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「ホールという学者は、日本人の空間利用についておもしろいことを言っています。彼は日本の庭を見て回って、あるものが見えたときには他のものが見えない。石にしても、全部の石が見えるようになってない、どこかかげに隠れている。陰に隠れているということは、記憶の中にある――というわけです。その記憶と想像力というものを非常に大事にする。私はそれを一種の「暗示作用」だろうというふうに思うわけです。つまり、見る人の記憶と想像力とを頼りにしてというか、大事にしてというか、そういうものを前提にしているわけですね。だから、はじめから終わりまで、全部サーッと見えてしまうというのはだめなわけです。
庭を歩いてゆく人が歩くにつれてつぎつぎ新しい姿が見えてくる。池が見えた、そのときには、記憶の中にある築山というのは過去のものです。しかし、過去のこととして自分の中に生きているわけですね。ですから、いくつかの層が重なり合ってふくらみを持ってくる。現にあるものを指示するのではなくて――指示作用ではなくて、漠然と暗示する。いくつかの像がつながりますと、はっきりした一つのこういう意味だというふうにはいえない。全体が意味のふくらみを持って感じられる何ものか、こういうことになるわけです。
その点、ヨーロッパの庭よりも日本の庭のほうがホールさんのいうところでは、観賞者というか、享受者というか、庭を歩く人の立場に立ってつくってある。つまり庭を歩く人が自分の力で何かを発見できるような、そういう仕組みになっているというふうな表現を使っています。暗示というのは、別の言葉でいえば発見というふうにいってもいいと思いますが、そういう喜びというものを日本の庭は与えるというわけです。」
(原文の出所:『身辺の日本文化――日本人のものの見方と美意識』著者 多田道太郎)
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