運命を拓く ―天風瞑想録
真理瞑想行について
真理瞑想行とは、人生に対する自覚と反省とをうながし、現在ある命をよりよく有意義に活かすのに必要な基礎的考えを、正確に作り上げることを目的としている。
所谓的真理冥想就是以促使对人生的自觉和反省,以有效发挥有意义生命为必要基础而正确完成为目的的。
心身統一方の根本原則の中で、最も重要なことは、こころを絶対的に積極化し、精神態度を本来ありうるべき姿に即応させることである。心を絶対的に積極化するには、その基礎的考えを正しく作り上げることが必要である。そのために、人間の持っている暗示感受習性というものを応用し、独特の教え方で正しい悟りを開かせようとするのである。すなわち、万物の霊長たる人間の真の本領を発揮し、本当に生き甲斐のある人生を生きるのに必要な悟りを開かせるのが、この真理瞑想行の目的である。
身心统一法的根本原则中,最重要的事情就是将心绝对积极化,对应精神状态中本该存在的姿态。完成对于将心积极化的基本思考很必要。因此,要用人的暗示感觉,用独特的传授方法来开悟。总之,发挥万物灵长之人类的真正本领,对活出真正有生存价值的人生开悟是真理冥想的目的。したがって、真理瞑想行では、人間の生命に与えられている法則という、普通の人の知らない貴重な人生案内が主眼とされている。厳密にいうと本来の真理瞑想行は、与えられた問題を、誰にも教えられず、自分なりに考えて、それが正しい真理に合致するまで何年でもえさせる、と言うのが本当の方法である。
因此,所谓真理冥想之行就是指给予生命提供的法则,以普通人不知道的宝贵的人生向导为重点。严密地来说,本来的真理冥想之行是将发生的问题,不从别人那学到,而是自己进行思考,并与真理相吻合而经历多少年才得到,才是真正的方法。
私は、インドの山で中でその修行をしてきたが、その間に与えられた問題は、たとえば、「心とは何だ。お前の現在の心はお前の本当の心か」あるいは「人間とは何だ」と言うことを考えていくというものだった。日頃そのような研究をしている人でも、一つの問題に三月や半年はかかるものである。しかし、現在そんなことをしていたのでは、一つの問題を解くどころか半分も解決することができないであろう。そこでこのように変則的な方法ではあるが、あなた方が悟るかわりに私からお伝えするのである。
我是在印度的山中修行而来的,然而在其中所想到的问题,比如【心是什么?你现在的心是你真正的信吗?】或者【人类是什么?】这样的事情进行思考。平时从事那样研究的人,解决一个问题需要三个月或者半年。然而,对于现在关于那样的事,不用说解决一个问题了,连半个都解决不了了。于是虽然有这样的不规范的方法,我来传达给你们我的领悟。
ただこの方法は、苦心してみずから悟るものでないために、いいなあと思いながらも、時としてせっかく得たものが無しに化す恐れがある。ですからあなた方も私のように、自分の肉体に重い病を持ち、その病と闘いながら、親からも国からも離れてただ一人、ヒマラヤの山奥で端座瞑目して真理と取り組んでいるのだと言う厳かな気持ちで聞いていただければ、それは、天風から自分にこげ知らされたのではなく、あなた方の魂が、あなたか他の心にそれを悟らせているのだと考えていいでしょう。そうすれば、自分が苦心して悟りを開いたのと、その結果は五十歩百歩、大して違わないことになる。
然而这个方法,不是煞费苦心自己领悟出来的,虽然你们会觉得不错,但过段时间好不容易得到的东西也有可能化为乌有。所以,你们也像我那样,自己得了重病,与病魔斗争,离开父母一个人在国外,在喜马拉雅山的山坳中端坐闭目思考真理,以庄严之心来倾听的话,那样就不是自己来天风这听讲,而是将你们的灵魂去思考领悟别人的心。那样的话,你们苦心听到的领悟,结果也就是五十步,没有什么太大差异了。
悟りというのは、自分のこころが真理を感じた時の心の状態をいうのである。したがって、真理を、自分の努力で自分の心で感じるのも、人の悟りを耳から聞いて自分の心に受け入れるのも、受け入れ方に相違があるだけである。受け取ってしまえばその結果は同じである。真理を受け入れるときの心の態度が、悟りを開く上に密接な関係がるからこそ、安定打座で心をきれいにさせているのである。
所谓的领悟就是所谓自己的心在感受到真理的时候的心中状态。因此,通过自己的努力用心来感受真理,将别人的领悟也引入到自己的内心指示接受的对象不同而已。如果接受了的话,其结果是一样的。正因为接受真理时心中的态度与开悟有密切的关系,所以才需要安定打坐来宁心静气。本来人間は、改めて真理をいろいろと説き聞かされるまでもなく、この世に生まれ出たときから、絶えず真理に接し、真理の中で生きているのである。しかし、ちょうど魚が水の中で生きていながらそれを知らないのと同様に、真理のなかにいながら、この真理をなかなか目覚めすることができないのは、要するに心の中に雑念妄念があるためであり、本当に心が清い状態であれば、真理はすぐに発見できる。ちょうど頭の上から帽子をかぶせられているように、きれいな心の上に雑念妄念がおおいかぶさっているために、真理の中にいきていながらその真理を悟ることができない。
本来人们无需再次评说真理,自从出生在世就不断地接触真理,在真理中生存。然而,正如鱼在水中而不知一样,即使在真理中,也不能察觉到,总之是因为心中有杂念妄想,如果心中是清净状态的话,真理就能够立刻发现。正如头上戴着帽子那样,由于清净之心被杂念妄想所覆盖,所以即使在真理中也不能领悟到。
ところが、安定打座という特殊な方法を行うと、雑念妄念がたちどころに消え去っていく。たちまち、とまでいかなくとも次第に心の中から雑念がなくなっていく。そうすれば、強いてたいした努力や、いわゆる難行苦行などをしなくても、心が真理と取り組んでいこうとする傾向に自然になるので、真理瞑想の内容が、心の中に正しい悟りとなって現れてくる。悟りが開けてくればその結果、心が自然に即応して、疑いも迷いもなくなり、磨きたての鏡のようにきれいなものになる。
然而,如果进行安定打坐这样特殊方法的话,杂念妄想就会立即消失。立即,不停留的马上在心中的杂念会消失的。那样的话,即使不需要强加努力,不进行所谓的苦苦修行,心中也会出现正确的领悟。开悟的结果是心会与自然相适应,疑惑,迷茫会消失,变成一面像是打磨后的镜子那样。同じように修行しても悟りの非常に早い人と時間のかかる人があるのは、この安定打座を真剣にやるか否かによって区別されるのであるから、真剣な安定打座で行うことが大切である。
即使进行同样的修行也有悟性早和悟性晚的人,就区别于是否在认真地做,所以认真地安定打坐是非常重要的。
私の体験によれば、小・中学生の方がすなおにそれを自分のものにして、人生苦楽の歴史をくりかえしているが、いわば酸いも甘いも噛み分けているはずの年配者の方が悟りが遅いと言う傾向がある。それは、結局、子供は批判するにしても、その範囲が狭くない内容にも複雑さがないが、中年以上の人達は余計なこだわりが多くあるため、無邪気に純真に受け取ろうとする気持ちがおろそかになってくるからである。
根据我的经验,中小学生会坦率地将其作为自己的东西,而历经人生苦乐,所谓的饱尝酸甜苦辣的年长者更容易领悟得缓慢。结果,虽然批判孩子,在范围不窄的内容中尽管不复杂,由于中年以上的人们有很多不用的拘泥,这种天真地纯真地接受之心变得草率了。
形だけは安定打座で、心が安定打座になっていないと、せっかく真理瞑想をじゅんじゅんと自分の魂の中に注ぎ込まれても、涙の出るような感激を感じることが少ないかもしれない。であるから、疑う気持ちや批判を乗り越え、ただ無念無想の状態で、内容を分かろうとするのでなく、ただ受け入れていくと言う気持ちで行うことが何よりも大切である。そうすれば、無条件で悟りの花を開かせてくれることになるのである。
仅仅在形式上进行安定打坐,而心中没有安定打坐的话,难得真理一点点注入到自己的灵魂中,然而却很难感受到要流泪的感激之情。因此,要超越怀疑或批判,仅仅在无念无想的状态中不是去理解内容,而是仅仅去接受的心情是最重要的。这样的话无条件地开悟之花将会盛开。
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