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我把这篇文章简单地翻译了一下,如有错处还望多多指正。正确理解日语里的自动词对学习日语很有帮助。希望能对大家更好地理解和使用日语有所帮助。
日本語:
「(日本語の)動詞には、自動詞と他動詞という二つの種類があることはご存じだろう。辞書で動詞の言葉を引くと、必ず(自)とか(他)とか分類がしてある。例えば「入る」といえば自動詞、「入れる」といえば他動詞になる。「お茶が入りました」といえば自動詞的な言い方、「お茶を入れました」といえば他動詞的な言い方になる。一般に「水を飲む」とか「ピアノを弾く」など、「を」を受ける動詞は他動詞だと言われる。
中国語:
大家都知道,日语里的动词分为‘他动词’和‘自动词’两类。当你翻开字典查动词的时候,肯定会有‘自’‘他’这样的分类。比如「入る」就属于‘自动词’。而「入れる」则属于‘他动词’。「お茶が入りました」(茶来了)就是使用自动词时的说法。「お茶を入れました」(我把茶沏好了)就是使用他动词时的说法。一般情况下像「水を飲む」‘喝水’呀,‘弹钢琴’之类的跟在「を」后面的就被认为是‘他动词’。
日本語:
ところが全部がそうだとは限らないところが日本語の厄介なところだ。「家を出る」「道を歩く」など場所や通過を表す動詞は、「を」に続いても他動詞とは言わないのである。これは「道が歩かれる」とか「家が出られる」といった受け身の形がないからだ。そこへいくと「犬が足に噛み付く」「歌手にほれる」の「噛み付く」「ほれる」は「噛み付かれる」「ほれられる」のような受け身の形がちゃんとあるので「に」という助詞を受けても、他動詞ということになる。
中国語:
虽说如此,却不能一而概之。这就是日语比较麻烦的地方。比如,「家を出る」「道を歩く」这类表示‘场所’和‘通过’的动词,虽然接在「を」的后面但也不能说是‘他动词’。因为没有「道が歩かれる」「家が出られる」这样的被动式。相反,「犬が足に噛み付く」「歌手にほれる」时使用的「噛み付く」「ほれる」却有「噛み付かれる」「ほれられる」这样的被动用法,因此,虽然是接在助词「に」的后面,却属于‘他动词’。
日本語:
「親に死なれる」「先に行かれる」という言い方をする。「死ぬ」「行く」は共に自動詞だが、自動詞なのに受動的な表現をすることがあるのである。この場合は、他人がこのような動作をしたことで、結果的に自分が悲しい思いをする、被害を受ける、というような意味に使われる。直接他人を非難するのではなく、間接的に表現しているのだ。このような言い方はいかにも日本的である。
中国語:
日语里有「親に死なれる」「先に行かれる」这样的说法。「死ぬ」「行く」两个都是‘自动词’,虽是‘自动词’却有被动式的表达方法。此时虽是他人的动作的结果,但是正是由于这个结果才导致了‘让自己感到悲哀,受到伤害’。以此来表达说话人的心情。不是去直接责难对方,而是间接地表示自己的心情。诸如此类的表达方法可以说实在是日本式的。
日本語:
他動詞と自動詞を比べた場合、日本語には圧倒的に自動詞が多い。英語では「彼は妻を持っている」というが、日本語なら「あの人には奥さんがいる」の方が普通な言い方だ。「私は子供を愛する」と英語では言うが、日本人なら「私は子供がかわいい」という形容詞の表現になる。
中国語:
与‘他动词’相比,日语里的‘自动词’占绝对多数。用英语表达时使用‘他动词’「彼は妻を持っている」,而用日语时一般来说用‘自动词’ 「あの人には奥さんがいる」来表示。用英语说时「私は子供を愛する」,而日本人则使用形容词「私は子供がかわいい」来表达。
日本語:
「私の贈り物は彼を喜ばせた」というような言い方はいかにも英語的な表現で、日本語なら「贈り物を見て彼はとても喜んだ」と言うだろう。「喜ばせる」「驚かす」などの動詞はいかにも欧米人の好みそうな他動詞と言えるそうだ。逆に日本語に自動詞が多いのは、やはり自分の行動をことさらに言い立てたくないという、日本人の精神性から来ていると見ていいだろう。
中国語:
「私の贈り物は彼を喜ばせた」这样有代表性的英语式说法,用日语来表达时则需用「贈り物を見て彼はとても喜んだ」这种方式。可以说类似「喜ばせる」「驚かす」这样的他动词实在是欧美人所喜欢使用的。相反可以把日语里‘自动词’多的原因理解为源于日本人不愿意突出自己这一心里状态。
日本語:
おもしろいのは自然現象では、自動詞で表現すべきところを、他動詞を使うことだ。「夜が明ける」は本当は「夜が明く」でなくてはならない。「霜が置く」「風が吹き下ろす」「波が寄せる」「潮が引く」など、枚挙にいとまがない。これはあたかも大自然にも意志があるかのように日本人は感じたからだろうか。
中国語:
非常有趣儿的是在描写自然现象时,本来应该使用自动词来表现的,却使用了他动词。例如,「夜が明ける」应该说「夜が明く」才可以。另外,诸如「霜が置く」「風が吹き下ろす」「波が寄せる」「潮が引く」这类简直是不胜枚举。这好像是因为日本人感觉到大自然有其意志,所以使用了这样的用法吧。
日本語:
また「馬に乗って……する」という動作の意味を、他動詞の言い方で表現することもある。「引っ返す」「攻め寄せる」といった例で、これは本来馬に「引っ返させる」「攻め寄せさせる」と言わなくてはいけない。まさに人馬一体となるからこそ、自分の気持ちが馬と一緒になってこうした言い方になったようだ。
中国語:
还有,表示「馬に乗って……する」这样的动作时,使用他动词来表达。比如,像「引っ返す」「攻め寄せる」这样的例子,本来应该说让马「引っ返させる」「攻め寄せさせる」,使用使动用法才算正确。但是正因为是站在人马一体的立场上,把自己的感情和马的感情融为一体,因而才使用了此类表达方法。
日本語:
最後に自動詞にも二種類あるという話をしておこう。「降りる」は意志を持って上から下に動くことで「意志動詞」、「落ちる」は自然の力で本人の意志とは無関係に下に動くことで「無意志動詞」という。しかし東北地方では、これが一緒になってしまっているところがある。昔、駅のホームで電車の到着を待っていたら「落ちた人がシンデから(「すんでから」を東北弁でなまって言ったもの)乗ってください」とアナウンスされ、びっくりしたという笑い話がある。
中国語:
最后说一说自动词也有两种这个问题。「降りる」一词表示从上到下的移动是由自己的意志所决定,因此属于意志动词。「落ちる」一词则表示是在与本人的意志无关的情况下,由上至下的移动,所以属于非意志动词。但在东北地区,有些地方却把这两个词混为一谈。过去,曾有过这样的笑话。我在站台里等车时,听到这样的广播「落ちた人がシンデから(「すんでから」を東北弁でなまって言ったもの)乗ってください」译者注(本来是“等下车的人下完以后再请大家开始上车”。因为两个词被混同了,所以也可以解释为“等掉下去的人死了以后,再请大家开始上车”。在东北方言里「し」和「す」是没有区分的。「済んで」和「死んで」同音)。着实吓了我一大跳。
日本語:
また、九州や四国では「捨てる」を「なくする」のような無意志動詞としても使うことがある。「お金をなくしました」と言うところを、「お金を捨てました」などといともあっさり言ったりするのでおかしい。もっともかくいう私も自慢じゃないが、そそっかしいせいか今まで財布を落としたことは数知れずある。「落ちる」は無意志動詞だが、「落とす」は意志動詞。だからやはりお金を捨てたことになるのかもしれない。人のことは笑えないのである。
中国語:
另外在九州和四国,经常把「捨てる」这样的意志动词当作如「なくする」之类的非意志动词来用。例如在表示「お金をなくしました」时,却满不在乎地说「お金を捨てました」这种滑稽的说法。我这样说并非是自以为是,也许是粗心大意的缘故吧,至今为止不知丢了多少回钱包。「落ちる」是非意志动词,「落とす」则是意志动词。因此等于是我把钱都扔了。我也没资格去取笑别人。
出所:『日本語を反省してみませんか』金田一春彦(きんだいち はるひこ)
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