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読売コラムニストの13年 文本 1

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发表于 2004-4-12 23:00:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
  根据原书文本录入,与录音中可能略有不同。

http://www.koetaba.net/3book/aki ... /column_13nen_01.rm

前書き
 読売新聞の朝刊一面コラムが「編集手帖」の名で定着したのは、一九四九年(昭和二十四年)三月だった。
 ただし、体裁のよく似たコラムということになると、一八九九年(明治三十二年)に始まった「茶ばなし」欄に根源をたどるから、古い。当時の紙面を見ると、政界の裏話などの短信を十本ほど集めていて、伊藤博文、大隈重信らを呼び捨てに、まるで遠慮がない。
明治、大正、昭和と、各時代の紙面改革でコラムは何度も改廃され、「編集手帖」は後の漢字制限で「編集手帳」と改められて、今に至る。
 筆者は一九八八年夏から二〇〇一年夏まで、この欄を担当した。(原則として週五本執筆、その後も約一年間の予定で週二本を執筆中)
 二十世紀から二一世紀へ、昭和から平成へ。その冷戦終結、うちの五五年体制崩壊・・・・・・。この十三年間、時代は大きく動いた。そして、米同時多発テロが招いた暗雲が世界を覆う。新聞コラムニストとしても、大変な時代に遭遇したと思う。
 ただし、そんな大事件、大ニュースがあろうがなかろうが、とにかく一日一本書くことには変わりはない。季節の移り変わり、人々の暮らしの中から、題材は多岐にわたる。
 十三年間で執筆した約四千本のコラムのうち、ここには百二十余本を収めた。時代を読み、時代を感じる一助となればと願う。
 なお、「自然・季節・行事」の章だけは、この十三年間のコラムを季節ごとにまとめたが、他の章の記事はすべて新聞掲載順にそのまま収録した。

http://www.koetaba.net/3book/akioka/column13nen/column_haru_01.rm
 日々、コラムを書いていると、ふと季節の移ろいを肌で感じたくなることがある。そんなとき、大手町の本社へ地下鉄で向かう途中、適当な駅で降りて、外の空気を吸ぅ。近年、東京の地下鉄は文字通り四通八達して、駅からどの方向に歩いても、多くの場合、十分問かそこらで、他の地下鉄駅に着く。
 十三年間で、山手線より内側の、ほとんど全ての地下鉄駅を利用したように思う。歩きだすと、東京が坂の町であることに気づく。ビルの谷間に、ひっそりと緑の公園があることにも気づく。思いがけず・江戸期の諸遺構や明治の文豪の旧居などに遭遇することもある。それがネタになることもある。


  ひな祭

 江戸の川柳に、「ほしい顔せまいぞと雛見世へ連れ」。懐に限りがある。あれこれねだるなと娘に言い聞かせてから、雛の市へ連れていく親心は、今も変わらないだろう。
 雛祭りが庶民にも広まった江戸時代中期、江戸生まれの「古今雛」が世に出る。「浮世絵の江戸美人のような艶冶な」と、人形研究家小林すみ江さんが表現している=「人形歳時記」婦女界出版社。
 王朝風のみやびなお顔に比べて、切れ長の目、うりざね顔のそれが江戸っ子の人気を博す。さらに五人囃子も雛壇に登場、豪華を競うようになる。
 寛政の改革で「八寸以上は無用」の達しも出たそうだが、反骨の職人たちが「てやんでぇ」と言つたかどうか、「芥子雛」と呼ぶミニサイズの精巧な雛を作る。禁制の副産物と言えるだろう。
 雛の並べ方は古式なら、向かって右に男雛、左に女雛を飾る、東京の人形業界で、それが逆になったのは、昭和天皇の即位の写真にならって以降とのことで、小林さんは「どちらでもお好き好きに」と。
 ついでながら、五人囃子は向かって右端に謡手を置き、横笛、小鼓、大鼓、太鼓の順、左へ行くほど楽器の音が大きくなる。雛祭りが終われば、かしらを柔らかな紙でくるんで、また木箱へ。
「目隠しをするのが雛の暇乞」
                                           97年3月1日
 

 野鳥

 チョッ、チイ、チョッ、チョッ、チイ、チョッ、チィッ、チョッ、チッ、チョッ、チッ、チッ、チョ。春の武蔵野の農家の木立で、中西悟堂が記録したスズメの鳴き声だ。
大体三十秒に四十三声。「一音ごとにつやとはずみがある、いかにも幸福そうなもので
あった」と記している。ノートにとる悟堂の、心から野鳥を愛した温顔が目に浮かぶようだ。
 昭和九年(一九三四年)三月十一日、悟堂や鳥類学の内田清之助、民俗学の柳田国男はじめ各界の文化人が集い鳥談義を楽しんだ。それが「日本野鳥の会」の創設の日とされている。
 今は、ごく自然に使う「野鳥」という言葉も悟堂の造語だ。护物暏Bと一線を画して、「苦慮呻吟の果ての新発明」だった。野の鳥は野に。「探鳥」もまた悟堂の造語で、世に広まっていく。
「日本野鳥の会」は以来、六十年の歴史を刻んだ。創立者である悟堂が一時期、邌由悉我庖妼澚ⅳ榛幛螂xれた不幸はあったが、今や会員四万七千人。国際的な連携も強めて、幅広い野鳥保護活動を展開している。
「小鳥を愛する心を」と、仏教思想を遍歴した悟堂(昭和五十九年没)は終生、説き続けた。「人がスズメにきらわれて逃げられることがなくなるように」。人と鳥の和、それは今も野鳥保護の原点に違いない。
                                         94年3月9日

  蛍の光

 卒業式と言えば昔は「蛍の光」と「仰げば尊し」に決まつていたが、今はそうでもないようだ。小学校の半数以上が「歌わない」という調査結果もある。
「蛍の光」は、明治十四年(一八八一年)の文部省「小学唱歌集」初編に、「蛍」の題名で「君が代」などと並んで登場する。原曲はスコットランド民謡、英米でも送別歌だから、いつのころか卒業式の歌に定着したのだろう。
「仰げば尊し」の方は、同十七年の唱歌集第三編に出てくる。作詞・作曲は不明。そのあとは、無論、「わが師の恩」と続く。生徒の卒業文集に通知表を載せるような教師では、この歌は恥ずかしいだろう。
 最近、あまり歌われない理由がそれだ、とはキッイ冗談として、確かに、今の時代にはピンとこない部分もある。「身を立て名を挙げ、やよ励めよ」の二番を外している教科書が多いようだ。
 教科書にある一、三番だって、なかなか難しい。「思えばいととし」の「いととし」は「とても早い」意だろうし、「今こそわかれ目」は、まさか「分かれ目」ではない。「め」は「む」の活用だ。
 ついでながら「蛍の光」で、「かたみに思う」の「かたみに」は「互いに」の意。これは、今年の共通一次試験にも出たから受験生は知っている。意味も知らずに歌いつつ、涙をこらえたころが懐かしい。
                                            89年3月25日

  戒名
「戒名料はおいくらで」「そこは、お志ですから」「まあ、しかし、相場と言ってはなんですが……」。お葬式のたびに、わずらわしい会話が繰り返されていることだろう。
 もともと二字の戒名(法名)に院号などや、居士・大姉、信士・信女がつく。民間のある調査で、葬儀費用のうち戒名料などお寺に要した費用は五十万~百万円という答えが最も多かつた。
 不透明との批判が高まる中で、全国約六十宗派加盟の全日本仏教会(財団法人)が「今後、戒名(法名)料という表現・呼称は用いない」との見解を示した。
 僧侶・寺院が受ける金品はすべてお布施であり、戒名は売買の対象ではない。この認識の上で、同会は高額な請求をするような事例が「仏教界全体への不信を招いている」としている。
 本来、戒名は仏弟子としていただく名だ。生前に受けるのが望ましいというが、それすら十分な説明を怠ってきたとの反省もある。まず「戒名料」という言葉を廃して、一般の理解を深めたいとするこの動きに注目したい。
 無論、お寺の経営をどう成り立たせていくかという問題が根底にあろう。地味葬で結構、戒名も不要という人も増えてきているのではないか。きょう彼岸の入り。先祖の墓前で宗教の在り方を考えてみたい。
                                         00年3月17日


  サトウの桜

 細い糸のような雨が、ほころび始めた桜の花びらをぬらす。東京の桜開花宣言にせかされて、きのう、都心の桜の名所・千鳥ケ淵辺りを歩いた。
 英国大使館前の桜並木は明治三十一年(一八九八年)、当時の英国公使アーネスト・サトウが植えたのが始まりという。昨年春、その百年記念の行事も催されている。
 サトウが日本に残した息子が後の植物学者武田久吉博士(一八八三~一九七二)だ。サトウの援助で英国に留学、植物学を修めた。尾瀬の高山植物保護にも力を尽くし「尾瀬の父」とも呼ばれている。
 「父は背が高くて、足が長くて、それはハンサムでした。顔だちは祖父にそっくり」。久吉の娘、つまりサトウの孫にあたる武田澄江、林静枝さん姉妹が思い出を語っている=タウン情報誌「九段界隈 桜みち」第三号。
 ただし、久善がサトウについて語ることは少なかったらしい。サトウが旧旗本屋敷を買い上げ、久善一家が長く住んだ家は靖国神社のそばにあった。今は法政大学の敷地となり、記念碑が残るだけだ。
 尾瀬の自然破壊を「国辱」とさえ言い切つて終生抵抗した久吉をしのび、「武田久吉メモリアルホール」が福島県檜枝岐村に五月完成する。サトウが愛した桜と、久善が守った尾瀬の緑と。父子の絆を思う。
                                          99年3月26日

  春の小川

 春の小川はさらさら流る/岸のすみれやれんげの花に……。唱歌「春の小川」 の舞台となったのは、東京・渋谷を流れていた河骨川だつた。
 明治末、この辺りに住んでいた高野辰之が作詞、岡野貞一作曲で教科書に載った。河骨とはスイレン科の水草だ。水辺に草花が咲き乱れ、そして川には、蝦やめだかや小鮒の群れに……。
「田圃の畦の間の小流に、蛙の卵が固まっていたりする。流れの底の泥に赤いまだらの腹を見せたいもりが、じっとしているのがこわかった」。これは、大正時代、この地で育った大岡昇平の自伝「少年」の一節だ。
 今の渋谷近辺から、この情景を想像するのは難しい。河骨川は暗渠となった。代々木五丁目の小田急線沿いの小道に「春の小川」の歌碑が立ち、ゎずかに昔をしのばせるだけだ。
 多かれ少なかれ、これが都会の中小河川がたどってきた歴史に違いない。それでも、建設省による河川の生物調査によると、多摩川や荒川、大和川や淀川など都市近郊の水系でもメダカの生息が確認されたそうだ。
 昔、どこの川にもいたメダカが今や生息調査の対象だ。環境の悪化の中で、懸命に生きている小さな魚たちがいとおしく思えてくる。あなたのご近所の「春の小川」ではどうだろうか。
                                         94年3月29日
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发表于 2004-4-14 23:00:00 | 显示全部楼层
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发表于 2004-4-15 23:00:00 | 显示全部楼层
很好,谢谢了!我听力过关了,一定请兔子老大的客.记住哟.
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发表于 2004-4-15 23:00:00 | 显示全部楼层
谢谢,真的是好东东
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发表于 2004-4-16 23:00:00 | 显示全部楼层
多听,多看,多写
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发表于 2004-4-17 23:00:00 | 显示全部楼层
谢谢!终於等到文本出来了~~~可以好好练习听力!
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发表于 2004-4-20 23:00:00 | 显示全部楼层
楼主好强啊!

谢了!
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发表于 2004-4-25 23:00:00 | 显示全部楼层
谢谢兔子啊!!!



小声地问,文本和听力材料如何对应?还会有下期么?
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发表于 2004-4-25 23:00:00 | 显示全部楼层
谢谢楼主
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发表于 2004-4-26 23:00:00 | 显示全部楼层
谢谢楼主!
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发表于 2004-4-26 23:00:00 | 显示全部楼层
晕,

还没达到这种水平,

暂时看不懂的说。。。。。。。
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发表于 2004-4-26 23:00:00 | 显示全部楼层
得赶快 记下来

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发表于 2004-4-28 23:00:00 | 显示全部楼层
好啊
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发表于 2004-4-28 23:00:00 | 显示全部楼层
谢谢
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发表于 2004-5-2 23:00:00 | 显示全部楼层
So Good!! Thanks~~
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