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[本科专业课] 【广外】《日本社会文化》详细笔记+历年真题

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发表于 2010-11-10 23:17:15 | 显示全部楼层 |阅读模式
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑

笔记           01----65楼
历年真题   66楼后

笔记还在整理中,试题有部分没有,谁有请跟帖补充!
广外考试只考01旧石器時代の文化/縄文文化----- 15化政文化,
16文明開化期の文化以后不会考到。

01旧石器時代の文化/縄文文化
02弥生文化
03古墳文化
04飛鳥文化
05白鳳文化
06天平文化
07弘仁 貞観文化
08国風文化
09院政期の文化/平安末期の文化
10鎌倉文化
11室町文化
12桃山文化
13寛永期の文化/元禄文化
14江戸時代の学問 思想
15化政文化
16文明開化期の文化
17明治文化①
18明治文化②
19大正 昭和初期の文化
20戦時下の文化
21占領期の文化
22現代の文化

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:19:12 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑

L001 旧石器時代の文化/縄文文化
○旧石器時代の文化
 ?更新世の時代、打製石器(握槌、細石器)?骨角器の使用
  狩猟?採集生活、土器使用なし、一定範囲の移動
 ?日本列島と大陸は陸続き
 ?相沢忠洋が石器発掘→岩宿遺跡、化石人骨(浜北人?港川人など)の発見
 ?代表遺跡…岩宿遺跡?野尻湖底遺跡、早水台遺跡
○縄文文化
 ?完新世→温暖化→列島は大陸と分離、樹林帯?生息動物?生活の変化
 ?磨製石器(石斧?石鏃?石匙?石皿)、骨角器(釣針?銛?鏃)の登場
  石錘?土錘、丸木舟の使用
 ?縄文土器…黒褐色?厚手、低温で焼く、もろい。6期区分
 ?竪穴住居、貝塚
 ?アニミズム、土偶?石棒、屈葬、抜歯
 ?交易を示すもの…黒曜石(和田峠、白滝、神津島など)
          ひすい(姫川?糸魚川)?サヌカイト(二上山)
 ?代表遺跡…三内丸山遺跡、上野原遺跡、加曽利貝塚、大森貝塚など

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:19:41 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑

(1)
 旧石器時代は更新世{こうしんせい}の時代で、地球上に広く氷河が発達した時代である。そして、打製石器?骨角器{こっかくき}は使用したが、土器の製作や家畜の飼育は知らず、狩猟{しゅりょう}?漁労{ぎょろう}?採集生活をしていた時代である。氷期の頃、日本列島と大陸は陸続きで、北からマンモスやヘラジカ、南からナウマン象やオオツノジカ、ステゴドン象などが日本列島に来た。
 なお、旧石器時代の由来は、1819年にデンマークのトムセンが人類文化を石器?青銅器?鉄器に分け、イギリスのラボックが石器時代を新?旧の2段階に分けたものである。新石器時代は完新世{かんしんせい}<注1>で、磨製{ませい}石器?土器の製作と使用、家畜の飼育、農耕を特徴とし、日本では縄文文化以降がそれに当たる。
注1>更新世の後で現在に至る1万年
 戦前、日本に旧石器時代の遺跡はなく、完新世になってから住み始めたという考え方が定説だった。1946年、相沢忠洋{あいざわただひろ}が人類の遺物は出土しないとされていた関東ローム層で、槍先のようにとがった石器を発見した。そして、1949年の学術調査で、旧石器時代の遺跡と確認された。岩宿遺跡は日本の旧石器時代文化の解明の端緒となり、日本各地で発掘調査が行なわれ、各地で更新世の地層から石器の発見が相次ぎ、旧石器文化の存在が明らかになった。さらに、浜北人{はまきたじん}(静岡)、港川人{みなとがわじん}(沖縄)などの化石人骨の発見につながった。相沢の発見は、戦前の考古学の定説を知らなかったのが幸いしたものである。
 この時代の人々は、打製石器を使って、狩猟や植物性植物の採集の生活を送っていたが、土器の製作や使用は確認されていない。狩猟は、ナイフ型石器や尖頭器{せんとうき}などの石器を棒の先端につけた石槍を使い、ナウマン象やオオツノジカなどの大型動物を捕らえた。打製石器は石同士をたたいて作った石器のことで、握槌{にぎりつち:ハンドアックスとも}は叩く?割る?切るなどの万能石器として、細石器{さいせっき}は3センチ以下の石刃{せきじん}をいくつか木や骨の柄にはめ込んで使われた。また、人々は獲物や植物性植物を求めて、一定範囲を移動した。このため、簡単なテント式住居や洞窟{どうくつ}、岩陰{いわかげ}を一時的に住居として利用した。
 この時代の代表的な遺跡は、岩宿遺跡以外にもいくつかある。野尻湖底遺跡群(長野県)は、1962年から始まった市民参加の学術大発掘で、後期旧石器時代のオオツノジカやナウマン象などの化石獣骨や骨器?石器が見つかった。早水台{そうずだい}遺跡(大分県)は、1964年の調査で前期旧石器時代の遺跡とされる握槌?石核{せきかく}などが出土し、前期旧石器研究のきっかけとなった。
(2)
 今から約1万年余り前、完新世になると、地球は温暖な気候となった。そして、氷河が溶けて海面が上昇して、日本列島が大陸と分離し、原形が形成された。また、気候も現在に近くなった。動物もシカやイノシシなど中小動物が多くなった。樹林帯も変化し、東日本に落葉広葉樹林が、西日本を中心に照葉樹林が広がった。
 人々の生活も変化した。中小動物を捕らえるため、イヌを飼って狩猟に用いたり、弓矢を使った。各地に入江{いりえ}が出来、魚介類を捕る漁労の発達を促した。また、落葉広葉樹林の木の実の種類?量は豊富で、ドングリなどの木の実の採集も行なわれた。
 狩猟?漁労?採集の道具には、これまでの打製石器に代わって磨製石器が作られた。磨製石器は木を加工しやすいように表面を磨いて作った石器で、石斧{せきふ}?石鏃{せきぞく}?石匙{せきひ}?石皿などがある。また、動物の骨?角?牙で作られた骨角器は、釣針?銛{もり}?鏃{やじり}などに使われた。漁労では、網のおもりに使う石錘{せきすい}?土錘{どすい}、火などで丸木を焼きえぐって丸木舟{まるきぶね}を作った。
 縄文時代の名の由来となっている縄文土器は、表面に撚糸{よりいと}状の縄目文様が多いことから、その名が付いた<注2>。この土器は黒褐色{こっかっしょく}?厚手で、600~800度の低温で焼かれたためもろい。土器の形式から草創?早?前?中?後?晩の6期に区分され、縄文時代の時代区分とほぼ一致する。土器は煮沸?貯蔵に使われた。また、採集した木の実などは、貯蔵穴に保存された。
 縄文時代は山や海の幸に恵まれ、土器で煮沸できるようになり、食生活は大幅に改善され、老人?幼児も栄養が取りやすくなった。しかし、食料の長期保存が難しかったため、社会の仕組みが大きく変わることはなく、縄文時代が8000年近くに及ぶことになった。
 その一方、人口は着実に増加し、湧き水の得られる台地上に集落を形成して定住し、集落も数戸から十数戸へと拡大した。集落は環状集落が多く、竪穴住居には数人から10人程度が住み、中央には炉{ろ}が置かれた。海岸近くの集落には貝塚が見られ、どのようなものを食べていたかが分かる。貝塚は貝類が層をなして堆積している遺跡で、集落の一角にあり、食べ物の残りや土器?石器の破片などが捨てられた。
 人は亡くなれば共同墓地に埋葬されたが、副葬品らしいものはなく、貧富や階級の差はなかったと考えられている(違うという説もある)。
注2>モースのcord marked potteryの訳語に由来する。
(3)

 この時代の人々は、すべての自然物や自然現象に霊威があると考え、それを畏怖{いふ}し、崇拝した。アニミズム(精霊信仰)である。そして、呪術で災いを避けて、獲物などの増加を祈った。このような習俗を示すものに、土偶{どぐう}や石棒{せきぼう}などがある。土偶は大きさ20センチ内外の土人形で女性像が多く、生殖?収穫を祈る呪術に用いたと考えられる。中期~後期に東日本で分布した。多くは壊され、完全形での出土は少ない。顔面や文様を刻んだ土面{どめん}?土版{どばん}や岩製の岩版{がんばん}もある。また、石棒は、武器の一種とも生殖器崇拝の対象とも考えられる。
 死者の多くは、手足の関節を折り曲げて埋葬された。この方法を屈葬{くっそう}といい、死霊の活動を防ぐとか、墓穴を掘る労力を節約するため、など諸説ある。また、犬歯{けんし}?門歯{もんし}などを左右対称に抜き取る抜歯{ばっし}は、縄文後~晩期の風習で、成年式の意味を持つと推定されている。
注3> 黒曜石製のナイフ形石器は、鋭利で脂肪が付きにくいため、肉を切っても切れ味がにぶることはなかった。
(4)
 この時代、遠方集団との交易が行なわれていた。それを示すものが、黒曜石{こくようせき}?ひすい(硬玉{こうぎょく})?サヌカイトなどである。黒曜石は黒色透明の火成岩で、鋭利な切り口のために打製石器などの製作に適した岩石である<注3>。産地は長野県和田峠、熊本県阿蘇山、北海道白滝{しらたき}と十勝岳{とかちだけ}、神奈川県箱根、伊豆七島の神津島{こうづしま}、大分県姫島{ひめじま}などに限定されるので、黒曜石の石鏃の分布は、当時の交易状況を物語る。
 ひすいは半透明で緑色を呈{てい}し、勾玉{まがたま}などの材料として使われた。新潟県姫川{ひめかわ}?糸魚川{いといがわ}流域が特産地である。サヌカイトは、香川県白峰山{しらみねさん}で多産するので讃岐石{さぬきいし}ともいうが、大阪府と奈良県境の二上山{にじょうざん}でも多く産出する。
 この時代の代表的な遺跡は多い。青森県の三内丸山{さんないまるやま}遺跡は約1500年間続いた大集落跡で、大型掘立柱建築跡などを発掘し、原始農耕の存在も考えられてている。鹿児島県の上野原{うえのはら}遺跡は草創期の最古?最大級の大集落跡で、竪穴集落跡が52軒あり、早期に定住性の高い集落が営まれていたことが明らかになった。千葉県の加曽利{かそり}貝塚は、日本最大規模の貝塚である。東京都の大森貝塚は、アメリカ人モースによって日本最初の発掘調査が行なわれた貝塚で、日本考古学発祥の地である。岡山県の津雲{つくも}貝塚は、出土した170体ほどの人骨のほとんどは屈葬だが、伸展葬{しんてんそう}もある。また、抜歯の風習を示すものも出土している。
 
 

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:20:38 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑

L002 弥生文化
○弥生文化…BC4世紀頃~AD3世紀頃
 ?薩南諸島~東北地方→北海道は続縄文文化?擦文文化?オホーツク文化
            南西諸島は貝塚文化(南島文化)
 ?弥生土器…薄手?硬い、赤褐色、甕?壺?鉢?高杯など
 ?金属器…鉄 器(工具?農具?武器に使用)
      青銅器(祭器?宝器に使用、銅剣?銅矛?銅戈?銅鐸)
 ?水稲耕作…初 期:湿田に田植え、石包丁で穂首刈り、木臼?竪杵で脱穀
           木製農具の使用(鍬?鋤、えぶり、田下駄、田舟)
       中期末:乾田の登場、鉄製刃先を付けた鍬?鋤、鉄鎌で根刈り
           磨製石器から鉄製工具へ
 ?集落…竪穴住居?高床倉庫、集落の増加
     環濠集落(吉野ヶ里遺跡)?高地性集落(紫雲出山遺跡)
                     →身分?貧富の差、戦いの発生
 ?埋葬方法…伸展葬
       甕棺墓?箱式石棺墓?支石墓(九州北部)、再葬墓(東日本)
       土壙墓?木棺墓?壺棺墓?方形周溝墓(各地)
       大きな墳丘墓(平安後期、東日本)
 ?代表遺跡…登呂遺跡、神庭荒神谷遺跡、垂柳遺跡など

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:23:30 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑

(1)
 弥生文化は、通説では紀元前4世紀頃に九州北部で始まり、薩南諸島から東北地方まで紀元3世紀頃まで栄えた文化である。農耕?金属器?弥生土器を特徴とし、階級社会を生み、小国家の段階に進んだ。なお、北海道は農耕を行なわず、漁労と狩猟を中心とする続縄文文化?擦文{さつもん}文化?オホーツク文化となった。沖縄を含む南西諸島は農耕が及ばず、貝類などの食料採集を行なう貝塚文化(南島文化)となった。
 弥生土器<注1>は、縄文土器に比べて薄手で硬く、赤褐色{せきかっしょく}を帯びている。形態は煮沸用の甕{かめ}、貯蔵用の壺{つぼ}、盛り付け用の鉢{はち}?高杯{たかつき}など、実用を旨として分化した。金属器は、鉄器と青銅器がほぼ同時に伝来した。青銅器は祭器?宝器に用いられ、銅剣?銅矛{どうほこ}?銅戈{どうか}?銅鐸{どうたく}などがある。銅鐸は日本独特の釣鐘型青銅器で、生物?人?高床倉庫などの絵が描かれており、農耕祭祀に用いられたと考えられている。鉄器は、工具?農具?武器に用いられた。
 水稲耕作は、縄文晩期に伝わったと考えられている。稲作は、低湿地に水田(湿田{しつでん})を作って田植えを行ない<注2>、実ると石包丁{いしぼうちょう}を使って穂首刈{ほくびが}りした。木製農具がたくさん使われた。耕作具に鍬{くわ}?鋤{すき}、水田をならすえぶりを使い、足が水田にもぐらないように田下駄{たげた}を履いた。収穫した穂首束{たば}を田舟{たぶね}で運び、高床倉庫や貯蔵穴に収めた。木臼{きうす}?竪杵{たてぎね}を使って脱穀した。
 中期末に灌漑{かんがい}水路を備えた乾田{かんでん}が現われ、鉄製の刃先を付けた鍬?鋤で耕し、収穫も鉄鎌を使って根刈りした。また、肥料から踏み込む大足{おおあし}も使われた。木製工具の制作も、次第に磨製石器から鉄製工具へと代わっていった。
 これまでの狩猟?漁労?植物採集も行なわれた。水稲耕作が始まり、集落も丘陵地から平地に移ったが、竪穴住居に住み、穀物を保管する高床倉庫も造られた。集落も20~50戸程度に増えた。一方、貧富?身分の差が発生し、耕地や生産物をめぐる戦いも発生した。環濠{かんごう}集落や高地性集落はこうした状況下で出現したと考えられ、勝った集落は負けた集落を統合し、小国に発展した。
 環濠集落は周囲を濠{ほり}や土塁{どるい}で囲んだ集落で、防御的機能を持っている。佐賀県の吉野ヶ里{よしのがり}遺跡、奈良県の唐古?鍵{からこ?かぎ}遺跡、大阪府の池上曽根{いけがみそね}遺跡などが知られる。高地性集落は生活に不便な山頂に位置する集落で、香川県の紫雲出山{しうでやま}遺跡、兵庫県の会下山{えげのやま}遺跡など瀬戸内沿岸を中心とした西日本に分布している。
注1> 1880年、東京府本郷区向ヶ丘{むこうがおか}弥生町(現、東京都文京区弥生2丁目)の向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡とも)で発見された。そこで発見されたため、弥生土器という。この遺跡は東京大学農学部構内にあったとされるが、正確な位置は確定しておらず、複数の候補地がある。
注2> もみを水田に直接播{ま}く方法もある。

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:24:09 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑

(2)
 死者は手足を伸ばして葬る伸展葬{しんてんそう}が主流で、集落近くの共同墓地に埋葬された。九州北部に甕棺墓{かめかんぼ}?箱式石棺墓{はこしきせっかんぼ}?支石墓{しせきぼ}、東日本で再葬墓{さいそうぼ}、各地に土壙墓{どこうぼ}?木棺墓{もっかんぼ}?壺棺墓{つぼかんぼ}?方形周溝墓{ほうけいしゅうこうぼ}が見られ、弥生後期に東日本で大きな墳丘墓{ふんきゅうぼ}が見られた。
 甕棺墓は、土製の甕形の棺{ひつぎ}に死者を入れて埋葬した墓である。箱式石棺墓は、扁平{へんぺい}な板石を長い箱形に組み合わせ、同様な板石でふたをした棺に遺体を収めた墓である。支石墓は、自然石の支柱の上に大きな平石をのせたもので、その下や周囲に甕棺が群がる。再葬墓は、死者の骨を洗骨した後に、壺に入れて改めて葬った墓である。土壙墓は地中に穴を掘り、棺を使わず遺体を埋めた墓である。方形周溝墓は、方形の低い墳丘の周りに溝をめぐらせたものである。墳丘墓は、盛り土をして墓域を画した墳丘を持つ墓である。
(3)
 この時代の遺跡も数多い。静岡県の登呂{とろ}遺跡は太平洋戦争中に発見され、戦後の調査で住居跡?高床倉庫群?畦?水田跡を発掘した。島根県の神庭荒神谷{かんばこうじんだに}遺跡は、銅剣358本?銅矛16本?銅鐸6個がまとまって出土した。また、加茂岩倉{かもいわくら}遺跡は、山の中腹から銅鐸39個が出土した。福岡県の板付{いたづけ}遺跡は、水田跡を発掘した。青森県の垂柳{たれやなぎ}遺跡や砂沢{すなざわ}遺跡も有名である。

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:25:13 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑

L003 古墳文化
○古墳文化…3期区分
 ?古墳…形状-前方後円墳?前方後方墳?円墳?方墳など
     葺石、埴輪、濠をめぐらす
  ?前期古墳…大規模、竪穴式石室、円筒埴輪、呪術的副葬品
        箸墓古墳が代表
  ?中期古墳…巨大化、竪穴式石室→横穴式石室、形象埴輪、軍事的副葬品
        誉田御廟山古墳と大仙陵古墳が代表
  ?後期古墳…群集墳?横穴墓?装飾古墳、横穴式石室、円筒?形象埴輪
        武具?土器など、石舞台古墳?高松塚古墳
 ?渡来人の伝来
   新文化?技術の伝来…鉄器や須恵器の生産、
             機織り?金属工芸?土木工事など→品部に組織
   王仁?阿知使主?弓月君らの渡来
   漢字?儒教?仏教の伝来
    仏教…百済の聖明王が欽明天皇に仏像などを伝えた。
       538年(元興寺縁起など)と552年(日本書紀)説
 ?生活…竪穴住居?平地住居に住む、土師器?須恵器の使用
     衣服-筒袖の衣、男は袴?女は裳
     頭髪-男は美豆良、女は髷を結う
 ?祭祀…祈年祭?新嘗祭、禊?祓  占法-太占?盟神探湯
     自然神を祀る…大神神社、宗像神社の沖津宮など
     氏神を祀る…天照大神を祀る伊勢神宮内宮
           大国主命を祀る出雲大社など

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:26:08 | 显示全部楼层
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(1)

 弥生時代後期、有力者の墓は大きな墳丘墓だった。3世紀後半~4世紀初頭に瀬戸内海沿岸から近畿にかけて古墳{こふん}が現われ、4世紀後半に各地へ広がった。古墳は、特定の個人を埋葬した墳丘を持つ墓である。古墳が作られた時代を古墳時代といい、特徴によって前?中?後期と区分される。古墳の形は、前方後円墳{ぜんぽうこうえんぷん}?前方後方墳{ぜんぽうこうほうふん}?円墳?方墳など様々である<注1>。そして、墳丘の斜面は葺石{ふきいし}で覆われ、墳丘の周りに濠をめぐらすことも多い。また、埴輪{はにわ}<注2>を表土に列をなして並べられた。
 前期古墳は、畿内の台地や丘陵に大規模な前方後円墳が造営された。竪穴式石室や粘土槨{ねんどかく}に木棺?石棺を収納し、銅鏡や玉{ぎょく}など呪術的なものが副葬された。被葬者は、司祭者的性格を持つ者と推定される。埴輪は、円筒埴輪が多い。中期古墳は全国に拡大し、平野部では巨大化した。竪穴式石室に木棺?石棺を収納していたが、4世紀末に九州北部に横穴式石室が現われ、5世紀末に近畿地方に広まった。副葬品は武器?武具など軍事的な者が多く、武人的性格を持つ者が埋葬されたと推定される。埴輪は、各種形態の形象埴輪を製作した。
 竪穴式石室は、遺体を埋葬後に長方形の石室を作り、上部から土をかぶせたものである。横穴式石室は、入口をふさぐ石を取れば玄室{げんしつ:遺体安置場所}までいけるため、いつでも追葬できる家族墓的性格を持っている。
 後期古墳は全国に拡大し、近畿中央部では大規模なものが作られたが、各地には小型古墳(群集墳{ぐんしゅうふん})が増加した。横穴式石室が全国的に普及した。副葬品は武具などの他、飲食用の土器なども多くなった。円筒?形象埴輪を盛んに使ったが、畿内では次第に減少する。また、山腹や台地の縁辺に穴を掘った横穴墓{よこあなぼ}や石室の壁画に絵画を描いた装飾古墳も見られる。
 有名な古墳も多い。前期は奈良県の箸墓{はしはか}古墳、中期はともに大阪府の誉田御廟山{こんだごびょうやま}古墳と大仙陵{だいせんりょう}古墳、後期はともに奈良県の石舞台{いしぶたい}古墳と藤ノ木{ふじのき}古墳、高松塚{たかまつづか}古墳などが知られる。大仙陵古墳は日本第1位、誉田御廟山古墳は日本第2位の大きさの前方後円墳である。石舞台古墳は蘇我馬子の墓といわれ、盛り土が失われて巨石を積んで築かれた横穴式石室が露出している。高松塚古墳は、装飾古墳の代表である。
注1> 数は円墳?方墳が多く、大規模なものは前方後円墳である。
注2> 素焼きの焼き物。土留め?器台形土器の発展など諸説がある。
(2)
 5世紀頃、新しい文化や技術が朝鮮半島からやってきた渡来人によって伝えられた。彼らは、鉄器や須恵器{すえき}の生産、機織{はたお}り?金属工芸?土木工事などの諸技術や文字が伝えられた。ヤマト政権は、彼らを韓鍛冶部{からかぬちべ}?陶作部{すえつくりべ}?錦織部{にしごりべ}?史部{ふひとべ}などの品部{しなべ}に組織し、技術や知識を活用した。
注3> 易経{えききょう}?詩経{しきょう}?書経{しょきょう}?春秋{しゅんじゅう}?礼記{らいき}の5つ
 応神天皇朝に、王仁{わに}?阿知使主{あちのおみ}?弓月君{ゆづきのきみ}らが渡来した。王仁は百済の博士で、『論語』や『千字文{せんじもん:識字?習字のテキスト}』をもたらし、文筆?出納{すいとう}に従ったという。西文氏{かわちのふみうじ}の祖とされる。阿知使主は文筆に優れ、史部を管理したという。東漢氏{やまとのあやうじ}の祖とされる。養蚕?機織りを伝え、秦氏{はたうじ}の祖とされる。
 大陸から漢字?儒教?仏教が伝わった。漢字?儒教は、王仁が儒教の経典を伝えたとされる。漢字が伝わったことで、漢字の音を借りて人名や地名を表わすことが出来るようになり、政権の記録、出納、外交文書の作成もできるようになった。欽明天皇朝頃には、大王家の系譜『帝紀{ていき}』と神話?王権物語『旧辞{きゅうじ}』が編纂された。漢字の銘文を持つ刀剣?鏡も相次いで見つかった。埼玉県の稲荷山{いなりやま}古墳から出土した鉄剣、熊本県の江田船山{えたふなやま}古墳から出土した鉄刀、和歌山県の隅田{すだ}八幡神社が所蔵する人物画像鏡などがある。
 儒教の思想は王仁の時に伝わったが、6世紀初めの継体{けいたい}天皇朝に五経{ごきょう}博士が百済から来日し、五経<注3>を講じて儒教を伝えたとされている。6世紀中頃の欽明天皇朝に易{えき:占い}?暦{れき}?医博士が来日し、学術も伝えた。
 仏教は、百済の聖明王{せいめいおう}が欽明天皇に仏像と経論{きょうろん}などを伝えたとされる。公的には『元興寺縁起{がんごうじえんぎ}』や『上宮聖徳法王帝説{じょうぐうしょうとくほうおうていせつ}』は538年、『日本書紀』は552年とあるが、538年が有力とされる。また、『扶桑略記{ふそうりゃっき}』には、司馬達等{しばたっと}が私宅で仏像を礼拝したとあり、その時期が「継体天皇即位十六年(522年)」とあることから、私的にはそれ以前に伝わっていた可能性が高い。

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:26:36 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑

(3)
 この頃の民衆は、竪穴住居?平地{へいち}住居に住んでいた。土器は、土師器{はじき}と須恵器が使われた。土師器は、弥生土器の製法を受け継ぎ、800度前後で焼かれた赤焼きの土器で、主に日用具とされた。須恵器は、ろくろ?登り窯{のぼりがま}など朝鮮半島伝来の新技術を用い、1000度以上の高温で焼かれた灰色?硬質の土器で、主に祭祀用に用いた。2つとも平安時代にまで製作?使用された。
 衣服は上下に分かれ、男女とも筒袖{つつそで}の衣{ころも}をつけ、男は下に乗馬ズボン風の袴{はかま}、女はスカート風の裳{も}をつけた。そして、男は頭髪を中央から左右に分け、耳の当たりで輪のようにして緒{お}で結んだ。美豆良{みずら}という。女は髷を結んだ。この姿は人物埴輪から分かってきた。
(4)
 水稲耕作の普及?発達により、農耕祭祀が大切なものとなった。春に五穀豊穣{ごこくほうじょう}を祈る祈年祭{としごいのまつり/きねんさい}と秋に収穫を感謝する新嘗祭{にいなめのまつり/しんじょうさい}は、特に重要だった。また、禊{みそぎ}や祓{はらえ}で身を清め、けがれをはらった。禊は、心身の罪やけがれを海?川?滝などの清浄な水で身を洗い流すことである。祓は、水以外での方法での罪?けがれを除去することである。
 一方、神々の意向を知るために占法が行なわれ、呪術的な風習も盛んに行なわれた。太占{ふとまに}は、鹿の肩甲骨{けんこうこつ}を焼いて、そのひび割れの形で今後の策を占うことである。盟神探湯{くかたち}は、熱湯に手を入れて、やけどの有無で真偽を確かめるもので、氏姓の不正を正すために行なったという。
 自然神を祀る神社の中には、この頃を起源とするものもある。三輪山{みわやま}を神体とする奈良県の大神{おおみわ}神社、玄界灘の孤島沖ノ島{おきのしま}を神体とする福岡県の宗像{むなかた}神社の沖津宮{おきつのみや}などである。沖ノ島には5~9世紀の祭祀遺跡も多く、出土品の貴重さ?豊富さから「海の正倉院」ともいわれる。
 氏神も祀るようになった。天照大神{あまてらすおおみかみ}を祀る三重県の伊勢神宮内宮{ないくう}、大国主命{おおくにぬしのみこと}を祀る島根県の出雲大社{いずもたいしゃ}、海神を祀る大阪府の住吉{すみよし}大社などがその例である<注4>。また、土地の神を祀る産土神{うぶすながみ}も祀られた。
注4> 伊勢神宮は神明造{しんめいづくり}、出雲大社は大社造、住吉大社は住吉造で作られる。


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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:27:11 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑

L004 飛鳥文化
○飛鳥文化…7世紀前半、推古天皇朝を中心とする時代
 ?特徴…日本初の仏教文化、中国南北朝?朝鮮の影響
     ギリシア?インドとの共通性も
 ?仏教…氏寺-飛鳥寺、太秦寺、仏教興隆の詔、厩戸王の三経義疏
 ?建築…礎石建ち?瓦葺?朱塗柱で寺院建立
     四天王寺?法隆寺?中宮寺など
     伽藍配置-飛鳥寺式、四天王寺式、法隆寺式など
 ?彫刻…飛鳥寺釈迦如来像、法隆寺金堂釈迦三尊像など(北魏様式)
     法隆寺百済観音像、広隆寺と中宮寺の半跏思惟像など
                        (百済?中国南朝様式)
     仏師-鞍作鳥が有名
 ?工芸…法隆寺玉虫厨子、中宮寺天寿国繍帳など
 ?絵画…玉虫厨子の扉絵や須弥座絵(捨身飼虎図や施身聞偈図など)
     曇徴が絵の具?紙墨の製法を伝える
 ?暦法?天文…観勒が伝える

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:27:35 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑

(1)
 飛鳥文化は、7世紀前半の推古天皇朝を中心とする時代の文化である。特徴は、日本初の仏教文化であること、中国南北朝?新羅?百済?高句麗の影響を受け、ギリシア?インドとの共通性も見られる。
 飛鳥時代の仏教は、先祖の崇拝や戦争の勝利、病気平癒を祈るなど呪術性が強かった。そこで、豪族はこぞって氏寺を建立し、氏族の発展と先祖の追善を行なった。蘇我馬子の飛鳥寺{あすかでら:法興寺{ほうこうじ}とも}、秦河勝{はたのかわかつ}の太秦寺{うずまさでら:広隆寺{こうりゅうじ}とも}がその例である。
 厩戸王{うまやとおう}(聖徳太子)は、594年に仏教興隆の詔を出し、仏法僧{ぶっぽうそう}<注1>の三宝{さんぽう}を興させた。そして、三経義疏{さんぎょうぎしょ}を著わした。これは法華{ほっけ}?勝鬘{しょうまん}?維摩{ゆいま}の3経の注釈書で、『法華経{ほけきょう}義疏』は彼の自筆とされ、現存する日本最古の著作である。また、彼には恵慈{えじ}という仏教の師がいた。恵慈は高句麗の僧で、595~615年に在日し、飛鳥寺に住んだ。帰国後、彼の死を聞き、彼と同日の死を願って、翌年同日に入寂{にゅうじゃく:亡くなる}したといわれる。
注1> 仏は釈迦{しゃか}、法は仏の説いた教え、僧は仏に従う教団。
(2)
 建築の分野では、渡来人が伝えた礎石{そせき}建ち?瓦葺{かわらぶき}?朱塗柱{しゅぬりばしら}(丹{に}塗柱)で、寺院が建てられるようになった。これまでは掘立柱{ほったてばしら}?檜皮葺{ひわだぶき}の建築法だった。礎石建ちは、柱の基礎に石を据える建築法で、瓦葺建築の重量に耐える工法である。掘立柱は、柱の基底部を地中に埋め込んだ工法である。朱塗柱は、朱(硫化水銀)や丹(四酸化三鉛)などで赤く塗った柱である。
 この頃の寺院には飛鳥寺?太秦寺以外に、四天王寺?法隆寺?中宮寺{ちゅうぐうじ}などがある。3つとも聖徳太子が建立した寺で、四天王寺は、物部守屋との戦いで、四天王に祈って勝利を得たために建立した寺院である。中宮寺は、母の穴穂部間人{あなほべのはしひと}皇后の宮跡{きゅうせき}を寺にしたものである。
 法隆寺の金堂?中門?五重塔?歩廊{ほろう:回廊{かいろう}とも}は、旧山田寺廻廊{やまだでらかいろう}遺材に続く世界最古の木造建築である。金堂は、柱のエンタシス<注2>など南北朝様式を特色とする。南北朝様式は、エンタシスや大斗{だいと}?雲形肘木{くもがたひじき}?卍崩{まんじくず}しの勾欄{こうらん}?人字形割束{ひとじがたわりづか}を建築物の特徴とする。五重塔は、法起寺{ほっきじ}<注3>三重塔とともに飛鳥様式を伝える最古の塔である。
 『日本書紀』によると、670年に法隆寺炎上の記事があり、歴史学者は現存の金堂?五重塔の670年以降の再建を主張した。建築史家は、様式?尺度から創建当時のものと非再建を主張した。1939年に若草伽藍跡の発掘で、再建論が有力となった。法隆寺再建?非再建論争である。
 寺院の建物の配置を伽藍{がらん}配置といい、それぞれに特徴がある。最古の飛鳥寺式は、塔を囲んで3つの金堂が配置されている。四天王寺式は、金堂の前に塔を建て南北一直線に配置されている。法隆寺式は、西の五重塔と東の金堂が中門から見て左右対称に建てられている。当初、釈迦の骨(仏舎利{ぶっしゃり})を収める塔が中心だったが、本尊を祀る金堂が中心となり、学問のための講堂や経蔵{きょうぞう}が重視されていった。白鳳文化の薬師寺式以降、塔は装飾的存在となった。
注2> 柱の中央部が膨らんでいるもの。
注3> 山背大兄王{やましろのおおえのおう}が太子の岡本宮{おかもとのみや}を寺にしたものである。

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:28:08 | 显示全部楼层

(3)
 仏像彫刻も多く作られた。飛鳥彫刻の源流は、中国の雲崗{うんこう}や竜門{りゅうもん}の石仏とされている。また、北魏{ほくぎ}様式と百済・中国南朝様式に分けられる。北魏様式は杏仁形{きょうにんけい}の目、仰月形{ぎょうげつけい}の唇<注4>、左右対称の幾何学的衣文{えもん}が特徴で、力強く端正で男性的である。一方、百済・中国南朝様式は、顔や姿など全体に柔和で丸味があり、衣文にも変化があり、自然の姿に近い。両者に共通する特徴はアルカイック・スマイル(古拙の微笑{えみ})があることである。

 この時代の仏師には、北魏様式の像を造った鞍作鳥{くらつくりのとり:止利{とり}仏師とも}が知られる。彼は司馬達等の孫とされ、主な作品に飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)<注5>、法隆寺金堂釈迦三尊像がある。この2作品は、銅像の表面に鍍金{ときん:めっき}を施した金銅像である。北魏様式の仏像は鞍作鳥の作品以外に、明治時代になってフェノロサが調査した法隆寺夢殿救世{くぜ}観音像などがある。また、百済・中国南朝様式の仏像は、法隆寺百済観音像<注6>、広隆寺と中宮寺の半跏思惟{はんかしい}像(弥勒菩薩{みろくぼさつ}像)<注7>などがある。
注4> 杏仁形の目はまぶたの上下が同じような弧を描いているもの、仰月形の唇は三日月を上向きにしたように、口の両端を引き上げているもの。
注5> 日本最古の仏像(完成は606・609年説がある)。鎌倉時代初めの落雷で伽藍が焼失した時、「仏頭ト手トノミ残ル」の大損害を受けた。目と額と右手指3本ほどだけ火を浴びず、その他は焼けただれ、後世に補修したものと推定されている。
注6> 百済から渡来したとの伝承は否定的である。
注7> 片足を他の足の股の上に組み、手を頬に当てて思惟する。



(4)
 工芸は、法隆寺玉虫厨子{たまむしのずし}が有名である。玉虫厨子は、小型の仏像を安置する箱で、2563枚の玉虫の羽が伏せられていたことが名の由来である。中宮寺天寿国繍帳{てんじゅこくしゅうちょう}(断片)は、聖徳太子の死後に妃の橘大郎女{たちばなのおおいらつめ}が聖徳太子が往生した天寿国のあり方を写した刺繍である。

 法隆寺四騎獅子狩文様錦{しきししかりもんようきん}は、円形を連ねた連珠文{れんじゅもん}の円の中に4頭の獅子に弓を引き絞る4騎の狩猟者を配した錦で、西アジアに多い狩猟文様の1つである。法隆寺竜首水瓶{りゅうしゅすいびょう}は、形はペルシアの水瓶で、胴部に天馬{てんば:ペガサス}が彫られている。伎楽面{ぎがくめん}は、高い鼻などギリシアの仮面やイラン人の顔に似ており、西方の影響を受けている。

 絵画は、玉虫厨子の扉絵や須弥座絵{しゅみざえ}が有名である。須弥座絵は、捨身飼虎{しゃしんしこ}図や施身聞偈{せしんもんげ}図が特に有名である。また、絵の具を油で溶かし、これに密陀僧{みつだそう:一酸化鉛のこと}を加えた塗料で油絵が描かれた。密陀絵{みつだえ}と呼ばれ、漆のような光沢がある。610年に高句麗の僧曇徴{どんちょう}が来日し、絵の具・紙墨の製法を伝えた。

 602年、百済の僧観勒{かんろく}が来日し、暦法・天文を伝えた。


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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:28:30 | 显示全部楼层
L005 白鳳文化

○白鳳文化…大化の改新~平城京遷都に至る時代
 ・特徴…律令国家建設期の若々しい文化、仏教文化を基調
     初唐・西アジア・高句麗の影響
 ・宗教
  ・仏教…官大寺の造営→大官大寺・薬師寺・川原寺・法興寺など
  ・葬制…薄葬令、火葬が広まり古墳は消滅、庶民はほとんど土葬
  ・神道…斎王の派遣、式年遷宮の制

 ・建築…薬師寺東塔(凍れる音楽)、山田寺
 ・彫刻…興福寺仏頭、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観音像、
     法隆寺夢違観音像、法隆寺阿弥陀三尊像など
 ・絵画…法隆寺金堂壁画、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画など
 ・文学…漢詩の隆盛-大津皇子
     和歌の発展-額田王や柿本人麻呂ら
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:29:05 | 显示全部楼层
(1)

 白鳳文化は、大化の改新から平城京遷都に至る時代の文化である。律令国家建設期の若々しい文化で、仏教文化を基調としている。また、初唐文化・西アジア・高句麗の影響も見られる。文化の名称となっている「白鳳」は、公的な元号である白雉{はくち}の異称で、中瑞{ちゅうずい}<注1>の雉{きじ}から大瑞{だいずい}の鳳{おおとり}へ読み替えたともいわれている。

 仏教では、伽藍{がらん}の造営・維持管理を行なう官大寺{かんだいじ:官寺{かんじ}とも}が建てられた。藤原京の四大寺{したいじ}は、大官大寺{だいかんだいじ}<注2>・薬師寺・川原寺{かわらでら:弘福寺{ぐふくじ}とも}・法興寺<注3>である。大官大寺は、舒明{じょめい}天皇創建と伝えられる百済大寺{くだらおおでら}が起源で、移転後に高市大寺{たけちおおでら}と称し、677年にこの名称となった<注4>。薬師寺は、天武天皇が皇后の病気平癒を祈って創建した寺である。

 葬制に関して、646年に大化の薄葬令{はくそうれい}が出され、喪や葬制が簡素化される一方、公地公民による私葬方式を改め、官人の葬送はすべて政府の手によるものとした。また、遺体を火で処理する火葬が行なわれるようになった。その風習は、700年に法相宗{ほっそうしゅう}の僧道昭{どうしょう}が火葬されてから貴族層に広まったとされ、8世紀にはかなり普及し、古墳は急速に消滅した。しかし、庶民はほとんど土葬だった。

 神道では、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕する未婚の女性が派遣された。斎王{さいおう}である。斎王は、天武天皇朝頃から置かれ始めたと考えられている。また、諸社で一定の年数を定めて新殿を作り、神体を奉遷する式年遷宮が定められた。特に伊勢神宮が有名で、持統天皇朝以来20年ごと(1343年以降は21年ごと)に行なわれている。

注1> 瑞は、めでたいこと。
注2> 大官は天皇家、大寺は国家から最高待遇を受ける格式の高い寺の意味。国家寺院として初めて建立された寺。
注3> 奈良時代に元興寺{がんごうじ}となる。
注4> 711年に焼失、716年に移転して大安寺{だいあんじ}と改称。東大寺建立以前は官寺筆頭。

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:29:52 | 显示全部楼层
(2)
 建築は、リズムある姿が「凍{こお}れる音楽」と評される薬師寺東塔{とうとう}が有名である。頂上の天女と飛雲を配した水煙{すいえん}<注5>も独特である。また、寺院では山田寺も知られる。寺は平安末期に荒廃したが、1982年に廻廊の一部が発見された。

 彫刻は興福寺仏頭{ぶっとう}、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観音{とういんどうしょうかんのん}像、法隆寺夢違{ゆめたがい/ちがい}観音像、法隆寺阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏{たちばなふじんねんじぶつ})などが知られる。興福寺仏頭は、1187年に飛鳥の山田寺から興福寺僧徒が奪い、1411年に火災にあった丈六{じょうろく}の薬師三尊像の本尊の頭部と推定される<注6>。法隆寺阿弥陀三尊像は、光明皇后の母橘夫人の念持仏と伝えられる。

 絵画は、法隆寺金堂壁画<注7>、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画、上淀廃寺{かみよどはいじ}金堂壁画<注8>などが知られる。法隆寺金堂壁画は、外陣{げじん:人々が礼拝する所}の柱間に12面描かれ、特に西6号の壁阿弥陀浄土図が著名である。高松塚古墳壁画は1972年に発見され、石室の天井が極彩色で描かれている<注9>。キトラ古墳壁画は、石室の壁画に四神図<注10>や精緻な天文図が描かれている。

 文学は漢詩が隆盛を迎え、大津皇子{おおつのみこ}の詩が知られる。また、和歌が発展し、この頃の歌人に額田王{ぬかたのおおきみ}や柿本人麻呂{かきのもとのひとまろ}らが有名である。

注5> 火焔形{かえんけい}の装飾。火と称するのを忌み、同時に火を調伏{ちょうぶく}する縁起からこの名が付いた。
注6> 1937年に興福寺東金堂本尊台座の下から偶然見つかった。
注7> 1949年1月26日の火災で、内陣{ないじん:本尊が安置している部分}の小壁の20面の飛天を除いてすべて焼失。これを機に、翌年に文化財保護法が制定された。この飛天は解体修理のため取り外されていた。
注8> 鳥取県西伯郡淀江町{さいはくぐんよどえちょう}にある。
注9> 2004年、青色顔料には西アジア産の宝石ラピスラズリが使われていることが判明した。
注10> 青龍・白虎・朱雀・玄武の4神
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