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太古の時代から、宮島の景観には人々が霊気を感じ、島そのものを神として、信仰の対象にしていました。社殿の創建は、推古天皇即位元年(593年)、佐伯鞍職によると伝えられています。
神社の敷地を州浜に求めたのも、島そのものを神と見たためと思われます。
厳島神社は、弘仁2年(811年)にはじめて日本の歴史に記録され、『日本後記』には伊都岐島神を名神に列しています。
平清盛の時代には、平家一族の拝するところとなり、仁安3年(1168年)ころには社殿が造営されました。平家一門の権勢が増大するにともない、社を崇拝する度合も高まり、多くの貴族を始めとする人々の知るところとなり、社撙悉蓼工蓼故⒋螭摔胜辘蓼筏俊
京都からは、皇族、貴族が訪れ、当時の平安文化が積極的に取り入れられました。舞楽が始まったのもこの時代です。平家滅亡後も、源氏一門に厚遇され、安定と隆盛の時代でありました。
社殿は、承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災にあい、これら災害の修復が行われましたが、たび重なる火災で神社の規模も移り変わったと思われ、弘安の時代(1278~1288年)に記された社殿の図は今の配置と異なっています。その後、正中2年(1325年)台風で現在の配置に近い姿であったことがうかがえる記録が残されています。
鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になると、社殿は徐々に衰退し、荒廃の時代を迎えますが、弘治元年(1555年)、毛利元就が厳島の合戦で勝利を収め、社殿を支配下に置き、神社を深く崇敬した頃から社撙悉栅郡郡由蠒Nしはじめました。豊臣秀吉も、九州遠征のさいに立ち寄り、安国寺に大経堂の建立を命じています。
太古からの人々の信仰を集め、時の権力からも崇拝をうけ、たぐい稀な建築様式と文化を併せ持つ厳島神社は、現代にも生き続ける日本文化と歴史の象徴であり、日本の人々の心の情景でもあります。
とても素晴らしい海上建築ですね、最近平家物語を読んでいるので無性に行きたくなりました、平清盛の海上帝国の夢の一部だと言われているそうです、誰か言ったことがありますか、ぜひ教えてください! |
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