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楼主: sonei711

[大专专业课] 上外2010年新版日语基础(二)日语综合教程5册课文加最后总复习

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 楼主| 发表于 2011-7-15 17:09:46 | 显示全部楼层
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估计会看不清楚的吧,建议去买一本吧,也不贵的
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 楼主| 发表于 2011-7-15 17:10:14 | 显示全部楼层
本帖最后由 sonei711 于 2011-7-21 15:11 编辑

第二課 自然との出会い

本文

ブナ林の四季

  雪国の春はブナ林の芽吹きから始まると言ってよい。もちろん細かく見ればブナの緑に先駆けてマルバマンサクが咲き、タムシバ(ニオイコブシ)が咲く。しかし人の心にしみじみと春の喜びを感じさせてくれるのは、このブナの芽吹きであろう。まだ風も冷たく、根雪が林地に残っているうちに、ブナの新緑はうっすらと稜線を染める。あるかなきかのこの新緑に、長く厳しい冬に耐えてきた雪国の人は心のときめきをおさえることができない。しかし、まだはっきりと春が訪れたわけではないから、このときめきをあからさまにするのはもう少し待とう、そういった心境だと言えばいいだろうか。この時こそが雪国に暮らす人々にとって最高に幸せなときなのである。
  やがて、だれの目にも明らかに新緑は稜線を染めながら登り、全山を緑で覆っていく。そのころには林内の根雪もほとんど消えて、つつじ類をはじめ、低木類が林床を飾るのである。しかし、いつもながらの春の訪れとは言いながら、どうしてこうも順序を間違えず、次から次へと植物たちは動き出すのであろうか。その移り変わりは、あたかも生きものたちの成長の姿そのもののようである。幼年期から少年期へ、さらに青年へと成長していくように、森林全体もまた季節とともに変化をとげていく。天の摂理とは、まさにこのようなことを言うのではなかろうか。
  夏から秋にかけては実りと収穫の季節である。もっとも収穫というのは人間をはじめ動物側のことだから、植物にとって最も生命感にあふれる時期こそが夏なのだと言ったほうがいいかもしれない。林業にとってはやっかいな真夏の下刈りという作業も、雑草や小低木からみれば、とんでもない迷惑なことである。ここには人それぞれの自然がある。自然保護と林業振興との、いずれの立場が優れているというのでもない。人はそれぞれの立場で自然に接するのだということを、我々は心の底で認め合いながら生きているのである。
  いかなる存在にも凋落の時が来ることを、自然はその長い年月の移ろいの中でも、また一年という短い間にも示してくれる。やがてブナの葉は落ち着くし、樹木全体が冬に備えた厳しい表情に変わっていく。その厳かなたたずまいといい、また風雪に耐えるけなげな姿といい、ブナ林が真の迫力を見せるのに、冬に勝る季節はないであろう。ある人はその姿をおそろしいと言うかもしれない。またある人はそれこそ美の極致と評価するかもしれない。評価はどうあれ、黒々と静まり返った冬のブナ林の中では、もうすでに何かが動き始めている。巡り来る春に、再び山を覆いつくすブナの葉が、早くも必要な枚数だけ冬芽の中に準備されているのである。ここでもまた、わたしたちは自然の偉大さに驚かずにはいられない。自然の中に身を置いてみて、人間は初めて自然の大きさにふれることが出来るのである。同時に、大自然の一員として、その中に包み込まれた自分をも認識できるであろう。
  ブナ林という自然界の片隅の、しかもその移り変わりの一断面をのぞいてみただけでも、自然は、いかに多彩で奥行きが深いものであるかを知ることができる。その奥深さが実感できるのは、そこに人間がかかわっているからにほかならない。確かに日本人は自然に極めて強い愛着を抱いている。また自然に対して研ぎ澄まされた感性を持っているのも事実である。それは日本文化のさまざまな領域にも反映されていよう。しかし、それはあくまでも抽象的な、観念的な自然でしかないのではなかろうか。わたしたちはもっと現実の自然との一体感を取り戻さなければならない。自然を人間から切り離して眺めるのではなく、むしろ自然を友とし、自然の心に迫ることが大切なのである。
  これまで日本では、植物の名前一つにしても、むしろヨーロッパの文学作品から多くを学んだような気がしてならない。実際に見たこともない植物なのに、スグリとかアラセイトウなどという名前はよく目にしたものである。しかもそれらの植物は、物語の背景としてかなり大切な役割を果たしていた。それに比べれば、詩や歌はともかくとして、日本の物語に登場する森の植物は、その種類も数もしれたものである。ブナなども、今でこそ、名前を知らない人たちは少ないが、ほとんど日本の物語の中に現れていない。こういう、ちょっとした例からみても、日本人がどちらかといえば、情感という側面ばかりで自然と付き合ってきたことを、改めて思わずにはいられないのである。これから必要なのは、実際に大自然の中に身を置き、そこに新たな楽しみを見いだしていくことであろう。
  何はおいても、まず山へ行き、森を散策し、自然界の生の鼓動に耳をかたむけよう。こうした自然とのふれ合いの中で、自分自身の心も再び息づいてくるに間違いない。

竹とともに
  
  竹を切って煮て、臼でついて、柔らかい餅にして、紙に漉いたり、人形面にしたりして二十年たつ。何もかも竹で作った人形で物語を舞わせてみようとの魂胆からだが、やっているうちに、ものも言わぬ竹ながら、何やかや教わるものが多い。一つは、この植物は、寒冷地の軽井沢ではいくら植えても笹になって竹に成長しなかったが、在所の若狭などでは、一年に親の背丈を越す新竹となり、ほうっておくと、藪はジャングルだ。そこで、工房も最近は若狭へ移して、宅配便で運んだ手間を省いている竹紙は、なかなかあじがあって、素人が漉いたのでも、筆ののりがいい、岩絵の具のすばらしいにじみと鮮やかさも格別だ。だが、その紙も、筍の皮、親竹の古いのなど、いろいろ取り混ぜて漉かねばいいのができぬ。そこらあたりに、頑固な個性があるようなきがするのである。同じ繊維でも、若いのと親とでは人間でも違うように、うまく言えないが、まぜて一人前の紙になるあたりがおもしろい。
  若狭あたりでは、ほとんどの家は適当な藪を持っていて、筍を食うことからはじめ、何やかや生活用具に、手近なのは箸から、火吹き竹、洗い物かご、桑負い、野菜負い、うなぎ捕りのかごに至るまで、竹を使って親しんできた。だが今はほとんど村から竹細工師は消えた。便利なポリエチレン製の容器や、合成樹脂の登場で、農家は洗い物受けのかごまで、ビニール製の、一色か二色かの量産品を愛用している。したがって、昔は、家の周りに干して合ったかごや道具に風味を感じだのに、合成樹脂ではゴミみたいに思える。だが、人々はそれを使い捨てては新しいのを買っている様子だ。そして、持ち藪をジャングルにしている。竹が泣いている。
  子供のころの記憶だけれど、僕の生家は藪に囲まれた村はずれだったので、夕暮れの鐘がよそより細く届いた。なぜよそより細かったか、今にしてわかった。竹は空洞に音をためて生きるのだそうだ。それゆえ、藪に囲まれていると、自然の防音装置になり、シンと閑寂なのである。尺八の音色が美しいのは、生まれてずうっとためた音を、人の息に誘われて引き出すからだ、と言った人がいた。まさかと思って聞いていたが、あるいは事実かもしれぬ。竹にきいてなければわからぬが、生まれた場所に小さな清流でまあれば、日がなそのせせらぐ音は子守唄だったはず、親の梢の葉にそよぐ風も、子は音楽のように聞いて育ったのかもしれぬ。
  中国の成都へ行ったことがある。四川大学のそばに望江園というたけの竹の公園があると聞いて行ってみた。巨大な竹の藪を、上手に切って遊歩道にしている。竹は根が張るから、よそへ出ぬようにがっちり石垣がある。案内者にきくと、三百種を越す竹の保存だそうだ。石垣のわきは道になっていて、適当な日が落ちてくる。そこに石の机がある。わきに石の丸いすがあって、大学生が、本を読んだり、ノートをとったりしている。
    「蚊やブヨに襲われませんか。」
   きいてみたら、
  「蚊やブヨがいてこそ鳥がやってきますよ。すずめの来ない竹薮は寂しいでしょう。」
との答えだった。成都は竹の都と言っていい。百貨店をのぞいても、いすから机から、一切の生活用具に竹製が多く、しかもそれが安かった。器用に編み込まれた紋様入りのフタつき大かごが千円もしない。赤ちゃんが竹製の乳母車でおされてゆくのも見た。竹の在所が、長い年月を、竹とともに暮らしている。当たり前のことに感動をおぼえた。
  京都の西の京など、昔は竹薮の海だった。そこを開発して、今は巨大都市が誕生している。日本の場合は、根こそぎ地の皮をめくるみたいに、竹を切り殺して、造成に取りかかる。それゆえ、町ができても、そこに、成都のようないくつかの竹の生木をかたまりとした、歩道も、アプローチもない。殺風景だ。竹が号泣している気がする。
  「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ。」と言ったのは昔の俳聖である。僕ら門外漢には、竹の嘆きを深く聞く才覚はないが、七日も煮て、三日も水車臼でついて竹餅を作っていると、青竹だった生命がもう一つの生命に化身して行くすばらしさが見えてくる。そうして、その竹がどのような歴史を生きたかについても考えさせられる。在所の藪のありかはだいたいわかっているので、そこの持ち主の長男で、戦死した同級生のことや、もちろんこれも冥界の人だが話好きだった親爺さんの黒い脂ぎった顔などまで思い出されてくる。僕は、このごろ自然というものは、やっぱり頑固に守らないと、歴史が崩れるような気がする。身近の作業の日常が、そんな思いにさせるのである。
  学知世界もいいが、たまには竹がためてきたことを聞いてやる時間は、これまた美しいものとの邂逅と言える。この世の末期のみやげには学知よりも、そばに青竹が一本光を浴びていればいい、そってのほうに美しさがある、と思う。


                                                                   (『高校国語二』第一学習社より)


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发表于 2011-7-18 13:04:08 | 显示全部楼层
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楼主辛苦了
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发表于 2011-7-19 12:34:09 | 显示全部楼层
要是能买到就好了,可惜我跑遍了厦门的各大书店都没有卖的。
别说辅导教材没有,就连综合日语教程的教材也没有卖的。
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 楼主| 发表于 2011-7-21 15:08:35 | 显示全部楼层
本帖最后由 sonei711 于 2011-7-21 15:13 编辑

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我也不是在书店买的,都是网上买的,建议你到当当网、卓越网或者淘宝网上去看看,肯定能买到的,网上的价格应该还比书店里出售的便宜,你要买的几本书的具体名称叫“日语综合教程5、日语综合教程6、日语综合教程第5/6册课文翻译与练习答案  ”,你可以试着去搜一下,一定会有收获的。

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 楼主| 发表于 2011-7-21 16:02:01 | 显示全部楼层
本帖最后由 sonei711 于 2011-8-9 12:56 编辑

译文

与自然的邂逅

山毛榉林的四季
可以说雪国的春天要从山毛榉林吐出新芽开始。当然仔细观察的话,在山毛榉泛出新绿之前,圆叶金缕梅和柳叶木兰就已开花。但是使人们深切地感到春天喜悦的,或许还是这个山毛榉的吐翠吧。在北风还冷,林地里积雪未化之时,山毛榉的新绿却已悄然披上了山岭。这个隐隐约约的新绿,使忍过漫长严冬的雪国的人们无法按捺心中的欢悦。但春天还没有真正到来,要公然展现这种欢悦还要稍稍等待,可以说是这么一种心情吧?正是这个时候,对于雪国里生活的人来说是最幸福的时刻。
    不久,谁都可以清楚地看到,新绿渐渐染青了山的轮廓,全山披上了绿装,这时森林里的积雪也几乎消融干净,杜鹃等灌木类开始打扮森林的地面。但是,虽说是永远不变的春天的来临,但为什么植物们会如此准确无误地轮番登场呢?这些变换恰如生物们成长状态本身一样,从幼年期到少年期,再向青年期成长下去。森林整体也与季节一起完成着变化。所谓上天的安排,说的不正是这样的事吗?
    从夏到秋是收获果实的季节,但所谓收获是人类等动物方面的事情,对植物来说或许可以说最为生机勃勃的时期就是夏天了。对林业来说,麻烦的盛夏里的林间锄草工作,在杂草呀小灌木来看,是意想不到的飞来横祸。在这里有人们各自不同的自然。自然保护与振兴林业,并不是说它们任何一种观点都是很好的,我们是在内心深处一边对人们以各种不同的立场接触自然这一事实给予认可一边生存着的。
    自然在长年累月的变化推移里,以及在一年这短暂时间里都向我们展示,任何事物都会有凋落的时候。不久山毛榉的叶子稳定下来,整个树林向准备过冬的严峻的事态转变。那种严肃的姿态也好,那抵抗风雪的坚强的身影也罢,山毛榉展示真正动人之处没有比冬季更好的季节了。或许有人说这种样子很可怕,或许有人评价说唯此才是美之极致。评价如何暂且不谈,在漆黑寂静的冬季的山毛榉林中,已经有某种东西开始在活动。将在轮回复至的春天里再次覆盖山峦的树叶,早就按相应片数在冬天的嫩叶中进行着准备了。在这里我们也还是不得不对自然的伟大感到惊叹。将自己的身体置于自然之中,人才能感触到自然的博大。或许在同时,也能够认识作为大自然的一员被包含其中的自己吧
    在我们仅仅对山毛榉这一自然界的一角,而且是它的变换过程中的一个横截面的管窥中,便可知道自然是何等多姿多彩,又是何等博大精深。能够切实感觉到其精深,只是因为它与人类息息相关。的确,日本人对自然抱有极其强烈的爱,对自然抱有敏锐的感受力,这也是事实。这在日本文化的诸多领域里都得到反映,但是,说到底那也仅仅是抽象,观念性的自然而已,我们必须找回与更加现实的自然的一体感。不是把自然从人类世界剥离出去来观察,而是把自然作为朋友,去接近自然,这才是重要的。
    以前在日本,即使是植物的一个名字,也给人一种很多是从欧洲文学作品中学来的感觉。虽然是实际上并未见到过的植物,醋栗啦洋紫罗兰等名称却经常看到。而且这些植物作为故事的背景起着非常大的作用。与此相比,诗与歌暂且不谈,在日本故事中出现的森林的植物,种类也好,数量也好都非常有限,山毛榉也是一样,现在不知道它名字的人很少,但几乎没有在日本的故事中出现过。从这些微不足道的例子来看,不得不再次这样思考:日本人总而言之只是在感情这个侧面与自然打交道。今后需要做的是切实地置身于大自然之中,在那里找出新的乐趣。
    别的先不管,首先上山去,去森林中散步,去倾听自然界生命的搏动。在这种自然的接触当中,自己自身的心也必定会再次激动起来。

   
同竹在一起
    切竹子,煮竹子,再放到臼中捣成柔软的糕,制成纸,或制成人偶面具,就这样过了二十年,原打算将世间的一切都用竹制人偶的舞蹈讲述出来,而在这样做的过程中,却从不会说话的竹子那里学到各种各样很多的东西。其中一个就是,这种植物在寒冷的轻井泽无论怎么种植也不会出苗并长成竹子,而在故乡的若狭那里,一年就会长成超过父母身高的新竹,不去管它,竹丛就变为密林。于是工作室最近也迁至若狭。省去寄送时间的竹纸,别有妙处,即使是生手制作的也很好写,颜料的洇渗效果非常出色,色彩也很鲜艳。但是这种纸也是必须将笋皮与成竹中的老竹等各种原料掺杂在一起,才能制出上等货色来的。在这里使人感觉到带有顽固的个性。即便同一种纤维,嫩的与老的就像人一样各有不同,我也不能很好地形容,但是掺杂在一起成为出色的纸这一点非常有趣。
    在若狭一带,几乎所有的家庭都拥有一定数量的竹丛,从吃竹笋到各种各样的生活用具,身边物品从筷子,到吹火筒,洗衣筐,桑叶背篓,蔬菜背篓,捕鳝篓等,都使用竹子,感觉很亲近。但是现在竹艺师却几乎从村子里消失了,由于方便的聚乙稀,合成树脂的出现,农家甚至连洗物筐都喜爱上塑料制成的一色或两色的批量生产的产品。于是以前在房子周围晾晒的竹筐及工具使人感到别有风味,而且合成树脂却让人感觉像垃圾一样。但是人们还是在不断地用了扔,扔了再买新的。于是自己的竹丛变成了密林。竹在哭泣。
    这是我孩童时代的记忆,我的家在被竹丛包围着的村头,在那里,远处传来的傍晚的钟声要比别处微弱?为什么比别处微弱?现在明白了。据说竹子是把声音积存到容洞里而生存的。因此,被竹丛围起来的话,就会成为自然的隔音装置,便会寂静起来。有人说萧的音色之所以美,是因为它自出生以来一直积存的声音,被人的气息带出来了。听的时候虽满腹狐疑,但那或许就是事实吧。虽然是不问竹子不会知道,如果在出生的地方有股小小的溪流,那终日流淌的声音就应该是摇篮曲,吹拂老竹叶梢的风声,对小竹子来说也像音乐一样,小竹或许就是听着这种音乐长大的。
    我去过中国的成都。我听说四川大学旁边有个叫望江园的竹子公园就去了一趟。从巨大的竹丛中巧妙地切割出步行道。竹子的根会扩张,为了防止它长到外边,砌有结实的石墙。经询问导游,说是保存有300种以上的竹子。石墙的旁边被铺成小路,阳光适度地照射下来。那里有石头的桌子,旁边有石头的圆凳。大学生们正在那里读书,做笔记。“没有蚊虫叮咬吗?”我问道。“正因为有蚊虫鸟才会来呀。麻雀不来的竹丛太冷清了吧?”学生答道。
    成都可谓竹之都。看看百货商店,从椅子桌子起,整个生活用具中竹制品都很多,而且很便宜。编得很好的带着有花纹盖子的大篮子连1000日元都不用,也看到有人推着坐着婴儿的竹制儿童车。竹乡长年累月与竹共同生活着。对于这些非常普通的事我却非常感动。
    京都的西之京等地以前曾是竹丛的海洋。对那里开发后,现在那里诞生了巨大的都市。日本的情形是彻底地像把地剥一层皮一样,砍光竹子来平整土地。因此,城市建成后,那里也没有像成都那样的由若干竹林方块形成的步行道和连接建筑物的小路。毫无雅致可谈。我感到竹子在痛哭。
   “松事向松学,竹事向竹学”。说这话的是古代的俳句大师,我们这些门外汉,虽没有深深感觉竹的哀叹的才智,却目睹了经过七天的熬煮,三天的捣制,制成竹糕,曾经是绿竹的生命化身为另一个生命的那种伟大。并且那竹子是在什么样的历史中生存过来的也令人深思不已。因为故乡的竹丛所在大体上都知道,故而使我甚至想起了那个竹丛主人的长子,战争中死去的同学,以及健谈的老爷子(当然他也已是另一个世界的人了)的油黑发亮的脸。我感觉到,现在所谓自然的这个东西,若还是不能持之以恒地加以保护的话,那么历史就要崩溃了,身边日常的生活工作,使我产生了这种想法。
    学问世界也不错,但是,偶尔去听听竹子积存起来的声音,可以说这种时候也是与美好事物的邂逅。对于今世终结时的礼物,比起学问来,在我身旁有一株绿竹沐浴着阳光更好。在那里面存在着美。我这样想。


新しい言葉

ブナ  山毛榉
芽吹き(めぶき)新芽
先駆ける(さきがける)先驱、领先
丸場満作(まるばまんさく)园叶金缕梅
たむしば  柳叶木兰
辛夷(こぶし)日本辛夷
根雪(ねゆき)冬天的积雪
新緑(しんりょく) 新绿
うっすら(と) 薄薄地
稜線(りょうせん)  山脊
あるかなきか(有るか無きか) 或有或无
ときめき 心跳
心境(しんきょう)心境
全山(ぜんざん) 所有的山
つつじ 杜鹃
低木(ていぼく)矮木
摂理(せつり)天意
下刈り(したがり)割去树下的草
凋落(ちょうらく)凋落
厳か(おごそか)庄严
佇まい(たたずまい)样子
迫力(はくりょく)动人的力量
極致(きょくち)极致
黒々(くろぐろ) 乌黑
静まり返る(しずまりかえる)万籁俱寂
冬芽(ふゆめ)冬芽
多彩(たさい)多彩
奥深い(おくぶかい)内容深奥的
愛着(あいちゃく) 留恋
研ぎ澄ます(とぎすます) 变得敏锐
取り戻す(とりもどす) 挽回、恢复
すぐり 醋栗
あらせいとう  洋紫罗兰
知れた(しれた) 有限的
措く(おく) 除去
散策(さんさく) 随便走走
生(せい)生计
鼓動(こどう)(心脏的)跳动,搏动
触れ合い(ふれあい) 接触
息づく(いきづく) 开始活动
臼(うす) 磨
つく(搗く) 捣
漉く(すく)抄
魂胆(こんたん) 计谋、阴谋
なにやかや(何やかや)这个那个、种种
軽井沢(かるいざわ)  地名
笹(ささ) 细竹
在所(ざいしょ) 故乡
藪(やぶ) 草丛
ジャングル(jungle)  原始森林
工房(こうぼう) 工作室
宅配便(たくはいびん)  快递
のりがいい  好写
岩絵の具(いわえのぐ)(用在日本画上的)一种矿物质粉末颜料
滲み(にじみ)渗
筍(たけのこ) 笋
手近(てぢか) 手边、眼前
細工(さいく) 细工、工艺品
ポリエチレン(polyethylene) 聚乙稀
ビニール(Vinyl)  塑料
生家(せいか) 出生的家
閑寂(かんじゃく) 恬静
尺八(しゃくはち) 萧
音色(ねいろ)  音色
日がな(ひがな)   一整天
せせらぐ  溪流
子守唄(こもりうた) 摇篮曲
遊歩道(ゆうほどう) 散步道
がっちり  坚固、结实
石垣(いしがき) 石墙
ブヨ   蚋
すずめ(雀)麻雀
紋様入り(もんよういり) 有花纹
乳母車(うばぐるま)婴儿坐小推车
根こそぎ(ねこそぎ)全部、干净
造成(ぞうせい) 修成、做成
生木(なまき)刚砍下未干的树木
アプローチ(approach)(道路通往建筑物的)小道
殺風景(さっぷうけい)缺乏风趣,不风雅的
才覚(さいかく) 才智
青竹(あおだけ) 青竹
化身(けしん) 化身
ありか(在り処) 所在
冥界(めいかい) 阴间
親爺(おやじ) 父亲,老头子
脂ぎる(あぶらぎる)  油光发亮,肥胖
学知(がくち)  学问和品德
邂逅(かいこう) 邂逅
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发表于 2011-7-22 14:56:03 | 显示全部楼层
谢谢楼主
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发表于 2011-7-25 10:39:28 | 显示全部楼层
好贴  大家一定要顶上去~楼主辛苦了
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发表于 2011-7-25 12:54:49 | 显示全部楼层
顶!去年就考到山毛榉那篇课文了。
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发表于 2011-7-25 12:59:07 | 显示全部楼层
请问今年有哪几课不考吗?还和去年一样的吗?
去年差几分没过T  T
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发表于 2011-8-2 11:15:10 | 显示全部楼层
楼主还更新吗
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发表于 2011-8-2 14:55:12 | 显示全部楼层
楼主辛苦了,真是太感谢了
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 楼主| 发表于 2011-8-5 17:31:43 | 显示全部楼层
本帖最后由 sonei711 于 2011-9-1 12:15 编辑

不好意思,最近有点忙,来上第三课了。

第3課   水の東西

本文

水の東西
  「鹿おどし」が動いているのを見ると、その愛嬌の中に、なんとなく人生の気だるさのようなものを感じることがある。かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けがついていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まりながら、やがて水受けがいっっぱいになると、しーそーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気に解けて水受けが跳ね上がるとき、竹が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音をたてるのである。
  見ていると、単純な、ゆるやかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さを弥が上にも引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、「鹿おどし」は我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けは帰って流れてやまないものの存在を強調しているといえる。
  私はこの「鹿おどし」を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。日本の古い文化がいろいろと紹介される中で、あの素朴な竹の響きが西洋人の心をひきつけたのかもしれない。だが、ニューヨークの銀行では人々はあまりに忙しすぎて、一つの音と次の音との長い間隔を聞くゆとりはなさそうであった。それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴水のほうが、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。
  流れる水と、噴き上げる水。
  そういえばヨーロッパでもアメリカでも、町の広場にはいたるところにみごとな噴水があった。ちょっと名のある庭園に行けば、噴水はさまざまな趣向を凝らして風景の中心になっている。有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という噴水の群れが庭をぎっしりと埋め尽くしていた。樹木も草花もここでは添え物にすぎず、壮大な水の造型がとどろきながら林立しているのに私は息をのんだ。それは揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというよりは、音を立てて空間に静止しているように見えた。
  時間的な水、空間的な水。
  そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統の中に噴水というものは少ない。せせらぎを作り、滝をかけ、池を掘って水を見ることはあれほど好んだ日本人が、噴水の美だけは近代に至るまで忘れていた。伝統は恐ろしいもので現代の都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものほど美しくない。そのせいか東京でも大阪でも、町の広場はどことなく間が抜けて、表情に乏しいのである。
  西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたと言うこともあるだろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を作らなかった理由は、そういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のように造型する対象ではなかったのであろう。
  いうまでもなく、水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、おそらく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。「行雲流水」と言う仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現われではなかっただろうか。
  見えない水と、目に見える水。
  もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのに、もはや水を見る必要さえないといえる。ただ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛けだといえるかもしれない。

文化論の落とし穴

  ひと昔前、眼鏡をかけカメラを肩にして、猫背の観光客を見たら日本人だと思え、という浅薄な冗談がはやったことがあった。演説やあいさつをする時、アメリカ人はまずジョークで始めるが、日本人はおわびと弁解で始めるというのも、言い古された決まり文句の一つだろう。西洋の文化は罪を基盤とした文化だが、日本人の行動の規範は他人に対する恥の感覚であるというのも、もう長らく語り継がれてきた日本人への先入見である。わけのわからない微笑を浮かべて不気味な国民だという非難から、とかく感情的でヒステリカルに行動するという悪口に至るまで、過去百年、さまざまなタイプのレッテルが日本人と日本文化に張られ続けてきた。
  こうしたレッテルは、確かにある程度、日本人の現実を言い当ててはいるものの、たいていは事実の一面が誇張されているのは、言うまでもない。しかも困ったことに、そうした事実が変わったのちのも、イメージは一つの固定観念として、ひとり歩きをすることが多い。どうやら、人間にはだれしも他国の文化や他民族の民族性について、安易な固定観念を抱いて安心する癖があるらしい。日本人についてばかりではなく、世界のさまざまな国民や民族の間で、互いにエスニック.ジョークというレッテル張りが楽しまれてきた。ポーランド人はお人よしであり、イタリア人はいつも女性を口説いているし、ドイツ人は数字と規則しか信じないなどというのは、その典型的なものだろう。
  それにしても、とりわけ日本人については、近年に至って、この文化論的なレッテル張りがいささか危険な域に達しているように見える。日本の急速な経済成長と、世界の中での地位向上に伴って、日本人を見る外国人の目がしだいに鋭く、険しくなってきたということだろう。貿易摩擦をめぐって、今では日本人の経済活動を批判するだけではなくて、その背後にある日本社会の特性、文化的な伝統そのものを攻撃するといった論調が目だってきた。アメリカのある政府高官が、日米の貿易不均衡を正すためには、日本の文化そのものを変えなければならないという、驚くべき発言をしたと報道されてから、もうずいぶんの時がたった。
  だが、実はそれ以上に不幸なことは、これに対応して日本人の側にも、自分たちの文化にある固定観念の枠をはめて、それを変え難いものとするかたくなな態度が芽生えてきたことである。経済の問題をめぐって、例えば「日本の経営」という言葉が誇らしげに口にされ、その背後にある集団への忠誠心とか、協調心というものが過剰に強調される傾向が見られる。
  けだし、一般に他人に固定観念のレッテルを張り、その人の性格や行動を決まり文句で決めつけると、我々の頭の中は明快になり、心が楽になるのは事実である。現実が複雑であったり、世界がとらえどころがないと、我々は不安になる。とりわけ、物事を精密に考えることの苦手な人たちは、とかく現象の一面だけを見ることで思考を中断しようとする。蛇は地中に潜るものだし、鳥は空を飛ぶものだ。そう思い込んでいれば、我々は蛇や鳥のそれ以外の微妙な現実について、忘れて暮らすことができる。同じように、我々は、地球上にともに生きる他の国民や民族について、常にこまやかな理解を示すほど暇でもなければ、また強い精神力を持っているわけでもない。そこで、エスニック.ジョークから高級な文化論に至るまで、わかりやすい一面的な説明を聞くと、それに飛びつくことになるのだろう。
  これに対して、逆に自分自身について、固定観念をもったり、自分の属する国民や民族に文化的レッテルを貼りたがる性癖は、一見わかりにくい心理のように見える。しかし、これも実は、人生を安易かつ簡単に生きるための、怠け者の知恵だと見ることもできる。というのは、この人生には芝居のような一面があって、人はそれぞれ自分で決めた役を演じ、そのことによって心を安らがせることができるからである。
       例えば、「男らしさ」という言葉があって、かつての男たちは、どこの国でも男らしく生き、男らしく行動するように教育されてきた。すると、仮に人生の悲しい事件にぶつかった時、人は男らしさという役を演じることによって、それだけで悲しみに耐えることができる。親から習ったり、本で読んだ男らしい人物のことを思い浮かべて、こういう時にはどういう顔をして、どういうひと言を口にすればいいかを考える。そして、それを身をもって再現することによって、無意識のうちに一種のヒーローを演じて自分を励ますことができる。複雑な人生のそれぞれの局面の中で、一つ一つの行動の形を決めていくのは、だれにとっても簡単なことではない。その場合、もし我々が日本人らしさとか、日本の文化的伝統といった簡単な観念を持っていると、それを演じることによって自分の進路を簡単に選べるにちがいない。歴史を学び、あるいは伝説の中の英雄物語を読み、最も日本人らしい人間はこういう時どう行動するだろうかと考えると、特に危機に臨んだような場合につよくなれるのである。
  しかしこの場合、注意しなければならないのは、とかく問題の「らしさ」の持つ多様性を忘れて、その一面だけを安易にのみ込む危険があることだろう。実際、男らしさといっても、考えてみれば、ずいぶん多様な側面を含んでいるはずであって、ある人は男らしさと言えば腕力が強く、決断力があって、大まかに行動する人間のことを思い浮かべるかもしれない。しかし現実には、男は女性よりもはるかに小さなことが気になり、人間関係のこじれにこだわり、よく言えば繊細であり、悪く言えば感傷的になる性質も持っている。男らしく振る舞うのは結構だとしても、この二つの側面のどちらを選ぶかで、我々の行動は全く違ってくるはずである。そして、もし人が正確な目で事実を分析しないで、早のみ込みに一つの先入見にとらわれれば、行き方はたちまち間違った方向に固定されてしまうことになろう。
  考えてみると、我々は自分をあるしかたで認識するが、実は、その自己認識がまた自己の実体を作るという側面を持っている。人間は、生きている自分を見つめて自分のイメージを作るだけではなくて、いつの間にか自分で作ったイメージに合わせて、逆に現実を行き始めてしまうという性質を持っている。文化論についても同じことで、もし誤った民族性のイメージを作り上げてしまうと、その後の行動の中でこのイメージは補強され、増幅され、私たちを思いがけない方向に引っ張って行くことになる。文化論というのは、決して単なる事実の認識であるだけではなくて、実は行動の規範であり、またひと回りして認識の枠組みにもなるという、恐ろしい事実を見つめておかなければならないだろう。
  しかも、男らしさなどといういわば生理的、自然的な性格と比べた時、一つの社会の文化は格段に複雑であり、多様であって、それだけにその認識は恣意的になりがちである。長い歴史の中で無数の個人が集まって、半ば無意識のうちに作り上げてきた集合的な性格、あるいは生活の様式が文化というものである。したがって、一つの文化について考えるにしても、その歴史の中の時点に焦点を当てるか、あるいは多様な広がりのどの一点を強調するかによって、まったく違ったイメージが浮かび上がってくる。それだけに、文化および民族性のイメージを考えるにつけては、我々は特別に慎重であり、焦点の選び方に注意深くあらねばならないはずである。
                                         
                                                                                                                         (『新選国語1改訂版』尚学図書より)


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发表于 2011-8-6 23:39:09 | 显示全部楼层
真不知道怎么感谢楼主了~~~
激动地连鸡皮疙瘩也起来了~~~
语文不好~~~
不知怎么形容~~~
谢谢楼主~~~
%>_<%~~~
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 楼主| 发表于 2011-8-9 16:36:26 | 显示全部楼层
本帖最后由 sonei711 于 2011-9-1 12:14 编辑

新しい言葉

鹿おどし(しかおどし) 竹筒敲石
愛嬌(あいきょう) 亲切、可爱之处
けだるい(気だるい) 倦怠的
シーソー(seesaw) 跷跷板
水受け(みずうけ) (水车的)戽斗
筧(かけひ) (架在地面上的)引水筒
溢す(こぼす)(液体物等)洒,发牢骚
跳ね上がる(はねあがる) 跳起来,飞濺
くぐもる  (声音)含混不清
音を立てる(おとをたてる) 弄出声音、发出声响
解ける(ほどける) 解开
時を刻む(ときをきざむ) 告知时间
静寂(せいじゃく) 寂静
いやがうえに(弥が上に) 越发
引き立てる(ひきたてる) 使。。。显眼,鼓励
せき止める(せきとめる) 堵住,拦住
待合室(まちあいしつ) 候车室
素朴(そぼく)朴素,单纯
ひきつける  拉到近旁、吸引
ゆとり  宽裕
華やか(はなやか) 华丽
寛ぐ(くつろぐ) 舒畅、轻松自在
趣向を凝らす(しゅこうをこらす) 别具匠心的
別荘(べっそう)别墅
草花(くさばな)花草
添える(そえる)添、附加
轟く(とどろく)轰鸣
息を呑む(いきをのむ) (因惊险等)吃惊
迸る(ほとばしる)迸出、喷出
せせらぎ  浅溪
間が抜ける(まがぬける) 疏忽、大意
ねじ曲げる(ねじまげる) 拧弯
粘土(ねんど) 粘土
行雲流水(こううんりゅうすい) 行动流水
裏付ける(うらづける) 证明、证实
間隙(かんげき)间隙、隔阂
一昔(ひとむかし)往昔
猫背(ねこぜ)驼背
浅薄(せんぱく)肤浅
ジョーク(joke) 诙谐
言い古す(いいふるす)老说没新意了、老生常谈
決まり文句(きまりもんく) 口头禅
長らく(ながらく)长久
語り継ぐ(かたりつぐ)传说下去
先入見(せんにゅうけん)先入之见
ヒツテリカル(hysterical)歇斯底里的
レッテル (letter) 商标
誇張(こちょう)夸张
ひとり歩き(ひとりあるき) 流言不胫而走
どうやら  好容易才
だれしも(誰しも)不论谁
エスニック.ジョーク(ethnic joke) 有关民族特性的笑话
ポーランド(Poland) 波兰
お人よし(おひとよし) 忠厚
正す(ただす) 改正、订正
枠(わく)框
嵌める(はめる) 嵌
頑な(かたくな) 顽固
芽生える(めばえる) 发生
誇らしい(ほこらしい) 骄傲
けだし(蓋し) 想来
とらえどころ  要点
取り分け(とりわけ) 特别
細やか(こまやか) 细致
一面的(いちめんてき)片面的
飛びつく(とびつく) 猛扑
性癖(せいへき) (被吸引得)急于做。。。
安らぐ(やすらぐ)癖好
身をもって(みをもって)亲身
ヒーロー(hero)英雄
進路(しんろ)去路
決断力(けつだんりょく) 决断力
大まか(おおまか) 粗枝大叶
拗れ(こじれ)别扭
拘る(こだわる)拘泥
繊細(せんさい)细腻
早飲み込み(はやのみこみ)自以为是
補強(ほきょう)加强
増幅(ぞうふく)增幅
単なる(たんなる)框架
枠組み(わくぐみ)轮廓
格段(かくだん)特别
恣意的(しいてき)随意的
あてる      对准、贴紧
慎重(しんちょう)小心谨慎



译文   第3课  水的东西观

水的东西观
看到“竹筒敲石”的运动,常常不自觉地感到在她的可爱之处有着像人生的慵懒一样的东西。小巧玲珑的压板的一端装着接水斗,空中引水筒的水一点点地在接水斗里积多,在安静中紧张逐渐高涨,不久水斗里水满了,压板哗啦一下倾倒过来倒出水,紧张一下子释放掉,接水斗被弹起,竹子敲到石头上发出“梆——”的浑厚优美的声音。
    看上去单纯而缓慢的旋律,无限地重复下去。紧张高涨,然后一下子释放。什么事也没有的徒劳又从头开始。只有那低沉的声音在报知着时光的流逝,使人越发感觉到庭院的寂静和时间的漫长。是水的流动,还是时间的流动,“竹筒敲石”使我们感受到流动的东西。可以说通过对这种流动的阻断和分割,这种装置反而正在强调着流动不止的某种存在。
    我在纽约的大银行的休息室见过这种“竹筒敲石”。在被介绍的各种各样的日本古老文化中,这个简朴的竹子的响声,或许是吸引西洋人心灵的东西。不过,在纽约的银行里人们过于匆忙,似乎不太有听完两次敲声之间的长长间隔的闲暇。比起这个来窗外喷涌的华丽的喷泉,在这里更能作为水的艺术,令人的心情明显地得到放松。
    流动的水与喷泉的水
    说起来欧洲也好美洲也好,城市的广场上到处可见美妙的喷泉。只要去稍微有点名气的庭园,就会看到喷泉独具匠心,成为风景的中心。有名的罗马郊外的埃斯特家的别墅等,数百个喷泉把庭园完全掩埋起来。树木花草在这里只不过是点缀,到处林立着轰鸣着的巨大的水的造型,令我惊讶不已。它们看上去就像摇动着的巴洛克雕塑一样,与其说是喷涌,不这不如说更像是发着声音静止在空间里一样。
    时间性的水,空间性的水。
    就像很偶然才会考虑到这种事一样,在日本的传统中喷泉这样的东西也很少。制作小溪,建造瀑布、挖造水池来观赏水,对于这些如此着迷的日本人,直到近代为止都把喷泉的美忘在脑后。传统是很可怕的,所以即便在现在的都市里,日本的喷泉也还是不及西洋的美,或许是出于这个原因,东京也好大阪也好,街上的广场总让人感觉呆板沉闷,缺乏表情。
    或许是西洋的空气干燥,人们希望看到喷泉的水吧。也可以认为自罗马以来的自来水技术,对促进喷泉进步非常有利。但是,制造了人工瀑布的日本人却不造喷泉的原因,被认为不仅仅是这些外部因素。对日本人来说,水自然流淌的样子是美的,而且不是压缩,扭曲,像黏土那样成为造型对象的东西。
    不消说,水没有自己固定的形状。对于没有形状的事物,恐怕日本人具有与西洋人不同的独特的喜好。有句佛教上的话叫做“行云流水”,这种思想甚至可以说是被始于思想之前的感性所印证。比起对待外界的被动的态度来,它也许是积极的,不畏惧无形物的心理体现吧!
    看不见的水,看得见的水。
    如果仅仅把感觉流动视为重要的事的话,那么可以说,我们要实际感受水已经连看水的必要也没有了。只需听断断续续的响声,把那间隙中流动的东西用心去间接地品味就可以了。这么想的话,或许可以说那个“竹筒敲石”是体现日本人欣赏水的行为的最高境界的装置。


文化论的陷阱

    以前,见到戴着眼镜肩挎相机驼背的旅游客人就认为是日本人这种浅薄的玩笑曾流行一时。演说或致词时,美国人首先以诙谐开场,而日本人要以道歉和辩解开始,这也已成为老生常谈了吧。西洋文化是把罪作为基础的文化,而日本人的行动规范是对他人的羞耻感。这也是长久流传的对日本人的先入之见。从“脸上浮现无缘无故的微笑、是令人恐怖的国民”这样的指责,到“动辄感情用事地歇斯底里地行动”那样的坏话,在过去的一百年里,各种类型的帽子被扣到日本人和日本文化头上。
    虽说这些帽子的确在某种程度上说中了日本人的实际情况,

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