお、白いなあ。服は汚ねえが、中身は綺麗じゃねえか。金髪女ってのも久しぶりだあ」
 私の心の中に義憤が沸き起こる。こいつは私だけを狙ったんじゃないんだ。私のような抵抗力の弱そうな人間を狙っては、命を奪ったり所有物を奪ったりしてきたんだ。人間のくせに──。
 非力な人間のくせに──。
 突如として攻撃に転じた私に男は一瞬ひるんだ。顔面に力一杯の拳を入れると、弱りきった私の一撃でも、男の体勢を崩すことには成功した。男が身を立て直すより速く、私の左手は手刀の形をとって男の喉元に突き刺さった。喉笛を握ったまま、手前に引き千切る。そこまでの動作をほぼ一挙動で行った為、男は悲鳴を上げる暇もない。ひゅっ、という軽く息を吸い込んだような声を発したのみだ。こんなに薄汚れた男からも、皆と変わらない美しい紅色の鮮血が吹き出す。その血は男の気管を逆流し、口からごぼっと言う音を立てて血の塊が吐き出された瞬間、私の意識は途切れて行く。
 深いまどろみに落ちていくのと似た感覚。どうして人はいつも「落ちて」行くのだろう。そういえば、眠りに就く時にはこんなに意識できたことはなかったかな。落ちていく。なんて自由な気分なんだろう。今までくさくさと考えていたことがまるで意味無く思えてくる。もっと早く受け入れていれば苦しむ事もなかったのにな。
 最後に私の記憶にあるのは、舌に残る柘榴のように甘い酸味。
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