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发表于 2010-11-10 23:38:42
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建築では、足利義満が建立した鹿苑寺{ろくおんじ}金閣は、禅宗様・寝殿造を融合したものである。他に、興福寺五重塔と東金堂{とうこんどう}は和様建築、永保寺開山堂{えいほうじかいさんどう}(南北朝期)は禅宗様建築である。庭園も作られ、西芳寺{さいほうじ:苔寺{こけでら}とも}・天竜寺・鹿苑寺のものが有名である。西芳寺庭園は、夢窓疎石の作である。
絵画は、水墨画が発達した。水墨画は、墨の濃淡と描線の強弱による墨一色の東洋独特の絵である。可翁{かおう}の『寒山{かんざん}図』(南北朝期)、明兆{みんちょう}の『五百羅漢{ごひゃくらかん}図』、如拙{じょせつ}の『瓢鮎{ひょうねん、ひょうでん}図』、周文{しゅうぶん}作とされる『寒山拾得{かんざんじっとく}図』などがある。また、絵巻物の『慕帰絵詞{ぼきえことば}』は、本願寺3世覚如{かくにょ}の一代を描いたもので、生活資料として重要である。
(5)
芸能は、能(能楽)が大成した。能は、社寺の祭礼に奉仕する猿楽能{さるがくのう}に、民間で発展した田楽{でんがく}を取り入れ、宗教的芸能から庶民的な舞台芸術に発展したものである。当初、大和猿楽四座{しざ}と近江猿楽があり、前者は興福寺・春日社に奉仕する観世・金春・金剛・宝生{かんぜ・こんぱる・こんごう・ほうしょう}の4座、後者は日吉{ひえ}神社に奉仕する北近江の上{かみ}三座(山階・下坂・比叡{やましな・しもさか・ひえい})と、多賀神社に奉仕する南近江の下{しも}三座(大森・敏満寺・酒人{みまじ・さかうど})の総称である。
観世座から出た観阿弥{かんあみ}と世阿弥{ぜあみ}が、能楽を大成させた。世阿弥の『風姿花伝{ふうしかでん:花伝書{かでんしょ}とも}』は能楽の芸術論、子の観世元能{もとよし}が筆録した『申楽談儀{さるがくだんぎ}』は芸道論である。能の脚本を謡曲{ようきょく}という。能の合間に、狂言{きょうげん}も上演された。狂言は、滑稽なしぐさやふりを交えた庶民劇で、庶民側から大名・山伏・僧侶などを風刺したものが多い。
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東山文化は、8代将軍足利義政の頃の15世紀後半の文化である。禅の精神に基づく簡素さ、伝統文化の幽玄などを基調とする。伝統的文化としての公家文化の発達や芸術性が、生活文化に浸透したのも特徴である。
仏教は、幕府の保護を受けた五山派が衰退し、より自由な活動を求めた林下{りんか}が民間布教に努めた。曹洞系の永平寺・総持寺{えいへいじ・そうじじ}、臨済系の大徳寺・妙心寺{だいとくじ・みょうしんじ}などが有力である。大徳寺派の一休宗純{いっきゅうそうじゅん}も知られる。また、浄土真宗(本願寺派)の蓮如{れんにょ}や日蓮宗の日親{にっしん}も、この頃に活躍した。
神道は、吉田兼倶{かねとも}が唯一神道(吉田神道)を大成させた。この教説は、本地垂迹に基づく両部{りょうぶ}神道に対し、反本地垂迹説の立場から本地で唯一なるものを神として、一切の現象を体系づけたものである。儒教・仏教も取り入れた総合的な神道説である。
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建築は、足利義政が建立した慈照寺{じしょうじ}銀閣・東求堂同仁斎{とうぐどうどうじんさい}が有名である。銀閣は、禅宗様と書院造{しょいんづくり}を取り入れたものである。書院造は、禅院の書斎の影響などから、床・棚・付{つけ}書院などを持ち、明{あかり}障子・襖を多く用いた造りで、一丈四方の広さの方丈や、その入口としての玄関<注2>を設けるなど、現代の日本住宅の基本となる様式である。東求堂同仁斎も書院造で有名である。
庭園は、枯山水{かれさんすい、かれせんずい}の様式で作られたものが多い。枯山水は、水を用いずに砂と石で山水自然の生命を表現する禅院の作庭様式である。特に、竜安寺石庭{りょうあんじせきてい}や大徳寺大仙院{だいせんいん}庭園が有名である。他に、善阿弥{ぜんあみ}が作った慈照寺庭園がある。
絵画では、雪舟{せっしゅう}が水墨画を大成させた。彼の作品は、『四季山水{さんすい}図巻(山水長巻{ちょうかん})』、『天橋立{あまのはしだて}図』、『秋冬{しゅうとう}山水図』などがある。大和絵は、狩野{かのう}派と土佐{とさ}派が生まれた。狩野派は狩野正信・元信{まさのぶ・もとのぶ}父子が成立させた漢画系の流派で、正信の『周茂叔愛蓮{しゅうもしゅくあいれん}図』、元信の『大仙院花鳥{かちょう}図』がある。土佐派は土佐光信・光起{みつのぶ・みつおき}らを輩出した流派で、その画風が知られるものに『風俗図屏風』がある。
工芸・彫金は、後藤祐乗{ゆうじょう}が足利義政に仕えた。
注2>玄妙{げんみょう}な門の意。
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