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[本科专业课] 高日(一)东大考试教材

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发表于 2013-3-19 14:52:16 | 显示全部楼层 |阅读模式
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 23:58 编辑

第四課  北海道の秋
 確かに北海道には実りの秋という感じがある。それは北海道住まいがだんだん長くなるにつれて、はっきり感じるようになってされ、今ではそれ以外に秋というものの感じがあることが変なくらいになってきて。北海道の秋は生産的で充実していて忙しくてぴちぴちしていて健康で若若しくて、何か新鮮である。
  しかし、われわれがそこから抜け出してき古い日本の秋というもは、およそそれとは別な色合いを持ってものであった。紅葉の散りしきる上に黒い雲のかかった、ともすれば、秋雨のじめじめと降り注ぐ、わびしげな秋、言ってみればそれは凋落の秋であった。しかし、中年になってそこから抜け出してきた、われわれ移住者の端くれとっては、老年の敗残の琴線に触れて、雨蕭蕭たる落葉の季節はその静かさの点で懐かしく,気味深い点で故郷という感にたえないものであった。日本の秋と言えば、そんなものであって、それは千年来古典文学の表現に支えられ、その情調によって日本人の心に調和する和音を奏でているのであった。それからすれば、北海道の秋はまるで別様の秋である。実りの秋であるから生産と活動と生命と若さと建設とに結ばれる。それは明朗で溌剌として、収穫と狩猟との秋である。感じが新しい。これもまで、日本の秋なのだなと思い返してみると,今さらのような驚きさえ感じ感じされられる。
 これは移住者にとっては問題である。道産子が北海道人口の主成分になっていて切る現在では、そんなことは問題ではなくなっているわけだろうけれども、北海道の意識が日本のものとしてはっきりとらえら得るようにんれば、それは古い日本のそれと比べて、あまりにもはっきりした相違を持っていることが、新しい問題になってこざるを得ないだるう。日本人の従来の美意識では割り切れない北海道の自然の表現、そうした自然の中に住民と自然との社会的な心理的な相互の関係ということを考えていくと、いろいろ本州とは違ったものが、当然に生まれてきていることに気づくだろう。畑の畝の立から、種のおろている。苗の育て方に始まって農業の技術も本州とは著しく違っている。北緯四十度の圏内のあるところから植物、動物の分布も本州とは著しく違うから、そこで栽培される野菜の類にしてもも本州のものは多くは育たない。本州のものはすべて三十度圏内で育てきた植物だからできる。
  だから、米のように本来育たなかったものを、主食であるという意味からそれをしいて多量に生産しようとするためには、農業試験などの尽くした努力は何十年にわたって恐るべきものがあったであろう。その品種改良と耕作法の改良とによって、今では美深のあたりまで水田が開墾され、日本酒が作られ、道人口一人一石当たりに近い収量を上げるようになってきたことだけでも驚くべき結果であって、日本人の自然にいどむ熱心さは尊ぶべきものではあるが、その先にまだ米とたくあんみそ汁とだけでは対抗できない自然力があった、冷酷に人体をむすばもうとしていることも忘れることはできないであろう。そうしたことを考えながらながめると、北海道の水田は、またそこだけが北海道の自然になじまない景観を呈しているといる不思議な不自然さを感じさせないであろうか。
 私が北海道に居ついた夏、何よりも先に感じたことは、北海道の風景としての水田の不自然さであった。もちろんそれは先人の努力を無視しようとするものでも何でもない。ただ移住者の一番先に先覚した日本の包蔵する問題であったにほかならない。それに比べると服には、本州では、東北地方ではないと見られないような方式の受け継ぐがれていることが、最初の冬になって発見できた。そして、それはまことに自然であるように受け取ることができた。家屋は、寒地向きのものが近頃はだんだん建てられているが、長い間旧日本の建物法がそのまま受け継がれて、金のある人は豪奢に作ってそれで寒さもしのたろうが、庶民はひどく貧寒な設備のもので、ただただ薪か石炭を燃やして、最も非科学的に熱を放散してしまうほかない数十年を送ってきたわけである。そこで食住ともこの四十度圏の寒地的自然に対するは、あまりに不用意にしか見えない方法で生きるほかなかった。というのは、ほかならぬ新しい方法を採用してそれに慣れきるには、四十度圏の生活文化が成立し、それに君臨する文化主体が成熟するには、ただ時間だけなくもっと別の資本をかけることが必要があったのだろうと、いいとも簡単な真理に支配されたすぎなっかことである。しかしその点で不如意だった開拓の歴史に八十年は北海道の社会をあまりに旧日本に引きとどめ、そして旧日本の主食に引きとどめるほうに努力を傾け尽くした結果になった。そしてその全努力の結果は、この北緯四十度圏の景観を三十度圏、二十度圏の景観を改造するための水田耕作という一点にその姿を現してきている。
 それにしても、このかなり無理な努力は今や成功し実りの秋は豊かになった。しかし、秋の情調だけは本州のもの伝わってこなかったし、それを歌い上げた文学もまた北海道人の心の基調にはほど遠いものとなっている。それは何からきたものであったろう。
  北海道の秋が十月いっぱいで終わったということに、実は独特のものすべてがかかっていると思う。本州の秋は十一月いっぱいまである。そこで、春とともに秋も長い四季の循環が程よく緩やかで、気候温和だということが、その点から言うと、春、夏、秋が二月ずつで通り過ぎて、半年間の雪が来ることは、確かに北海道の自然を著しく激しいものにしている。そしてもちろん自然のあきもまた、人間にとっては一年間の生活暦の上でしか人生に関係は持ってこない。北海道の秋は九月と十月の二月にすぎぬ。そして人間の秋の生活も十月も終わる.亜麻も牧草もデントーコーンもとうもろこしも豆類も甜菜も大根も玉ねぎも白菜もキャべシも大体収穫を終わる。ブドウもナシもリンゴも枝から姿を消していく。稲も十月中に全道の刈り入れは完全に終わる。そして新雪。地上は一足飛びにふゆである。あらゆる野のもの山のものの収穫は十月末に向かってどっと重なり合って刹到する。十月は秋の労働の頂点である。大人も若者も子供も忙しい。人生悲傷の愁嘆をかみしめて夜の長きをかこつような暇はない。それに明るい空、光の雲、そしてすべてが終わる中で、渡り鳥の猟が始まっている。雪来る前の牧場の冬ごらしえの忙しさと緊張。これもまた別の秋である。
 そこには長い冬に対する万全の準備を終わったといった人間の感情が支配する。そうした生活感情の曲線は都会の生活にだってある。愁嘆などにふけっている緩んだ空気はない。十一月に移るころ大根の買い込み、そして石炭や薪やの買い込みの遅れた時の不安に満ちた忙しさ。北海道の秋は生産の収納と冬の準備とに緊張した。一年じゅうでも最も豊富な人生を生きている季節といえよう。
 それは自然のある限り、北緯四十度圏の宿命である。そしてヨーロッパの生活もまた同じ自然の支配のもとに、その生活暦を規定してきた。西洋文学の郷土は北海道同じと言ってよいであろう。そこでも秋は庶民にとって豊富で充実して若く楽しく美しく明るい生きがいのある季節である。そこで悲傷の孤独に秋雨の煙るのをながめている人は庶民の埒外に出た個人である。そういえば、日本の秋が悲しく寂しいかったのは、日本古典の美の伝統が貴族のものであったからであろう。
           
                             「風卷景次郎全集9」による
 

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发表于 2013-3-19 16:31:29 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 23:58 编辑

你设置阅读权限100,难道就给我看吗?

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 楼主| 发表于 2013-3-19 17:15:18 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 23:58 编辑

你设置阅读权限100,难道就给我看吗?[/quote]
现在还没有弄好,弄好就取消阅读权限了

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 楼主| 发表于 2013-3-19 20:58:49 | 显示全部楼层

RE: 高日(一)东南大学教材

本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 23:58 编辑

第五課  暗夜行路

私は自分に祖父のあることを知ったのは、私の母が産後の病気で死に、その後二月ほどたって、不意に祖父が私の前に現れてきた、そのときであって。
 私の六歳の時であった。
 ある夕方、私は一人、門の前で遊んでいると、見知らぬ老人がそこへ来て立った。眼の落ち窪んだ。猫背のなんとなく見すぼらしい老人だった。私はなんと言うことなくそれに反感を持った。
 老人は笑顏を作って何か私に話しかけようとした。しかし私は一種の悪意から、それをはぐらかして下を向いてしまった。釣りあがった口元、それを囲んだ深い皺、変に下品な印象を受けた。「早く行け」私はお腹でそう思いながら、なお意固地に下を向いていた。
 しかし老人はなかなかその場を立ち去ろうとしなかった。私は妙にいたたまらない気持ちになってきた。私は不意に立ち上がって門内へ駆け込んだ.その時、「オイオイお前は謙作カネ。」と老人が背後から言って。私はその言葉で突きのめされたように感じた。そしてたち止まった。振り返った私は心で用心していたが、首はいつかおとなしくうなずいてしまった。
 「お父さんは家かね。」と老人が聞いた。
 私は首を振った。しかしこのうわてな物言いが変に私を圧迫した。
 老人は近よって私の頭へ手をやり、
 「おおきくなった。」と言った。
 この老人が何者であるか、私には解らなかった。しかしある不思議な本能で、それが近い肉親であることをすでに感じていた。私は息苦しくなってきた。
 老人はそのまま帰って行って。
二三日するとその老人はまたやって来た。その時私は始めてそれを祖父として父から紹介された。
 さらに十日はどすると、なぜか私でだけがその祖父の家に引き取られることのなった。そして私は根岸のお行の松に近いある横町の奥の小さな古家に引き取られて行った。
 そこに祖父のほかにお栄と言う二十三四女がいた。
 私の周囲の空気がまったく今まで変わっていた。すべてが貧乏くさく下品だった。
  ほかの同胞がに皆自家に残っているのに、自分だけがこの下品な祖父に引き取られたことは、子供ながらに面白くなかった。しかし不公平には幼児から慣らされていた。今に始まったことでないだけ、なぜかを他人に訊く気も私はには起こらなかった。しかしこういう風にして、こんなことが、之からの生涯にもたびたび起こるだろうという漠然とした予感が、私の気持ちを淋しくした。それにつけても私は二ヶ月前にしんだ母を憶い、悲しい気持ちになった。
父は私に積極的につらく当たることはなかったが、常に常につめ冷たかったが、このことには私はあまりに慣らされていた。それが私に取って父子関係の経験としての全体だった。私はほかの同胞の同じ経験をそれに比較するさえ知らなかった、それゆえ、私はそのことをそう悲しくは感じなかった。
 母はどちらかと言えば私には邪険だった。わたしはことごとに叱られた。実際私はさかん坊で我儘であったが、同じことが他の同胞が叱られるように事がよくあった。しかし、それにもかかわらず、私は心から母を慕い愛していた。棟伝いに鬼瓦の心まで言って馬乗りになると、変に快活に気分なって、私は大きな声で晿歌を唄っていた。ふだん下からばかり見上げていた柿の木が、今は足の下にある。
 西の空が美しいタ映えている。烏が忙しく飛んでいる、、、、、、、、、、、、
 間もなく私は、「謙作―――謙作」と下で母の呼んでいるのに気がついた。それは気味の悪意ほど優しい調子だった。 
「あのね、そこにじっとしているのよ。働くのじゃ、ありませんよ。今山本が行きますからね。そこにおとなしくしているのよ。」
母の眼は少し釣あがって見えた。ひどく優しいだけただ事でないことが知れた。私は山本の来るまでに降り手しまおうと思った。そして馬乗りのまま少し後じさった。
「ああつ」母は恐怖から泣きそうな表情した。「謙作はおとなしこと。お母さんの言うことをよくきくのね。」
私はじっと眼を話さずにいる。変に鋭い母の視線から縛られたようになって、身動きがなくなった。
間もなく書生と車夫との手で私は用心深く下ろされた。案の定、私は母から烈しく打たれた。母は興奮から泣き出した。
母にしなれてからこの記憶は急にはっきりしてきた。後年もこれを憶ぅたび、いつも私は涙を誘われた。なんといっても母だけは本当に自分を愛していたくれる、私はそう思う。
前後はわからない、が、そのころに違いない。
私は一人茶の間で寝ころんでいた。そこに父が帰ってきた。父は默って、袂から菓子の紙包みを出し、茶箪笥の上において出て行った。私は寝たまま。じろじろそれを見ていた。
父が入ってきた。そして、今度は紙包みを本棚の奥へしまい込んで出て行った。
私はむっとした。気分が急に暗くなった。間もなく母が、父の脱ぎ捨てた外出着を持って、次の間へ入って来た。私には我が儘な気持ちが無闇と込み上げてきた。泣きたいような、怒りたいような気持ちだった。
「母さん、お菓子。」
「何を言うんです。」母は言下に叱った。その少し前に私はその日のおやつを貰っていたのだ。
「何か、よう、何か」
母は応じなかった、そして、畳んだ着物を箪笥へしまってきて行こうとした。
私は起き上がった。
「よう、何か。」こういって、母の前へ立ちふさがった。母は黙って私の頬をぐいとつねった。私は怒ってそのピシャリと打った。
「もう食べたじゃ、ありませんか。何です。」母は私をにらんだ。
私は露骨に父の持って帰って菓子をせびりだした。
「いけません。そんな、、、、、、、、、、」
「いや!」私は権利をでも出張するように頑固に首を振った。何しろ、私は気持ちがくしゃくしゃしてかなわなかった。その菓子がそれほどに食べたいのではない。とにかく,思いきりなければ、どうにも気持が変えられなっていた。
母は私の手を振り払って、出て行こうとした。私は後から不意に母の帯びへ手をかけ、ぐいと力一杯に引いた。母はよろけて障子に摑まった。その障子がはずれた?
母は本気で怒りだった。そして、私の手首を掴み、ぐんぐん戸棚の前へ引っ張っていった。母は片腕で私の頭を抱えておいて、いやがる私の口へその厚切りの羊羹を無理に押し込んだ。食いしばっている味噌っ歯の間から、羊羹が細かい棒になって入ってくるのを感じながら、私は度胆を抜かれて、泣くこともできなかった。
興奮から,母は急に泣き出した。しばらくして私もは烈しく泣きでした。根岸の家へ移って半年あまり経ったある日曜日か祭日かのことである。私は久しぶりで祖父に連れられて、本郷の父の家へ行った。ちょうど兄は書生と目黒の方へ遠足に行って、咲子とというまだ一年にならぬ赤子とそして父だけが家でいる。その日父は珍しく嫌いがよかった。父は一にない愛想らしいことを私に言った。父としてはそれは気みまぐれだった。何かその日気分のいいことがあったのかも知れない。しかしそんなことは私には解らなかった。私は何かしら惹かれるような心持で、祖父が茶の間へ引き返してからも、一人そこで残っていた。
『どうだ、謙作.。一人角力をとろうか。』父は不意にこんなことを言い出した。私はおそらく顔一杯に嬉しさを現して喜んだに違いない。そしてうなずいた。
『さあ来い。』父は座ったまま、両手を出して,かまえた。
私は飛び起きざまに、そこへ向かって力一パイ、ふっかっていった。
「なかなかつよいぞ。」と父は軽くそれを突返しながら言った。私は頭を下げ,足を小刻みに踏んで、またぶつかっていった。
私はもう有頂点になった、自信がどれほど強いかを父に見せてやる気だった。実際角力に勝ちたいというより、私の気持ちでは自分の強さを父に感服させたい方だった.私は突遮二無二ふつかっていった。こんなことは父との関係ではかってなかったことだ。私は身体全体で嬉しがった.そして、おどりがあがり、全身の力で立つ向かった。しかし父はなかなか私の負けてはくれなかった。
『これなら、どうだ。』こういって父は力をいって突返した。力一パイにぶつかったいった。ちょっと息が止まるくらい背中を打った。私は少しむきになかった。そしてむきかえると、な大勢込んで立向かったが、その時の眼映った父は今までの父とはもう変わって感じられた。
『勝負はついたよ。』父は興奮した妙な笑い声で言った。
「まだだ。」と私は言った。
『よし、それなら降参というまでやるか。』
「こうさんするものか。」
間もなく私は父の膝の下に組み敷きかれてしまった。
「これでもか」父はおさえている手で私の身体を揺すぶった。私は黙っていた。
『よし、それならこうしてやる。』父は私の世を解い手、私の両の手を後手に縛ってしまった.そしてそのまった端で両方の足首を縛り合わせてしまった。私は動けなくなった。
『降参と云ってら解ってやる。』
私はまったく親しみを失った冷たい眼で父の顔を見た。父は不意の烈しい運動から青味を帯びた一種殺気だった顔つきをしていた。そして父は私をそのままにして机のほうに向いてしまった。
私は急に父が憎らしくなかった。息を切って、深い呼吸をしている、父の幅広い肩が見るからに憎らしかった、そのうち、それを見つめていた視線の焦点がぼやけてくると、私はとうとう我慢しきれなくなって、不意に烈しく泣き出した。
父はおどいて振り向いた。
『何だ、泣かなくてもいい.解いて下さいと言えばいいじゃないか。馬鹿な奴だ。』
解かれても、まだ私は、泣きとめることができなかった。
『そんなことで泣く奴があるか。もうよしよし。あっちへ行って何かお菓子でも貰え.さあ早く。』こう云って父はそこにころがっている私は立たせた。
私はあまりに明らさま悪意を持ったことが恥ずかしくなった、しかしどこかにまだ父を信じない気持ちが私には残っていた。
祖父と女中とが入った北。父は具合悪そうな笑いをしながら、説明した。祖父は誰よりもことさらに声高く笑い、そして私の頭を平手で軽く叩きながら、『馬鹿だな。』と言った。
   ( 志賀直哉『暗夜行路』第一節による。)


  
  

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发表于 2013-3-22 13:28:31 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 23:59 编辑

看到东大,还以为是东京大学呢

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 楼主| 发表于 2013-4-16 16:56:36 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 23:59 编辑

第六課    日本人の契約観
近代市民社会においては『契約は守れねはならない。』ということが、最も大切な常識の一つとされている。しかし、これは、外から押し付けられていやいやながら守る、といった性質の野茂のではない。契約を守ることは、外ならぬ自らの自由を守ることなのでもある。そのルールは自分の意思で作ったルールであるから、自分でそれを破るのは、自らの首を絞めるに等らしいとされる。また、自らが契約を破ることは、相手方の恣意に脅かされる運命を自らの手で作りだすことでもある。自らがルールが守ることによってのみ、相手方がもしルールを破ったら、その違反を追求し、ルールに従った権利を主張することができるのである。
 こうしてみれば、契約をおいて、拘束と自由とは盾の両面である事が分かるであろう。逆に、拘束のない自由などというものはあるはずがない。近代市民法の打ち立てた『契約は拘束する。』という命題こそは、封建的に恣意に対する資本主義的自由の耀かしい勝利の道標である。そして、『契約は守れねばならない。』というこの常識の中に、資本主義社会における自由の根本的問題を解く鍵が秘められている。
 さて、しかしながら、契約の拘束と自由との関係についてのこのような市民法的常識は、日本社会において自明な常識であるかどうかは疑わしい。当事者が自らの意思を拘束するか客観的ルールを定立して、其れに服することによってお互いに自由を保障するという契約観は、明治以降の日本の社会において十分にはぐぐまれたとはいい難しい。それどころが、形は契約の形をとっていっても、中身は当事者の一方の主観的意思が貫くようにで着ているという関係は、戦前の日本社会においてはむしる通常をことに属した。
 たとえば、借家においては、契約期間が決まっておらず、契約書も交わされないという状態が、よく見受けられた。中には、お丁寧に借家人から『貴殿御入用のときはいつでも立ち退きます。』という一札を取っていた家主もすこなくなかった。ここにも、家主の意思を拘束する客観的意思が恣意的にルールはなかった。この関係は、家主の一方的主観的意思が恣意的に貫かれる関係であり、借家人の運命は家主の気持ち一つによって左右されるという具合だった。
 このような関係が、戦後、市民法的常識が普及するにつれ手かなり改善されてきていることは、事実である、しかし、それにもかかわらず、今日なお、拘束によって自由を保障するという契約観は、必ずしも皆の物となってはいない。家屋や土地の紛争で私のところに相談に来る例を見ても、そのほとんどの場合が、驚くことに、契約書を取り交わしてはいない。現在は法律によって、借地人や借家人の地位をある程度保護しているから、昔のように彼らが簡単に追出されることはないけれども、法律で保障していない点は、全く当事者の恣意で左右されたしまう。
 家主や土地の側にしても、『ちょっと間、と言うので口約束で貸したどころだ。返してくれと言っても返してくれない。どうしたらよいか。』と質問してくる場合が非常に多い。第一、契約書がなければ、ちょっと間の契約であったかどうかを証拠つけることさえも難しいであろう。どんな場合にも、後になって水掛け論にならないように具体的証拠を残しておく、と言う法、まだ、確立していないように思われる。
よく言えば、日本人は人が良くて相手を信用し過ぎるということかもしれないし、悪く言えば、物事のけじめをはっきりつけないでルーズであるということがかもしれない。特に肉親とか、友人とかの間になると、つい気を許して、いつ相ルーズになりがちなものである。私のところへ相談に来る例でも、『弟2貸してやったので、まさかこんなことになるとも思わず、契約書も取らなかった。』とか、『知っている人の紹介で、信用の置ける話だったので、口約束で済ませた。とかの例が多い。
しかし、契約関係に入るときに、あらかじめ紛争が起きることを予定しているわけではない、あらかじめ紛争が予見できるくらいならば、そのような契約はもともとと結ばなかったであろう。つまり、こういうことである。契約を結ぶと言うことは、それ自体、常に相手方を信用することであり、「まさかそんなことはない」とおもうことなのである。そして、まさに権利の行使が問題になるときは、常にその『まさか』と言う信用が裏切られたときのことなのでもある。だから、契約条件を明確にさせ、契約書を交わすことは、権利を大切する社会では、しごく当たり前のことである。
私も経験したことがあるが、契約書を作ってくれと言うと、「このおれを、疑っているのが。」とか、『おれがこんなに大丈夫だと言っているのに、信用置けないのか。』とか言って、絡むような前市民法的な、非常識の持ち主がまだいる。ごく常識的に考えて、そんなに約束を文書にして、相手を安心させないのだろうか。文書化を拒否するような人は、客観的ルールに自分を従わせたくないと思っている人であり、そういう人こそ、最も疑うに値すると言わねばなるまい。
客観的ルールの定立が、人間の信用や面子を傷つけるものであるかのごとく受け取る日本人の心理は、人間を善玉悪玉に峻別すると言う封建社会的心理に通ずるものであろう。人間を、初めから本質的に信用の置ける人間と、信用の置けない人間と分かてしまうと言う思考、つまり、人間を一定の状況の中で変化するものとしてとらえない思考が、その根底にある。市民的感覚から言うなら、契約の出発点に当たって、その相手方の人間を疑うかごうかが問題なのではない。そうではない、疑おう思っても疑うことの状況の中に相手方を置くことが問題なのである、客観的ルールの定立にはそういう意味もある。
「また、けいやくはこうそくする。」と言う観念も、私たちの社会ではまだ一般常識化していないように思われる。約束の日が来ても、「まだ一日ぐらいはいいだろう。」とか、契約の内容についても、「少しくらいは大目に見てくれるだろう。」とか、ルーズな気持ちが働きがちである。
約束を守らないと言うことは非常に恥ずべきことである、と言う意識や、約束をした以上どんなにしても責任を持ってこれを守る、と言う意識は、確かにまだ私たちの日常生活の中で極めて弱い。これは、日本社会の根底に触れる問題を含んでいないだろうか。それは、近代日本の最も奥に潜む病根を示すものではないであろうか。
契約を拘束力について意識が低いと言うことは、権利を追求する意識が弱いと湯言うことと、盾の両面を成すものである。契約=客観的ルール定立は、それによって当事者の利益範囲を具体的かつ客観的に画するものである。相手の恣意に脅かされない客観的利益範囲の確定なくして、つまり、どこまでが自分の権利を出張しうる範囲が分からずして、権利を行使するすべもない。日本の社会においては、このような利益範囲の客観化を「水くさい。」とか、「融通が利かない。」とか言って回避する傾向が久しぶり続いてきた。このような傾向は、今日もなお強い力を持っている。利益範囲を明確にすることは、契約当事者が互いに利害の対立する当事者であることを予定しての話である。だれも、たとえば、隣の土地所有者との境界線は明確になっていることのほうが望ましい、というであろう。それならは、同様に、なぜ契約においても、お互いに利益出張の境界線を明確にしておこうとしないのだろうか。
それは、契約を、対立する当事者の関係と見ないで、相手と一心同体の関係として見ると言う共同体的契約観が根強いからである。何も互いが対立する形で利益範囲を出張し合わなくても、その辺のところは適当にしておいて,以心伝心,あるいは相互に譲り合って、適当に処理してゆげはよいではないか。という考えがそれである。しかし、利益範囲が客観的に明確にされていなかったら、紛争において社会的に力の強い者の意思が通るということは、土地の境界線がはっきりしない場合のことを考えれば、すぐ分かる。境界線がはっきりしていて、「ここだ」と指摘してやれば、よぼど厚かましい時間でないかぎり、引っ込むであろう。それがはっきりしていなければ、相手が「ここだ」といて強引に出て来たら、たいてい気の弱い人が負けてしまう。契約内容をはっきりさせない共同体的契約観のしたでは、全くこれと同じことが生ずるだから、このような契約観は、社会的に実力を持つ者にとって極めて都合よい契約観なのである。本来、近代的契約観は、共同体的契約観を排除して、社会的弱者に客観的ルールに基づく権利主張の根拠を与える目的で出て来たものである。ところが、市民法的常識で排除されたはずの共同体的契約観が温存されている。社会では、権利の主張と契約の拘束力とが結び付けない。
かくて、契約の拘束力が弱いという事実は、権利を尊重されないという日本社会で致命的事実に起因するように思われる。近代的契約観の下では、契約力の高さは当事者の自由の強さを示すものである。自らの自由と権利を守るためにこそ契約を守る必要があるとすれば、当事者は外から強制を待たずして、自由的にそれを守ろうとする積極的意欲に燃える。しかし、共同体的契約観の下では、契約は、自由と権利の慎重を阻むものに過ぎない。社会的強者の恣意を排除するための客観的ルールの定立、という目的を見失った契約というものに、社会的弱者たる当事者が魅力を感じる道理はない。どうして、そのような契約を守るに値するものえありえよう。この場合には「契約を守られねばならない。」というスローガンは社会的強者の支配の具に堕している。だから、社会的弱者の目にとって、契約は、主体的に守るのものではなく、外から強制されてしぶしぶ守るものであるとしか映じない。
また、社会的強者にとっても、契約は、実は自らの意思を拘束する客観的ルールではありえない。むしろ、契約のない内容などというものは、自分の意思次代で同にでも変えることのできるものだ、というくらいのルーズな考えしかない。「地主がほすれば、いつでも土地を取り上げます。」というようなことが書いてある契約を地主が守るということは、明らかに無意味である。契約は地主の意思を拘束するものではなく、地主の意思=恣意を覆い隠すいちじくの葉に過ぎない。自らの意思を制限し、拘束するもののとしての客観的ルールに服するという主体的あり方は、ここからは出て来ない。
かくて、共同体的契約観の下において、真の意味で「契約は拘束する。」という市民法的意識は、社会的弱者の側からも、社会的強者の側からも、自主的に生まれは来ない。契約は守らねばならないという市民法的常識を私たちのものとするためには、このような共同体的契約観を日常諸生活の中で徹底的に駆逐してゆかなければならない。そのために大切なことは、「約束をまもりなさい。」などと、抽象的に説教したりすることではもちろんない。約束を守ることが自分の利益を守ることであるということを、人は現実の生活における経験を通じてのみ学んでゆくであろう。もし、約束を守ることいよって、隷属と不自由しかないことを経験するなら、人は決して主体的に契約を守る意思を持つ者ではありえない。
この意味で、約束を守るという常識が普及するがどうかは、所詮は道聴が教育の問題ではない。もちろんその力のある。しかし、根本的には、現実の社会生活の中での契約の構造いかんに懸かっている。契約の構造や機能が社会強者の恣意を拘束し、社会的弱者の権利と自由を保障するものとなる、」という常識が浸透するである。
(渡辺洋三「法というものの考え方」による)

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 楼主| 发表于 2013-4-16 16:59:15 | 显示全部楼层
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 23:59 编辑

第七課  伊良湖岬
 伊良湖岬の一番美しいシズーンは、いつであろうか。
 人それぞれの好みによって違ってくるがろうが、私は風速二十メートルから三十メートルの北西風、いわゆる伊吹おろしが吹き荒れる冬に推したい。
 そういう日伊良湖岬燈台のしたにたっていると、観光客など一人もおらず、灰色の雲が白いきばをむいた伊良湖水道すれすれに疾走してくると同時に、巌に生やすみなく荒れた波がふっかって砕け散り、そのしぶきが冷たく降りかかる。時おりかもめかうみねこか、海鳥が苦しげに呼びながら、風に逆らって向かいの神島へ飛ぼうとするが、烈風にふきもどされる。うす暗く、凍るように寒く、たけり狂う風と波とだけに対していると、なるほどここは岬の先端、大地の果てにいるという壮絶な孤独感に包まれる。
その次にすばらしいのは、八月中旬太平洋の沖に次々とは発生、発達する台風の影響で、土用波の立つときであるう。
このときは燈台よりも恋路ヶ浜か、日出から東に連れなる片浜十三里を見渡せる場所に立つのがよい。四メートル五、六メートルの大波がすごい地響きととにもあわぶきながら、大地に自らをたたきつける。白いあわが砂浜にシーツを広げたように広がって、すぐ引いてゆく暇もなく、次の大波が崩れ落ちてくる。
波のほうを見ると、次から次に新しい波が生まれて、先にゆく波を追って来る。ニューギニアからオーストラリアまでこういう大波が続いているに違いない。その限りなく押し寄せて砕けるとどろきは、腹の低まで響いて、太平洋が生き物であることをつくづく感じされてくれる。
しかし風と波とが荒れ狂う日はあまり多くはない。穏かに凪いだときも、伊良湖の海は悪くないものだ。伊良湖岬だけでなく、渥美半島全体に春はどこよりも早く訪ねる。
初めに述べてような、伊吹おろしもたいていに、三日吹く荒れるとひたっと止まるのが常で、この風さえ凪げば、一月大寒の最中でも、うらうらと日が照って、波を流れる黒潮もほかほか湯気を立てているように暖かく見える。温室には電照菊が咲き乱れ、三百グラムから五百グラムもある先のどがったファーストートマトが真っ赤にいるづいている、
元禄の昔芭蕉が、罪を得て名古屋から伊良湖岬の近く保美の里に流れされた門人の杜国をは訪れ、共に伊良湖岬に遊んで。
鷹一つ見付けてうれしいらご崎。
と詠んだのは、こういう風の凪いだ日だったに違いない。
春三月ともなって、さしも冬旬荒れ狂っていた北西風はひたり止ってしまうころ、伊良湖燈台あたりの海でわかめとりが始まる。村じゅう男も女も子供一斉に出て、春の潮とはいえ、まだ冷たい波のしぶきに濡れながら、水中の岩礁に伸びている新わかめを刈り競うさまを見ていると、万葉の昔、
うちせみの命を押見波に濡れ伊良湖の島の玉藻借り食むと歌った麻族王もその中に混じっているのではないかと思われる。
だか、このかわり刈り心から、あれほど怒りっぽかった海はいっぺんに期限よく、とろりとしてしまって「ひねますのたりのたりかな。」に変わる。
そして水中にプランクトンが増殖しだしたのであろう、それを餌としているカレイや蟹脂が乗り始める。冬の内海で取れるかれいは猫またきどいって、猫さえ食べようとしないほどまずいものだが、潮がぬるむと、こよない美味なるのである。
これから十月まで、伊良湖あたりの海の魚は実にうまい、一時へ減びそうになっていた来るまえびも、このごろには少しずつ増えているし、夏場に海で取れるような儀も、脂でこってりしている。
その夏の伊良湖は、威勢湾に今はいくつも残っていない海水浴場の一つで、しかもどこより水質がよいために、どっと人と車と押し寄せて、観光公害気味である。
七月下旬から八月中旬まで土曜日の午後から日曜日の午後にかけて、豊橋から伊良湖岬に至る約五十キロの2筋の町道はほとんど麻痺状態で、平生一時間半足らずのところが、三、四時間もかかる。しかし土曜日の夜半から明け方まで休みなく車がうなって走って、道沿いに家ではとてもねむれない。どの車も夜明け前に伊良湖に到着しようとしているのである。
海水浴シズーンは温室メロンの出盛んだ。冬の間菊の花を咲かせていた総面積六十万坪余りの温室とフレームとの大半に、夏作としてマスクメロンが栽培されているが、都会の百貨店や八百屋のメロンに付いている値札から想像も付かぬほど安い値で出荷される。
そんな住民を悩ます海水浴シーズンが終わると、伊良湖岬にも秋風が立ち、とんぼの群れがすいすい空中を流れるようになる。なんとなく白っぽく見える海の色も悪くないものだ。
伊良湖岬は最近台風に銀座といわれるほど台風の通り道になったが、九月に入れば、菊の苗を植えた、数千棟の温室には人っ子一人いないのに、電灯だけがこうこうとついているのは、おどき話の眠りの白に入って来たようにかえって、薄気味悪く感じられる。
この温室の明かりは十月から次々に消されていって十二月末にはもとの暗い夜空となるが、このころにはまた寒い伊吹おろしかい威勢湾をまっしくぐらに突っ走って、厳しい冬が訪ねるのだ。
いくつかの台風が通過ぎし、やがて伊吹おろしの吹き荒れるまで、しばしのどかな秋日よりが続くの見計らって、ある早朝、伊良湖の山山から数千羽の鷹が一斉に飛び立つ。鷹の渡りだが、観光客の少しない季節のころだし、一日か二日の間に渡りは終わるので、この壮観を見た人少しないが、伊良湖岬は今も鷹の通り道なのである。
      

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