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我作的诗十首,希望得到大家的点评!

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发表于 2006-2-24 15:11:28 | 显示全部楼层 |阅读模式
取    舍
夜静蛐鸣一湖月,
心忧细针破其格。
吾欲醉然入景色,
自愧朽体徊退撤。
踌躇忽明见慧可,
残雪断臂求真哲。
人生时刻遇取舍,
抛弃私念天下得。

仲秋前后的夜色特别幽静,在书房里看着日语书,耳边不时传来蟋蟀的鸣叫,忽来灵感作了一首《取舍诗》,感觉超凡脱俗,送给大家吧!
五六句中的“慧可”是中国禅宗的第二代祖师,少时学儒,后闻达摩祖师在嵩山面壁九年被其真挚所打动,决定弃儒从佛,欲拜达摩为师。于是,他不远千里来到嵩山,但达摩不轻易收徒,对他说:“就凭你这么一点点的勇气和毅力就想来换取至高无上的佛法实在是太便宜你了!”说罢就关门入室。慧可不甘心,在暴风雪中长跪三天最后用刀砍掉了自己的一条手臂就昏死过去了。达摩将其救醒,对他说:“你能够自毁躯体来求佛法,足以见坚贞。”便收他为徒,最后传了衣钵给他。

《取舍诗》今译:
在一个夜色幽静蟋蟀鸣叫的夜晚,一轮明月照映在平如镜的湖面上。我心里特别担忧有一根极细极细的针掉入这湖泊里破坏了这美丽的格调。我很想带点醉意地进入这美景之中,但是觉得自己腐朽的身体与这美景不协调,便在旁边徘徊了一会儿就退撤离开了。这时,犹豫不决的我豁然开朗地见到了慧可,想起了他为了求得真正的佛法在雪地里砍掉自己一条手臂的情景。其实人生的时时刻刻都在各种各样的取舍中生活着,只要你抛弃了私心杂念那整个天下都为你所拥有了。
中秋前後の夜は特に静寂で、私は本屋にいて、日本語の本を読んでいて、外のこおろぎの声は思わずに耳に入れた。突然にインスピレーションが浮かんで一首の《取捨詩》を作った。感じは非凡で、皆さんに捧げてあげよう。
六行目の“慧可”というのは中国禅宗の祖師で、幼いごろには、儒学を学んで、それから、達磨祖師が嵩山で九年間で面壁修行の真摯に心を打たれて、儒学をあきらめて仏学を学んで行きたいのを決心した。達磨の門下に入りたいと思った。そして、彼は遠路はるばる嵩山に来て、しかし達磨は簡単に弟子を収めないで、“あなたはこんなにほんの少しの勇気と気力に任せて、最高の仏法を交換するなんて、それは本当に手軽すぎのことだよ。”と言ってから、ドアを閉めて室内に行ってしまった。慧可は断念できなくて、吹雪の中で、三日間続いて長く跪いて、最後に自分の一本の腕を切り落としてから、気を失ってしまった。達磨は彼を目覚めまで救ってあげ、“お前は体に自滅して仏法を求めにくることができて、その志しが本当に揺ぎないと見えるね。”と言ってから、彼を弟子として収めて、最後に彼に衣鉢を伝えた。\

《取捨詩》の今訳:
ある夜色が静寂で、こおろぎが鳴いている夜には、一輪の明月が鏡のような湖面に映してある。私の心中では、一本のすごく細い針がその湖に落ちって、その綺麗な格調を潰れる恐れがいっぱいだった。私は陶酔な気持ちを持って、この美景に入ろうと思っているけど、しかし自分の穢多な体はその美しい環境と似合わないと気付いて、その周りで、うろうろしながら、退却しようと思った時、豁然と慧可さんが見られて、彼は真正な仏法を求める為に、自分の一本の腕を切り落とすことを思い出した。実際、我々の人生はいつも取捨選択の中で生きている。ただ私心や雑念を全部投げ捨てて、この世界の全部はあなたの所有である。

午夜临江见孤舟
遥闻江上汽笛鸣,
孤舟一叶江海行。
几度红日落地平,
吾心悠悠志趣泯。
夜来幽梦见甘蝇,
无射神箭入空灵。
物我归一方入定,
岂怕世间诸狰狞?
注:五句中的甘蝇是诸子百家中《列子》中的人物。是纪昌和飞卫的师傅。
       战国的时候,邯郸城里有位叫纪昌的青年,立志要成为当世第一的箭术高手,而飞卫是当时公认的箭术第一大家,于是纪昌就找到飞卫,拜了飞卫为师,飞卫说:“你先回去练不眨眼的技法!”于是纪昌回家后,躺在妻子的织布机的下面,天天盯着马上就要踏到自己的眼球的织布机,练了二年,终于哪怕连一个飞刀飞到他眼前,他也能不眨眼!于是到飞卫处,飞卫又让他练视小为大视远若近的技艺。要让他看见雕刻在芝麻上的文字!于是纪昌回家,问路边的乞丐要了一只虱子,挂在门口,每天就一眨不眨地盯着那个虱子看,看了一年,那虱子有蚕豆那么大,到二年就有馒头那么大了,到第三年就有一头猪那么大了!于是他跑到门外,看到的马像高山那么大!于是纪昌又回到飞卫那里,飞卫让他试箭,没想到纪昌的箭法不但已经能箭箭中靶芯,而且后一支箭接着前一支箭的箭尾连成一条很长的直线!这时纪昌心中忽然产生了歹念,心想:这个世界上还有一个箭术和我一样的人存在啊!这个人就是飞卫!于是有一天,当飞卫在旷野沉思的时候,纪昌突然发箭偷袭。此时,飞卫忽然警觉,马上回箭,他们的箭一支一支地在空中互相击中坠落在地上。到最后纪昌的箭囊中还剩最后一支箭,飞卫的箭已经用完了!纪昌拉满弓,说道:“去死吧!”箭就离弓而去射向飞卫,当箭快到飞卫的脸部时,飞卫张嘴以齿接箭,只听到“狰”地一声,把那支箭硬生生地咬在嘴中。这时,双方都激动而泣,结为义父子,并发誓今生不把这绝技不传给第三人!飞卫对纪昌说:“你想成为当世第一箭术大师,你到霍山之颠,去寻找我的老师甘蝇老人,我们的箭术在他看来只是婴儿学步!”于是纪昌打点行李到了霍山之顶,找到了甘蝇老人,并向他显示满弓射飞雁了箭术。甘蝇道:“不错,不过你随我来!”甘蝇把纪昌带我了一块玄在山尖上的岩石上,说道:“你在这里再显示一下你的箭术吧!”纪昌站在那岩石上,岩石被风一吹晃动得不停,连站都站不稳还怎么射箭啊?纪昌吓得满身冷汗,说道:“在这里不行啊!”甘蝇站在那岩石上,不用弓箭,用手指着一直在空中盘旋的大雁,说声:“下!”那大雁果真就落在地上不动了!纪昌当场就惊呆了!于是纪昌就拜在甘蝇老人的脚下,在霍山学艺9年,这9年中学了些什么没人知道。只是当初莽撞的青年,一下子变得无比老成,甚至不太说话。此时的纪昌回到邯郸城里,好多乡亲都来祝贺他学成而归,飞卫也来陪笑道:“恐怕我这个时候给您来提鞋子,你都看不上呢!”纪昌只是一味得打坐,不去理睬!好多人都想看看此时的纪昌的箭术。“你就展示一下嘛!”纪昌道:“至动无动,至言无言,至射无射,是以不射!”纪昌回到邯郸城,在家打坐修炼40余年后去世,这40余年中没有一个人见过他拿起弓箭!直到他死后的几百年里,他住的那房子上面还有一股箭气冲向云天,令空中飞翔的燕雀都不敢靠近!

今译:
       在寂静的午夜,听到了从远处江上传来的汽笛声,知道那一定是一叶小船在江海中,甚至没有人知晓地默默地前行!在那条小船上,曾经也看到无数次太阳依靠着西面的地平线落下的情景。这时的我,心中孤寂,那些宏图大志也在不知不觉中泯灭了!夜色静了,我迷迷糊糊地进入了梦乡,在梦中我见到了传说中的甘蝇老人,他那不射而射的神箭,令我神往,把我带入了空灵的境界!其实只要达到物和我没有差别的境地,这个世界也就没有什么可怕的事物了!

点评:
这首诗,应该是我比较高的水准了!但是还是不管从结构还是境界上来说没有突破《取舍诗》,只是再一次地模仿了《取舍诗》罢了!一个人超越别人这个目标可以实现的,但是要超越自我实在是太难了!


注:第五行目にある甘蝿というのは諸子百家の《列子》の中にある人物である。紀昌と飛衛の先生である。
      中国の戦国時代、邯鄲城の中に紀昌という若者がいて、その世の第一の箭術の達人になることが志を立てていた。そして、飛衛さんは当時の第一の箭術大師ということが皆で認められている。そこで、紀昌は飛衛さんを探し当てて、飛衛さんの門下に入った。飛衛さんはお前はとりあえずまばたき一つもしない技法を訓練しようと言った。それで、紀昌は家に帰った。妻の織機の下で横たわって、毎日その自分の瞼まで踏み込まれようとする踏み板を見て、二年間を経って、やっと一つの飛び刀を目の前に飛んできてもまばたきもしないようになった。それで、紀昌はまた飛衛さんの所に行って、飛衛さん今度の要求は小さなものを大きく見えて、遠いものを近く見える技法を訓練しよう、その同時に、胡麻を出して、その胡麻に書いてある文字が見られるかと質問した。紀昌は黙ったまま、家に帰った、ついでに、路傍にいる乞食から1匹のシラミをもらった。窓際に掛かっていて、毎日まばたきを一つも無しにずっと見ていた。一年後、そのシラミは大豆のような大きさが見えて、二年後、饅頭のような大きさが見えて、三年後、一頭豚のような大きさが見えた。それから、紀昌は外に出て、馬は山のような大きさが見えた。それから、紀昌は飛衛さんのところに行って、飛衛さんは紀昌に矢を射てみると依頼して、不思議なことは紀昌の箭術はただ的の中心に当たるだけではなくて、百本の矢をまっすぐの一ラインに繋がって来た。その時、紀昌の心の中で、急に悪い考えを生んできた。この世の中で、もう一人箭術が僕と同じぐらいの人がいて、その人は飛衛だよ。ある日、飛衛が広々とした野原で深く考えこんでいた時、紀昌は突然に飛衛に矢を射て、奇襲する。この時、飛衛は突然に警戒心を引き起こして、すぐ矢で反撃する。彼らの矢は一本ずつ空中がお互いに的中して地面に墜落した。最後に、紀昌の矢の袋の中でまだ最後の1本の矢が残って、飛衛の矢はすでに使い終わった!紀昌は弓をいっぱい引き延ばして、“死ににいけ!”と言ってから、矢を出した。その矢は弓を離れて飛衛に発射していって、矢がもうすぐに飛衛の顔に着く時、チンという音が耳に入って、飛衛は口を開いて歯で矢を噛んで、その矢を無理やりに口の中で噛んだ。この時、双方とも感動しすぎのため泣いて、義父子を結んだ。そして、今生この特技を第三者に伝わらないことに誓いを立てた。あなたはこの世の中で第一の箭術大家になりたいという志を抱いたら、あなたは霍山の頂に着いて、私の先生の甘蝿老人を探しにいって、私達の箭術は彼と比べて赤ん坊が道を歩く稽古とおなじぐらいだな!と飛衛さんは紀昌に対して言った。それから、紀昌は荷物を準備して霍山の頂に着いて、甘蝿老人を探し当てて、そして彼に弓をいっぱい引いて雁を発射する箭術を甘蝿老人に見せた。悪くないんだ。でもあなたは私に従って来てねと甘蝿が言った。甘蝿さんは紀昌を連れて、山頂に揚げている岩に着いた。お前はここでさっきの箭術をもう一回演じてみてくださいと甘蝿が言った。紀昌はその岩に立って、その岩は風に吹かれて、すごく揺れているから、ちゃんと立つことさえもできなくて、矢を射ることも言うまでもまい。紀昌は全身で冷や汗を出るほど怖くて、“ここで駄目だ!”と言った。甘蝿老人はその岩の上で立って、矢を使わないで、ただ指で空中でずっとぐるぐる回っているオオカリを指して、“おりる!”と言って、あのオオカリは地面に落ちて、動かなくなった。紀昌はその場で驚いてぽかんとした。そこで紀昌は甘蝿老人の足もとに礼拝して、霍山で9年間勉強して、その9年間でいったいどんなものを勉強したか、誰にも知らなかった。ただ無鉄砲な青年は、急にすごく老成になって、話さえもあんまりしなくなった。この時の紀昌は邯鄲城に帰って、多くの同郷の人は彼が学んで帰ることを祝賀しにきて、飛衛も笑いながら来て“恐らく私はこの時にあなたに靴を持ちにきて、あなたはすべて気に入らない!”と言った。紀昌は何も答えずに、ひたすらただ座禅をしていて、多くの人はこの時の紀昌の箭術を見てみたくて、“あなたは少しだけ演じていただけませんか。”と言った。紀昌は“至極の動きが何にも動かないこと、至極の言語は何にも言わないこと、至極射ることは射ないこと、だから射ないにする”と言った。紀昌は邯鄲城に帰って、家にいて座禅を組んで40数年修行を積んだ後に亡くなった。この40数年の間で、皆は彼が弓と矢を手に取ったことが見られなかった。彼が死んた後の数百年の間で、彼の居住したあの家の上はある一筋の矢の息は空に突き進んで、空中に飛び回っているアトリはすべて近付く勇気がない!

今訳:
       静寂な真夜中には、遠い所の大きな川の上から伝来する汽笛の音を耳にして、それはただ一葉の小舟が江海で、皆さんに知れないように、黙々として前に進んでいることだろうと思っている。あの小舟で、かつて、太陽が西側の地平線から落ちる情景を数え切れないほど見ただろう。この時の私は、心が孤独で寂しすぎて、それらの宏図大志がいつの間にかで消滅してきた。夜は静かになってきた。私はぼんやりと夢の世界に入って、夢の中で私は伝説の中の甘蝿老人と会って、彼のその発射しない矢は私を捉えどころない境界に連れていた。実は物と私の違いがない境界に入ったこそ、この世界はすぐどんな恐ろしい物事がなくなかった!

評論:
この詩は、私の比較的に高いレベルに達したと思っている。しかし、その構造それとも境界の方はただ《取捨詩》を模倣しただけなんだろう。《取捨詩》に超えたことが全然ないと思っている。人間としては、他人を超越することができるけど、自分を超越することがなかなか難しいよね。

忆南国
深冬季节寒难耐,
唯见孤鸿远飞来。
娑罗双树花之色,
枯荣昭示无常态。
和风熏柳不常在,
悲欢离合感伤怀。
南国风光何时还?
今夕梦中意敞开!

注:   诗中的“娑罗双树”是佛教用语。相传咱佛祖释迦牟尼爷爷当年二十九岁在舍卫城四方见“四苦”(生、老、病、死),感叹人生世间的无常,决定放弃皇位,出家云游去寻找真理,先后寻访了当时两位印度所谓的圣人,一个叫阿罗逻;另一个叫伽蓝。在他们两位那里看见人们为了摆脱心理的痛苦是通过折磨肉体而达到,许多人都赤身裸体翻滚在荆棘里,或者跳下滚烫的油锅。(有些像现今电视里报道的“法轮功”吧!)佛祖断然就否决了这种做法,认为不可取,于是独自云游去寻找真理。在之后的六年里,七天吃一粒米,一天喝一滴水,到后来身体营养极度不良,瘦得像只猴!(一般的庙里,在“大雄宝殿”的佛祖的后侧,是南海观音菩萨,在观音菩萨的上方,有一位干瘦病弱的老头就是他了,佛教中称这时的释迦牟尼为“苦佛”)在他身体快要不行的时候,遇到了一位牧羊女,牧羊女用羊奶供养了他半年,使他的身体又恢复了原来的健康。这时的他是极度矛盾和痛苦的时候,以前为了摆脱世俗的烦恼出家修行,最终还是需要得到世俗人间的关爱才能屹立世间。在这种矛盾的辨证统一中,他来到了一棵“菩提树”下,打坐入定七天七夜,终于大彻大悟,在这对立的矛盾中找到了平衡和统一,彻底地解脱了,成为了佛陀。当时佛祖三十五岁,在之后的四十六年里他云游衡河两岸,渡化帮助了印度的无数百姓,其中收徒五百,就是后来的“五百罗汉”,其中有十位各有特长的他最特意的弟子,后称“十大弟子”,西方禅宗的鼻祖伽叶和二祖阿难都在“十大弟子”中。这些功绩和咱中国的“孔老二”三千弟子七十二圣贤相比是差得多啦!释迦牟尼也没留下什么典籍,只有一些和弟子们的语录吧!就是《楞伽经》,相当于《论语》吧!其他就没什么典籍了。哪有《大学》、《中庸》那样经典的著作呢?他们两个是同时代的人物,只是在后来继承他们各自的学术,所出的出类拔萃的人才就是佛家比儒家多得多了,佛家中人才举不胜举,儒家中著名的好像只有“孟子”和南宋的“朱熹”吧!
       在释迦牟尼普渡衡河两岸的众生到第四十六个年头时,已经八十一岁了,身体的各方面的机能都衰退了,在娑罗双树下灭度涅槃了。娑罗双树东西各一棵,在东方向阳的那棵反而枯萎,在西方背阳的那棵却叶枝繁茂。一枯一荣,也昭示着世间的无常吧!(在金庸小说《天龙八部》的第一册的最后一回,描述云南大理段氏的天龙寺住持方丈本因的师叔枯荣大师时也有记载的)佛祖灭度的时候,“十大弟子”在身旁,大家都哭泣,佛祖告诉他们:不要悲哀,我的躯体虽然只能延续到现在,但我的精神和思想定能普遍流传到更大更久远的地方。佛祖灭度后,弟子将他的尸体火化后,他的尸体变成了晶莹剔透的结晶体,就是舍利子。弟子们八分舍利,到各处建塔供养。随着佛教的传入中国,有些印度的高僧把佛舍利带到了中国,目前在中国的境内已发现的佛舍利有三处吧!共几十粒吧!
佛祖释迦牟尼生前也吃过不少的荤腥(二十九岁前做王子时,和羊奶吧!)也娶妻生子,最不好的就是不但把他的儿子“罗侯逻”收作“十大弟子”,而且还把他安排到了“十六罗汉”的居高安逸的工作岗位上去了。(“十大弟子”中只有他的儿子“罗侯逻”是“十六罗汉”之一)所以,我觉得佛祖释迦牟尼不是神,而是一个实实在在的人,是一个怀着救苦救难心境和一个先知先觉的伟人吧!就好像是马克思、列宁、毛泽东一样,看不惯被剥削的劳工而自发和继承共产主义来解放劳苦的大众一样。(效果实绩另当别论!)所以我认为去游览佛教圣地和什么著名的庙宇时根本没必要朝释迦牟尼礼拜,只要向他瞻仰一下就足够了。就好像我们跟团去北京旅游,“毛泽东纪念管”是必游之地,对咱主席都是瞻仰,从来没人向他磕头一样的!!!

       《忆南国》今译:
   在深冬的季节里,寒冷让我无法忍受。连孤独的大雁都飞到南方温暖的国度里来了。释迦牟尼涅槃灭度的娑罗双树花的颜色,那一枯一荣的娑罗双树也昭示着世间的无常。和风熏柳的日子是何其之少啊!而寒冷酷暑又是何其之多。在我每次处在离别的时候,心中总有许多说不出的感伤。不知道南国那四季如春美好的时光何时再能来到?但愿在今晚的梦中我的意境能够敞开,飞到南国那美好的地方去!

点评:
   这是一首我怀念在广州培训和生活的诗。南方广州却是一个好地方,冬天只穿一件衬衫和西装就能度过了。不但气候好而且广州人感觉上很有人情味的,像气候一样随和惬意,让我留恋忘返。感叹逗留的时光短暂,人还不如一只大雁在寒冷的季节里能够飞到南方去。只能在今晚的梦境来挽回一些那美好的感觉吧!

注:   詩の中にある“沙羅双樹”は仏教の用語だ。我々の仏様の釈迦牟尼お爺ちゃんは二十九歳の時に、シャエイ城の四方で“四苦”(生、老、病、死)を見て、人生世間の無常さを感嘆し、皇位を放棄し、出家して行脚に行って真理を探すことを決めた。それから、インドの二人のいわゆる聖人を訪ねた。一人はアララという、もう一人は伽藍という、彼らの二人の所で、人々は心理的な苦しみを抜け出す為に、肉体を苦しめることを通じて、達成することが見られて、多くの人は裸になって、イバラの中で転げ回っていて、または非常に熱い油の鍋に飛び込んだ。(この前、テレビで報道された“法輪功”のようだ。)仏様は断固としてこのような方法を否決して、それで自分独りで修行に行った。それからの六年間で、七日に一粒の米を食べて、一日に一雫の水を飲んで、最後に体が至極に栄養不良になって、猿のように痩せて来た。「普通の寺で、“大雄宝殿”(日本語で“仏殿”というかもしれない)にある仏様の後ろには、南海の観音菩薩だ、観音菩薩の上方で、一人のやせこける病気に弱いお年寄りが彼だった、仏教でこの時の釈迦牟尼を“苦い仏陀”と呼ぶ」彼の体がもうすぐ駄目になった時、一人の羊飼いの女と出会って、羊飼いの女は羊の乳を使って、彼の半年を供えて、彼の体をまたもとの健康を回復させた。この時の彼は極度の矛盾と苦痛に沈んでいて、以前は俗界の悩みを抜け出す為に、出家し、修行に行ったけど、最後に、やはり俗界人間の関心と愛を得てこそ、ようやく世の中にそびえ立つことができた。このような矛盾している弁証法的な統一の中で、彼が一株の“菩提樹”の下に来て、座禅を組んで、七日間禅定に入って、ついに徹底的に悟って来た。この対立している矛盾の中で平衡と統一を探し当てて、徹底的に解脱して、仏陀になった。その時の仏様は三十五歳だった。それからの四十六年の中で彼は衡河の両岸を行脚して、インドの数えられないほどの庶民を助けて、彼岸まで済度した。その中で、五百の弟子を収めた。それは後で“五百羅漢”と呼ばれている。その中で、十人のそれぞれ特技を持っている弟子がいて、それは後で“十大弟子”と呼ばれている。西方の禅宗の鼻祖伽葉と二祖の阿難はすべて“十大弟子”の中にある。それらの功績は我が国の“孔老二”の三千弟子と七十二聖賢と比べて、比較するものならないほどの差があると思う。釈迦牟尼はそんなに多くの典籍を残していないで、ただ彼の弟子との達語録だけ残してある。それは《楞伽経》で、《論語》に相当するものである。その他は典籍は何もなかった。《大学》、《中庸》のような経典な著作がないようだね。彼らの二人は同時代の人物で、ただ彼らの各自の学術を受け継いでいる人物は、抜群に優れている人材は仏教が儒家よりずっと多くなった、仏教での人材は挙げきれないで、儒家の中で有名なのは“孟子”と南宋“朱熹”だけあるようだった。
       釈迦牟尼は衡河の両岸で、あまねく衆生を済度する第四十六年目には、もう八十一歳になった。体の各方面の機能はすべて衰退して、沙羅双樹の下で涅槃した。沙羅双樹は東側と西側には一株ずつあるが、東側にあるいつも太陽に向いているのに枯れていて、西側にある太陽に遮っているのに茂っている。一つは枯れ、もう一つは茂りというのは世間の無常を暗示しているだろう。(金庸さんの小説《天竜八部》の第一冊の最後の一回で、雲南大理の段氏にある天竜寺の方丈の本因さんの師匠の弟である枯栄大師を描写する場合に、同じような記載がある)仏様が涅槃する時に、、“十大弟子”は仏の身のそばにいて、みんなは全部悲しく泣いているが、仏様は皆さんに“悲しくならないでください、私の体はここまで長続くことができないけど、しかし、私の精神と思想はは必ずあまねくもっと広くて更に遠い地方まで広大に伝わることができる”と教えた。仏様が亡くなってから、弟子たちが彼の死体を火葬した後、彼の死体が透き通ってきれいな結晶体になって、それは仏舎利だった。弟子達は仏舎利を八部分に分けて、それぞれの場所で塔を建てて、供える。仏教は中国に伝わるにつれて、あるインドの高僧たちは仏舎利を中国に持ってきた。いままで、中国の境界内で、仏舎利がある場所を三個所見付けた。トータルで何十粒あるかな。  
仏様の釈迦牟尼は生前で多くの生臭物を食べて(二十九歳の前で王子をする時及びその羊の乳)、結婚して子供を生んだこともあり、一番よくないことは自分の息子である羅侯逻を“十大弟子”に収めるだけではなくて、その上また彼を“十六羅漢”というそんなに高級安逸な職場に按配した。(“十大弟子”の中でただ彼の息子の“羅侯逻”ひとりだけが“16羅漢”に入った)だから、釈迦牟尼は神様ではない、実際の人間であると思う。苦難を救って、先知先覚な偉い人だろうと思う。マルクス、レーニン、毛沢東のように、搾取されている労働者が気に食わないで、自発的に共産主義を受け継いで苦労の大衆を解放させるようにしていく。(その効果は別として!)だから、我々は仏教の聖地それとも有名なお寺に観光に行く場合に、ただ釈迦牟尼に仰ぎ見るだけでいい、彼に額ずいて拝謁する必要が全くないと思っている。我々は旅行会社に依頼して、北京に旅行に行く場合に、額ずいて拝謁することが全然ないことと同じだろう!!

       《忆南国》今译:
   真冬の季節の中で、寒さで私に辛抱させることができないほどだった。オオカリでさえも南の国都に飛んで行った。釈迦牟尼が涅槃したその沙羅双樹の花の色で、その一つ枯れもう一つ茂りというのは世間の無常を暗示しているだろう。穏やかな風が柳を揺らす日々はどんなに少ないのか、厳寒と酷暑の日々がどんなに多いのか。私は毎回の別れ際には、心の中でいつかの口に出せない感傷がたくさんある。南国の四季が全部春みたいな季節はいつ更に来られるかい?ただ今夜の夢で、私の境地を開け放すことができて、南国の素晴らしい場所に飛んでいこうよ。

評論:
   これは私が広州でトレーニングを受けたころで作った詩です。南の広州は本当にいいところですね、冬場には、ただ一枚のシャツとスーツで無事に過ごせます。気候だけではなくて、広州人の人気(ひとけ)もいいと思って、天気と同じような人にのんびりさせてきて、本当に心残りがいっぱいですね。滞在する時間が短いことに感嘆して、人間はまだ一羽のオオカリが寒い季節の中で南方に飛んでいくことができるのにまさるものはない。今晩の夢の世界でいくつかのあのすばらしい感じを挽回しに来ることしかできなかろう!
   
圆梦诗
初冬时节领寒风,
婆娑世界萍水逢。
举首望空月冷冷,
此夜相思道征征。
犹如诸葛守空城,
心虑稳稳琴声铮。
四海之内皆有朋,
三味应缘定圆梦。
《圆梦诗》今译:
   在初冬的时节,领略着寒风向我袭来。在这个有着七情六欲的世界里,与你萍水相逢了。这时,我抬起头望着星空,冷冷的月光照着孤独的我。今夜的漫漫相思又将如同前途渺茫的道路等待着我去征程。就好像是当年三国的诸葛亮在守着空城一样,虽临司马懿的大军而从容不迫心虑稳稳地弹出铮铮的琴声。其实在四海之内的每一个角落里都会有自己的朋友,只要你能抛弃杂念抱着一种顺应缘分的心境,那你的梦想就一定能够圆满实现了。


注:婆娑世界:佛教用语,是指我们现在生活着的充满七情六欲的世界。
   三味:佛教用语,是指抛弃杂念专心致志地修行。乃咱鲁爷爷幼时读书学堂之所谓也!

《圆梦诗》今訳:
   初冬の季節で、寒風がに襲ってくることを味わった。このようなもろもろの情欲が溢れた世界の中で、あなたと偶然にめぐり会った。この時、私は頭を上げて星空を眺めて、寒くなる月光は孤独な私を照らす。今夜の果てしない恋煩いは将来の見通しが立たない道のように私が征途に行くことを待っている。当時の三国の諸葛孔明は空っぽな城を守っているように、司馬懿の大軍を向かい合って、落ち着きながらそうそうたる琴の響きを演奏している。実際、この世の中で、どっちでも自分と似合っている友達がいって、あなたはただ雑念を捨てて一種の縁に順応する気持ちを抱くさえあれば、あなたの夢想はきっと首尾よく実現することができた。


注釈:婆娑世界:仏教の用語で、それは我々が今、生きているこのもろもろの情欲を満たす世界を指すこと。
    三味:仏教の用語で、雑念を捨てて一心不乱に修行することを指すのだ。いわゆる我が魯迅お爺ちゃんの幼いごろで勉強していた学校の名前である。

秋夜学古文
静虑秋夜蛐声残,
遥思万叶心自寒。
古有纳言之圣贤,
今叹自研如纸棉。
浩浩长河两千年,
岂是一朝能穷探?
东瀛诗词有何赞?
只是吾趣在日延!
注解:
1.    万叶:是指日本最早的一本诗歌的总集《万叶集》,从3世纪起编到8世纪成书,历经6次改编和修订。其中收集的日本当时各个阶层人士的诗歌,上到天皇、大臣、武将,下到平民、商人,甚至有才情的妓女所作的共4000多首汉诗和和歌。相当于中国《诗经》的地位吧!
2.    纳言:是指日本平安时代(公元794~1192年)的著名女作家清少纳言。清是她的姓,少纳言是她在宫中的职称。 生于世代文官家庭。能读汉书。从她的作品推测,约生于965年。991年进宫任皇后的女官。1000年皇后死后,清少纳言离开宫廷,作了前摄津守藤原栋世的后妻。晚年落发为尼。她的著名随笔散文作品《枕草子》执笔于在宫中供职的时候,成书于离开宫廷之后。和紫式部的《源氏物语》并称平安双璧。
3.    吾趣:是指我国古代那些文人墨客的诗情雅趣。

今译:
       在幽静秋天的夜晚,我一个人独自静静地思虑自己所学的知识,蛐蛐的鸣叫在耳边忽隐忽现,遥想日本古代的《万叶集》,心中不禁惭愧啊!日本古代有清少纳言那样的圣贤,如今我真的是感到自己所研究的学问像纸棉一样的薄啊!如同浩浩长河一样的两千多年的日本文化,哪是一朝一夕能把它学穷尽的?其实东瀛的那些古诗词又有什么好赞叹的?只不过是我国古代的那些文人墨客的诗情雅趣在日本的延续罢了!

注釈:
4.    万葉:それは日本でもっとも早かった詩歌の収集《万葉集》のことである。三世紀から編集して、八世紀まで編成した。その間で、六回の修正を行った。《万葉集》は当日の日本それぞれ階級の人士が書いた詩歌を全部収集された。上級なら、天皇、大臣、武将があって、下級なら平民、商人、才気がある妓女でさえも作った詩歌も収集し、トータルで4000あまりの漢詩と和歌がある。日本で我が国の《詩経》と同じぐらい地位になっている。
5.    納言:日本の平安時代(公元794~1192年)の女性作家の清少納言のことであり、清は彼女の姓で、少納言は彼女の宮の中の職名である。代々文官の家庭の出身のため、漢書を読むこともできる。彼女の作品から推測して、およそ965年に生まれた。991年宮に入って皇后の女官を担当したことがある。1000年皇后が死んた後に、清少納言は宮廷を離れて、摄津守の藤原棟世の後妻となった。晩年に髪を下ろして尼になる。彼女の有名な随筆散文の作品《枕草子》が宮で中で職務についた時から執筆して、宮廷を離れた後、完成された。紫式部の《源氏物語》と一緒、平安双璧と称する。
6.    吾趣:それは我が国古代の文化人の詩情に風雅な興趣を指すのだ。

今訳:
       静寂な秋の夜で、私はひとりで静かに自分の学んだ知識を思慮して、こおろぎの鳴き声が耳のそばで、途切れ途切れ現れて、日本古代の《万葉集》に思いを馳せて、心の中で、急に恥ずかしくなって来た。日本古代の清少納言のような聖賢な人があって、それにかえって、自分の研究学問は紙と木綿のような薄くしている。とうとうたる長い川のような日本の二千年あまりの歴史と文化は、ただ一朝一夕でどうしても勉強し切れないと思うよね。実際、日本のそれらの古代の詩歌は何がよく賛嘆したことがあるか?ただ我が国の古代それらの文化人の詩情の風雅な興趣が日本に伝わっただけなんだよ。

与张文耀短信畅谈后赋诗一首
今日你我吐心声,
心情尤佳精神振!
人生犹如黑白子,
何时何处何人逢?
我来弹琴你来闻,
高山流水见真诚。
自古圣贤皆怀情,
岂在朝夕思春风?
注:1.黑白子指围棋,人生像围棋是说:人生不知道在什么时候或者在哪里碰到什么样的人!就像下围棋一样,这盘棋这一个黑棋和这一个白棋正好放在一起,而到下一盘就可能这两个子离开很远的意思。
2.五句六句是用典《列子》中的伯牙和钟子期故事。
       伯牙是当时五弦古筝的第一高手,他有个知己的朋友叫钟子期。每当伯牙弹琴的时候,钟子期就在旁边听。伯牙的琴声弹到气势雄壮的高山时,钟子期就在旁说道:“多么巍巍的一座高山啊!”当伯牙弹到辽阔的大海时,钟子期说道:“多么浩瀚的大海啊!”当伯牙弹到小溪时,钟子期说道:“潺潺的小溪,源远流长啊!”后来,钟子期病故仙游后,伯牙悲痛万分,把古筝给砸了,从此再也不弹琴了!
       我们现在用的“知音”这个词,也是出自这个典故。

今译:
       今天你和我畅谈心里的话,心情特别好,精神也振奋了!其实人生就像围棋一样,不知道在什么时候或者在哪里碰到什么样的人!我来弹琴你来闻,那种伯牙和钟子期高山流水式的真诚就像你我刚才的畅谈一样啊!其实自古以来,圣贤都多情,又何必在每朝每晚想着春风(心上人)啊?

注釈:1.黑白子は囲碁と指す。人生は囲碁のようにするのは、我が人生はいつどこでどんな人と出会うのか、分からないんだ。これは囲碁と同じように、この局ではこの黒玉はちょうどその白玉のそばに置いて、次の局では、この二個の玉はずっと遠く離れているだろう。
2.五行と六行は《列子》の中にある伯牙と钟子期の物語である。
       伯牙はその時の5弦の箏の第1達人で、彼は一人の知己の友人がいて、それは钟子期である。伯牙は琴を弾く時に、钟子期はそばにいて聞いた。伯牙は琴の音が気勢の雄壮な高山まで弾くと、钟子期は“どんなに高い大きい高山だな”とそばで言った。伯牙は果てしなく広い海まで弾くと、“どんなに浩瀚広大な海だな!”と钟子期が言った。伯牙は小渓まで弾くと、“さらさらと流れている小渓だな、遠くまで流れているよね”と钟子期が言った。それから、钟子期が病没した。伯牙はとても悲痛で、箏をつぶして、それから二度と琴を弾かないことにする。
       私達の今使った“知音”という語もこの典故に出るのだ。

今訳:
       今日、貴方と私は全部心の話しを言って、気持ちはとてもよくて、精神も奮起した。実際、我が人生は囲碁とおなじようにして、いつどこでどんな人と出会うのか分からない。私は琴を弾いて、貴方はそばに聞いてくれる。その伯牙と钟子期の高山流水式の誠実はさっきあなたと心おきなく話すことと同じようだ。実は昔から、聖人はすべて多情で、毎朝毎晩で春風(愛する人)を考える必要がないだろう。

答刘政诗一首
忽闻迎春花,才觉春步伐。
恍思汉江夜,美酒与绿茶。
知君闲情雅,方恨世间大!
出门见豪雪,欣然已忘家!

今译:
忽然闻到迎春花的花香,才觉察到春天的步伐。我恍然想起在汉江(武汉)的那天晚上,招待我们的“黄鹤楼”的美酒和在茶馆里喝的“碧螺春”的绿茶真让人回味啊!那天知道了你也是个这么有闲情的人,才开始怨恨这个世界怎么就这么大啊!从饭店茶馆中出来,武汉正下着多年不遇的大雪,心情那个高兴啊!把回家都忘在脑后了!

注:
这是2005年3月11日和陈青峰一起到武汉出差搞标准的时候,遇到了武汉工厂的刘政技术课长。晚上,美酒佳肴后,一起到武汉最有名的茶馆去喝茶,畅谈时,得知刘课长也是我道中人,喜欢作诗,于是回到上海后,答复他给我的诗时,作了此首!

今訳:
突然レンギョウの花の香りをかいで、やっと春の足並みに気づく。私は漢江(武漢)でのその晩をはっと思い出して、私達を招待する“黄鶴楼”の美酒と茶屋の中で飲む“ピールオチュン”の緑茶は本当にその味を回想させる!その日にあなたもこんなのんきな気持ちを持っている人間を知って、とうとうこの世界がどうしてこんなに大きいかを恨むことになった。レストランと喫茶店から出て、外は長年ぶりの豪雪を降り始めて、気持ちはどんなにのんびりか自分も分からないな!帰りこともすべて脳の後で忘れた!

注釈:
これが2005年3月11日に陳青峰と一緒に武漢へ標準を検討する為に、出張した時、武漢工場の技術の課長劉政さんと出会った。夜、ごちそうの後で、いっしょに武漢で最も有名な茶屋へお茶を飲みにいって、心おきなく話す時、劉課長もわが道の人間であることを知って、詩を作ることがすき、そこで上海に戻った後、彼は私にあげる詩に返答する時、この首を作った。

题诗贺寿
昨见桃花开,方知是春来。
举首望新月,此刻良辰在。
盼君挥豪才,红泥足下踩。
明朝偶相遇,官宦却忘怀!
注:“红泥”是指铺在地上的红地毯。这里的寓意是你去走马上任去做大官了!用于现代是求到一个好职位!

今译:
       昨天不经意地看到了桃花的盛开,才感知到春天的到来。现在的我抬起头
看一轮明亮的新月,此刻的良辰美景正在我身边围绕着。这时,我期盼着你能
够发挥出自己所有的雄才伟略,脚底踏着红色地毯走马上任的日子该不远了。
在将来的某一天,你我又偶然相聚了,而你却忘记了自己身居的高位,投入到
涓涓的市井生活中去了!

注:“红泥”というのは床に敷いている赤い絨毯であることを示している。ここの寓意はあなたが高官に就任しに行くのだ。現代に転用すれば、一つのよい職位を身につくことだ!

今訳:
       昨日、不意にももの花を咲き乱れたことを目に入って、さっと、春が来たことを気が付いた。私は頭を上げて、その一輪の明るい三日月を眺めて、この時、美しい景色を私の身を回っている。私はあなたが自分の才能を発揮しようと願っていて、足元が赤い絨毯を踏んで、いい職に赴任することが遠くないだろう。将来のある日、私たちは再会して、あなたは自分の高位を急に忘れて、市井の生活に入ってしまった。

早春遇君
忽闻窗外风啸啸,
唯见门前路遥遥!
几度回首见窈窕,
均如蜃楼梦中飘!
春风已拂万物晓,
桃花何时朝我笑?
如今遇君喜逍遥,
牵手共勉齐登高!
忽然听到窗外的啸啸风声,低头只看见了门前的道路(比喻人生道路)遥遥地通向远方。好几次回头都看见了窈窕淑女,都好像海市蜃楼一样在梦中一飘而过!现在的春风已经吹拂着万物苏醒了,桃花(心仪的姑娘)何时才能朝着我微笑啊?现在我遇到了你让我喜悦快乐无限,和你一起牵手共勉一起望高处攀登(人生事业的高峰)!

突然に窓の外の蕭蕭たる風音を耳にして、頭を下げて、玄関の前にある道(人生の道を比喩する)が遥々に通っていきている。何度も振り替えて美貌でしとやかな女の子を見たけど、すべて蜃気楼のように夢の中ですっと過ぎ去った。今の春風はすでに万物にそよそよと吹いて蘇って、桃の花(敬慕する女の子)はいつ私に向かってほほえむことができるか?今、私は貴方と出会って、喜びきりがない、貴方と一緒にトップ(人生事業のトップ)に登ろう!
                                                                                           
初冬思友人
虽说人生如风月,
不见桃花见风雪!
橘香一飘知冬来,
甲申一年将终结。
吾生飘渺如纸鹤,
鸿鹄之志梦中歌。
今朝遇君喜相悦,
明日携手登宫阙!

注釈:
甲申年:2004年の旧暦の年だ。
鸿鹄之志:言葉が《史記-陳渉世家》から出る。陳渉は幼いごろ、地主の家出小作人をしていた。労作してから、他の子供は遊びに行ったのに、陳渉はひとりぼっちで坂道に坐って、空で飛んでいる雁を見てぼんやりする。ある人は、貴方はどうしてほかの子供と一緒に遊ばないのかと聞いて、陳渉はあとりはどうして鷹と雁の志しを知っているのかと答えた。(陳渉はこれからの<陳勝呉広の蜂起>の陳勝だ)

今訳:
我が人生は風月のようにきらきらにしているそうだが、しかし、今は桃の花が見られなくて、ただ吹雪だけを見えてくる。今の時期で、蜜柑の香りが嗅いできて、冬はもうすぐやってくるよね。2004年はもうすぐ過ぎ去った。この時、寂しい私は胸を撫でて自分に問うと、将来の人生は紙で作った鶴のように漂っている。雁と鷹の高大な志しはただ夢の中でよみがえってくる。今の私は君と快く出会って、明日にはきっと君と一緒にある素晴らしい場所に行こうと思って、心が急に奮い立たせてきた。

注:
甲申年:就是2004年的农历年。
鸿鹄之志:语出《史记-陈涉世家》,讲陈涉小时候在地主家里做佃户,劳作完后,其他的小朋友都在玩耍,而陈涉就一个人坐在土坡上,看着天上飞去的大雁发呆。有人就来问他:“你怎么不和其他伙伴一起玩啊?”陈涉道:“燕雀焉知鸿鹄之志?(麻雀怎么能知道大雁老鹰的志向呢?)”(陈涉就是后来陈胜吴广起义中的陈胜)
今译:
虽然说人生就像风月一样充满着光彩,但我现在看不见桃花只看见风雪啊!现在的时节,闻到旁人剥橘子的时候飘来的橘香味,知道冬天快要来了,2004年这一年有快要过去了。这时,寂寞的我抚心自问,将来的人生飘渺得就像纸张做的鹤啊!大雁老鹰的志向只能在梦中歌唱一下。而现在我却欣然地遇到了你,想起明日一定能和你一起到一个美好的地方,心中突然就振奋了!

[ 本帖最后由 多拉爱梦78 于 2006-7-26 17:41 编辑 ]
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发表于 2006-2-24 15:23:35 | 显示全部楼层
凄い  感心するわ
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发表于 2006-2-25 15:59:55 | 显示全部楼层
第一次来,哥我看到你的诗了,很好。希望你再接再厉阿!
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发表于 2006-2-26 01:12:10 | 显示全部楼层
这几首诗嘛,意境不错,用典也颇有意思,文理上没有什么问题。但格律实在是比较混乱。从句数和语言风格上看,这几首诗应是格律诗,古风的用词比较自然质朴,多用古代口语,这几首诗很难说是古风。不是古风就只能是格律诗啦,但如果真正考究格律,这几首诗不合格律之处甚多。
   格律诗的基本要求:
   首先是押韵。押韵不是随便押的,一般是偶数句押韵,奇数句不能押韵,首句可押可不押。严格的押韵是押平韵,一般不押仄韵。押的韵要平仄相同,不能平仄互押,同一首诗中不能又有平韵又有仄韵。律诗除所谓的“排律”之外,必须一韵到底,不能中途换韵。
   其次是对仗。律诗的第二联和第三联必须要对仗,第一联和第四联可对可不对。对仗有工对和宽对之分,至少应达到宽对的标准。
   第三是平仄。构成一联的两句要平仄相对(相反),前联的下句和后联的上句要平仄相粘(相同)。这是古人从音乐中总结出来的经验,凡是符合平仄要求的语言,发出的声音就具有音乐的旋律之美。
   在楼主的诗中,有奇数句押韵的,如《取舍》第二联“吾欲醉然入景色,自愧朽体徊退撤”;有押仄韵的,如《早春遇君》第三联“春风已拂万物晓,桃花何时朝我笑”;有平仄韵互押的,如“昨见桃花开,方知是春来。举首望新月,此刻良辰在”;有中途换韵的,如《初冬思友人》中“甲申一年将终结”押的是现代普通话的“ie”韵,“吾生飘渺如纸鹤,鸿鹄之志梦中歌”,押的是“e”韵,但首联和尾联押的都是“ue”韵,押韵要求韵母一致,不是末尾字母相同就可以的。
   至于对仗,问题就更多了。几乎没有一首是对仗的。古代的诗讲究“炼字”,对某一两个字反复锤炼,方见功夫。对仗就是炼字所要达到的目标之一,没有对仗,诗的文采要大打折扣。
   关于平仄,以《秋夜学古文》为例。楼主原诗平仄如下:
   静虑秋夜蛐声残,(仄仄平仄平平平)
   遥思万叶心自寒。(平平仄仄平仄平)
   古有纳言之圣贤,(仄仄仄平平仄平)
   今叹自研如纸棉。(平仄仄平平仄平)
   浩浩长河两千年,(仄仄平平仄平平)
   岂是一朝能穷探?(仄仄平平平仄平)
   东瀛诗词有何赞?(平平平平仄平仄)
   只是吾趣在日延!(仄仄仄仄仄仄平)
   严格来说,无一句符合平仄要求。就诗意而言,也略有不妥。首先贬低了日本古典文学的价值,这姑且不论,如果东瀛诗词真的是“有何赞”的话,楼主又何必秋夜学之,又何必“心自寒”?这与诗的主题不符,相当于自己把自己否定了。其实只要说明日本古典文学与中国有渊源关系就可以了,不需要特别加以贬低。因此,在下冒昧修改如下:
   静夜秋学对鸣蝉  (仄仄平平仄仄平)
   遥思万叶自心寒  (平平仄仄仄平平)
   清卿逸雅能随笔  (平平仄仄平平仄)
   小可凡俗愧讲谈  (仄仄平平仄仄平)
   玉翰三千文若海  (仄仄平平平仄仄)
   空读百遍虑犹难  (平平仄仄仄平平)
   东瀛俊秀时时有  (平平仄仄平平仄)
   却是源头在建安  (仄仄平平仄仄平)
   
   这是在下的一点愚见,如有不当之处,请楼主不要生气。

[ 本帖最后由 问注所执事 于 2007-9-16 22:01 编辑 ]

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 楼主| 发表于 2006-2-26 14:20:51 | 显示全部楼层
谢谢楼上的那位!

其实说实话,我也只是为了好玩才作了这些,没有怎么大地去研究到平仄的问题啦!看了你最后的那首,真觉得自己如纸绵!

以后常交流吧!
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发表于 2006-3-12 03:34:17 | 显示全部楼层
すげー、これ。。。
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发表于 2006-3-12 09:56:41 | 显示全部楼层
注:   诗中的“娑罗双树”是佛教用语。相传咱佛祖释迦牟尼爷爷当年二十九岁在舍卫城四方见“四苦”(生、老、病、死),感叹人生世间的无常,决定放弃皇位,出家云游去寻找真理,先后寻访了当时两位印度所谓的圣人,一个叫阿罗逻;另一个叫伽蓝。在他们两位那里看见人们为了摆脱心理的痛苦是通过折磨肉体而达到,许多人都赤身裸体翻滚在荆棘里,或者跳下滚烫的油锅。(有些像现今电视里报道的“法轮功”吧!)佛祖断然就否决了这种做法,认为不可取,于是独自云游去寻找真理。在之后的六年里,七天吃一粒米,一天喝一滴水,到后来身体营养极度不良,瘦得像只猴!(一般的庙里,在“大雄宝殿”的佛祖的后侧,是南海观音菩萨,在观音菩萨的上方,有一位干瘦病弱的老头就是他了,佛教中称这时的释迦牟尼为“苦佛”)在他身体快要不行的时候,遇到了一位牧羊女,牧羊女用羊奶供养了他半年,使他的身体又恢复了原来的健康。这时的他是极度矛盾和痛苦的时候,以前为了摆脱世俗的烦恼出家修行,最终还是需要得到世俗人间的关爱才能屹立世间。在这种矛盾的辨证统一中,他来到了一棵“菩提树”下,打坐入定七天七夜,终于大彻大悟,在这对立的矛盾中找到了平衡和统一,彻底地解脱了,成为了佛陀。当时佛祖三十五岁,在之后的四十六年里他云游衡河两岸,渡化帮助了印度的无数百姓,其中收徒五百,就是后来的“五百罗汉”,其中有十位各有特长的他最特意的弟子,后称“十大弟子”,西方禅宗的鼻祖伽叶和二祖阿难都在“十大弟子”中。这些功绩和咱中国的“孔老二”三千弟子七十二圣贤相比是差得多啦!释迦牟尼也没留下什么典籍,只有一些和弟子们的语录吧!就是《楞伽经》,相当于《论语》吧!其他就没什么典籍了。哪有《大学》、《中庸》那样经典的著作呢?他们两个是同时代的人物,只是在后来继承他们各自的学术,所出的出类拔萃的人才就是佛家比儒家多得多了,佛家中人才举不胜举,儒家中著名的好像只有“孟子”和南宋的“朱熹”吧!
   在释迦牟尼普渡衡河两岸的众生到第四十六个年头时,已经八十一岁了,身体的各方面的机能都衰退了,在娑罗双树下灭度涅槃了。娑罗双树东西各一棵,在东方向阳的那棵反而枯萎,在西方背阳的那棵却叶枝繁茂。一枯一荣,也昭示着世间的无常吧!(在金庸小说《天龙八部》的第一册的最后一回,描述云南大理段氏的天龙寺住持方丈本因的师叔枯荣大师时也有记载的)佛祖灭度的时候,“十大弟子”在身旁,大家都哭泣,佛祖告诉他们:不要悲哀,我的躯体虽然只能延续到现在,但我的精神和思想定能普遍流传到更大更久远的地方。佛祖灭度后,弟子将他的尸体火化后,他的尸体变成了晶莹剔透的结晶体,就是舍利子。弟子们八分舍利,到各处建塔供养。随着佛教的传入中国,有些印度的高僧把佛舍利带到了中国,目前在中国的境内已发现的佛舍利有三处吧!共几十粒吧!
佛祖释迦牟尼生前也吃过不少的荤腥(二十九岁前做王子时,和羊奶吧!)也娶妻生子,最不好的就是不但把他的儿子“罗侯逻”收作“十大弟子”,而且还把他安排到了“十六罗汉”的居高安逸的工作岗位上去了。(“十大弟子”中只有他的儿子“罗侯逻”是“十六罗汉”之一)所以,我觉得佛祖释迦牟尼不是神,而是一个实实在在的人,是一个怀着救苦救难心境和一个先知先觉的伟人吧!就好像是马克思、列宁、毛泽东一样,看不惯被剥削的劳工而自发和继承共产主义来解放劳苦的大众一样。(效果实绩另当别论!)所以我认为去游览佛教圣地和什么著名的庙宇时根本没必要朝释迦牟尼礼拜,只要向他瞻仰一下就足够了。就好像我们跟团去北京旅游,“毛泽东纪念管”是必游之地,对咱主席都是瞻仰,从来没人向他磕头一样的!!!
======
这段 是楼主自己写的吗?很有见解啊~佩服~
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 楼主| 发表于 2006-3-13 16:43:14 | 显示全部楼层
是我写的!我对佛教有些兴趣的!这10年一件事情是学日语,另一件事情就是看佛书!
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发表于 2006-3-13 17:12:45 | 显示全部楼层
崇拜啊  

偶喜欢听故事。。。

把你的文字当小说看了  抱歉  
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发表于 2006-7-19 21:18:40 | 显示全部楼层
すごい~新しい目で見なければならないなぁ。
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 楼主| 发表于 2006-7-19 22:27:46 | 显示全部楼层
れんちょうさまにそんなに褒められて、恥ずかしくて、我慢できないさ!
これからも、れんちょうさまのあとについて、どうしても、頑張らなくちゃ!
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发表于 2006-7-20 17:29:45 | 显示全部楼层
あとじゃなくて、まえだろう。はは。

まあ、一番気に入るというと、やっぱ「取舍」のほうだ。
「人生时刻遇取舍,抛弃私念天下得」←大好き。
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发表于 2006-8-15 00:43:57 | 显示全部楼层
敢问这算是中文诗还是日文诗?
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 楼主| 发表于 2006-8-15 21:23:30 | 显示全部楼层
中文诗,解释部分带翻译的!
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发表于 2006-12-23 01:24:24 | 显示全部楼层
暂且不论诗的好坏,能自己做诗也能让读诗的人体会到作者想表达的意境,那便足矣
还是很佩服lz的
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