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(森瑤子)TOKYO愛情物語

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发表于 2004-12-15 21:30:13 | 显示全部楼层 |阅读模式
  贴个TOKYO愛情物語中的一个短篇,很有趣,推荐。只是有点奇怪一个主妇怎么会写出这样的文章来,看完后大家也发表一点感想啊。


森瑤子 Mori Yoko
生没年月日 昭和15年11月4日~平成5年7月6日
経歴 本名=伊藤雅代。静岡県伊東市生まれ。東京芸術大学音楽学部卒器楽科(バイオリン専攻)。広告会社勤務後、結婚。35歳ごろから小説を書き、「情事」がすばる文学賞受賞。エッセイ、脚本も手がけた。
受賞歴 第2回すばる文学賞(昭和53年)「情事」
第82回芥川賞候補(昭和54年)「誘惑」
第85回芥川賞候補(昭和56年)「傷」
第3回ルイーズ・ポメリー賞(平成3年)
処女作 「情事」(『すばる』昭和53年)
個人全集 『森瑤子自選集』(平成5年5月~平成6年2月・集英社刊)
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 楼主| 发表于 2004-12-15 21:33:34 | 显示全部楼层
  婚 約 女の場合 

婚約がきまった時、伊沙子の覚えた感情は圧倒的な解放感であった。

「俺《おれ》たち、結婚しよう」と羊太郎が、まるで一トンもある石の下敷きにでもなったかのような、悲《ひ》愴《そう》な声で言った瞬間であった。

 悲愴な声で言ったのは、別に彼が心底悲愴に感じているわけではなく、日本の男というのは、何か一大決心をする際に眉《まゆ》根《ね》を寄せ、口をくいしばるくせがあるからであって、羊太郎もその例にもれない。それくらいのことは、この数か月、つぶさに彼を眺めてきた伊沙子にはわかっているつもりだ。

 なぜ、「俺たち結婚しようか?」と相談の形でもなく、あるいは「俺と結婚してくれないか?」という懇願の形でもないのか? ふとそのような疑問が彼女の胸を掠《かす》めはしたが、「俺たち、結婚しよう」というのには、いかにも男らしい決意が滲《にじ》んでいるではないか。この際語尾に「か」がつこうがつくまいが、かまわないのではないか。

 それよりもなによりも、これでようやくあの小うるさい父親の支配から逃れられるのだ、と眼の前が明るくなる気がした。

 まず門限に厳しいし、着るものにもうるさい、言葉遣いや箸《はし》の上げ下ろしにいちいちいちゃもんをつける。十九や二十の小娘じゃあるまいし、と伊沙子は苦々しく思っていたが、父親とすれば娘が二十七歳であろうと、五十歳であろうと、娘は娘。つい一言口を出したくもなるのだろう。

 ボーイフレンドと遊び歩いていて門限を守らないのと、晴れて婚約した男と一緒にいるのとでは、父親の受け取り方は違うはずだ。もう半分以上はゲタをあずけたようなものだから、これで父も大人しくなるだろうと、伊沙子はほっとしたのだった。

 ここまでこぎつけるには、並大抵のことではなかったのだ。若い男なんて、ほっておけば結婚のケの字も言いださないのにきまっている。

 しかも初めて逢《あ》ったその日のうちに、ノコノコとホテルについて行ってしまうようなドジなスタートを、伊沙子はしてしまっていたのだ。彼女にしてみれば、まさかその時羊太郎と結婚するようになるとは思ってもいなかったし、彼だって同様だった。

 それは夏の終りのことで、伊沙子はその日に二十六歳になったばかりだった。会社の帰りに親しい女友だちが四人ばかり集って、六本木の鳥屋で食事をした。その前の年はフランス料理屋だった。

「妙齢の女が誕生日を祝う場所にしては、色気がないわね」と、雑誌の編集をしている女友だちが苦笑した。小《こ》綺《ぎ》麗《れい》ではあっても焼き鳥屋は焼き鳥屋だ。

「大体、妙齢の女が、女友だちと誕生祝いをするってのが、色気のない話なのよ」

 女たちは伊沙子を前に言いたいことを言う。

「みんな勝手なことばっかり言ってるけど、もし私にきまったいい男がいたら、今夜なんてあなたたち、それぞれ一人でお茶漬けでもかきこんでいるところだったのよ」

「お茶漬けってことはないけどさ」と女編集者の愛子は言った。「でもこう忙しいと、自分のためだけに料理作るなんてことは、めったになくなったわね」

「私なんて、ほとんど三食とも外食みたいなものよ」翻訳の仕事をしているユミコが言った。

「三食とも?」伊沙子が訊《き》き返した。

「まずモーニング・コーヒーというのを近所の喫茶店に飲みに行って目をさますのよ。モーニング・コーヒーにはトーストとサラダがついているから」

「いやだわねえ」と別の一人が顔をしかめた。「ひとのことは言えないけど、だんだん男になっていくような気がしない?」

「するする。時々さ、結婚する相手は夫ではなく、妻をもらいたいなんて、私思うものね」と愛子。

 その時だった。カウンターの右隣で男同士二人で飲んでいたひとりが、伊沙子たちの会話に加わった。

「そういう男が一人いるんだけどどう?」

「どうって?」と愛子がまるで品定めするような眼で、横の男を一《いち》瞥《べつ》した。

「つまり、家事全般に長《た》けていて、料理もできる男」

「誰れが?」

「このボク」男は自らを植田と名仱辍⑦Bれを小西と紹介した。

「へえ、あなたがね」愛子は頭の先から爪先までもう一度男を観察して言った。

「ついでに子供も産んでくれるならね」女たちがゲラゲラ笑った。「働いている女ってのはすごいね。俺なんてついていけないね」と言ったのは、もう一人の方の小西という男だった。

「どんな女だったらついていけるの?」ユミコが質問した。

「普通の女がいいね。仕事バリバリやるような女じゃなくてさ」

「あら、でもあたしたちだって女のうちなのよ」伊沙子が言った。

「それは見ればわかるよ」小西はニヤリと笑った。笑うと唇の端がわずかにめくれるような感じになり、なぜかその瞬間伊沙子はドキリとした。

「ちょうどいいわ。一緒に乾杯しましょうよ」と愛子が言った。「今日は彼女の誕生日なのよ」

「女性に年齢を訊くのは失礼かな」と初めに声をかけて来た植田が、杯を掲げながら言った。

「一般的にはね。でもここにいる女性たちは年のことなんか気にしていないわよ」

「じゃ、あてようか?」

「どうぞ」と伊沙子。

「何を賭《か》ける?」と植田。

「日本酒一本」

「だめだめ」

「焼き鳥一皿つきは?」と愛子。

「一夜の情事」植田が言った。女たちの間に嬌《きよう》声《せい》が上った。

「オーケイ」守るつもりもないので伊沙子は軽く言った。

「よし、きまり」植田が身を仱瓿訾筏俊!付工纫辽匙婴晤喩蚋Q《うかが》った。「二十と、八」

「二十六」すぐ横で小西が口をはさんだ。

「あたり」愛子とユミコが手を叩《たた》いた。

「どっちが?」植田が訊いた。

「そちらのハンサムボーイよ」

「なんだおまえ、横から口だしてうまいことやったな」植田が小西を小突いた。

「だめよ、そっちの人は。ゲームに加わってなかったんだから」伊沙子はツンとすまして顔をそむけた。

「こっちだって別にそんな気は毛頭ないさ」

 小西もそっけなくそう言って、空の杯に手酌で酒を満たした。

 小西という男のそっけなさに、伊沙子は傷つけられたような気がして黙りこんだ。自分でもその感情が意外だった。場が一瞬白けた。

「ちょっともったいないんじゃないの、伊沙子?」と愛子がその場の雰囲気をジョークに変えようとして言った。「あなたのセックス・フレンドたちよりずっと素敵だと思うけどな」

 ジョークにしても悪いジョークだった。伊沙子は怒った顔を愛子に向けた。

「妙なこと言わないでよ」しかしすぐにこんな席で喧《けん》嘩《か》をするのも大人気のないことだと気がついて、言い足した。「私の方はともかく、あちらにも女の好みってものがおありよ」

「こいつは好みなんてぜいたくなことは言わない男なの」と植田が言った。

「仕事に生きる小生意気な女以外はね」そう言って小西は鼻の先で小さく笑った。

 伊沙子はまたしても、ひどく自尊心を傷つけられたような気がした。誰れであろうと男に、そんなふうに鼻の先であしらわれたことは後にも先にも初めてだった。

「場所を変えて飲み直さない?」と、愛子が一同を見回した。

「おっ、いいね」と植田が真先に同意した。女たちが腰を上げた。

「この先に行きつけのカラオケ・バーがあるんだけど、行ってみる?」

「俺はぬける」小西がぶっきら棒に言った。

「伊沙子、早く。何ぐずぐずしてるのよ」女友だちが伊沙子に言った。

「カラオケ好きじゃないのよ」伊沙子は答えた。それは事実だった。「私、ここで失礼するわ」

「わかった、おデイトね」誰れかがひやかした。伊沙子は別に否定もしなかった。

 焼き鳥屋の前で別れることにした。みんなが六本木の交差点の方向へ動きだしたので、伊沙子は反射的に逆方向へ足を踏みだした。「じゃあな」と、カラオケ組に加わらなかった小西が男友だちに言う声が背後でした。

 五十メートルほど歩くと信号があった。赤だったので伊沙子は足を止めた。ふと横を見ると小西がいた。立てた衿《えり》の中で、くわえ煙草《たばこ》にライターの火を寄せているところだった。

 信号が変り、二人はなんとなく並んで歩きだした。どちらも口をきかなかった。

「カラオケなんかに行く奴《やつ》の気がしれねえな」と、小西が独り言のように呟《つぶや》くのが聞こえた。それから不意に訊いた。

「どこまで?」

「え? あたし?」伊沙子が小西を見た。

「他に誰れがいるんだい」と彼が笑った。その笑顔は先刻までのとは異質で、どこか暖かかった。

「そこで車拾うけど、途中で落してあげるよ」

「ご親切に」

「嫌なら別にいいよ」小西はさっさとタクシーにむかって手を上げかけた。

「嫌だとは言ってないわ」

 タクシーが停った。男が先に仱辘长螭茄预盲俊

「じゃ仱欷琛筡

 伊沙子は一瞬だけ躊《ちゆう》躇《ちよ》してから、腰から先にタクシーの座席に滑りこんだ。

「どちらまで?」車が走りだすと、哕炇证啸氓撺椹`の中に視線を投げて訊《き》いた。横で男がうながすように伊沙子を見た。

「あなたは?」

「俺は後でいいよ。どこで待ち合わせ?」

「待ち合わせ?」

「男と逢うんじゃなかったの?」

「ああ、あのこと。約束なんてないのよ。カラオケに行きたくなかったの」

 二人はそこで黙りこんだ。

「お客さん、どっちに行くんですか。早くきめて下さいよ」哕炇证痢钉い椤妨ⅰ钉馈筏盲可茄预盲俊

「約束がないんだったら、もう一杯飲み直そうか?」と小西が言った。提案するというよりは、自分でそうきめてしまった口調だった。

「でもあなた仕事をしている小生意気な女は嫌なんでしょう?」

「ベッドの相手にはね」と小西は悪びれもせず答えた。「でも酒の相手ならいいんじゃないかな」

「人ごとみたいね」

 小西は肩をすくめてから哕炇证四锨嗌饯雀妞菠俊¥饯欷∥餮蛱嗓趣韦胜欷饯幛坤盲俊

 

「女って動物は、グループで飲んでいるとエゲツなくて最低だけど、一人にしてみると、それほどでもないんだな」南青山の通りに面したビルの地下にある小さなバーで、小一時間ほどウイスキーを飲んだ頃、羊太郎が言った。

「でもやっぱり仕事をしているし、小生意気な女には変りはないわ」

「そう、それはそうだ」と羊太郎は伊沙子のグラスにウイスキーを注ぎながら言った。「その点は変りはないんだがね」

「じゃ何が問題なの?」

「問題は俺」

「あなた?」

「そう俺。困ったことに、仕事をしている小生意気な女もまたいいのではないかと、思い始めている」大分酔いが回っているらしく、口調がわずかにもつれる感じだった。

「さっきの賭《か》けの件だけどさ、あれやっぱり無効?」羊太郎が顔を寄せて訊《き》いた。

「何のこと?」伊沙子はとぼけた。

「一夜の情事。俺、きみの年をズバリあてたぜ」

「そんなこと賭けで勝ってやったって、つまんないじゃない」

「そうか」羊太郎はちょっとしょげたような表情をした。

「諦《あきら》めが早いのね」伊沙子はそっと相手に肩を押しつけるようにして囁《ささや》いた。「もう一度提案しなおしてみたら?」

「よし、提案するぞ」と羊太郎。「俺たち、今夜寝ようよ」

「それは提案じゃなくて、命令だわ」伊沙子は吹きだした。しかし気持はきまった。

 その夜遅く、渋谷のラヴ・ホテルの一室で情事を終えた羊太郎がこう呟《つぶや》いた。

「仕事をもっている小生意気な女のいい点は、こういうことになる前の手続きが煩雑でないことだな」

 伊沙子はそれに対しては何も言わなかった。そのかわり一言だけこう言った。

「今日は私のお誕生日だったのよ」そして声には出さずに心の中でこう続けた。あなたは素敵なバースデー・プレゼントだったわ。

 

 出《で》逢《あ》ったその夜にベッドを共にするような女を、男は最初から結婚の相手には考えないものだ。事実羊太郎もそうだったと思うのだ。彼ともそうなのだから、彼の前にも何人もそういう男がいたと思われても仕方がないし、たしかに両手で数えるというほどでもないにしても、出逢ったその日のうちにというのではなくとも、二度、少なくとも三度目にはベッドへ行った男は、何人もいた。

 羊太郎と別れたその夜、伊沙子は、彼がこれまでの男たちと違うのに気がついた。つまり行きずりの男たちとは違って、これからもまた何度か逢い続けたいと思ったのだ。

 だから最初の夜、まだ二人がベッドの中にいた時、彼が、君のような女はベッドインするまでの手続きが簡単なのがいい、というようなことを呟いた時にはショックだった。

 普通なら、もうそれで終りにしているはずだった。伊沙子にだってプライドはあるし、他に男がいないわけでもなかった。

 にもかかわらず、終りにしなかったのは、羊太郎にすでにその時点で深く魅《ひ》かれていたからだった。彼女はさりげなく会社の名前と、所属する課の内線番号を書いた名刺を、羊太郎に与えた。彼の方もごく無造作に自分の名刺を彼女に渡した。けれども羊太郎からの電話は入らなかった。伊沙子は何度もダイヤルを回しかけたが、その都度、女の方から連絡をとるのは、相手にアドヴァンテージを奪われるようで嫌だった。

 実際に羊太郎から伊沙子に電話がかかってきたのは二か月も後のことだった。十月の末の金曜日の夕方で、あわただしく人が出入りしていた。同僚が伊沙子の名を呼んで受話器を差しだした。

「男性からよ」と言われた時は、ドキリとした。もちろんこの二か月の間に、何度も男性からの電話はかかったが、彼女が心待ちにしていた男からの連絡は皆無だった。

「小西羊太郎です」と電話の声が言った。伊沙子は思わず眼を閉じて、相手に気づかれないよう送話口をおさえ、深呼吸をひとつした。それから、出来るだけさりげない声で「小西さん?」と訊《き》き直した。

「なんだ、忘れられてたのか」と相手が気ぬけしたように言った。「一度くらい寝た程度だと、すぐ忘れるっていうわけ?」

 誰も聞いているはずはないのに、伊沙子は思わずあたりを見回して首をすくめた。

「あら、あなたなの?」それから、わざとそっけなく言った。「またどういう風の吹き回し?」

「冷たいんだね、意外と」と羊太郎が明らかに失望の滲《にじ》む声で言った。「もう少し歓迎してくれてもいいんじゃないの?」

「これでも普通に話しているつもりだけど」

「電話をかけようとは思っていたんだけど、忙しくてね、なかなかチャンスがなかったんだ。ごめん」

「あら、どうして謝るの?」

「どうしてって、ああいうことがあったわけだからさ」

「首を長くしてあなたからの電話を待っていたわけじゃないから――」真実はそうではなかった。一日一日が長くて、辛かった。日を追うごとに羊太郎に対する思いが怪物的に膨《ふくら》んでいった。一月たつと諦《あきら》めようとした。しかしどうしても諦めきれなかった。電話がかかるたびに心臓が止りそうだった。しかし彼からの連絡のない日がまた一か月、遅々と過ぎていった。かといって、自分の方からは掛けれなかった。日ごとに臆《おく》病《びよう》になっていくのだった。

「そりゃま、そうだろうな」と羊太郎は急に皮肉な声で言った。「名前を忘れられていたくらいだから」

「でも思いだしたでしょ?」自分がどうしてそんなにもクールに振るまえるのか、ほんとうに不思議であった。

「ところで、今夜ひま?」

 もちろんだった。たとえ先約があったとしてもキャンセルしたってかまわなかった。

「どうして?」

「久しぶりに逢《あ》いたいと思ってさ」

「まあ、どうしたの? 他の女友だちにふられたの?」

「実はそう。約束してた子が急に都合悪くなってね。金曜の夜だっていうのにさ、ついてないよ」

「それで私を思いだしたってわけなのね」自尊心が著しく傷ついたが、それは声には出さなかった。

「そういうわけでもないさ」

「いいのよ。でも、どうしようかな」

「先約でもあるの?」

「先約があるのが不思議みたいに言うわね。私がそんなにモテない女だと思う?」

「…………」電話の中で羊太郎がふと黙った。

「先約は十時なの。その前なら二、三時間空いているわ」先約など嘘《うそ》だった。

 天にも祈るような気持。羊太郎が、それならいいよ、とあっさり電話を切りませんように。伊沙子は受話器を握りしめた。

「じゃその二、三時間潰《つぶ》すの、つきあってあげるよ」羊太郎は少し不服そうな、しかし充分に押しつけがましい言い方でそう言った。ひや汗を拭《ぬぐ》いながら、伊沙子は電話の前で救われたようにうなずいた。

 羊太郎と二度目に逢ったのは、溜《ため》池《いけ》に新しくできたホテルのバーでだった。

 驚いたことに、彼女がバーの中に入って行き、彼の横に坐るまで、伊沙子に気がつかなかったみたいなのだ。

「やあ」と、さすがに苦笑して羊太郎は頭を掻《か》いた。

「あなただって私のこと忘れてるんじゃないの」

「違うよ。俺《おれ》の記憶の中にあるきみと、全然違うからさ」羊太郎はまじまじと伊沙子を見てニヤリと笑った。「断然今回の方がいいな。別人とまでは言わないけど、ほとんど別人みたいだよ」

「髪を肩のところでバッサリ切ったからかしら?」

「前よりほっそり見える」

「痩《や》せたのよ、三キロ」

「へえ、ダイエット?」

「まさか。恋やつれ」

「ふうん、妬《や》けるね」たいして妬いているふうでもなく羊太郎が呟《つぶや》いた。「ところでどうする?」彼は伊沙子のブルーのセーターの胸の膨《ふくら》みに視線をあてながら訊《き》いた。

「どうするって?」と伊沙子はクールにとぼけた。

「どこかで軽く飯食ってさ、それから……」

 羊太郎の印象も前の時より数段良かった。最初に出逢ったとき彼はすでに酒が回っていたし、ワイシャツの衿《えり》のあたりにうっすらと一日の汚れがついているような感じだった。それにネクタイも曲っていてくたびれていた。

「そのネクタイ素敵。誰れかのプレゼント?」

「といいたいところだがね、女ってのはろくなネクタイを選ばないから。俺が自分にプレゼント」それから彼は身を仱辘坤工取ⅳ猡σ欢缺伺涡丐蛱鳏帷ⅳ饯欷榇饯颏撙膜幛蒲预盲俊!袱嗓Δ工耄俊《䲡r間あればいろいろのことが出来るけどさ」

「ここで飲んでてお喋《しやべ》りしても二時間くらいあっという間ね」

「だからどっかで軽く飯食ってさ」と羊太郎が先を言いかけるのをさえぎって、

「こないだなんてね、軽く食べるつもりで入ったイタリア・レストランで、なんと三時間もかかったのよ」

「フルコースをたらふく食えば、かかるさ」

「それが違うの。オードブルとスパゲッティとデザートの軽いコースなのよ。おかげで場がつなげなくて、ワイン飲みすぎちゃった」

 羊太郎はあきらかに苛《いら》立《だ》って、煙草の喫《す》い口を歯でかみ始めていた。

「じゃ、イタリア料理は止めといてさ、このホテルのレストランで軽くカレーでも食ってさ、部屋へ行こうよ」

 と、ついに最初から言いたくてウズウズしていたらしい言葉を口にした。

「今日は、だめなの」

「え? どうして? あれか?」あきらかに失望したように羊太郎が言った。近くに人がいなくてよかったと、伊沙子は思わず顔をあからめたほどだった。

「いやだわ、違うわよ」

「それじゃ、どうして?」まるきりわけがわからないといったふう。

「じゃ逆に訊くけど、どうして今夜部屋へ行くときめたの?」

「それは……」

「一度女と寝れば、そのあといつでも寝れると思っているわけ?」

「というわけでもないけどさ」

「もしかしたら今まであなたのつきあってきた女たちはそうかもしれないけど――」

「きみは違うとでも言うのか?」

 その羊太郎のニュアンスには、初めて逢ったその夜にホテルに行くような女だっていうのにかい、という意味あいが含まれているのを、伊沙子は敏感に嗅《か》ぎとっていた。ここが勝負のしどころである。

 単なるセックス・フレンドと割り切ってつきあっていくのなら、事は簡単である。カレーライスで軽くお腹を満たして、喜んでホテルルームへ上るだろう。羊太郎のラヴ・メイキングはちょっとしたものだし。

 そうなのだ。彼のやり方はどこか一味も二味も違うのだ。

 もっとも二十六になるこの年までに伊沙子が知った男の数なんて知れている。

 知れてはいるが、ごく平均的な普通の女よりは多いかもしれないし、行きずりふうの男と一夜の情事をもったことだって何度かある。

 伊沙子の経験した男たちと比べて――この考え方は伊沙子は嫌だが、この際あえて言えば、羊太郎だけが、他の誰れとも違っている。プロセスも行うことも大差はないのだが、つまり、彼はあの事を行う際の邉婴趣いΔ珓婴摔い啤gに自然体なのだ。リラックスしているのだ。

 これはすごいことだった。ほとんどの男たちが、ベッドの中で行う動作というものは、悲しいほど一種の滑《こつ》稽《けい》感がつきまとう。ひどく動物的だったり、かと思うと、がんばってるなと女に思わせたり、なんとなく気の毒になってきたりするものだ。

 ゆいいつ羊太郎だけが、この行為にみじんも滑稽さがともなわない。それが他の男たちとの相違だった。

 この男《ひと》とのことは、終らせたくない。伊沙子が最初の夜、惨めなラヴ・ホテルの一室で心に固く誓ったのはそのことだった。

 過去の経験からいって、寝たい時に気分のおもむくまま寝て来た相手とは、必ず終っている。そういう関係は長続きしないのだ。

 羊太郎とだって、面白おかしくやっていくつもりなら、それもいいだろう。

 しかし今夜もまた簡単にベッドに行ってしまえば、もうそれまでだ。次に彼から電話がかかってくるのがいつになることやら。三か月も放っておかれるのはたまらない。そうなのだ。今夜が勝負なのだ。

「そうは見えなかったけどな」羊太郎の表情に意地の悪いものが見えていた。

「初対面の二時間後にホテルへ行ったんだぜ、きみって女は」

「だからといって、次からも同じだなんて思うのは、大まちがいよ」

「おや、そうですかね」

「そうよ、もちろん。私のこと簡単に誰れとでも寝る女だと思ったの?」

「だって、そうじゃないか?」

「あの日はね、ああいうふうにならないと、あのままあなたが永久に私の前から消えてしまうと思ったからよ」

「へえ。躰《からだ》を張ったってことか?」いかにも軽蔑したような物言いだった。伊沙子は内心焦った。こんなふうに会話が進むとは夢にも思わなかった。

「もしかしたら、せっかく躰を張っていただいたけど、あのまま俺、二度と電話などしなかったかもしれなかったんだぜ。そうだよな。その可能性の方が大きかったんだよな」とちょっと考えこむ。

「事実、きみのことなんてケロリと忘れてたしな」

「…………」伊沙子はうつむいて下唇をひそかに咬《か》んだ。「でも、結局電話をして来たわ」

「うん。なぜだかね。俺もバカだな」

「どうして?」

「どうして?」羊太郎が苦笑した。「ドジふんでさ」

「女と逢ったら、寝ることしか考えないの?」伊沙子は口調を柔らかく変えた。

「女と逢う時は、たいてい寝るね」

「それじゃまるで女なんてセックスの道具みたいなものじゃないの」

「そいつはお互いさまなんじゃないのか?」冷めた表情で羊太郎はじっと伊沙子をみつめた。

「だとしたら」と伊沙子は言った。「もう電話をくれなくていいわ」

 そう言ってしまってから、後悔が激しく彼女の胸を咬んだ。このまま二度と彼に逢えないくらいだったら、セックスの道具としてでもいい、たとえ数か月のセックス・フレンドでもかまわないではないか。このまま終ってしまうよりはるかにましなのではないか。

 しかし、いったん言ってしまった言葉を拾い集めて口の中へ戻すわけにはいかなかった。

「わかったよ。多分もう電話をしないよ」

 押し殺した声でそう言うと、羊太郎は伝票に手を伸ばした。

 

 多分もう電話はしないよ、妊预盲郡韦摔猡铯椁骸⒀蛱嗓橐辽匙婴穗娫挙ⅳ盲郡韦纤娜漳郡韦长趣坤盲俊?
 彼女にすれば祈りながら過ぎた四日間である。

 近くまで来たから昼食でも一緒にしようか、という言葉で飛び出して行った。サラダつきのスパゲッティ・カルボナーレを食べただけで、その日は別れた。羊太郎は最初の時一緒だった同僚のことをもっぱら話題にし、伊沙子は女編集者のことを喋《しやべ》った。それであっという間に昼休みが過ぎ、慌しく別れたのだった。次の約束も何もなかった。

 その週末は羊太郎から声がかからないまま過ぎた。しかし、翌週になると、ひんぱんに電話がかかりだした。

 婚約までのプロセスを要約するとこうである。デイトの誘いを三度に一度、伊沙子は断った。時には断腸の思いで三度のうち二度まで仕事だとか、先約があるとか言ってしりぞけた。

 ベッドへの誘惑も、全て柔らかく断った。男の自尊心をたてながら断るのは並大抵のことではなかった。

 そのことで喧《けん》嘩《か》になったことも一度や二度のことではなかったし、一時羊太郎から長いこと連絡がとだえたことさえあった。そんな際は伊沙子の方から電話をして、思わずギブアップしそうになる夜もあったが、彼女は歯をくいしばって耐えぬいた。

 三か月が過ぎ、街に冷たい風が吹きすさぶ頃、ついに、小西羊太郎は伊沙子にプロポーズしたのだった。

「婚約の記念にさ」と、羊太郎がひもじそうな声を出した。「俺たち寝ようよ」

 婚約というのはあくまでも結婚の約束であって、結婚そのものではない。紙切れ一枚ないし、印を押したわけでもない。何の保証もないわけだ。

 婚約が破棄されたケースはいたるところにあるし、結婚に至らない婚約だって巷《ちまた》には数知れずあるのに違いない。

「婚約の記念には、これをあげるわ」と伊沙子はデパートのネクタイ売り場を二時間近くウロつき回ったあげくに、ようやく選んだストライプのネクタイを差し出した。

 羊太郎は包みを開くと、

「女にしては趣味がいいね」と言った。

「こんなのが一本欲しかったんだ」

 ほんとうに気に入ったのかどうか、彼の表情からはわからなかった。

 それから数日後、女編集者の愛子に誘われて、二人で飲むことになった。愛子とは何でも話しあえる仲で時々誘いあって帰宅前に飲むことがあったのだ。

「婚約したのよ、ついに」と言うと彼女は「そうだってね、オメデトウ」と言った。

「あら、どうして知ってるの?」

「ま、いいじゃない。現在の気分、どう?」

「すごく幸せよ。信じられないくらい。じっとしているのが辛いくらいよ」眼の前にいるのが愛子ではなくて、羊太郎でないのが悲しいくらいせつなかった。今この場に彼がいたら飛びついてキスしてしまう。可《か》哀《わい》相《そう》な羊太郎。さんざんおあずけをくらって。

「結婚はいつ頃?」と愛子がグラス越しに訊いた。カフェ・バーは混んでいて、カウンターのあたりには立ち飲みの客もいた。

「来年の一月末日」

「へえ、スピード結婚ね」

「何ごとも勢いなのよ」

 ウイスキーの味も良いし、バーの雰囲気も上々だし、愛子は陽気だし、伊沙子はご機嫌だった。もしかしたら、生涯最良の日なのかもしれない、などと思った。好きな男を見事に獲得し、結婚の日々を指折り数える女ほど、幸福な女はいないだろう。そして一日又一日と結婚にむけて過ぎていく、この日々ほど、いつか先になって思い出して感動的な日々もないだろう。唄《うた》いだしたいような気分だった。カラオケ・バーにだってくりだして行けそうだった。

「よお、伊沙子じゃないか」と、軽く酔いを帯びた男の声が背後でし、肩に手が置かれた。

 ふりむくと、かつてのセックス・フレンドの一人、山際であった。

「このところおみかぎりだな。いい男でも出来たのか?」山際は白い歯をみせて機嫌良く笑いながら訊いた。

「それが実はそうなの」と伊沙子も悪びれずに答えた。

「年貢の収め時ってわけ?」山際はいっそう笑いを広げた。彼は白くて、きれいな歯並びが自慢なのだ。ハリウッドのスター並みの、いい歯だった。その歯で、かつて伊沙子の躰《からだ》のいたるところを噛《か》んだものだった。

「年貢収めちまう前に、もう一度僕とつきあえよ」

 愛子が横でニヤリと笑った。酸いも甘いも噛み分けた笑いだった。「あなたが断るんだったら、あたしに回してよ」

 伊沙子は山際を見つめた。羊太郎というきまった男がいて見るのと、いない時の山際と、少し違って見えた。こちらに余裕が出来たせいかもしれなかった。今までに見えなかったものが、チラリと見える。

 男に求められるということは、女にとっていつだって悪い気がするものではない。そして今伊沙子は幸福の絶頂にいて、解放感を味わっている。この幸福を誰れ彼れとなく分け与えたいという楽しい衝動と、ひそかに闘ってもいるのだ。愛子と分かち合うことでは充分でないような気がする。もっと親密な温《ぬく》もりの中で、この幸福感を分かち合いたいのだった。

「あたしのこと、浮気だと思う?」と彼女はそっと愛子に訊いた。「でも違うのよ。なんていうのかなあ、すごく満たされて幸せだから……」

「うずうずするんでしょ? 幸せを分かち合いたいって思ってるんでしょ? わかるわよ、そんなこと。何年女をやっていると思ってるの」

 愛子は理解を示す表情をして、伊沙子を山際の腕の中に押しこんだ。

「悪いわね。途中でドロンしちゃって」

 と伊沙子が謝った。

「いいの、いいの。実は私十時に人に逢うことになってるから」

「男の人?」

「きまってるでしょ」

 愛子のウインクに送られて、伊沙子は山際とそのカフェ・バーを出、タクシーを拾い、ホテルへ行ったのだった。

 そんなことは自慢にも何もならない。かといって、後悔したり自らを恥じたりもしなかった。羊太郎を裏切ったという思いもないのだった。もっとずっと個人的なことであり、羊太郎との関係に影響を及ぼすようなものはみじんもなかった。

 スポーツみたいなもの。そう伊沙子は思った。もう二度と山際とは逢わないつもりだった。彼は気持の良い若い男で、気が合えば時々寝てきたが、愛しているわけではなかった。

 そういえばこの何か月も男と寝ていなかった。かといって欲求がたまっていたともいえない。もしかして羊太郎の方は、伊沙子で満たせなかった欲望を、他の女で満たしていたかもしれないが、そのことはさほど彼女を悩ませはしなかった。

 ただ羊太郎もそうしたに違いないから、自分も山際とちょっと浮気したのだ、というふうにも考えたくはない。とにかく、全ては済んだことで、肝心なのは伊沙子がうしろめたさも後悔も感じていないことだ。もしもそういう感情を抱いたとすれば、山際との一夜の情事は、羊太郎への本物の裏切り行為だったのに相違ない。伊沙子はそんなふうに考えるのだった。

 そんなことがあってから、羊太郎からうんともすんとも言って来なくなった。もちろん、山際のことと、羊太郎の連絡のと絶えとは関係はないはずだが、とそこまで考えて、伊沙子は急に不安を覚えた。羊太郎が電話をしてこないということで、嫌でも山際との情事が生々しく思いだされる。

 しかしそんなはずはないと否定し、自分の方から彼の仕事先に電話をした。一度目は留守だった。夕方頃もう一度かけると、そのまま帰宅するとのことだった。

 翌朝十時頃電話を入れると邜櫎嶙h中で、都合の良いときに電話をくれるようにという伝言を残した。しかし羊太郎からの連絡はその日一日なかった。

 しびれを切らした伊沙子が午後遅く会社へ電話を入れて問いただしてみると、伝言は確かに伝えたが、という返事。

 きっと猛烈に忙しいのだろうと、一日、二日様子をみることにした。

 三日目に電話をすると、ようやく彼がつかまった。

「忙しいの?」と、声が尖《とが》らないようにして訊《き》くので精一杯だった。

「うん、まあ」煮え切らない返事。

「私の伝言、聞いたでしょう?」

「ああ」

「ああって、それだけなの?」

「悪いけど忙しいんだ。後にしてくれないか。こっちから連絡する」一度も耳にしたこともないような冷たい声だった。伊沙子は心配のあまり躰が凍りついた。

「後にするって、いつ頃まで? 電話くれるっていつくれるの?」思わずかぼそい悲鳴のような声で問いただした。

「二、三日うちにするよ」

 その言い方は、少しもあてにならない言い方だった。

「どうしたの? 何があったの?」

「電話じゃなんだから」

「それなら、今夜にも逢えない?」このまま何日も待つのは耐えがたかった。

「悪いけど切るよ。部長に呼ばれてるんだ」

 待ってという声におおいかぶさるように、電話の切れる音がした。

 更に不安な日々が過ぎた。羊太郎からはあいかわらず何も言って来なかった。伊沙子は三度会社へ連絡したが、三度ともつかまらなかった。伝言も完全に無視だった。

 二週間が過ぎたある深夜のことだった。伊沙子の自宅の電話が鳴った。両親が眼を覚まさないうちに、伊沙子は受話器を取った。羊太郎だった。酔っていた。

「話がある」

「今どこ? すぐ行くわ」

「いや電話でいい」

「でも酔ってるんでしょう、あなた」

「酔ってても話はできる」

「…………」

「婚約はなかったことにしよう」

「え?」伊沙子は息を呑《の》んだ。「だって、どうしてなの? いきなり……」

「理由は自分の胸に訊《き》けよ。俺の口からは何も言いたくない」

「言ってくれなければわからないわ。なぜなの?」

「きみは俺《おれ》の知らないところで、いとも簡単に一夜の情事をもてる女だってことさ」

 山際のことがどうしてわかったのだろう?

「愛子が?」まさか、そんなことは。

「いや」と、羊太郎。「植田から聞かされた」

「植田さんが何を知ってるっていうの?」

「彼は君の親友の女編集者といい線行ってるんだよ」

「やっぱり愛子じゃないの」

 慄《りつ》然《ぜん》としながら、伊沙子は呟《つぶや》いた。

「人のことはいいよ。自分のことを考えろよ」羊太郎は、少し哀しげにそう言い残すと、電話を切った。

 伊沙子の背骨に沿って、冷たい汗がしたたり落ちた。たった一度の過ちなのに。過ちとすら考えなかった。幸せだったから。自分の幸せを他人に分け与えたかっただけなのだ。

 しかし、それが羊太郎の耳に入ったとなれば、事情は違ってしまう。そんな理屈が通るわけはない。

 伊沙子は肩のあたりを寒そうにさすると、寝室へと戻り始めた。女の親友なんて、全くあてにならない、と思った。共犯面していたくせに。

 だが憎んでも羊太郎は戻らない。時計を見ると午前一時半を回っていた。とにかく眠ろうと思った。それからいろいろ考えよう。考える時間は、延々とありそうだった。
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 楼主| 发表于 2004-12-15 21:38:03 | 显示全部楼层
婚 約 男の場合
 

 退社時刻に机の電話が鳴った。羊太郎は無意識に顔をしかめた。この時間帯にかかってくる電話にろくなことはないのだ。ぎりぎり間際になって残業になるとか、すでに通っている企画が急にボツになるとか、クライアントの都合で来週の予定だった会合を急拠とり行うことになったとか。

 クライアントの都合などと気取った言い方をするが、要するにクライアントの気まぐれのことである。来週銀座で飲ませることになっていた酒を、今夜にでも飲ませてくれろや、という、そういうことなのである。泣く子とスポンサー様には勝てない社会の宿命である。

 過去の体験から学んだ自衛本能から、小西羊太郎は咄《とつ》嗟《さ》に周囲を見回して、トイレにでも立ってしまおうかと思った。とたんに左斜めむこうのミズ桑野がジロリと眼鏡の奥から睨《にら》む視線と、視線がぶつかった。

 浮かせかけた腰を椅《い》子《す》に沈め直し、片手を受話器に、もう一方は照れ隠しで、乱れてもいない髪を手ぐしでかきあげる仕《し》種《ぐさ》。あのミズ桑野って女は、どうも苦手なのだった。なぜか都合の悪い時にかぎって眼が合ってしまう。

 他の時には眼など合うこともないから、おそらくミズから見ればこっちはよっぽど後ろ暗い男に思われるのではないか。ああいう女は早く片づくべきなのに、ああいう女ゆえにもらい手もいなくて、三十を五つも六つも過ぎたというのに未だ独身。

 とにかくあのキンキラキンの眼鏡がいかんのだ。アメリカの金持の未亡人みたいな、フレームにダイヤの模造品をはめこんである奴だ。

「もしもし小西ですが」

 ダイヤル・インなのでまず自分の名を言う。

「アタシよ」と、いきなり女の声。「麻子」

「なんだキミか」小西はミズ桑野に背中をむけるように躰《からだ》を椅子の中で回した。

「悪いんだけど急に今夜だめになっちゃったのよ」

「なんで?」つい羊太郎の声は詰問調になった。

「それがちょっと」と女は言《こと》葉《ば》尻《じり》を濁した。

「急に言われたって困るんだよねぇ」

 と、羊太郎はピンチヒッターをつとめられそうな女たちの顔を思い浮かべながら、声に不満をこめた。

 面食いの羊太郎の女友だちのことだから、みんな相当にいい女たちだ。金曜日の夕方に急に電話したって先約があるのにきまっている。

「ごめんなさいね」と、人の気も知らないで麻子はケロリと言った。

「ごめんで済むかよ。来週は俺の方が都合悪いかもしれないからな」と遠回しに脅迫すると、麻子はいっそうケロリと、

「来週の金曜日は私もちょっとあるもんだから。ちょうどよかったわね」と言うではないか。

 何があるのか知れないが、そんなことを言ってると今に後悔するようなことになっても、俺は知らんぞ、と口にこそ出さなかったが、羊太郎は胸の中で呟《つぶや》いておいて、「じゃあな」と憮《ぶ》然《ぜん》として電話を切ったのだった。すぐには誰れとも結婚する気はないが、もし将来するとすれば麻子のような女がまあいいんじゃないかと漠然と考えてはいたのだ。

 もっとも、とその夕方羊太郎は、急に一方的にデイトをキャンセルされたことへの腹いせで考えを訂正した。麻子のような女がまあいいんじゃないかということであって、何も麻子がいいと言っているわけじゃないからな、と。

 金曜の夜を女気なしで過ごしたことなど、自慢ではないが記憶するかぎりでは皆無だ。風《か》邪《ぜ》を引いて寝こんでいても、会社は休んでも女には逢《あ》いに出かけるか、逢いに来させたくらいだ。女に風邪を移して悪いなんて気持も抱いたことはない。どうせ誰れか別の女から移された風邪なのだから。そしてまた羊太郎から風邪を移された女は、別の夜別の男にそいつを移してやるのにきまっている。世の中もちつもたれつ。風邪が巷《ちまた》に蔓《まん》延《えん》するわけだ。

 もしも麻子という女を他のセックス・フレンドたちと区別をするとすれば、多分ゆいいつ、風邪を移すことを躊《ちゆう》躇《ちよ》するだろうという点だ。躊躇はするが、結局風邪を移してしまうことにはなるのだが。

 しかしこのチラとでも相手の健康を思いやるという配慮を男にもたせることができるだけ、麻子は他の女共と一線を画しているわけだから、その点彼女は謙虚にならなければいけないのだ。二週間も続けて金曜の夜のデイトをキャンセルするなんて、言語道断もいいところだ。

 腹立ちまぎれで次々とピンチヒッターに電話を入れたが、案の定、みんな空振り。それもこれも麻子のせいだと、マイルドセブンの吸口を前歯でギュッと咬《か》んだとたんに、またしてもミズ桑野の眼と、眼がぶつかった。

 何もかも見通している眼だ、と羊太郎は思った。あの女の顔の上に浮いているのは嘲《ちよう》笑《しよう》気味のわけ知りの表情だ。その薄ら笑いをいつか泣き面に変えてみたいものだ。

 ああいうタイプの女はむろん羊太郎の趣味には入らないが……しかし眼鏡を外したらどういう顔になるのだろうか? 彼はミズ桑野の硬質の顔の上から眼鏡を外したところを想像してみた。

 鼻が横に広がりすぎているのと、口元が人を小馬鹿にするように少し突き出ている感じが気にはなるが、あのアメリカ未亡人眼鏡をとればまあ人並の器量ではある。

 ついでにミズ桑野のグレーのカーディガンと、その下の男物のようなシャツを想像の中で剥《は》ぎ取ってみる。細からず太からず。少々胸のあたりが物足りないが、それは我慢するとして。

 ミズ桑野を凌《りよう》辱《じよく》する自分の姿が眼の中にチラついた。ああいう女は案外、いざとなると淫《いん》乱《らん》である場合が多いのだ。

 あのとりすましたわけ知り顔が快楽の歓びに歪《ゆが》むのを是非とも見てやろうではないか。そして虫ケラみたいに、一度だけで棄てるのだ。

 もっとも、そう考えたのは羊太郎の中の悪魔の部分で、良心の方は多少はびびってはいたのだ。

 状況としては、ミズ桑野の眼と、羊太郎の眼とが、オフィスの机越しに出合ったところで停止している。

「桑野さん、今夜は何か予定が入ってる?」

 羊太郎の口が動いて、羊太郎の本当の意識がまだきめかねているのに、言葉が先行してしまった感じだった。

「どうしたのよ? 相手してくれる女がいないの?」

 そこまであからさまに言わんでもいいじゃないか、と、羊太郎の顔に血が昇った。売り言葉に買い言葉だ。

「はっきり言ってそういうこと」

「女なら誰れでもいいような言い方だわね」

 何を血迷ったのか、ミズ桑野が妙に絡んだ。

「そこいらへんのあなたのセックス・フレンドと一緒にしないでもらいたいわね」

「そいつはおっしゃいましたね」と羊太郎も眼には眼だ。「別にあんたをベッドにお連れしようと思ったわけじゃないんでね。自《うぬ》惚《ぼ》れてもらっちゃ困るよ」

「それじゃ何? ただで夕食をご馳《ち》走《そう》してくれるとでもいうの?」

 やけにただでというところに力を入れてミズ桑野が言った。何でこんな女にただ飯を食わせなければならないのだ、と羊太郎は鼻白んだ。飯など予定には入ってもいなかった。早いとこやってしまって、あとは徹底的に冷酷に、虫ケラのように。ほら『カサブランカ』のハンフリー・ボガードのようにだ。女が『昨夜はどこにいたの?』と訊くとボガード扮《ふん》するところのディックは冷たく答えるのだ。

『そんな大昔のことなど憶《おぼ》えちゃいねえな』

『それじゃ今夜逢ってくれる?』女は哀願する。ディックが言う。『そんな先のことまで、予定がたたんよ』

 ただ飯食わせて逃げられては元も子もないではないか。

「飯は割勘ということにしようよ。桑野さんの方が給料多いんだからさ」

 すると、ミズ桑野の眉《まゆ》が片方ぴくんと跳ね上り、未亡人眼鏡の上方に飛び出すのが見えた。

「自分のお金だして食事するんなら、相手を選びたいわね。趣味のいい男といい会話しながら食べたいわ。でなければカウンターに坐って、店の親父さんの話でも聞きながら一人で食べた方がよっぽど気が楽よ。所《しよ》詮《せん》あなたみたいな新人類とは話も合わないし、気も合わないからね」

 それだけ一気に言うと、ミズ桑野はさっとバッグに手を伸ばして席を立って歩きだした。

「お先に失礼。本当はおデイトなんだ」

「あんたのその年じゃ相手は妻子持ちなんだろうね。今流行の不倫の関係ってわけだ?」

「ところがどういたしまして。私は人のおふるは嫌なのよ」ミズ桑野は肩ごしに言った。「今夜の相手は劇団の研究生。水もしたたるいい男で、あんたよりずっと若くて純真よ」

 歯ぎしりせんばかりの羊太郎をその場に残して、ミズ桑野は若いジゴロに金を注《つ》ぎこみに行ってしまったのだった。

 伊沙子のことを思いだしたのは、その直後だった。麻子への腹いせのつもりのミズ桑野に見事に背負い投げをくらった感じで、羊太郎はますます面白くなかった。麻子とミズ桑野の二人分の復《ふく》讐《しゆう》をしないことには、気持がおさまりそうにもなかったのだ。

 伊沙子の顔が羊太郎の脳裏を不意によぎったのは、彼女が、彼の嫌いな働く女のタイプを代表しているからだった。要するに伊沙子は麻子の三年後の姿であり、ミズ桑野の九年ばかり前の姿であった。

 伊沙子という女には二か月前に逢《あ》ったきりになっていた。なんでも彼女の二十六回目の誕生日だということで、けったいな感じの同じような仕事をしている女四人ばかりで、六本木の焼き鳥屋で気炎を上げていたのだ。

 そこで同僚の植田と飲んでいたところから自然に女たちに声をかけて――声をかけたのは植田であったが――その二時間後に伊沙子と渋谷のラヴ・ホテルにくりこんでいたという事の成り行きだった。

 口説き文句を並べたわけでもなく、押し問答があったわけでもなかった。そうなのだ、気がついたら伊沙子という名の女とラヴ・ホテルのベッドの中にいたという感じなのだった。

 そういうイージーな出逢いだったので、忘れるのも簡単だった。事実、翌日にはすっかり忘れてしまった。

 確か名刺があったはずだ、と、羊太郎は仕事関係以外の名刺を雑然と放りこんでおく引出しの中をかきまわしてみた。

 十分ほどゴソゴソやっているうちに名刺がみつかった。商事会社の秘書課とある。あの時は気にもとめなかったが、一流会社だ。ちゃんとしたところの娘でなければ、まずは採用されないはずであった。何がちゃんとしたところの娘なものか、と羊太郎はおかしくなった。もっとも家庭はちゃんとしていても娘の方がちゃんとしていないということはままあるが。

 ダイヤルを回すと若い女が出て、「お待ち下さい」と言った。かなり待たされたような気がしたが、伊沙子が出た。心なしか記憶にある声と違う。

「小西さん?」乾いたよそよそしい声でそう訊《き》き返した。

「なんだ、忘れられてたのか」自分の方こそ二か月も忘れていたことは棚に上げて、彼はなんだか傷つけられたような気がした。それで相手を多少辱しめてやろうというような作意から「一度くらい寝ただけじゃ、すぐ忘れるのかい?」と言ってやった。

 それで伊沙子には誰れだかわかったようだった。「またどういう風の吹き回し?」ときた。

 そういう言い方をする女は羊太郎はもともと嫌いだった。

「今夜ひまかい?」と彼は熱意の失せた声で一応訊いた。電話をしたのだから用件も言わずに切るのも妙だったからだ。

 ところが相手の言うことが頭に来た。

「あら、どうしたの? 他の女たちにふられたの?」

 伊沙子の姿がミズ桑野と重なった。同種類だと思った。伊沙子のために残念と言わねばならぬ。ミズ桑野よりはるかにきれいな女なのに。

 きれいだったということを、唐突に羊太郎は思い出し、受話器を握りながら眼を二つ三つ瞬《しばたた》いた。そうだった。なかなかきれいでいい女だった。

「実はそうなんだ。約束していた女の子が急用でだめになってね。金曜日に野《や》郎《ろう》が一人で飯食ってもしょうがないしさ」

「それで私を思いだしたってわけね?」女の声が急に冷たくなるのが感じられた。もう少し言いようがあったかなと後悔したが、遅かった。

 ところがである。驚いたことには、相手が承諾したのである。

 声の感じといい、喋《しやべ》り方といい、お高く止っていたのでほとんど諦《あきら》めかけていたものだから、羊太郎は一瞬狐につままれたような気分だった。伊沙子は先約があるから、ほんの二、三時間くらいしかつきあえないけど、と、クールな、感情のこもらない声でそう言って、羊太郎の突然のデイトの誘いを受け入れたのだった。

 

 あらかじめ電話で予約しておいたホテルルームのチェック・インを済ませておいてから、羊太郎は地下のバーへ向った。女と一夜を共にする時にはよくやることなので、彼としては手なれた行動だった。伊沙子が二度目のベッド・インを断るとは思えなかった。あれくらい経験のありそうな女であるから、こういうホテルのバーで待ち合わせるということは、その後の可能性も計算に入れているはずである。それに第一、初めて出逢った日のその二時間後に見知らぬ男とラヴ・ホテルへしけこむような女と、もう一度寝る以外に何をしたらいいというのだろうか。相手だって同じはずだ。

 女を待ったがなかなか現れない。まさかすっぽかされるのでは、と、すでに支払い済みのホテル料金のことを考えると苛《いら》々《いら》した。

 ふと入口に女の気配がしたので見たが、違う。伊沙子はもっともったりとした感じの女だった。その女はなかなか美人で男心をそそる女だった。誰れと待ち合わせるにしても、待っている男は幸撙逝坤省ⅳ妊蛱嗓纤摔文肖思怠钉筏摹穵仭钉取筏丹ㄒ櫎à郡郅嗓馈

 女は、髪を揺らせながら歩いて来る。色が白くて、髪が啤ⅳ饯筏拼饯婕tだ。ぅ攻`トにブルーのセーターという出《いで》立《た》ち。肩にかけるようにはおっているのは、肩パットの張ったロングコート。若い頃のローレン・バコールみたいな感じの女だった。

 驚いたことには、それが伊沙子だった。二か月で女というものはこうも変るものなのか?

「髪型を変えたのよ」と彼女は片手を髪にやって薄く笑った。しかし髪型だけではない。全体にすっきりとしまった感じだ。

「痩《や》せたのよ、三キロも」と彼女は答えた。

「ダイエット?」

「まさか。恋やつれ」

 そう聞いたとたん、頭の中が赤くなったような気がした。この後に伊沙子が逢うことになっている男なのだろうか? その男に伊沙子を会わせたくないと羊太郎は突然思った。

「ところでどうしようか?」と、彼はポケットの中に手を忍ばせ、ルームキーにそっと触れながらあいまいな口調で訊いた。

「どうするって?」まるで何も気づかないみたいに涼しい顔。

「だから軽く飯でも食ってさ。それから」

 相手は全然仱盲皮长胜ぁ

「ここでお喋《しやべ》りしない?」

「でも二時間もあるんだぜ?」と羊太郎は強硬に出た。「そこのレストランでカレーでも食って部屋へ上ろうよ」

 と、ポケットからキーを取りだして、ちらっと伊沙子に見せた。

 羊太郎の予想では、そこで伊沙子がニヤリと笑い、「負けたわね」とか「要領がいいのね」とか言うはずだったのだ。彼の記憶にある伊沙子ならなんのかのとあまり抵抗もせず、一杯飲んだあと、羊太郎の後からスイと立ち上ってそのままエレベーターで上の階まで行くような女であったはずなのだ。

 眼の前の伊沙子はまるで別人のようにふるまっていた。ほとんどレディーのようにふるまった。先夜は娼《しよう》婦《ふ》みたいだった同じ女が良家の子女のように抵抗するのであった。羊太郎はわけがわからなかった。

 そんなのは初めてだった。女なんてものは一度寝てしまえば、二度目も三度目も簡単にそうなるし、むしろそうならなければむこうの方から何かとアプローチしてくるものなのだ。

 そういえば伊沙子は二か月、こっちから何か言っていくまで、何のアプローチもなかった。

 妙な女だと思った。

「女と逢ったら寝ることしか考えないの?」と伊沙子はいかにもバカにしたようにそう言った。「それじゃまるで女のことセックスの道具みたいに考えているのね」

「しかし女の方だってそうだぜ」と羊太郎は言い返した。「男をセックスの道具みたいに考えている女をたくさん知っているよ」きみもその一人だと言わんばかりの口調。いや、一人だった、と彼は胸の中で訂正した。

「だとしたら」と伊沙子の眼が怒りで燃え上るのが見えた。「もう電話をくれなくてもいいわ」

 ガンと頭を撲《なぐ》られたような気分だった。

「わかった。こっちもそのつもりはないさ」と伝票に手を伸ばして立ち上った。

 見たこともない伊沙子の今夜のデイトの相手を殺してやりたいほど、腹立たしかった。伊沙子という女も、生意気で、お高くて腹立たしかった。そして何よりも、自分という男に羊太郎は猛烈に腹を立てていた。三人の女たちにたて続けにふられるなんてことも後にも先にも初めての経験だった。その三人の女たちのおかげで、自分という人間が、女の下着を引き下げることしか頭にないかのような男に思えることが、何よりも腹立たしかった。羊太郎をそこまで下劣な男におとしめた女たち全部が憎らしかった。

 二度と電話などしないぞと思ったにもかかわらず、羊太郎は伊沙子に連絡したいという欲求に悩まされ始めた。

 さすがに舌の根の乾かぬうちの実行は止めたが、二日目三日目は砂漠の中を水なしで行軍する兵士のような気分で時間をやりすごした。

 もう一日も待てなくて四日目についにダイヤルを回した場所は、自分でも信じられないことに、伊沙子の勤める丸ノ内の公须娫挙椁坤盲俊

 自分がどうやって丸ノ内まで出かけて行ったのかさえ、おぼろげな記憶だった。とにかく、逢って伝えなければならなかった。何を?

 一体何を伝えなければならないのか、羊太郎にはわからなかった。俺《おれ》以外の男には逢うな、逢っては欲しくないのだ、というのが、言いたいことといえば一番言いたいことだ。

 だがそんなことがどうして言えるのか。たった一度だけしか寝たことのない女だ。しかも二か月もケロリと忘れていた女である。

 羊太郎には、彼女に他の男とつきあわないでくれという権利はない。しかしそれこそが今、伊沙子に言いたいことの全てだった。

 つけ加えることは何もない。愛しているから、他の男には逢《あ》ってくれるなと言えたらどんなにいいかしれない。そうなのだ。愛しているからと言えたら、心がどんなに楽になるかしれない。

 けれども、羊太郎は伊沙子を愛しているわけではない。初めて逢ったその日に男についてホテルへ行くような女を、どうして愛せるだろうか? いやそんなことではないのだ。そんなことは問題ではないのだ。愛というのは全てを許すことなのだから、そんな娼《しよう》婦《ふ》のような女だって許すことができれば、愛することはできるのだ。

 俺は彼女を愛してはいない。だけども他人にも渡したくはないのだ。こんな苦しい思いが他にあるだろうか。

 その苦しい思いが羊太郎を丸ノ内くんだりまで撙螭抢搐皮筏蓼盲郡韦坤盲俊

 伊沙子はたいして仱隁荬扦猡胜丹饯Δ噬侵缡长蛞痪wに食べることを承知したが、羊太郎は自分が何を食べたのか全く憶《おぼ》えていないしまつだ。そして話題はといえば、なぜか二人に関することではなく、もっぱら最初の日に同席していた人たちの噂《うわさ》話《ばなし》だけに終始したのだった。

 その後もひんぱんに伊沙子と逢うようになったが、二人の仲は、最初の日ほどに打ちとけることは一度もなかった。

 羊太郎は、彼女に強く魅《ひ》かれながらも、心の底のどこかで激しく彼女を嫌悪しているような矛盾する二つの感情に悩まされ続けた。彼はどうしても、初対面の二時間後に、見も知らぬ男とベッドへ行くような女を、本質的に許せないのだった。その見知らぬ男がたとえ自分でもそれは同じことだった。

 だから伊沙子がその後どんなことがあっても、彼のベッドの誘いに応じないことは、彼には驚きというよりもショックであり、彼の胸はそのために波立つのであった。

 街に冷たい風が吹く季節だった。この二週間ばかり伊沙子とは逢っていなかった。羊太郎の方から逢わないようにしていたのだ。そうして自分の心を試してみようとしたのだ。

 二週間過ぎてから電話をすると、今度は都合が悪いと彼女は冷たい声で言ったのだ。

「どうして?」と羊太郎の声は金属音を含んだ悲鳴のように響いた。

「だってあなたから連絡があるとは思わなかったから。ちょっと約束があるのよ」

 男だ、と直感した。例の男だ。もしかしたらその男とはまだ始終逢っていて、デイトのたびに寝ているのではないか? だから自分の誘いには仱椁胜い韦扦悉胜い韧毪撙袱俊

「先約なんか断れよ」と羊太郎は強い調子で命令した。

「断る理由がないわよ」と、伊沙子も同じような強い調子で言い返した。

「理由ならある」と羊太郎は送話器の中に喚《わめ》いた。「俺たち、結婚しよう」

 そう言ってしまって、彼は自分の言葉に愕《がく》然《ぜん》とした。思わず口走ってしまった言葉が、実は案外自分でも気づかない本心だったということは、ままあることである。しかし羊太郎の場合は絶対に本心なんかではない。彼は結婚したくはなかった。伊沙子とは、更に、結婚などしたくはなかった。彼は狼《ろう》狽《ばい》した。

「そういうことなら」と伊沙子はゆっくりとした調子で、一言一言含めるように言った。「先約を解約することにするわ」

 耳のせいかもしれないが、伊沙子はまるで羊太郎のプロポーズを予想していたかのようにそう言った。少なくとも、彼女は驚かなかった。驚いたような気配は、電話を通しては伝わってはこなかった。

「そういうことなら」彼女はまたしても言った。「今夜逢《あ》いましょう」

 羊太郎は奇妙なことに、伊沙子に逢いたくなかった。まともに顔をみたくないような気がした。なぜだかわからないが、後ろめたいような、そんな気分なのだ。何も悪いことをしていないのに後ろめたいのはどういうわけなのだろう?

 愛してもいないのに、結婚なんて申し込んだからだった。それは彼女に対して諏gとは言えないのではないかと思うのだ。

 男の方はいいのさ、と羊太郎は半ば、自暴自棄な気持で考えた。男には仕事があるし、ある意味で仕事だけが生きがいである。

 しかし女はそうはいかない。家庭こそが全てであり、夫が全てである。スタートでつまずいてはならないのだ。愛されてもいないのに、結婚などすべきではないのである。羊太郎は心からそう思ったし、その時は伊沙子を可《か》哀《わい》相《そう》だとさえ感じたくらいだった。

 だが、実際に伊沙子の顔を見たとたん、彼の心は疑惑でいっぱいになった。伊沙子の顔に浮かんでいるのは、幸福な微笑というよりは勝利の笑いに近かった。

 ほくそえんでいた、といえばあまりに悪意にとりすぎているかもしれないが、それが羊太郎の正直な感想であった。

 罠《わな》だったのではないか、と彼は考えさえした。全ては、彼女の計算だったのでは?

 伊沙子は美しかったし、魅力的だったし、レストランの中で何人かの男たちがちょっとまぶしそうに彼女を見たのも知っている。女たちがある種の羨《せん》望《ぼう》の視線を彼女に浴びせたのも気がついていた。羊太郎の自尊心はそれで満たされはしたが、同時に彼は冷たい汗をびっしょりかいていた。

 眼の前に坐っているその美しい女の人生を、一生自分のそれとよりあわせるのだと思うと、足が萎《な》えるような気がした。彼はとうてい視線を上げることができず、膝《ひざ》の上に置いた自分の手を凝視していた。

「どうかしたの?」と伊沙子が訊《き》いた。とても柔らかく優しい声であった。優位に立っている人間だけがもつ、気持のゆとりからくる優しさだ、と羊太郎は感じた。

「俺たち、今夜、寝ようよ」と残酷さをむきだしにしたような調子で彼は、提案というよりは命令するように言った。

「婚約したんだから、もういいじゃないか」

 もしも彼女がそれで承知したら、ホテルへ行って、それからタクシーで送り返し、婚約は破棄だ。理由など何でもいい。泣こうが叫ぼうが婚約は破棄だ。

「いいじゃないか。もう結婚をしたのも同じなんだから」自分でも嫌悪感を覚えるような猫なで声だった。

 YESといえよ。YESと。そしたらきみを喜んで捨ててやるから。頼むからYESと言ってくれ。

 伊沙子は言わなかった。ニッコリ笑いながら、だ・め・よ、とまるで幼稚園児に言いきかせる若い保母のような口調で羊太郎の要求をしりぞけたのだった。

「それよりも、私の両親に逢《あ》ってもらいたいし、あなたのご両親にもごく近いうちにお逢いしたいわ」

「まあな、そのうちに」

「え? そのうちって?」と、彼女の表情が心なしか白っぽくなった。「そんなあいまいな段階じゃないでしょう?」それから白っぽくなった表情を急に柔らかく崩すと、「だって私たち、婚約したんじゃないの、そうでしょう?」とゆったりとした感じの声でつけたした。

「結婚式はいつ頃がいいと思う?」と訊くから「まだそんなに急がなくてもいいんじゃないかな」と答えると、再びあの白っぽい表情になって「婚約してから結婚式までは、短いほどいいのよ」と言うのだった。「六か月以上だと、破談になるケースも出てくるし」

 喜んで六か月以上にするよと言いたいところを、羊太郎はぐっとこらえた。

「じゃ一応、六か月以内ということにしようか」と彼は最大の譲歩をしたのだった。

 それが来年の一月の末日と急に日取りが大幅に短縮されたのは、彼女に言わせると、彼女の祖母の日《にち》蓮《れん》さんのお告げと、それから家相と姓名判断の結果であった。

「一月三十一日までに結婚しないと、私たちの場合、幸福になれないんだって」と、さっさとホテルの式場を申し込んでしまった。そんなに急によくとれたものだと思ったら、仏滅であった。万事休す。羊太郎の心こそ仏滅。真暗だった。

 人のことはわからないが、男が女に結婚を申し込む瞬間なんて似たようなものなのではないだろうか。冷たい汗をかき、場合によっては吐き気がするのをこらえながら、愛してもいない女の一生をしょいこむ約束を口にする。一体なぜなんだろう?

 不本意なことこの上もない。罠《わな》にはまったような気がするのだ。どうやらそれも自らが作ってしまった罠らしいのだが。

「今月一杯で会社に辞表を出そうと思うの」と伊沙子はうれしそうにいった。

「どうしてさ?」羊太郎はぎょっとした。女に会社を辞めてくれなどと頼んだ覚えはない。

「だっていろいろ準備があるし。第一あなた女が仕事するの、反対なんでしょう?」

 女が仕事をするのはかまわないのだ。彼が好きでないのは、いかにも仕事していますのっていうタイプの女だ。男と同等に仕事してますのよ、って鼻にかけてる女たちだ。

 ほんとうに男と同等を意識するなら、そんなことは鼻にかけるなと言いたい。男だって仕事をしているが、そんなことは改めて鼻にかけたりはしない。

 伊沙子がそういう女の典型的タイプだというのではない。しかし彼女はミズ桑野の予備軍であることは確かだ。そして伊沙子の女友だちの鼻持ちならないこと。どこかの雑誌の編集者をしている愛子という女のひどいこと。

 その愛子のどこが気に入ったのか、同僚の植田が時々逢っているらしいのだ。

「きみの友達の女編集者みたいになって欲しくないけどね、女が仕事をすることに反対なわけじゃないよ。きみに仕事を止めろなんて、一度も言った覚えもないし、それに言うつもりもない」

「あら、愛子のどこがいけないの?」

「可愛げのないところ」

「そうかしら。あれであんがい女らしいところがあるんだけど」

「恥じらいのない女は嫌だな」と言ったら、「恥じらう女ってのは下手するとコケットリーにおちいりやすいのよ」などと伊沙子が言い返した。

「そういう物言いは、完全に愛子って女の影響だな」と羊太郎は言った。「そんなに愛子の生き方をいいと思うのなら、いっそのこときみも真《ま》似《ね》したらいいじゃないか」

「真似するって?」

「だからさ、男の働きに頼りきって、べったりと亭主にしがみつかないで、自分の基本的なめんどうくらいみれる女でいて欲しいってことさ」

「あら?」と伊沙子は眼を丸くした。

「自立している女がお好みだったの?」

「自立している生意気な女は嫌だけどね」

「経済的に自立していることだけが、女の自立だとは言えないわ」

「まあそうだな」と羊太郎は適当にあいづちを打っておいた。

「経済的に一人立ちしている女でも、自立してない場合をたくさん知ってるもの」

「そんなものかな」

「要するに精神的に一人立ち出来てるかどうかってことだと思うのよ。それと肉体的に自分をコントロールできるかっていう問題ね」

「肉体的な自立ってのはどういうこと?」羊太郎は興味を覚えて訊《き》いた。

「つまりね、自分の肉体の欲望をコントロールできるかどうかっていうこと」

「つまり俺たちみたいにだね」と羊太郎は強い皮肉を声にこめた。

「ほんとうはがまんすることだけを指して言っているんじゃないんだけど。コントロールするということは、欲望を抑えることと、もうひとつ欲望を満たすことの両方を意味するのよ。その両方を上手くコントロールできる人を、肉体的に自立している、っていうの」

「俺たちはそうすると欲望を抑えることのみコントロールしているわけだから、自立した男と女とは言えないね」と逆手にとると、伊沙子は躰をすりよせるようにして「それもあと二か月とちょっとの辛抱じゃないの」と甘い声で囁《ささや》くのであった。

 

 会社ではあいかわらず羊太郎はミズ桑野ににらまれている。

「どうしたの。この所ずっと冴えないじゃない」と部課長に聞こえるような大きな声で言うのだ。わざとだ、と羊太郎は思う。わざとみんなに聞こえるように言うのだ。同僚の足を引っぱるのはもっぱら男だと思っていたが、女にもいたというわけだ。もっともミズ桑野を女とみなせばの話であるが。

 羊太郎が無視することにきめて黙っていると、ミズ桑野はニヤリと笑って回りこんで来るではないか。

「この所ひんぱんに電話がかかってくる女のせいね?」とわけ知り顔。

「そんなにひんぱんになどかかって来ないよ」と、なぜか伊沙子をかばってやりたくなる。まだミズ桑野よりは伊沙子の方が可愛げがあると思うからだ。

「そうでもないわよ。あなたが外へ出ている時に、一体誰れが電話を取ってあげてると思ってるの」

「俺《おれ》のダイヤル・インの電話を、あんたにとってもらわなくてもいいよ。頼んだ覚えもないし」

「でも誰れかがとらなくちゃ。ね? 会社は休みじゃないんだから」

「しかし、そんなに度々電話を受けてもらったわりには、伝言など一度も残してはくれないね」とチクリと皮肉。

「私用の伝言をメモする義務は全くないものね」とミズ桑野は威丈高に言った。

「私用かどうか、きみにどうしてわかる?」

「あんた誰れにむかって言ってるつもり?」とミズ桑野はニヤリと不敵に笑った。つくづくと嫌な女だ。「私が何年この道で働いていると思ってるの? 仮りにもスポンサーと消費者相手に、両方を立てる仕事なのよ。かかってきた女が、仕事の関係か、ただの女か、それくらいのことがわからなくてどうするの?」

「驚いたね。声でわかるっていうの?」

「声でもわかるし、言葉遣いでもわかる。間のとり方、呼吸のしかた、最初のもしもしで、わかっちゃうことだってあるわよ」

「しかし、俺にかかってきた女だって、たいてい仕事している女だぜ」

「どのていどの仕事をしているか、それが問題だわね。それから、あんまり女から会社に電話が入らない方がいいと、私は思うけどね」

「大げさに言うねえ」と羊太郎は嫌気がさして言った。

「あーら、大げさじゃありませんよ。昨日なんてその同じ彼女から四度も電話があったわよ。何かトラブルなの?」と、最後の一言の時、ミズ桑野の顔が好奇心で輝くのを羊太郎は見た。

 トラブル? と彼は胸の中で呟《つぶや》いた。そう、トラブル。人生の最大のトラブルさ。彼はそれきり企画書に眼を移した。

 二ページも書かないうちに机上の電話が鳴った。ミズ桑野がジロリと眼を上げるのが視界に入った。彼女に俺が結婚するなんてことが知れたら、鬼の首でもとったみたいに小躍りするだろうとふっと思った。ミズ桑野は他人の不幸、とりわけ小西羊太郎の不幸がうれしいのだ。

「もしもし」と不機嫌を隠せない声で言った。

「なんだよ、二日酔いか?」と男の声。ほっとした。営業の植田だった。植田とは、スポンサーが共通なので、一緒に行動をとることが多いのだ。飲むこともよくある。伊沙子らと初めて逢った夜一緒だったのが植田だった。

「いや、違うよ」と羊太郎は苦笑した。

「じゃ、なんだって地獄の底から聞こえてくるような声で喋《しやべ》るんだ?」

「原因ならミズ桑野に訊《き》いてくれ」

「またやりあったのか?」

「他人の私用の電話のことで嫌味を言われた」

「なるほど」

「で、そっちの用事は? 今夜あたり一杯飲むか?」

「いや、今夜は先約がある」

「女か?」

「うん、まあね。ところで話がある。ちょっと出れるか?」

 なぜか羊太郎はミズ桑野の方をチラとうかがい、「ああいいけど、何か重要な話なのか?」と訊いた。

「逢ってから話すよ」と、植田の電話が切れた。

 会社の近所の喫茶店に行くと、すでに植田はいた。テーブルのコーヒーも半分ほどに減っている。

「ここから電話をしたんだよ」と彼は言った。

「あんまり時間がないんだ。話っていうのは?」と羊太郎が訊《き》いた。

「ひどく言いづらいんだがね」と植田が口ごもった。「伊沙子さんのことだ」

「彼女のこと?」

「昨夜愛子と一緒だったらしいんだ」

「ああ、それで?」

「パブで昔の男友だちにひょっこり出《で》逢《あ》ったらしいんだな」

「愛子さんの?」

「いや違うよ。伊沙子さんの」

「男友だちくらい、いたろうからね。偶然逢ったって不思議じゃないさ」

「問題はこれからだ。二人はたちまち意気投合して、ヤケボックイに火さ」

「二人?」

「だから伊沙子さんと昔のセックス・フレンド」

「セックス・フレンド?」

「と、愛子はそういう言葉で言ったがね。要するに、気の毒な愛子をその場にすっぽかして、二人でホテルへ行ったというんだ」

「愛子さんは二人の後をつけたのか?」

「そんな趣味の悪いことをするかっていうの」

 植田は気分を害したようだった。

「じゃなぜわかった?」

「それは大人の女同士だ。眼つきでわかるって」

「確かなのか?」

「あの様子じゃ百パーセント確かだと愛子は言ったよ」

 羊太郎はそこでようやく問題の意味するところを考え始めた。

「こんなこと言いたくはなかったんだが……」と植田が気の毒そうに眉《まゆ》を寄せた。

「いや、言ってもらってよかったよ。心配するな」

「気を落すなよな」

「ああ」

「大丈夫かおまえ?」

「ああ、大丈夫だ」

「ショックだとは思うが……」

「まあね」

「で、どうするんだ? 伊沙子さんとは?」

「考えてみるよ」

「うん。人生、たった一度の過ちってこともあるしな。あんまり性急に結論を出さん方がいいかもしれんな」

「ところで、おまえ、愛子さんとはどうするんだ?」

「どうするってこともないが……」

「伊沙子からいろいろ訊《き》いてるぞ。知りたければ話してやってもいいよ」

「いや」と、植田は何かを強く拒否するように右手を前に差しだした。「言わんでもいいよ」それからはっとしたように、「俺、伊沙子さんのこと、言わなかった方がよかったのかな?」と、後悔の声で訊いた。

「いや、いいんだ。言ってもらって、よかったんだ」

 羊太郎はフラリと立ち上った。しかつめらしい顔をしつづけるのが限度だったからだ。喫茶店の外に出ると、耐え切れず笑いだした。

 一人笑いしながら歩いていく彼を見て、人々がケゲンな顔をしたが、かまうことはなかった。笑いが次から次へとこみあげて来て涙まで流れた。俺はこれで自由になれる。伊沙子との婚約を堂々と破棄できる。

 オフィスに戻るとミズ桑野がけんめいにスポンサーへの報告書と格闘中だった。その背中を見ながら、羊太郎はふと言った。

「桑野さん、昼飯おごるから一緒に食おうか?」

 ミズ桑野の皮肉な眼が光ったが、もう羊太郎は少しも怖くはなかった。すばらしい解放感だった。
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