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『日本のことばとこころ』P112
語学の学習には「構文練習」がつきものです。一定の理論にしたがって作られたモデルの文型があって、ことばを入れかえながら練習するようになっています。基本文や応用文を収めたテープも、この目的で作られたものが多いようです。さまざまに工夫されていて変化に富んだものも少なくありません。これは「文の骨組」の学習に非常に役立ちます。しかしそれをいかにみごとに習得しても、それで血のかよった外国語が話せるわけではありません。そのためにはなおさまざまの過程を経なければならないのです。
文型練習の落し穴は、個々の文の骨組みをマスターすると、もうそれで生きたことばが話せるような錯覚におちいりやすい点でしょう。しかし実際には、なん百なん千の文型を覚えたにしても、単なる標本の集積に過ぎません。標本室には骨格の構造を示す骸骨の群れから、筋肉や神経組織を示す精巧な人体模型まで取りそろえてあるかも知れません。しかし、骸骨や人体模型が踊り出しては困るのです。それはあくまでも、じっと標本室に収まっていてくれなければなりません。
心理的な動きにつれて、助詞が交替したり、動詞や助動詞が変化したりする日本語にあっては、つねに流動する「場面」の展開に対応できるような学習法が必要です。それが「会話」です。いつ、どこで、なにがとび出してくるかわからない会話の中で、刻々と変化する情況に対応しつつ助詞を即座に判断し、動詞を選んでいくような能力。それが培われてはじめて、生きた日本語が話せるようになります。
会話は「一回的」で、二度と同じ情況は現れません。人生と同じです。標本室の中ではなく、日々の生活の場で人間関係を維持していくには、この臨機応変に対応できる言語能力が必要です。どこで、どのことばを、どう「用いる」か。あるいは、どこで、どのことばを、どう「省略する」か。そういう能力が備わったときに、はじめて「文章」が組み立てられるようになります。「文章」はバラバラの「文」の集まりではなく、一つの有機的な統一体です。
しかしまた、会話の学習にも落し穴があります。多少の言い違いやおかしな表現があっても、全体の流れを損わないために、大目に見てしまうことがあります。また、発音不明瞭さもなんとなく聞き過ごされていて、文法上では許されない間違いが大手をふってまかり通るということも少なくありません。
この欠点を補うものが「作文」です。文字として残るために、誤りをじっくりと吟味し、きちんと直すのに役立ちます。しかも、全体として一つのまとまりをもつ文章であることが求められますから、語学の総合力が端的に現れます。日本語では、「話し手」がどの位置からどの方向に向かって視線を注いでいるかが、文に否応なしに現れてくるために、この点に対する周到な配慮がない限り、文脈に混乱が生じます。おそらく、大多数の外国人にとって、いちばんの泣きどころでありましょう。テレビのコマーシャルやマンガに出てくるような、ちょっと気のきいたセリフがうまいために、日本人からちやほやされている外国人は気の毒です。コマ切れの会話がうまくても、日本語としてはものにならないのです。
日本語では、短い文の中でさえ、二度も三度も視点が切り替えられることがあります。ですから、科学関係の人でも、一応は文学的な文章に接するように心がけることが、結局は必要でありましょう。日本人から見てむずかしい専門書も、外国人の立場からはむしろやさしい場合が多いようです。語彙さえわかれば、なにが書いてあるか大体の見当がつくのですから。やはり、たといやさしく見えても、日本的な文章がいちばん養いとなるでしょう。
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