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平家物語~六巻のあらすじ

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发表于 2005-1-8 19:46:18 | 显示全部楼层 |阅读模式
  巻  第  一



祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 秦の趙高(ちょうこう)、漢の王莽(おうもう)、梁の周伊(しゅい)、唐の禄山(ろくさん-安禄山)らも旧主先皇の政治に従わず、楽しみをきわめ諫言も聞かず、天下の乱れも知らず、民肖螒nいも顧みないので亡びてしまった。

 我が国でも、承平の平将門、天慶の藤原純友(すみとも)、康和の源義親(よしちか)、平治の藤原信頼(のぶより)、これらもまもなく亡びてしまった。

 最近では、六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公という人の有様を聞くと、言葉にできないほどだ。

 その先祖は桓武天皇の第五の皇子。一品式部卿葛原(かずらはら)親王の九代の子孫にあたる讃岐守正盛(さぬきのかみまさもり)の子孫であり、刑部卿忠盛(ただもり)朝臣の嫡男である。かの親王の子、高視王(たかみおう)は無官無位でした。その子高望王(たかもちおう)のとき初めて平の姓を賜って上総介になりましたが、すぐ皇族をはなれて人臣に連なった。その子の鎮守府将軍良望(よしもち。後に国香(くにか)と名を改めた。)から正盛までの六代の間は、諸国の受領であったが、宮中に昇殿を許されなかった。




殿上闇討(てんじょうのやみうち)

 忠盛が、まだ備前守だったとき鳥羽院の御願寺の得長寿院(とくちょうじゅいん)を造営して差し上げ、三十三間の御堂を建て一千一体の御仏を納めた。供養は天承元年三月十三日です。褒賞として但馬国の国守が空いていたので、それをもらった。鳥羽上皇は、なお、ご感心のあまり内裏の清涼殿の昇殿を許しました。こうして忠盛は三十六歳で初めて昇殿した。

 公卿・殿上人たちはこれを妬んで同年十一月二十三日五節豊(ごせつとよ)の明の節会の夜、忠盛を闇討にしようと計画をたてた。この事を伝え聞いた忠盛は、「武勇の家に生まれて、不慮の恥にあうことは我が身のため、家のためにも残念なことだ。身を全うして君に仕えるという本文もある。」と用意をしていった。

 まず大きな鞘巻(さやまき)を用意して抜いてみせたりした。また、左兵衛尉家貞(いえさだ)という者を護衛につけた。そのためかこの夜の闇討はなかった。

 忠盛が御前に召されて舞を舞ったとき、人々は「伊勢平氏はすがめなりけり」とはやした。忠盛はどうにもしょうがなくて御遊も終わらぬうちに退出しようとした。その時に紫宸殿(ししんでん)の後で側の殿上人が見ているところで主殿司(とのもづかさ)を呼び、刀をあずけて退出した。

 待っていた家貞が「いかがでしたか。」と聞いたが、うっかりしたことを言うと殿上までも斬り上がろうとする者なので、「特別のことはなかった。」と答えた。

 五節の節会が終わったあと、殿上人たちが口を揃えて「忠盛は武士を殿上の小庭に召しておき、刀を持って節会の座に列席している。けしからぬことなので、くびにすべきだ。」と、訴えでたので、鳥羽上皇は驚いて忠盛にたずねた。忠盛は「家来が殿上の小庭に来ていたのは知らなかった。しかし、人々が何か計略しているとかいうことなので、それを伝え聞いた家来がこっそり来ていたとしたら、いたしかたのない事だ。刀は主殿司に預けておいたので、それを調べてほしい。」といった。刀は木刀に銀箔を貼り付けた物であった。

 「当座の恥辱をのがれるため刀を帯びているように見せ、後日訴訟がある事を考えて木刀にしていたという用意の深さは感心だ。家来の件は武士の家来の常の事である。忠盛の罪ではない。」といって、かえってお褒めにあずかったので、特に罪科に処するというような事はなかった。





鱸(すずき)

 忠盛の子は諸衛の佐(しょえのすけ)になった。そして昇殿したが、もう殿上の人が交際を嫌うことはなかった。

 鳥羽院の御所に忠盛の最愛の女房がいた。その女房は薩摩守忠度(ただのり)の母である。

 忠盛は刑部卿になって、仁平(にんぺい)三年正月十五日に五十八歳で死んだ。
 清盛は嫡男で跡を継いだ。保元元年七月に宇治左大臣頼長(よりなが)が世を乱したとき安芸守として勲功があったので播磨守に移って太宰大弐(だざいのだいに)になった。 平治元年十二月、藤原信頼(のぶより)卿が址搐颏长筏郡趣を平らげ重く恩賞を与えられて、翌年、正三位、参議、衛府督(えふのかみ)、検非違使別当、中納言、大納言、そして左右の大臣を経ないで、内大臣から太政大臣、従一位に上がった。
 平家がこのように栄えたのも熊野権現のご利益ということであった。
 清盛が安芸守だったころ伊勢から熊野へ船で参詣したとき、大きな鱸が船の中に躍り込んできた。先導の修験者がいうには「これは権現の御利生なり。いそぎ参るべし」と言ったので、清盛は「昔、周の武王の船にこそ、白魚は躍り入りたりけるなれ。是吉事なり」と家の子、侍たちに食べさせた。以後、吉事が続いた。





禿髪(かぶろ)

 清盛は、仁安三年十一月十一日五十一歳で病気にかかり、存命のために出家した。法名を浄海という。そのため、病気が治って天寿を全うした。
 人が従いつくことは風が草木をなびかすようであった。入道相国のこじゅうと平大納言時忠卿の言うには、「この一門にあらざむ人は、みな人でなしあろう。」と言った。

 清盛の勢い盛んなころは少しも悪口を言うものが無かった。そのわけは、入道相国のはかりごととして十四・五・六の童部(わらんべ)を三百人そろえて髪の回りを切り垂らし赤い直垂を着せて召し使っていて、京都中を往来させていた。
 平家を悪く言うものがいると、仲間でその家に乱入し家財道具を没収し、その男を縛り上げて六波羅につれてくる。
 そのため、平家の横暴を口に出して言うものはいなかった。





吾身栄花(わがみのえいが)

 一門共に繁栄し、嫡子重盛(しげもり)は内大臣で左大将、次男宗盛(むねもり)は中納言で右大将、三男知盛は三位の中将、嫡孫維盛は四位の少将。全部で一門の公卿は十六人。殿上人は三十余人。諸国の受領、衛府の役人、諸官など総計六十余人に及んだ。

 八人の娘は、
 一人は、花山院の左大臣殿の奥方。
 一人は、高倉天皇の后。皇子が皇太子となり即位したので院号をうけ、建礼門院(けんれいもんいん)となる。
 一人は、六条の摂政殿の北の政所。高倉院が在位のとき、養母として准三后の宣旨をこうむり白河殿として重んぜられた。
 一人は、普賢寺殿(ふげんじどの)の北の政所。
 一人は、冷泉大納言隆房(たかふさ)卿の北の方。
 一人は、七条修理大夫信隆(のぶたか)卿に連れそった。
 一人は、安芸の厳島神社の内侍から生まれた娘で、後白河法皇のもとで女御。
 一人は、九条院の雑仕、常葉の娘で、花山院殿の上臈女房で廊の御方(ろうのおかた)といった。





祇王(ぎおう)

 入道相国は人のあざけりも心にかけずに、わがまま勝手ばかりしていた。
 祇王・祇女・仏御前の秘話。





二代后(にだいのきさき)

 故近衛院の后で大皇太后宮(たいこうたいこうぐう)は、近衛天皇に先立たれてしまった後は、内裏を出て近衛河原の御所に移りすんでいた。とても美人だったので二条天皇は入内するようにと右大臣家に宣旨を出した。公卿も後白河上皇もよくないことだと諭したが聞き入れず、入内の日を定めて宣下してしまった。
 大宮はいやいやながらも、しかたなく入内した。





額打論(がくうちろん)
 永万(えいまん)元年春頃から、二条天皇病気のうわさが立ったが夏の初めに重体になってしまった。
 このため、大蔵大輔伊吉兼盛(いきのかねもり)の娘の皇子に親王の宣旨が下されて、その夜、天皇の位についた。
 同年七月二十七日、二条天皇崩御。二十三歳。その夜香隆寺の北東、蓮台野の奥の船岡山に遺体を納めた。葬送のとき延暦・興福の両寺の型饯~打論ということを始めて乱暴をはたらいた。
 天子の遺体を御墓所に移す作法には、奈良と京都の型饯长趣搐趣─颏筏颇顾沃車欷俗苑证嗡陇晤~を掛けるということがある。先ず東大寺、次に興福寺、次に延暦寺、次に園城寺の額をかけるのが例である。
 ところが延暦寺の型饯韦蛩激盲郡⑴d福寺より先に延暦寺を掛けてしまった。奈良の型饯嗓Δ筏瑜Δ嗾劋筏皮い毪Δ沥恕⑴d福寺の西金堂の型饯斡Q音房・勢至房という僧が、延暦寺の額を切り落としさんざんに打ち割ってしまった。





清水寺炎上(きよみずでらえんしょう)
 同じ七月二十九日の正午頃、延暦寺の型饯髣菥┒激私丹辘皮毪趣韦Δ铯丹郡盲俊N涫
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 楼主| 发表于 2005-1-8 19:47:11 | 显示全部楼层
巻  第  二



座主流(ざすながし)

 安元三(治承元)年五月五日、天台座主明雲(めいうん)大僧正は朝廷の法会・講論への出席を止められた。今回御輿を内裏へ振り上げた張本人としてである。
 法王が大変怒ったのは、「加賀国に天台座主の寺領があり、国司師高がこれを廃止したので、これを恨んで訴訟を起こしたのだ。」と西光法師父子が讒奏したためである。
 明雲は印と鎰を朝廷に返し天台座主を辞職した。
 同十一日、鳥羽院第七皇子覚快(かくかい)法親王、天台座主となる。
 同十八日、罪科の評定を行い遠流に決定。
 同二十一日、配所を伊豆国に決定。
 同二十三日、遠流を実施。
 比叡山の型饯锨按绰劋巫鳏瘟髯铯思{得いかず、みな東坂本におりた。





一行阿闍梨之沙汰(いちぎょうあじゃりのさた)

 十禅寺権現の前で型饯匣嶙hを開いた。
 「我々で座主を奪い返そう。しかし、役人たちがいるので容易ではない。山王大師のお力に頼るしかない。無事取り戻すことができるなら、まずめでたいしるしを見せてください。」と型饯郡沥掀恧盲俊
 すると、無動寺の法師亙衣蓭煠握伽肥工ν鞘藲rになる鶴丸という者に十禅寺権現が仱辘Δ膜辍ⅰ改┐趣い盲皮狻ⅳ嗓Δ筏皮铯葏鄙饯巫鳏蛩丐Δ膜筏皮瑜い猡韦!工绕筏螭馈
 型饯悉长欷蚬证筏螭恰⒗仙
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 楼主| 发表于 2005-1-8 19:48:04 | 显示全部楼层
巻  第  三



赦文(ゆるしぶみ)

 治承二年正月七日、東の空に彗星が出た。
 入道相国の娘、建礼門院(そのころは中宮)が懐妊したが具合がよくない。
 もののけが取付いていたと言うことだ。正体の霊は、讃岐院宇治悪左大臣頼長、新大納言成親、西光法師、鬼界が島の人々の生霊。
 太政入道は死霊も生霊もなだめられるべきだと、讃岐院には追号崇徳天皇。宇治悪左府には正一位を贈った。
 小松殿は「中宮の苦しむことは成親卿の死霊のためなどと聞いています。それをなだめるためにも丹波少将を召し返すのがよろしいでしょう。」と入道相国に言った。「それでは俊寛と康頼法師のことはどうだ。」と入道相国がいうと、「両人とも召し返されるのがよろしいでしょう。」と小松殿は答えたが、入道相国は「俊寛は私が世話をしてやって一人前になった者なのに、けしからんふるまいをするのは許せん。」いうことで、丹波少将と康頼法師だけが許されることとなった。
 入道相国の赦免状を持った使いは七月下旬に出発し、九月二十日ころ島に到着した。





足摺(あしずり)

 使いの円左衛門尉基康が届けた赦免状には、何度確かめても俊寛僧都の名前はなかった。俊寛は舟に仱护皮欷毪瑜Δ死Rり返し懇願したが聞き入れられることはなく、俊寛を残し成経と康頼入道は出発した。





御産(ごさん)

 治承二年十一月十二日、中宮が産気づいたので京・六波羅は大騒ぎであった。法皇、関白、太政大臣、公卿、殿上人は六波羅にくる。神社には奉納する。諸寺はお祈りする。入道相国と二位殿なうろたえる。そして皇子が生まれた。





公卿(くぎょうぞろえ)

 御産に際して六波羅にきた人は三十三人。

 関白松殿(基房)、太政大臣妙音院(師長)、左大臣大炊御門(経宗)、
 右大臣月輪殿(つきわとの)兼実、内大臣小松殿、左大将実定(さねさだ)、
 源大納言定房(さだふさ)、三条大納言実房(さねふさ)、五条大納言邦綱(くにつな)、
 藤大納言実国(さねくに)、按察使資賢(すけかた)、中御門中納言宗家(むねいえ)、
 花山院中納言兼雅(かねまさ)、源中納言雅頼、権中納言実綱(さねつな)、
 藤中納言資長(すけなが)、池中納言頼盛(よりもり)、左衛門督時忠、
 検非違使の別当忠親(ただちか)、左の宰相中将実家(さねいえ)、右の宰相中将実宗(さねむね)、
 新宰相中将通親(みちちか)、平宰相教盛(のりもり)、六角宰相家通(いえみち)、
 堀河宰相頼定(よりさだ)、左大弁宰相長方(ながかた)、右大弁三位俊経(としつね)、
 左兵衛督成範(しげのり)、右兵衛督光能(みつよし)、皇太后宮大夫朝方(ともかた)、
 左京大夫脩範(ながのり)、太宰大弐親信(ちかのぶ)、新三位実清(さねきよ)





大塔建立(だいとうこんりゅう)

 平家が厳島を信仰し始めたのはこんな訳がある。
 鳥羽院の代に、まだ安芸守だった清盛が高野山の大塔修理を命じられた。修理が終わって、清盛が大塔に参拝し奥の院に参ると、不思議な老僧が厳島の修理を勧めた。
 その老僧は弘法大師であったかと思い、このことを鳥羽院に奏上すると院も感動し、安芸守の任期を延長し厳島を修理させた。
 修理が終わって終夜参护筏郡趣簸沃肖翘焱扦皮啤赋ⅳ问丐辘趣胜臁工刃¢L刀をくれた。目覚めると机元にその小長刀が立てかけてあった。





頼豪(らいごう)

 白河院が帝位にあった頃、三井寺の頼豪という僧に祈祷をさせて皇子が産まれたが、褒美は思うままにと言っていたけれど、三井寺に戒壇を設けるという願いだったので、かなえられなかった。そして、頼豪は憤死。親王を呪殺したという例をひいて、今回の御産で俊寛僧都が赦されなかったことを嘆く。





少将都帰(しょうしょうみやこがえり)
 治承三年正月下旬、丹波少将成経と平判官康頼は肥前国鹿瀬庄を出発。都へ。
 二月十日頃、備前児島につく。
 三月十六日 鳥羽に着き、洲浜殿に入る。
 洲浜殿をでて都へ。七条河原で成経と康頼は別れた。






有王(ありおう)
 俊寛僧都が召し使っていた童がいた。有王という。鬼界が島の流人が都入りすると聞いて鳥羽まで迎えにいったが俊寛がいない。尋ねると島に残されたというので、有王は鬼界が島に渡ろうと決心した。
 三月末に都を出て、長い船旅に苦労しながら薩摩潟へ下った。そして苦労して俊寛をさがしあてた。







僧都死去(そうずしきょ)
 有王は俊寛の身内のことなどを話し、娘からの手紙を渡した。
 その手紙から、身内が娘以外、皆先立ってしまったことを知った俊寛は、食事もとらずに有王が島に渡ってきて二十三日目に死去した。年三十七歳ということだった。
 有王は京に帰り、僧都の娘に一切を報告した。 娘はすぐさま十二歳で尼になった。有王も法師になり、全国を修業してまわり主人の菩提を弔った。







(つじかぜ)*漢字コードが無いようです。
 治承三年五月十二日正午ごろ、京の内に辻風が激しく吹き、人家が多く倒れた。







医師問答(いしもんどう)
 小松の大臣(内大臣重盛)が熊野に参詣することがあった。一晩中祈ったことは「父の入道相国は、私が至らぬ為に諫言に従わない。栄華が父一代限りで終わるのなら、重盛の命を縮めて来世の苦しみを助けてください。」
 熊野から帰って何日もたたぬうち、重盛は病気になった。熊野権現が願いを聞き入れてくれたに違いないと治療もしない。心配した入道相国は、越中守盛俊を使者にして治療を受けるようにすすめたが、その返事は諫言であった。
 治承三年七月二十八日 小松殿出家。法名浄連。八月一日死去。四十三歳。







無文(むもん)
 小松大臣にはこんなことがあった。
 嫡子権亮少将維盛に、葬儀に使う無文の太刀を与えたことがあった。前もって悟っておられたのだろうか。







灯炉之沙汰(とうろのさた)
 大臣重盛は信仰心があつかった。
 来世での幸不幸を心配して、東山のふもとに阿弥陀四十八願になぞらえて四十八間の御堂を建て、一間に一つずつ四十八の灯护颏堡俊H摔悉长稳摔虻苹大臣と呼んだ。







金渡(かねわたし)
 また大臣は三千両を宋へ撙螭轻崾坤驈tってもらえるようにしていた。







法印問答(ほういんもんどう)
 治承三年十一月七日夜八時頃、地震があった。陰陽頭安倍泰親(やすちか)は緊急のことを不安がった。
 同月十四日、入道相国が何千騎という軍勢で都に入るとの噂がたち、関白も天皇も不安がった。
 同十五日、入道相国が朝廷をうらむとのうわさが立ったので、法皇は驚いて故小納言入道信西の子息静憲法印を入道相国に派遣した。
 入道相国がいうには「内大臣重盛ほどの忠臣が亡くなっても法皇が嘆いている様子が無い。中納言の欠員人事について、中納言の欠員があったとき二位中将(基通)が希望したのを入道がとりなしたのに、どうして関白の子息(師家)を中納言にしたのか。」
 法印は「官位・棒禄はあなたには満ち足りている。天の心は深く広くて測りにくい。法皇の心も然り。臣として君に逆らうのは人臣の礼から外れる。だからよく考えるべきだろう。あなたの意見は君にご披露いたしましょう。」といって退出した。
 人々は法印の堂々とした物言いをほめた。







大臣流罪(だいしんるざい)
 十一月十六日、入道相国は関白基房、太政大臣師長以下、公卿・殿上人四十三人の官職を停止し追放した。
 関白殿を大宰師(だざいのそつ)にして九州に左遷。しかし関白殿は鳥羽の辺りの古河というところで出家。流罪の人が途中で出家したときは予定された国にはやらぬことになっているので、備前国府の辺、井ばさまという所にとどめる。
 二位中将基通(もとみち)は入道の婿だったので、大臣関白になった。非参議・二位中将から中納言・大納言を経ないで大臣関白になることは、まだ聞いたことがないと除目の事務にあたった上卿の宰相から大外記、大夫史に至るまでみな呆然とした。
 大政大臣師長は東国の方へ流される。
 按察大納言資賢の子息右近衛少将兼讃岐守源資時は両方の官職停止。参議・皇太后宮権大夫兼右兵衛督藤原光能(みつよし)、大蔵卿・右京大夫兼伊予守高階泰経(やすつね)、蔵人・左少弁兼中宮権大進藤原基親は三つの官職停止。按察大納言資賢、子息右近衛少将、孫右少将雅賢(まさかた)三人を都より追放。






行隆之沙汰(ゆきたかのさた)
 前関白松殿(基房)の侍、江大夫判官遠成という者がいた。この人も平家が良く思っていなかった人なので、今にも逮捕されるだろうという評判だった。遠成は、子息江左衛門尉家成を連れて落ちていったが、稲荷山に登り親子で言い合わせたことは「伊豆の流人、前右兵衛佐頼朝を頼ろうと思うが、あの人も勅勘を受けている身。どうせ逃れられないのなら、帰って六波羅からのお召しがあったら腹を切ろう。」 そして、川原坂の宿所に引き返した。
 思ったとおり六波羅より武装した兵が三百余騎、川原坂の宿所に押し寄せたので、館に火をかけ切腹した。

 前左少弁行隆という人。この十余年、官を止められほそぼそと暮らしていたが、太政入道清盛から呼ばれ、官職に戻った。荘園などももらった。






法皇被流(ほうおうながされ)
 十一月二十日、院の御所法住寺殿を軍兵が取り囲んだ。
 前右大将宗盛が法皇に鳥羽殿への御幸を奏した。法皇は供の公卿・殿上人もなく鳥羽殿に入った。静憲法印があとから供に行った。






城南之離宮(じょうなんのりきゅう)
 高倉天皇から鳥羽院にひそかに手紙があった。「このような世には宮中にいても何になりましょうか。いっそ出家遁世でもしたいものです。」
 法皇の返事には「そうして帝位についていることこそ一つの頼みであります。この世を捨ててしまわれたら何の頼みがありましょう。私がどうにかなるさまを聞いていてください。」と書いたので、いっそう深く悲しんだ。
 十一月二十三日、天台座主覚快法親王が辞退するので、前座主明雲大僧正が復職した。

 入道相国は、政務は主上の意向通りにするようにいって福原に下った。このことを前右大将宗盛が主上に奏聞すると、主上は「摂政関白と相談して、宗盛がなんとでもとりはからえ。」といって、とりあわなかった。
 法皇は城南の離宮で失意の日々を送っていた。
 治承四年になった。


* 巻 第 三   終 *
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 楼主| 发表于 2005-1-8 19:49:58 | 显示全部楼层
巻  第  四




厳島御幸(いつくしまごこう)

 治承四年二月二十一日、高倉天皇譲位。
 東宮が践祚(安徳天皇)三歳。入道相国が万事思うとおりにしたことである。これで入道相国夫妻は外祖父・外祖母となる。
 三月十七日、高倉上皇厳島御幸。後白河法皇が鳥羽殿にいつまでもおしこめられているのをとりなそうというため。





還御

 高倉上皇、三月二十六日、厳島到着。二十九日、帰路へ。
 治承四年四月二十二日、新帝紫辰殿で即位。





源氏揃(げんじそろえ)

 後白河院に第二皇子、以仁王(高倉の宮)に源三位入道頼政が址搐騽幛幛俊!袱猡筏粗反を思い立たれて令旨をお下しになるのでしたら、馳せ参ずる源氏は多くおります。」と数々の名前を挙げた。
 「京都には、伊賀守光基(みつもと)、出羽判官光長(みつなが)、出羽蔵人光重(みつしげ)、出羽冠者光能(みつよし)、 熊野には、故六条判官為義(ためよし)の末子十郎義盛(よしもり)、摂津国には多田蔵人行綱の弟、多田二郎朝実(ともざね)、手島の冠者高頼(たかより)、太田太郎頼基(よりもと)、河内国武蔵権守入道義基(よしもと)子息石河判官義兼(よしかね)、大和国宇野七朗親治の子ども太郎有治(ありはる)二郎清治(きよはる)、三郎成治(なりはる)、四郎義治(よしはる)、近江国山本、柏木、骞爬铮à摔筏搐辏⒚罎
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 楼主| 发表于 2005-1-8 19:51:03 | 显示全部楼层
巻  第  六




新院崩御(しんいんほうぎょ)

 一昨年の後白河法皇が鳥羽へ押し込められたり、昨年高倉宮が討たれたり、都遷りの心労などから病気にかかり、東大寺・興福寺が焼けるにいたって、ついに高倉上皇 治承五年一月十四日、六波羅にて崩御。二十一歳。





紅葉(こうよう)

 高倉上皇は、すぐれて優雅で人望があった。
 十歳のころ気に入りの紅葉を掃除の者が燃やしてしまったことがあったが、叱らなかったし、主人に装束を届ける途中に、それを盗られてしまった少女に代りの衣を与えたりした。





葵前(あおいのまえ)

 院は女房付きの少女葵前を側に召したが、うわさがたったのでその後召さなくなってしまった。
 院が書いた、

     しのぶれどいろに出にけりわがこひは
          ものや思ふと人のとふまで


 という手習いの歌を冷泉少将隆房が葵前に与えると病に臥し、5・6日で死んでしまった。





小督(こごう)

 中宮(建礼門院)は恋慕の思いに沈んでいる院に、小督という女房を差し上げた。ところが小督は冷泉大納言隆房と恋仲であった。これを知った清盛は憤慨し、小督を追放しようとした。これを知った小督は行方不明に。しかし、清盛は小督をとらえ尼にして追放した。





廻文(めぐらしぶみ)

 入道相国は、こういった無情の振る舞いをしたことを恐ろしいと思ったか、後白河法皇に安芸の厳島の内侍が生んだ娘を差し上げた。高倉上皇が亡くなって二十七日もすぎないのにこんなことは良くないと人々はささやきあった。
 そのころ信濃国に木曾冠者義仲という源氏がいるといううわさが伝わってきた。彼は父の帯刀先生義賢(よしかた)が鎌倉の悪源太義平に討たれたとき二歳で木曾中三兼遠(かねとお)にあづけられた。
 義仲はある日守役の兼遠に「兵衛佐頼朝はもう址搐颏长烽v東八ヶ国を従えて東海道をのぼっている。私も東山、北陸両道を従えて平家を攻め落とし、日本国で二人の将軍といわれたいものだ。」と言った。
 中三兼遠は喜び、すぐさま址搐蚱螭皮俊<孢hはまず廻状を回し、信濃国根井の小弥太、海野の幸親(ゆきちか)はじめ信濃国中の武士を味方にした。上野国では故帯刀先生義賢の縁故で多胡郡の武士がみな従属した。





飛脚到来(ひきゃくとうらい)

 入道相国は越後国の住人城太郎助長(すけなが)を越後守に任じた。木曾を追討させるためである。
 治承五年二月九日 河内国石河郡の武蔵権守入道義基(よしもと)子息、石河判官代義兼(よしかね)が頼朝につきそうだったので、討手を派遣した。大将には源大夫判官季貞(すえさだ)、摂津判官盛澄(もりずみ)。
 多勢に無勢義基は討死。義兼は重傷を負ってとらえられた。
 同月十二日、九州からの飛脚は九州の緒方三郎、臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦(まつら)覚ことごとく源氏についたとしらせた。
 同月十四日、伊予国からの飛脚は四国のものすべて源氏についたと知らせた。





入道死去(にゅうどうしきょ)

 治承五年二月二十八日、清盛発病。高熱の為近くにもよれず。
 頼朝の首を墓前にかけよと言い残し、閏二月四日死去。





築島(つきしま)

 葬送の夜は変なことが多くあった。
 西八条殿が放火で焼け落ちた。
 後白河法皇の法住寺殿で二・三十人の酔っ払いが騒いだ。





慈心房(じしんぼう)

 清盛公は慈恵僧上の生まれかわりとの話。





祇園女御(ぎおんにょうご)

 いやいや、本当は白河院の皇子だとの話。





嗄声(しわがれごえ)

 城太郎助長、木曾追討に治承五年六月十五日門出、十六日午前六時発立しようとした。 前十五日の夜中、大きなしゃがれ声が「仏を焼いた平家の味方を召し捕れ」ひびいた。かまわず十六日出立しようとしたが、助長は頓死してしまった。
 同年七月十四日改元 養和に。





横田河原合戦(よこたがわらのかっせん)

 養和二年五月二十四日改元 寿永に。
 同年九月二日、城四郎長茂は越後・出羽・会津四郡の軍兵を引率して、軍勢四万騎で木曾追討に信濃国へと出発した。
 同月九日横田河原に布陣した。依田城にいた木曾義仲は三千騎で城を出た。
 信濃源氏井上九朗光盛(みつもり)の計略で、三千騎を七手に分けあちこちから赤旗を上げて押し寄せた。城四郎が平家の味方と安心したところへ、七手を一つにして急に源氏の白旗をあげ、越後の軍勢が慌てたところを攻め落とした。
 同月十六日、平家はこういった敗戦も気にせず、華やかにくらしていた。





* 巻 第 六   終 *
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 楼主| 发表于 2005-1-8 19:53:17 | 显示全部楼层
至于原文……偶手上只有高野本的,想要得给偶一个大一点的邮箱地址
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发表于 2005-1-12 12:24:44 | 显示全部楼层
楼主辛苦了,可不可给偶发一份?
偶的邮箱地址是 sunling_@163.com
谢谢!
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发表于 2005-1-29 13:13:23 | 显示全部楼层
谢谢楼主了。我可以也要一份吗?
我的地址是。

otherstone@sohu.com
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 楼主| 发表于 2005-1-29 13:26:50 | 显示全部楼层
恩,楼上的可以去这里下载http://www.j-texts.com/
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发表于 2005-1-29 14:34:42 | 显示全部楼层
提示: 作者被禁止或删除 内容自动屏蔽
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发表于 2005-6-14 19:56:53 | 显示全部楼层
谢谢楼主,请给我发一份boleynchen2008@yahoo.com.cn
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发表于 2005-6-16 10:33:34 | 显示全部楼层
ありがとう、私もほしいですけど、くださいませんか
zhangqin1217@126.com
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发表于 2005-7-2 10:17:16 | 显示全部楼层
平家物語の冒頭が大好き!!!
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