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发表于 2011-3-30 13:46:37
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本帖最后由 youlong 于 2011-3-30 17:18 编辑
放射能を封じ込める作業が放射能を広げ、時と労力を奪う。福島の原発事故は、ひとたび暴走した巨大システムの怖さを教えている。現場の死闘に心から声援を送りながらも、「がんばれ東京電力」の声に力が入らない
封堵放射能的抢险作业却扩散了放射能,还浪费着时间和劳力。福岛核电事故向人们警示了一旦失控的巨大系统所带来的恐怖。源自心底的对现场的声援,却难以变成「东京电力,坚持!」的口号。
▼「津波が想定を大きく超えた」という。早い話が、東電の想定が間違っていた。地球や自然への畏敬(いけい)が足りず、結果として津波に負ける原発を海辺で動かし続けた。天災が暴いた人災である
说是「海啸的规模远远超出了预想范围」。一言以蔽之,东电的预想想错了。对地球与自然的敬畏之不足,其结果就是将无法抵御海啸的核电站建在了海边并运转至今。一个被天灾踢爆了的人祸。
▼福島第一の記録映画は、「この地は数百年にわたり、地震や津波で大きな被害を受けていません」と胸を張る。全電源が長らく使えない事態も見込んでいなかった。想定の甘さは、「千年に一度」が無残に証明した
福岛第一核电站的记录片中如是夸耀「在这块土地上,数百年来未曾遭受过地震和海啸的侵袭」。而预期中也未包括所有设备长时间内均无法运转的情况,预想的幼稚性残酷地被这「千年一遇」而印证了。
▼『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』(J・チャイルズ著、高橋健次訳、草思社)に、興味深い一文がある。「起こるはずがないと思いたい災難の多くは、起こりえないのではなく、起こるまでに時間がかかるだけのことである」
「惨事发生之前人们在做什么?」(J・查尔斯著,高桥健次译,草思社出版)一文中有这样一段耐人寻味的话「很多被期待着不可能发生的灾难其实,并不是不可能发生,仅仅是离其发生之日还要花更多的时间而已」。
▼多くの学者が国策になびく中、脱原発を貫いた高木仁三郎(じんざぶろう)氏がご健在ならばと思う。11年前、亡くなる年の講演で「私はそもそも、原子力は電力として使うには無理なエネルギーだと感じていました」と語った。「それがある種の政治的圧力により、強引に電力供給の主流に乗せられようとした」
在诸多学者在国策中随波逐流的现世,让人不禁假设如果一生坚持摒弃核能的高木仁三郎先生还健在(又会如何)。就在11年前去世那年的演讲中他如是说「我觉得,将原子能作为电能源来利用是勉为其难的,而今出于某种政治压力,原子能正被武断地推上电力供应的主流地位」
▼ 科学とは、市民の不安を共有し、その元を取り除き、人々の心に希望の火を灯(とも)すものであるべきだと、氏は力説した。電力業界は論敵の視座から出直すしかない。「最悪」を免れ、原発という科学が残ればの話だが。
高木氏阐述说:所谓科学,其存在意义应在于共有市民的不安,解消其根源,在人们的心里点燃希望的火焰。(而今)从论敌的视点再出发已是电力行业唯一的出路。当然这是在能够摆脱最坏的事态,而核电这个科学也还能存续下去时的话题了。
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