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NHKにようこそ!
作者:    出处:咖啡日语    发表时间:2007-09-20    浏览次数:     

校時代。
 高校時代と言えば、ほろ苦い恋愛である。世間一般では、そのように取り決められている。
 実際俺も、恋愛していた。恋愛シミュレーションゲーム並みに、ドキドキする毎日を送っていた。
 たとえば俺は、先輩が好きだった。部活の先輩が好きだった。
 文芸部に所属しているだけあって、先輩は結構な読書家なのだった。だけどそのくせ大馬鹿野郎なのだった。
 先輩は俺の目の前で『完全自殺マニュアル』を読んでいた。
 俺は思う。
 そうゆう振る舞いは格好悪いからやめた方がいいのに。スンゲー可愛いんだから、普通にしてりゃあいいのに──
 だけど先輩は一向に気にする気配を見せなかった。
「なんですか、その本は」
 と、しかたがなしに俺が訊くと、先輩は照れ笑いを浮かべて、こう言ったものだ。
「自殺ってのも、ちょっといい感じだと思わない?」
 そのころ彼女は、つきあっていた男と酷《ひど》い別れ方をしたとかなんとかで、それなりに落ち込んでいるようだった。
「あのさぁ佐藤君。自殺とかする人ってどう思う?」
 そんなことすら訊いてきた。
「いいんじゃないですか。その人が自殺したいんだったら、たぶんそれはその人の自由だと思います。他人がどうこう言うことじゃないでしょう」
「ふーん」
 先輩は俺のつまらない返答に感銘を受けるわけもなく、気の抜けた返事をして、膝の上の本に再び目を落とした。
 そしてまた、ある日の放課後。
 二人だけのトランプに俺が飽きてしまった頃、先輩は言った。
「あのさぁ」
「なんですか」
「佐藤君はさ。やっぱりさ。あたしが死んじゃったりしたら、悲しんでくれたりするのかな?」
 その唐突な問いに自分がどう答えたのか、俺にはどうしても思い出せなかった。
 ただ数日後、先輩がその細い手首に白い包帯を巻いて学校に来たことだけは、はっきりと覚えていた。
 ……まったく、呆《あき》れかえってしまう。どこまで本気で死ぬ気だったのかは知らないが、少しは恥じらいというものを覚えるべきだろう。
「頭の悪い女子中学生じゃないんだから」
 すると、先輩は言った。
「あたし、頭の悪い女子高生だから」
 志望校は早稲田《わせだ》のくせに、堂々とそんなことを言う女だった。
「ところであたしたちの問題は、どこにも悪者がいやしないってことだよね」
 そんな意味不明なセリフを、胸を張って言う女だった。
「誰も悪くないのに。バスケ部の水口君も、あたしも、もちろん佐藤君も、誰も悪い人はいないのに。だけどなぜか、いろいろなことがマズイ方向に転がっていくよね。変だよね」
「変なのは、先輩の頭でしょうよ」
「救急病院から出てきたばっかりの女の子に、そんな冷たいことを言うものじゃないよ佐藤君。
 ……ところであのさぁ佐藤君、佐藤君は知ってる? あたしたちは何も悪くないのに、ずいぶんとむやみにいろいろ辛いことが身のまわりに起こる。それはなぜかというと、巨大な組織があたしたちに悪い陰謀をしかけているからで」
「はいはい」
「ホントだよ。このまえ風の噂で聞いたんだけど」
「……はいはい」
 頭がおかしいフリをするのが好きな女だった。それでもずいぶんと美人だったので、俺は彼女が好きだった。
 卒業式の数日前に、一発ヤらせてもらったりもした。
 二年間、ひたすら彼女のご機嫌をとって、その見返りがこの一発かと思うと、それなりに感慨深いものがあった。やたらと興奮したが、なぜか悲しい心持ちもあった。
 しかし結局、うまい具合にヤれたのは、その一回だけである。
 もっと何回もヤッておくべきだったような気もした。いやいや、むしろ一回もヤらない方が良かったような気もした。
 実際、どうなんだろう?
 あぁ──

 渋谷の、コジャレた喫茶店で「どうなんですか?」と俺は訊いた。
 数年ぶりに出会った先輩に、俺は訊いた。
 この前の日曜日に、いきなり何の前触れもなく電話がかかってきたのだ。『会おうよ』と先輩は言った。俺はのこのこ出かけていった。
 待ち合わせ場所はモヤイ像前だった。ちょっと地方出身者っぽい行動だったが、事実俺たちは地方出身者なので、特に問題ない。
 出会い頭に、先輩は言った。
「佐藤君の実家に電話をかけて、佐藤君の今の連絡先を教えてもらおうと思ったら、君のお母さんにセールスマンと間違われて、だいぶ胡散《うさん》くさがられたよ」
「あぁ、よくあるんですよ。学校の同級生を名乗って、名簿を集めようとする業者──」
 数年ぶりに再会して、一番最初の会話がこれかと思うと、ちょっとげんなりした。
 が──が、記憶に違《たが》わず先輩は、やはりばっちり可愛かったので、俺はだいぶドキドキした。ついでに、ひきこもり特有の視線恐怖と広所不安がやってきた。
 喫茶店に入っても、冷や汗が止まらなかった。
 窓際の席に座った先輩は、アイスコーヒーなどをストローでかき回しながら訊いた。
「あのさぁ佐藤君、君、今、なにやってるの?」
 俺は包み隠さずに本当のことを答えた。笑顔で。
 すると、先輩も笑った。
「もしかしたら、そんな感じになってたりとか、ちょっとは予想済みだったけどね」
 俺は自慢してやった。
「いやもう、籠もり籠もってもう四年ですよ! プロフェッショナルのひきこもりです!」
「やっぱり今も、外に出るのは大変なの?」
 俺はうなずいた。
「なら、良いものがあるよ」
 先輩は、小さなバッグからピルケースなどを取り出して、何やら小粒の錠剤を俺に手渡した。
「これ、リタリン」
「なんすかそれ?」
「抗鬱《こううつ》剤。覚醒《かくせい》剤の親戚《しんせき》みたいなクスリだから、すっごい効くよ。これでいつでも元気でバリバリ!」
 先輩は、今もやっばりおかしい人だった。精神科を三つはど掛け持ちしているそうだ。
 それでも彼女の心遣いは、なかなかに嬉しかったので、俺はありがたく、そのあやしげな抗鬱剤をいただいた。
 そしたら元気になった。
 俺たちは無駄に陽気に会話を交わした。
「高校時代は、佐藤君、普通だったのにね。……いや、そうでもないか」
「先輩は、今、何やってるんです?」
「無職」
「大学は卒業したんでしょう?」
「そうだけど、だけど今は無職。……もうすぐ主婦になるけど」
「へぇ、結婚するんですか」
 二十四歳の若奥様か。萌え萌えだ。
「ビックリした?」
「それなりに」
「悲しい?」
「まさか」
「どうしてさ?」
「どうなんですか?」
 喫茶店を出た。先輩は俺の周りをくるくるとふらつきながら、にこやかに笑っていた。
 そして「あたし、今、幸せだよ」と言った。堅実な国家公務員、金持ち、それでいて格好いい、つまりは最高な人との結婚だ! と自慢してくれた。
「難しく考えちゃダメだよ。複雑なことを考えたらダメだよ。ハッピーだよ」
 そのセリフはひたすらに陽気で、どうやら彼女も例のクスリを囓《かじ》っているらしい。
 人混みをすいすいとすり抜けながら、先輩は言う。
「あの頃、ちゃんと付き合っておけば良かったかもね。佐藤君、凄くあたしが好きだったんでしょ?」
「凄くヤらせてもらいたかったです」
「ごめんねホントに。毎日トランプなんかしてる場合じゃなかったよね」
「別れ際の一発ってのは、だいぶキツイものがありました」
「もしかして、君がひきこもっちゃったのも、あたしのせいかもね」
「……それはぜんぜん関係ないですよ。もっとこう、別の大きな──」
「巨大組織とか?」
「ええそうです。巨大な悪い組織に、俺はすっかりやられちゃったんです」
「あたしも、ねえ。悪い組織にたぶらかされたよ。もうダメかもしれないよ──」
 そして先輩は唐突に、子供が出来たと教えてくれた。
「スゲー! マジスゲー! 母親じゃん!」
 俺はビックリした。
「だから結婚するの。これであたしは人生合格! もう、バッチリ軌道に乗ったよ。あとはもう、このまま一直線に行けると思うよ」
 先輩は、俺の前方一メートルを、てくてく早足で歩いていた。だから表情は窺《うかが》えない。しかしその声色から察するに、事実正しく浮かれている。ハッピーなのだ。そうに違いない。
「良かったですね。良かったですね。良かったですね」
 俺は同じセリフを三回連呼して、彼女の新たな門出を盛大に祝った。
「佐藤君、辛くない?」
 先輩は足を止めた。
「いや、別に」
 俺も立ち止まった。
「なんか知らないけど、あたしは辛いよ」
 いつのまにやら、ここはホテル街だった。
 真っ昼間だというのに、女の肩を抱いて歩く奴が、数組ぶらぶら歩いていた。俺はちょっと興奮した。
「不倫とか、しようか?」
 そんなことを言って先輩は微笑む。
「若奥様と不倫! テレビみたいですね!」俺はますます興奮する。
「一回しかヤらせてあげなかったから、可哀想だからね」
「…………」
 俺たちはホテルの前で、真正面から向き合っていた。
 ものすごく休憩していきたかった。
 だけど二人とも、笑っていた。
「……先輩は、今、幸せなんでしょう?」
「そうだよ」
「もはや先輩は、巨大な組織の手の届かないところにいるんでしょう?」
 先輩は、もう一度、「そうだよ」と言った。
「なら、俺は帰ります」
 俺は前屈《まえかが》みになりつつそそくさと立ち去った。
 すれ違いざま、先輩の横顔を盗み見た。
 涙が流れていた。
 そりゃあねえぜと俺は思った。

 まったく、先輩のように、可愛くて気だての良い人間ぐらいは、にこやかに健やかに軽やかに、誰もが羨《うらや》むぐらいの幸せをゲットしたっていいはずなのだが。あーゆー可憐な人ぐらいは、悩みのない人生を送ってくれても良さそうなものだが。
 しかし現実は、またしてもまたしても、ロクでもなく陰鬱《いんうつ》で、どうしようもない。
 やるせない怒りがあった。だけども、腹を立てて殴りつける、その相手が見つからない。
 巨大な組織。願わくば、巨大な悪の組織が存在していて欲しいのだが。それが俺たちの願いだったのだが──
「…………」
 嫌なことばかりが溢《あふ》れていた。世の中は、複雑でグチャグチャな、ワケの分からない、理解しがたい、不幸と悲しみに包まれていた。
 大学の友人は自殺した。『夢に破れて恋にも破れたので死にます』などと、頭の悪い遺書を残して自殺した。小学校の同級生は結婚して離婚した。男手ひとつで二児を育てるヤマダ君、白髪が生えてて笑ってしまった。男と同棲《どうせい》してたカズミちゃん、実家に帰った。公務員を目指してたユウスケ君、試験に落ちた。エロゲーを作る山崎君、夢やぶれた。
『僕は自分の才能を試す。……いや、別にエロゲーじゃなくてもいいんですけど、何かをやって、やってやる』
 洒に酔っぱらってそう宣言した彼の未来も、もはや牛を追う酪農家だ。逃げ出すすべは、見あたらない。
 みんな笑っていたのだが。みんなはしゃいでいたのだが。
 同窓会とかコンパとか、そうゆう場所では楽しげで、カラオケなんかも楽しげで、あの頃みんな、楽しげで、このさき未来は完璧だ! 俺たちは何にでもなれる! なんだってできる! 幸せになれる! そう確信していたはずだったのに──
 そうなのだ。じわじわと、本当にじわじわと、あまりに遅くて気がつかないほどの、どこまでもどこまでもイヤらしいスピードで、俺たちはゆっくりと追いつめられているのだ。困ったり、参ったり、泣いてみたりしてみても、どうしようもないのだ。誰もがみんな、いつかは大変な目に遭うのだ。それは遅いか早いかの違いだけで、結局いつかは、ものすごくやりきれない事態に陥ってしまうのだ。
 だから──俺は、怖いんだ。
 かなりいろいろ、怖いんだ。
 なぁ先輩。
 俺はダメですよ先輩。あなたが見合いでゲットした公務員なんかよりも、俺は五百倍ぐらいへボい人間です。だから俺にはどうしようもない。すんげーヤりたかったけど、余計に辛く、なるだけだ。別にカツコつけてたわけじゃない。あぁ不倫したかったなぁ。しかしそれは無理なんだ。無理に決まってる。自分のことすら手が回らない、情けないひきこもりのこの俺には、あなたを喜ばせてやるだけの力は無い。……いや、テクニックがどうとかって話じゃなくて。
 あぁ、俺だって、強い人間になりたかったさ。頼りがいのある、そこにいるだけで周囲を明るくする、そんな人間になりたかったさ。幸福をばらまきたかったさ。
 しかし現実は、ひきこもりだ。外を恐れるひきこもりだ。
 なんか知らないけど怖くて怖くてしかたがないんだ。
 だからもう、ダメなんだ──

   *

 来月、仕送りがストップする。そのとき俺は、どうしよう?
 この生活も、もうすぐ終わる。
 いっそ人生、終わらすか?
「…………」
 俺はエロゲーのシナリオを書いていたパソコンの電源を切り、とりあえず山崎に電話をかけた。
『ごめん、シナリオ、もう書けない』と謝ろうとしたのだ。
 だが電話は話し中だった。耳を澄ますと、隣室から怒鳴り声が聞こえてきた。
『どうしてそうゆう話になるんだよ!』
『そもそも僕は、自分の金で、こっちに来たんだ。あんたらの指図を受ける義務なんて、どこにもない!』
 などなど、どうやらまたまた親と揉めているらしい。
 どこも大変だ。
 俺もそろそろ本格的に、生きていく勇気がなくなってきた。
 一句浮かんだ。

  梅雨明けて、すかっと爽やか、スーサイド

 かぶり俺は頭を振った。とりあえず、今日のところはもう寝よう。
 パジャマに着替えてベッドに横になろうとした。
「…………」
 そのとき、テレビの上に置いてあった一枚の紙切れが目に留まった。
 それは、岬ちゃんからもらった契約書だ。
 いつだったか、コンビニの雑誌コーナーでマンガを立ち読みしていると、いつの間にやら背後に岬ちゃんがいた。彼女は『今度会う時までに、サインとハンコを押しておいてね』と言うと、鞄《かばん》の中から表の紙切れを取り出して(ずっと持ち歩いていたらしい)、俺に手渡した。
「…………」
 その紙切れ──すでに何度も目を通しているその紙切れを、俺はもうl度、手にとって読んだ。
 やはりそれは、あまりにもバカらしい、どこまでも意味不明な文面の、頭が痛くなってきそうなしろものだった。しかし、マックスに神経衰弱している今の俺には、妙に魅力的な紙切れでもあった。なので、ついつい俺は、その契約書にサインをして、ついでにハンコを押してしまった。
「……………」
 その契約書をポケットに突っ込み、近所の公園へと赴く。
 夜。
 月が出ていた。どこかで犬が吠《ほ》えていた。
 ブランコ脇のベンチに座り、ぼんやり夜空を見上げていると、唐突に岬ちゃんがやってきた。
 今夜も宗教ルックではない、通常の衣服に身を包んでいた。
 俺の隣に腰を下ろし、訊《き》いてもいないことを弁解してくれる。
「別に、毎晩毎晩、あそこの窓から公園の入り口を監視しているワケじゃあないよ」
 俺は笑った。
 その小さな笑い声が消え去って、犬の遠吠えも鳴りやんで、聞こえてくるものが、遠くの方の救急車のサイレンだけになった頃に、岬ちゃんは訊いた。
「ゲーム作り、終わったの?」
「あ、あぁ、エロゲー製作は結局中止になった。──って、なんでそれを?」
「この前、山崎君がマンガ喫茶に来たとき、小耳に挟んだんだけど。ところでエロゲーって何?」
「……エロアとガリオアの略だよ。要するに、EROA──占領地域経済復興資金と、GARIOA──占領地域統治救済資金のこと。第二次大戦後のアメリカ占領地における、疾病や飢餓などの社会不安を防止するために、アメリカ政府が──」
「それ、大嘘でしょ」
「うん」
「クリエイターつてのも、やっぱり嘘でしょ」
「うん」
「本当は、無職のひきこもりなんでしょう?」
「……うん」
 俺は契約書を差し出した。岬ちゃんはそれを素早く奪い取ると、ぴょん、と飛び上がった。
「ようやくその気になってくれた。これで佐藤君は、もう大丈夫。ちょっとの訓練で、広い世界に旅立っていけるよ」
「……岬ちゃん、結局あんた、何者だ?」
「だから前から言ってるでしょう。苦しんでいる若者を救済する親切な娘だってば。……あぁ、もちろんこれは、あくまでプロジェクトの一環としての活動なんだけど、だけど安心してていいよ。なんにも悪いことはないからさ。ね?」
 どこまでも嘘臭い話だった。
 が──
「とにかく、これで契約完了! 契約を破ったら、罰金百万円だからね」
 岬ちゃんは契約書をポケットにしまうと、ニッコリ微笑んだ。ここに至って、俺はようやく不安になってきた。自分がものすごい間違いを犯してしまったような気がした。
 この契約書。どこまで法的な強制力が働くのだろう?
 大学の頃の、法学部の友人にでも尋ねておけばよかった。
 ちなみに契約書の文面は、こうである。

   ひきこもり脱出と、そのサポートに関する契約書

    ひきこもり者名 佐藤達広
    脱出サポート著名 中原岬

    ひきこもり者を甲とし、脱出サポート者を乙として、両者の間に次のとおり契約する。
  1.甲はそのひきこもり脱出に関し、乙に苦悩、葛藤、泣き言、弱音、その他いっさいの内
   心をうち明ける。
  2.甲のひきこもりに関して、乙はその脱出のために尽力し、社会復帰(以下「丙」)を成
   功させるよう努める。また、丙への過程において、乙は甲の精神状態の保全をはかる。
  3.そのかわり、甲は乙に対して、丁寧な口を利く。
  4.甲は乙の言うことを、何でも素直に聞く。
  5.あと、甲は乙を、うるさがったりしない。乙を、邪険に扱ったりしない。
  6.当然、殴る蹴るの暴行を加えたりもしない。
  7.カウンセリングは、毎晩、三田四丁目公園で行われる。夕ご飯を食べた後に来ること。
  8.そうすれば、たぶん、良い方向に行くと思う。
  9.約束を破ったら、罰金百万円。

 文面を思い返してみると、激しい不安に襲われた。
「やっぱりやめた! 契約書返せ!」
 しかし岬ちゃんは、とっくの昔に公園の外へと歩き去っていた。
 取り残された俺は、ひとり途方に暮れていた。
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    七章 回転する岩石

      1

 いつのまにやら社会的精神的に追いつめられていた──そんな感じの夏だった。
 いつのまにやら脱出不可能な檻の中に閉じこめられていた──そんな感じの七月だった。
「ヘルプミー!」と救済を求めてみる。しかし、愛も夢も希望も、努力も友情も勝利も、決して俺たちを救ってはくれなかった。困ったものである。
 たとえば山崎は叫んでいた。
「おおおお! ふざけてるんじゃないぜよなぁ!」
 彼には大志があったのだが。彼は小さい頃から考えていたものだが。
『こんな腐れたクソ田舎から抜け出して、都会で一旗揚げてやる』
『ぎぎぎ偽善者どもめ! いつか見てろよ見返してやるからな!』
『僕には才能があるのさ! どんな才能かは知らないが、ともかく僕には才能があるのさ!』
 だけども彼は、自らの才能の有無を確かめる前に、もうすぐ田舎に帰らねばならなくなった。くだらないしがらみと、イラつく笑顔と、田舎ヤンキーと、地元政治家が作り上げた無駄に広い国道と、一軒だけのコンビニの──嫌な感じのクソ田舎に、彼はUターンせねばならなくなった。ご愁傷様である。
 そうして俺も、みごと雄々しく叫んでいた。
「うあああ! もうダメだもうダメだもうダメだ!」
 自分にも何がダメなのかよくわからないが、とにかくダメなことは確かだった。あまりにダメな要因が多すぎて、解決の糸口がまったく見えないのだ。
 たとえば先日、とうとう実家からの仕送りが止まった。それなのに、なぜか働く気力が湧いてこない。ここまで追いつめられていながらも、外に出られない。『高レベルひきこもり人間』という俺の肩書きは、伊達《だて》ではないのだった。
 しかし──せめて生活費だけでも早急に工面しなければ、明日にでもアパートを追い出されてしまう。なんとかせねば。
 そこで俺は、学生の頃に作ったカードで、ちょっと大胆に借金してみた。ついでに家具も売った。近所のリサイクルショップに、洗濯機と冷蔵庫とテレビとパソコンとコタツとベッドを持ち込んで、蔵書なんかも、ぜんぶ古本屋に売り払ってみた。すると、当面の生活費が工面できた。
 執行猶予がついた。
 そうして俺たちは、暇になった。
 この暇をどうやってすごすか、それが当面の問題だった。
「どうしよう? なんにもやることがないなぁ」俺は山崎に相談した。
 山崎も途方に暮れているようだった。アパートの床に俯《うつぶ》せになって、力無く呟《つぶや》いていた。
「時間は結構あるんですけど、なんとなく落ち着きませんよねぇ。……現実逃避するにしても、できることならば、スカッと爽やかに逃避したいものですねぇ」
 現実逃避──その言葉に触発された俺は、良いことを思いついた。
「逃避と言えば、刹那《せつな》的な若者のすることだよな」
「……はぁ」
「で、刹那的と言えば、ロックだよな」
「……!」
 俺は山崎の肩をガクガクと揺さぶった。
「そうだよ、ロックンロールだよ! セックス?ドラッグ?バイオレンスだよ!」
 山崎も立ち上がり、拳《こぶし》を振り上げ、大きく吼《ほ》えた。
「なるほど! それは最高ですね1……ところでロックンロールと言えば、実は僕、ジェリー?リー?ルイスを尊敬してるんです」
「誰それ?」
「周囲の反対を押し切って十三歳のいとこと結婚した、五十年代のロリコンロックンローラー、いわばロリコン界の巨人です。その生き様、まさに反体制! 火の玉ロック!」
「…………」
 ともかく、これからのトレンドは「セックス?ドラッグ?バイオレンス」に決定した。そのような方向性で生きていくことで、多少は元気で朗らかな若者らしい毎日が過ごせるのではないか──そんな虫のいい希望があった。


  ?セックス
  セックスと言えば18禁だ。
  18禁と言えばエロゲーだ!
「…………」
 いまだ山崎はエロゲー製作を続けていた。──なんのために? それは誰にもわからない。だが、とにかく悲しい。もの悲しい。それだけは確かだ。なぜだか知らないが、泣きたくなった。

  ?ドラッグ
 俺は家具を売って工面した金を使って、悪いドラッグを購入した。
「だけどこれ、ぜんぶ合法モノじゃないですか!」山崎が文句を言った。俺はうなだれた。
「……しょうがないだろう。通販で非合法薬物なんて買えるわけがない。ひきこもりには、これが精一杯なんだよ」
「惨めな話ですよね。なんかすごくかっこわるいですよね」

  ?バイオレンス
 そして最後に俺と山崎は、六畳一間で格闘することにした。家具の無くなった部屋の真ん中で向かい合い、ファイティングポーズを取ってみた。
 俺はこの前テレビで見たブルースリーのまねをした。山崎は、格闘ゲームを参考にして、鶴の構えをとっていた。
 そうして俺達は、殴り合おうとした。すると、フローリングの床に滑って転んだ。後頭部を思いっきり床に打ち付けた。涙が出てきた。
「ぜんぜん楽しくないですね」
「そんなこと言うなよ」
「余計に虚《むな》しくなりますね。──そうだ、公園でやりましょうか?」
「……まずはそれよりも、せっかくだからクスリを使おう。合法だからってバカにすんなよ。結構キクぞ。楽しくなるぞ」
 事実、クスリは効いた。酷いバッドトリップで死ぬかと思った。
 死のうかなと思った。
[#改ページ]
      2

 しかし俺は死ななかった。
 かなりの最悪ひきこもり生活を送る俺であったが、それでも一応、人と会う約束というものも、存在するには存在したのだ。
 アパートの外に人の気配が無くなった頃、遅い晩飯を腹におさめて良いあんばいになった頃──つまりは夜。
 夜になったら、俺は向かう。近所の公園に、俺は、向かう。
 初夏の夜風が心地良い。
 ベンチに座って見上げれば、空には月、そして星。
 その俺の目の前を、悠々と横切っていく黒猫。街灯を反射してキラリと光る、彼の瞳《ひとみ》、その輝き。
 ──あぁ、夜だ。
 まさしく今は、夜だった。夜の公園には、岬ちゃんがいるのだった。
「遅いよ」
 ギコギコとブランコを揺らしていた彼女は、俺に気がつくと、大きく勢いをつけて飛び降りた。その足元に黒猫が忍び寄る。岬ちゃんは猫を抱き上げた。猫は「にゃん」と鳴いたが逃げなかった。
「良い子だ。今、缶詰あげるからね」
 岬ちゃんは背中の鞄からキャットフードを取り出した。毎晩こうやって、餌付《えづ》けしているらしい。
「猫は良いよね」岬ちゃんが言った。
「何が?」
「猫は平気そうだもんね、いつでもどこでも、ひとりでも」
 そのセリフの意味はイマイチよくわからなかったが、俺は適当なことを言ってやった。
「猫って結構恩知らずだぜ」
「知ってるよ」
「すぐに岬ちゃんのことなんて忘れちゃうぜ。キャットフードの投資なんて無駄無駄」
「こうやって、猫が欲しがってるものをあげてるうちは、きっと大丈夫。あたしのことを覚えててくれるよ。邪険にしないよ。毎晩公園に来てくれるよ。ね?」
 ガツガツとキャットフードを喰らう猫の背中を、彼女は優しく撫でていた。猫は食事を終えると、とことこと茂みの中に歩き去っていった。俺たちはベンチに腰を下ろした。岬ちゃんは、鞄の中から『秘密ノート』を取り出した。
 そうして今夜も、ひきこもり脱出のためのカウンセリングが始まるのだった。

   *

 岬ちゃんが言うところのカウンセリング。
 その初日からして、彼女の言動は充分におかしかった。まったく、なにかのギャグかと思った。
 だけど彼女は本気のようだった。
「遅いよ。夕ご飯食べたら来るようにって、契約書に書いてあったでしょうが」
「俺はさっき食ったばっかりなんだけど──」
「あたしの家は、七時に夕食なの」
 んなこと知るかぁ! と叫びたかったが、俺はぐっと堪《こら》えた。
「まぁ、明日からはもう少し早く来てよ。……とにかくそれじゃあ、これからひきこもり脱出カウンセリング、その第一回目を始めるからね。はい、ここに座って」
 俺は言われたとおりに、ベンチに腰を下ろした。岬ちゃんも正面のベンチに座って、俺に向かい合った。
 夜の公園、誰もいない。
 ──これから一体、何が始まるのか? この小娘は何を始めるつもりなのか?
 ちょっとドキドキしてきた。
 と、何やら岬ちゃんは、背中に背負った巨大な鞄を下ろし、その中をごそごそとあさり始めた。
 そして「……あ、あったあった」などと呟き、一冊の大学ノートを取り出した。その表紙には、黒いサインペンで『秘密ノート』と書き込まれていた。
 俺は訊いた。
「何それ?」
「秘密ノート」
「だから、何それ?」
「……秘密ノート」
「…………」
 岬ちゃんは秘密ノートを開いて、付箋紙《ふせんし》が貼り込んであるページをめくった。
「はい、それではこれから講義を始めます」
 街灯の逆光で、彼女の顔は窺えない。しかしその声色は、ずいぶんとマジメだ。ワケがわからないままに、俺はごくりと喉《のど》を鳴らす。
 岬ちゃんは講義を始めた。
「えーと。まずはひきこもり概論から。──さてさて、ひきこもりの原因、それは一体、何なのでしょう。佐藤君にはわかりますか? え? わからない。そうでしょうそうでしょう。大学を中退しちゃった佐藤君の頭では、こんな難しい問題、きっとわからないことでしょう。ですが、あたしにはわかります。あたし、頭が良いから。今も大検の勉強中だよ。毎日五時間の勉強。偉いでしょう。ははは──」
 ははは──と笑いながら、彼女は先を続けた。
「あたしの研究成果によると、ひきこもりに限らず、すべての精神的問題は、身のまわりの環境との不適合によって引き起こされます。ようするに、この世の中と上手にやっていくことができないから、いろいろ苦しいことが起こるんです」
 そこで岬ちゃんは次のページをめくった。
「古来あたしたち人類は、世の中とうまく折り合いを付けていく方法を、いろいろ頑張って考えてきました。たとえばそれは神様です。いろいろな神様がいます。日本だけでも、八百万人。──え? 八百万? それってちょっと多すぎるよね? これホント?」
「…………」
「……ま、まぁとにかく、世の中には沢山の神様がいて、そのおかげで、苦しみから救われる人も、結構沢山いるみたいです。会館とかにね。……だけど、神様に救ってもらえない人は、他のことを考えるんです。たとえば哲学とか」
 岬ちゃんは再び鞄の中をあさり始めた。顔を突っ込むようにして、巨大な鞄の中を調べている。
 そして──ようやく捜し物を見つけたらしい。
「あ、あったあった。はいコレ」
 何かの本を取りだして、俺に手渡した。その本のタイトルは、『ゾフィーの世界』。
「なんだか難しくてよくわからなかったけど、哲学関係は、その一冊でバッチリわかるらしいよ。図書館から借りてきた本だから、明日までに読んでおいてね」
 本を受け取ったまま、どうしたものかと途方に暮れていると、岬ちゃんの話はさらにどんどん先に進んで行った。
「えー、さて。哲学の次は、精神分析! フロイトさんって人が考え出して、十九世紀ぐらいから流行したらしいよ。精神分析を受けると、すごく悩みが消えたりするそうです。
 ……たとえば今日の夢、覚えてる? これから分析してあげるので、佐藤君が見た夢の内容を教えてください」
 俺は言ってやった。
「すごく巨大で逞《たくま》しい蛇が出てきた。その蛇が、海に潜った。あと、リンゴとかに太い剣を突き刺した。それと、黒光りする立派な拳銃《けんじゅう》を打ちまくった」
 するとまたまた岬ちゃんは、巨大な鞄から一冊の文庫本を取りだした。その本のタイトルは、『夢分析──この一冊で、あなたの深層心理が手に取るようにわかる!』。
「えーと、蛇、海、リンゴ、剣、拳銃……」
 ぶつぶつと呟きながら、索引を検索している。──と、ふいに岬ちゃんは顔を赤くしてうつむいた。真っ暗な公園でも、なぜだかその様子が手に取るようにわかった。
「ふ、フロイトは終了! 次はユング!」岬ちゃんは大声で叫んだ。
「なぁ、夢分析の結果はどうなんだよ? 逞しい蛇は、一体何を象徴しているのか、それを岬ちゃんの口から聴かせてくれよ」
 俺はねちっこくセクハラしてやった。
「ユング。この人は、フロイトさんとケンカして、別の方向に行ったらしいです。それでは、ユング流の精神分析開始!」
「なぁ、無視すんなよ。おい、ちょっと──」
「あたしが見たところ、佐藤君は、『内向』タイプの、『感情』タイプ! グレートマザーに脅《おび》えています。あと、シャドーとかともケンカしています。大変ですね。詳しくは、この本を読んでください」
 そうして岬ちゃんは、またもや鞄の中から本を取りだして俺に手渡した。その本のタイトルは、『マンガでわかる、ユングのすべて!』。
 頭が痛くなってきた。しかし岬ちゃんの講義はまだまだ続いた。ユングからアードラーから、果てはラカンまで。「ラカンはわからん!」と言ってニッコリ微笑む彼女の素敵さに、俺はすっかり打ちのめされた。もう部屋に帰りたい。
 そんな俺の様子を見かねたのか、岬ちゃんは大胆に方向転換した。
「あぁ、ごめんね、難しいことばっかり言っちゃって。やっぱり佐藤君には、こうゆう学術的な話は向いてなかったみたいです。……でも、大丈夫だよ。明日があるから」
「……はぁ?」
「人間だもの、苦しいよ」
「…………」
「悩んでる君は可哀想。だけど、上を向いて歩こうよ。そのままの君でいいんだよ。夢があるから大丈夫。ひとりぼっちじゃないんだよ。歩いていけば、道はあるのさ。みんなが君を、応援してる。頑張ってる君、輝いてる。ポジティブシンキングで行けばいいのさ。明日に向かって一緒に歩こうよ。未来は素敵だよ。人間だもの、人間だもの、人間だもの……」
 俺は岬ちゃんの鞄をひったくると、逆さまにした。どさどさどさっと大量の書物が地面に雪崩落ちた。──PHS文庫、知的生活文庫。『早わかり精神分析』『完全精神病マニュアル』『人生に詰まった時に読む本』『マーフィーズゴーストの人生成功法則』『脳髄革命』『みつお』『みつる』エトセトラエトセトラ──
「なぁ岬ちゃん。あんた俺のこと、バカだと思ってる?」
 岬ちゃんは、「そんなことないよ」という顔をして、ふるふると首を振った。

   *

 ともかく、現在までの一週間にわたる岬ちゃんとの接触によって、彼女の一生懸命さだけは理解できた。
 そう。彼女は実に頑張っていた。最初の数日間は、その努力が思いっきり空回りしていたが、ひきこもり問題を一生懸命に考察してくれる彼女の熱意、ただそれだけは、確かに本物らしかった。
 ……もちろん、彼女の真意がどこにあるのか、本当は何を企《たくら》んでいるのか、それはいまだにわからない。わからないが、まぁ、それは結局どうでもいい。
 若い娘との交流によって、俺の腐れ果てた精神に少しでもエネルギーが充填《じゅうてん》されてくれれば、それで万々歳なのである。いつかマズイ問題が持ち上がったとしても、もはや俺には失うものなど何もないのだ。それにどっちみち、どうせもうすぐお別れである。アパートから追い出されるか、それとも何か、別の方法でどっかに行くか──とにかくもうすぐ、俺は消える。そのときまでの、単なる暇つぶしなのである。
 ──と、そんな感じのナゲヤリなことを考えているので、親しくない女子とふたりっきりで会話を交わすという、ひきこもり人間にとっては最大級のプレッシャーになる現在のシチュエーションも、今の俺にはまったく苦にならない。
 当然、いかに岬ちゃんが可愛くても、それでどうこうしてやろうという気も起こらない。『チカンに注意!』という看板が公園の入り口に設置されているが、これでも俺は紳士的なひきこもりだ。だから安心してくれ岬ちゃん。
「んん? なにさニヤニヤして」
「……いやいや、それよりも今日の特訓メニューは?」
 いつものようにベンチに腰を下ろして俺に向かい合っている岬ちゃんは、やはりいつものように秘密ノートを覗《のぞ》き込んだ。
「えーと、今夜のメニューは、会話の仕方!」
「はぁ?」
「ひきこもり人間は一般的に言って、会話がヘタクソです。他人とお喋《しゃべ》りするのが苦手なために、余計に部屋に籠《こ》もります。今夜からは、その辺りを矯正しようと思います」
「ほう」
「そうゆうわけで、これからあたしが素晴らしい会話テクニックを伝授してあげます。よく聴いていてください」
 岬ちゃんは秘密ノートにちらちらと目をやりながら講義を始めた。俺はよく聴いた。
「人と話すと緊張する。だからドモったり、困ったり、青くなったり、舞い上がったりする。それでますます精神の安定が無くなって、どんどんと会話がへたくそになっていく──そのような悪循環を断ち切るにはどうしたらよいのか? 答えは簡単です。緊張しないようにすれば良いんです。なら、緊張しないためにはどうするか? なぜ人は、緊張するのか? それはですねぇ、自分に自信がないからです。自分が相手にバカにされているのではないか、相手に見下されているのではないか、相手に嫌われているのではないか、そのようなことを考えてしまうからなのです」
 だからどうした、と口を挟みたいところではあるが、岬ちゃんの口調は真剣だった。
「つまり問題は、いかにして自分に自信を持つかという、その点に尽きます。ですが──自信を持つ。それは実際、ずいぶんと難しいことです。はっきりいって、普通のやり方では不可能です。だけどあたしは不可能を可能にする、すごく画期的な方法を考え出しました。その方法、知りたいですか? 知りたいでしょう?」
 そう言って俺を見る。うなずくしかない。
 すると岬ちゃんは、重々しく口を開いた。
「……いいですか、よく聴いてください。発想のコペルニクス的大転換なんです。つまり──自分に自信が持てないのなら、相手を自分よりもダメ人間にしてしまえばいい! そうゆうことです!」
 ……まったくもって、意味がわからない。
「ですからね、会話の相手を、自分よりもさらに酷《ひど》いダメ人間だと想定するんです。人間のクズだと仮定して、思いっきり見下すんです。そうしたら、緊張することなく、落ち着いてスラスラと話せます。のんびりします。和みます。──ね?」
「…………」
「だけど、注意点があります。──内心で思ってることを、わざわざ相手の人に教えちゃダメですよ。怒られるから。……佐藤君だって、面と向かってクズとか最悪とか人間失格とか言われたら、きっとすごく落ち込んじゃうでしょう? だからあたしは黙ってます」
 これは……と俺は考えた。
 これはもしかして、ものすごく遠回しな、俺に対する悪口なのか?
 それにしては、岬ちゃんの表情はずいぶんと無邪気だ。
 俺は訊いた。
「もしかして岬ちゃん、その『会話テクニック』、日常生活でも実践してる?」
「うん、してるよ。……でもねぇ、やっぱりなかなかうまくいかない。たいていの人はあたしよりも立派な人だから、会話の相手をダメ人間だと思いこもうとしても、普通は失敗する。だけどその点、佐藤君なんかが相手だと、すごく自然に──」
「すごく自然に?」
「……やっぱりいいや。言うと傷つくから」
 とっくの昔に傷ついている。
「気にすること無いよ。佐藤君みたいな人でも、それはそれで人の役に立ってるんだから」
 そうして岬ちゃんはベンチから立ち上がった。
「今日はコレでおしまい。また明日」
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      3

 山崎はひとりでゲームを作っていた。俺が途中まで書き上げたシナリオを使って、ひとりシコシコとゲーム製作に励んでいた。先日購入した幻覚剤で脳味噌《のうみそ》に気合いを入れつつ、無言でひたすらパソコンに向かっているのだった。
 これもまた現実逃避のひとつの形か。実に末期的である。
 しかし──幻覚剤をキメながらのゲーム製作など、はたして本当に可能なものなのだろうか?
 俺は山崎の背中越しに、パソコンのディスプレイを覗き込んだ。
「…………」
 ディスプレイは、細かいフォントで書かれた大量の文章で、びっしりと埋め尽くされていた。
『苦死不安最悪地獄毒奈落等、それらを操る巨大な組織、それが僕らの敵なのだ、そんな敵を倒してヒロインの愛をゲットするのだ、それがこのゲームの使命なのだ! だけど敵は目に見えないぞ、どこにいるのかもわからないぞ、だから気をつけろ! 後ろから刺されるぞ、危険危険──』
「……なにこれ?」俺は訊いた。
 山崎は椅子を回転させて、ゆらりと振り返った。
 瞳孔《どうこう》が完全に開ききっていた。唇を限界まで引きつらせていた。見る者を恐怖させる、危険な笑みを浮かべていた。
「何って、見ればわかるでしょう? これが僕のエロゲーですよ。このエロゲーは、いわばRPGで、主人公がプレイヤーです。プレイヤーはテキストファイルを読みながら、ゲームを進めていくんです。すると、色々と大切なことがわかるようになっていて、さらにヒロインも萌え萌えなんです。ホウラ、すごいんですよ。ヒロインは猫耳をはやした宇宙人なんです。だけど、ヒロインは敵に拘束されています。敵というのは悪者です。目に見えない悪者です。その目に見えない悪者を目に見えるようにする、そこにこのゲームの真意があります。そこに人生の真理が存在します。──ねぇ? わかりますか? ようするに僕は、この世の真理を悟ったんです。その悟りを、皆に広める使命があると知ったんです。そうしてこのエロゲーは、新世紀の聖書となるんです。百万本売れるんです。金持ちになるんです。
 だから──あぁ、楽しいなぁ。……ねぇ、佐藤さんも楽しいでしょう?」
 俺は恐怖におののき、一歩あとずさった。すると山崎は「ひひ」と金属的な笑い声をあげた。
 その自らの声に触発されたのか、彼の笑いは、まもなく爆笑にまで高まった。
「……ふふふ、あははは、ひひひひ! あぁおかしい!」
 山崎は椅子から派手に転げ落ちると、四つん這《ば》いになって、全身をがくがくと震わせながら俺に近づいてきた。その様子はゾンビ映画を想起させた。俺は軽い恐慌をきたして、立ちすくんでしまった。その俺の足首を強い力で捕まえると、山崎は叫んだ。
「おかしくっておかしくって、しかたがないなぁ!」
 俺は怖くて怖くてしかたがなかった。
「虚しくて虚しくてやってられないなぁ!」
 その点については同感だったが、クスリではじけた山崎は、とにもかくにも大迫力に恐ろしかった。俺は一刻も早く彼が正気を取り戻してくれるよう祈った。しかし彼は、いつまでたっても元に戻らなかった。振り切れた笑顔を浮かべ、ひとりでくすくすと笑っていた。
「…………」
 しょうがないので、俺も仲間入りすることにした。
 白いクスリを鼻腔粘膜から吸収。
 すぐに効き目は現れた。
「……あぁ、楽しいなぁ」
「面白いですよね」「すごく愉快だなぁ」「最高ですよね」「……だけど、あぁ、もうダメだ」「おしまいですか?」「辛《つら》いなぁ」「惨めですよね」「どうすればいいんだろう?」「どうしようもないですよ」「苦しいなぁ──」
 またもやバッドトリップだった。
 幻覚剤の効果は、本人の心理状態と周囲の環境──いわゆるセットとセッティングによって左右される。楽しい気分でクスリを使えば天国行き、落ち込んでいるときにクスリを使えば地獄に直行。だから現実逃避目的で幻覚剤を使うとロクな事にならない。それはわかっている。わかっているのだが──
 薬の作用でグルグルと回転する視界の中に、凄《すご》くドラマティックな恐怖が存在した。その恐怖は、常日頃感じている曖昧《あいまい》な不安とは違い、ほとんど目に見えるほどの、すっきりハッキリした、極めて分かりやすい不安だった。
 強大で、だけども目に見える、わかりやすい恐怖、不安。それはむしろ望むところだった。ジワジワと真綿で首を絞め付けられるような日常の不安に比べれば、クスリによる抑鬱は、むしろ極めて愉快で最高なのだった。
 山崎は冷蔵庫に向かって、拳を振り上げていた。
「くそっ、来るなら来い! 迎え撃ってやるぞ!」どうやらその辺りに、仮想上の敵が存在しているらしい。
 一方俺は、部屋の隅で体育座りをし、頭を抱えて震えていた。
「やめろ! 来るな!」敵はすぐそこにまで追っていた。その恐怖に脅えつつも、俺はどこかで楽しんでいた。悪者に追いつめられ、悪者に殺される。そのビジョンは、とても心躍るものだった。とてもウキウキするものだった。
「…………」
 ウキウキする──それはつまり、愉快だと言うことだ。
 愉快ならば、楽しいということだ。
 ──そう。
ようするに俺たちはハッピーなのだ。だからこそ最高なのだ!
 いまこそ俺はロックンロールな生き様を理解した。その生き様をさらにパーフェクトなものとするために、俺は決心した。
「ドラッグの次はバイオレンス!」
 クスリの効果も醒《さ》めやらぬうちに、俺たちはアパートから飛び出して公園に向かった。
 格闘するのだ。この前のバイオレンスの続きを、今夜こそ広い公園で繰り広げてやるのだ。なぜならば、俺たちは刹那的な若者なのだ。だからケンカするのだ。ドラマティックに、華々しく、K─1なみの熱いファイトを繰り広げてやるのだ。そうしたならば、きっと俺たちはもっと愉快になるのだ──
 とっくの昔に日は暮れていて、周囲に人影はない。いたら困る。恥ずかしいからな。
 公園の街灯の下で、俺たちは向かい合った。俺はジャージとTシャツ、山崎はトレーナー。どちらも動きやすい格好をしている。準備は万全だ。
 クスリが効いているので、山崎の口は滑らかだった。べらべらと意味不明なことを話してくれた。
「よくありますよね。若くて格好いい俳優ふたりが、青春とか恋愛とかを議論しつつ、雨に濡れた公園とかで殴り合ったりするドラマ。『お前には本当の愛がわからないんだ!』『なんの、俺はヒトミを心から愛している!』『ドカッ!』『バキッ!』って感じの──」
 俺は屈伸運動しつつ、続きを促した。
「僕はねぇ。あーゆー感じのドラマに心底憧《あこ》れているんです。テレビドラマの中には、真実がありますからね。起承転結があり、感情の爆発があり、結論がありますからね。……なのに一方、僕らの生活は、いつまでもいついつまでも、薄らぼんやりな不安に満たされているだけで、わかりやすいドラマとか、わかりやすい事件とか、わかりやすい対決とか、そーゆーものが一切ありません。──それはねぇ、ちょっと不条理な話でしょう? 僕は二十で佐藤さんは二十二です。それなのに、本気で人を好きになったり、本気で人を憎んだり、愛憎の果てに殴り合いをしてみたり、そーゆー経験が一切無いんですよ。ひどい話です!」
 そこで山崎は、アキレス腱《けん》を伸ばしている俺の肩を激しく揺さぶった。
「だからこそ僕らもドラマティックな殴り合いをしてみましょう! 格好良く、軽快に、荒々しく! そーゆーコンセプトでレッツファイトです!」
「おう!」俺も勇ましく応《こた》え、ファイティングポーズをとった。
 そうして俺たちは、ぽかんぽかんと殴り合いを始めた。しかしファイトは、どこまでも牧歌的だった。痛いことは痛いのだが、クスリに酔っぱらった貧弱男のパンチなど、その威力はたかが知れている。
 山崎は必死でファイトを盛り上げようとしてか、ドラマティックな(だけどひたすら抽象的な)セリフを叫んだ。
「佐藤さん、あんたは何もわかっちゃいない!」
 彼の努力を無駄にしてはいけない。俺も適当なセリフを怒鳴る。
「間違っているのはお前の方だ!」
「いったい僕のどこが間違っているって言うんですか!」
「…………」
 急にそのような具体的なことを訊かれても困る。俺は振り上げた拳を止めて、しばし考え込んでしまった。
「……たとえば夜アニに進学したこととか?」おずおずと答える。
 すると山崎は、いきなり蹴《け》りを放ってきた。
「夜アニを馬鹿にするな!」
「痛ってぇ、いきなり本気で蹴るか、この──」
「ひきこもりのくせに、でかい口|叩《たた》かないでくださいよなぁ!」
 かっと頭に血が上った。
「ロリコンは死ね! エロゲーオタクは死ね!」俺は思いっきり右拳を振り上げ、山崎の腹部に叩きつけた。山崎はうめき、うめきつつもタックルしてきた。俺たちはもつれあいながら地面に転んだ。
 頭の上に、月を背負った山崎がいた。このままではタコ殴りにされてしまう。
 俺は山崎の首に足を引っかけて、馬乗りになられた状態から、なんとか脱出した。
 ふたりとも肩で息をしている。
 山崎は俺を脱《にら》み、それから目をそらし、うつむいてくすくすと笑い──最後に大きなため息を吐いた。
「……あー、面白い」と言った。
「だけどまだまだこれからです。死ぬまでファイトを続けましょう」と言った。
 だから俺たちはファイトを続けた。ふらふらと蹴り、よろよろと殴る。虚弱な男たちが繰り広げる熱いバトルだ。
 痛い。痛くて痛い。だけど楽しい。楽しくて虚しい。
 鳩尾《みぞおち》に挙がめり込み、胃液がせり上がり、涙が溢《あふ》れて、ハッピーだ。股間《こかん》を蹴られて、ぴょんぴょんと飛び跳ねる山崎の姿は、かなりクールだ。あぁ、いったい俺たちは何をやっているんだろう──そんな疑問を拳に乗せて、殴り、殴られ、今はもう七月。
 もうすぐなのだった。もうすぐ何かが変わるだろう。俺はそろそろ決心するだろう。そのとき俺は笑っているだろう。ニコニコと楽しげな笑顔を浮かべているだろう。なぁそう思うだろう山崎君──
「…………」
 しかし俺たちはもう、傷だらけ痣《あざ》だらけだった。全身が激しく痛んだ。どこもかしこも痛かった。
 前歯がひとつ、ぐらぐらする。山崎の右目には見事な青疸《あおたん》、俺の右拳は破れて出血。
 ちょっとした一大ファイトを繰り広げてしまった俺たちであった。
 それでも俺は、山崎の顔面にもう一発パンチを叩き込もうとした。すると、腕を取られて、逆にゴロンと転がされた。さらにそのまま山崎は、俺の関節をキメてきた。腕ひしぎだ。
「痛い痛い折れる折れる!」
 俺は地面をタップした。
「折りますよ折りますよポキッと折りますよ」
 俺は山崎のふくらはぎに思いっきり噛《か》みついてやった。山崎はギャーと叫んだ。
「反則じゃないですか!」
「うるさいよ、いいから夜アニは死ね!」
「だからそうゆうこと言われるとマジでムカつく──」
 そうして俺たちの馬鹿らしいファイトは、ますます空虚にエキサイトしていくかに思われた。
 だが、そのときだった。
「おまわりさーん!」
「……ん?」
「こっちですおまわりさん!」
 それは若い女性の甲高い叫び声だった。
 山崎はガバッと跳ね起きると、一目散にアパートへ駆けだしていった。
 俺を置き去りにして、ひとりで逃げだしやがった。

   *

 数分後、俺は岬ちゃんにポカポカ叩かれていた。それはいわゆる女の子叩きだったが、俺の体は山崎との格闘によって、だいぶボロボロになっている。かなり骨に響く。
「──!」
 声にならないわめき声をあげて、岬ちゃんは俺を叩く。
 ともかく俺は頭を下げた。
 岬ちゃんはさらに数十発俺を叩くと、ようやく落ち着いてくれた。
 ──ようするに。
『おまわりさーん!』という叫び声、それはつまり、岬ちゃんの芝居だったらしい。
 夕ご飯を食べたあと、いつもと同じようにこの公園を訪れた岬ちゃんは、何事かを大声でわめきながら殴り合う、二人の怪しい男を見たのである。
 当然の事ながら、岬ちゃんは動転した。
 ──助けなきゃ! しかし辺りに人はいない。携帯電話も持ってない。あぁ、どうしよう! そうだ芝居だ! おまわりさんがすぐ近くにいるという芝居を打って、佐藤君を助けよう! などと、勇気を出して決心してくれたそうだ。
「……ホントにもう……どうしようかと……殺されるんじゃないかって」
 ちょっと涙目でそんなことを言う岬ちゃんに、俺はずいぶんと申し訳ない気持ちを味わった。
 そこでとりあえず、面白い話をして笑わせてやることにした。
「いや実は、あの植え込みの陰で女の子がチカンに襲われててさ。それに気づいた俺は、その女の子を助けようとして現場に飛び込んだんだけど、だけどその暴行犯、いきなり逆ギレしてさ。懐からナイフまで取り出して、俺に飛びかかってきて──いやいや、かなり危ないところだったよ。俺じゃなかったら殺されてたよ」
「……それ、大嘘でしょ」
「うん」
「ホントは何してたの?」
 俺は正直に全てを教えてやった。
 岬ちゃんは盛大に吹き出したあと、それからなぜだか、またまた辛そうな顔をした。
 こてんとベンチに座り込み、呟く。
「ダメだよ。友達とケンカとかしちゃあ。……冗談でも、暴力はダメだよ。絶対に」
「……なんだよ。そんな真面目なコメントしなくて良いよ。結構楽しかったぜ、人をぶん殴るのも殴られるのも初めてだったから、意外にスッキリ気分|爽快《そうかい》──」
「だからダメだってば!」
「なんでさ? 空手は健康にいいんだぜ」
 俺は岬ちゃんの目のまえで、シャドーボクシングのモノマネをしてみた。
 右フックを打とうと構えた瞬間、岬ちゃんはピクッと体を震わせて、両手で自分の頭を包むようにした。
「……ん?」
 腕の隙間から、上目づかいに俺の様子を窺《うかが》っている。
「なにそれ?」
「…………」
 岬ちゃんは、恐る恐るといった様子で、その腕を下ろした。
 俺はもう一度、右フックの構えを取ってみた。するとまたまた岬ちゃんは、両手で頭をガードした。
 その仕草が面白かったので、俺は何度か、パンチの構えを繰り返してみた。
「…………」
 だが──しまいに岬ちゃんは、ベンチの上でぎゅっと体を小さくして、頭を両手で包んだ姿勢で固まってしまった。
 そうしてそのとき、岬ちゃんの洋服の袖口《そでぐち》が、肘《ひじ》の辺りまでずり上がった。
 何気なく、俺は見た。
 青白い街灯に照らされた岬ちゃんの腕には、火傷《やけど》の疵痕《きずあと》らしいものが、いくつもいくつも点在していた。直径五ミリぐらいの、円形の疵痕だ。田舎の不良とかがよくやる、いわゆるひとつの根性焼きに、それはまったく酷似していた。
 俺の視線に気がついたのか、岬ちゃんは慌てた様子で袖を下ろした。
 震える声で「……見た?」と言った。
「何を?」俺は知らないフリをした。
 そう言えば、いつも岬ちゃんは長袖を着ている。もうずいぶん暑い日が続くのに、それでもいつも、長袖だ。……だからどうした。
 明るい声で言ってやる。
「今日のカウンセリングは?」
 しかし岬ちゃんは答えなかった。
 体を小さく縮めたまま、ベンチの上で、カタカタカタカタ小刻みに震えていた。ついでに歯まで、カチカチカチカチ鳴らしていた。
 結構な時間が流れた。
 ようやく体の硬直を解いた岬ちゃんは、「帰る」と言った。
 よたよたとおぼつかない足取りで、公園の出口へと歩いていく。俺はその後ろ姿を、ぼんやり見送った。
 声をかけるべきかと迷っていると──岬ちゃんはブランコの前で立ち止まり、くるりと振り返った。
「……やっぱり、イヤになった?」
 そう訊《き》いてきた。
「はぁ?」
「きっと明日からは、もう、来ないよね」
 妙に自己完結的なセリフを喋る女であった。
「…………」
 俺たちは五メートルほどの距離を取って向かい合っていた。
 岬ちゃんは、俺の目を見て、それからすぐに視線をそらし、その後再びチラリとこちらを盗み見た。
「……明日も、来てくれる?」
「だって、約束破ったら罰金百万円なんだろ」
「う、うん。……そうだったよね!」
 ようやく岬ちゃんは小さく微笑んだ。
 俺もアパートに帰った。体中にサロンパスを貼って、それから寝た。
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    八章 潜入

      1

 おそらく脳味噌のホルモンバランスなどが関係しているのだろう。寄せては返す波のように、躁《そう》と鬱《うつ》が交互にやってくる。そんな毎日だった。
 元気になったと思っても、その翌日になると、死にたくて死にたくて仕方がない。
 クスリのパワーで無理矢理テンションを上げてみても、時間が経てば、やっぱりあぁ、もうダメだ! 過去の恥、未来への不安、その他もろもろの恐怖が一斉に襲いかかってくる。ハイテンションのリバウンドだけあって、それはひたすらに激しい鬱だ。
 いまではもう充分に慣れてしまったはずの、岬ちゃんとのカウンセリングでさえ、なにやら今夜は恐ろしい。原因不明な不安が、俺をすっぱり包み込んでいた。その不安の原因が定かでないことが、ますます恐怖に拍車をかけるのだった。
 まず、目に見えて現れる症状としては、視線がふらふらと四方八方を彷徨《さまよ》い始め、他人の目を見て話すことが不可能になる。
 あぁ、まるで俺は自意識過剰な中学生だ。恥ずかしい、心底そう思う。だが、その恥ずかしさの自覚によって、ますます俺の挙動は、どこまでも怪しく不審になっていく。悪循環である。
 とりあえず、タバコを吸って気を落ち着けることにする。震えがちな手でタバコを取りだし、百円ライターで火を点ける。だが、しまった、ガスが切れかかっている。なんてことだ、最悪だ。
 しかし、一度取り出してしまったライターとタバコを、そのまま為《な》すすべもなくポケットに戻してしまうなどといった恥ずべき行動は、なんとしても回避するべきであった。だからこそ俺は、なんとか頑張って火を点ける。カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、と数回点火を試みて、ようやく着火に成功、あぁ助かった。
 すかさず俺は岬ちゃんから目をそらし、むやみやたらに喫煙する。一本/五分のペースで、ただひたすらに喫煙する。肺が痛い。心臓も苦しい。タバコの先が、ぶるぶると細かく震えている。
 そして首筋には、じっとりと冷や汗が──
 と、あまりに挙動不審な俺の様子に気がついたのか、
「どうしたの?」と岬ちゃんが訊いた。
 今はカウンセリングの最中だ。俺たちは夜の公園で、ベンチに座って向き合っている。
 俺は何とか口を開いた。
「持病の癪《しゃく》が!」
「シャクって何?」
 ……これだから困る。最近の娘はモノを知らない。もう少し勉強しろ! そう叫んでやろうかと思ったが、やっぱりそれは不可能だった。数年間のひきこもり生活によって獲得した、嫌な感じのダメ人間アビリティ、すなわち広所不安、視線恐怖、その他もろもろの神経症が、かなりのパワーで迫っていた。
 ──あれ? 部屋の鍵《かぎ》、締めてきたっけ? タバコの火とか、ちゃんと消してきたっけか? というか岬ちゃん、そんなつぶらな瞳で俺を見るなよ! かといって、沈黙するのはやめてくれ。無言で俺を見つめるのはやめてくれ! ものすごく不安になるんだ。胃が、胃が痛いんだ。
 だけど、あぁ──とにかく素早く、何か言わねば。
「……ところで岬ちゃん、お菓子とか、食う?」なんだそりやあ!
「食わない」
「普通さぁ、君ぐらいの年頃の女子だと、二十四時間、常にお菓子食ってるよね。あたかも小動物のごとく、ばりばりばりばりと。……アレは一体、どうしてだろうね? やっぱり若いから、代謝が速いのかね? だからいつでもカロリーを補給してないと、たぶんコロリと死んでしまうんだろうね。きっと、そうゆうことかね?」
「…………」
 死のうかな。
「…………」
 死のうかな。
「──だけど俺は死なないぞ! なぜならば、俺は元気な男だからだ! この溢れんばかりのエネルギー、最高だ! 実際、まだ二十二だぜ! 未来は広がっている! あーたーらしーいーあーさが来た、きぼーおの──」
 岬ちゃんは、俺の服の袖を指でつまんだ。
「……ん?」
「明後日《あさって》、街に出よう」
 服の袖をくいくいとひっぱって、そう言った。
「駅前とかにさ。一緒にさ。──昔の偉い人が言いました。『本を捨てて街に行きなさい』とか、そんな感じのことを言いました。この前読んだ本に書いてあったから、嘘じゃないよ。──だからそろそろあたしたちも街に行きましょう。そうすると、きっと良い方向に向かうと思うよ。ね?」
「…………」
 俺は思わずうなずいてしまった。

   *

 だが岬ちゃんとの約束は、俺に新たな恐怖をもたらした。
 いまだ正体のつかめない、謎の女子、そいつと一緒に昼間から街に出る──そんな行動は、俺に最高のプレッシャーをもたらすに違いなかった。プレッシャーに打ちのめされた俺は、きっとまたもや恥ずかしい行動をとってしまうに違いなかった。どこまでも情けない振る舞いをしてしまうに違いなかった。あぁイヤだ。ずっと部屋にひきこもっていたい。
 だが──しかしそれでも約束は約束だ。他人との約束を忠実に守ってこそ、それで初めて立派な社会人となれる。
 ……というか、俺は社会人じゃなくて、ただのひきこもりだけどな。
 とにかくひたすらキリキリキリと胃が痛んだ。切迫感、あたかもテスト前日のような、逃げ場のない焦燥感。俺のような弱々しい精神力の持ち主にとっては、それはそれはずっしりとした手応えのある、強力な圧迫感だ。
 しかし、ドストエフスキーだかなんだかの小説にも書いてあるとおり、限度を超えた苦痛の中には、否定できない快感も、確かに共に、存在している。ようするに、ストレスがある程度の閾《いき》値《ち》を超えると、なぜだか人間、頭がハイになるのだ。あまりにも追いつめられると、逆にむやみにノリが良くなるのだ。テンションが上昇するのだ。だから楽しいのだ。
「そうだろう山崎君?」
「ええそうですね。なんのことだか全然わかりませんが」
 今日も朝から山崎はガリガリガリガリとゲームを創作していた。その鬼気迫る後ろ姿は、なんだか実に楽しそうに見える。
「ちょっと途中経過を見せてくれ」と頼んでみたが、彼はディスプレイを体で隠した。どうやら、よっぽどエロいゲームを作っているところらしい。
 まぁ、山崎の作っている電波系エロゲーなど、いまとなってはどうでもいい。 だからともかく、そろそろ朝飯を食おう。
 俺は冷蔵庫を開けた。
「……ん? なんだ山崎君、もう食料が無いぞ」
「あんた、人の部屋で毎日毎日、我が物顔で飯を食うなよなぁ!」
「んなこと言ったって、俺の部屋の冷蔵庫、この前リサイクルショップに売っちゃったから──」
 俺は適当に弁解しつつ、押入れの中に常備されているはずのヤクルトラーメンを取り出そうとした。
 そのとき、ふいに玄関の呼び鈴が鳴った。
 来客か?
 山崎はのっそりとパソコンデスクから立ち上がると、玄関のドアを開けた。
「…………」
 そこにいたのは宗教勧誘員だった。
 しかし今日の勧誘員は、岬ちゃんとオバサンのペアではなく、スーツを着込んだ二十歳ぐらいの青年と、紺色ブレザーを着た中学生ぐらいの少年だった。
 配置が換わったのだろうか?
 まぁどっちにしろ、勧誘員のすることは毎度変わらずいつもと同じだ。
「あのう、私ども、このような雑誌をお配りしているのですが」
 二冊の冊子を山崎に手渡す勧誘員。
「あー、うち、ヒンドゥー教なんで……」
 適当な事を言って、勧誘員を追っ払おうとする山崎。
 そんな彼らの様子を室内から眺めていた俺は、ふと素晴らしいアイデアを思いついた。
 玄関へと向かい、山崎の背中を思いっきりどやしつけ、言う。
「馬鹿なことを山崎君! 君、この前からずっと、聖書に興味があるって言ってたじゃないか」
「……は?」
『何を言ってるんだこの阿呆《あほう》は?』という表情でこちらを振り返った山崎に構わず、俺は勧誘員に向かって一息にまくし立てた。
「実は俺たち、前々からあなた方の活動に興味があったんです。よろしければ集会を見学させていただけませんか──」
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      2

 昨夜、岬ちゃんが別れ際にぽつりと呟《つぶや》いたのだ。
『明日、宣教学校の発表、あたしの番なんだよね。いやだなぁ』
『なにそれ?』と訊くと、岬ちゃんは訥々《とつとつ》と教えてくれた。
 ──『宣教学校』とは、『研究生』が『奉仕活動』の技術を磨くための集会。明日、その集会で、自分の話を皆の前で発表しなければならなくなった、等々。
 宗教的テクニカルタームが多すぎて、部外者の俺にはイマイチ意味がわからなかった。もっと詳しく話を聞こうとしたら、岬ちゃんはベンチから素早く立ち上がって、帰宅した。
『とにかく、明日は用事があるので、衝に出るのは明後日ね。……約束、忘れないように』それだけを言い残して。
 ──ようするにだ。
 今日、岬ちゃんの属する宗教団体の集会があるらしい。その集会で、なにやら岬ちゃんが大変な役を演じるらしい。
 そのような情報を総合した結果、俺はピンとひらめいたのだった。まさしく今日こそ、岬ちゃんの正体を突き止める最高のチャンスだと。
 そうして俺は、かなりの勇気を出して勧誘員にお願いした。
「見学に連れて行ってください!」
 通常、見学客は、毎週水曜日の『書籍研究』に連れて行く決まりになっているそうで、二人の勧誘員は「ぜひとも今日! 今日の集会に連れて行って!」と懇願する俺の扱いを、どうしたものかと決めかねているようだった。
 が、数分間にわたる懇願の未、ついに彼らは折れてくれた。『帝国会館』の場所と、集会が始まる時間を教えてくれた。
「夕方の六時から始まります。『金田の紹介で来た』と言えば、通してもらえますから──」

   *

 夕方だった。
 あやしげな衣装で見事に変装した俺たちは、『帝国会館』への道を早足で歩いていた。
 岬ちゃんのプライベートを陰から観察して、彼女の正体を見破ってやるのが、集会潜入の目的である。なればこその変装であった。最初は渋っていた山崎も『宗教団体への潜入なんて、一生に一度のチャンスだぜ! 面白そうじゃん!』などと言う、あまりに適当な俺の説得に屈して、しまいには自ら嬉々として変装を始めてくれた。
 俺は、大学入学の際に購入したリクルートっぽい黒のスーツを着て、頭にピンクのチューリップハットを目深く被《かぶ》り、ついでに顔には濃い紫のサングラスをかけた。自分でも無茶苦茶な格好をしていると思う。
 一方山崎は、シークレットシューズで身長を十センチほど伸ばし、目には緑のカラーコンタクトをはめ、さらには頭髪をブリーチで金色に染めた。どうして彼が、シークレットシューズなどというバカげたアイテムを所持していたのか、それについてはよくわからない。
 ともかく、完壁《かんぺき》な変装である。
 が──それでもいまだ、多少なりとも不安が残っている。俺たちの声色によって、正体が露見してしまう恐れがある。
「どうしたものだろう山崎君? さすがに声までは変えられな──」
 と、そこまで不安を口に出したところで、山崎は駅前のデパートに俺を連れ込んだ。
 そうして彼が向かったのは、四階の玩具《おもちゃ》屋。そこのパーティーグッズ売り場で、彼が手にしたものはヘリウムガス。肺に吸い込むと、声がアヒルの鳴き声みたいに変わってしまう、一昔前に流行《はや》ったアレだ。
「おお! 頭いいね君!」
 俺は山崎の背をばしんと叩いた。
 彼は無言で親指を立て、ニヤリと笑った。ノリノリである。
 そんなこんなで、準備は全て整った。俺たちは意気揚々と、駅前商店街のはずれにある帝国会館に向かった。
 甲高いアヒル声できぃきぃと話す、どこまでもあやしげな二人組に、すれ違う人が怪訝《けげん》そうな視線を投げかける。通常の俺ならば、彼らの視線に脅えきってしまうところだろうが、今日に限っては、他人の目などを恐れはしない。濃い色のサングラスによって視線が遮られているし、隣を歩いているのは心強い友、山崎だ。そしてなにより、通販で買った「気合いの入るクスリ」が、最高潮にバッチリ効いている。
 半日前までは、出口の見えない不安に鬱々と苦しんでいた俺だったが、今ではもう、すこぶる元気がいっぱいである。人間の心なんて、数ミリグラムの薬物でどうとでもなるものらしい。
「ここですかね?」
 線路沿いの細い路地を抜けたところで、アヒル声の山崎が、コンビニの隣にある四階建てのビルを指さした。
 俺は勧誘員に書いてもらった地図を確かめた。ビル入り口の案内板にも、『三階、帝国会館』と記されていた。ここで間違いない。
 だが──目的地に到着したのはいいものの、俺は幾分拍子抜けしていた。
『帝国会館』というきわめて威勢の良い名前とは裏腹に、ずいぶんとくたびれた古い貸しビルである。一階は不動産屋、二階には税理士の事務所が入っていて、その三階だけを宗教団体が借りているらしい。
 夕焼けに赤く照らされたその貸しビルは、余計にずいぶんとみすぼらしく見えた。金箔《きんぱく》などに飾られた、巨大な寺院的建造物を想像していた俺は、かなりの意表をつかれてしまった。
 ……まぁ、ともかくそろそろ潜入開始だ。
「い、行くぞ山崎君」
「行きましょう佐藤さん」
 俺たちは意を決して、ビルの狭い階段を上っていった。

 結果、集会への潜入はきわめて簡単に成功した。俺たちの怪しい服装についても、彼らはなんにも言及しなかった。
「実は僕、目が悪くてサングラスが無いと」などという大嘘で、聞かれてもいないことを弁解する俺を、むしろ彼らは「まぁ、それはそれは」などと言って気の毒がってくれた。
 ……そう、実に彼らは良い人たちだった。
「こんばんわ」「ようこそ」「よくいらっしゃいました」
 主婦が、女子中学生が、サラリーマンが、にこにこ笑顔の爽《さわ》やかな挨拶《あいさつ》をしてくれた。俺たちはぺこぺこと頭を下げながら狭い階段を上り、会館の中へと足を踏み入れた。するとまたまた俺たちは、かなりの拍子抜けを味わった。
 会館内には、宗教的雰囲気が欠如していた。蝋燭《ろうそく》とか、十字架とか、祭壇とか、その手の装飾が、まったく存在していなかった。
 一番奥に、学校の体育館にあるような講壇が備え付けられており、そこに向かって、スチール製の折り畳み椅子が等間隔に並べられている。収容能力は百人ほどといったところか。
 床も壁も、柔らかなクリーム色で統一されていて、蛍光灯の照明も爽やかに明るい。ずいぶんと落ち着いた空気に包まれていて、これじゃあまるで、普通の町内会館だ。
 とりあえず俺たちは一番隅の折り畳み椅子に腰を下ろし、身を締めて目立たないようにした。しかしその試みも、すぐに虚《むな》しく失敗した。笑顔を浮かべた老若男女の挨拶が、俺と山崎を取り囲んだのだ。
 昼間勧誘に来た青年が、前もって俺たちのことを皆に知らせていたらしい。
「聖書に興味がおありなんですってね」
 子連れの主婦が、
「やはり信仰は、誰もが向かい合わなければいけない問題ですから」
 俺と同年代ぐらいの青年が、
「ゆっくり見学していってくださいね」
 高校生ぐらいの女の子が──
 口々に声をかけてくる。
 俺はアヒル声で挨拶を返しながらも、かなりの焦りを感じていた。
 ──マズイ、このままでは目立ってしまう。というか、すでに充分に目立っている。まだ岬ちゃんは来ていないようだが、こんな状態では変装を見破られるのも時間の問題だ。
 そこでとりあえず、一時待避することにした。
 子連れの主婦にトイレの場所を訊いて、そそくさと集会場から抜け出す。
「ヤバイっすよ佐藤さん」
「マズイね山崎君」
 綺麗《きれい》に掃除された便所で、スッキリ放尿しながら一息つく。
「どうしてあの人たち、俺たちみたいなアヤシゲな人間に、ああも和気|藹々《あいあい》と声をかけてくれるんだろう?」
「……僕、ちょっと感動しましたよ」
 俺も幾分、驚いていた。あれほどに多数の人間から、開けっぴろげな笑顔を向けられることなど、俺の長い人生においても初めての経験だった。どう対処していいものやら、さっぱりわからない。
「ひひひ! 入信しちゃおうっかな!」
 便所の個室に入った山崎が、唐突な哄笑《こうしょう》を始めた。ついで、ガラガラとトイレットペーパーを回す音が響いた。チーンと鼻をかむ音も聞こえてきた。そうして彼は、個室から出てきた。カラーコンタクトをはめた瞳《ひとみ》、その瞳孔が、完全に開ききっていた。服の袖には白い粉が付着していた。
「どうです佐藤さんも?」
 山崎は、クスリの入ったビニールのパケットを差し出した。俺はやんわりお断りした。これからスパイ活動の本番が始まるのだ。クスリの追加摂取によって、冷静な判断力を失ってはマズイ。
 俺はティッシュペーパーを口内に含んで、顔の輪郭を変形させ、さらに完璧な変装を整えた。
 振り切れた笑顔を顔面に貼り付かせた山崎は、トイレの中をぐるぐるぐるぐるとせわしなく歩き回っていた。
 しばらくすると、便所の外から賛美歌の合唱が聞こえてきた。始まったらしい。
 俺たちはさり気ない足取りで集会場へと戻った。

 やはり集会場の室内自体には、なんの宗教的雰囲気も存在していなかった。まったくもって、そこらにある青年会館の研修場といった雰囲気だった。それなのに──
 それなのになぜか、俺は背筋に鳥肌を立ててしまった。感動してしまった。
 それはアパートから出る際に軽くキメてきたクスリの作用だったのかもしれない。感情を増幅させる、クスリの作用に過ぎないのかもしれない。
 だが──
 百名近くの人間が、この集会場に一堂に会し、よどみなく、のびやかに、朗々と歌っていたのだ。オジサンオバサン少年少女。皆、顔を正面の講壇にすらりと向けて、神を讃《たた》える賛美歌を、一心不乱に斉唱していたのだ。
 そこには確かに、宗教的な聖性が見て取れた。
 おお、これぞ宗教! 最高だ!
 と、ともかく、賛美歌に包まれた集会場の壁際をそそくさと移動して、一番隅の席に着く。
 賛美歌が終わると、講壇に立った中年男の祈りが始まった。彼が一番偉い人らしい。
「天を創造され、この地をも創造され、私たち人間をも創造してくださった、偉大な創造者。あなたの偉大な御名《みな》に、賛美と栄光が返されますように」云々《うんぬん》。
 皆、彼の祈りをまっすぐに聴き入っていた。俺たちに目を向ける者もいない。
 順調だ。
 ──と思ってたら、祈りが終盤にさしかかったあたりで、講壇に立った偉い人が、こんなことを言った。
「聖霊のご援助によって、今日も皆さんが、このように集い合うことができました。沢山の子供たち、そして、新しい人──」
 ──新しい人?
 誰だ? それは誰だ?
 俺たちだ。
 皆の視線が一斉に俺たちに注がれた。俺はチューリップハットをさらに目深く被り直した。山崎は、皆の微笑みに負けじとばかり、イッてしまった笑顔をますます輝かせた。
 視界の隅に岬ちゃんが映った。前方の、一番前の席に座っていた。
 だが──大丈夫だ。気づかれてはいない。俺はほっと一息つきつつ、皆に向かって手を振ろうとする山崎を押しとどめた。
「では、全ての感謝を、御子、イエス?キリストのお名前を通して、御前にお祈りいたします」
 ──アーメン。
 全員が唱和した。俺と山崎のアヒル声だけが、ひどく周囲から浮き上がっていた。

   *

 この集会の目的は、勧誘活動における技術の向上だ。だから名前を『宣教学校』と言う。
 まずはベテランの男性信者が講壇に立って、模範となるべき講話をする。その後、宣教学校の生徒たちが、それぞれの話を持ち時間六分の間に披露する。そして最後に『監督』が、生徒の話に「良」「努」「改」の三段階評価を下す──
 隣に座った主婦が、そのような説明をしてくれた。
 俺は主婦に頭を下げつつ、周囲をさりげなく観察した。
「…………」
 平日の夜だというのに、かなりの人数が集まっている。
 まず目に付くのは、大量の主婦だ。そこらのスーパーで買い物してそうな、きわめて普通なオバサンたちである。その他にも、会社帰りに直接やって来たようなサラリーマン風の男や、学校帰りの若者などなど、実にバラエティ豊かな人材が勢揃いしている。
 講壇に立ったベテラン男性信者のお話を、彼らは皆、神妙な表情で聴き入っていた。講演の内容を、逐一ノートに書き留めている者もいる。
 だが──講演の内容といっても、これがまた、一般人にとっては頭が痛くなるようなお話である。『ハルマゲドン』『サタン』等々の素敵な単語が続出し、俺はお腹が痛くなってきた。
 とにかく、ただひとつ確かなことは、ここに集まっている総勢およそ百人。彼らは皆、どこまでもどこまでも本気だということだ。
『人類が誕生したのは六千年前』
『ノアの方船がアララト山に』
『もうすぐサタンとの戦いが』
『黙示録によると』
 ──お前ら学研ムーか!
 と、叫びたいところであるが、多勢に無勢である。
「…………」
 そうして、ようやく最初の講演が終わった。講演の内容を要約すると、こんな感じになる。
『この世の腐敗がますます目に見えて広がっている。政治家の汚職は絶えることなく、世界各地では紛争が相次ぎ、都市部では凶悪犯罪が跡を絶たない。若者たちは淫《みだ》らな交遊にふけり、大人たちはただ物質的な価値だけを求め、ますます道徳は地に堕《お》ちる。つまりそれこそがサタンの仕業である。サタンに支配されたこの世の者たちは、それと知らずに悪の手先と成り果てているのだ。──だからこそ、もうすぐハルマゲドンが近いのです。私たちはハルマゲドンが訪れる前に、ひとりでも多くの人々を、地獄に堕ちる運命から救わなければなりません。そのための布教です』
 どうやら神とサタンの対立が存在するらしい。もうすぐ最終戦争が勃発《ぼっぱつ》するらしい。その最終戦争の際、神を信仰している人間だけが助かるらしい。信仰のない人間は、地獄に堕ちるらしい。
 あとに続いた生徒たちの講演も、どれも似たような内容だった。神を讃え、サタンを憎む。それが基本方針らしい。
 皆、この日までにずいぶんと予行演習を重ねてきたのだろう。聖書のエピソードなどを巧みに引用して、淀《よど》みなく演説している。多少緊張している様子も窺えるが、それでも彼らは誇らしげだ。
 持ち時間六分の終了を告げるベルが鳴り響くたびに、皆は一斉に拍手する。俺たちも拍手する。そうこうするうちに、数名の若者による講演が終了する。
 そうしてついに──俺と山崎は目配せした。
 岬ちゃんの番がやってきた。
 俺は期待していた。
 毎晩のカウンセリングのような、すっとぼけたセリフの数々を聞かせて欲しかった。
 愉快に笑わせて欲しかった。
「…………」
 だが、講壇に立った岬ちゃんは、小刻みに震えていた。
 顔が真っ青だった。
 彼女は最後まで、何も面白いことを言わなかった。
 ぼそぼそと、限りなく平坦《へいたん》な声で、聖書についての無難なお話をしただけだった。
 最後までうつむき加減だった。
 辛そうにしていた。
 そのようすは、小学校で、ひとり皆からイジメられていた少女を思い起こさせた。

   *

 宣教学校が終わった。
 このあと、十分の休憩を挟んで『奉仕会』が行われるらしい。
 皆、和やかに歓談していた。主婦グループ、少年少女グループ、成人男性グループ。それぞれ寄り集まって、にこやかな笑顔でお喋《しゃべ》りしていた。
『カズマ君がべテルに』『奉仕の僕が』『しかしこの前の開拓奉仕では』『里美姉妹がとうとうバプテスマを──』等々、専門的なテクニカルタームが頻出していて、会話の意味は、よくわからない。
 一方、集会場の隅に目をやると、岬ちゃんがいた。
 一人ぽつんとスチール椅子に座っていた。
 肩を落として、小さくなっていた。
 できるだけ目立たないようにして、集会場の隅で気配を殺していた。
 やはり顔が青い。
 誰かが近くを通るたびに、岬ちゃんはうつむいた。話しかけられるのを怖がっているようだった。だから休憩時間が終わるまで、誰も彼女に声を掛けなかった。彼女もそれを望んでいるようだった。
 和やかな会館の中で、ひとり彼女だけが周囲から浮き上がっている。
 俺は山崎を促した。
「……帰ろう」
「何言ってるんですか佐藤さん! これから奉仕会ですよ!」
 山崎は目を血走らせていた。その理由は、なんとなく想像できた。
 俺たちがもっとも精通しているテクニカルターム──すなわちエロゲー用語において、『奉仕』とは『エプロンドレスを着たメイドさんが御主人様に対して行う、愛情の籠《こ》もったある種のマッサージ』を意味する。
「奉仕会ですよ! あの少女たちに奉仕してもらえるんですよ!」
「んなわけねぇだろうが!」
 俺は嫌がる山崎を羽交《はが》い締《じ》めにして、ムリヤリ外に連れだした。
 だが、貸しビルの出口にさしかかったところで、背後から声が掛けられた。
「ちょっと、あんたたち」
 昼間の勧誘員の、小さい方。中学生ぐらいの少年だった。
「あんたたち──本当はヒヤカシだろ?」
 ブレザーのポケットに手を突っ込んで、俺たち二人を睨《にら》んでいた。
 唐突に山崎は走り出した。
 わき目もふらずに逃げていった。
 またも、俺はひとり取り残された。

 しかし少年は、俺を糾弾しなかった。なぜか俺と少年は、夜道を二人で歩いていた。
 もう夏なのに、夜風は少し、肌寒い。
 少年は、タバコをくわえていた。
「か──」
「戒律違反だよ。確かに」
 少年は俺の機先を制すると、ポケットからジッポーを取り出して、手慣れた様子で火を点けた。
 俺の右どなりを歩きながら、少年は言う。
「時々いるんだよ。怖いモノ見たさで集会を見学に来るヤツ。あんたたちみたいな馬鹿な学生とかな。……それで、どうだった? 面白かったか?」
 俺はなんにも言えなかった。
「何もオレだって、好きで宗教やってるわけじゃない」
「……というと?」
「親だよ。父親も母親も、宗教大好き人間だ。家の中で、オレだけがひとりまともな頭をしてる。それでもし、オレが宗教を抜けるって言ったら、どうなると思う?……いつだったか、母親に言ったことがある。『部活をやりたい、友達と遊びたい』って。そうしたら、あのババアは怒鳴ったよ。『この悪魔!』ってさ。しばらく弁当も作ってくれなかった」
 そうして少年はハハハと笑った。
「親の機嫌が悪くならないぐらいに適当に付き合いながら、外では普通にやってるのさ」
 学校では普通の若者として過ごし、家庭では立派な宗教者として暮らす──そんな二重生活を送っているという。
「……だからなぁ、あんたたち。間違っても入信しちゃダメだぜ」
 それは真面目な声だった。
「今日はチャホヤされただろ。結構気分が良かっただろ。こんな優しい人たちとなら一緒にやっていけるかもしれないなぁ、なんて、そんなバカげたことを思ったろ? でもな、それは違うぜ。アレがあいつらの上手《うま》いやり方なんだよ。別に、無償の愛じゃあないんだぜ。あんたたちを入信させるための手段なんだぜ」
「…………」
「いったん中に入ってしまえば、そこにあるのは普通の社会だ。みんな長老の座を狙ってる。みんなべテル行きを狙ってる。家の父親なんて、根回しに必死だよ。よその長老に贈り物を贈って、なんとかのし上がろうとして。ホントに馬鹿らしい。──今日も見たろう? 一番最後に発表した子。あの子なんて、ついこの前までただの研究員だったのに、家族に言われてとうとう宣教学校に入っちゃったんだぜ。家族が宣教学校で発表すれば、あの子のオバサンの鼻も高くなるからな」
 俺はさりげなく、さらに岬ちゃんのことを訊いてみた。
「……ん? だからあの子は、ついこの前研究生になったばっかりの、ただの娘だよ。あのオバサンの養女だとかどうだとか。オジサンの方が宗教に興味ないらしくて、それで救われてるって言えば救われてるけど。……いや、板挟みで余計に大変か。なんか、いつも辛《つら》そうにしてるからな」
 俺は内部事情を教えてくれた少年に、深く感謝した。
 別れ際に、少年が言った。
「だからダメだぜ。絶対に入信しちゃ。……いや、別に入信しても良いけど、そしたら子供を作るなよ」
 俺は小さくうなずくと、アパートに帰った。
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      3

 翌日、俺と岬ちゃんは街を歩いていた。
 空は青く、雲ひとつない。
 土曜の駅前は人通りが多く、俺は少々、くらくらした。
 約束通り、昼の一時に近所の公園で待ち合わせて、それからまっすぐ駅前へと向かい──すでにそれから二時間近くが経過している。
 俺たちは、歩いていた。ただひたすらに歩いていた。
 右斜め前方を歩く岬ちゃんが俺を先導しているのだが、繰り返しぐるぐると回っているような気がする。
 それでも岬ちゃんの足取りは揺るぎなかった。
 どこかに目的地が存在しているようではあるが──ついにたまらず俺は訊いた。
「あのう、俺たち、どこに向かって歩いてるんだろう?」
 岬ちゃんは振り返った。
「……え?」と言った。
「いや、目的地は?」
「こうやって歩くの、ダメ?」
 俺は天を仰いだ。
 足を止めた岬ちゃんは、腕を組んで考えこんでいた。
「……うーん。言われてみれば、確かに変かも。よくよく考えてみれば、普通はどこかに入るものかも」
「…………」
「ねぇ、普通だったら、どこに行くんだろう?」
 そんなこと訊かれても困る。
 そもそも俺たち、一体全体、何をやっているんだ? 土曜の昼に、こうやって待ち合わせて、街を歩いて──そんな俺たちは、一体全体何者なんだ? その筈えいかんによっては、赴くべき場所もまた、多種多様に変化すると思う。
 ともかく、俺は訊いた。
「岬ちゃん、行きたいところ、ある?」
「ない」
「……昼ご飯は?」
「まだ」
 取り敢《あ》えず、近くのファミレスに入ることにした。

   *

 フアミレスに入ると、岬ちゃんは言った。
「こーゆー所でご飯食べるの、初めて」
「…………」
 俺はタバコに火を点けた。やはりその先端は細かく震えていた。辛くなってきた。サングラスが欲しい。アレさえあれば、他者からの視線に脅《おび》えなくてすむ。
 岬ちゃんはランチセットを頼んだ。バクバク食っていた。俺はひたすらコーヒーを啜《すす》った。しまったと思った。カフェインの作用で、ますます落ち着きが無くなってしまう。挙動不審になってしまう。
 だけど一方、岬ちゃんはずいぶんとニコニコしていた。愉快そうだった。テーブルに設置されているペーパーナプキンで、何かの折り紙を作製していた。
「ほらね完成、すごいでしょう?」鶴だった。
「……凄《すご》いね。器用だね」俺は褒めた。
 胃が痛くなってきたので、ファミレスを出た。
 その後さらに三十分ほど歩き、今度は喫茶店に入った。俺は紅茶を飲んだ。岬ちゃんはケーキを食べていた。俺はこの会合の、そもそもの目的を思い出そうとした。
 この前の夜──岬ちゃんは言った。
『街に出ましょう。そうすれば、きっと良い方向に向かうと思うよ』
 そうなのだ。すなわちこれは、ひきこもり脱出プログラムの一環であり、なにも二人でデートなどをしているわけではないのだ。が──昨夜のこともある。昨夜の岬ちゃん観察によって、彼女の正体がますます不透明になってしまった。少なくとも宗教勧誘という線は、完全に消えた。
 あれほど周囲から浮き上がっているのに、わざわざ熱心に勧誘などをするわけない。
 結局彼女は何者なのか? それはいまだに大いなる謎である。そんな謎めいた娘と、こうやってプラプラしている俺は、一体全体どうするべきなのだろう? どうしたものか。
「…………」
 結局俺は、為すすべもなく押し黙った。
 すると岬ちゃんは、背中の鞄《かばん》から一冊の本を取りだした。その本のタイトルは『貴方《あなた》を導く言葉の数々──心に響く名言集』
 またまたあやしげな本を。もう呆《あき》れもしないが。
 岬ちゃんはケーキの皿をどかして、テーブルの上に本を広げた。
「れっといっとびー」そう言って、俺の顔を覗き込む。
「ジョンって人の言葉だそうです」
「…………」
「どういう意味だろうねコレ?」
「な、なすがままに」
「わあ、良い言葉だね!」

 俺たちが最終的にたどり着いたのは、いつぞやのマンガ喫茶だった。岬ちゃんのバイト先である。
 レジに座っていたオジサンに、岬ちゃんは小さく頭を下げた。俺は一般客を装って、伝票を受け取った。そうして俺たちは、マンガ喫茶の一番奥に腰を下ろした。
 他に、客は数人だけだった。閑散としていた。
 俺はフリーサービスのコーラを飲みつつ、むやみにマンガを読んだ。差し向かいに座った岬ちゃんは、俺を見つめてオレンジジュースを飲んでいた。
 気が散って気が散って仕方がない。そろそろ胃に穴が空くと思った。
「…………」
 もうダメだった。
 こんな状況でマンガなんて読めるわけがない。俺はとにかく口を開いてみた。
「岬ちゃん」
「んん?」
「人が少ないマンガ喫茶だね」
「最近不況だから」
「……あのオジサン、岬ちゃんとはどういう関係?」
「オジサンはオジサンです。いつも迷惑かけてます。……だけどもうすぐお別れだから、許してもらえるかと思います」
 なにやら複雑な家庭環境などがあるらしかったが、俺はそんな話を聞きたくなかったので、方向転換した。
「ところで岬ちゃん、宗教活動、楽しい?」
「それほどでも。……昨日もみんなに迷惑かけちゃったし」
「迷惑って?」
「こう、場の調和というか。あたしがいるだけで、いろいろと他の人はゲンナリするんです。だから本当は、どこにもあたしはいない方が良いんだけど──」
「脱退すればいいのに」
「そうもいかないよ。オバサンに、せめてもの恩返しをしなきゃ」
「でも岬ちゃん、本当は神様なんて信じてないんだろ?」
 岬ちゃんは、ジュースのコップをテーブルに置いた。ことんと音がした。
「……いたらいいなぁ、と思うけど。できることなら信じたいけど。だけどなかなか難しいものです」
 それはずいぶんと残念そうな声だった。残念そうな声で、唐突なことを言った。
「そもそも神様ってさ。もし本当にいるとしたら、実はすごい悪者なんだよ。あたしが総合的に考えた結果、そのような結論が出たんだけどさ」
「……はぁ?」
「人間の一生って、苦しいことと楽しいことの割合は、きっと九対一ぐらいなんです。この前、ちゃんとノートに書いて計算してみたんだけど」
 岬ちゃんは鞄から秘密ノートを取りだして、テーブルに広げた。
「ほら、円グラフ。これを見れば一目|瞭然《りょうぜん》なとおり、楽しいなぁとか、生きてて良かったなぁとか、そんな幸せなひとときは、人生の一割にも満たないのです。……しっかり電卓で計算したから、間違いないよ」
 どのような計算方法だったのか、だいぶ気になったが、岬ちゃんは円グラフが描かれたページ以外を見せてくれなかった。俺もわざわざプライバシーを侵害するつもりはない。
 さらに岬ちゃんは言った。
「ですからね。わざとこんなに辛い世の中を作った神様は、きっとすごい意地悪なヤツなんです。……ね? 論理的な話でしょう」
「でもさっき、岬ちゃん、神様を信じたいなぁって言ってなかった?」
「うん。信じたいよ。いてくれたらいいって思うよ。だってさ──」
「だって?」
「そんな悪い神様がいるんなら、逆にあたしたちは健やかに生きていけるよ。神様に不幸の責任を押しつけられれば、逆にその分あたしたちは、すっかり安心できるでしょ?」
 難しい話だった。
 俺は腕を組んで考え込むフリをした。だけど頭が働かなかった。
 そもそも岬ちゃん、どこまでマジメに話しているのか。さっきから、妙にニコニコと笑顔だ。
 最初から最後まで、なんとなく煙に巻かれているような気がする。
 だが、最後に小さく呟いた彼女の言葉、それはやっぱり本気のようだった。
「……神様を信じられたら、幸せになれるよ。神様は悪いやつだけど、それでもきっと、幸せになれるよ」
 問題は──と彼女は続けた。
「問題は、あたしの想像力が貧困で、うまく神様を信じ込むことができないってことです。──ほら、聖書か何かみたく、目の前で凄く派手な奇跡とかを起こしてくれればいいのにね」
 無茶なことを言う女だった。
 その後一時間ほど談笑した俺は、そろそろおいとますることにした。レジで金を払おうとすると、オジサンが「いいから」と言った。
「……仲良くしてあげてください」
 年頃の娘に近づく男にかけるセリフとしては、完璧に間違っているような気がしたが、そのオジサンの、どことなく疲れたような表情には、妙な説得力が漂っていた。
 俺は小さく頭を下げると家路を急いだ。

   *

 アパートに帰ってくると、俺はビックリ驚いた。
 俺の部屋の真ん中に、マネキンみたいな等身大の人形が設置されていた。その人形のまわりを、山崎がふらふらと旋回していた。
「お帰りなさい佐藤さん! 御神体ですよ!」
「…………」
「学校の知り合いの友達の兄さんが、昔に買ったルリルリ等身大フィギュアを持て余してるって話を、いつだか小耳に挟んでまして。そこでさっそく、僕が手段を尽くして、そのフィギュアをゲットです! だから佐藤さんも拝んでください! この、白くて青くて小さくて可愛いルリルリを!」
 何かのアニメキャラらしい。年の頃は小学校高学年と思われる等身大人形に、山崎は平身低頭していた。
 見ると、クスリを入れておいた金属製の缶が空っぽになっていた。残り全てを山崎が摂取してしまったらしい。
「ええ、クスリを使いましたとも! そうして僕は、またもや今世紀最強のトリップを体験しましたよ。──そう! 今度こそ僕は悟ったんです。ええ佐藤さん、僕はこの世の仕組みを見てとりました」
 山崎は人形の足元に額をすりつけてから、ふいにガバッと立ち上がり、こちらを向いた。
「……僕はずうっとずうっと考えていたんです。僕らには何かが足りない。僕らには、何かがぽっかりと欠けている。胸に、大きな穴が空いている。それを埋めてくれるものが欲しい。満たして欲しい。──そう。昨日の宗教見学も、見事に僕の思索を裏付けていた。皆、不安なんだ。ワケが分からない世の中を、誰かにすっきりと整理|整頓《せいとん》して欲しいんだ。だからこそ彼らは神様を作った。神とサタンの二項対立によって、この世をわかりやすく説明していた。──あぁ、その単純で力強い物語! 僕は感動した!
 ……だがしかし、いかんせん僕らには、あの神様は不向きだ。なぜならば、どうにもあの神様、いかにも恐ろしげだ。『目を覚ませよ!』のイラストを見ればわかるとおり、ひどく写実的で、萌《も》えられない」
 山崎は、部屋の隅に転がっていた『目を覚ませよ!』を手に取ると、俺に突きつけた。
「六月号の特集、『守護天使──常に貴方を見守っています』を見てください。あの宗教において、天使はこのような姿形をしています」
 山崎が開いたページには、逞《たくま》しい男のイラストが、リアルなタッチで描かれていた。筋骨隆々の、その男。彼の背中には羽が生えていた。
『目を覚ませよ!』を一息に引き裂くと、山崎は叫んだ。
「こんな天使、いらねぇよ! ボディービルダーかっつうの! 天使っていったら、もっと、こう、可憐《かれん》で、萌え萌えで、ロリロリな──」
 俺の脳裏を、『天使』の少女がヒロインとして登場するエロゲーの記憶が、いくつもいくつもよぎっていった。
「そう! そうなんですよ! わかりましたか佐藤さん? だから今こそ宗教改革です!」
「…………」
「ご神体は、このルリルリ人形! そして僕が教祖!」
 俺は山崎の肩を、ぽんぽんと優しく叩《たた》いた。山崎はその手を振り払うと、さらにわめいた。
「信じる者は救われる! だから自分で信じられるものを作り出すんだ! 人生に意味を! 素敵な宗教で、生きている意味を!」
 部屋中をぐるぐるとうろつきまわり、拳《こぶし》を振り上げ、吠《ほ》えていた。なんどもなんども絶叫していた。
 だけど最後に山崎は、等身大人形にすがりついた。
「……このままじゃ、生きていけない」と呟く。しかしその日は醒《さ》めていた。
 俺は温かいコーヒーを入れてやった。
 山崎は、涙ぐみながらコーヒーを飲んだ。なんとなく俺も泣きたくなった。
「なぁ、ところで山崎君。この人形、どうすんの?」
「佐藤さんにあげます。自由に使ってください」
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    九章 おしまいの日々

      1

 ひきこもりにとって、冬は辛い。寒くて凍えて、わびしいからだ。
 ひきこもりにとって、寿も辛い。みんな陽気で、妬《ねた》ましいからだ。
 だからといって、やっぱり夏も、辛くて辛い。
 蝉のうるさい夏だった。朝から晩まで、みーんみーんと鳴きやむことを知らない。
 暑くて腐る、夏だった。エアコンを入れっぱなしにしていても、それでも暑い。エアコンが老朽化しているのか、それとも今年が特別に暑いのか。
 とにかくひたすら、うだってしまう。
 責任者出てこい! と叫びたいところであるが、今の俺にはそれだけの元気もない。バテていた。夏バテだった。食欲が不振で、精神も疲弊している。いかにリポビタンDをがぶ飲みしようとも、この倦怠《けんたい》感をぬぐい去ることは不可能だった。
 だが──それでも隣人だけは元気だった。ますますむやみに騒いでいた。朝から深夜まで、大音量のアニソンを響かせていた。
 聞くところによると、最近は一日四時間程度しか眠っていないという。アニソンを聴きながら、クリエイティブな作業を頑張っているという。充血した目をぎらぎらと輝かせて、まったく無意味な創作活動に励んでいるという。
 そんなある日に、山崎は言った。
「やっとゲーム作りが一段落しましたよ」
「ほう」
「そして今日からは、爆弾作りを始めます」
「……はぁ?」
 山崎は答えず、生の食パンを黙々と囓《かじ》った。ずいぶんと適当な朝食である。
 俺は彼のように無精な人間ではないので、ちゃんとパンをトーストして、ついでに手早く目玉焼きを焼いた。
「いただきます」
「だからあんた、人の冷蔵庫から勝手に飯を──」
 俺は知らないフリをした。

   *

 岬ちゃんは夏なのに長袖《ながそで》の服を着ていた。しかし彼女は陽気だった。
「楽しいなぁ、楽しいなぁ、楽しいなぁ」と言った。
 実に楽しそうだった。愉快にブランコを漕《こ》いでいた。
 やはり今夜も熱帯夜である。黙っていても汗が噴き出す気温であるが、それでも岬ちゃんは涼しげだ。髪をなびかせて爽やかにブランコを揺らしながら、「ところで佐藤君、余った猫缶、食べる?」と言った。
 いつぞやの黒猫が、いつのまにやら行方不明なのだった。もうずいぶんと長いこと姿を見せていない。車にひかれて昇天したか、それともどこかに旅立ったか。
 ともかく俺は「いらない」とお断りした。
「買い置きしてんだけど、あぁ、もったいないなぁ」
 岬ちゃんは華麗にブランコから飛び降りると、ジャングルジムの脇にある、こぢんまりとした砂場に踏み込んでいった。
 近所の子供が置き忘れていった緑色のシャベルを手に持って、ぺたぺたぺたと、夜の砂場に何かを造形している。
 俺は訊《き》いた。
「なにそれ?」
「山」
 確かに山だった。砂場の真ん中に建設された、それは鋭角な山だった。北斎の描く富士山ほどに急角度なので、ふとした拍子に崩壊してしまいそうに見えたが、しかし砂山は、何の滞りもなく立派に完成。
 夜露に湿った砂の特性を生かした、見事な仕事だった。
 岬ちゃんは手を叩いて砂を払い落とすと、山の周りをぐるりと一周した。
 それから俺の顔を見た。
 俺は「良い山だね」と言った。
 岬ちゃんは小さく微笑むと、「えい」とかけ声を発し、山に向かって前蹴《まえげ》りを放った。
「形ある物は、いつか壊れます」
「そうだね」俺はうなずいた。

 岬ちゃんが背中の鞄から取り出す書物は、毎晩毎晩、実にバラエティー豊かだった。一週間に一度、図書館から大量に借り入れてくるらしい。
 小説、詩集、実用書、参考書──さまざまな体裁の書物を岬ちゃんは読み、ついでに俺にも読み聞かせる。
「さてさて。今夜のテキストは、『有名人の最後の言葉』です。立派な人たちが死んじゃう間際に残した言葉を参考にして──」
 ──参考にして?
「人生とは何かを考えましょう!」
「…………」
 それはかなりの大技だった。平気な顔をして、そのような非日常的セリフを口に出す岬ちゃんに、俺はすっかり参ってしまう。……それでもまぁ、昨日の『生きる意味を考えましょう』に比べれば、まだまだ大したことはないが。
 俺は気を取り直して、続きを促した。さっそく岬ちゃんはテキストの朗読を開始した。
 古今東西の有名人、その辞世の言葉を集めた本らしい。俺は大人しく拝聴した。
「…………」
 だが、本を朗読しているうちに、だんだん岬ちゃんも飽きてきたらしい。いつのまにやらコンセプトが変化していた。
「もっと光を。──さて、これは誰の言葉でしょう?」
 クイズかい!
「3?2?1──時間切れ! 答えはゲーテです。それにしてもコレ、格好よすぎるセリフだよね。たぶんゲーテさん、前々からセリフを用意してたんだと思うよ」
「そ、そうかもね」
「じゃあ、次の間題。──三日とろろ、おいしゅうございました」
 これはわかった。
「マラソンの円谷《つぶらや》選手が残した遺書」
「ピンポンピンポン。正解です! よく知ってたね」
 有名な遺書なので知ってても自慢にはならないが、それでも岬ちゃんは誉めてくれた。遺書の内容にも、妙に感心しているようだった。
「三日とろろ──って、なんだか冗談みたいな遺書だよね」
「たぶん、そこが逆に感動を誘うんだよ」
「なるほど。参考になるなぁ」
 そんなことを言って、しきりにうなずいている。
「………円谷選手、死ぬ間際に故郷に帰ったんだってさ。そうして、お父さんお母さんと一緒に、とろろいもを食べたんだって」
「ほう」
「やっぱりみんな、死んじゃう前には故郷に帰りたくなるみたいだね」
「……そういや岬ちゃんって、出身はこの町?」
「ううん、違うよ。……北極星があそこにあるから──たぶん、あっちの方」
 岬ちゃんは北北西の方角を指さして、俺の知らない町の名前を教えてくれた。
 日本海に面した人口五千人の小さな町だそうだ。綺麗な岬がある町だそうだ。 だけどその岬は、ちょっとした自殺の名所なのだそうだ。
「明治時代のとある有名人が身投げして以来、自殺のメッカになったらしいよ。最近になって事故防止の工事をしなきゃいけなくなったぐらい、毎年決まって飛び降りとか、足を滑らせる観光客がいたって言うよ。小さい頃は、そんなことぜんぜん知らなくてさ、いつもその岬で遊んでたんだけど──」
 だけど──ある日、あたしも女の人を見たよ。
 と岬ちゃんは言った。
「高い岬の崖《がけ》っぷち。夕日が綺麗で真っ赤でさ。女の人も、綺麗だったよ」
「で?」
「ちょっと目を離したら、いなくなっちゃった」
「…………」
「今でも時々、夢に見るよ。もしかしたら、最初から夢だったのかもしれないけど。……だって、その女の人、すごく朗らかに微笑んでたから。健やかな顔をしてたよ。ひとりで、海と夕日を見つめてたよ。だけどほんの一瞬、目を離した隙に、なぜかどこかに消えちゃった。……変な話でしょ?」
 変な話だった。
「でもねぇ……なんだろう? せめて遺書ぐらいは残すべきだと思ったよ。たとえば、とろろいもとか」
「……とろろいも、食べたいなぁ」
「かゆくなるよね」
「うん」
「…………」
 迷走する会話だった。
 やはり俺は途方に暮れていた。しかし岬ちゃんは笑っていた。
「……あぁ楽しいなぁ愉快だなぁ。そう思うでしょ佐藤君」
「そうだね」
「だけど、そろそろ終わりだよ。……プロジェクトの最終日が迫っています」
 岬ちゃんは本を鞄にしまった。
「これだけタメになる講義を続けてきたんだから、そろそろ佐藤君、立派な大人になれたでしょ?」
 ベンチから立ち上がり、そう言った。
「もう、わかるよね? どうして自分がダメ人間になっちゃったのか。なんでひきこもりになっちゃったか。そろそろバッチリわかったでしょ」
「…………」
「ちゃんと考えれば、きっとわかるよ」
 俺はベンチに腰を下ろしたまま、岬ちゃんを見上げた。夜の公園、彼女の輪郭だけしか判別できない。だから表情は窺《うかが》えない。
「……そろそろホントに、もう時間がないから。これ以上オジサンオバサンに迷惑はかけられないから──だからあたし、もうこの町からいなくなるよ」
 その声色は、いたって普通だ。だから俺も冷静に訊く。
「どこ行くの?」
「人の沢山いる都会。誰もあたしを知らないところ。知ってる人の、いないところ。──だからそれまでに佐藤君、佐藤君は、立派になってよ」
 なにやら話がよく見えないが、大変な無茶を言う娘である。
 俺はぼんやり首を横に振った。
 岬ちゃんは「そんなんじゃダメだよ」と言った。
 そこで俺はとりあえず「よしわかった。俺はもう大丈夫だ」と言ってみた。
「いやぁ、君のおかげで、俺は生まれ変わった。だから君も安心して、どこかの町で一人暮らしを始めてくれ」
「…………」
 どうやら、まだ何か不満があるらしい。
 俺はひたすら陽気な声で礼を述べてやった。
「ありがとう! 君は俺の恩人だ!……あ、そうだ。俺のステレオとか持ってく? 一人暮らしに必要だろ。なんならプレゼント──」
「……そうじやなくてさ」
「そうじゃなくて?」
「…………」
 俺は辛抱強く、彼女の言葉を待ってみた。しかし岬ちゃんは、とうとう何も言わずに背を向けた。
 俺も立ち上がった。
「それじゃ、さようなら」アパートに向けて歩き出す。
 ──と、そこで岬ちゃんは俺を呼び止めた。
「やっぱり、待った!」
「は?」
「デートしましょう」
「…………」
「卒業試験です。佐藤君が、本当に立派な人間になれたかどうかのテストなのです。日曜日の十二時に駅前集合、雨天決行!」
 逆ギレっぼい大声で宣言すると、岬ちゃんは早足で歩き去っていった。

   *

 一方山崎は、本当に爆弾を作っていた。ネットから爆弾レシピを手に入れて、しっかりばっちり爆弾製作していた。
 まずは黒色火薬を作る必要があるらしい。
 黒色火薬、その歴史は遥《はる》か大昔にまで遡《さかのぼ》る。たとえば、いわゆる「元寇《げんこう》」の時、日本のサムライたちを驚かせた「てつはう」という武器に使われていたのも、やはり黒色火薬である。
 極めて原始的な火薬であるが、それでいて威力は抜群だ。
 硝酸カリウムと硫黄《いおう》と黒炭を混ぜ合わせるだけの簡単クッキングでありながら、十グラム程度を密封破裂させると、その威力たるや恐ろしいもので、普通の乗用車の窓ガラスを全て割り、中の人間を即死させるほどのパワーがあるらしい。
「……爆弾なんて何に使うんだ?」
「決まってるじゃないですか、爆発させるんですよ!」
 それはまぁ、確かにその通りだ。爆弾にそれ以外の用途などありはしない。
「だけど、つまり何を爆発させるのか?──と、俺はそれを聞きたかった」
「敵ですよ」
「て、敵とは?」
「悪者です。悪者を、この革命爆弾でやっつけてやります」
「なるほど。……して、悪者とは?」
「……たとえば政治家とか?」
「お前、今の総理大臣の名前、知ってるか?」
「…………」
 山崎は押し黙り、作業を再開した。
 まもなく、黒色火薬の製作と鉄パイプの密閉が完了した。アナログ時計を用いた発火装置も完成した。あとはその発火装置を取り付けるだけで、いつでも爆発させられる。
「やった、完成だ! 僕は闘士だ! 革命家だ!」
 山崎は、はしゃいでいた。
「吹っ飛びますよ! 悪者は皆殺しです!」
 はしゃいでいたが、醒めてもいた。
「……あーあー、楽しかった」と言った。
 結局その爆弾は、悪者を吹き飛ばすことはなかった。そもそも俺たちは、悪者の居場所を知らない。
 仕方がないので、土曜の夜に、近所の公園で爆発させてみた。
 人から見えないよう、わざわざ茂みの中に潜り込んで、発火装置を慎重にセットした。
 確かに爆弾は爆発した。だけどぜんぜん大したことはなかった。
 わびしい話である。
 で、そうこうするうちに、日曜日になった。
 俺は約束通り、岬ちゃんと駅前で待ち合わせた。
 デートした。
 それから、アパートに帰った。
 一晩ぐっすりと眠った。目が覚めると、朝だった。なにもすることがなくて、暇だった。そこで俺は、またもや買い置きしておいたクスリを、一度にどっきり摂取してみた。楽しくなってきた。愉快になってきた。俺は笑った。
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 クスリは大きく三種類に分類できる。アッパー、ダウナー、サイケデリックスの三つだ。
 アッパーとは、元気になるクスリ。コカインやら覚醒剤《かくせいざい》やらが有名である。
 ダウナーとは、へロインなどの怠くなるクスリ。経験が無いのでよくわからないが、すこぶる気持ちが良いらしい。
 そしてサイケデリックスとは、幻覚剤のこと。LSDや、マジックマッシュルームなどが代表格か。
 俺は主に、合法の幻覚剤のみを愛好していた。アッパーやダウナーのような副作用も少ないし、なにより合法なので簡単に入手できる。
 そうして俺は、今日もクスリを使うのだった。
 かなりのハイアタックをしてみることにした。
 まず、AMT三十ミリグラムで下地を作る。AMT──もともとはロシアで研究されていた抗鬱剤である。大量に服用すると幻覚作用が発現するとわかったので、薬としての使用は中止されてしまったのだが、それでもさすがに元抗鬱剤。服用して最初の二時間は酷《ひど》い吐き気に苦しめられるが、それを乗り越えれば、ひたすら楽しくなってくる。バッドトリップ対策には最適である。
 その次に、ハルマラという植物の種子を煮詰め、黄色みがかったその上澄み液を、ごくごくと飲み干す。ハルマラ──インドール系幻覚成分のハルミンとハルマリンを含有している、チベット原産のハマビシ科植物だ。単体の使用では何の効果も現さないが、マジックマッシュルームやDMTなどの、他の幻覚剤と併用することによって、その効力を数十倍にも増幅してくれる。これがいわゆる、アヤワスカと呼ばれる技法である。MAO阻害剤なので、チーズや乳製品などと同時に摂取すると命に関わる危険性があるが、その点にさえ注意していれば問題ない。
「…………」
 さて、ここからが本番だった。
 すでに意識はもうろうとしており、視界がグニャグニャ歪《ゆが》んでいるが、しかし、ここからが真のトリップ。まだまだ行くのだ。
 俺は乾燥マジックマッシュルーム五グラムを、すり鉢でごりごりと細かくすり下ろし、その粉末をオレンジジュースで一気に流し込んだ。さらに5MEO - DMTの結晶十ミリグラムを、勇気を出して飲み込んだ。DMT──アマゾンのインディオがアヤワスカの儀式に用いるチャクラパンガなどの幻覚性植物、その有効成分のみを化学的に合成した薬物である。合法でありながらも、そのパワーは今世紀最強。一説によると、その幻覚作用はLSDの百倍以上。まさに究極のサイケデリックス。
 ほら、あっという間に腰が抜けた。
 キマッた。
 完成だ。
 佐藤スペシャルの完成だ。
 試行錯誤の末に編み出した驚異の必殺技である。四種類の薬物を効果的にカクテルする事により、違法ドラッグでさえも遠く及ばない究極のトリップが約束される。
 俺は月ロケット並みの高推力で、大宇宙の遥か彼方にまで吹っ飛ばされた。時間が完全に停止した。空間が完膚無きまでに歪み果てた。肉体は消失した。

   *

「ヤべッすよ佐藤さん。大変なことがわかりました!」
 山崎が言った。
「悟っちゃいました! ヤバいですよマジで!」
 俺も何かを言おうとしたが、口が動かなかった。しかし山崎はひとりで興奮していた。
「いいですか? よく聞いてくださいよ。大変なことですから」
 しかたがないので、俺はよく聞いた。
 山崎は胸を大きく反らし、最高の笑顔でこう言った。
「僕がこの宇宙を創造した唯一神だったってことが論理的に証明されました!」「…………」
 俺は死んだ。それからもう一度生き返った。
「見ててくださいよ。今から超能力で部屋をかたづけます」
 山崎は、床に散乱したゴミクズに人差し指を向け、「動け!」と叫んだ。当然の事ながら、ゴミクズはぴくりともしなかった。
「おい! この僕が命令してんだぞ! なに抵抗してんだよ!」山崎は怒っていた。
 その様子を眺めているうちに、何かがこみ上げてきた。体の奥底から溢《あふ》れだしてくる、それは得体の知れない感触だった。
 俺は腕を組んで、その感触について深く考えてみた。
「…………」
 永遠とも思える長さの時間が流れすぎた後に、俺は気づいた。
「わかったぞ。これは──」
 吐き気だ! 猛烈な吐き気に襲われていた。俺はトイレに駆け込もうとした。しかし──あぁ、やはりトイレヘの道のりは険しかった。足が前に進まない。アパートの廊下も、いまや五百メートルほどに延長している。トイレは遥か遠方だ。
 間に合うのか? 吐瀉《としゃ》物をまき散らす前に、俺はトイレにたどり着けるのか?
 ……大丈夫だ。落ち着け俺。
 先ほど山崎は言った。『僕が神です』と。
 しかし、俺は知っている。彼の言葉が、まったくの誤りであると知っている。
 なぜならば──この俺こそが神だからだ。ついさきほど、まったくの論理的思考によって、その事実が確認された。
 だから間に合うぞ。俺は神なのだ。だからトイレに間に合うぞ。間に合った。
 俺は便器に突っ伏して、げぇげぇ吐いた。すっきりした。そしたら元気になってきた。楽しくなってきた。
 よたよたとスキップして部屋に戻ると、山崎がヒンズースクワットしていた。
「ヤバイっすよ。小学生はヤバイっすよ」
 そんなことをぶつぶつと呟《つぶや》きながら、ニヤニヤ笑ってスクワットしている。何か犯罪的なことを考えているらしい。
 俺はその様子に、なぜか激しい既視感を感じた。
「前にもこうゆうことがあったような──」
 そのように考えてみると、いきなり怒涛《どとう》のデジャヴ十連発が襲ってきた。見るもの全てが、過去の出来事のようだった。
 そこで俺は、その感覚について、山崎と討論してみた。しかし次第に、なにがなんだかわからなくなってきた。
「あれ、この話、前にも話したっけ?」
「何を言ってんですか佐藤さん。ぜんぜん意味がわから──」
「ちょっと待って、ゆっくり考えてみるから」
 俺は床に俯《うつぶ》せになって、一生懸命考えてみた。
 そうしたら、思い出すことができた。
 俺は遥か数千年前の古代から、時空転生してこの世界にやって来た戦士なのだった。もちろん山崎には、その事実を秘密にしておくことにした。重大な機密だからだ。
 しばらくすると、山崎が言った。
「息した方がいいですよ。死んでますよ」
 俺は息をした。生き返った。山崎に深く感謝した。世界は愛によって包まれていると思った。
 ありがとうありがとうと頭を下げた。
「…………」
 しかし、俺が生き返ったのと入れ替わりに、今度は山崎が苦しそうな素振りを見せ始めた。喉元《のどもと》を押さえ、床の上をゴロゴロ転がって、七転八倒していた。「どうした?」と訊くも、彼は声にならないうめき声を発するだけで、何も言わずに悶《もだ》えていた。
 そうして彼は、ふいにノートとボールペンを持ちだして、俺に指し示した。
 震える手で、何かを書き記している。
 俺はその文字を、長い時間をかけて解読した。

  わすれた 声の 出す  方法

 山崎は喉を押さえて悲しそうな顔をしていた。俺は彼の背中を思いっきり叩いた。彼は「痛い」と言った。俺は親指を立てた。山崎はニッコリ笑った。
 さて、そろそろ屋外に繰り出すことにした。
 すでに深夜なので、警察に通報される恐れはない。
 近所の公園に赴く。
 山崎は、ロボットみたいな歩き方をしていた。もしかしたら、本当にロボットなのかもしれない。しかし、そのような事を考える俺は、だけど果たして本当に人間なんだろうか? ちょっと不思議に思った。そこで、公園の街灯に頭をがんがんぶつけてみた。
 大変だった。痛くない。痛くない。全然痛くない。
「……ロボットだった」
 こうしてまたひとつ、新たな真理を悟った。
 ……まぁ、それはそれとして。
 夜の公園は、とにもかくにも素敵だった。
 街灯だけが唯一の光源なのに、公園内は長時間露光で撮影された写真のように、淡く輝き、きらめいていた。生命力に満ちあふれていた。すべてが生きているのだった。古びたベンチの緩やかな震え。どっしりとした街路樹の確かな息づかい。その枝と葉の伸びやかなくねり。みんながみんな、生きていた。
 その光景に感動していると、山崎が言った。
「音楽が聞こえてきますね」
 俺も気づいた。公園のどこかから、得も言われぬ美しい音楽が流れ出している。
 俺たちは、その音楽の発生源を探索した。
 草の根をかき分け、ベンチの下に頭を突っ込み、ずいぶんと長い間うろうろと公園を歩き回り──そうして我々は、一台のスピーカーを発見した。一番大きな街路樹の、その根っこ。そこにスピーカーが埋め込まれていた。
 しかし、不思議な話だった。よく仕組みがわからない。
 俺と山崎は相談した。
 その結果、どうやらそのスピーカーは、ホワイトホールらしいと結論づけることが出来た。
 だから俺たちは、そのホワイトホールの周りを、ぐるりと一周してみた。
 すると、綺麗《きれい》な湖に出た。
 山崎はおもむろに衣服を脱ぎ捨てると、頭から湖に飛び込んだ。しかし──
「わあ。砂場でした」
 湖は、実はただの砂場だったらしい。だけど、俺にはどうも、湖に見えた。
 彼の言うことは、あんまり信用できないなと思った。
 ……まぁ、それはそれとして。
 それにしても、どうもさきほどから、時間がとぎれとぎれだった。
 昔に戻ったり、未来に進んだりした。
 俺は考えた。
 ──今は一体、いつなんだろう?
「おーい山崎君。今日って何曜日?」
「…………」
 返事はなかった。
 どうやら彼は、もう家に帰ってしまったらしい。
 悲しくなってきた。
 なので俺は、土曜の夜に爆弾を爆発させた、公園の茂みの中に潜り込んでみた。
 そこには三日前の山崎と、三日前の俺がいた。
 山崎はパイプ爆弾の周りをコンクリートブロックで包み、時限装置をセットしていた。
「さぁ、あと三分で爆発です。離れてください」
 俺と俺と山崎は退避した。
「革命家になりたかったなぁ、しかしそれは叶《かな》わなかった。戦士になりたかったなぁ、しかしそれは叶わなかった。オヤジが死にそうだ。ならば僕は帰るしかない。だれが悪いんでしょうかね? 悪いやつが、どこかにいると思うんですよ。そいつをこの爆弾で、ハリウッド映画並みに爆発させてやりたかったんですよ。だけど、ねぇ?」
 背中しか見えないので、そのときの山崎がどんな顔をしていたのか、確かめようがない。だけど俺にはわかっていた。
「あれ? もう三分たったのに、爆発しない」
 山崎は爆弾の方に歩いていった。
 コンクリートブロックを持ち上げようとしたところで、「パン」と音がした。
 山崎はこてんとひっくり返った。
 俺にはわかっていた。泣いているのだと、わかっていた。
「ぜんぜん、威力がないですよ。頑張って作った爆弾も、爆竹程度の威力です。こんなんじゃあ、ダメです。もう帰ります。それじゃあ、さようなら」
 そうして彼は田舎に帰った。
 部屋に戻ると、山崎が残していった等身大アニメ人形だけが、俺を待っていた。
 彼女は訊いた。
「寂しくないの?」
「寂しくないさ──」

 ──ぽかぽか明るい日曜日に、俺と彼女はデートしていた。
 まるで田舎の中学生並みに、健全なデートを繰り広げていた。
 電車に乗って、街に出た。都会だった。
 人混みが沢山で、俺たちははぐれそうになる。俺も彼女も、携帯電話を持っていないから、一度はぐれてしまったら、それでおしまい。このような大都会では、二度と再び会うことはない。
 ──気をつけなければ。
 なのに岬ちゃんはふらふらしていた。俺もだいぶんよたついていた。
「どこに行く?」
「どっか」
「お昼ご飯は?」
「さっき一緒に食べたでしょ」
「なら映画とか」
「うん」
 映画を観た。素敵なハリウッドアクションだった。人間が爆弾で吹っ飛んでいた。彼はぐるぐると両手を振り回して、高々と宙を舞った。そして死んだ。俺は憧《あこが》れた。
「面白かったね、パンフレット買おうかな」
 しかし岬ちゃんは、結局パンフレットを買いはしなかった。千円という定価に打ちのめされているようだった。
「なんであんなに高いのさ!」
「普通、あんなもんだろ」
「へえ、そうなんだ」
 知らなかったらしい。
 そうして、映画館を出た俺たちは、またもやすっかり途方に暮れた。
「どこに行く?」
「どっか」
「お昼ご飯は?」
「……さっき、食べたでしょ」
 俺たちは歩いた。ふらふらふらと歩いていた。
 行くあてがない。どうしたものやら、わからない。それは岬ちゃんも同様で、俺たち二人は困っていた。
 結局最後にたどり着いたのは、むやみに大きな都会の公園だった。やはり人が沢山いて、真ん中には大きな噴水があって、鳩もいた。
 ベンチに座って、ぼんやりした。
 夕暮れまで、適当な会話を交わしながら、座っていた。
 会話のネタが切れて、落ち着かない沈黙だけが続くようになると、岬ちゃんは鞄から秘密ノートを取りだした。
「夢に向かって歩いていこう!」
「もういいよ。……どうにもならない」
「そうゆう悲観的なこと言わない」
「嘘の言葉を信じてみても、結局、やっぱり、どうしようもない」
「あたしは、結構、まともになったよ」
「どこが?」
「……やっぱり、まともに見えなかった?」
「変だよ。ずっと変だった。初めて見たときから、かなりヤバかった」
「……そう」
 そうして俺たちは押し黙った。
 目の前を、鳩が歩いていた。岬ちゃんは鳩を捕まえようとした。当然の事ながら、鳩は逃げた。
 何度かその試みを繰り返し、その全てに失敗すると、顔を正面の噴水に向けたまま、岬ちゃんは言った。
「……だけどさ佐藤君」
「ん?」
「あたしと佐藤君、どっちがダメ人間か.っていったら、それはきっと、佐藤君の方がダメでしょう?」
 俺はまったく同意した。
「だからだよ。だから佐藤君は、あたしのプロジェクトに抜擢《ばってき》されたんだよ」
 ようやく彼女は、すべての核心を話してくれる気になったらしかった。
 だけども、もはや、何事も、どうにも変化はしないだろう。それが俺の確信だった。なのに岬ちゃんは笑顔だった。見る者をどことなく不安にさせる、だいぶ嘘臭い笑顔を浮かべていた。唇だけをわずかに吊《つ》り上げた、心許《こころもと》ない作り笑いだった。
「まず前提として、あたしみたいな人間を、好きになってくれる人なんか、いるわけないのです」
「……そうなの?」
「生まれたときからそうだったよ。お父さんにもお母さんにも嫌われるぐらいだもん、他の人ならなおさらだよ」
「…………」
「オジサンオバサンに引き取られたけども、やっぱり迷惑、かけてるだけだよ。二人とも、どんどん仲が悪くなってくし、もうすぐ離婚するとか言い出すし。それも全部が、あたしのせいなのです。本当にごめんなさいって思うよ」
「……きっとそれ、考えすぎだよ」
「違うよ。たぶんあたしは、生まれながらにダメ人間で、普通の人なら相手にしない。みんながあたしを嫌いになるよ。みんながあたしのせいで、嫌な気分になるんだよ。その事実はもう、確かな実績で証明されてるんだから」
 岬ちゃんは袖をまくった。
「ほら」
 腕を差しだし、俺に見せつけた。真っ白な肌に、痛々しい火傷《やけど》の痕《きず》が、いくつもいくつも残っていた。
「二人目のお父さんだよ。もう顔も覚えてないけどさ。いつもお酒を飲んでたよ。お酒を飲むと機嫌が良くなるけど、機嫌が良くても、あたしはいっつも怒られてたよ。タバコで、じゅっ、と」
 笑顔でニッコリ、そんなことを言うのだ。
「学校にも怖くて行けなかった。そりゃそうだよ。他のみんなと、お喋《しゃべ》りとか、できるわけがないよ。おっかないもん。普通の人なら絶対に、あたしなんかは嫌いになるから」
「宗教の人たちとかは?」
「あの人たちも、立派な人だよ。みんな普通に頑張ってる。相手にしては、もらえません」
「…………」
「だけどねぇ、やっとのことで、あたしよりもダメそうな人を見つけたんだよ。凄《すご》いダメ人間。そこら辺には見あたらない、強力なダメ人間。人の目を見て話せない、人が怖くて仕方がない、社会の最底辺で生きている、あたしでも見下せる人間」
「誰それ?」
「佐藤君」予想通りの言葉だった。
 そうして岬ちゃんは、背中の鞄《かばん》から一冊の紙切れを取り出し、俺に差し出した。それは二枚目の契約書だった。
 ……どうするべきか、わからなくなってきた。
 もう少しで日が暮れる。公園を歩く人影も、めっきりその数を減らした。
 岬ちゃんは、俺にサインペンと朱肉を手渡した。
「拇印《ぼいん》で良いよ」と言った。
「佐藤君なら、あたしを好きになってくれるよね」と言った。
「だってさ、あたしよりもダメ人間だもん。……こうやって長い間、頑張って計略を推し進めてきたんだから、もう、あたしのとりこでしょ?」
「…………」
「優しくしてよ。あたしも優しくするからさ」
「……やっぱり、ダメだよ」
「どうしてさ」
「ムダだよ。おんなじだ。余計に辛《つら》くなるだけだ。それに第一|虚《むな》しすぎる」
 俺は立ち上がり、契約書とサインペンと朱肉を突き返した。
 元気良く言ってやった。
「岬ちゃんは大丈夫だ! ぜんぶひとときの気の迷いだ! 乾布摩擦をして、心身を鍛えなさい! そうしたならば、馬鹿な考えはなくなるぜ! 君みたいな可愛い女の子なら、素敵な人生をゲットだぜ! 下を見るな! 上を見ろ! 大丈夫だー」
 そうして俺は、早足で逃げた。
 契約書の文面が、脳裏をぐるぐる渦巻いていた。

  ダメで寂しい人間の、相互扶助に関する契約書

   佐藤達広を甲とし、中原岬を乙として、両者の間に次のとおり契約する。

  1.甲は乙を、嫌いにならない。
  2.つまり、甲は乙を好きになる。
  3.ずっと心変わりをしない。
  4.いつまでも心を変えない。
  5.寂しいときは、いつも側にいてくれる。
  6.といっても、乙が寂しいのはいつものことなので、つまり、甲はいつでも側にいる。
  7.そうすれば、たぶん、人生が良い方向に行くと思う。
  8.苦しいことが、なくなると思う。
  9.約束を破ったら、罰金一千万円。

 岬ちゃんが訊いた。
「ねえ! 寂しくないの?」
 俺は振り返り、大声で答えた。
「寂しくないさ」
「あたしは寂しいよ!」
「俺は寂しくない」
「嘘」
「嘘じゃない。俺は世界最強のひきこもりだ。ひとりでも生きていける。苦しいことなんか、何もない。だから岬ちゃんも、人に頼るのはやめなさい。結局みんな、ひとりなんだ。ひとりでいるのが一番いいんだ。だってそうだろう? 最後は絶対、ひとりになる。ひとりでいるのが自然なことだ。そうしていれは、嫌な事なんてなんにもない。だからひきこもるんだ。六畳一間のアパートに──」
「寂しくないの?」
「寂しくない」
「寂しくないの?」
「寂しくない」
「……嘘をつけ」
 誰かが言った。
 それは底冷えのする、低く濁った声だった。
 俺は背後を振り返った。
 そこにいたのは俺だった。
 六畳一間の部屋の隅。真っ暗闇に溶け込んだ、体育座りの俺がいた。
 時刻は夜。何も見えない何も聞こえない、どうしようもない、夜。
 家具のない、何もない、夏なのに冷え切っている、寒気のする、暗黒の、最悪の、閉鎖しきった六畳一間で、頭を抱えて震えている。
 俺は言う。
「寂しいんだ」
「寂しくはない」
「嘘をつけ」
「嘘じゃない」
「寂しいなぁ」
「寂しいさ!」
 ぶるぶるぶるぶると震えている俺は、ガチガチガチガチ歯を鳴らしていた。部屋の真ん中に立った俺は、その様子を見つめていた。頭が狂ったのかと思った。しかし狂ってはいなかった。
 ただひとつだけわかることがある。
 俺はひとりだった。どうしようもなく孤独だった。この状態は、イヤだった。 寂しいのはイヤだった。
「だがしかし!」
 俺は叫んだ。
「だがしかし! だからこそだ!」
 俺は叫んでいた。
「寂しいのは当たり前だ! 寂しいのが嫌なのも当たり前だ! だからこそ俺は閉じこもる。ひきこもる。長い目で見れば、これが一番の解決方法だって、わかるだろう? なぁわかるだろう?」
 答えはない。
「わかるか?俺の言うことをしっかり聞くんだ。そうすればわかる。誰にだって、手に取るようにわかる。──つまりだ。つまり俺たちは、寂しいからひきこもってるんだ。これ以上、寂しい思いをしたくはないから、ひきこもってるんだ。なぁ、わかるだろう?これが答えなんだ!」
 答えは、ない。
「わかるか? 俺の言うことをしっかり聞くんだ。そうすればわかる。誰にだって、手に取るようにわかる。──つまりだ。つまり俺たちは、寂しいからひきこもってるんだ。これ以上、寂しい思いをしたくはないから、ひきこもってるんだ。なぁ、わかるだろう? これが答えなんだ!」
 答えは、ない。
「俺は誰よりも欲張りなんだ。中途半端な幸せは欲しくないんだ。ほどほどの温もりなんて、いらないんだ。いつまでも続く幸福が欲しいんだ。しかし、それは無理だ! なぜかは知らないが、この世の中、かならずどこかで邪魔が入る。大切なモノは、速攻で壊れる。-二十二年も生きてるんだぜ。そのぐらいのことは知ってるさ。どんなものでも壊れるのさ。だから最初から、なんにもいらない方がいい」
 そうなのだ。岬ちゃんは、この真理を知っておくべきだったのだ。そうすれば、俺なんかに救いを求めるなどといったバカげた計画を始めたりはしなかったはずだった。しかし彼女は途方もないバカだった。途方もなく巨大な絶望を抱えていた。俺というクズ人間に救いを求めざるを得なかった、その寂しさに、傑然《りつぜん》とした。
 俺は彼女の身に降りかかった不幸を呪った。子は親を選べないという不合理を呪った。彼女のような朗らかさんには、健やかに逞《たくま》しく生きていって欲しかった。
 だから君は、どこかでしっかり、頑張ってくれ。
 俺はいいんだ。一人がいいんだ。
 ひとりでいるのが一番なんだ。
 ひとりで生きて、ひとりで死ぬ。
 だけども、それでも、希望はある。
 ──希望はあるのさ。
 ほら、すぐそこに、淡く優しく輝いている。
 それは涙の出る、懐かしくて、切ない、本当のふるさと。
 どこまでも続く秋の平原。遥か昔の遠い思い出。けらけらと笑う少女たちの、ほんのつかのまの永遠の視線。単にひかれた黒猫の安らぎ。
 もう、大丈夫だ。
 もう、辛いことも苦しいことも、どこにもない。
「そう。だからもう、あなたは──」
 少女が言った。
 山崎の置き土産、等身大アニメ人形が俺を見つめていた。
 彼女は天使だった。
 彼女は見事に動き出し、俺をいざなった。
 そうして俺は、彼女と一緒に、どこか遠い別の惑星へと旅だった。
 その星は、美しかった。
 空は青空。白い雲。
 涼やかな風が吹いていた。目の前には春の草原が広がっていた。
 その草原の真ん中に、俺と少女の二人がいる。
 少女は一輪の真っ白な花をつみ取ると、俺の目の前にかざした。
 細い指先で花びらをつまみ──それを引き抜く。
「生」
 そしてもう一枚、花びらを抜く。
「死」
 花占いなのだ。
「生?死?生?死?生?死?生?死──」
 最後の花びらがひらひらと地面に落ちて──
 少女は優しく微笑んだ。
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    十章 ダイヴ

      1

 夏が終わった。生活費が底をついた。
 食費もないので、寝て我慢することにした。五時間起きて、十五時間寝る。そのようなスケジュールで暮らしてみた。
 最初の三日間は、何も食わなくても別にどうってことはなかった。ちょっと胃がきりきりと痛むぐらいだった。
 しかし四日目にもなると、食べ物のことしか考えられなくなった。
 ラーメンが食いたい。カレーライスも食べたい。意志とは関係なく、体が切実にカロリーを求めていた。その欲求に抗《あらが》うことは不可能らしかった。
 そこで絶食五日目に、俺はとうとう外出した。
 手元に残っていた数百円で、菓子パンとアルバイト情報誌を購入し、その日のうちから労働を始めることにした。
 日雇いの、肉体労働だ。
 イベント会場への物資搬入やら、引っ越しの手伝いやら──意外に仕事は上手にこなせた。
 たまにミスをして偉い人に殴られることもあったが、しかしそれでも肉体労働は爽《さわ》やかだった。
 体を酷使すればするはど頭の中は空っぽになった。数年ぶりに、すっきり眠れた。
 カードの借金があったので、最初の一カ月間は連日連夜働いた。複数の派遣会社に登録し、毎日仕事を入れた。
 ある程度生活に余裕ができると、今度ほ一気に仕事を減らした。一カ月の半分だけ働いて、残りの半月をひきこもって暮らすことにした。月収が十万ほどもあれば、結構快適な生活ができるものだった。
 できる限り夜勤の仕事を選んで働いた。深夜の交通整理などが最高だった。警備員として登録してもらうには四日間の法定研修を受ける必要があったが、それさえ乗り切ってしまえば、これほどに楽な仕事、他にはない。
 深夜、人里はなれた工事現場で、真っ赤に輝く誘導棒をゆらゆらと振る。聞こえるものは、背後で鳴り響く工事機械の駆動音だけ。そして警備員は俺一人。たまに車が通りがかれば、適当に誘導棒を振って「危ないよ、徐行だよ」
 仕事中に他人と会話を交わす必要も、ほとんどない。アパートでひきこもっているのと大差ない。何かを考える必要もない。条件反射的にぶらぶらぶらと誘導棒を振るだけだ。
 夜風はだいぶ凍えるが、これで日給一万円(交通費込み)。
 働いて、ひきこもって、生活費を稼いで、そしてひきこもる。
 そんな生活を続けていた。
 驚くほどのスピードで、月日は巡り、巡っていった。
 そうするうちに、冬がやってきた。
 ひきこもり五年目の冬だった。
 今年の冬は、ひたすら冷えた。なぜかというと、コタツをリサイクルショップに売り払っていたからだ。
 毛布を頭まで被っても、それでも寒い。ガタガタ震えてしまう。
 そこで俺は、引っ越しの際に山崎が残していったノートパソコンを、カイロ代わりに使ってみることにした。
『無印ペンティアム六十六メガヘルツのノートです。荷物になるから捨てようと思ってたけど、せっかくだから佐藤さんにプレゼントしますよ』
 そんなことを言って山崎が置いていった旧式のノートパソコンを、腹の上に設置して、おもむろに電源を入れる。耳障りな駆動音と共に、アニメ絵の壁紙が液晶ディスプレイに表示された。
 旧式の機械なので発熱が凄い。すぐにぽかぽか温かくなってきた。ついでに眠くなってきた。
 だがそのとき、ノートパソコンのデスクトップに、ひとつの見慣れないアイコンが表示されていることに気がついた。
「…………」
 どうやらそれは、山崎が作りあげたエロゲーの実行ファイルらしかった。俺はそのファイルにカーソルを合わせ、リターンキーを押した。
 ハードディスクがガリガリとうなり始めた。
 長い読み込みの末に、ゲームが始まった。
 数時間ぶっ続けでプレイしてみた。するとわかった。これはどうしようもないクソゲーだと。
 ジャンルはRPG。初代ドラクエの規模を百分の一ほどに縮小した感じの、あまりにチープなRPGだ。もはやエロゲーでもなんでもない。ストーリーも限りなくくだらない。
 物語を簡単に要約すれば『悪の巨大組織に立ち向かう戦士たちの、愛と青春の旅立ち』といった感じの話になる。平凡な若者が悪と戦う戦士になって、ヒロインを守る──そのような願望充足的シナリオが、プレイヤーを置き去りにして延々と続く。
 俺は呆《あき》れた。
 まったく、こんなアホらしいシナリオを考えたヤツは誰だ?
「…………」
 俺だった。
 ストーリー原案を書いたのは、俺自身だった。
 悲しくなった。せつなくなった。このゲームのシナリオの意味が、手に取るように分かったからだ。
『悪と立ち向かう戦士』
 それはまったく、俺たちの願望そのものだった。
 悪い組織と戦いたい。悪者と戦いたい。もしも戦争などが勃発《ぼっぱつ》したならば、俺たちは速攻で自衛隊などに入り、神風特攻していただろう。きっとそれは、意味のある生き様で、格好いい死に様である。もしもこの世に悪者がいてくれたのならば、俺たちは戦った。拳《こぶし》を振り上げて戦った。
 そうに違いない。
 しかし悪者はどこにもいない。世の中はいろいろと複雑で、目に見えるような悪者など、存在しない。それが辛く、そして苦しい。
 なればこそのゲームであった。せめてゲームの中だけも、素晴らしい物語を、シンプルで美しい物語を──
 巨大な敵と戦う主人公は、ヒロインに向かって叫ぶのだ。
『君の命はオレが守る!』
 そうして彼は自らの命を顧みず、巨大な敵へと立ち向かっていく。
 最後の戦いが始まった。
 もうすぐエンディングだ。
 戦闘コマンドは「攻撃」「防御」「特攻」の三つ。しかしラスボスには、いくら攻撃してもダメージはゼロだ。当然、防御してみたところで、どうにもならない。
 ならば特攻、それしかない。己の命を犠牲にして敵に大ダメージを与える、人生最後の必殺技である。ラスボスを倒すには、それしかないのだ。だからこそゲームの主人公は、右手に「革命爆弾」を持って、ラスボスに特攻していくのだ。
 だが──最後の最後、主人公がラスボスに特攻を仕掛けたその瞬間。いきなりゲームはフリーズした。
 ゲームのウィンドウが閉じ、かわりにテキストエディタが起動。そのエディタには、言い訳がましい山崎の置き手紙が表示されていた。
『悪の巨大組織を倒す方法、それは確かに特攻しかない。自ら死を選んでこそ、勝利を勝ち取れる。なぜならば、悪の巨大組織は、僕たちの世界そのものなのだから。死を選んだ瞬間に、僕たちの世界は消えて無くなる。悪の組織も消えて無くなる。そして平穏が訪れる。──ですがね。それでも僕は、爆弾で自分の頭を吹っ飛ばしませんでしたよ。それが僕の選択です。……いや、決して、エンディングのCGを描くのがめんどくさかったとか、もういい加減、くだらないゲームを作るのに飽きたとか、そーゆーことじゃなくて──』
「…………」
 俺はノートパソコンを叩《たた》き壊そうとした。
 しかしなんとか思いとどまる。
 ゲーム製作に励む山崎の必死な姿を見ているだけに、このゲームのチープさが、だいぶずっしりと胃に応《こた》えていた。
 ──まったく、あいつは今頃どうしてるんだろう?
 ふとそんなことが気になったりもしたが、すぐに忘れることにした。あれから一度も音沙汰《おとさた》がない。俺も連絡を取ろうとは思わない。
 あの頃のバカみたいな日々は、とっくの昔に終わっているのだ。

   *

 そうして今年も、クリスマスがやってきた。
 街はピカピカ光っていた。俺の右手に握られている誘導棒も、闇夜に赤く、輝いていた。
 今夜の仕事は、駅前に新しくオープンしたデパートの、駐車場の交通整理だ。
 入り口には完全自動の駐車場マシーンが設置されているので、俺の仕事は暇だった。車が混んできたら機械の補助役を務めてみたりもするが、結局のところ、毎度同じくぷらぷらと誘導棒を振り回すだけのことだった。
 事故もなく、何事もなく、きわめて安全にクリスマスの夜は更けていく。
 どこか遠くの方で、クリスマスソングが奏でられているようだった。
「…‥‥‥…」
 閉店になる一時間はど前に、一台の車がやってきた。
 車自体は、どこにでもある普通の国産車だった。なにも特筆すべきことはない。
 だが、助手席に乗っている女の顔を、俺は知っていた。
 車内ランプを点けていたので、よく見えた。
 俺は何となく、制帽を目深くかぶりなおしてみた。もちろん、その車はなんの滞りもなく俺の目の前を通過していったので、わざわざそんなことをする必要はなかった。
 助手席に座る先輩が、一瞬こちらを振り向いたような気がした。
 当然それも、錯覚だった。
「…………」
 勤務時間が終わった。
 俺は制服を着替え、誘導棒とヘルメットを鞄に詰めると、終電間際の電車に揺られてアパートに帰った。
 途中、コンビニにより、洒などを購入してみた。
 クリスマスだから、浮かれてみようと思ったのだ。
 アパートへと続く坂道を歩きながらビールを飲んだ。
 酒を飲むのは久しぶりだったので、あっという間に酔った。
 いくぶんふらついた足取りで、長い坂道をゆっくり歩いた。向こうの方から、救急車のサイレンが響いてきた。俺は二本目のビールを空けた。メリークリスマスだった。
 公園の前を横切る頃には、すっかり千鳥足