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[教材] 高级日语(一) 第六课

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发表于 2010-12-27 18:11:17 | 显示全部楼层 |阅读模式
高级日语(一) 第六课


第六課 日本人の契約観
渡辺洋三
近代市民社会においては、「契約は守られねばならない。」ということが、最も大切な常識の一つとされている。しかし、これは、外から押し付けられていやいやながら守る、といった性質のものではない。契約を守ることは、外ならぬ自らの自由を守ることなのでもある。そのルールは自分の意思で作ったルールであるから、自分でそれを破るのは、自らの首を絞めるに等しいとされる。また、自らが契約を守ることは、相手方をしてそれを守らせることでもある。自分で契約を破ることは、自分の恣意を認めることであり、ひいては、相手方の恣意に脅かされる運命を自らの手で作りだすことでもある。自らがルールを守ることによってのみ、相手方がもルールを破ったら、その違反を追及し、ルールに従った権利を主張することができるのである。
こうしてみれば、契約において、拘束と自由とは盾の両面であることが分かるであろう。自由の問題を抜きにした拘束は考えることはできない。逆に、拘束のない自由などというものはあるはずがない。近代市民法の打ち立てた「契約は拘束する。」という命題こそは、封建的恣意に対する資本主義的自由の輝かしい勝利の道標である。そして「契約は守られねばならない。」というこの常識の中に、資本主義社会における自由の根本的問題を解く鍵が秘められている。
さて、しかしながら、契約の拘束と自由との関係についてのこのような市民法的常識は、日本社会において自明な常識であるかどうかは疑わしい。当事者が自らの意思を拘束する客観的ルールを定立して、それに服することによってお互いに自由を保障するという契約観は、明治以降の日本の社会において十分にはぐくまれたとは言い難い。それどころか、形は契約の形をとっていても、中身は当事者の一方的主観的意思が貫くようにできているという関係は、戦前の日本社会においてはむしろ通常のことに属した。
例えば、借家においては、契約期間が決まっておらず、契約書も交わされないという状態が、よく見受けられた。中には、御丁寧に借家人から「貴殿御入用のときはいつでも立ち退きます。」という一札と取っていた家主も少なくなかった。ここにも、家主の意思を拘束する客観的ルールはなかった。この関係は、家主の一方的主観的意思が恣意的に貫かれる関係であり、借家人の運命は家主の気持ち一つによって左右されるというぐあいだった。
このような関係が、戦後、市民法的常識が普及するにつれてかなり改善されてきていることは、事実である。しかし、それにもかかわらず、今日なお、拘束によって自由を保障するという契約観は、必ずしも皆の物となってはいない。家屋や土地の紛争で私のところに相談に来る例を見ても、そのほとんどの場合が、驚くことに、契約書を取り交わしてはいない。現在は法律によって借地人や借家人の地位をある程度保護しているから、昔のように彼らが簡単に追い出されることはないけれども、法律で保障していない点は、全く当事者の恣意で左右されてしまう。
家主や地主の側にしても、「ちょっとの間、と言うので口約束で貨したところが、返してくれと言っても返してくれない。どうしたらよいか。」と質問してくる場合が非常に多い。だいいち、契約書がなければ、ちょっとの間の契約であったかどうかを証拠付けることさえも難しいであろう。どんな場合にも、後になって水掛け論にならないように具体的証拠を残しておく、という法常識は、まだ確立していないように思われる。
くよ言えば、日本人は人が良くて相手を信用し過ぎるということかもしれないし、悪く言えば、物事のけじめをはっきり付けないでルーズであるということかもしれない。特に肉親とか友人とかの間になると、つい気を許して、いっそうルーズになりがちなものである。私のところへ相談に来る例でも、「弟に貸してやったので、まさかこんなことになるとも思わず、契約書も取らなかった。」とか、「知っている人の紹介で、信用の置ける話だったので、口約束で済ませた。」とかの例が多い。
しかし、人は契約関係に入るときに、あらかじめ紛争が起きることを予定して入るわけではない。あらかじめ紛争が予見できるくらいならば、そのような契約はもともと結ばなかったであろう。つまり、こういうことである。契約を結ぶということは、それ自体、常に相手方を信用することであり、「まさかそんあことはない。」と思うことなのである。そして、まさに権利の行使が問題になるときは、常にその「まさか」という信用が裏切られたときのことなのでもある。だから、契約条件を明確にさせ、契約書を交わすことは、権利を大切にする社会では、しごく当たり前のことである。
私も経験したことがあるが、契約書を作ってくれと言うと、「このおれを、疑っているのか。」とか、「おれがこんなに大丈夫だと言っているのに、信用置けないのか。」とか言って絡むような前市民法的な、非常識の持ち主がまだいる。ごく常識的に考えて、そんなに約束を破らないという自信があるなら、それこそ、どうして約束を文書にして、相手を安心させないのだろうか。文書化を拒否するような人は、客観的ルールに自分を従わせたくないと思っている人であり、そういう人こそ、最も疑うに値すると言わねばなるまい。
客観的ルールの定立が、人間の信用や面子を傷つけるものであるかのごとく受け取る日本人の心理は、人間を善玉悪玉に峻別するという封建社会的心理にも通ずるものであろう。人間を、初めから本質的に信用の置ける人間と、信用の置けない人間とに分けてしまうという思考、つまり、人間を一定の状況の中で変化するものとしてとらえない思考が、その根底にある。市民的感覚から言うなら、契約の出発点に当たって、その相手方の人間を疑うかどうかが問題なのではない。そうではなく、疑おうと思っても疑うことのできない状況の中に相手方を置くことが問題なのである。客観的ルールの定立にはそういう意味もある。
また、「契約は拘束する。」という観念も、私たちの社会ではまだ一般常識化していないように思われる。約束の日が来ても、「まだ一日ぐらいはいいだろう。」とか、契約の内容についても、「少しくらいは大目に見てくれるだろう。」とか、ルーズな気持ちが働きがちである。
約束を守らないということは非常に恥ずべきことである、という意識や、約束をした以上どんなにしても責任を持ってこれを守る、という意職は、確かにまだ私たちの日常生活の中で極めて弱い。これは、何か日本社会の根底に触れる問題を含んでいないだろうか。それは、近代日本の最も奥に潜む病根を示すものではないであろうか。
契約の拘束力について意職が低いということは、権利を追求する意識が弱いということと、盾の両面を成すものである。契約=客観的ルールの定立は、それによって当事者の利益範囲を具体的かつ客観的に画するものである。相手の恣意に脅かされない客観的利益範囲の確定なくして、つまり、どこまでが自分の権利を主張しうる範囲なのかが分からずして、権利を行使するすべもない。日本の社会においては、このような利益範囲の客観化を「水くさい。」とか「融通が利かない。」とか言って回避する傾向が久しく続いてきた。このような傾向は、今日もなお強い力を持っている。利益範囲を明確にすることは、契約当事者が互いに利害の対立する当事者であることを予定しての話である。だれも、例えば、隣の土地所有者との境界線は明確になっていることのほうが望ましい、と思うであろう。それならば、同様に、なぜ、契約においても、お互いの利益主張の境界線を明確にしておこうとしないのだろうか。
それは、契約を、対立する当事者の関係と見ないで、相手と一心同体の関係として見るという共同体的契約観が根強いからである。何もお互いが対立する形で利益範囲を主張し合わなくても、その辺のところは適当にしておいて、以心伝心、あるいは相互に譲り合って、適当に処理してゆけばよいではないか、という考えがそれである。しかし、利益範囲が客観的に明確にされていなかったら、紛争において社会的に力の強い者の意思が通るということは、土地の境界線がはっきりしない場合のことを考えれば、すぐ分かる。境界線がはっきりしていて、「ここだ。」と指摘してやれば、よほど厚かましい人間でないかぎり、引っ込むであろう。それがはっきりしていなければ、相手が「ここだ。」と言って強引に出て来たら、たいてい気の弱い人が負けてしまう。契約内容をはっきりさせない共同体的契約観の下では、全くこれと同じことが生ずる。だから、このような契約観は、社会的に実力を持つ者にとって極めて都合よい契約観なのである。本来、近代的契約観は、このような共同体的契約観を排除して、社会的弱者に客観的ルールに基づく権利主張の根拠を与える目的で出て来たものである。ところが、市民法的常識で排除されたはずの共同体的契約観が温存されている社会では、権利の主張と契約の拘束力とが結び付かない。
かくて、契約の拘束力が弱いという事実は、権利が尊重されないという日本社会での致命的事実に起因するように思われる。近代的契約観の下では、契約の拘束力の高さは当事者の自由の強さを示すものである。自らの自由と権利を守るためにこそ契約を守る必要があるとすれば、当事者は外からの強制を待たずして、自主的にそれを守ろうとする積極的意欲に燃える。しかし、共同体的契約観の下では、契約は、自由と権利の伸張を阻むものにすぎない。社会的強者の恣意を排除するための客観的ルールの定立、という目的を見失った契約というものに、社会的弱者たる当事者が魅力を感じる道理はない。どうして、そのような契約は守るに値するものでありえよう。この場合には、「契約は守られねばならない。」というスローガンは、社会的強者の支配の具に堕している。だから、社会的弱者の目にとって、契約は、主体的に守るものではなく、外から強制されてしぶしぶ守るものであるとしか映じない。
また、社会的強者にとっても、契約は、実は自らの意思を拘束する客観的ルールではありえない。むしろ、契約の内容などというものは、自分の意思次第でどうにでも変えることのできるものだ、というくらいのルーズな考えしかない。「地主が欲すれば、いつでも土地を取り上げます。」というようなことが書いてある契約を地主が守るということは、明らかに無意味である。契約は地主の意思を拘束するものではなく、地主の意思=恣意を覆い隠すいちじくの葉にすぎない。自らの意思を制限し、拘束するのもとしての客観的ルールに服するという主体的在り方は、ここからは出て来ない。
かくて、共同体的契約観の下において、真の意味で「契約は拘束する。」という市民法的意識は、社会的弱者の側からも、社会的強者の側からも、自主的に生まれては来ない。契約は守られねばならないという市民法的常識を私たちの物とするためには、このような共同体的契約観を日常緒生活の中で徹底的に駆逐してゆかなければならない。そのために大切なことは、「約束を守りましょう。」「約束を守りなさい。」などと、抽象的に説教したりすることではもちろんない。約束を守ることが自分の利益を守ることであるということを、人は現実の生活における経験を通してのみ学んでゆくであろう。もし、約束を守ることによって隷属と不自由しかないことを経験するなら、人はけっして主体的に契約を守る意思を持つ者ではありえない。
この意味で、約束を守るという常識が普及するかどうかは、所詮は道徳や教育の問題ではない。もちろんその力もある。しかし、根本的には、現実の社会生活の中での契約の構造いかんに懸かっている。契約の構造や機能が社会的強者の恣意を拘束し、社会的弱者の権利と自由を保障するものとなる、そういう社会においてのみ、「契約は拘束する。」という常識が滲透するであろう。
(渡辺洋三「法というものの考え方」による)
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发表于 2011-1-6 20:01:43 | 显示全部楼层
本来想学1级的,现在看到文章有那么长,有点后怕了
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发表于 2011-1-12 13:42:44 | 显示全部楼层
很想学啊,只学了个基础,,
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