天声人语-2007年11月15日(木曜日)付
已有 663 次阅读2007-11-17 17:06
1977年の11月15日を、具体的に記憶している人は少ないだろう。最近、あの頃の日記を引っ張り出した。〈15日(火)奨学金入る/明日のバイトはきつい/前期の成績も心配〉。東京で一人暮らしの学生にとって、ありふれた一日だった
详细记得1977年11月15日这个日子的人很少了吧.最近,翻出了那时的日记.<15日(二)获奖学金/明天的打工活,累/也很担心上期的成绩>.对于一个在东京生活的学生,那是个再平凡不过的一天.
▼その日の夕刻、新潟市の中学1年生、横田めぐみさんが行方不明になった。両親の滋さん、早紀江(さきえ)さんには、忘れたくても忘れられない、特別な日になった
那日傍晚时分,新泻市中学一年级学生,横田惠失踪了.对于双亲滋氏与早纪江氏,那是个欲忘而无方的特殊的日子.
▼帰りが遅い娘を案じた母は、部活のバドミントンが長引いているのかと学校に急ぐ。体育館から漏れる照明と女性の声に安心するが、ママさんバレーの練習だった。東京の学生が、アパート近くの中華料理屋で野菜炒(いた)めか何かを食べていた時刻だ
担心迟迟未归的女儿,母亲猜想大概是俱乐部的羽毛球赛拖延吧,而急急地直到学校.体育馆逸出的灯光与女性的声音让母亲感到心安,是"妈妈"芭蕾的排练.正是东京的学生,在公寓附近的中华料理店吃些炒蔬菜的时候.
▼新潟の母親は遥(はる)かに正確に、作りかけの夕食を覚えている。鶏のホワイトシチューは、ジャガイモが煮え切る前に火が止まった。転勤家族の平穏も、そこでぷつりと断たれた。多くの日本人にとって、この悲劇が「同時代の体験」となるのはずっと後のことである
新泻的母亲想起远远的正好开做的晚饭.炖鸡肉在土豆还未煮好时就熄了火.换职家庭的安稳平静,也由此砰然断裂。对于很多日本人来说,这个悲剧成了“同时代的体验”,不过这是以后的事了。
▼早紀江さんは、娘の夢をめったに見ない。最後は小泉再訪朝の前だった。長い長い下りのエスカレーターに、20歳ぐらいのわが子がいた。声は届くが手が届かない6段先、赤いシャツで、赤ん坊をおぶっていた。その残像さえ宝物だ
早纪江氏很少梦见女儿,最后一次是小泉再次访朝之前。在长长地下行的电梯里,是自己20岁左右的孩子。在听得到却触不到的6层前,穿着红衬衫,背着个婴儿。这些残像对她而言,却是宝物。
▼「私たちができることは全部しました。早く静かに、普通の人になりたい」。自分の名が難しいからと選んだひらがな3字。いつの間にか、国家犯罪を告発する記号になった。親子の30年を奪ったまま、極東を次の冬がつつむ。
[能做的我们全部都做了。我们想迟早平静地做个普通人]。因自己的名字很难而选取的3个平假名,不知何时起,成了告发国家犯罪的标号。在亲子掠走的这30年,下个冬天再次笼罩了远东。