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中国故事物语(已载完)

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发表于 2005-6-20 14:32:16 | 显示全部楼层 |阅读模式
李下に冠を整さず

. d0 i) _. I5 ^/ ^
, m/ x, P& ?! Y* Z, Z戦国時代、周の烈王の六年、斉は威王が位にあって、即位してから九5 C3 u# T+ w( E! Y
年になったが、国内は一向に治まらず、国政は佞臣周破胡の専らにする
* \: d2 Y. f* y, B5 e' qところとなっていた。破胡は賢才有能の士をそねみ、即墨(山東省)の大
8 \; y+ u1 D7 R- x: {夫が賢明の士であったのに、これを誹謗し、阿大夫はでくの坊であった' c" c2 `1 _* S9 |5 \, E; @
のに、かえってこれをほめそやすのであった。威王の後宮には虞姫とい
- ?* J( F1 C7 ], u) l: i( l7 Cう女がいたが、破胡のやり口を見かねて、虞姫は王に訴えた。  z6 x7 y: e( M* w& J/ \
 5 ~& n$ j" C9 I: |, y
 「破胡は腹と摔扦埂: r0 ^+ t( l. R. _" C: l
  登用なさってはいけません。
3 G# k+ i' W. q  R: p8 s" d  斉には北郭先生という
. G9 [) M, T$ m2 }3 b  賢明で徳行高いお方がいらっしゃるのですから、# z- r2 e4 [8 j) X" ~
  こういうお方をお用いになった方がよろしゅうございます。」
1 L# r( x! r( X3 `) Q2 Z5 ~ 
8 R# ^& ^0 K* d# U, z9 M* c  x 
; m% ^6 p  J, t$ e+ O, U0 Y ところが、これが破胡の耳に入ってしまった。破胡は虞姫を目の敵と
6 L/ I9 l  x) R9 }' G, h. qして、何とかこれを陥れようとして、虞姫と北郭先生とは怪しいといい
3 R- q. Q" K1 V7 [* t出した。王は九層の台に虞姫を閉じこめて、役人に追求させた。破胡は
. R, v) @  e/ v" w* w9 e手を廻して係りの役人を買収していたので、その役人は、あることない. B$ R6 p- E6 w: h# D2 G
ことをでっちあげて、虞姫を罪におとそうとした。しかし、王はその調# Z& Q. i3 p, K9 Z, o
べ方がどうも腑に落ちないので、虞姫を呼びだして自分から直々事を質
4 x, Y& N, ~$ h. b: b, p  @してみた。
9 C: f/ Z  ?6 I7 c3 d5 A2 e. M6 b, u 
  N9 T# K# a% @2 y* S: a( l- x 「私は十余年の間、
( y1 \* x; h1 Z0 B2 c  一心に王のおんために尽くしてまいったつもりですが、, M; j% [; _3 [& s# E. j, E
  いまは邪な者どもに陥れられてしまいました。3 {% E3 g* X* H' w
  私の潔白なことはハッキリ致しておりますが、: e8 A+ G) M2 B
  もし私に罪があると致しますと、
1 e, O! ?2 D& ?. ~* ^. @  それは『瓜田で履をはきかえず、李園を過ぎる時に冠を整さない』
( F# Y* u' Q: y8 h$ y. C  という、疑われることを避けなかったことと、& B3 b4 l; {4 H- `! T7 n
  九層の台に閉じこめられましても
" [: \3 N0 I" |; J  誰一人申し開きをして下さる人がいなかったという、
+ R- B/ E- f. q1 ^: U8 B  私の至らなさでございます。. k. a5 C' X. o$ ^
  たとえ死を賜わりましょうとも、0 _5 p4 G5 N, U( G- P, I
  私はこのうえ申し開きを致そうとは思いません。
8 u0 Y' P7 m7 x$ [: U% Y5 ~) t  けれども、たった一つ、王にお聞き願いたいと存じます。( E, l" }) I2 t( U  B0 k/ \  S
  いま群臣がみな悪いことを致しておりますが、+ j  ~$ @7 z0 V  J7 t" r
  中でも破胡が一番ひどうございます。
2 e9 o+ f: Y: F: |' b2 `% {0 O; X! o  王は国政を破胡にお任せになっていらっしゃいますが、
0 ]- X+ @9 `; A/ C  これではお国の将来はまったく危ういということでございます。」
" C+ f8 l7 U: W! p 
0 S. d0 V# F# h/ `" I 虞姫が真心を込めてこう言うのを聞いた威王は、俄かに夢のさめる思# b( y* O- x+ R% `- v
いがした。そこで、即墨の大夫を万戸を持って封じ、佞臣の阿大夫と周
, J. V9 i/ G$ Z破胡を烹殺し、内政を整えたので斉は大いに治まった。  (「列女伝」), ~2 m/ ]& T1 B3 |
 
7 q) @& R( Y$ D3 X' s $ P' g  U% `5 v8 `( d( A: Q
 この話に出てくる「瓜田に履を納れず、李下に冠を整さず」という語( Z& u8 K" ~2 X4 i8 [
は、瓜の実っている畑で履をはきかえると、いかにも瓜を盗ったように/ Z, l% V. h1 p) s
思われるし、李が実っている下を通るとき、手をあげて冠をなおそうと
0 b: a2 H1 c7 R5 i: Nすれば、いかにも李を盗ったように思われるから、そういうような、人$ Z+ m, T- B  P/ ~/ U
から疑われるようなことは避けるという意味である。& ]  S; W! {- R) K. @5 g% c
 . d) _5 p3 e7 k& s% ~
 
% u+ k6 J+ p- w" ]; _) a! u 5 p/ n7 l% c; }
 「文選」の楽府に、「君子は未然に防ぎ、嫌疑の間に処らず、瓜田に
% G$ H4 X0 o2 c履を納れず、李下に冠を整さず、嫂叔は親援せず、長幼は比肩せず、労: C% _( {) g0 \5 ~( G3 U
謙其の柄を得、和光甚だ独り難し(己の功に誇ってその能を輝かしては) p3 H3 z3 a! o0 G) R7 Y3 d
いけない)」云々と見える。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 14:37:02 | 显示全部楼层
百聞は一見に如かず
  q/ O5 |; h6 Y% d6 @* {9 f/ B
" K- W+ u# b( m; F4 `% Y
漢の宣帝の神爵元年、西北のチベット系遊牧民の羌が、反乱を起こし
5 U. D" |8 ]* \% B0 P8 lた。これよりさき、羌の先零と言う一種族が、湟水の北で遊牧すること
2 t$ i3 O' G* y; R' n7 v; e9 Qを許されていた。彼らが草を求めて南岸に現れたとき、鎮圧に来た漢の
' G: l* y, T) q将軍に、ふいに先零の主だった者千余人を殺害されたので、先零は怒り
0 C, l3 k) C+ P' I8 O他の羌を誘い漢軍を攻め、漢軍は大敗を期し退いた。この時漢の宣帝は  Z8 M" x% W3 x
御史太夫丙吉を後将軍趙充国の元に遣わし、誰を討伐軍の将にしたらよ
% v9 X- F! u6 ]% x! Xいか尋ねさせた。
7 z# m$ ]7 n- E" e3 c  m/ O' N " u5 f7 g" d7 n4 G" y2 e. E
 趙充国は時に七十を越えていた。彼は現在の甘粛省天水市の人で、若! U) n/ C5 Z1 S( D, s7 b
い時から対匈奴戦に従軍していた。+ F  I% v9 }3 h9 h. Y7 Y2 V1 H0 |
 
* R. K6 t5 l  l: w0 U0 \/ D7 f 武帝のとき、弍師将軍李広利の配下として遠征した際、全軍が包囲さ
8 e+ `) @8 B4 n  r' Lれ、食も乏しく死傷者も多く出た。この時充国は兵百余兵を連れて突進. X+ L" ]1 l6 `
し、自ら全身に二十もの傷を受けながらも、包囲を破り全軍を救った。
/ S& i: x, F, k0 c! I# nこのときの功績により、武帝から車騎将軍に任じられた。以来彼の対匈" B! O+ ^0 N$ |
奴・対羌の生涯がはじまる。
) r  N  u; F5 }5 e ) Q. I: ^" Q, N
 その人となりは沈勇で大略があり、下門を受けるに相応しい人物であ0 n' r+ `" _0 s$ A" N
った。彼は質問に「老臣に優るものはありません」と答えた。/ G  ], D1 `2 G6 W" i; I) q  G+ d0 P
 
7 ]" @2 m7 G3 P5 p6 s 彼は召し出されて宣帝より更に尋ねられた。
- }! x4 v* c5 h$ ` 
5 L0 w6 w+ S  |2 o  L5 s0 B* a$ l 「将軍が羌を討つとすれば、どんな計略を用いるのか?5 ?6 W& B' T, }0 m$ V* W7 C$ H7 d3 V
  また、どれほどの兵を用いればよいのか?」9 M  p7 u6 I- n8 A" \2 ?
 
* X: \- n0 Q4 `7 P0 K$ ^8 g0 l( U0 ^( I 老将軍は答えて言う、
9 w2 n) `2 E! p 7 R& J* t5 [3 s2 V
 「百聞は一見に如かず。
/ _! M! p7 A. _" o* O8 X  およそ軍の事は実地を見ずに遠くからは計りがたいもの、
! V7 `+ h. J& k& J  それゆえ願わくは金城群に赴き、
1 d4 C# y9 g4 J  図面を引いて方策を奉りたく存じます。」- r1 ~& f! G7 E' b; Z' i
 
+ |1 K; \0 @5 t: P# l  ^ 更にそう言って自分に任せて欲しい旨を述べた。宣帝は笑って「よろしい」と言ったという。(「漢書」趙充国伝)5 N$ i  g9 ?- G+ B. i# W
 7 }" ]9 H% A" n
 ; X; C2 k& j+ y) k# R9 Y
 「百聞は一見に如かず」というのは、ここに出て来るのが最初とされ2 q' Q5 e( J1 U2 X# A7 ~) ]. [& j
る。おそらくは民間の諺でもあったのであろう。
6 e! c+ n6 l5 h* x5 L2 ]# S / c  m) C. K: y  [$ o% x' l. f( {- f' H
 西洋の諺にも「十の噂より見た証拠一つ」というのがある。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 14:37:28 | 显示全部楼层
矛 盾

* B. G9 o1 Y1 i- @, L: y: ]# ~# R! ~
時は戦国時代。周室の威令は全く地を払い、群雄は天下に乱立して、+ A+ |4 G6 Q. ~& \
互いに覇を競い合っていた。あちらでも、こちらでも、戦いが繰り返さ- z0 t1 j( D  [7 A
れ、土地や城を取ったり、取られたり、血生臭い風が中国全土を覆って5 S' \9 I" b* P% u4 _: i% K) ?
いたことは、日本の戦国時代と同様だった。+ ]; b6 H" c' H6 k  I
 
+ X$ F$ ~& ^! r( e そんな時代だから、兵器の消耗も激しく、良い武器は飛ぶように売れ
% w' g  g7 r  m* J/ F, P- B" lた、そのころ、ある町の、ある街頭に、盾と矛を地面に並べて売る男が# [" W  H  w' ?, Z
いた。戦争も一時小康状態にあり、人々はいつ襲ってくるかも知れぬ戦8 a- Q6 ~- u4 m8 l4 x# ^  F4 D
雲に怯えながらも、僅かな平和の日を楽しむため街頭に繰り出し、町中" Q7 }% \$ Q7 Y5 u1 {
は織りなすような雑踏ぶり。西に東に往来する人々の頭上に、いろんな' H7 d3 O. C. W& _$ G
物売りの呼び声を圧して、この男の濁声が響き渡った。( `; R& q7 P$ v) g. `8 H7 _
 
' J4 Q' N$ E' Z( u. C 「さぁお立ち会い。. `, v; v9 L- ?5 j7 U
  手前これに取り出しましたる盾、0 X( {: B9 F. S; w  Z
  どこにでもかしこにでもある盾とは、同じ盾でも盾が違う。
% S- H) l. X. q7 S; G4 P! V  名人の手に成るこの盾の堅いことは天下無敵。3 r: ^, |+ k5 j9 R. J( x1 @5 b
  どんな鋭い矛を持ってしても、決して突き破れぬと言う逸品じゃ。
9 q( u8 F% O; o  s  さぁ買ったり、買ったり。) g5 I9 E/ z9 ?* f9 Y
  敵はいつ攻めて来るか解りませんぞ。! ]! F" I( @1 R" O( Z
  その時になって慌てても、もう遅い。$ ^  B. V2 `# w' T
  さぁ、早いが勝ちじゃ。買った、買った。」
' A3 d6 E: B" M! r5 `& k $ C, w9 n7 N" X
 ガマの油売りの口上よろしく、一頻り大声を上げた男、こんどは脇に2 F( t# v- n8 E3 ^+ E& r$ \1 s. s' I
置いてあった矛を取り上げ、朱房の付いた刃を日光に煌めかせながら、) g2 J! A) s" j- a9 }% m. O& x3 C
前よりも一層声を大きくしてわめいた。
+ T4 G; B  ^& F0 M! U1 y5 C. k 
% r1 k" d3 F* q9 ^- |+ F 「さて、皆の小¥长螭嗓悉长欷胜朊袱恪% F! z# i1 c" s3 l
  目を開いてとくとご覧じろ。
! V7 D: T* S6 m+ H8 T  玉の散るような氷の刃、焼きといい、匂いといい、; D( ^0 T! q* Y  o
  全く天下にこれほど素晴らしい矛は見たこともあるまいがな。7 F( C( p! H* Y; a$ P: K
  皆の小ⅳ长蚊摔盲皮稀ⅳ嗓螭识埭扦馔护皮椁欷皮筏蓼Α4 f  ~+ E6 S7 a/ D9 d- N" K' B$ d
  この矛にかなう盾があったら、
$ ?) K/ L- n; H( G- G  皆の小ⅳ郡摔辘郡い猡韦袱恪!筡  x6 u9 ?# L- g" c& M! K
 
5 H3 q, k% d' `8 r, C) R さっきから黙って聞いていた一人の老人、“ゴホン”と咳ばらいをし
, N( }5 P) W' \) Fて、やおら口を開いた。
8 o  j8 `/ o! P ! o9 c% a  ?3 r( {" \
 「なるほど、お前さんの持って居なさる盾と矛は素晴らしい物じゃ。
$ g2 [; H6 D3 |# C. ?5 ?  だが、わしは歳を取ったせいか、頭が悪うて、
, I; f( t) C6 j& {% t) |4 s' X  どうにも解らぬ事が一つある。
( H1 |) R) P+ T$ q+ {; |& P/ A  それはじゃ、お前さん自慢の、どんな盾でも破る矛で、, m+ O4 C* g5 Q" G7 a2 J% F
  もう一つの、どんな矛でも破れぬ盾を突いたら、) x2 G! N2 r' m/ G
  一体どっちが勝つじゃろうか。
9 ?5 f) N7 D5 U# g% F7 c  その辺の所をとっくりと教えて下され。」
+ A/ ?; W+ i+ d2 `) z3 c! u, N - L! \0 x% P7 M4 ]7 n8 J* g1 J
 男はグッと詰まった。
! }- Z; v. H+ _& y0 K- s 
* L- x# {- x1 W* Z8 t 「それは、そのぉ・・・。」5 X4 e) W& N, |! c
 「さあどうなのかな、ここが肝心な所じゃて。のう、皆の小!筡
$ U2 [8 W1 Z% x4 J # K6 m  m, U* p8 G
 爺さんは意地が悪い。いつの間にか饯蚝Bいている見物人をグルリ  |1 N: ^7 J+ r9 _' n9 U" V5 Q
と見まわし、勝ち誇ったように叫んだ。口も開けず、青くなったり、赤! [: u9 }) u) Z/ R0 a9 t
くなったりしていた男はいきなり商売道具を一纏めにすると、コソコソ3 b8 {0 I  d, D& e
と人混みの中へ姿を消してしまった。その後ろ姿を、群肖涡Δど穃
/ F+ g; {+ l! O7 a- b; _いかけた。$ c3 \% d+ X4 I/ b+ g9 m; V
 / N' ^! z$ H: Y
 / P' H/ m: K: L( P1 d
 この話は戦国時代の強国である韓の王族の一人で、学者である韓非の
4 J" b! @: T% r1 a/ ^! ]書いた「韓非子」(難一・難勢篇)という本にある。
, `0 c8 X/ A7 {4 @/ s' L8 t, S 
! P1 E" \2 y' D. [% j& i こうして生まれた矛盾という言葉が、後には“絶対矛盾の自己同一”
9 a  \8 ]) ^9 m; hとか“主要矛盾の側面”とかの、難しい使われ方をするようになった。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 14:40:53 | 显示全部楼层
不倶戴天の讎
/ y, @& |5 H* O
  c, ]. O: _( n) ~; A# M
 ―――父の讎は与に共に天を戴かず、兄弟の讎は兵に反らず、交遊の6 }" \) r. X4 x
讎は国を同じくせず。/ Q+ ^  e4 V- d
 7 c! J+ ^6 R' i
(父の仇と共に同じ天を戴くことは出来ない、従って同じ世に生かして; w7 z/ O' X' P( r: ]. Z
 はおけず、必ず殺すべきである。兄弟の仇は、家に帰ってから武器を
$ _2 l% T9 A0 u9 f% T7 i( ~ 取って来るなどの暇は無い、いつも武器を携えていて、直ちに殺すべ
5 X: I. ?* s/ }8 M1 D6 u きである。友人の仇は国を同じくして住むことは出来ない、やはり殺! @- P/ P$ x& z6 e' Z
 すべきである。)+ ^* {/ u# M- m
 % M* ]4 G- ]( @1 k! g* n- \
 以上は「礼記」の「曲礼」上の言葉であるが、一読して解る通り、敵- b6 z, s3 D0 B9 x7 A" W( e
討ちの礼を説いている。一口に礼儀作法と言っても、一々挙げれば際限
* Z. B, G1 P' v( {9 lがないほどあるわけだが、敵討ちの礼まで説くとは御丁寧である。もっ
2 s4 n, r, n9 j! b  fとも「曲礼」とは、委曲の礼、つまりくだくだしい礼を言うのだから、6 h7 G% \# Q( U9 ^- A: t  I
その中に敵討ちの礼があるのは当然なのかも知れない。6 J! X& L  R4 F/ Q4 u# h8 f
 
0 b% C/ F5 y' `; _ 
& {) \) z( @( q; [ ところでこの敵討ちの礼であるが、仇は皆殺さなければならない。と
2 ]" N/ c. I; c' Z( ^9 K$ V% pても父・兄弟・朋友の仇は許すことが出来ないと見える。それにしても
% }- g3 E/ }$ J8 @' N0 O( k同じ「曲礼」上にある、
7 s# R+ o3 _! g: K* K 8 P$ j) {5 w$ K& V/ X" X
 ―――凡そ人の子たる礼、冬は温かにして夏は清しくし、昏に定めて  C8 E& z1 A/ q! m7 W) f7 B
晨に省みる。醜夷に在りて争わず。
8 h, g9 D! x& T, {4 e( Z7 a# I 
; k& ^( }! z% e# W(人の子たるもの、冬は父母の身を暖かにし、夏は涼しくする。また、
/ f, m' s4 Q' l 夜は父母が安眠できるようにし、朝に安否を見舞うようにする。友人- g, r5 Y. u& T; B" r$ u6 l7 L% ?
 と争うと累が父母に波及するかも知れないから、争わないようにする7 P6 G, K: j5 \( N( e. N. `1 E6 f
 のである。)) Q& |" [  H: L  Y
 3 I3 D. I: P" x
 と言うような、おっとりとしたのとは違って、随分物騒な話である。
" P7 p0 x7 K1 `しかし、よく考えてみると、この二つの礼に共通した考えがある。それ
3 R: R& `9 D! L6 ?4 Uは儒教の方で説いているのだが、人と人との永久不変の関係、君臣・父
( c5 Y: g7 G& [: u- @子・夫婦・兄弟・朋友の五つの関係を絶対視している考えである。
1 D. E5 I7 o1 t$ ?2 s 
1 K) \+ O; D/ c8 p9 A& v# a" Y ―――男女、行媒あるに非ざれば、名を相知らず、幣を受くるに非ざ( N( w) k3 X% {8 G$ @0 `) {
れば、交らず、親しまず。
2 l" U# s  |$ E; E 7 I, Z0 x$ f# p+ O
(男女は、媒酌がない限り、異性の名前などは覚えてはいけない。また
/ U  @' s5 @3 T2 Z' E1 B 結納がはっきりしないうちは、付き合ってもいけないし、馴染んでも
! O. H9 o- F2 X* A% j4 x* U いけない。)
$ g+ A5 r9 M, w% [ ) o& y! o1 r* ^5 D( x8 X/ W
 かくの如く男女関係も厳然としている、今日の若い男女から見れば、
6 k" Y. u% L4 ^. X& @& ]お伽噺の世界のこと位にしか思えないだろう。しかし、古代の氏族制社
5 I, V' D, w1 u9 S  A% {, [会の支配階級の間では、かかることが本当に信じられていたのだ。そこ' A7 D0 X3 B( }' R$ G: H
では例の五つの人間関係、朋友を除いては全て縦の従属関係を、是非と/ c. }, G4 G& m
も維持しなければならなかった。そこに礼が生まれ、敵討ちの礼まで生
: z1 a. l# ~: K" O* Dまれてくる理由があった。
/ s5 s: ?7 }9 h4 p" z, ~; c 
5 m/ F3 M' K' \- J5 m+ f9 _ 
8 g# {1 N9 A2 I( ~! R 礼は秩序を維持するための規則であるが、今日の法律に当るものと、4 k" X; g' g+ U" ?3 l4 b
道徳に当るものに二大別出来よう。古代社会に於いてはその二つが、ま
! w( n8 S/ T% Eだ未分化の状態にあった。ともに礼として意識されていたと思われる。' S) i' M8 J" R/ R" L& l, ~
だが、「『礼記』」の礼は後者の道徳の方に当り、当時の風俗習慣を述( q: V8 @. S0 Z0 Q& s
べたものと言える。敵討ちもその一つであったわけである。, ]* j. B6 B! ~9 u, D! e( W. v( [* m
 
: d; B1 M  d* o. {  {* ~2 X 
) Q: ~6 A7 q/ V0 V' z- ~ 「不倶戴天の讎」は冒頭に引用した文から出て、とても許しておけな
* m/ _4 ]* @7 m) H4 g- yい奴という意に用いられる。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 14:41:20 | 显示全部楼层
誹謗の木

/ Q$ }  e1 S* R! v6 ^  B7 B* C9 n; T7 d5 j/ n- i
堯・舜二帝は、古代中国人の素朴な思念の中から生まれ出た、理想の
2 k' o/ R1 |2 {" t, V/ z8 U聖天子である。もちろんそれは有史のはじめから更に何千年か遡る伝説
, s6 h4 o( t. o0 _& S% ^時代の人物であるから、その歴史的実在性は疑ってかかれば、いくらで: X" {$ w% T# l2 W$ Y. P
も疑える。堯舜抹殺論はすでに歴史学の常識であると言ってもよい。に6 w  G' N- t4 }
もかかわらず、古伝古書を通じて、堯舜の存在は、古代人の胸中に抹殺
1 H. f' |) z( y+ S: P* Uさるべくもなく、いと鮮やかに生き続けている。これもまたそうした堯$ Q$ \; r7 c: F7 L- b  k$ s3 z
舜理想政治の一端を物語る伝説の一つである。) q# [4 j. j% T1 R* k
 8 h& J: n) V( p) Q3 q3 T7 @
 
* J- f- w: h0 F2 |# t& w 帝堯陶唐氏、姓は伊祁、名は放勛、帝窖の子、その仁は天の如く、そ& D, T1 T( [' G& `0 B7 @0 F; Q
の知は神の如く、恵み深く聡明な天子として、天を敬い人を愛する理想! _- y/ g# R. `$ q( d
の政治を執り行なって、天下の人々からしたわれていた。彼の住居は、
. C! x3 [; e* }  W# r+ `# |/ N端も切り揃えぬ茅葺きの屋根、僅か三段の土の階しか設けぬ質素な構え
8 s: _% N! b6 b* v, u" q2 T5 _4 `で、富あれども人に驕らず、貴けれども人を慢らず、ひたすら政治の善
6 ?; ]* m& q2 A4 u) aくあれかしと心を砕いた。. S) b+ d. P3 `& \4 l) S% j
 
' x4 K# G" W+ v6 g$ c! o0 F 彼は自分の施政に独り善がりの誤りがあっては為らぬと考えて、宮門
/ z7 j3 H7 r0 ^$ G/ E9 _  \の入口に大きな鼓を置き、また御橋のたもとに四本の木で組んだ柱を立
4 h, m. g- ^8 G5 P9 _( L/ `& `てた。鼓は「敢諫の鼓」と名付けられ、誰でも堯の政治に不備な点を見
" e& w/ N( l$ \, o5 C9 gつけたものは、その鼓を打ち鳴らして、遠慮なく意見を申し立てるよう
/ h3 e. j7 i9 L' R. xに、柱は「誹謗の木」と名付けられ、誰でも堯の政治に不満のあるもの* z( m! ^7 ^- l4 {3 n# O: @
は、その柱に苦情を書き付けて希望を申し出るようにと言うのである。
8 e5 Q. h* w  `% _: i' D「敢諫」は敢えて諫める、反対意見の上申であり、「誹謗」は誹り謗る、苦
; L) e$ I: i6 f9 V情悪口の吐露である。堯がこれらによって、いっそう的確に民意の所在( m2 p5 b6 l# i2 Y/ |5 z; b( N& a
と動向を知り、自己の反省の資料ともして、民意を反映した政治に心が# a8 N+ O$ {; I; G9 ~0 @
けたというのである。$ {' f. p+ I5 a' h* T5 ~( Z
 , K* w# c7 c; m$ ~
 7 Q, d: v" G% ]. q2 b( P
 一説では「敢諫の鼓」を堯のこと、「誹謗の木」を舜のこととして説; G. E3 {3 S1 Y9 t5 ?+ L2 O- b7 e( ^% `3 I
く所伝もある。また一説では堯が「進善の旌、誹謗の木」を立てたとも# Q$ U2 T* Q9 O5 {7 i
いう。「進善の旌」の方は、旗を大道の傍らに立て、善言――政治につ
) G) b* D0 I2 \" Uいての善い意見のある者に、その旗の下で自由に意見を発表させたとい* }8 _1 q+ V6 a/ e
うのである。; [* q( D3 D# z8 J% T
 
* P( M( S' Q* n7 _$ A$ L いずれにせよ、これはまだ「人民による」デモクラシーの段階からは
3 R/ [) y' y! h$ Fほど遠い古代帝王の専制政治ではあるけれど、政治を民意に本づけると8 K- s/ C9 }% A% j& P2 J% _# h
いう理念を示すもの、或いはまた政治には我々に意見をも採り入れよと: T/ y( ]  d  @- y
いう人民の意志、願望を示すものとして書き伝えられた伝説として興味
8 C) x! U( `* o8 B! v8 Z" c深い。  r3 a" f. Y# S+ `* m
 
, @7 t; u+ Z9 \- V* r 
# o; E; x6 `. n! C) U なお「誹謗の木」は四本の木を縦二本横二本に組み合わせたもので、) h7 {. y  j9 l/ ^, F: n" {
後世の「華表」(とりい)の始まりとも言われている。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 14:42:00 | 显示全部楼层
年々歳々花相似たり
3 \2 M- n6 V! `; B% @
" I) i# u  l. l7 f  p- |
 初唐の頃の詩人劉廷芝は、詩を作ろうとして苦吟していた。1 ~7 ]; \0 k' i
 
+ N  H! T2 }- p4 x 「今年花落ちて顔色改まり、明年花開くとき復た誰か在る」# E; U& H2 C2 ]/ {* y) g. ?0 X  p
 
% j2 X5 u5 Y  b6 x" }% H8 T1 z という句を得たが、あんまり縁起のいい句ではなかったので捨てよう
+ J2 _( R9 ]% ?/ j" x; ~とした。しかるに更に頭を捻っている内に、こんどは、% f9 [, I7 h0 ~5 u; r
 
/ L9 H1 M5 C& G6 x4 u$ G) v9 ? 「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」
- @) V: x( m+ ^9 s3 O 
+ C$ j, p3 C' _. P という句を得た。《ふむ、この句があるなら前の句も並用して活きて2 T7 U$ o$ x  \/ t0 p: @! Z! ~
くるわい》 というわけで、この二つの区を中心にして作り上げたのが) W; Q& Q1 p  |% W2 a+ U
有名な、「白頭を悲しむ翁に代わる」と題する下の詩である。" g! H2 C( Y3 }. F
 
- T: p3 e' ~/ {$ K: x, e0 ~   洛陽城東桃李の花
, F* H3 A- f: b1 N# u; P" P   飛び来たり飛び去って誰が家にか落つる
& G4 w9 ^. F& a' N) C   洛陽の女児顔色を惜しみ( U/ O; o" g6 a
   行く行く落花に逢って長く嘆息す5 _2 I7 c$ N2 `0 w  i! F7 Z
   今年花落ちて顔色改まり
! u$ L! C% W/ G   明年花開くとき復た誰か在る& ^. v3 B+ H" A4 A6 O# w
   己に見る松柏の摧かれて薪と為り
- x4 @7 b/ a7 e. i  ^, h   更に聞く桑田の変じて海と成るを
0 C4 u9 a" g' c8 s; p# E+ K/ f: X/ h   古人復た洛城の東に無し( h4 D6 c0 e4 J+ ^# u
   今人復た対す落花の風
; J7 L4 u. M+ S( O8 z$ G) \" e( _3 }   年々歳々花相似たり
9 R0 j0 J' L) w   歳々年々人同じからず
1 Q( _9 W) O$ b$ u/ l   言を寄す全盛の紅顔子
5 m: e' \& E0 J$ S   応に憐れむべし半死の白頭翁   (後略)$ ^% K0 w7 w! u
 2 e2 e$ v5 C1 D
 6 }7 {! j4 ^8 W! p4 b" c  F8 v
   ここらあたり洛陽の城東は今春の初めで、桃や李の花盛り、
/ e# w, k9 i8 Z7 K& b   その花びらが、風のまにまに、どこかの家へ散ってゆく。道を4 {7 E1 I/ t5 O( @/ s
   行きながら、洛陽の女が、散り落ちる花を眺めて、ホゥッと深
" v$ K$ h# G* I9 D2 M2 Y   い溜め息をもらしたが、年とともに衰えてゆく容色をいとおし/ g  c% m% H* c* m0 ^, ~
   んでのことであろう。考えてみれば、今年こうやって花が散り
0 b% j5 w3 m3 k: a- T0 E   落ちれば、それだけ私達も容色が衰えてゆく理であって、来年, w5 p$ b- X2 p1 S: ^
   再び花開くとき、今年この花を見た人々のうち、誰が生き残っ/ [4 `3 \. E; X8 ~2 ]  I
   ていることだろう? 古人は、「墓標にと植えてあった松や柏* O. K6 T. f* i6 k) D
   のような常緑樹さえも、いつしか薪に伐られ摧かれ、墓所のあ
3 H! T6 ~! ]- _# F  k9 ]7 Y, F& y   りかも解らなくなってしまった」と嘆いているし(漢代の作、
/ J/ s: X5 m& V1 ]1 x3 y- \   古詩十九首中の句)、更に、「かつては桑田であったところが、4 B" r  }/ w) l- }, d  H2 x
   いつしか海となり、海となったところが、いつしかまた桑田と8 b4 S4 I. a! P: O
   なり、僅かな間に三度も変わった」(晉・葛洪作「神仙伝」)
* U# X0 e0 x( G0 K, o* ^& Y; r" Z. S   という嘆声も聞いているが、まことに、常住不変のものは何も, u# L5 x! ^9 X* m
   ないのだ。現に、洛陽城東でこの桃や李の花を楽しんでいたで
9 f7 o0 Y! U6 M9 d  z  ?   あろう古人は、今はもう誰もいず、ただ、今の人たちばかりが、$ V3 w1 m/ l. U8 s
   古人と同じように、花を散らすこの風に対しているだけなので. O1 x" f+ Z  P; F
   ある。年々歳々花を見る人の方は替わってしまう。―――そこ: M) c' S9 u* z/ W/ C
   で、今を盛りの紅顔の少年諸君よ、その髪は諸君と同じように5 q* f5 Z# C# I: Z$ B& R
   紅顔の少年であったこの人、今や死期も間近いこの白頭の翁は、
5 ?$ G/ B* E! _1 e   まことにお気の毒ではないか、; I7 f  M( n" @& B. z( F; A3 g9 f
   諸君はそうは思わないだろうか?)
5 |$ ^: y, d! \5 m# g 4 M% N0 e. `/ X* F' n+ ~" b9 {0 W
 と、老いの哀しみと人生のうつろいやすさを嘆いている。ところがこ3 m  C8 Y# q+ J, D
の詩は劉廷芝の作ではなく、その舅の宗之問の作であるという説があっ
; S! [0 d/ N: Z' c+ M# j- c' Zて、それにはこんな話がある。" A' Y8 M$ x0 }/ v8 q4 Y5 b
 
' U9 B8 u$ ~, \8 R3 d# z$ S; \6 O 「年々歳々花相似たり云々」の句を廷芝が作って、まだ誰にも見せて. S. {4 f% {1 z+ V
いないことを知った舅の宗之門は、この句にすっかり感じ入っていたの
+ z% r. {7 Y, B/ Aで、密かに廷芝にこの句を譲ってもらいたいと申し込んだ。廷芝は舅の* E. x* s; t4 R* I. V
ことであるし、一度やむなくこの申し出を承知したが、しかし結局は譲* C# D1 u& N$ A' S! Q
ろうとしなかった。宗之問は恥を掻いた上、約束を破られたというので6 k  j" _8 k( P$ B7 X4 W, O& p
カンカンに憤って、ついに廷芝を土嚢でもって圧殺してしまった。. s! S+ J$ v/ B' M  }/ L/ @0 f$ r5 N
                          (「唐才子伝」)
8 X/ f5 f" E: f' M' b6 g& l( b + e0 a/ G6 T5 I; R( \" H! `
 というのである。: I+ {( R+ ?4 e1 [4 I6 [
 
3 K' c/ M/ z3 I# e この説は何処まで信憑性があるか疑わしいが、昔からこの名詞句にま. B+ k# `5 b  ?' A
つわる一つのエピソードとして見るならば興味がある。なお宗之問作と
$ a* Z6 C, W2 m! ]# G" Oされるものは、第三句「洛陽」が「幽閠」、第四句「行く行く見る」が
8 D2 E; w1 |. Z" ~「坐して見る」など、数カ所に亘って字句の異同がある。" i4 S0 s# g% V( o' i/ a
 
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 楼主| 发表于 2005-6-20 14:42:27 | 显示全部楼层
杯中の蛇影

# u6 F& A; t5 `! ^: `- R
, A) V7 v/ f1 O1 |4 J+ U5 J 晉(265~316)に楽広という人がいた。この人にはいろいろな話があ4 c: O& t5 J: J; l
る。まだ八つのころ、道で遊んでいるときに魏の将軍夏候玄にあった。# ~$ U; {# f2 p0 [0 z9 M* X# m
夏候玄はこの子の人となりが清らかで、怜悧なのを愛して、学問をすす
5 l  Z  @# M+ m) }, _7 pめたという。家が貧しいので、ひとりで書を読んで学んでいた。つつま
* ?9 C. e$ V: s$ J+ |しやかで、でしゃばらず、人の話によく耳をかたむけるたちであった。
7 X, A- R. z  hのちに見出されて秀才にあげられ、官についたが、やはりつつましやか
- J# Q! _8 k' S6 Q! aだった。だが、あるとき彼の語るのを聞いた多くの名士たちは、彼の言
/ q) M  [3 c) H: p& B  v, gを評して、「水鏡のごとくあきらかであり、雲ひらけて青空をのぞむよ: w; B/ T% {, c5 T1 g- H) R6 H- ]
うだ」と嘆じたという。この楽広が、河南の長官であった時のことであ/ j7 w1 c/ l; Z) N) j
る――/ a) G1 U1 K/ s
 
* Y0 a/ A) U6 d* [ いつも来る親しい友人があったが、ながいこと訪ねてこない。広はふ" M% C/ |% Q+ `& j# @! |% T8 N6 ~
しぎに思ってそのわけをたずねてみた。すると、
3 y- c5 \7 p4 ]* s, q: H & t* q( |9 X( U3 D( N# D( j4 T9 D
 「このまえ、うかがって酒をいただいていたときでした。7 z! {2 F# h$ r5 y
  飲もうとすると、杯の中に蛇が見えるではありませんか。& _9 N$ a# r. H7 ^5 F2 x
  気色がわるいけれど飲みましたが、それから具合が悪いのです。」/ X' L  F3 c$ U, ~& x$ f' @
 2 q7 M- s6 F* T9 W# m- ?5 v
 おかしいことだ、と広は考えた。このまえ飲んだのは? ……役所の
9 a6 E1 [) k* Q) T+ ~8 v一室だ。あそこの壁には弓がかかっていたな? そうだ、弓には漆で蛇
& ]5 a$ u* k) r6 r- e0 aの絵がかいてあった。……広はまたその人を招んで、まえの所で酒をく
# E7 r. i) K: X3 Rみかわした。杯に酒をついで、客にたずねた。: B/ H' M; x. K0 |8 |4 y
 
7 a6 C  i4 T& G9 A 「杯のなかに、また見えますか?」3 l; q; {% T6 C/ y! E+ L. l
 「ああ、このまえとおなじに!」/ K& s- f2 u6 R/ o2 a! g
 「その蛇は、あの弓の絵の影ですよ。」! b5 D" u) H( P2 c8 d4 a$ Z
 
" Y' l& z& S% k8 F# |6 v$ m) C' _ 客ははっと悟り、病はたちまちなおったという(「晉書」楽広伝)。
/ L9 D5 T* ^! Q# F6 U  U* x: W % S' s: D2 ?6 Z/ B
 * U& r8 v0 u$ D3 D0 B$ D8 _  ~
 疑いをもてば、なんでもないことも神経をなやますということに、こ6 l2 Q# b7 a0 O4 J: t, |5 C
の語はつかわれるようになった。「杯中の蛇影のみ」といえば、気にや% k0 K, _: E8 J2 O
むほどのことはありませんよ、ということになる。「疑心暗鬼を生ず」$ E/ x2 j2 S" O( [
とか、「幽霊の正体見たり枯尾花」とひびきあうことばである。今のこ
/ X& O# X+ p! j5 x; N+ dとばでいえば、ノイローゼというところか。
& T6 W6 Z3 a& a- { 
3 Y  D- C9 h/ w8 G # t% F. a0 y- }0 h
 楽広はもの静かで、目の澄んだ人だったらしい。河南省の役所にあら5 z3 D2 d0 J3 s1 p. r1 O! e
われるばけものを、狸と見やぶった話などもある。のちには左僕射(左6 t; u# \# v' K9 g: r
大臣)にまでなったが、事に座して陥れられ、憂いながら死んだ。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 14:43:08 | 显示全部楼层
無用の用
# ?3 c1 i8 I  N& B# g4 s
/ _. o: L, g& g
およそ有用――役に立つということは大事なことに違いない。
$ Y. [7 T1 P: {% o. \9 oだが、浅はかな人間の知恵で推し量られる有用が、本当の有用であるか8 O# ]: l& h! L4 I. r) V
どうか。もう一つ上の、“道”(タオ)の立場から見れば、凡俗の輩の
( S1 o# {* {5 @; `2 z* g有用などは取るに足らぬこざかしさ、いや愚かさに過ぎず、無用とされ5 B/ f2 l0 V& X. x: h+ g
るものの方に却って大用――真の用があるとも言えるようではないか、
0 w' j9 r) L# [" d6 Y* b' Mと例の皮肉哲学者荘子は、無用の用を強調するのである。
3 p6 K8 k* V" A  w % m; B3 }  W3 {1 p/ N; t' e/ c, R
 そうした意味で、「荘子」の書中には、しきりと無用の用が説かれて# `/ _0 P3 N/ k$ e9 ]3 g* s
いるが、その最も代表的な例の一つは、「人間世篇」に見える楚の国の! ~9 V5 E7 \' v; ?
隠士狂接與が、孔子に対して発した批評の中で語られる次のような言葉
, \* P4 V& J% k5 Z3 F) Aである。/ D$ y( S6 L7 f* D. T
 * ^( B  c; c  f
  「およそ山の木は人の役に立てばこそ、伐り倒されて我が身に1 L. w, }& p# v8 k* F" ]
   寇もしよう。膏火は明るければこそ、火をつけられて我が身, X3 j2 i2 U! q- G
   を焦がしもしよう。肉桂は食料となり、漆は塗料となればこ
1 d. w2 Q1 g9 F3 d( W; K" x   そ、伐られもしよう、割かれもしよう。人は皆、有用の用の/ W" Z  Y2 n7 Q$ T1 I
   み知って、無用の用を知ろうとしない。憐れむべきことよ。」# P# u5 b7 m+ n5 U$ M& e$ @
   R% d9 a  a: o
 こう言って狂接與は、仁義道徳をもって乱世に為すあらんとする孔子
: d5 B: f) U" N/ @9 Tの態度を諷した。さかしらの有用は、却って我が身に寇する有害無益の
5 w8 A6 }. `; f& t/ n# Uことに過ぎぬというのである。
. v2 J$ R5 J2 g( X / `2 y$ f/ _5 P; N! Z! T
 
2 B. o4 h8 c2 J1 }; E とすれば無用の用とはどういうことか。荘子は巧妙な比喩を使ってそ# N9 B* @- ?7 K; k1 w
のことを語り明かす。  \  {/ N) S- _$ i
 
1 _/ R/ j7 Q- B% q1 V ある人から、$ D4 z* t+ P5 D; ^4 k' {
  「君の議論ときたら、無用きわまるな。」
% ^' K8 r* B! ~( a4 W, C ) s2 z. S! K, U2 {  p
 と批評されて、荘子の答えはこうである。3 T! D7 v% S- u
 
$ T2 G0 g8 f5 I  k" N2 _  「いや、無用なりゃこそ、用の足しにもなるんだよ。地面にし
( ^; y. c) y( E! S3 c+ j8 q8 t: ^, W   たってそうだ。人間が立つためには、足をおく余地さえあれ+ y4 P  ~5 h# Q1 Y. J
   ばいいわけだが、さて足をそばだてて、その廻りをみんな奈
4 c4 `+ }. w$ L   落の底まで掘り下げたとして見たまえ。それでも足下の地面
' C) r6 k& H; }" I% {! Q8 Y   が何かの役に立つだろうか。」
7 B+ O) Z. @8 p$ O3 [6 J: u 
3 l" p( g% u! ]' c6 R  「それは立たないさ。」
1 D$ I. [5 o/ t8 _2 _8 ^ 
8 R5 U6 x" Q+ O- j. i  「してみれば、無用が実は用の足しになることも判ろうという
* K% m" A6 H# X8 x, j   もんじゃないか。」9 H# h5 i2 o  C0 S6 Y9 `! W2 j. `3 y
 ; d( ^1 e5 r% Y8 \+ s) B. Q' B2 @
 だが更に言ってみれば、本当の無用の用とは、人間的なさかしらを去
( ?3 ^; y1 i5 i! ~って、“道”の世界に優遊する事によってのみ果たされるのであって、( x" U5 g' g! h3 x: P) J+ C: \% u
常識的な意味での無用――役立たずとは少し違う。その間の消息を明ら
8 B: V6 G! ^8 {かにするために、『荘子』の山木篇の中には、またこんな話がしるされ2 v9 G5 f! z+ [0 h2 C) `
ている。. d4 k: z' z% `0 U  ]
 ) ^) f! K5 q/ J
 ある時荘子が弟子の一人と旅に出て、山道で枝葉のこんもりと繁った
' |5 q6 T; H7 S0 M* Y& ^大木を見掛けたが、付近にいる木樵も、この大木には手をつけようとし0 A; ^0 V& |7 j+ l0 P: C
ない。わけを聞くと、「この木は役立たずだからほったらかしてある」
" S8 S- ], k% N- W! S) P1 _* V0 v/ Sという答え。そこで荘子は弟子向かって、( I/ W, s- G  M& K
 7 ~( g2 `/ ^# w
  「ほれご覧、この木は役に立たぬお陰で、自分の天寿を全うす
, a4 k9 ]9 L5 q& z. v   ることが出来るんだよ。」9 y$ p" [: [- O/ J- F7 u5 M
 
5 d$ e1 W: ^/ s3 n9 m と教えた。ところがその晩、知り合いの家に泊まると、そこの主人は
! Q  S2 ?5 y6 W大喜びで、飼ってある雁を潰して御馳走をしてくれたが、その時には二
+ u( f- z, g1 g# \  i/ H羽の雁のうち、良く鳴くのと鳴かぬのと、鳴かぬのは役立たずというわ
- [) O- @1 z5 B" v% g$ L5 _けで、その方が潰されてしまった。弟子は戸惑って、
/ B: H: Z% \7 C8 H% U1 J( C 
% ~+ w1 u: {- q& k  「さあ判りません。こうなると役に立つのと、立たぬのと先生$ ]$ b) c1 G' b, B+ Q: v1 u/ L
   は一体どっちをおとりになるわけですか。」
) a6 l2 K4 L- y) S! q. A$ _4 ]: G 
  n/ ?# E0 V9 ^2 N- L. n3 Q: h4 ~0 C6 m と訊ねる。荘子はにっこり笑いながら答える。
1 a. T: E& ~& v# G+ Y& s# k% \   [2 [4 r: m& t6 u! y$ O) {9 v* o
  「そうさな。わしなら役に立つと立たぬの中程にでもいるとし* ^' l2 H9 j9 k; R
   ようか。もっともそれもまだ本当に“道”に遊ぶと言うには
6 r- s4 }" m% o* L   足りんから、ちと累が残る。本当に“道”に遊ぶと言うのは3 t; Q) N' l" M' Z
   だな、誉められもせず、謗られもせず、その時々に順応して/ h, w1 H7 S) s) U% R" B
   些かのさかしらも弄さぬこと。浮くも沈むもままにして人と
" N' U$ M2 w2 O8 b) T   争わず、“道”のまにまに身をまかせ、物を制しても物に制+ W2 e" ]) Z5 i9 [, N
   せられぬことだ。そうすれば何の累も残ろう筈がないじゃな9 \3 z8 y0 K' t( _' t7 ^( s' X
   いか。」
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 楼主| 发表于 2005-6-20 14:45:01 | 显示全部楼层
陽関三畳

' Y: n9 X5 b# U. t, B; m
: }3 s7 Z# c' T2 l( K渭城の朝雨 軽塵を潤おし, y' }4 P+ l5 K1 h! S; \
  客舎青々 柳色新たなり! j! ?4 l' A4 H& g" x
  君に勧む、更に尽せ一杯の酒2 C; J+ L" f, c, n
  西のかた陽関を出ずれば 故人無からん。. Z" s7 }: ?, |$ `' x) p  o8 J
 
9 P, W3 Z" b& T' U   朝からこの渭城に降っている雨が、7 [: e% ^: x3 v/ j
   黄塵をしっとりうるおしている。+ w  ?: V$ H2 h+ w+ \
 
9 V5 J% W# {% o0 k) t   いま別れの宴をはる旅舎の柳の色は、. O5 f; l7 ]& y5 x' K% K8 N) {
   一際めだって緑を増している。1 U+ F& F  D- f9 U# b; w
 5 Y6 q. ~& s8 x: R/ t
   これより遠く安西へ旅立つ君よ、2 K; m0 |  N$ d1 q
   さあ、もう一杯杯を重ねたまえ。
- W6 K1 y$ b3 e+ D- R " J  q/ W' I" Q0 t+ S" z
   ここから西、陽関を出れば、
, n& p  W! B9 D  u  ~  `0 c/ }   酒を酌み交わすべき知友もいないだろうから。7 F4 |; B, Y, Z6 ^  t
 
. `. i$ V, i0 }1 n  g, O; m 
. T1 x) e* j/ `6 N; _3 u 説明する要もないと思われるほど有名な唐の詩人「王維」の詩、, S# q& x4 \# I1 G9 e
 「元二の安西に使いするを送る」である。
2 ]9 G$ z* \5 W( d 
) u% V8 R' H: I: x3 ~5 ~- i- U, o 
0 t- |& }0 i+ O8 j% O( r 王維は唐の玄宗皇帝に仕え、進士に登用され、安祿山の乱ののちは粛; `8 Q: B7 E8 y1 y4 t' X8 m
宗に仕えて尚書右丞(官房長官といった役)に登ったが、早くから学と芸7 B6 y1 ^) }+ b- R% Z: \
と二つながらに秀いで、その詩、書、画ともに優れていた。玄宗皇帝初" d/ l* x: L; @4 [6 ?1 e5 x
期の太平の世、唐朝の威光は天下にあまねく、その勢威は遠く西域まで: n1 X8 k( R# y8 H9 P1 P
ものび、外に壮大なる版図を擁し、内に詩文の花が綾乱と咲き誇ってい* }6 ]( R" j- x6 {! D
るころである。いまはるかに、西域、安西へ派遣される元二を送る、静) G) {2 ], N) G% \# y
かなる哀愁、胸を突く別離の情、まこと情緒纏綿として尽きず、古くか
9 K2 ?' }+ T8 I0 u* Cらこれをもって別離の詩の第一等に挙げ、送別の席には必ず歌われるこ
1 {( ?: O2 u0 a8 o) pとになっていた。読書子もおそらく別れの宴や、友人知己の誰かを送ろ8 u7 R8 I4 ^4 L/ e& p& x" D0 V
うとしてこの詩を一度ならず歌ったことがあるに違いない。! z+ u" `; Y" h% |/ g) B% }( @
 
' n. P6 N; d  o% r 
) W5 ^4 ~' i' B; C7 M, B なおこの詩は「陽関の曲」「渭城の曲」といわれ、歌うには「陽関三. ]5 {' }; D1 s  _5 z
畳」という歌い方をする。しかし、その歌い方が実はハッキリしていな/ o2 V% t! c6 |0 w) Q
い。欧陽脩によれば、結句を二度くりかえす歌い方だというし、蘇東坡
9 m3 U3 |6 S' Z/ I1 N9 m' {は各句を二度ずつくりかえす方法と、第二句以下をくりかえす方法とが9 w2 {, T1 t; p* {
あるという。ところが「留青日札」には、さらに別種の歌い方が三種あ! X1 j' ?: ~: r, h
げられている。要するに決まった方法はなかったのであろう。わが国で3 ?7 C1 o% H  o" g) w
も古来三種の歌い方が行われているが、「無からん無からん、故人無か2 |( n9 s3 L7 s$ H* c3 M4 @
らん、西のかた陽関を出ずれば故人無からん」と歌い納めるのが一番通
! P$ S4 }2 b) m  W$ K+ i# _らしい。要するに、原詩がポツッと終わっているので、歌うものの余情
! j: [5 k* ^  Y4 Dをこうやって繰り返しに託すのであろう。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 14:49:31 | 显示全部楼层
人間万事塞翁が馬
# [" `0 R  l; {, @: |) v

, Y7 c; O2 ]% L4 W0 _昔、中国の北方に住む異民族を総称して胡と言い、漢民族から大変恐* ?( I2 m4 a7 b3 Q6 s
れられていた。これはその胡の地との国境に位置する城塞の辺りの話で
. z! P- e4 }% Z! t! e% ~* m% U! bある。* x, W; ?6 y: V/ x! f1 S
 ' g1 {: `  w+ [* {3 f. n9 g# @+ G
 
6 S( _3 F  H3 p; R, _! o  b この地に占術などに通ずる老翁が住んでいたが、ある時いわれもなく3 s  b  y/ ^4 t
翁の馬が胡の地に逃げてしまった。南船・北馬と言われる北の大地で馬
1 f; m2 K/ I3 Kを失ったことを、近所の人が気の毒がって慰めに来てくれた。すると翁3 u& \+ J) c5 a. d0 k6 W4 C
は一向に気にとめる様子もなく言った、
" |4 D* X' E6 ]0 Q' W+ b 3 J- C3 V. J# M# ]. v8 k
 「これがどうして幸福に転じないことがありましょうや。」
7 ]! o0 C0 \, \3 Z3 z 
+ v/ K1 E1 X1 Q" u 果たして数カ月もたつと、その馬はどうしたわけか胡の良馬を連れて
; a) ]! |! _  p" e4 n7 `帰ってきた。人々は早速お祝いの言葉を言いに来たが、
' G7 e5 Q7 _4 i9 j! G) P0 }/ k! E" Z 6 a5 a+ M( H+ c2 H$ E: T
 「これがどうして禍に転じ得ないと申せましょうか。」
4 u0 @6 S, w/ m / K) N1 K$ ^" X' n; c/ t$ u5 L
 と、少しも嬉しそうでなかった。$ |# Y! E$ P8 t6 D/ K
 ) G. U) {2 \( [+ z
 
! Y/ S$ D9 n$ d1 g 翁の家は良馬に富むようになったが、やがて侎Rの好きな息子が、馬
2 {( _1 h$ P% d: T% Q1 Mから仱曷浃沥乒嗓喂扦蛘郅盲皮筏蓼盲俊%鹰氓长摔胜盲肯⒆婴蚩砂隲
/ _8 s) Q" {% R2 @- q  Iに思った村人は、また翁を慰めにやって来た。+ L+ _- f1 }) X# r! f5 W
 8 V( a& A) |, B2 B
 「いやいや、何でこれが幸福にならないことがありましょうや。」
- T# I, {  R8 t3 f  n  F8 [: P 
% f/ T1 t# |+ | 翁は依然として平気の平左であった。8 V# m/ \' U+ F& C" o- n/ c
 
5 i- v* N, v9 z, l" K, Z/ j5 A 
: R$ M; V# W1 b# z) J  [- d その後一年たった頃、胡人が城塞に雪崩れ込んで来た。村の若者とい
# c6 ]2 Y4 x. ]. O, [1 K1 aう若者は弓を引いて戦い、十人の中で九人までも戦死した。しかし翁の8 J: O& _, {7 m- j& P  O: A
息子は不具者であった為戦争に駆り出されず、父子ともに無事であった' ^% Y5 K& f" @- E. M6 l& ^: M9 K* s
という。  _/ f- ~; X" X
 
3 ^, g/ |3 H5 ]1 W 
3 A9 B; ]& j6 A" A この話は『淮南子』の(人間訓)にあるが、この前にも同じ趣旨の話
& k, _4 P% R0 M- {7 rが載っている。
: r( z8 O3 g2 J7 M" @% p + B6 Q3 D* ~7 e$ s- O# I1 p
 昔、宋の国の善根を積んだ人の家で、¥驻ぷ优¥虍bむという吉
2 e' C9 s& I' u* p* n' S祥が二度もあった。だがその度に父と子が順に盲目となると言う不幸な
9 k6 H' Q% _' W結果となった。しかしその後、楚の国に攻められ、並の人間は全て酷い
, p4 ^9 [& {6 r% C. \* `目にあったとき、この父子だけが盲目の故に生命を完うしたばかりでな
: F" T; U1 v; Sく、戦い終わったあと目が見えるようになったと言うことである。* C/ r7 |' d2 \) E; Z& Q* K
 $ v+ d" k6 }  O  g# p" V
 
! @/ }- [* P# R$ x, v いずれも「禍福は糾える蠅の如し」(「史記」南越伝、「漢書」賈誼伝等9 j2 s; _) B1 y- {6 f7 U
の類語から転じて出来た語)の良いサンプルであって、「人間万事塞翁0 K% \# S% i( G5 y
が馬」は前の話から出て、“人間の吉凶禍福の定まり難いこと”を意味4 A7 z* T0 l% p
してる。なお単に、「塞翁が馬」とも言う。
" X8 f8 [# G, n" x5 u) ?7 l: I 
' }9 n. H7 g& }( n& |1 l6 B 
: t" F1 \+ x- u 元僧飢熙晦機の詩に「人間万事塞翁が馬、推枕軒中雨を聴いて眠る」* {* ?3 S3 Y% V; v, r0 v) j
(推枕軒は晦機の居室のこと)とあるが、これがこの語を最初に用いたも
$ A; U9 B9 K; Mのであろう。0 N+ V) ]+ q9 m, E4 y% M
 
& w2 |  h+ |8 p 4 E( ?- X# u' t4 p  \; a' h
 上の二つの話は禍福がただ転換することや、人生の偶然性を指してい
5 a1 R& Q6 L7 R! N& B7 }8 A% ]5 Cるように思われるが、『淮南子』の本意は“偶然と見えることも皆人間
/ I, |& l+ S& [2 N& x* m9 K5 [が自ら招くものだ”と言うところにあるらしい。
. n$ X0 y  O* r/ A, H6 _, C 
0 k7 _8 e* K, j% w$ J9 t それは〈人間訓〉の書き出しの一部に、“それ禍の来るや、人自らこ
9 t4 ?! N0 `8 I4 u& U2 N* T+ x8 cれを生ず。福の来たるや、人自らこれを生ず”とあるからである。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 17:37:43 | 显示全部楼层
鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん
! k- Z' a' s# ^+ {: I) \2 q' s+ d

. Q- F4 v0 K, }& P. m8 _& Q 孔子の弟子の子遊(言偃)が武城の長になってその地を治めていた。或
3 U; E- r+ q% X4 H* K' {& ^) u2 e$ J, Nる時、孔子が訪れてみると、武城の街には琴や瑟の音が鳴りわたり、そ
8 U$ [$ r0 G7 ?3 w3 M8 O3 bの音に合わせて詩書を歌っていた。
- M2 v; @6 e1 N' ?# r4 U * @- a/ E' ^$ t2 x$ t
 もともと孔子は、その弟子たちに、国を治め民を安んずるには礼と楽9 K: J- R* q/ c" \
の道をもってせよと教えていたので、子遊の治めているこの地に来て弦0 e- j$ F) R9 G8 l+ ^- G0 o
歌の声を聞き、日頃の自分の教えを忠実に守っている様を見て、〈はは
  H0 S: X( n. ^( j9 C+ o  d. t6 xあ、やっておるわい〉とわが意を得たわけであった。
# \6 J( x9 L( g8 V8 \ 
, O( R1 v6 g& E# m; D% p よほど嬉しかったのか、滅多に言ったことのない冗談を飛ばした。丁% o8 m( s3 M& }* J$ [+ m
重に孔子を迎えた子遊に向かってこう言ったのである。4 J( _9 G' o7 e4 t  F* g& F
 8 a' H; F/ K" v0 }- t* C9 o: |
 「子遊よ、- v0 N6 O5 x3 E5 j2 x; p1 e. w- ]
  武城のような小さな地を治めるのに、) Z+ }. O* m% z# y9 Z
  なにも大げさに弦歌なぞ教えんでもいいのじゃないかね?
( _( m1 @9 T0 [2 Q- K4 J  鶏を調理するのにわざわざ、
  U8 ^3 f, V6 ?  t; L  牛を調理する大きな刀を使わんでもいいのと同じじゃないかね。」                (鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん)
! T4 B  Y6 N: O9 B$ T: a5 H) f, [( h 
/ _. I9 p8 p1 s; v% s: o* q 子遊は、日頃まじめな自分の師がまさかこんなことを言おうとは思わ  p3 J+ r& }9 P5 @8 G9 ~
なかったので面くらったが、
4 M0 {! U2 `4 F% \) X& P 
& h1 [) E3 J: i& m1 F, t7 n8 L 「私は、先生から、
7 q& H6 x' \7 h; D/ z- \  人の上に立って民を治める者は、/ y8 R9 z" s) P4 t+ D7 c4 z, {
  礼楽の道を学ぶことによって民を愛するようになり、: z  I, C* z* d& v! O4 [
  また下の民は礼楽の道を学ぶことによって温容になり、) }: ~8 z* d& s5 G( i$ @: X
  よく治まる。/ h6 x1 w' v& v  s3 ?
  礼楽の道は、上にも下にも大切であって、3 x/ J' ~  n% P* h) ?
  これを学んではじめてよく治まる、と教わりました。9 L; s& V& c' K2 P* O# }
  私はただ先生の教えに従っているだけでございます。」
3 \3 F- {' }2 r& [ 8 d/ S0 c3 |, {! c: M  G' v
 と返答した。& m4 t! `6 O  s; }0 f
 / \7 ^/ v$ N* o) n/ n: o/ K$ U
 孔子は、軽い冗談のつもりで言った言葉を子遊が大真面目に考えてい; b# {" {% F: \$ {$ N, V0 }
るので、少々気の毒になり、
# |' a! E" _" r* A, a( x% M 
. @2 ~1 L7 b+ N 「いや、いや、冗談だよ。
* d/ p+ `+ e0 J' K5 J% V  子遊の言った通りだ、# M8 B- G2 F% L0 v! T
  立派なものだ。」
: b$ h( ?( X  j. D; u- ?( R0 N 
2 c  M5 t8 Y  P3 R. Z4 s8 a と左右の弟子たちを顧みて言った。        (「論語」陽貨篇)
; t' D/ F$ d* Y" f* U- D 
' F: o/ L) ~# C* u% G6 l 5 V. m3 ?# M0 {3 b
 これから、「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」とは、小さな事を処理
  F% A0 V$ `& zするのに大器を用いることの意に使われる。
- V: y+ X% d  d) Z: @ 
* m8 E2 d) e+ K2 A+ B6 {0 @, E なお、孔子の言った意味を、「子遊のような大器を、武城などで使う+ g1 O5 C* ?4 M0 d& n! ~( m
必要があろうか」という意味や、また、「武城には弦歌の道よりも、ま
5 e4 Q# }7 E$ _8 j: n$ W3 Jずやらねばならぬ要務がある」という解釈をするものもある。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 17:40:04 | 显示全部楼层
似而非なる者

! @, `* ?+ m8 b1 G: s$ b$ k( {: N. w2 I+ q5 d; r4 j7 i8 N
孟子の弟子の万障が師にたずねた。
. T6 O# C( g3 I 
% W# x; u$ s% m4 l" M) K( v  F 「孔子は陳においでになった時、
1 Y) _- L' j/ C# s7 f* S ( m% H; @- z1 C: h" T% P% u0 t
  『なんぞ帰らざる、
+ K9 f8 P7 y9 B: y8 C/ s   わが党の士は、6 t" P! E9 t3 L$ T* V0 z) J; R- z1 H5 {
   狂簡(簡は大の意)にして進取、
/ ]/ m  C/ r' g% x$ e4 \   その初めを忘れず。』
; w5 S7 m  {' `# k: e            (「論語」[公治長篇]にほぼ同様の言葉がある)6 f3 {2 I# ~" C
 ( R1 s8 S  _6 X& ?
  とおっしゃいましたが、7 P4 p0 X9 G! j. u: F' L$ ^
  どうして魯(孔子の生国、「わが党」)の、
' s$ C3 I5 d" R  p  狂士のことなど思われたのでしょうか?」5 i- \3 g! M+ j+ u, _' }) C- L6 u
 
9 J; {! d, |8 p# {( f/ v 「孔子は《中道》の人を求められたのだが、" P8 a: E, w) S7 q- `" ]( |
  それが得られぬから、- G+ {. ]2 `" L& e& G2 H- e. Z
  それに次ぐ狂狷の人を求めたのだ。」( f: w$ Y" L8 O
 
* T: I7 S1 @% E+ E/ Q1 m 万障はつづいて[狂][狷]の説明を求める。狂とは、志大きくて「古の
$ d8 e& S* O& d# a) h人、古の人」と口ぐせのようにいって徳を慕うが、行いがそれについて0 f/ h) l# N* i/ P6 s5 `+ T; \5 q
ゆかぬ者のこと、中道すなわち中正な行いの人には及ばないが、それに& H5 ^* D. K2 J/ {. w* f
次ぐ得難い人物である。狷というのは、積極性に欠けるが、よこしまな
& x& w0 X0 ]6 m6 |( u行いはしない者のことで、これも凡人にはなかなかできないことで、狂, x+ U% \& E& r
者につぐ者である。――
" g: P: i$ M( J8 ]3 _ 
4 V5 |/ R0 B# [% O: T% h7 c 
4 t& ?/ w" h2 H7 x" s( H9 ] 「孔子の言葉に、
, T/ e: Y  ]) M8 j% j- L/ c" }  o4 V & {6 m" w! p8 S# Q  C
  『わが門を過ぎりて、わが室に入らざるも、! P9 f! f" a+ y! O' }
   われの憾みとせざるものは、それただ郷原か。
( Z8 {3 [8 [0 W- ]! q+ [- E; y8 M   郷原は徳の伽胜辍籠2 _1 S. @7 J0 U* r/ y( t3 T% e+ _
           (「論語」[陽貨篇]に「郷原は徳の伽胜
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 楼主| 发表于 2005-6-20 17:40:34 | 显示全部楼层
澶蛞陇埔剐肖绀
9 J) ^$ V4 m: V9 g" ~; r/ N: Y$ L
% h1 S7 d& w9 W3 o" K
有名な鴻門の会があってから数日後のことである。劉邦と、秦都咸陽9 @8 p: k8 @5 L6 l' l* f/ Z* }/ q# r
の一番仱辘蛘盲啤ⅳ膜い四康膜蜻_した項羽が、ニコニコ顔で咸陽に* ?( q( T4 y1 k' q
入城していた。そして、このとき、かれは、劉邦と対照的な性格をよく* y8 k: k. I# |. J( _! d" C) j0 P
示した。
2 z* m+ F1 [7 z3 R$ f/ `+ o & |5 n1 _1 f2 m$ \0 H7 R/ Y. Y
 まず、劉邦が助けた秦王の子嬰を殺してしまった。それから、秦の宮
0 U% N; a+ Y9 f" [殿を焼きはらった。三日間、燃えつづけたというその火を酒の肴に、か( E% E( F" k1 e; g5 j' v" j
れは女を抱いて戦勝を祝った。また始皇帝の墓をあばいた。劉邦が封印
8 W8 I5 X# o1 ?7 i- F% uしておいた財宝をうばい、秦の美女を手に入れた。そして、よく東の空
. r. F& y* B$ p3 ]" D% dを眺めるのだった。
& n8 i/ Y# Z& F" T 7 h! x! X7 |; |% o  Q
 せっかく、帝王への第一歩をふみ出しながら、自らその足元を崩して$ m7 R1 K% v% f0 Z& v4 t0 W
いくような、そのやり方をみて、纸畏秹垽い丹幛皮狻ⅳ欷下劋玕+ }5 f5 u! W! S
なかった。長い戦いの後で、かれは望郷の念にかられていた。そこで、
4 F) u; T3 [/ D6 r秦から奪った財宝と美女をことごとく収めて、故郷へ帰ろうとしたので/ r' ~2 H4 b- [
ある。韓生というものが、これをいさめた。9 w6 D3 Y3 s1 b- u+ @6 z
 
) I0 I% w+ j) I5 i2 \ 「関中は、  k1 Z) z7 F  B2 D6 t
  山河を阻隔し四面塞絶し、地勢堅固なうえ、
: i) ?4 i' I, a9 H& j  地味もゆたかですから、
3 v/ S$ ]* s$ v. R. S  ここに都をおいて天下に覇をとなえ、
/ {+ q+ p( n# K. B# N0 ?8 T# V  諸侯に号令すべきです。」
1 x* ]% W. n. o! _7 J 
- p) m2 k4 d6 l2 _ しかし、項羽の目に映った咸陽は、焼け落ちた宮殿、さんざんに破壊
  q( U/ _. U( C5 z) ^されて、荒涼たる焦土と化した瓦礫の山であった。それよりも、早く故5 [# B4 c- f2 [" `+ t) F
郷に帰って、自分の成功を誇示したかった。東の空を眺めて、かれは言; n( c: W4 F3 {+ A) O
った。
) ?' w# s. e. t- p1 Q 6 D4 f# k1 L/ u
 「富貴にして故郷に帰らざるは、2 ^' G7 v5 r$ c$ v9 L3 w+ c
  澶蛞陇埔剐肖绀贰
7 b- s( t4 Z7 n: t/ G4 w0 D  誰かこれを知るものぞ。」* j- ]/ L- }' L9 G9 r! R7 U/ C
 
3 ?# d' L2 x  s ――いくら立身出世しても、故郷に帰らなければ、このさまを故旧に
6 |7 T: n; j  i, r知らせることができない。そう思って、項羽は諫止を聞入れなかった。
' m8 h# [. n' ?韓生は、項羽の面前を下がると、人に言った。2 I$ T, `* T3 c5 ]
 
- Q! j  W7 b7 P' c1 q+ ?5 @/ w/ a 「楚の人は、2 C" O% G0 B% H9 P) C3 Y
  沐猴(さる)にして冠するのみ、; O& A# w. \2 ]" w
  といわれているが、
" R; D2 [( e! G  なるほど、その通りだった。」6 Y! S& J2 ]: C# [: o! X# C
 ) x% m: h. d$ c$ ?4 I" v- H& a# u
   (猿は冠や帯をつけても、長くは我慢していられないことから、, o% F* f7 z8 E2 h* Q% O
    楚人の性格が狂躁で粗暴なことにたとえたもの。)+ w) x( O7 h3 U8 x+ Q* |/ U
 
5 b8 o8 M$ s3 E( e) n; B$ @ これが、項羽の耳に入り、韓生は即座に煮殺されてしまった。こうし
' b5 G5 ^1 F5 l/ k( pて、項羽は一時の成功に酔い、富貴を故郷の者に誇示しようとして、や
$ |% @9 ~, f* M# x, w/ H3 p1 Oがて天下を劉邦に奪われたのだった。だが――、& Q5 e( `0 B. V3 B
 : h5 ^, D2 C+ j: I5 G9 D
 「澶蛞陇埔剐肖绀贰龚D―澶蜃扭皮狻⒅胝撙胜ぁ⒆苑证纬鯸
9 d% K; |* \% a# g/ v5 c2 y& }世を知らせたい。項羽のこの言葉は、どこか人間通有の弱点を示してい
4 @, m  H+ M% P7 n- M5 A0 c( Qた。そして、この言葉から、「澶蛞陇乒枢_に帰る」「澶蛞陇浦缧肖筡
8 i1 A; K3 j+ x0 i(「三国志」魏志)――立身出世して故郷に帰る――という言葉まで生まれ0 O4 G$ G: l; u
た。項羽は所詮、帝王の器ではなかった、そう書いた史家も、やはり項& I4 o5 j# ^+ k- ~& ?2 A/ x1 v9 x% H
羽のことがどこか気になったことであろう。$ n  S) A3 L, Z8 n4 f
 
+ b/ y, }1 a* q1 n2 G 4 h% C3 Q3 t. u- }  v( x; i( R
 「澶蛞陇埔剐肖工稀ⅰ笣h書」の「項籍伝」の記載で、「史記」の; f6 I- h$ G4 u5 M
「項羽本気」では「濉工颉缚悺
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 楼主| 发表于 2005-6-20 17:41:41 | 显示全部楼层
南風競わず

! x' _- d7 @- r7 A; x$ H5 X2 M
8 T6 r, R; b* j& a, }春秋戦国も末近い、周の霊王の十七年、魯の襄公の十八年(BC.555)の
8 j1 U# \5 I* J: p$ w: qことであった。
+ ~( S" V7 a1 J# g' Q  `2 i 7 g- Y2 M9 s8 Z9 g0 ^
 鄭の子孔(公子嘉)は、強い野心に燃えていた。邪魔になる諸大夫を除
# c# t$ a$ v7 e: F) R- J: Bいて、国権を専らにしようと企んだのである。
4 F  n) t% {4 S3 ~1 m6 \# T 9 G0 J, s9 ~' F% a) p
 当時、諸侯は晉を盟主として、強暴斉に対する討伐の軍を起し、着々5 x/ ^; R2 F# d- N4 g3 a
その包囲陣を圧縮しつつあった。そこで、その隙に、子孔は晉に叛き、: z) |. z! G2 }0 d7 K- j  U% v
南方の名門楚の軍隊をそそのかして野望を達成しようと考えた。使いを
4 }+ w. l6 k- j1 {+ X  s. \! w" e楚の令尹子庚(公子午)のもとへやって、この旨を告げさせたが、子庚は# u' ~0 w; |6 k/ ^9 ?8 F; J
聴き入れなかった。ところが、楚の康王がそれを聴いて、子庚のところ. ^; Y/ a" T5 b& \. J: r, ]) s
へ使者を遣わし、
2 [2 V4 e' R! y$ f; u 
" z  F  }8 C) b, B/ r1 g 「余が社稷を司ってより五年、; w1 J0 a$ A  }% F
  軍隊を出したためしがない。
% c$ n# G9 B/ D- `8 q  国民は余のことを、
) ]+ B9 R' g* A* i( ^  みずから安逸を貪って、* b; {$ X' C. U- I7 u& Z& k
  先君の遺業を忘れていると思っているにちがいない。
" f0 e4 m  A3 z2 ~" W7 g3 h" }  大夫、何とか考えてくれよ。」
' A  E9 @# A  C. [1 k ! u% M, w7 b" d
 国家の利益を専一に心がけている子庚は、それを聴いて、深く嘆じた5 T! M! M  ^5 V; j# d" F
が、相手が国王のこと、使者に稽首してこう答えた。
* U8 U5 E$ [4 c+ V/ U + B0 @0 u, r+ Z( v2 l
 「目下、諸侯は晉になびいておりますが、
" y  C5 Z! p6 }: F) u$ V9 u, d  ともかく一つ当ってみましょう。
# T# N$ j! p7 z0 C! ?  うまくいけば、あとから続いてください。
7 L1 m5 D! r4 }. t' E' h3 n$ N" X  うまくいかなければ、軍隊を引いてくださるよう。5 u3 z7 o- c1 x4 \, y4 ?4 _. [+ n
  そうすれば、損害もないし、1 z4 e1 |& [( Z
  わが君にも恥とはならないでしょう。
) ]; q: W. ?( _" ~( Q$ j) s! Y   f" u1 g3 K) t6 D# W- b& C( S
 子庚は軍隊を率いて、鄭国に討って出た。鄭伯の一統は斉の討伐に参( g! m* W4 n7 v" C
加していて、子孔・子展・子西が留守を守っていた。子展・子西の二子- q2 i$ _2 W; C3 e% a2 {( Y4 n
は、子孔の腹の中を読んでいたので、本城の守備はおさおさ怠りがなか7 x) z' Z$ B2 D7 F" K2 R- b/ I$ a& l
った。子庚の軍は各地を転戦して侵略をつづけたが、城下にはわずか二( x$ q4 {3 d+ V0 H7 Y9 H
日間駐屯しただけで、引き揚げるていたらくであった。
. B0 y) E! z8 g6 x! ^& ] 
# ?( u8 s5 U' w: Z 魚歯山の麓を通るとき、大雨に遭い、真冬のこととて、人馬は凍え、
# j5 K; s; S& W- H3 l7 n3 B軍はほとんど全滅のありさまになってしまった。
; T; c  U* V8 o 
& G7 V1 i3 _# B 晉国でも、楚軍出動のうわさはひろまっていた。しかし、師コウ(字
6 N. g1 v; u& j1 D% Q) q- z7 nは子野、真の楽官)がいうには、
' e/ s# N# }7 Q8 P  l 
8 e$ j$ x' J6 H/ w3 ^ 「なあに、大したことはあるまい。, v& z' [5 y) W" L1 v8 D, S/ V
  わたしがしばしば南方の歌、
, ]$ ?% r, v; O! N0 |  北方の歌をうたうのに、
, b" y- @$ c3 c+ I, }" ^  南方の音調は微弱で、ちっとも生気がない。
2 B/ Y. c. z' ^2 g  (南風競わずして、死声多し。); G# L& F; i8 Y' m1 I
  楚軍はきっと失敗するだろう。」
# G' J& F2 |  \( U9 b / {6 h" L& F+ U' M; J0 m! D
 董叔(暦教家)も、
% h, y& S8 c  N/ x 1 _. h' c$ D8 ^( A  T) B
 「歳廻り、月廻り、& R5 D& C/ h+ o2 L
  大抵は西北方に当っておる。
0 u8 [6 c  O8 a  南軍は、時を得ておらぬ、, u6 Z- @, J) \1 q+ B
  必ずや不成功に終わるであろう。」
" D) l3 p2 H9 r" q+ W) m: d5 p 
$ e* D7 v+ z; |( B9 f" \ 叔教(政治家)も、. ^  ^6 Y0 D. @3 u# U
 
8 B/ }& ?* q( m- O2 F% @' i 「すべては君の徳にあるものだ。」9 c: ~( l; R6 s: C
 
, z7 S& t- h, i; E6 h 三人とも、同じような予言をしたわけである。1 }9 K) @/ b: B& H; s& j* j. c* o' B, ]
 
" G0 a5 t' p3 r  o これは、「左伝」の襄公十八年の条にある話であるが、「日本外史」
; ~  W6 y, a2 y# M( Nでは、南朝(吉野朝廷)の勢いの衰えたことに借用しているし、一般に、! k/ u1 Z2 @) D% P& x
勢いの振るわないことによく使うことばである。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 17:42:09 | 显示全部楼层
何の面目あってか之を見ん
! o2 X) \& f) @* K! |1 u. q

. S( p0 j7 Y4 L! z  }漢の高祖の五年(BC.202)、漢楚の争いは大詰めに入った。項羽は垓下  s7 ?7 _# [4 D) i* j
に追いこまれて、「四面楚歌」をきき、ついに劉邦(高祖)の前に力尽き6 C* e. T+ Q/ h' d# M7 G
た。% V" h0 l: q* u% G6 U  Y9 [! r* w5 B
 ) O8 {/ `5 R7 D
 虞美人と別れ、愛馬の騅にまたがり、わずか八百余騎で囲みを突破し
" k: {& A! y  K; l# Sた項羽は、やがて二十八騎になったのを見て、最後の決意をかためてい6 ~  u7 }: R2 C1 G4 W
たが、臨淮で漢軍をかきまわしたのち、いつしか、南へ南へと向かって
+ S" `' b. G) E7 oいる自分に気付いていた。やがて、長江の北岸に出た。烏江を東へ渡ろ4 \" D8 f6 j* i, m
うとしたのである。渡ればそこは、自分が挙兵した江東の地であった。0 p1 x) r8 H/ @
そのとき烏江の亭長が舟をつけて、かれを待っているのが眼に入った。
& @) F! k- q  q2 q, [* Xその亭長は、項羽を見ると言った。; d4 A; p  k$ c5 \1 I! D
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 「江東は、天下からみれば、小そうございますが、
+ I5 o- a5 w) V* E5 E) ~6 w  地方千里、民惺颉
) U& f! \7 ^# S6 o9 V  なお王たるに足りるところです。
6 Q+ z) O9 O! P; N" U/ K  どうか大王には、いそいでお渡り下さい。
, Q! z9 A+ i5 K6 Y" M' |# T3 t  他に舟はございませんから、& Q2 ~# ?7 H( h4 s3 l
  漢軍が追いつきましても、渡れません。」
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 すると項羽は珍しく笑って、それをことわった。1 ~+ a  ~. g5 E- I
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 「もはや、天が自分をほろばしたのだ。) T0 b" W9 o% l3 f. L" r& x
  自分は渡らんぞ。- Y: R' l: X3 k4 C2 D$ H8 c
  そればかりではない。2 z2 z* i/ r, g5 A
  八年前、自分は江東の子弟八千人と、9 E  k) q% {6 T4 u
  この江を渡って西に向かったが、; F; ]7 ~$ F- K. ?0 {% @0 ]! \
  いま自分と帰るものは一人もいない。' Z/ X5 Q  m2 P; T' b
  たとえ江東の父兄があわれんで王にしてくれても、& ]3 z! \3 g8 j0 K* C
  どうして会わせる顔があろう。(我、何の面目あってか之を見ん)」
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 項羽は、漢軍のはげしい追撃をうけて、苦戦の余り、江東に心ひかれ4 y% S! `9 Z: |7 \7 [5 ]
てそこまで来た自分を恥じたのであろう。数年前、咸陽を陥れた時、
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 「澶蜃扭埔剐肖绀贰筡
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% X; H4 @9 G2 P% p  } と言って故郷へ帰った自分が、いまは単騎、戦塵にまみれ、尾羽うち
' }! h  r7 A5 j) O枯らし、逃げまわっていることを思い知ったのであろう。
9 ]+ k) `1 Y) b3 q; O 6 y# {2 Q& w; C6 R" A/ [
 「何の面目あってか之を見ん」、それはいかにも戦国の覇王が自分に, g* ?% C% @' I+ h) m3 K
言いきかせるのに、ふさわしい、最後の言葉であった。+ d. I$ G, l3 ?1 A. _* `
 
* E8 w8 C( a* r2 X( ]0 I3 ] 項羽は愛馬を亭長に与えると、もはや心残りもなく、むらがる漢軍の  p' c5 o7 b  s+ P
中へ斬り込んでいった。数百人を殺したのち、漢軍の中に旧友を見つけ/ B9 t5 D2 X' T3 Y# ]
た彼は、
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" b: O1 b; o: n- x- [7 S& P 「自分の首を切って、ほうびをもらえ。」' g% H. p2 p( `1 Q& Y- g+ |' n% w
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 そう言って、みずから首をはねて死んだ。まだ三十一歳の若さであっ' ^3 N/ G3 j6 @4 s5 _  {/ H
た。その首には、千金と万戸の邑の賞がかけられていた。むらがる漢兵/ y& Z) a) u1 K: z3 @9 t2 J
のため、身体はバラバラにされた。奪い合いで数十人の者が同士討ちを9 P3 `9 w$ n7 y% d8 b$ {/ o
して死んだ。バラバラの死体は再びつなぎ合わされて、項羽の死体であ
5 S# |+ U# Z" |9 C8 h& @ることが確かめられ、それぞれ賞の領地を与えられた。
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4 j6 L) P8 Y; |% [0 A; b1 \$ i その風景は、「何の面目あってか之を見ん」と言った項羽の言葉とい& O% V! A* S7 @
ちじるしく対照的であった。腸をどろりと出し、ゴロリところがされ、
! p0 R$ J" V6 Bつなぎ合わされた、異様な死体は、十二月の寒風に吹きさらされて、浅7 U/ P3 s3 t9 V/ O: o
ましい人間の世界を嘲笑しているように見えた。8 T- F2 t# ]& X1 _. ?  p
                        (「史記」項羽本紀)
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