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楼主: junshan_yin

[本科专业课] 【广外】《日本社会文化》详细笔记+历年真题

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:37:38 | 显示全部楼层
L011 室町文化

○室町文化…南北朝期の文化、北山文化、東山文化の総称
 ・特徴…公家文化+禅宗文化融合の武家文化+民衆的要素
     文化の民衆化と地方普及(戦国時代)

○南北朝期の文化…14世紀中頃の南北朝の動乱期の文化
 ・特徴…世相の反映、武士・民衆の台頭
 ・学問…歴史書-『神皇正統記』(北畠親房)
     有職故実-『建武年中行事』(後醍醐天皇)
          『職原抄』(北畠親房)
 ・文学…軍記物-『太平記』『難太平記』『曽我物語』
     歴史書-『梅松論』『増鏡』
     和 歌-『新葉和歌集』(宗良親王)
 ・連歌…『菟玖波集』(二条良基と救済)、『応安新式』(二条良基)

○北山文化…3代将軍足利義満の頃の14世紀末~15世紀初めの文化
 ・特徴…武家文化が公家文化を摂取、禅宗文化・明文化の普及
 ・仏教…五山十刹-臨済宗統制。京都五山・鎌倉五山。五山僧の活躍
 ・文学…五山文学の全盛-義堂周信・絶海中津が双璧、五山版
     歴史書-『難太平記』(今川了俊)  軍記物-『義経記』
 ・建築…鹿苑寺金閣など
 ・庭園…西芳寺庭園(夢窓疎石)、天竜寺庭園、鹿苑寺庭園
 ・絵画…水墨画-『瓢鮎図』(明兆)、『寒山拾得図』(周文か?)など
 ・芸能…能-観阿弥・世阿弥が大成、『風姿花伝』(世阿弥)
     狂言

○東山文化…8代将軍足利義政の頃の15世紀後半の文化
 ・特徴…簡素さ・有限を基調、公家文化の芸術性が生活文化に浸透
 ・仏教…禅 宗-五山派の衰退、林下が民間布教
     浄土真宗の蓮如、日蓮宗の日親の活躍
 ・神道…吉田兼倶の唯一神道

 ・建築…慈照寺銀閣、慈照寺東求堂同仁斎→書院造
 ・庭園…枯山水の様式→竜安寺石庭、大徳寺大仙院庭園など
 ・絵画 水墨画…『四季山水図巻』『天橋立図』(2つとも雪舟)
     大和絵…狩野派-狩野正信・元信、『大仙院花鳥図』(元信)
         土佐派-土佐光信・光起が祖
 ・彫金…金工(後藤祐乗)

 ・学問…『公事根源』『樵談治要』『花鳥余情』(すべて一条兼良)
     『医書大全』(阿佐井野宗瑞)
     民間教育の教材-『庭訓往来』など。『節用集』(饅頭屋宗二)
     足利学校の再興(上杉憲実)
     儒学…桂庵玄樹が薩南学派、南村梅軒が海南学派の祖
     古今伝授(東常縁が開始)、大内版の出版
 ・連歌…宗祇-正風連歌、『新撰菟玖波集』『水無瀬三吟百韻』
     宗鑑-俳諧連歌、『犬筑波集』

 ・芸能・庶民文化
   能…金春禅竹の金春座
   茶道…闘茶、茶寄合→侘茶(村田珠光→武野紹鴎)→茶道(千利休)
   花道…供花→立花(立阿弥)→生花(池坊専慶)
   香道…香寄合→香道
   御伽草子…『酒呑童子』『一寸法師』など
   小歌(『閑吟集』)、古浄瑠璃、幸若舞、盆踊り、祇園会の復活
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:38:08 | 显示全部楼层
(1)
 室町時代の文化は、南北朝文化・北山文化・東山文化に分けられる。全体的な性格は、公家文化と禅宗文化を融合した新しい武家文化に、都市・農村の民衆的要素が加わったものである。戦国時代には、さらに文化の民衆化と地方普及が進んだ。


(2)
 南北朝文化は、14世紀中頃の南北朝の動乱期の文化で、その世相を反映して歴史書や軍記物が書かれた。武士や民衆の台頭から、連歌や茶寄合なども流行し始めた。

 学問では、史書は北畠親房{きたばたけちかふさ}の『神皇正統記{じんのうしょうとうき}』、有職故実は後醍醐天皇の『建武{けんむ}年中行事』や北畠親房の『職原抄{しょくげんしょう}』がある。他に、道祐{どうゆう}の『正平版{しょうへいばん}論語』がある。『神皇正統記』は、親房が常陸小田城で北朝方と対戦しながら執筆したもので、大義名分論に基づいて、南朝の正統性を主張した。

 文学では、歴史・軍記物は『太平記{たいへいき}』、『梅松論{ばいしょうろん}』、『増鏡{ますかがみ}』、『曾我{そが}物語』がある。『太平記』は南北朝動乱を、『梅松論』は足利幕府の正当性を、『増鏡』は鎌倉時代を編年体で記したものである。『曾我物語』は、曾我兄弟が父の仇{かたき}を富士の裾野{すその}で討ち取る物語である。和歌は、宗良{むねよし}親王が撰定した『新葉{しんよう}和歌集』がある。

 連歌は、和歌の上の句(5・7・5の長句)と下の句(7・7の短句)とを別の人が交互に詠み、唱和する文芸である。二条良基{にじょうよしもと}はこの方式と地位を確立し、彼と救済{ぐさい、きゅうぜい}が選んだ『菟玖波{つくば}集』は連歌集の最初で準勅撰とされ、『応安新式{おうあんしんしき}』で連歌の規則を集大成した。




(3)
 北山文化は、3代将軍足利義満の頃の14世紀末~15世紀初めの文化である。義満による南北朝合体・幕政確立という政治の動きを背景に、武家文化が公家文化を摂取して発展する基礎ができた。禅宗文化や明の文化も普及した。

 仏教では、義満の時に室町幕府が南宋の制度にならい、臨済宗五山派寺院を官寺とし、五山・十刹{ござん・じっさつ}の序列を付して幕府が住持{じゅうじ:住職}を任命した。京都五山は天竜・相国・建仁・東福・万寿{てんりゅう・そうこく・けんにん・とうふく・まんじゅ}の5寺で、南禅寺{なんぜんじ}は五山の別格上位とした。鎌倉五山は、建長・円覚・寿福・浄智・浄妙{じゅふく・じょうち・じょうみょう}の5寺である。五山の寺院の管理を行なうために僧録司{そうろくし}を置き、春屋妙葩{しゅんおくみょうは}を初代僧録に任命した。また、夢窓疎石{むそうそせき}などの五山僧は、政治・外交・文学などに活躍した。

 文学は、五山文学が全盛を迎え、義堂周信{ぎどうしゅうしん}と絶海中津{ぜっかいちゅうしん}がその双璧と称された。五山文学は、五山・十刹に拠った禅僧らの漢詩文学である。義堂周信の『空華日用{くうげにちよう}工夫略集』、絶海中津の『蕉堅藁(稿){しょうけんこう}』などがある。また、禅の経典や漢詩文集を五山版として出版した。

 歴史書は今川了俊{りょうしゅん}の『難{なん}太平記』<注1>、軍記物は『義経{ぎけい}記』がある。『義経記』は、源義経の幼少期と末期の不遇時代を同情的に描き、民衆的義経伝説のもととなった。

注1> 『太平記』非難の記述が一部にあるため、後世の人が命名した。

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:38:42 | 显示全部楼层
(4)
 建築では、足利義満が建立した鹿苑寺{ろくおんじ}金閣は、禅宗様・寝殿造を融合したものである。他に、興福寺五重塔と東金堂{とうこんどう}は和様建築、永保寺開山堂{えいほうじかいさんどう}(南北朝期)は禅宗様建築である。庭園も作られ、西芳寺{さいほうじ:苔寺{こけでら}とも}・天竜寺・鹿苑寺のものが有名である。西芳寺庭園は、夢窓疎石の作である。

 絵画は、水墨画が発達した。水墨画は、墨の濃淡と描線の強弱による墨一色の東洋独特の絵である。可翁{かおう}の『寒山{かんざん}図』(南北朝期)、明兆{みんちょう}の『五百羅漢{ごひゃくらかん}図』、如拙{じょせつ}の『瓢鮎{ひょうねん、ひょうでん}図』、周文{しゅうぶん}作とされる『寒山拾得{かんざんじっとく}図』などがある。また、絵巻物の『慕帰絵詞{ぼきえことば}』は、本願寺3世覚如{かくにょ}の一代を描いたもので、生活資料として重要である。


(5)
 芸能は、能(能楽)が大成した。能は、社寺の祭礼に奉仕する猿楽能{さるがくのう}に、民間で発展した田楽{でんがく}を取り入れ、宗教的芸能から庶民的な舞台芸術に発展したものである。当初、大和猿楽四座{しざ}と近江猿楽があり、前者は興福寺・春日社に奉仕する観世・金春・金剛・宝生{かんぜ・こんぱる・こんごう・ほうしょう}の4座、後者は日吉{ひえ}神社に奉仕する北近江の上{かみ}三座(山階・下坂・比叡{やましな・しもさか・ひえい})と、多賀神社に奉仕する南近江の下{しも}三座(大森・敏満寺・酒人{みまじ・さかうど})の総称である。

 観世座から出た観阿弥{かんあみ}と世阿弥{ぜあみ}が、能楽を大成させた。世阿弥の『風姿花伝{ふうしかでん:花伝書{かでんしょ}とも}』は能楽の芸術論、子の観世元能{もとよし}が筆録した『申楽談儀{さるがくだんぎ}』は芸道論である。能の脚本を謡曲{ようきょく}という。能の合間に、狂言{きょうげん}も上演された。狂言は、滑稽なしぐさやふりを交えた庶民劇で、庶民側から大名・山伏・僧侶などを風刺したものが多い。


(6)
 東山文化は、8代将軍足利義政の頃の15世紀後半の文化である。禅の精神に基づく簡素さ、伝統文化の幽玄などを基調とする。伝統的文化としての公家文化の発達や芸術性が、生活文化に浸透したのも特徴である。

 仏教は、幕府の保護を受けた五山派が衰退し、より自由な活動を求めた林下{りんか}が民間布教に努めた。曹洞系の永平寺・総持寺{えいへいじ・そうじじ}、臨済系の大徳寺・妙心寺{だいとくじ・みょうしんじ}などが有力である。大徳寺派の一休宗純{いっきゅうそうじゅん}も知られる。また、浄土真宗(本願寺派)の蓮如{れんにょ}や日蓮宗の日親{にっしん}も、この頃に活躍した。

 神道は、吉田兼倶{かねとも}が唯一神道(吉田神道)を大成させた。この教説は、本地垂迹に基づく両部{りょうぶ}神道に対し、反本地垂迹説の立場から本地で唯一なるものを神として、一切の現象を体系づけたものである。儒教・仏教も取り入れた総合的な神道説である。


(7)

 建築は、足利義政が建立した慈照寺{じしょうじ}銀閣・東求堂同仁斎{とうぐどうどうじんさい}が有名である。銀閣は、禅宗様と書院造{しょいんづくり}を取り入れたものである。書院造は、禅院の書斎の影響などから、床・棚・付{つけ}書院などを持ち、明{あかり}障子・襖を多く用いた造りで、一丈四方の広さの方丈や、その入口としての玄関<注2>を設けるなど、現代の日本住宅の基本となる様式である。東求堂同仁斎も書院造で有名である。

 庭園は、枯山水{かれさんすい、かれせんずい}の様式で作られたものが多い。枯山水は、水を用いずに砂と石で山水自然の生命を表現する禅院の作庭様式である。特に、竜安寺石庭{りょうあんじせきてい}や大徳寺大仙院{だいせんいん}庭園が有名である。他に、善阿弥{ぜんあみ}が作った慈照寺庭園がある。

 絵画では、雪舟{せっしゅう}が水墨画を大成させた。彼の作品は、『四季山水{さんすい}図巻(山水長巻{ちょうかん})』、『天橋立{あまのはしだて}図』、『秋冬{しゅうとう}山水図』などがある。大和絵は、狩野{かのう}派と土佐{とさ}派が生まれた。狩野派は狩野正信・元信{まさのぶ・もとのぶ}父子が成立させた漢画系の流派で、正信の『周茂叔愛蓮{しゅうもしゅくあいれん}図』、元信の『大仙院花鳥{かちょう}図』がある。土佐派は土佐光信・光起{みつのぶ・みつおき}らを輩出した流派で、その画風が知られるものに『風俗図屏風』がある。

 工芸・彫金は、後藤祐乗{ゆうじょう}が足利義政に仕えた。

注2>玄妙{げんみょう}な門の意。
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:38:59 | 显示全部楼层
(8)
 学問は、当代随一の学者である一条兼良{いちじょうかねよし、かねら}の作品が多く、有職故実の『公事根源{くじこんげん}』、古典研究の『花鳥余情{かちょうよじょう}』、足利義尚{よしひさ}の問いに答えた政治意見書の『樵談治要{しょうだんちよう}』がある。また、阿佐井野宗瑞{あさいのそうずい}の『医書大全』は、日本の医書刊行の最初である。

 民間教育の教材として、『庭訓往来{ていきんおうらい}』などの往来物、『実語教{じつごきょう}』、『童子教{どうじきょう}』、いろは歌などが使われた。また、饅頭屋宗二{まんじゅうやそうじ}が刊行した『節用集{せつようしゅう}』は、日常語句を最初の音で「イロハ順」に分けた上、さらに言葉の意味別に分類した国語辞典である。

 上杉憲実{のりざね}は足利学校を再興し、戦国時代に来日した宣教師フランシスコ=ザビエルは「坂東の大学」と称した。朱子学が各地に広がり、桂庵玄樹{けいあんげんじゅ}は応仁の乱を避けて西国で儒書を講じ、薩摩の島津忠昌{ただまさ}に招かれて薩南{さつなん}学派の基を作った。また、南村梅軒は土佐の吉良氏に仕え、海南{かいなん}学派(南学{なんがく})の祖となった。

 古今伝授は、東常縁{とう(の)つねのり}が始めた。古今伝授は『古今和歌集』の故実・解釈などを弟子に授けることで、秘事口伝{ひじくでん}<注3>とされた。1471年に東常縁が宗祇{そうぎ}に伝授して、近世に及んだ。印刷・出版は、大内氏が貿易による富を背景に、仏典・漢籍を中心に大内版を出版した。

 連歌は、この頃に大成した。宗祇は、和歌の伝統を生かした深みのある芸術的な正風{しょうふう}連歌を確立した。準勅撰となった『新撰菟玖波集』や、宗長・肖柏{そうちょう・しょうはく}と詠んだ『水無瀬三吟百韻{みなせさんぎんひゃくいん}』がある。また、(山崎)宗鑑は、滑稽な、あるいは機知的な俳諧連歌を確立し、『犬筑波{いぬつくば}集』を編集した。

注3> たやすく人に教えられない学問・芸術の奥義を、限られた後継者だけに秘かに口伝えで教え授けること。



(9)
 芸能・庶民文化では、能は金春禅竹{ぜんちく}が金春座を確立した。

 茶道の基礎となる喫茶の風習は、禅宗寺院で始まった。南北朝期頃、武家・庶民の間に闘茶{とうちゃ}・茶寄合が広まった。闘茶は、幾種類かの茶を飲み、その産地を当てるものだが、侘茶{わびちゃ}の発達ですたれた。茶寄合は、多人数で茶の会合を持ち、自由な酒食{しゅしょく}を伴う娯楽的な茶会である。抹茶による喫茶には、禅の思想や作法を織り込んだ流儀が出来上がって、茶の湯と呼ばれた。村田珠光{じゅこう}が一休宗純に参じて禅の精神を身につけ、茶会を茶の湯にまで高めた。そして、武野紹鴎{たけのじょうおう}が侘茶を更に簡素化し、千利休{せんのりきゅう}が茶の湯として大成させた。

 花道(華道)は、仏前に花を供える供花{くげ}から、花を立ててその美を競う豪華な立花{りっか、たてはな}に発展した。立花の名手に立阿弥{りつあみ}がいる。侘茶の流行とともに、立花は投げ入れの方法を用いる生花に移り、やがて池坊専慶{いけのぼうせんけい}が花道を大成させた。その後、池坊専応・専好{せんおう・せんこう}によって、池坊流が発展した。また、一定の作法で香を焚き、その匂いを鑑賞する香道{こうどう}も足利義政の時代に成立し、香をかぎ分ける聞香{もんこう}のための香寄合も盛行した。

 御伽草子{おとぎぞうし}は庶民的な短編物語で、内容は多種多彩で、全般に仏教思想の影響が強い。『物{もの}くさ太郎』、『一寸法師{いっすんぼうし}』、『浦島太郎』、『酒呑童子{しゅてんどうじ}』などが有名である。

 小歌{こうた}、古浄瑠璃{こじょうるり}、幸若舞{こうわかまい}、念仏踊り、風流{ふりゅう}踊り、盆踊りも流行した。小歌は、その時代の民間で歌われた流行歌などをいい、『閑吟集{かんぎんしゅう}』は小歌などをまとめたものである。幸若舞は、越前国の幸若大夫{だゆう}一派の舞である。風流踊りは、民衆が仮装したり、異様な風体{ふうてい}で踊る踊りである。盆踊りは、盂蘭盆{うらぼん}の頃に精霊{しょうりょう}を慰めるために音頭や歌謡に合わせて行なう踊りで、風流と念仏踊りが結びついて生まれた。

 応仁の乱で中断した祇園会{ぎおんえ}は、1500年に復活した。祇園会は、京都祇園社(八坂神社)の疫病除け祭礼で、復活後は町衆{ちょうしゅう}の手で行なわれた。
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:40:17 | 显示全部楼层
12桃山文化
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:44:04 | 显示全部楼层
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:45:15 | 显示全部楼层
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:46:03 | 显示全部楼层
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:46:57 | 显示全部楼层
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