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日志

聴診器

已有 315 次阅读2011-4-4 10:37

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雷人

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回复 Olympic 2011-4-6 15:29
期刊江湖的买卖
据悉,在出版江湖中不少合法期刊中,非核心类的收费在千元左右。而据说一旦进入核心,则费用大增,五六千元并不罕见。部分权威刊物的收费,更是要达到五位数。但这些期刊的不轨行为,貌似因为其身份之合法,也就合法了,至少目前为止,还没有听说过哪一家期刊因此受到过查处,更谈不上刑罚。

  同所有的假冒伪劣产品一样,学术产品一旦是废品、次品乃至赝品,对社会危害巨大。而现在看起来,形势不容乐观,海南省最近查处了一起特大非法期刊案,7年以来,犯罪嫌疑人符莉夫妇非法创办《中国教育科研杂志》等20余种刊物,由只上过初中的员工组成编委会“审核”论文来稿,收取约两万名投稿者交纳的版面费超过1000万元。记者调查发现,这20余种非法报刊大多集中在卫生和教育领域。由初中生来审稿,这些学术产品的质量可想而知。

  这一团伙之所以引起了警方的关注,是因为其行为涉嫌诈骗,另外还触犯了出版方面的有关法规,事实才能大白于天下。但问题在于,用非法期刊敛财,是这一产业的低级水平。更严重的问题是在正规的、合法期刊领域,合法期刊大量参与收取费用发表文章,已经是公开的秘密,并且收费更狠。应当注意到,这些非法期刊2000字的稿子,收取的费用是340元。这比起正规出版物的收费,简直就是免费。据悉,在出版江湖中不少合法期刊中,非核心类的收费在千元左右。而据说一旦进入核心,则费用大增,五六千元并不罕见。部分权威刊物的收费,更是要达到五位数。但这些期刊的不轨行为,貌似因为其身份之合法,也就合法了,至少目前为止,还没有听说过哪一家期刊因此受到过查处,更谈不上刑罚。

  非法期刊以及合法期刊收取费用现象的存在,说明存在着大量的发表论文需求的存在。首先需要解决的问题是对这些需求进行合乎理性的清理。论文是学术研究的成果,是学术共同体的事情。但现在大量的非学术共同体的人士也需要发表论文,这显然是因为不合理的职称评定、职务晋升用人政策所致。因此相关用人政策必须改革,对于非从事学术研究的人员而言,比如中小学教师、医生以及从事其他行业实际工作的人,不要再硬性规定他们发表论文。如斯,论文发表需求会被极大地遏制,非法刊物以及低层次正规刊物收取费用的问题会解决大半。

  但这不能解决全部的问题,即正规的、高层次的学术刊物收取费用的问题。学术研究成果能不能发表,在哪一级别的刊物发表,事实上就是学术研究者及其成果之间的竞争,花钱发表论文,就意味着这种竞争不是实力和水平的竞争,而是乱七八糟手段之间的竞争。这就产生了恶劣的引导作用,学术研究者会逐渐失去努力提高学术研究水平的动力,而是依赖于歪门邪道,学术研究的整体水平都会下降。所有的学术研究,都动用了大量的社会资源,尤其是在我国,相当一部分研究资源直接来自政府,也就是直接来自纳税人。大量低水平毫无创新的研究,是对社会资源的浪费。也是对社会风气的败坏。

  解决这一问题是个复杂的系统工程。比如需要学术共同体真正掌握学术权力,真正掌握学术评价的权力;比如学术共同体的自律。但这些都是老生常谈,要落实起来并非易事。倒是有一个办法稍具可操作性:学术期刊全面实行匿名审稿制度,所有稿件,外送专家匿名审稿,专家评价高的发表,反之淘汰。这个措施如果能够落实,收取一定的版面费,倒也不是什么大问题。其实这也并不是什么新办法,但以前的落实纯粹依靠学术期刊的自觉自愿,而现在需要把这个措施上升到法律法规的层面,对学术期刊匿名审稿制度的实行细则,比如程序、责任等用法律的形式固定下来,用以规范期刊与作者的行为,这样才可能会有一点作用。(周 云)

http://news.xinhuanet.com/comments/2011-04/03/c_121264219.htm
回复 Olympic 2011-4-6 15:30
http://www.cppblog.com/zenliang/archive/2010/11/07/132858.html
C语言printf详解
回复 Olympic 2011-4-15 09:52
檀 一雄

 これから九州の島に帰るつもりなので、その前に私は、おまえたちに今までまだ書いたことのない手紙を、書き残していこうと思う。その愚かな父から、人生の門出に向かう娘たちへの手紙である。

 たとえてみれば、私のおまえたちに対する遺書であると思ってみても、差し支えはない。知っているとおり、私は、健康の許す限り、これから先は、主として、島の家で暮らしながら、まず、まあ、紛れのない自分の人生の刈り入れに向かうつもりだし、おまえたちと、いっしょに暮らすことは、もうほとんどなくなるだろう……と思うからであり、また、何を語っても、もうおまえたちは、それを判別する能力に達していることを、知っているからだ。

 私が、自分のことを、「その愚かな父」と言ったのは、卑下ではない。おまえたちが、人生の茫洋にとまどって、その門出の足踏みを繰り返しながら、迷い、ためらうように、私も、人生なにものか……、この年になっても、心の目はちっとも開かず、老頽と死を前にして、慌てふためいているだけのようなものだ。まことに、妄執の頑父が、天国に入るのは、らくだが針のめどをくぐるより難しそうである。

 まず、人生とはなんだろう。例えば、おまえたちは、庭先に群れをなしてはっているおびただしいありの列を見る。指でひとひねりすればそれでこと切れ、一瞬にしてありは死ぬ。辺りは空漠であり、その空漠の中に壊滅されたものがなんであったか……、解答は全くない。我々、ひしめいている人間のひとつひとつの命のありようも、全くこれと同じである。「お幸せに……。」も「おかわいそうに……。」もない。あらゆる生命は、神から放たれたか、生産する自然力とでもいったような根源の力から生み出されたのか、知らないが、その無限の造物の力によって、まるで、みじめな、それぞれの道化を演じさせられるあんばいに、この地上にほうり出されてある。その有限の生命どもが、泣いたり、笑ったり、怒ったり、裏切ったりしているわけだが、どのような修飾の言葉で装ってみても、人は生まれ、はいはいし、立ち上がり、つややかになり、やがて、男は女を追い、女は男を迎えて、やれかけがえない……だの、やれ絶対……だの、と口走りながら、有頂天になる暇もなく、いつの間にか、もう老いの影におびえ、一人一人よろけながら、死んでゆく……。もっとも普通の「お幸せにね……。」が円満に実現されるとして、けっしてこれ以上のものではないはずだ。

 悲しいけれども、人間は、たったたこれだけのものである……、ということを、まず、知るべきだろう。いや、必ず、知ることになる。

 だから、私はおまえたちに、早く人生に絶望せよ、といっているわけでは、けっしてない。いや、その反対だ。まことにみじめではあるが、私たち一人一人に、命という、自分だけで育成可能のなんの汚れもない素材が与えられている。おまえたち一人一人は、その汚れのない一つずつの素材を与えられた、芸術家であり、教育者であり、いってみれば、自分自身の造物主であり、いや、ちっぽけな、哀れな、神ですらあるだろう。なぜなら、おまえたちの命のありようは、おまえたちが選ぶがままであり、おまえたちの命の育成も、おまえたちの育成するがままだからだ。

 教育ママなどになるような暇はない。もし、おまえたちに、大きな悲しみが生まれたら、その大きな悲しみを、自分の子供たちに受け渡していくのが教育だ。おまえたちの知恵と力の限りを尽くして、おまえたちの、その命の素材を、誘導し、ゆっくりと育成してみるがよい。何度敗れてもよろしい。傷つき、敗れるたびに、命の素材は、底光りを増すのである。みじめな人生ではあるが、その人生を自分なりに生き終わらせてみなさい。後悔するよりも、やり直してみることだ。マイ- ホームというような幸福の規格品があって、それを、デパートで買うような気になったら、めいめいに与えられている命の素材が泣くだろう。敗れても、自分自身の造物主であり、地にまみれても、自分自身の神ではないか。やがて、滅びるに決まっているから、自分の心と体を、絶えず誘導し、向上させ、美しく保持しなければならないだろう。

 青春というものは、おまえたちの心身に、最も動物的な形で殺到してくる。いや、殺到している……。その危険さも、目覚ましさも、かけがえなさも、時が過ぎてみなければわからないようなものだが、けっしてためらうことはない。一敗地にまみれればよろしいことではないか。大きな自己育成の転機ですらあるだろう。

 そこで、愛の問題だ。絶対の愛などというものがあり得ようか。おそらくない。例えば、アベラールとエロイズの愛が、不動なものに昇華したとすれば、ほんの偶然の出来事によって、アベラールが、そのものを失ったからだ。

 私たちは、無限の時間と空間の中に投げ出され翻弄されている、みじめで、有限の、生き物でしかない。私たちが、この一生で触れ合い、巡り合うのは、古人のたとえのように、木の葉が風に降り敷きながら、触れ合ったり、折り重なったりしているようなものである。そのはかない、過ぎやすい、一瞬の逢縁を、静かな、充実した、かけがえない時間の喜びに変えることはできる。それは、お互いの自己育成の果てに、ようやく知る一瞬の、かけがえなさの自覚からである。寛容と敬愛は、おのずから、やすやすとした信頼の交互作用を生んで、人間なにものであったか……、の誇らしい安堵に近づくかもわからない。だが、これは、万に一つの愛の形であって、おそらく、泥にまみれ地にまみれた男女らの、長い、自己育成の果ての夢に近いかもしれぬ。

 しかし、ためらうな。恐れるな。悲しみをも享楽できるほどの命を鍛冶して、自分の人生に立ち向かっていくがよい。

 繰り返すが、教育者は自分であり、命の素材を磨き上げる芸術家は、ほかならぬ自分自身であり、自分が造物主であり、哀れだが、自分が自分の神でもある、おまえたちの前途が、どうぞ、多難でありますように……。多難であればあるほど、実りは大きい。

 これは、初めから、おまえたちの幸せのために書くのではなく、紛れのない自分自身の人生に立ち向かってゆく者への門出の言葉である。

 では、時々、思い出したら、その頑父の島を訪ねてくるがよいだろう。

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