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1972年版长谷川松治译《菊与刀》------连载

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发表于 2015-10-20 09:47:27 | 显示全部楼层 |阅读模式
第一章研究課題―日本2 L0 ~+ T  b4 r/ U- g
日本人はアメリカがこれまでに国を挙げて戦った敵の中で、最も気心(きごころ)の知れない敵であった。大国を敵とする戦いで、これほどはなはだしく異なった行動と思想の習慣を考慮(こうりょ)の中におく必要に迫(せま)られたことは、今までにないことであった。われわれは、われわれより前に、1905年に日本と戦った帝政ロシアと同じように、西洋の文化的伝統に属(ぞく)さない完全に武装され訓練された国民と、戦っていたのである。西洋諸国(しょこく)が人間の本性に属することがらとして承認するに至った戦時慣例は、明らかに日本人の眼中(がんちゅう)には存在しなかった。このために太平洋における戦争は、島から島へ一連の上陸作戦を決行するだけ、軍隊輸送・設営(せつえい)・補給に関する容易ならぬ問題を解くだけでなく、敵の性情をしることが主要な問題になった。われわれは、敵の行動に対処するために、敵の行動を理解せねばならなかった。
4 L+ H7 i+ ~  u% |5 V+ k+ u困難は大きかった。日本の閉ざされた門戸(もんこ)が開放された以来七十五年の間に日本人について書かれた記述には、世界のどの国民についてもかつて用いられたことのないほど奇怪至極(きかいしごく)な「しかしまた」の連発が見られる。まじめな観察者が日本人以外のほかの国民について書くとき、そしてその国民がるいれのないくらい礼儀正しい国民であるというとき、「しかしまた彼らは不遜(ふそん)で尊(そん)大である」と付け加える事はめったにない。ある国の人々がこの上なく固陋(ころう)であるという時、「しかしまた彼らはどんな新奇な事柄にも容易に順応(じゅんのう)する」と付け加えはしない。ある国民が従順(じゅうじゅん)であるという時、同時にまた彼らは上からの統制(とうせい)になかなか従わない、と説明したりはしない。彼らは忠実で寛容であるという時、「しかしまた彼らは不忠実で意地悪(いじわる)である」と言いはしない。彼らは真に勇敢であるという時、その臆病さ加減を述べ立てることはない。彼らが他人の批判を気にかけて行動するという時、それに引き続いて、彼らは本当に恐ろしい良心を持っていると言いはしない。彼らの軍隊のロボットのような訓練ぶりを描写(びょうしゃ)するとき、それに続けて、その軍隊の兵士たちがなかなか命令に服(ふく)さず、公然と反抗する場合さえあることを述べるようなことはない。西欧の学問に熱中する国民について述べるとき、同時にまた彼らの熱烈な保守主義(ほしゅしゅぎ)について詳しく記することはない。美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術(ひじゅつ)を尽くす国民に関する本を書くとき、同じ国民が刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する事実を述べた、もう一冊の本によってそれを補わなければならないというようなことは、ふつうは無いことである。( B5 S* J% I- y" u
ところが、これらすべての矛盾(むじゅん)が、日本に関する書物の縦糸(たていと)と横糸になるのである。それらはいずれも真実である。刀も菊も一つの絵の部分である。日本人は最高度に、喧嘩好きであるとともにおとなしく、軍国主義的であるとともに耽美的(たんびてき)であり、不遜であるとともに礼儀正しく、頑固(がんこ)であるとともに順応性(じゅんのうせい)に富(と)み、従順であるとともにうるさく小突(づ)き回(まわ)されることを憤(いきどお)り、忠実であるとともに不忠実であり、勇敢であるとともに臆病であり、保守的であるとともに新しいものを喜んで迎え入れる。彼らは自分の行動を他人がどう思うだろうか、ということを恐ろしく気に掛けると同時に、他人に自分の不行跡(ふぎょうせき)が知られないときには罪の誘惑に負(ま)かされる。彼らの兵士は徹底的に訓練されるが、しかしまた反抗的である。2 m0 a; m! v) q4 r0 W, [
日本を理解することがアメリカにとって非常に重要な事柄となってきたとき、これらの矛盾(むじゅん)や、なおこのほかの同様にはなはだしい多くの矛盾を見てみないふりをするわけにはゆかなかった。重大局面がぞくぞくと、くびすを接(せっ)して我々の前に立ち会われつつあった。日本人はどうするだろうか。日本本土に進攻することなしに降伏させることができるだろうか。我々は皇居の爆撃を行うべきであろうか。日本人俘虜から何を期待することができるだろうか。日本の軍隊並びに日本本土に対する宣伝においてどんなことを言えば、アメリカ人の生命を救い、最後の一人まで抗戦するという日本人の決意を弱めることができるだろうか。日本人をもっともよく知っている人々の間でも、はなはだしい意見の相違があった。平和になった時に、日本人は秩序を維持させるためには永続(えいぞく)的に戒厳令(かいげんれい)を布(し)かなければならないような国民だろうか。わが軍は日本の山中にあるあらゆる要塞で、死にもの狂(ぐる)いになって最後まで頑強に抵抗する日本人と戦う覚悟をせねばならないのだろうか。国際平和が可能となる前に、フランス革命やロシア革命が、日本に起こる必要があるのだろうか。誰をその革命の指導者にしたらよいのか。それとも、日本国民は絶滅(ぜつめつ)させなければならないのだろうか。我々の判断如何によって非常に相違が生ずるのであった。
, \+ e$ z4 c7 ~$ O  A私は1944年6月に日本研究の仕事を委嘱(いしょく)された。私は、日本人がどんな国民であるかということを解明(かいめい)するために、文化人類学者として私の利用しうるあらゆる研究技術を利用するよう依頼を受けた。ちょうどそうの初夏(しょか)のころは、我が国の日本にたいする大攻勢(だいこうせい)が、ようやくその真の大きさを見せ始めたばかりの時であった。アメリカでは、相変わらず人々は、対日戦争は三年続くだろう、もしかすると十年、いやそれ以上になるかもしれない、などと言っていた。日本では百年戦争だなどということを口にしていた。なるほどアメリカ軍は局部的(きょくぶてき)な勝利(しょうり)を得た、しかしニューギニアやソロモン群島(ぐんとう)は日本本土から何千マイルも離れている、と言っていた。日本の公報は海軍の敗北をなかなか認めようとせず、日本国民は依然として自分たちの方が勝っているのだと思い込んでいた。
9 d. P. X, R% U- }ところが6月になると、形勢(けいせい)が変化し始めた。ヨーロッパでは第二戦線が開始され、最高司令部が二年半にわたってヨーロッパ戦域(せんいき)に対して与えていた軍事的優先権は、もうその必要がなくなった。対独戦争(たいどくせんそう)の終わりは目に見えていた。そして太平洋ではわが軍はサイパン島に上陸した。これは日本の終局的敗北(しゅうきょくてきはいぼく)を予告(よこく)する大作戦であった。これから後は米軍将兵(しょうへい)はますます接近(せっきん)して日本軍と顔を合わせることになる。しかも我々は、ニューギニアにおける、ガダルカナルにおける、ビルマ(現在のミャンマー)における、またアッツやタラワやビアクにおける戦いの経験で、いかに恐るべき敵と取り組んでいるか、ということを十分知り抜いていた。6 Y. d" N7 l6 f6 n) j1 R2 t) L
したがって1944年6月には、我々の敵日本に関する、数多くの疑問にこたえることが肝要(かんよう)であった。問題が軍事上の問題であろうと外交上の問題であろうと、最高政策に関する諸問題(しょもんだい)から起きたものであろうと日本軍の前線に落とす宣伝冊子(さっし)のことから起きたものであろうと、あらゆる洞察(どうさつ)が必要であった。日本が戦っている総戦力において、我々の知らなければならないことは、たんに東京にいる支配者たちの目的や動機だけ、長い日本の歴史だけ、経済や政治の統計だけではない。われわれは彼らの政府が国民から何を当てにすることができるか、ということを知らねばならなかった。われわれは日本人の思想・感情の習慣と、それらの習慣がその中に流し込まれる型(パターン)を理解するように努めねばならない。我々はこれらの行動や意見の背後(はいご)にある強制力(きょうせいりょく)を知らねばならない。我々は我々がアメリカ人として行動する際の前提をしばらく脇に置き、できるだけ、ある与えられた状況の下で日本人がすることは、我々のすることと大した違いはあるまい、というような安易(あんい)な結論に飛びつかないようにする必要があった。$ M9 s' ]6 C8 s1 {
私に与えられた課題は困難であった。アメリカと日本とは抗戦中であった。そして戦争中には敵を徹頭徹尾(てっとうてつび)こきおろすことはたやすいが、敵が人生をどんなふうに見ているかということを、敵自身の眼を通してみることははるかに難しい仕事である。しかもそうせねばならなかったのである。問題は日本人がどんな行動をするかであって、もし彼らと同じ立場におかれたならば、われわれはどんな行動をするか、ということではなかった。私は日本人におかれたならば、われわれはどんな行動をするか、ということではなかった。私は日本人の戦争中の行動を、彼らを理解するに当たって、マイナスの要素としてではなく、プラスの要素として利用するように努めねばならなかった。私は彼らが戦争そのものを遂行するやり方を眺め、それをしばらくの間、軍事的問題としてではなく、文化問題としてみなければならなかった。平時を同じように、戦時においてもまた日本人は、いかにも日本人らしく振舞った。彼らが戦争を処理してゆく方法のなかに、彼らの生き方や考え方を示す、どのような特殊な徴候(ちょうこう)が見られるか。彼らの指導者が戦意を煽(あお)り立(た)て、うろたえる国民を安心させ、戦場でその兵士を用いるやり方、これらはいずれも、彼ら自身が何を、利用しうる長所とみなしているかを示していた。私は日本人が戦争においていかに一歩一歩、自己の姿を現らしてゆくかを見るために、戦争の細部(さいぶ)の点を調べなければならなかった。: @1 \# d; D2 J' c7 ]# }
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 楼主| 发表于 2015-10-20 09:48:00 | 显示全部楼层
しかしながらわれわれ両国民が交戦中であるという事実は、必然的に非常な不利を意味した。それは文化人類学者の研究技術として最も重要な、現地調査を断念せねばならぬことを意味していた。私は日本に出かけてゆき、日本人の家庭の中で生活し、日常生活のさまざまな活動を観察し、自分の眼でどれが重要なもので、どれがそうでないかを見分けることができなかった。私は彼らがある決定に到達(とうたつ)するという複雑な仕事をなしつつあるところを観察することができなかった。私はかれらの子供が育てられてゆく家庭を見ることができなかった。日本の村落(そんらく)に関する唯一の人類学者の実地研究である、ジョン・エンプリーの「須恵村(すえむら)」(Embree, John F., Suye Mrua)は非常に貴重な文献であったが、この研究がかかれた当時は、1944年にわれわれが直面していた日本に関する問題の多くは、まだ問題になっていなかった。; Y  T# L. w0 S
以上のような大きな困難があったけれども、それでも私は文化人類学者として、利用することのできるある種の研究術と必要条件を備えているという自信があった。少なくとも私は、人類学者が大いに頼りにする、研究対象である民族との直接面接をすっかり断念しなくてもよかった。この国には日本で育った日本人が大勢いた。そこで私は彼らに彼ら自身が経験した具体的事実を尋(たず)ね、彼らがそれらをどんなふうに判断しているかを見出(みいだ)し、彼らの説明によって、人類学者としての私にとって、いかなる文化の理解にも必要欠くべからざるものと考えられる、われわれの知識の多くのギャップを埋めることができた。当時、日本を研究していたほかの社会科学者たちは、図書館を利用し、過去(かこ)の事件や統計(とうけい)を解剖(かいぼう)し、文字で書かれ、あるいは口頭(こうとう)で述べられた日本側の宣伝文句(もんく)の上に現れる変化を追跡(ついせき)していた。私はこれらの人たちが追求している答えの多くは、日本文化の規則(きそく)と価値の中に埋(う)もれている、だからその文化を、実際(じっさい)にその文化を生きてきた人々について、探究(たんきゅう)したほうが、いつそう満足に発見することができる、という確信を持っていた。: s( W5 ~/ j9 F2 n* e
だからといって私は、ぜんぜん書物(しょもつ)を読まず、日本で生活したことのある西欧人のお陰をたえず蒙(こうむ)るようなことはなかった、というのではない。日本に関するおびただしい数にのぼる文献(ぶんけん)と日本に住んだことのある、多数の優れた西欧の観察者とが、アマゾン河の水源地帯(すいげんちたい)や、ニューギニアの高地(こうち)へ、文字を持たない部族を研究しにゆく人類学者がぜんぜん持たない便益(べんえき)を私に与えてくれた。このような部族は文字言語をもたないからして、自らの姿を文筆(ぶんぴつ)によって書き表していない。西欧人の解説も寥々(りょうりょう)たるもので、かつ皮相的(ひそうてき)である。誰にもその過去の歴史はわからない。実地調査者は、先人(せんじん)研究者の助けをまったく受けずに、彼らの経済生活の営(いとな)み方(かた)や、彼らの社会がどんなふうな層に分かれているか、彼らの宗教生活において最高至上のものとされているものは何か、というようなことを発見せねばならない。日本を研究する場合には、私は多くの学者の遺産を受け継ぐことができた。生活の細部(さいぶ)にわたる描写が、好事家(こうずか)の記録の中にしまいこまれていた。ヨーロッパ人やアメリカ人がその生々(なまなま)しい経験を書(か)き留(と)めているし、また日本人自身が実に驚くべき自己暴露(じこばくろ)を書いている。多くの東洋人とは違い、日本人は自分のことを洗(あら)いざらい書き立てる強い衝動(しょうどう)を持っている。彼らはその世界的拡張計画のみならず、彼らの生活の瑣事(さじ)についても書く。彼らは驚くほどあけすけである。もちろん彼らは彼らの生活をことごとく、余(あま)すところなく書き写してはいない。どの民族だってそんなことはしない。日本のことについて書く日本人は、本当に重要な事柄を、それらが彼にとって、かれが呼吸(こきゅう)する空気と同じように慣れきった事柄であり、眼につかない事柄であるために、見逃(みのが)してしまう。アメリカ人がアメリカについて書く場合も同じである。にもかかわらずやはり、日本人は自己をさらけ出すのがすきであった。2 g" s( j0 v4 M* o! z0 I) A' i
私はこれらの文献を、ダーウィンが種(しゅ)の起源(きげん)に関する理論の仕上げに取り掛かっていた際にしたといっているやリがたと同じように、理解する手段のない事柄に注意しながら呼んでいった。議会における演説(えんぜつ)の中の観念の羅列(られつ)を理解するためには、私はどういうことをしらなければならないのか。彼らは別に大したことではないと思われる行為を猛烈(もうれつ)に非難し、無法(むほう)と思われる行為を平気で是認(ぜにん)するが、こういう態度の背後(はいご)にはいったい何が潜(ひそ)んでいるのか。「この絵はどこが変なのか」、それを理解するためには、私は何を知る必要があるのか、という問いを絶えず繰り返しながら呼んでいった。
" _/ [* q7 y" I5 G' l- A私はまた、日本で書かれ製作された映画、――――宣伝映画だの、歴史映画だの、東京や農村の現代生活を描いた映画だのを見に行った。その後でもう一度、それらの映画を、同じ映画の中のあるものを日本で見てきた、そしていずれにしても、主役や女主人公や悪役(あくやく)を、私がそれらを見る見方ではなくて、日本人が見る見方で日本人たちと一緒に、仔細(しさい)に検討してみた。私がわからなくて途方(とほう)に暮れているときにも、彼らはそうでないことは明らかであった。筋や動機も私が理解したようなものではなくて、映画全体の構成の仕方から考えて、初めて意味が通じるのであった。小説の場合と同じように、私の受け取った意味と、日本で育った人々に受け取られる意味との間には、一見して目につく以上に、はるかに大きな違いがあった。これらの日本人の中のあるものは、すぐに日本人の慣習を弁護(べんご)した。そしてあるものは、日本のことなら何もかも憎(にく)んだ。この二通りのグループのどちらから、私が最も多く学んだか、断定することは難しい。日本では生活をどんなふうに律しているか、ということに関して彼らが描きあげた、彼らの熟知(じゅくち)している画像(がぞう)においては、それを喜んで受け容れようと、憎憎(にくにく)しげに拒否しようと、彼らは一致していた。% t+ {4 z! E2 a
その材料と解釈を、研究している文化の担(にな)い手から直接得てくるというだけでは、人類学者のなすところは、日本に住んでいたすべてのもっとも有能な西欧の観察者が行ったところと、少しも選ぶところがない。もし人類学者の提供しうるものがこれだけに留まるものとすれば、外国人居留者がこれまでに成し遂げた、かずかずの日本に関する貴重な研究に、何一つ付け加える望みはないわけである。しかしながら文化人類学者は、その修練の結果として、ほかの人には見られない二、三の特別な能力をもっているので、研究者や観察者の豊富な分野において、独自の貢献を付け加える試みをすることも、あながち無益なことではないと思われた。
" |* a0 Y% a+ p; u$ S' g人類学者はアジアならびに太平洋の多くの文化を知っている。日本の社会制度や生活習慣の中には、太平洋諸島の未開部族の間においても、それに酷似(こくじ)した並行列(へいこうれつ)が見受(みう)けられるものが多い。これらの並行列(へいこうれつ)のあるものはマライ諸島(しょとう)に、あるものはニューギニアに、あるものはポリネシアにある。これらの類似は、かつて昔、移住(いじゅう)もしくは接触(せっしょく)のあったことを示すのではあるまいか、ということを考えることは無論興味(むろんきょうみ)のあることではあるが、これらの文化的類似を知っていることが私にとって価値があったのは、その間にあるいは歴史的関係があるかもしれないという理由からではなかった。むしろそれは、わたしはこれらの単純な文化の中で、これらの習俗(しゅうぞく)がどんなふうに作用しているかを知っていたので、私が見出(みいだ)した類似もしくは差異から、日本人の生活を理解する手がかりを得ることができたからであった。私はまた、アジア大陸のシャム[現在のタイ]とビルマと中国についても多少の知識を持っていたので、日本と、ともに同じアジアの偉大な文化的相続(そうぞく)財産の一部分であるほかの国々とを比較(ひかく)することができた。人類学者たちは未開人(みかいじん)の研究において、繰り返し繰り返し、そのような文化比較がいかに勝ちあるものでありうるか、ということを証明してきた。ある部族がその習慣の90%まで、隣接(りんせつ)部族と共有していながら、しかも周囲のどの民族とも共有していないある一種の生活様式、ある一組(いちく)みの道徳的価値(どうとくてきかち)に適合(てきごう)させるために、それらの慣習に手を加えているというようなことがある。その過程において、全体に対する比率がどんなに小さくとも、その部族の将来の発展のコースを独特(どくとく)の方向にむける、ある種の根本的な組織をはねつけなければならなかったかもしれない。全体としてみれば多くの特性(とくせい)を共有している、諸民族の間に認められる差異を研究することほど、人類学者にとって有益なことはない。$ y5 v3 t. w4 p1 I
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 楼主| 发表于 2015-10-20 09:48:49 | 显示全部楼层
人類学者たちはまた、彼ら自身の文化とほかの文化との最大の差異に慣れねばならなかった。そこで、その研究技術をとくにこの問題のために鋭利(えいり)にせねばならなかった。彼らは異なった文化をもつ人々が遭遇(そうぐう)せねばならない事態、および異なった部族や国民がこれらの事態の意味を規定する仕方に、はなはだしい差異のあることを、経験によって知っている。北極(ほっきょく)地方のある集落、熱帯(ねったい)地方のどこかの砂漠で、彼らはどんなに想像をたくましくしても、到底(とうてい)思いもつかないような親族間の責任や経済的交換の部族的組織に遭遇した。かれらは親族関係や交換の詳細を調べるだけではなく、これらの組織はその部族の行動の上にどういう結果を及ぼしているか、またおのおのの世代はいかに子供の時から、以前に彼らの祖先(そせん)たちがしてきたと同じように振舞うように条件付けられるか、ということを調べなければならなかった。+ `2 ^* Z$ w* V1 W" N/ j
差異とその条件付けならびにその結果に対するこのような専門的関心は、日本研究においても十分利用することができた。誰一人としてアメリカと日本との間の根深い文化的差異に気づかぬものはいない。われわれの間には、日本人に関して、日本人のすることとわれわれのすることとは、何もかもみなあべこべだ、という俗説(ぞくせつ)が行われているくらいである。このような差異の確信が特に危険になるのは、研究者がただ単に、これらの差異はまことに奇怪至極(きかいしごく)なものであって、そのような民族を理解すること到底不可能であるというだけでことたれりとするばあいである。人類学者は経験上、どんな異様な行動でも結構理解することができる、という確実な証拠を握っている。ほかのいかなる社会科学者(かがくしゃ)よりも多く、人類学者はその専門の上で差異をマイナスとしてではなく、むしろプラスの要素として利用してきた。制度(せいど)や民族に対し、それが著しく風かわりなものであればあるほど、いっそう油断なく注意を払ってきた。人類学者が取り扱う生活(せいかつ)様式の中には、はじめから当然のこととして予想して書かれるものは何一つなかった。そこで少数の選ばれた事実だけではなくて、一切合切(がっさい)の事実をみなければならなかった。西欧諸国民の研究において、比較文化学的研究の素養のない人間は、多くの行動領域を見逃(みのが)してしまう。そういう人はあまりにも多くの事柄を当然のこととして決めてかかるので、日常生活の平凡(へいぼん)な習慣の数々や、しかもこれらの判断こそ、それが国民全体のスクリーンの上に大写(おおうつ)しに映し出されたときは、外交官が調印した条約よりも、その国民将来に関係するところが大きいのである。
( O; z' ^2 l4 Y$ [9 y人類学者は平凡(へいぼん)な事実を研究する特別の技術を開発せねばならなかった。研究している部族において日常普通のこととされている事実が、彼自身の本国に於けるそれに対応する事実とはなはだしく異なっていたからである。ある部族の極端(きょくたん)な意地悪(いじわる)さや、別な部族の極端な臆病さを理解しようとするとき、彼らがある一定の状況の下で、どのように行動し、どのように感じるかを突き止めようとするときに、文明国民についてはあまり注意されない観察や微細(びさい)な事実をおおいに頼りとせねばならないことに人類学者は気がついた。人類学者はこういう事柄こそ肝要であると信ずべき十分な理由を持ていった。そしてこれらの事柄を発掘する研究方法を心得ていた。
7 |! x9 ~/ K/ m; T# A8 F日本の場合にこの方法を試(こころ)みることは意義のあることであった。ある国民の生活の、はなはだ人間的な日常茶飯事(にちじょうさはんじ)に注意してこそ始めて、いかなる未来部族においても、またいかなる文明の先頭に立つ国民においても、人間の行動というもの日常生活のなかで学習されるものであるという、人類学者の前提の重要な意義を十分に理解することができるからである。その行為や意見がどんなに風変(ふうが)わりなものであっても、ある人間の感じ方、考え方はその人の経験と何らかの関係を持っている。そこで私は、何かある行動に行き当たってはたと当惑(とうわく)すればするほどますます、日本人の生活のどこかに、そのような異様さを生(う)み出(いだ)す、何かあるごく当たり前の条件が存在するに違いないと考えた。もしその条件の探求(たんきゅう)が、日常的交渉の瑣事(さじ)に赴(おもむ)かしめるとするならば、それはなおさら結構なことであった。それこそ人々が学習する場合であるからであった。0 p3 u( G$ E' D6 d' {
さらに私は文化人類学者として、どんな孤立した行動でも、お互いに何らかの体系的関係をもっている、という前提から出発した。わたしは何百もの個個(ここ)の事象(じしょう)が、どんなふうに総合的な型[パターン)に分類されているが、という点を重視した。人間社会は自らのためになんらかの生活の設計をつくらねばならない。社会はいろいろの状況に対処(たいしょ)する一定の仕方、それらの状況を評価する一定の仕方を承認する。その社会の人々はこれらの解決方法を全世界の基礎とみなしている。彼らはそれを、いかに困難にであろうお、ひとつの前提的体系に纏め上げる。生活の基準になる一定の価値体系を受け容れた人々は、その生活の中にほかの部分から隔離された部分を設けておいて、その中では右の体系とは反対の一連の価値にしたがって考え行動するとすれば、遠からずして必ず無能(むのう)と混乱とを招來(しょうらい)することになる。彼らはできるだけ多くの順応(じゅんのう)を実現しようとする。彼らは自分の行動に何らかの共通の根拠(こんきょ)と共通の動機をつける。何らかの程度の一貫性がなくてはならない。さもなければ、前提の体系がばらばらに瓦解(がかい)してしまう。
; D/ V* Z3 p, p* Uそれゆえに、経済的行動、家族組織、宗教的儀式、政治目的は、互いに歯車(はぐるま)のように噛(か)み合(あ)わさったものになってくる。ある一つの領域よりも急速に変化がおこり、そのためにほかの領域に多いな圧迫(あっぱく)を加える場合がなくはない。しかし、その圧迫(あっぱく)そのものは一貫性を実現(じつげん)する必要から発生するのである。他人を支配する権力を追及することに専念する、まだ文字を持たない社会では、権力意志が彼らの経済的行為やほかの部族との関係の中だけではなく、宗教的慣習の中にも同様に表現される。文字に書かれた古い聖典(せいてん)を有する文明諸国では、文字言語を持たない部族と違って、教会(きょうかい)は必然的に昔の章句(しょうく)をそのまま保留(ほりゅう)しているが、しかし教会(きょうかい)は、ますます多く一般から経済的ならびに政治的権力が是認(ぜにん)されてゆく事実と抵触(ていしょく)するような領域では、権威を放棄(ほうき)する。語句(ごく)は残っていても、意味が変わってしまっている。宗教的教理と、経済的慣習と、政治とは、けっして明瞭(めいりょう)に隔離(かくり)された小さな池の中にせき止められていないで、そのあると想像されている境を超えて溢れ出し、その水は互いにどれがどれと見分けのつかないように混ざり合うのである。このことは常に真理であるからして、研究者は、その研究をあるいは経済、あるいは性生活、あるいは宗教、あるいは嬰児(えいじ)の世話というふうに、一見、雑然(ざつぜん)とさまざまの事実に分散させているように見えれば見えるほど、いっそうよく、研究する社会において実際に起こりつつある事柄を探ることができるのである。生活のいかなる領域においても、その仮説(かせつ)を作り上げ、資料を採集(さいしゅう)して、利益を収めることができる。研究者は一国民のさまざまな要求を、それが政治、経済、道徳(どうとく)のいずれの言い表し方によって言い表されているにしても、その国民の社会的経験の中で学習される習慣や考え方の表現としてみることを学ぶことができる。それゆえにこの本は、日本人の宗教とか、経済生活とか、政治とか、家族とか、ある特定の一面を取り扱う書物ではない。本書は生活の営(いとな)み方(かた)に関する日本人の仮定を検討するものである。本書は当面の活動がいかなるものであろうと、その中にこれらの仮定がどう現れているかを記述する。本書は日本をして日本人の国たらしめているところのものを取り扱った書物である。5 ~" T% e* v0 A) b) C( B5 J
二十世紀のハンディキャップのひとつは、日本をして日本人の国たらしめているもののみならず、アメリカをしてアメリカ人の、フランスをしてフランス人の、ロシアをしてロシア人の国たらしめているところのものについても、われわれが依然として最も漠(ばく)とした、またもっとも偏(かたよ)った観念を抱いているということである。この知識を欠いているために、世界の国ぐにが互いに誤解しあっている。われわれは、悶着(もんちゃく)がたんに似たり寄ったりの二つのことがらの間に起こったものに過ぎない場合に、到底和解することのできない大きな差異があるように思い込み、逆にある国民が、その経験と価値体系の全体によって、われわれの意図(いと)したところのものとまるで異なった行動方針を心の中に抱いている際に、共通の目的をもっているなどということを口にする。われわれは彼らの習慣や価値がどんなものか、ということを発見する機会をもとうとしない。もしそうしたならば、ある行動方針は、それがわれわれの知っているものと違うからといって、かならずしも悪いとは限らない、ということが発見されるのであるが。5 w# |, o( k, j2 \; D7 e4 T3 E
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 楼主| 发表于 2015-10-20 09:49:47 | 显示全部楼层
おのおのの国民が自らの思想、感情の習慣についていっていることにことごとく依存するということは、できないことである。どの国の文筆家も、彼ら自身のことを説明しようと努めてきた。しかしそれは容易なことでない。ある国民がそれを通して生活を眺めるレンズは、ほかの国民が用いるレンズと異なっている。われわれがものを見るときに必ずそれを通してする眼球を意識することは困難である。どの国も事新しくそんなことを問題にしない。そしてある国民にその国民に共通の人生観を与える、焦点(しょうてん)の合わせ方、遠近(パースペクティヴ)のとり方のコツがその国民には、神様から与えられたままの風景の配置というふうに思い込まれている。眼鏡の場合に、眼鏡をかけている当人(とうにん)がレンズの処方(しょほう)を知っているなどとは、最初からわれわれが期待しないように、われわれは国民が自らの世界観を分析することに期待をかけるわけには行かない。もし眼鏡のことについて知りたければ、われわれは眼医者(めいしゃ)を養成し、眼医者(めいしゃ)のところへ持って行きさえすれば、どんなレンズでもちゃんと処方を書いてくれると考える。きっとそのうちにわれわれは、社会科学者の仕事こそ、現代世界の諸国民について、この眼医者と同じ仕事を行うものである、ということを認めるようになるであろう。8 _, w# l+ H4 Z5 q2 x" Z+ X5 p7 `  Q
この仕事はある程度の精神の強靭(きょうじん)さと、ある程度の寛容(かんよう)さとをともに必要とする。この仕事は国際親善(しんぜん)を唱(とな)える人々が時には非難したであろうと思われるような、精神の強靭(きょうじん)さを必要とする。これらの「ひとつの世界」の主唱者(しゅしょうしゃ)たちは、世界の隅々の人々に、「東」と「西」、黒人(こくじん)と白人(はくじん)、キリスト教徒とマホメット教徒(きょうと)との差別はすべて皮相(ひそう)なものであって、全人類は本当は同じ心をもっているのだという信念を植えつけることに、その希望を賭けてきた。この見解は時には四海同胞(しかいどうほう)主義と呼ばれることもある。私にはどうして、四海同胞(しかいどうほう)を信じるからといって、生活の営み方について日本人は日本人特有の、アメリカ人はアメリカ人特有の、考えを持っているといってはならないのか、合点(がってん)がゆかない。時にはこういう心の柔和(にゅうわ)なひとびとは、みんな同一の陰画(かげが)から焼き付けたプリントのように一様(いちよう)な諸民族から成り立っている世界にならなければ、国際親善の教義(きょうぎ)は成り立たないと考えているかのように思われることがある。が他国民(たこくみん)を尊敬する条件としてそのような画一性(かくいつせい)を要求するのは、自分の妻や子供にそれを要求するのと同じように、あまりにも神経質すぎる。心の強靭な人々は差別が存在することに安(やす)んじる。彼らは差別を尊敬する。彼らの目標は差別があっても安全の確保されている世界、世界平和を脅(おびや)かすことなくしてアメリカが徹底的にアメリカ的でありえ、同じ条件でフランスはフランス、日本は日本でありうる世界である。外からの干渉によって、人生に対するこれらの態度(たいど)のどれかが成熟(せいじゅく)するのを禁止することは、自分では、差異が必ずしも世界の頭上(ずじょう)につるされたダモクレースの剣とは信じられない研究者にはまったくいわれのないことと思われる。彼はまた、そのような立場をとることによって、世界を現状のままに凍(こお)りつかせる手伝いをするのではないかと恐れる必要はない。文化的差異を助長(じょちょう)することは、固定した世界を意味しない。エリザベス時代の後にアン女王時代が来、ヴィクトリア時代が来たからといって、英国はけっしてその英国らしさを失わなかった。それは、英国人が自己を失わず、異なった時代に異なった標準と異なった国民的ムードを作り出したからに他ならない。
% I: V" a; u' M" G1 K$ J8 _( x4 Z6 Q国民的差異の組織立った研究を行うためには、精神の強靭さとともに、ある程度の寛容さが必要である。宗教の比較研究が盛んに行われたのは、人々が自分自身、確固(かっこ)不動の信念を持っていたために、他人に対して著しく寛容でありえたときに限られている。彼らはあるいはエスイタ派、あるいはアラビア人学者、あるいは不信仰者であったかもしれないが、けっして狂熱的信者(きょうねつてきしんじゃ)ではなかった。文化の比較研究もまた、ひとびとが自分自身の生活様式を防衛(ぼうえい)することに汲々(きゅうきゅう)としていて、生活様式といえば、これが世界で唯一の解決法である、と信じているときには、到底栄(さか)えることはできない。そのような人々は、他の生活様式を知ることによって、自分自身の文化をいっそう深く愛するようになるということを、けっして悟らないであろう。彼らはせっかくの楽しい、そして自分を豊かにしてくれる経験をわざわざ拒否しているのである。彼らはあまりにも守勢的であって、他の国民に彼ら自身の特殊な解決法を採用することを要求する以外に採(と)るべき方策を持たない。もし彼らがアメリカ人ならば、われわれにお気に入りの信条を、世界中の国民が採用することを強要する。しかも他の諸国民がわれわれの生活様式を採用できるものでないことは、わかりきった事であって、それはわれわれが十進法(じっしんほう)の代わりに十二進法(じゅうにしんほう)で計算したり、東アフリカのある原住民のように、片足で立って休息(きゅうそく)したりすることを到底覚えることができないのと同じである。" S' ~& ^0 |& ?8 b$ k
さてこの本は、日本において予期されており、当然のこととみなされている習慣について述べたものである。日本人はどういう場合にひとからお辞儀(じぎ)されるものと期待し、どういう場合に期待できないか、どういうときに恥を感じるか、どういう時に当惑(とうわく)を感じるか、自分自身に対して何を要求するか、ということに関して述べた書物である。本書の中に述べられている事柄の理想的な典拠(てんきょ)を求めるとすれば、それはいわゆる「市井(しせい)の人」であろう。それは平凡(へいぼん)人(じん)であろう。もっともこのことは、この平凡人(へいぼんじん)が、みずから親しくいちいちの特殊な場合に身をおいたということを意味しない。それは誰でも、そういう場合にはそのとおりのことが行われる、ということを認めるであろうという意味である。このような研究の目標は、深く根を下ろしている思想と行動の態度を記述するところにある。たとえ本書がそこまで達していないとしても、ともかくこれが理想であった。' C% F1 ^; q- B9 A" _  Y3 F
このような研究では時期(じき)に、もうそれ以上いくら大勢の報告者を追加しても、少しも確実さを増やさないような点に到達する。たとえば、誰が誰に、いつお辞儀をするか、というようなことは、日本人全体の統計的研究を少しも必要としない。日本人がお辞儀をする一般に承認された慣習的な状況は、ほとんど誰でも報告することができる。そしてそれを他の二、三の報告によって確認すれば、もうその後は、百万人も日本人から同じ報告を受ける必要はない。- _3 b$ v0 @) R( A" ]9 P
日本がその生活様式をその上に築(きず)き上(あ)げているさまざまな過程を発(あば)き出(だ)そうとする研究者は、統計的に確認するよりもはるかに困難な仕事を課(か)せられている。彼に要求されている大きな仕事は、これらの公認の慣習や判断が、いかにして日本人がそれを通して生活を見るレンズになるか、を報告することである。彼は彼らの仮定が、彼らが人生を眺めるさいの焦点と遠近法とに、どんなふうに影響するか、を述べなければならない。彼はこのことを、人生をまるで異なった焦点で見ているアメリカ人にわからせるようにせねばならない。この分析の仕事において、権威のある法廷は、必ずしも「田中さん」、すなわち平凡普通の日本人であるとは限らない。なんとなれば、「田中さん」は彼の仮定を言葉に出して説明しないし、アメリカ人のために書かれた解釈は、確かに彼には、必要のないことまでくどくどと書き立てていると思われるだろうからである。4 k3 }$ i. d( Y* z1 p
アメリカの社会研究は従来、文明国の文化が立脚している諸前提の研究を志(こころざ)さないものが理学者(りがくしゃ)は、世論(せろん)や行動の「分布(ぶんぷ)」にばかり気をとられている。そしてその常套(じょうとう)の研究技術は統計的方法である。彼らは膨大(ぼうだい)な調査資料、質問書や面接調査者の質問に対するおびただしい数の回答、心理学的測定などを統計的分析にかけ、そこからある要因(よういん)の独立性(どくりつせい)や相互依存関係(そうごいぞんかんけい)を引き出してこようとする。世論調査の領域においては、科学的に選択された標本(ひょうほん)人口を利用することによって全国的調査を行う有効な技術が、アメリカでは非常に完全な域に達している。これによって、ある公職の候補者(こうほしゃ)もしくはある政策を支持する人と反対とは、田舎の人か都会人か、低額(ていがく)所得者か高額(こうがく)所得者か、共和党(きょうわとう)か民主党(みんしゅとう)か、というふうに分類することもできる。普通選挙(せんきょ)が行われ、実際に国民の代表者によって法律が起案あれ実施されている国においても、このような調査結果は実際的な重要性を持っている。3 n- X) i3 }6 d7 g3 L3 T) j
アメリカ人はアメリカ人の意見を投票によって調査し、かつその結果を理解することができる。しかしそれはその前に、あまりにもわかりきったことだから、誰も口に出す人はいないが、もうひとつの段階があればこそできることなのである。すなわち、アメリカ人はアメリカにおける生活の営み方を知っており、それを当然のこととして仮定しているのである。世論調査の結果は、すべにわれわれが知っている事柄について、さらに、それ以上の知識を与えるに過ぎない。他国を理解しようとするに当たっては、その国の人たちの習慣や家庭に関する質的研究を組織的に行った後に始めて、数量的調査を有効に利用することができるのである。慎重に標本(ひょうほん)を取ることによって、世論調査は、政府を支持する人と反対する人とが何名ずついるか、ということを発見することができる。がしかし、彼らが国家に関してどういう観念を抱いているか、ということがあらかじめわれわれにかかっていなければ、そういう調査によってわれわれはいったい何を学(まな)ぶことができるだろうか。彼らの国家観念についての知識を持っている場合に限って、われわれは、街頭(がいとう)において、もしくは議会において、諸党派(しょとうは)がいたい何を言い争っているのか、を知ることができるのである。一国民の政府に関して抱いている仮定は、政党の勢力を表示する数字よりも、はるかに一般的な、また恒久的(こうきゅうてき)な重要性を持っている。アメリカは、共和党も民主党も、政府のというものはやむをえない害悪(がいあく)ともいうべきものであり、個人の自由を制限するものと考えている。政府の官職に就(つ)くということも、戦時中は別だったかもしれないが、アメリカ人に対して、彼が民間事業においてそれに相当する職につく場合に得られるような社会的地位を与えない。国家に関するこのような見解は、日本人の見解とは雲泥(うんでい)の差であるし、多くのヨーロッパ諸国民の見解からも遠いものである。われわれがなによりもまずしらなければならないのは、まさにこの彼らの見解はどうかということである。彼らの見解はその風習(ふうしゅう)、成功した人々に対する彼らの批評(ひひょう)、自国の歴史に関する神話、祝祭日(しゅくさいじつ)の演説などの中に具体的に表現されている。そしてこれらの間接的表現(かんせつてきひょうげん)に基(もと)づいて研究することができる。ただしかし、それには組織的な研究が必要である。
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 楼主| 发表于 2015-10-20 09:50:28 | 显示全部楼层

4 g2 i( O- O! l7 nある国民が生活に関して作り上げる仮定や、その国民が是認(ぜにん)している解決法は、選挙にさいして人口の何割が賛成投票(さんせいとうひょう)をし、何割が反対投票をするか、ということを発見する場合と同様に注意深く、かつ詳細に研究することができる。日本はその根本的な仮定を探求する価値の十分ある国であった。確かに私は、ひとたびどこが西欧人の仮定と日本人の人生観とが合致しない点であるかということがわかり、彼らが用いている範疇(はんちゅう)と象徴(しょうちょう)とについて多少の理解が得られれば、よく西欧人の眼に映る日本人の行動の多くの矛盾は、もはや矛盾でなくなる、ということを発見した。ある種の急激な行動の転換(てんかん)を、どうして日本人自身は首尾一貫(しゅびいっかん)したひとつの体系の、切り離すことのできない部分とみなしているかということが私にはわかりだした。私はその理由を示して見せることができる。私が日本人といっしょに仕事をしていた時に、彼らの利用する語句や観念の多くは最初は不可解(ふかかい)に思われたが、やがてそれらは重要な含蓄(がんちく)をもっており、何百年もの歳月(さいげつ)を経た感情のこもったものであることがわかってきた。徳と不徳(ふとく)とは西欧人の考えているものとはまるで違ったものであった。その体系はまったく独特(どくとく)のものであった。それは仏教的でもなく、また儒教的(じゅきょうてき)でもなかった。それは日本的であったーー日本の長所も短所も含めて。# H7 r6 B2 X/ v# ~2 Q7 l0 L
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 楼主| 发表于 2015-10-20 09:51:08 | 显示全部楼层
以上为第一章。
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