万里の長城
グレートウォールとしてユネスコの世界遺産の筆頭級にあげられ、いな中国を代表する最大の史的観光スポットである。北方の外敵からの防御という目的とはいえ、山の峰々や絶壁、あるいは谷、はては川の中にまで張り巡らされた城壁群には圧倒される。と同時に、あまりの壮大さゆえに、プランナーに対してはその英知をめでるというより、日本の戦艦大和の建造に似る、あるいはそれ以上のスケールの愚かさも禁じ得ない。しかし、いま、計数的にそれら費用対効果を論じられるのは現代の視点に立てるからであって、ただただ絶対君主であり続けなければならなかったいにしえの王朝からすれば、対外的軍事戦略というよりは、融合したばかりの国内での心理的統合、あるいは畏怖の確立といった内的効果にも狙いにあったにちがいない。いずれにしても、累々と続出したであろう施工によるあまたの事故犠牲者などをめぐりどんな感慨を抱くにせよ、北京に来て、じかに長城を見て帰らないことには、中国史、また今後の中国、かつ中国人を語ることもできまい、と言えるしろ物だ。
春秋戦国時代のころから、中国国内では北方のみならず、至る所に諸侯による長城が築かれていたが、北方では騎馬民族などの夷敵からの防御のため、東ははるか鴨緑江まで築かれていたといい、いまでも遼寧省内でその遺構が散見される。それぞれの長城をつなぎ合わせれば1 万2700華里(1華里は0.5キロ)となることから、俗称として「万里の長城」の名が生まれたようだ。
紀元前221 年、中国を統一した秦の始皇帝は、それら北方の燕や趙の長城を連結するとともに西方にも延長した。渤海湾岸の山海関から甘肅省の嘉峪関まで、長城を一重のシンプルなものと見れば全長は2700キロに達する。その時代の長城は土をつき固めた比較的簡単なもので、いわば土塁の連続に過ぎない。したがってほとんどが風化されるままで朽ち果てているものも多い。しかし明代、ことに後期になって改めて築かれた長城は大ぶりなれんがで表層を覆い、しばしば修復をくり返した。そのためもあって、山海関から黄河に至る最も堅固な部分が断続的に現存する。北京市域内では、玄関口に当たる居庸関のほか、八達嶺、慕田峪、さらに東北郊密雲県の司馬台などが改めて観光地として整備され、一般向けに公開されている。 |