本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 23:59 编辑
第六課 日本人の契約観
近代市民社会においては『契約は守れねはならない。』ということが、最も大切な常識の一つとされている。しかし、これは、外から押し付けられていやいやながら守る、といった性質の野茂のではない。契約を守ることは、外ならぬ自らの自由を守ることなのでもある。そのルールは自分の意思で作ったルールであるから、自分でそれを破るのは、自らの首を絞めるに等らしいとされる。また、自らが契約を破ることは、相手方の恣意に脅かされる運命を自らの手で作りだすことでもある。自らがルールが守ることによってのみ、相手方がもしルールを破ったら、その違反を追求し、ルールに従った権利を主張することができるのである。
こうしてみれば、契約をおいて、拘束と自由とは盾の両面である事が分かるであろう。逆に、拘束のない自由などというものはあるはずがない。近代市民法の打ち立てた『契約は拘束する。』という命題こそは、封建的に恣意に対する資本主義的自由の耀かしい勝利の道標である。そして、『契約は守れねばならない。』というこの常識の中に、資本主義社会における自由の根本的問題を解く鍵が秘められている。
さて、しかしながら、契約の拘束と自由との関係についてのこのような市民法的常識は、日本社会において自明な常識であるかどうかは疑わしい。当事者が自らの意思を拘束するか客観的ルールを定立して、其れに服することによってお互いに自由を保障するという契約観は、明治以降の日本の社会において十分にはぐぐまれたとはいい難しい。それどころが、形は契約の形をとっていっても、中身は当事者の一方の主観的意思が貫くようにで着ているという関係は、戦前の日本社会においてはむしる通常をことに属した。
たとえば、借家においては、契約期間が決まっておらず、契約書も交わされないという状態が、よく見受けられた。中には、お丁寧に借家人から『貴殿御入用のときはいつでも立ち退きます。』という一札を取っていた家主もすこなくなかった。ここにも、家主の意思を拘束する客観的意思が恣意的にルールはなかった。この関係は、家主の一方的主観的意思が恣意的に貫かれる関係であり、借家人の運命は家主の気持ち一つによって左右されるという具合だった。
このような関係が、戦後、市民法的常識が普及するにつれ手かなり改善されてきていることは、事実である、しかし、それにもかかわらず、今日なお、拘束によって自由を保障するという契約観は、必ずしも皆の物となってはいない。家屋や土地の紛争で私のところに相談に来る例を見ても、そのほとんどの場合が、驚くことに、契約書を取り交わしてはいない。現在は法律によって、借地人や借家人の地位をある程度保護しているから、昔のように彼らが簡単に追出されることはないけれども、法律で保障していない点は、全く当事者の恣意で左右されたしまう。
家主や土地の側にしても、『ちょっと間、と言うので口約束で貸したどころだ。返してくれと言っても返してくれない。どうしたらよいか。』と質問してくる場合が非常に多い。第一、契約書がなければ、ちょっと間の契約であったかどうかを証拠つけることさえも難しいであろう。どんな場合にも、後になって水掛け論にならないように具体的証拠を残しておく、と言う法、まだ、確立していないように思われる。
よく言えば、日本人は人が良くて相手を信用し過ぎるということかもしれないし、悪く言えば、物事のけじめをはっきりつけないでルーズであるということがかもしれない。特に肉親とか、友人とかの間になると、つい気を許して、いつ相ルーズになりがちなものである。私のところへ相談に来る例でも、『弟2貸してやったので、まさかこんなことになるとも思わず、契約書も取らなかった。』とか、『知っている人の紹介で、信用の置ける話だったので、口約束で済ませた。とかの例が多い。
しかし、契約関係に入るときに、あらかじめ紛争が起きることを予定しているわけではない、あらかじめ紛争が予見できるくらいならば、そのような契約はもともとと結ばなかったであろう。つまり、こういうことである。契約を結ぶと言うことは、それ自体、常に相手方を信用することであり、「まさかそんなことはない」とおもうことなのである。そして、まさに権利の行使が問題になるときは、常にその『まさか』と言う信用が裏切られたときのことなのでもある。だから、契約条件を明確にさせ、契約書を交わすことは、権利を大切する社会では、しごく当たり前のことである。
私も経験したことがあるが、契約書を作ってくれと言うと、「このおれを、疑っているのが。」とか、『おれがこんなに大丈夫だと言っているのに、信用置けないのか。』とか言って、絡むような前市民法的な、非常識の持ち主がまだいる。ごく常識的に考えて、そんなに約束を文書にして、相手を安心させないのだろうか。文書化を拒否するような人は、客観的ルールに自分を従わせたくないと思っている人であり、そういう人こそ、最も疑うに値すると言わねばなるまい。
客観的ルールの定立が、人間の信用や面子を傷つけるものであるかのごとく受け取る日本人の心理は、人間を善玉悪玉に峻別すると言う封建社会的心理に通ずるものであろう。人間を、初めから本質的に信用の置ける人間と、信用の置けない人間と分かてしまうと言う思考、つまり、人間を一定の状況の中で変化するものとしてとらえない思考が、その根底にある。市民的感覚から言うなら、契約の出発点に当たって、その相手方の人間を疑うかごうかが問題なのではない。そうではない、疑おう思っても疑うことの状況の中に相手方を置くことが問題なのである、客観的ルールの定立にはそういう意味もある。
「また、けいやくはこうそくする。」と言う観念も、私たちの社会ではまだ一般常識化していないように思われる。約束の日が来ても、「まだ一日ぐらいはいいだろう。」とか、契約の内容についても、「少しくらいは大目に見てくれるだろう。」とか、ルーズな気持ちが働きがちである。
約束を守らないと言うことは非常に恥ずべきことである、と言う意識や、約束をした以上どんなにしても責任を持ってこれを守る、と言う意識は、確かにまだ私たちの日常生活の中で極めて弱い。これは、日本社会の根底に触れる問題を含んでいないだろうか。それは、近代日本の最も奥に潜む病根を示すものではないであろうか。
契約を拘束力について意識が低いと言うことは、権利を追求する意識が弱いと湯言うことと、盾の両面を成すものである。契約=客観的ルール定立は、それによって当事者の利益範囲を具体的かつ客観的に画するものである。相手の恣意に脅かされない客観的利益範囲の確定なくして、つまり、どこまでが自分の権利を出張しうる範囲が分からずして、権利を行使するすべもない。日本の社会においては、このような利益範囲の客観化を「水くさい。」とか、「融通が利かない。」とか言って回避する傾向が久しぶり続いてきた。このような傾向は、今日もなお強い力を持っている。利益範囲を明確にすることは、契約当事者が互いに利害の対立する当事者であることを予定しての話である。だれも、たとえば、隣の土地所有者との境界線は明確になっていることのほうが望ましい、というであろう。それならは、同様に、なぜ契約においても、お互いに利益出張の境界線を明確にしておこうとしないのだろうか。
それは、契約を、対立する当事者の関係と見ないで、相手と一心同体の関係として見ると言う共同体的契約観が根強いからである。何も互いが対立する形で利益範囲を出張し合わなくても、その辺のところは適当にしておいて,以心伝心,あるいは相互に譲り合って、適当に処理してゆげはよいではないか。という考えがそれである。しかし、利益範囲が客観的に明確にされていなかったら、紛争において社会的に力の強い者の意思が通るということは、土地の境界線がはっきりしない場合のことを考えれば、すぐ分かる。境界線がはっきりしていて、「ここだ」と指摘してやれば、よぼど厚かましい時間でないかぎり、引っ込むであろう。それがはっきりしていなければ、相手が「ここだ」といて強引に出て来たら、たいてい気の弱い人が負けてしまう。契約内容をはっきりさせない共同体的契約観のしたでは、全くこれと同じことが生ずるだから、このような契約観は、社会的に実力を持つ者にとって極めて都合よい契約観なのである。本来、近代的契約観は、共同体的契約観を排除して、社会的弱者に客観的ルールに基づく権利主張の根拠を与える目的で出て来たものである。ところが、市民法的常識で排除されたはずの共同体的契約観が温存されている。社会では、権利の主張と契約の拘束力とが結び付けない。
かくて、契約の拘束力が弱いという事実は、権利を尊重されないという日本社会で致命的事実に起因するように思われる。近代的契約観の下では、契約力の高さは当事者の自由の強さを示すものである。自らの自由と権利を守るためにこそ契約を守る必要があるとすれば、当事者は外から強制を待たずして、自由的にそれを守ろうとする積極的意欲に燃える。しかし、共同体的契約観の下では、契約は、自由と権利の慎重を阻むものに過ぎない。社会的強者の恣意を排除するための客観的ルールの定立、という目的を見失った契約というものに、社会的弱者たる当事者が魅力を感じる道理はない。どうして、そのような契約を守るに値するものえありえよう。この場合には「契約を守られねばならない。」というスローガンは社会的強者の支配の具に堕している。だから、社会的弱者の目にとって、契約は、主体的に守るのものではなく、外から強制されてしぶしぶ守るものであるとしか映じない。
また、社会的強者にとっても、契約は、実は自らの意思を拘束する客観的ルールではありえない。むしろ、契約のない内容などというものは、自分の意思次代で同にでも変えることのできるものだ、というくらいのルーズな考えしかない。「地主がほすれば、いつでも土地を取り上げます。」というようなことが書いてある契約を地主が守るということは、明らかに無意味である。契約は地主の意思を拘束するものではなく、地主の意思=恣意を覆い隠すいちじくの葉に過ぎない。自らの意思を制限し、拘束するもののとしての客観的ルールに服するという主体的あり方は、ここからは出て来ない。
かくて、共同体的契約観の下において、真の意味で「契約は拘束する。」という市民法的意識は、社会的弱者の側からも、社会的強者の側からも、自主的に生まれは来ない。契約は守らねばならないという市民法的常識を私たちのものとするためには、このような共同体的契約観を日常諸生活の中で徹底的に駆逐してゆかなければならない。そのために大切なことは、「約束をまもりなさい。」などと、抽象的に説教したりすることではもちろんない。約束を守ることが自分の利益を守ることであるということを、人は現実の生活における経験を通じてのみ学んでゆくであろう。もし、約束を守ることいよって、隷属と不自由しかないことを経験するなら、人は決して主体的に契約を守る意思を持つ者ではありえない。
この意味で、約束を守るという常識が普及するがどうかは、所詮は道聴が教育の問題ではない。もちろんその力のある。しかし、根本的には、現実の社会生活の中での契約の構造いかんに懸かっている。契約の構造や機能が社会強者の恣意を拘束し、社会的弱者の権利と自由を保障するものとなる、」という常識が浸透するである。
(渡辺洋三「法というものの考え方」による)
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