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楼主: junshan_yin

[本科专业课] 【广外】《日本社会文化》详细笔记+历年真题

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:30:09 | 显示全部楼层
L006 天平文化

○天平文化…8世紀の奈良時代の文化
 ・特徴…国際色豊かな文化、豪壮雄大、貴族的、仏教的色彩が濃い
 ・仏教 国家仏教…僧尼令の規制、官寺の建立、鎮護国家の法会
     南都七大寺・唐招提寺、南都六宗、戒壇の設置
     社会事業…光明皇后の施薬院・悲田院、行基の民間布教など

 ・教育…大学(式部省管轄)・国学(国司管轄)、石上宅嗣の芸亭

 ・文学…歴史書-『古事記』『日本書紀』  地 誌-『風土記』
     漢詩集-『懐風藻』        和歌集-『万葉集』
 ・建築…法隆寺伝法堂・夢殿、東大寺法華堂・転害門、正倉院宝庫、
     唐招提寺金堂・講堂など
 ・彫刻…東大寺法華堂日光・月光菩薩像と執金剛神像、戒壇院四天王像(塑像)
     興福寺八部衆像・十大弟子像、東大寺法華堂不空羂索観音像
     唐招提寺鑑真像(脱乾漆像)
 ・絵画…薬師寺吉祥天像(仏画)、正倉院鳥毛立女屏風(美人画)
     過去現在絵因果経(絵巻物の最初)
 ・工芸…正倉院宝物、東大寺大仏殿八角灯籠など
     百万塔陀羅尼(世界最古の印刷物)

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:30:35 | 显示全部楼层
(1)
 天平文化は、聖武天皇朝の天平時代を中心とした8世紀の奈良時代の文化の総称である。盛唐文化を中心とした国際色豊かな文化で、律令国家最盛期を繁栄して豪壮雄大で、貴族的で仏教的色彩の濃い文化である。

 奈良時代の仏教は、国家の保護・支配の下に置かれた国家仏教<注1>である。僧侶は、僧尼令{そうにりょう}の規制を受ける国家公認の官僧のみが認められ、許可なく得度{とくど:出家}する私度僧{しどそう}は禁止された。また、僧尼を統轄する僧綱{そうごう}という官職が設けられた。官寺が多く建てられ、鎮護国家の法会{ほうえ}を行なった。

 官大寺制は、8世紀末に大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・法隆寺・東大寺・西大寺が南都七大寺とされた。寺院は、鑑真{がんじん}が建立した唐招提寺{とうしょうだいじ}も有名である。官寺には仏教教学を研究する学派があり、三論{さんろん}宗・倶舎{くしゃ}宗・律{りつ}宗・成実{じょうじつ}宗・法相{ほっそう}宗・華厳{けごん}宗の6学派を南都六宗と総称された。東大寺などには数派が同時に存在した。

 正式な官僧になるには得度して修行し、戒壇で授戒{じゅかい}する必要があった。授戒は、一定の戒律{かいりつ}<注2>を所定の手続きで授けることをいい、それを行なう場所を戒壇{かいだん}といった。754年に初めて鑑真が東大寺大仏殿前に築き、翌年から常設の戒壇院を建立した。東大寺戒壇院と下野薬師寺・筑紫観世音寺{ちくしかんぜおんじ}の戒壇を天下三戒壇という。

 国王(ここでは天皇)が仏教を尊崇すれば、諸仏が国を護ってくれると説いた教典を「護国の経典」といい、法華経{ほけきょう}・仁王経{にんのうきょう}・金光明経{こんこうみょうきょう}を護国三部経といった。また、一切経{いっさいきょう:大蔵経{だいぞうきょう}とも}の写経が盛行した。仏典を書写する写経事業も行なわれた。

 政治と仏教が深く結びついたため、玄〔日方〕{げんぼう}や道鏡{どうきょう}のように政治に介入する僧侶もいた。民間への布教は禁止されていたが、行基は民間に布教して弾圧を受けた。戒律を伝えるため、盲目になりながらも来日した鑑真も有名である。

 仏教思想に基づく社会事業も行なわれた。光明{こうみょう}皇后は、皇后宮職{ぐうしき}<注3>に施薬院{せやくいん}・悲田院{ひでんいん}を設置した。施薬院は、病人に薬を施して治療を行なう施設である。悲田院は、貧しい人々や孤児を収容して飢餓から救う施設である。和気広虫{わけのひろむし}は、仲麻呂{なかまろ}の乱に連坐した人々の助命を乞い、乱後の捨て子を養育した。称徳天皇は、仲麻呂の乱による戦没者の霊を弔うために木製の三重塔百万基(百万塔)を作った。行基は民間に布教し、灌漑施設や橋、布施屋{ふせや:休憩宿泊所}を設けるなどの社会福祉事業を行なった。大仏造営に協力し、大僧正{だいそうじょう}に任じられた。

注1> 寺田{じでん:寺所有の田}が不輸租{ふゆそ:税金がかからない}で、僧の課役{かえき:調庸と雑徭}も免除された。
注2> 僧尼が守るべき一定の規範。戒は心の規律、律は行動の規範。
注3> 皇后に付された家政機関
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:30:54 | 显示全部楼层
(2)
 教育では、中央に式部{しきぶ}省管轄の大学(大学寮)が置かれ、貴族や東西史部{やまとかわちのふひとべ}の子弟を学生{がくしょう}とした。明経{みょうぎょう}・明法{みょうぼう}・文章{もんじょう}・算などが教授され、大学の試験を通ると太政官に推薦され、式部省で秀才・明経・進士・明法の4科に分けて試験を受けて登用された。また、中務{なかつかさ}省管轄の陰陽{おんみょう}寮では陰陽・暦・天文を教え、宮内{くない}省管轄の典薬{てんやく}寮では医学・薬学(本草{ほんぞう}学)を教えた。地方には国司管轄の国学が置かれ、郡司の子弟を教育した。修了者は上京して、大学修了者同様に試験を受けて、官吏に登用された。

 さらに、石上宅嗣{いそのかみのやかつぐ}は旧宅に公開図書館を開いた。芸亭{うんてい}と呼ばれ、仏教以外の書を好学の士に閲覧させた。


(3)
 文学では、歴史書の『古事記{こじき}』『日本書紀{にほんしょき}』、地誌の『風土記{ふどき}』、漢詩集の『懐風藻{かいふうそう}』、和歌集の『万葉集{まんようしゅう}』が編纂された。

 681年、天武天皇は『帝紀』『旧辞』を検討し、記憶力に優れた稗田阿礼{ひえだのあれ}に誦{よ}み習わせた。また、勅語で川島皇子{かわしまのみこ}・刑部{おさかべ}親王ら12名に「帝紀及び上古の諸事(旧辞)を記し定める」よう命じた。

 『古事記』は、稗田阿礼が誦み習わせた推古天皇までの天皇系譜や皇室の伝承を太安万侶{おおのやすまろ}が筆録して、712年に元明天皇に献上したものである。漢字の音訓を用いて、口頭の日本語を文章表現した。『日本書紀』は、神代~持統天皇に至る天皇中心の国家成立史を漢文・編年体<注4>で記した、最古の官撰正史である。編者は舎人{とねり}親王らで、720年に元正{げんしょう}天皇に献上された。この後に編纂される六国史{りっこくし}の最初である。

 『風土記』は、713年に諸国に地名の由来・産物・伝承などを記して提出させた各国別の地誌である。現存は常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5か国のみで、出雲だけが完全に残っている。

 『懐風藻』<注5>は、64人の詩120編を集めた日本最古の漢詩集である。撰者は淡海三船{おうみのみふね}、石上宅嗣といわれるが不明である。天武天皇の皇子大津皇子{おおつのみこ}はその代表詩人である。

 『万葉集』は、奈良時代後期までの約4500首を収録した日本最古の歌集である。撰者は、大伴家持{おおとものやかもち}が有力である。漢字の音訓を用いて日本語を表わす万葉仮名を使い、詩形・作者とも幅広い。歌風は素朴で力強く、万葉調と呼ばれる。恋愛を詠む相聞歌{そうもんか}、死者を哀悼する挽歌{ばんか}、両者に属さない雑歌{ぞうか}などに分かれる。短歌・長歌以外に、東歌{あずまうた}や防人{さきもり}の歌も多く収められている。代表的歌人に、『貧窮問答歌{ひんきゅうもんどうか}』で知られる山上憶良{やまのうえのおくら}、大伴旅人{おおとものたびと}、山部赤人{やまべのあかひと}、大伴家持らがいる。
注4>時代を追って出来事を記述する歴史叙述法。
注5>先人の遺風を懐{おも}う美しい藻(詩文)の意
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:31:18 | 显示全部楼层
(4)
 建築では、法隆寺伝法堂{でんぽうどう}・夢殿、東大寺法華堂・転害{てがい}門、正倉院宝庫、唐招提寺金堂・講堂などが知られる。法隆寺伝法堂は橘古那可智{こなかち}(聖武夫人)宅<注6>の移築とされ、当時の貴族住宅を知る貴重な遺構である。夢殿は、八角形の仏殿である。東大寺法華堂は、毎年3月に法華会{え}が行なわれるので、三月堂ともいう。正堂{しょうどう}は創建時、礼堂{らいどう}は鎌倉時代のものである。転害門は、東大寺に現存する創建当時の建造物7棟のうち、唯一の門である。

 正倉院宝庫は東大寺宝庫群で現存する唯一のもので、南・中・北倉の3倉に分かれ、南と北は校倉造{あぜくらづくり}で作られている。校倉造は、柱を用いず断面が三角形の木材を井桁{いげた}に積み上げて、壁面を構成したものである。唐招提寺金堂は、奈良時代の金堂で唯一現存する遺構で、和様建築の起点とされている。講堂は平城宮朝集殿{ちょうしゅうでん}<注7>を移築し、鎌倉時代に修築されたが、平城宮唯一の遺構である。

注6> 橘三千代{みちよ}(光明子の母)宅とも
注7> 儀式の時に臣下が参集する場所で東西2棟あった。





(5)
 彫刻は、粘土で作る塑像{そぞう}と漆で固めて作った乾漆像{かんしつぞう}がある。乾漆像には脱{だつ}乾漆と木心{もくしん}乾漆があり、前者は土の原形の上に麻布を漆で塗り固め、土を抜いて木枠を入れるもの、後者は原形を木で造り、麻布と漆で整形するものである。ともに、経費と時間がかかる。

 塑像は、東大寺法華堂日光・月光{がっこう}菩薩像と執金剛神{しつこんごうしん}像、東大寺戒壇院四天王像(持国天{じこくてん}・増長天{ぞうじょうてん}・広目天{こうもくてん}・多聞天{たもんてん})、新薬師寺十二神将像{しんしょうぞう}(迷企羅{めきら}大将像など)などがある。脱乾漆像は、興福寺八部衆像(阿修羅{あしゅら}像など)・十大弟子像(須菩提{すぼだい}像など)、東大寺法華堂不空羂索{ふくうけんじゃく}観音像、唐招提寺鑑真像<注8>・金堂盧舎那仏像などがある。木心乾漆像は、聖林寺{しょうりんじ}十一面観音像などがある。

 絵画は、仏画の薬師寺吉祥天{きちじょうてん}像、美人画の正倉院鳥毛立女{とりげだちおんなの}屏風(樹下美人図)、絵巻物の最初とされる過去現在絵因果経がある。鳥毛立女屏風の髪や衣服には日本のキジの羽毛が貼ってあったが、現在は剥落している。

 工芸は、正倉院宝物<注9>が有名である。この宝物は、光明皇太后が聖武上皇の没後に冥福を祈って東大寺に寄進したのが始まりで、それ以外の献納物をあわせると1万点余になるという。奈良時代の貴族文化の実際を見ることが出来る。また、由緒・来歴が明白で、宝物の数量が多く、世界性・国際性があることなどに価値がある。現在は鉄筋コンクリート造りの新宝庫に保存されている。螺鈿紫檀五絃琵琶{らでんしたんごげんのびわ}、銀薫炉{ぎんのくんろ}、白瑠璃碗{はくるりわん}<注10>、瑠璃杯{るりのつき}、漆胡瓶{しっこへい}などの他に、光明皇太后44歳の書『楽毅{がっき}論』も納められている。

 正倉院宝物の他に、東大寺大仏殿八角灯籠{はっかくどうろう}・大仏蓮弁毛彫{れんべんけぼり}がある。また、世界最古の印刷物とされる百万塔陀羅尼{だらに}(経)は、称徳天皇の発願で作られたものである。

注8> 松尾芭蕉は唐招提寺でこの像を拝み、「若葉して 御{おん}めの雫{しずく} ぬぐはばや」(若葉で鑑真の見えなくなった目の涙をぬぐって差し上げたい)と詠んだ(『笈{おい}の小文{こぶみ}』)。
注9> 毎年、秋の虫干しの期間だけ正倉院展として一般公開される。1946年に始まり、毎年異なる宝物が奈良国立博物館で公開されている。
注10> 瑠璃は中国でガラスのこと

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:31:52 | 显示全部楼层
L007 弘仁・貞観文化

○弘仁・貞観文化…平安前期の文化
 ・特徴…唐の文化の消化、漢文学の隆盛、密教の発展
 ・文学 漢詩文 勅撰…『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』
         私撰…『性霊集』(空海)、『菅家文草』(菅原道真)
     評 論…空海の『文鏡秘府論』  説話集…景戒の『日本霊異記』
     その他…『新撰姓氏録』、菅原道真の『類聚国史』
         円仁の『入唐求法巡礼行記』
 ・書道 三筆(嵯峨天皇、空海、橘逸勢)

 ・教育 紀伝道の重視
     大学別曹 学館院-橘嘉智子 弘文院-和気広世
          勧学院-藤原冬嗣 奨学院-在原行平
     空海の綜芸種智院

 ・宗教
  ・最澄の天台宗…延暦寺・園城寺、台密、後に円仁派と円珍派に分裂
  ・空海の真言宗…金剛峰寺・東寺、東密
  ・修験道…役小角を祖。大峰山、白山などが舞台

 ・密教美術
  ・建築…室生寺金堂・五重塔
  ・彫刻…一木造、翻波式
       密教彫刻…神護寺薬師如来像、室生寺金堂釈迦如来像など
       神像彫刻…薬師寺僧形八幡神像など
  ・絵画…神護寺と教王護国寺の両界曼荼羅、不動明王像
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:32:26 | 显示全部楼层

(1)
 弘仁・貞観{こうにん・じょうがん}文化は、嵯峨・清和{さが・せいわ}天皇朝の弘仁・貞観年間を中心とする平安時代前期の文化である。唐の文化の影響を受けながらも、次第にそれを消化していった。密教と密教芸術の発展、漢文学の隆盛などを特色とする文化である。

 文学では、文章経国{もんじょうけいこく}思想から漢詩文が全盛となり、天皇の命で勅撰漢詩文集が撰定・編纂された。特に嵯峨・淳和{じゅんな}両天皇の在位中に撰集されたのが、『凌雲集{りょううんしゅう}』、『文華秀麗集{ぶんかしゅうれいしゅう}』、『経国集{けいこくしゅう}』を三大勅撰集(3勅撰漢詩文集)という。嵯峨天皇を初め、宮廷の漢詩文への強い意欲を繁栄している。文章経国思想は、文芸は国家の支柱で国家の隆盛の鍵であるとする思想である。

 『凌雲集』は初の勅撰漢詩文集で、嵯峨天皇の命で小野岑守{おののみねもり}らが撰集した。『文華秀麗集』は、嵯峨天皇の命で藤原冬嗣らが編集し、天皇自ら作品を撰定した。『経国集』は、淳和天皇の命で良岑安世{よしみねのやすよ}らが編集した。

 また、空海の漢詩文などを弟子の真済{しんぜい}が、『性霊集{しょうりょうしゅう}』(『遍照発揮性霊集{へんじょうほっきせいれいしゅう}』)にまとめた。菅原道真は、『菅家文草{かんけぶんそう}』を編集して醍醐天皇に奏進し、大宰府へ流された後に『菅家後集{こうしゅう}』を撰した。著名な漢詩文作者には、小野篁{おののたかむら}・都良香{みやこのよしか}らの文人官僚が知られる。

 漢詩集以外に、空海の『文鏡秘府論{ぶんきょうひふろん}』は、六朝・唐代の文学・評論を選び、詩文の格式や声韻などを評論したものである。景戒{きょうかい}の『日本霊異記{にほんりょういき}』は現存する最古の説話集で、仏教思想の影響を受けた因果応報譚{たん}が多い。『新撰姓氏{しょうじ}録』は古代の畿内諸氏1182氏の系譜を書いたもので、氏姓秩序の混乱を収拾するのが編集の目的である。菅原道真が編集した『類聚{るいじゅう}国史』は、六国史の内容を部門別に分類し、編年順に並べた史書である。円仁{えんにん}の『入唐求法{にっとうぐほう}巡礼行記{こうき}』は、五台山{ごだいさん}などを巡礼した旅の日記である。

 書は唐風の力強い筆蹟が尊ばれ、嵯峨天皇・空海・橘逸勢{たちばなのはやなり}の3人を三筆{さんぴつ}という。空海が最澄に送った『風信帖{ふうしんじょう}』、最澄が泰範{たいはん}に送った『久隔帖{きゅうかくじょう}』が有名である。

 教育は、大学教育が最盛期を迎えた。中国の歴史・漢詩文を学ぶ紀伝道が独立教科となって、重視された。また、有力氏族は一族の子弟を寄宿させる大学別曹{べっそう}を設け、大学で試験や講義を受けるのに便利なようにした。大学の付属機関として公認されたが、運営は各氏族が行なった。和気{わけ}氏の弘文院{こうぶんいん}、藤原氏の勧学院{かんがくいん}、皇族・在原{ありわら}氏の奨学院{しょうがくいん}、橘{たちばな}氏の学館院{がっかんいん}が知られる。また、空海は、庶民教育を目的に綜芸種智院{しゅげいしゅちいん}を設置し、儒・仏・道教を教えた。

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:33:10 | 显示全部楼层
(2)
 仏教は、奈良末期の山林修行の系譜を引く天台・真言両宗が開かれた。最澄が開いた天台宗は、法華宗を中心経典とし、人間の仏性{ぶっしょう}の平等<注1>を説いた。延暦寺{えんりゃくじ}・園城寺{おんじょうじ:三井寺{みいでら}とも}が中心寺院である。最澄の主著には、『顕戒{けんかい}論』と『山家学生式{さんげがくしょうしき}』がある。前者は大乗{だいじょう}戒壇<注2>設立に反対する南都諸宗に論駁{ろんばく}した書、後者は学生を大乗戒で教育して、さらに大乗戒壇設立を目指した書である。

 後に、弟子の円仁・円珍{えんちん}によって天台教団の基礎が大成され、天台宗の密教化を進めた。天台宗の密教の意味で、台密{だいみつ}という。しかし、両者の仏教解釈の相違から、その末流が対立し、993年に円珍派が山を下って園城寺に入って独立し、寺門派{じもんは}となった。延暦寺の円仁派を山門派{さんもんは}といい、両派は対立した。

 空海が開いた真言宗は、大日経{だいにちきょう}・金剛頂経{こんごうちょうきょう}を中心経典とし、加持祈祷{かじきとう}で現世利益{げんぜりやく}が得られ、秘密の呪法(真言)で悟りを開けると説いた。金剛峰寺{こんごうぶじ}・教王護国寺{きょうおうごこくじ:東寺{とうじ}とも}が中心寺院である。また、本来が密教で、台密に対し、東寺の密教の意味で東密{とうみつ:真言密教とも}という。空海の主著の『三教指帰{さんごうしいき}』は、自己の思想遍歴を語る中で、儒・道・仏の三教のうち、仏教が優れていると説いた。

 真言密教の加持祈祷や即身成仏{そくしんじょうぶつ}の教えにみる現世利益的傾向が、皇族・貴族の支持を受けて発展し、密教の流行をもたらし、天台密教とともに仏教の祈祷儀式に影響を与えた。

 修験道{しゅげんどう}は、密教・神道・陰陽道{おんみょうどう}<注3>などの影響を受けて、日本で成立した呪術的な山岳信仰で、呪術者の役小角{えんのおづの、えんのおずぬ}を祖師と仰いだ。山岳修行により験力{げんりき}を得た者を、験を修めた者という意味で修験者{しゅげんじゃ}と呼んだ。山に伏して山の霊力{れいりょく}を受けることから、山伏{やまぶし}ともいう。

注1> 仏性の平等は、仏の前における絶対平等の意。
注2> 大乗仏教独自の戒壇
注3> 古代中国の陰陽五行説{いんようごぎょうせつ}に基づいて、天文・暦学・易{えき}を説明する学問


(3)
 建築は、室生寺{むろうじ}金堂・五重塔が知られる。当時の寺院は、深山幽谷{しんざんゆうこく:奥深い山や谷}に建てられることが多かった。室生寺に代表されるように、堂塔{どうとう}は地勢に応じて形式にとらわれない自由な配置で建てられた。金堂・五重塔は、この時期唯一の遺構である。なお、室生寺は高野山{こうやさん}の女人{にょにん}禁制に対し、女性の入山を許されたので、後世「女人高野」といわれた。

 彫刻は、一木造{いちぼくづくり}が主流で、衣文は鋭いひだとなだらかなひだを交互に刻む翻波式{ほんぽしき}で表現された。また、密教の影響を受け、量感に満ち、神秘性がただよっている。一木造は木像で頭部と胴体が一木の木材で作られているもので、肉が厚いので深く彫れる。

 薬師寺僧形{そうぎょう}八幡神像、神護寺{じんごじ}や元興寺{がんごうじ}の薬師如来像、室生寺金堂釈迦如来像・弥勒堂釈迦如来像、観心寺如意輪{かんしんじにょいりん}観音像、法華寺{ほっけじ}十一面観音像、教王護国寺講堂不動明王像などが知られる。

 絵画は、密教画が隆盛となった。特に、仏の世界を壇{だん}の形式で図示した曼荼羅{まんだら}や不動明王像が知られる。神護寺と教王護国寺の両界曼荼羅、園城寺・高野山明王院の不動明王像が有名である。両界は、金剛界と胎蔵{たいぞう}界のことである。園城寺の不動明王像を黄不動、高野山明王院のそれを赤不動といい、京都青蓮院{しょうれんいん}の青不動と合わせて三不動として有名である。密教画以外に、西大寺十二天像もある。
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:33:43 | 显示全部楼层
L008 国風文化

○国風文化…10~11世紀の摂関政治期の文化
 ・特徴…中国文化を摂取・消化し、日本の風土にあった文化
     かな文学の発達と優雅な貴族文化、浄土教の流行
 ・文学
  ・かな文字…ひらがな、カタカナ
  ・漢和辞典…源順の『和名類聚抄』、昌住の『新撰字鏡』
  ・和歌…『古今和歌集』、六歌仙、歌合の盛行
  ・漢詩集…藤原公任の『和漢朗詠集』、藤原明衡の『本朝文粋』
  ・かな物語…『竹取物語』『伊勢物語』、紫式部の『源氏物語』など
  ・随筆…清少納言の『枕草子』
  ・日記…紀貫之の『土佐日記』、藤原道綱母の『蜻蛉日記』
      菅原孝標女の『更級日記』など

 ・宗教
  ・神道…神祇制度の整備、式内社、一の宮
   ・神仏習合(神前読経、神宮寺、神体の仏像)→本地垂迹説、権現
   ・御霊会の盛行
  ・仏教…浄土教の流行→空也・源信らの布教、往生集の作成

 ・美術
  ・建築…寝殿造(貴族の住宅)
      阿弥陀堂(平等院鳳凰堂、法界寺阿弥陀堂)、醍醐寺五重塔
  ・彫刻…寄木造、定朝の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像
  ・絵画…大和絵(巨勢金岡が祖)
      来迎図(高野山聖衆来迎図や平等院鳳凰堂扉絵)
  ・工芸…蒔絵、螺鈿
  ・書道…和様、三蹟(小野道風、藤原佐理、藤原行成)

 ・貴族生活
  ・服装 男-正装…束帯・衣冠 常服…直衣・狩衣
      女-正装…女房装束  常服…小袿・袴
  ・住宅 左京に寝殿造の邸宅。畳・円座を置く。
  ・食事 1日2回。獣肉・油は用いない。
  ・生活 成人式(男は元服、女は裳着)、妻問婚から招婿婚へ
      寺社参詣は行なうが、京を離れる旅行はまれ
      迷信に囲まれる…陰陽道の影響、物忌、方違
      娯楽…双六、碁、貝合、管弦など
  ・年中行事の発達
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:34:12 | 显示全部楼层
(1)
 国風文化は、10~11世紀の摂関時代を中心とする文化で、中国文化を摂取・消化し、日本の風土にあった文化となった。かな文学の発達と優雅な貴族文化、浄土教の流行が文化の特徴である。また、藤原氏が栄えたことから、藤原文化ともいう。

 文学は、かな文字の発達により、国文学が隆盛となった。かなにはひらがなとカタカナがあり、前者は草{そう}がな<注1>を簡略にしたもの、後者は漢字の偏・旁・冠{へん・つくり・かんむり}の一部を表音記号として使ったものである。そして、五十音図、いろは歌、あめつちの歌などが作られた。

 漢和辞典が編纂され、源順{みなもとのしたごう}の『和名類聚抄{わみょうるいじゅうしょう:倭名類聚抄とも}』は百科辞典的な分類をしたもの、昌住{しょうじゅう}の『新撰字鏡{しんせんじきょう}』は偏と旁で分類したものである。

 和歌は、905年に醍醐天皇の命で、紀貫之{きのつらゆき}・紀友則{とものり}・凡河内躬恒{おおしこうちのみつね}・壬生忠岑{みぶのただみね}らが『古今{こきん}和歌集』を編纂した。『古今和歌集』は最初の勅撰和歌集で、三代集・八代集・二十一代集<注2>の最初である。勅撰和歌集は、天皇・上皇・法皇の命で歌人が編集した和歌集である。

 また、和歌のうまい人も多く現われた。特に、在原業平{ありわらのなりひら}・僧正遍昭{へんじょう}・喜撰{きせん}法師・小野小町{おののこまち}・文室康秀{ふんやのやすひで}・大友黒主{おおとものくろぬし}の6人は、六歌仙と呼ばれた。他に、『古今和歌集』の編者の4人や大江千里{おおえのちさと}・選子{せんし}内親王らがいる。左右に分かれて、題に応じた一首を読み、判者が優劣を定めて、組の勝負を競う歌合{うたあわせ}も盛んに行なわれた。

 漢詩は、藤原公任{きんとう}の『和漢朗詠集{わかんろうえいしゅう}』で、朗詠に適する漢詩文・和歌を収録した。朗詠は、漢詩文の秀句を訓読で朗吟{ろうぎん}することである。藤原明衡{あきひら}の撰とされる漢詩文集『本朝文粋{ほんちょうもんずい}』も編纂された。

 物語は、『竹取物語』、『伊勢物語』、『宇津保{うつぼ}物語』、『落窪{おちくぼ}物語』、『源氏物語』などがある。『竹取物語』は日本最古の物語文学で、かぐや姫のむこ選び説話の中に、当時の貴族社会の内面が描写されている。『伊勢物語』は歌物語の初めで、在原業平の恋愛談を中心とする短編集である。紫式部{むらさきしきぶ}の『源氏物語』は、最高傑作の物語文学である。

 随筆は、清少納言{せいしょうなごん}の『枕草子{まくらのそうし}』があり、宮廷生活を随筆風に書いたものである。日記は、紀貫之の『土佐(左){とさ}日記』、藤原道綱{みちつな}の母の『蜻蛉{かげろう}日記』、菅原孝標{たかすえ}の女{むすめ}の『更級{さらしな}日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』などがある。『土佐日記』は、最初のかな日記である。

注1> 草体がなのこと。万葉仮名の草書体。
注2> 三代集は古今集・後撰{ごせん}集・拾遺{しゅうい}集、八代集はさらに後拾遺集・金葉{きんよう}集・詞花{しか}集・千載{せんざい}集・新古今集、二十一代集は室町時代の新続古今集まで続く21勅撰和歌集である。なお、古今集は『古今和歌集』の略称で、それ以外も同様に略称する。


(2)
 宗教のうち、神道は日本の民俗信仰で、教説はない。8世紀頃までは、氏神の祭祀を中心に展開したが、律令国家で神社を中心に再編成され、平安時代に神祇制度が整った。特に、延喜式神明帳{じんみょうちょう}に記載された格式の高い神社を、式内社{しきないしゃ}という。また、朝廷の尊崇が厚く、定期に奉幣{ほうへい:神への供え物を奉る}された伊勢・石清水{いわしみず}・賀茂など22の神社を二十二社という。地方では多くの神社の祭神を一か所に集めて、国府の近くに総社{そうじゃ}を設けた。一国の最上位に公認された神社を一の宮という。また、一定の地域・建物・住民を守護するために鎮守神が祀られた。

 神仏習合は、日本固有の神の信仰と仏教信仰との融合である。初めは、神前での読経や神宮寺を建てるなど妥協・調和の動きだった。神宮寺は神社の境内などに付設された寺院で、神前読経を行ない、神体の仏像を祀った。越前の気比{けひ}神宮、伊勢の多度{たど}神社、常陸の鹿島神宮などのそれは有名である。

 やがて、神仏は本来同じものとする方向に向かい、本地垂迹{ほんじすいじゃく}説という考えが生まれた。これは仏(本地)が人々を救済するため、仮の姿(権現)となって現われたのが日本の神である、という考え方である。天照大神{あまてらすおおみかみ}を大日如来{だいにちにょらい}の化身と考えるなど、それぞれの神に本地としての仏を特定することが行なわれた。権現も同様で、仏菩薩が衆生{しゅじょう:すべての生物}救済のため、神となって仮に姿を現わしたもので、蔵王{ざおう}権現や熊野権現がその例である。

 平安時代は、政治的に非業の死を遂げる者も多かった。そこで、怨霊や疫神を慰めて祟りを逃れようとする御霊会{ごりょうえ}が開かれた。祇園社{ぎおんしゃ}<注3>と菅原道真を祀る北野神社のそれが有名である。

 仏教は、浄土教が流行した。浄土教は、阿弥陀浄土への往生<注4>を願う信仰である。これが普及したのは末法思想という考えで、正法{しょうほう}・像法{ぞうほう}・末法という三時説のうち、仏法が衰える乱世に当たる末法の初年が1052年と考えられていたためである。空也{くうや}は10世紀半ばに念仏<注5>の功徳を京の市中で説き、源信{げんしん:恵心僧都{えしんそうず}とも}は985年に『往生要集』を著わして、念仏往生を説いた。空也を世人は市聖{いちのひじり}と呼んだ。聖は、公的な僧位・役職を持たない民間の宗教者である。また、良忍{りょうにん}は融通念仏宗の祖で、天台声明{しょうみょう}中興の祖でもある。

 浄土教の流行により、往生集が多く作られた。往生集は、念仏信仰の功徳で浄土往生を遂げたとされる人々の伝記を集めたものである。慶滋保胤{よししげのやすたね}の『日本往生極楽記』、三善為康{みよしのためやす}の『拾遺往生伝』や『後拾遺往生伝』、大江匡房{おおえのまさふさ}の『続本朝往生伝』などがある。

注3> 1868年の神仏分離で八坂{やさか}神社と改称した。
注4> 死後に極楽浄土に生まれること。
注5> 極楽往生を願い、仏の姿を心に念じ、仏の名を口にすること。

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:34:35 | 显示全部楼层
(3)

 建築は、寝殿造{しんでんづくり}と阿弥陀堂がある。寝殿造は貴族の住宅様式で、白木造{しらきづくり}・檜皮葺{ひわだぶき}・板床{いたゆか}など日本風である。阿弥陀堂は阿弥陀仏を安置する堂で、浄土教の流行で貴族が壮麗なものを建てた。平等院鳳凰堂、法界寺{ほっかいじ、ほうかいじ}阿弥陀堂が知られる。両者以外に、醍醐寺{だいごじ}五重塔がある。

 彫刻は、仏像の製作が一木造から寄木造{よせぎづくり}に移行し、隆盛となった。寄木造は2つ以上の材木を寄せ合わせ、多くの工人で部分を製作し、全体をまとめる技法である。この手法を使ったのが定朝{じょうちょう}で、代表作には平等院鳳凰堂阿弥陀如来像がある。

 絵画は、主に大和絵と来迎図{らいごうず}が描かれた。大和絵は日本的風物を主題にした絵画で、多くは季節の推移を主題とした四季絵が占める。特に絵巻物で発揮され、日本画の源流となった。巨勢金岡{こせのかなおか}が唐絵とともに日本の画材を日本の形式で描き、後に大和絵の祖といわれるようになった。来迎図は往生を願う人の臨終に際し、阿弥陀仏が極楽浄土から雲に乗って迎えに来る有様を描いた絵である。高野山聖衆{しょうじゅ}来迎図や平等院鳳凰堂扉絵が有名である。

 工芸は蒔絵{まきえ}と螺鈿{らでん}があり、前者は漆で文様を描き、金銀粉を蒔き付けたもの、後者は夜光貝やアワビ貝などを薄くすり減らし、種々の模様にして器物にはめ込む手法である。

 書道は、かな及び草体を流麗・優雅に書く和風能書家が現われた。藤原佐理{さり、すけまさ}・藤原行成{こうぜい、ゆきなり}・小野道風{おののとうふう、みちかぜ}<注6>の3人で、三蹟{さんせき}という。佐理の『離洛帖{りらくじょう}』、行成の『白氏詩巻{はくししかん}』、道風の『秋萩帖{あきはぎじょう}』・『屏風土代{びょうぶどだい}』が有名である。なお、行成は世尊寺流{せそんじりゅう}の祖である。

注6> 道風は空海が書いた「朱雀門」の額を見て、朱の字が米といって「米雀門」と非難したため、後に空海の祟りで中風{ちゅうぶう:脳卒中}になったという(『古今著聞集{ここんちょもんじゅう}』)。なお、『秋萩帖』は道風のものと伝えられている。


(4)
 貴族の生活は、とても華やかだった。男性の正装は束帯{そくたい}で、衣冠{いかん}はその略式である。普段は直衣{のうし}や狩衣{かりぎぬ}を着ていた。女性の正装は女房装束(十二単{じゅうにひとえ})で、小袿{こうちぎ}などが略装である。なお、庶民男子の実用服は水干{すいかん}、下級武士の服装は直垂{ひたたれ}である。

 貴族は、寝殿造の住宅に住んだ。屋内は広い空間のため、間仕切りに几帳・屏風・衝立・襖{きちょう・びょうぶ・ついたて・ふすま}などを用いた。床は板敷きなので、畳{たたみ}や円座{えんざ、わろうざ}を敷いて座った。移動は、牛車{ぎっしゃ}に乗った。食事は1日2回を基準とし、獣肉や油を用いることが避けられた。荘園からの徴収品などで多種多様となったが、乾燥保存食品が多く、消化吸収も悪く病気も多かった。なお、庶民は折敷{おしき:細い板を縁に折り回した盆の一種}の上に飯・汁・菜が3皿置かれている絵が、『病草紙{やまいのそうし}』に書かれている。

 貴族の成年式は15~17歳で、男子は元服{げんぷく}、女子は裳着{もぎ}を行なった。元服は有力者が烏帽子をかぶせて、新たに名をつけた。裳着は初めて裳を着ける儀式である。結婚は、妻問婚{つまどいこん}から招婿婚{しょうせいこん}に代わった。妻問婚は夫婦別居で男が女の家に通う結婚形態、招婿婚は男が女の両親の家かその近くに住むものである。

 貴族は、陰陽寮{おんみょうりょう}で作った具注暦{ぐちゅうれき}に縛られ、迷信深い生活を送った。物忌{ものいみ}や方違{かたたがえ}はその例である。物忌は、物怪{もののけ}に取りつかれた時など、陰陽師{じ}の判断で一定期間特定の建物の中で謹慎することである。方違は、旅行・外出の際、行くべき方角が悪神がいる方角に当たる場合、前夜吉方{えほう}の家に一泊して方角を変えて行くことである。

 貴族の娯楽は、貝合{かいあわせ}・歌合の物合{ものあわせ}の他、雅楽などが行なわれた。貝合は同種の貝を出し合って優劣を競う遊び、歌合は題に応じて一種ずつ詠んだ歌を判者が優劣を決める遊びである。

 また、宮中では毎年特定の時期に繰り返して行なう年中行事が発達した。民間に伝わる日本古来のものや中国伝来のものもあり、神事・仏事・政務に関わる行事が200種類以上あった。宮廷では、節日{せつじつ:祝の日}などに天皇のもとに群臣を集めて節会{せちえ}が開かれた。平安時代は、元日{がんじつ:正月1日}・白馬{あおうま:正月7日}・踏歌{とうか:正月16日}・端午{たんご:5月5日}・豊明{とよあかり:11月の新嘗祭翌日の辰の日}が特に重んじられた。
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:35:03 | 显示全部楼层
L009 院政期の文化(平安末期の文化)

○院政期の文化…平安末期の11世紀後半頃から12世紀頃の文化
 ・特徴…貴族社会の回顧、武士・庶民文化の萌芽、浄土教の全国普及
 ・建築…阿弥陀堂建築-中尊寺金色堂、富貴寺大堂、白水阿弥陀堂など
     毛越寺、三仏寺投入堂、厳島神社など
 ・彫刻…蓮華王院千手観音立像、臼杵磨崖仏など
 ・絵画…絵巻物-『伴大納言絵巻』『源氏物語絵巻』『鳥獣戯画』など
     装飾経-『平家納経』『扇面古写経』など

 ・文学…歴史物語-『大鏡』『栄華物語』
     軍記物語-『将門記』『陸奥話記』、説話集-『今昔物語集』
 ・芸能…猿楽・田楽、今様-『梁塵秘抄』(後白河法皇)


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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:35:47 | 显示全部楼层
(1)
 院政期の文化は、平安時代末期の11世紀末~12世紀にかけての文化である。特徴は、貴族社会を回顧する風潮が見られ、地方を背景に武士や庶民の文化が芽生えた。また、聖{ひじり}の布教活動で、浄土教が全国的に広まった。

 建築は、阿弥陀堂建築が前文化から続いて作られ、中尊寺金色堂{ちゅうそんじこんじきどう}、富貴寺大堂{ふきじおおどう}、白水{しらみず}(願成寺{がんじょうじ})阿弥陀堂が知られる。中尊寺金色堂は藤原清衡{きよひら}が陸奥平泉に創建し、須弥座{しゅみざ}の下に清衡・基衡・秀衡{もとひら・ひでひら}3代のミイラを納めている。富貴寺・願成寺<注1>のそれは、浄土教の地方普及の一例である。

 阿弥陀堂建築以外に、毛越寺{もう(お)つじ}、三仏寺投入堂{さんぶつじなげいれどう}<注2>、厳島{いつくしま}神社がある。毛越寺は藤原基衡が建立した寺である。三仏寺投入堂は奥の院のことで、断崖の窪みの中に足場を組んだ懸造{かけづくり}の建物である。厳島神社は、安芸国の一宮で航海守護神とされた。後に平清盛の崇敬を受け、平氏の氏神のようになった。

 彫刻は、蓮華王院千手観音立像{りゅうぞう}、臼杵磨崖仏{うすきまがいぶつ}、浄瑠璃寺{じょうるりじ}本堂九体{くたい}阿弥陀如来像、中尊寺一字金輪{いちじきんりん}像が有名である。臼杵磨崖仏は、凝灰岩{ぎょうかいがん}に刻まれた62体の石仏群が谷をめぐって4か所に存在する。中尊寺一字金輪像は大日如来の説いた真言の一字を人格化した仏で、「人肌の大日{だいにち}」と呼ばれる。

 絵画は、絵巻物と装飾経{そうしょくきょう}がある。絵巻物は、詞書{ことばがき}と絵を交互に描いて、人物の動きや場面の展開を示す巻物である。『伴大納言{ばんだいなごん}絵巻』は、応天門の変を描いた。『源氏物語絵巻』は『源氏物語』を絵巻物にしたもので、藤原隆信の作とされている。『信貴山縁起{しぎさんえんぎ}絵巻』は、庶民の生活・風俗を描写したものである。『鳥獣戯画{ちょうじゅうぎが}』は、当時の貴族社会や仏教界を鳥獣に擬して風刺したもので、鳥羽僧正覚猷{とばそうじょうかくゆう}の作とされる。

 装飾経は、装飾を目指して作った経巻で、写経の1つである。『扇面古写経{せんめんこしゃきょう}』は扇形の料紙{りょうし:用紙}に法華経を写経したもの、『平家納経』は平清盛ら一門が繁栄祈願のため、厳島神社に奉納したものである。

注1> 富貴寺は大分県豊後高田市、願成寺は福島県いわき市白水町にある。
注2> 毛越寺は岩手県平泉町、三仏寺は鳥取県東伯郡三朝町{とうはくぐんみささちょう}にある。



(2)
 文学は、歴史物語・説話集・軍記物がある。歴史物語は、貴族の華やかな過去を追憶して国文体で書かれたものである。『栄華物語』は藤原道長を中心に宮廷貴族の栄華を描いたもの、『大鏡』は道長を中心とする摂関政治を批判的に叙述したもので、かなで書かれた史書の初めである。説話集は『今昔物語集』が有名で、日本・インド・中国の仏教・民間説話をまとめたもので、源隆国{たかくに}の編とされる。軍記物は、平将門の乱を記す『将門記{しょうもんき}』、前九年合戦を記す『陸奥話記{むつわき}』がある。

 芸能は、猿楽・田楽{さるがく・でんがく}、今様・催馬楽{いまよう・さいばら}が流行した。猿楽は滑稽を主とした雑芸・歌曲、田楽は祭礼神事芸能である。今様は現代風の歌謡の意味で、後白河法皇は今様など雑芸の歌を『梁塵秘抄{りょうじんひしょう}』にまとめた。催馬楽は、日本古来の民謡や和歌を唐学風に編曲したものである。
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:36:16 | 显示全部楼层
L010 鎌倉文化

○鎌倉文化…12世紀末~14世紀前半の鎌倉時代の文化
 ・特徴…伝統的な公家文化の継承と武士の気風も反映
     宋・元文化の影響、宗教的色彩の強い文化
 ・仏教…鎌倉仏教-法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗
          日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗
     旧仏教の革新-戒律の復興、社会事業
 ・神道…神本仏迹説、度会家行の伊勢神道、山王神道・両部神道

 ・建築…大仏様-東大寺南大門   禅宗様-円覚寺舎利殿
     和 様-蓮華王院本堂、秋篠寺本堂、石山寺多宝塔など
     折衷様-観心寺金堂

 ・彫刻…奈良仏師作-東大寺南大門金剛力士像(運慶・快慶ら)
           興福寺無著・世親像(運慶)
           六波羅蜜寺空也上人像(康勝)など
     そ の 他-明月院上杉重房像、東大寺重源上人像など
 ・絵画…肖像画-似絵(藤原隆信・信実が名手)、頂相
     絵巻物-『一遍上人絵伝』『蒙古襲来絵巻』など
 ・工芸…甲冑-明珍 刀剣-吉光、正宗、長光ら
     陶器-瀬戸焼、常滑焼など
 ・書道…青蓮院流(尊円入道親王の『鷹巣帖』)

 ・文学
  ・和 歌…『新古今和歌集』(藤原定家ら)、『山家集』(西行)
       『金槐和歌集』(源実朝)
  ・説話集…『古今著聞集』(橘成季)、『沙石集』(無住)
       『宇治拾遺物語』『十訓抄』
  ・随 筆…『方丈記』(鴨長明)、『徒然草』(卜部兼好)
  ・軍記物…『平家物語』-琵琶法師の平曲
       『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』など
  ・歴史書…『愚管抄』(慈円)-道理と末法思想から歴史を見た
       『水鏡』『吾妻鏡』、『元亨釈書』(虎関師錬)
  ・学 問…古典注釈-『万葉集註釈』(仙覚)、『釈日本紀』(卜部兼方)
       有職故実-『禁秘抄』(順徳天皇)
       金沢文庫(北条実時)
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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:36:37 | 显示全部楼层

(1)
 鎌倉文化は、12世紀末~14世紀前半の鎌倉時代の文化である。特徴は、伝統的な公家文化を継承し、武士の気風も反映したものである。また、宋・元の文化の影響を受けるとともに、宗教的色彩も強い文化である。

 仏教は、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗が生まれた。鎌倉仏教と呼ばれ、それに押される形で旧仏教の改革も起こった。旧仏教では戒律の復興に努めたり、社会事業などに当たる僧も現われた。仏教史で説明したため、省略する。

 神道は、鎌倉末期に神本仏迹説{しんぽんぶつじゃくせつ}(反本地垂迹説{はんほんじすいじゃくせつ})が興った。この説は、蒙古襲来以後の神道思想の発展の中から神を本地、仏を垂迹とする主張である。度会家行{わたらいいえゆき}は、伊勢神宮の外宮{げくう}を内宮{ないくう}と同等以上の立場に上げることを目的に、伊勢神道を唱えた。彼の著『類聚神祇本源{るいじゅうじんぎほんげん}』が、後世の神道に与えた影響は大きい。また、天台宗系の山王{さんのう}神道、真言宗系の両部{りょうぶ}神道も唱えられた。

(2)
 建築は、大仏様・禅宗様{ぜんしゅうよう}・和様・折衷様の建築様式で多くの建築物が建てられた。大仏様は、東大寺再建に重源{ちょうげん}<注1>が採用した宋の建築様式で、簡単で雄大豪壮な構成美を持つ。東大寺南大門がその代表建築である。禅宗様は、宋から伝来した技法で、細かい材木を用いて整然とした美しさを出している。円覚寺舎利殿{えんがくじしゃりでん}や正福寺{しょうふくじ}地蔵堂<注2>がその代表建築である。

 和様は、大仏様・禅宗様に対し、平安時代以来の伝統的・日本的な建築様式である。蓮華王院{れんげおういん}本堂<注3>、秋篠寺{あきしのでら}本堂、石山寺多宝塔{いしやまでらたほうとう}がその代表建築である。折衷様は、和様の手法を中心に禅宗様・大仏様の手法を巧みに取り入れた技法である。観心寺{かんしんじ}金堂<注4>がその代表建築である。また、武家の住居は武家造で造られたが、武家らしい住宅様式のことで、特有の様式があるわけではない。

注1> 東大寺再建の際に大勧進職{だいかんじんしき}に任命され、募金から建築まで一切指揮し、宋人の陳和卿{ちんわけい・ちんなけい}も請われて参加した。
注2> 正福寺は東京都東村山市にある。
注3> 内陣{ないじん}の柱間が33間{ま}あるため、俗に三十三間堂{さんじゅうさんげんどう}といわれる。
注4> 観心寺は大阪府河内長野市にある。

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 楼主| 发表于 2010-11-10 23:37:07 | 显示全部楼层
(3)
 彫刻では、奈良仏師の活躍が大きい。彼らは興福寺を拠点に、奈良を中心に活躍した仏像彫刻師たちである。運慶{うんけい}がその代表で、運慶の父の弟子が快慶{かいけい}とされ、運慶には湛慶・定慶・康弁・康勝{たんけい・じょうけい・こうべん・こうしょう}と4人の子がおり、それぞれ仏師として活躍した。

 奈良仏師の作品は、運慶・快慶らの合作『東大寺南大門金剛力士像』、快慶の『東大寺僧形八幡神{そうぎょうはちまんしん}像』、運慶の『興福寺無著・世親{むちゃく・せしん}像』、康弁の『興福寺天灯鬼・竜灯鬼{てんとうき・りゅうとうき}像』、康勝の『六波羅蜜寺空也上人{ろくはらみつじくうやしょうにん}像』、湛慶の『三十三間堂千手観音坐像』などがある。それ以外に、『明月院{めいげついん}上杉重房{しげふさ}像』、『東大寺重源上人像』、『高徳院{こうとくいん}阿弥陀如来像』<注5>などもある。

 絵画では、似絵{にせえ}・頂相{ちんぞう、ちんそう}・絵巻物がある。似絵は、実際の人物を写実的に描き、その個性まで表現した大和絵の肖像画である。藤原隆信・信実{たかのぶ・のぶざね}父子が名手といわれた。『源頼朝像(伝)』<注6>『平重盛像』は隆信、『後鳥羽上皇像』は信実の作である。また、成忍{じょうにん}の『明恵{みょうえ}上人樹上坐禅図』、専阿弥{せんあみ}の『親鸞聖人像』(鏡御影{かがみのごえい})も知られる。頂相は、禅宗で修行僧が一人前になった時に与えられる師や、徳の高い先輩僧の肖像画である。

 絵巻物もその種類が多くなった。縁起{えんぎ}物は、高階隆兼{たかしなたかかね}の『春日権現験記{げんき}』や『石山寺縁起絵巻(前半)』、作者不詳の『粉河寺{こかわでら}縁起絵巻』がある。伝記物は、土佐吉光{とさよしみつ}らの『法然上人絵伝』、円伊{えんい}の『一遍上人絵伝』、作者不詳の『男衾三郎{おぶすまさぶろう}絵巻』などがある。合戦物は、『平治物語絵巻』、『後三年合戦絵巻』、竹崎季長{たけざきすえなが}が描かせた『蒙古襲来絵巻』などがある。説話物は、『地獄草紙{ぞうし}』、『病草紙{やまいのそうし}』、『餓鬼草紙{がきぞうし}』などがある。

 工芸では、甲冑{かっちゅう}・刀剣・製陶が知られる。甲冑は、明珍{みんちん}が名高い。刀剣は、京都の粟田口吉光{あわたぐちよしみつ}、鎌倉の岡崎正宗{おかざきまさむね}、備前の長船長光{おさふねながみつ}が有名である。また、加藤景正{かげまさ}は尾張瀬戸に窯を開き、瀬戸焼の祖とされる。製陶は、常滑焼{とこなめやき}・備前焼も知られる。書道は、青蓮院流{しょうれんいんりゅう}が隆盛となり、この流派の祖である尊円{そんえん}入道親王は『鷹巣帖{たかのすじょう}』を書いた。

注5> 通称は鎌倉大仏。1495年の津波で仏殿が流出し、それ以後は再建されず、「露坐{ろざ}の大仏」となっている。
注6> 近年、頼朝と異なる人物との説が出されている。



(4)
 文学も幅広く発達した。和歌集は、藤原定家{さだいえ、ていか}らの『新古今和歌集』、西行{さいぎょう}の『山家集{さんかしゅう}』、源実朝の『金槐{きんかい}和歌集』がある。『新古今和歌集』は、後鳥羽上皇の命で編纂された勅撰和歌集である。説話集は、無住{むじゅう}の『沙石集{しゃせきしゅう}』、橘成季{たちばなのなりすえ}の『古今著聞集{ここんちょもんじゅう}』、作者未詳の『十訓抄{じっきんしょう}』や『宇治拾遺{うじしゅうい}物語』がある。『古今著聞集』は、説話の末尾に教訓を加えている。『十訓抄』は、年少者への教訓としてもので儒教的色彩が濃い。

 随筆集は、鴨長明{かものちょうめい}の『方丈記{ほうじょうき}』、卜部兼好{うらべかねよし:兼好法師}の『徒然草{つれづれぐさ}』がある。『方丈記』はすべては流転し、人生の無常・天変の世相を説いた。『徒然草』は、人間や社会を鋭い観察力で批評したものである。紀行文は、源親行{ちかゆき}の作とされる『東関{とうかん}紀行』、作者未詳の『海道紀{かいどうき}』がある。日記は、阿仏尼{あぶつに}の『十六夜{いざよい}日記』がある。この日記は、所領の争論解決のために鎌倉に赴いた時の紀行文で、12月16日に京を出発したのが書名の由来である。

 軍記物は、『平家物語』、『源平盛衰{せいすい、じょうすい}記』、『保元物語』、『平治物語』などがある。『平家物語』は、信濃前司行長{しなののぜんじゆきなが}が東国生まれの生仏{しょうぶつ}と協力して作ったという説が有力である。平家の興亡を記した流麗重厚な文を盲目の琵琶{びわ}法師が平曲{へいきょく:『平家物語』を琵琶の伴奏で語る芸能}として語り継ぎ、民間に普及した。

 歴史書は、編者不詳の鎌倉幕府の記録書『吾妻鏡{あづまかがみ}』、慈円{じえん}の『愚管抄{ぐかんしょう}』、虎関師錬{こかんしれん}の『元亨釈書{げんこうしゃくしょ}』、藤原為経{ためつね}作とされる『今鏡{いまかがみ}』、中山忠親{ただちか}作とされる『水鏡{みずかがみ}』などがある。『愚管抄』は歴史の展開としての道理と末法思想によって歴史を見たもので、後鳥羽上皇に献上して討幕計画をいさめたといわれる。『元亨釈書』は、日本の高僧の事績を知らないことを指摘されて書いたと言われる。日本初の仏教史である。

 古典注釈は、仙覚{せんがく}の『万葉集註釈{ちゅうしゃく}』、卜部兼方{かねかた}の『釈日本紀{しゃくにほんぎ}』などがある。有職故実は、朝廷や公家社会の儀式・礼儀・年中行事・官職などを研究する学問で、順徳{じゅんとく}天皇の『禁秘抄{きんぴしょう}』がある。

 北条実時{さねとき}は、武蔵国に金沢{かねさわ}文庫を作った。仏書が多く、幕府が滅びた後に散逸したが、再興された。

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