> と、そんなことを考えているうちに、あっという間に三分が経過した。 カップラーメンの完成だ。 いただきます。 だが── そのときだった。 いままさに割り箸《ばし》をカップに突っ込もうとしている俺を、「ピンポンピンポン」と激しく鳴り響く呼び鈴が妨害した。 ──何者か? もちろん俺は慌てなかった。俺の朝食を邪魔する唐突な訪問者、それはおそらく電気料金の集金人だろう。ライフラインを止められては困るので、俺はおとなしく割り箸を置き、パジャマ姿のまま玄関へと向かった。 ドアを開け放ち、早口で言う。 「あぁ電気、電気ね。払いますよ。えぇ今すぐに──」 だが、俺の言葉はそこで途切れた。来訪者の顔に貼り付いている微妙な笑みと、彼女の全身から立ち上っている微妙なオーラから、このオバサンが電気料金集金人などではありえないと、素早く気づいたからだ。 「お忙しいところ申し訳ありません」 来訪者は、言った。 朝日に照らされたオバサンは、笑顔だった。 「わたしども、このような冊子をお配りしているのですが──」 オバサンは、二冊の小冊子を俺に手渡した。 その表紙には、こう書かれていた。
目を覚ませよ! どるあーがの塔
春の微風《そよかぜ》が、開け放たれたドアから爽《さわ》やかに吹き込んでいた。 ぽかぽか陽気で、穏やかな、四月の午前のことだった。 [#改ページ] 2
三田ハウスの201号室。その外と内とを隔てるドアは、いまや完全に開放されていた。 布教に励むオバサンと、俺。その二者を隔てるものは、もはやなにひとつとして残されていなかった。 ──と、そこで俺は気づいた。 底の知れない宗教的笑みを湛《たた》えたオバサンの、その右斜め後方。そこにもう一人の女性が立っていることに気づいた。 二人がかりで俺を勧誘するつもりなのか。戦力比は一対二か。卑怯じゃないか! だが──俺はさらに気づく。もう一人の宗教勧誘員、彼女の若さに俺は気づく。 四月の午前という優しい日差しの今時分に、なぜか彼女は真っ白な日傘を目深く差していた。 その日傘に隠れて顔は見えないが、しかし、若い。オバサンとは違い、彼女はずいぶんと若い。俺よりも年下であろうことは確かだ。 日傘を差して、淡い色の地味な長袖ワンピースに身を包んだ彼女は、いかにも宗教らしい清楚《せいそ》たたずな雰囲気を漂わせていた。オバサンの後方を守るかのように、すらりと無言でそこに佇《たたず》んでいるのだった。 「…………」 思わず目頭が熱くなってきた。 このような十七、八(推定)の年端もいかぬ娘が、新興宗教などという阿呆《あほう》な団体に弄《もてあそ》ばれている。それを思うと、彼女に対する同情の念を禁じ得ない。 あぁ、まったく、なんてことだ。 まだまだ遊びたい盛りだろうに。オシャレをして、渋谷《しぶや》などを歩いて、不純異性交遊に励みたい年頃だろうに。しかし、宗教と言えば厳しい戒律だ。汝《なんじ》、姦淫《かんいん》を犯してはならない。だから彼女は苦しんでいる。苦しんで苦しんで苦しんでいる。 夜ごと火照る体を持てあます彼女。──だけど神様があたしを見ている。だからダメよこんな事をしちゃあ。だけど、でも、どうしても高ぶる気持ちを抑えきれない。……あぁ、なんてあたしはイヤらしい娘なのかしら。神様が見てるっていうのに。懺悔《ざんげ》します神様! などなどといった、性欲と戒律のダブルバインドに、いつも彼女は苦しんでいるに違いない。このまえ読んだフランス書院文庫に、そのようなことが書かれていたので、俺の推理に間違いない。 ──と、するとだ。 俺はふとひらめいた。 と、すると、そのような観点から考えてみた場合、宗教というのも、意外にそれほど悪い存在ではないのかもしれない。むしろ素晴らしいと言っても過言ではないのかもしれない。 ……あぁ、そうだぜ。 実に卑猥《ひわい》じゃないか。よくよく考えてみれば、それはまさしく最高じゃないか。 たとえば脳裏に浮かぶイメージ。──それは年長の厳しいシスターに折檻《せっかん》される少女。そして巻きおこる魔女裁判。ついには激しい拷問が。そこは石畳の地下室。拷問係が「お前が魔女かどうか確かめてやる」と言って三角木馬を用意し! な、なんと鞭《むち》を! バシッ! バシッ! バシッ! これでもか! これでもか! これでもか! ひいっ! 堪忍を! お慈悲を! もう許して! しかし彼女の哀願は聞き入れられることなく、いつ終わるとも知れぬ陵辱の宴は、どこまでもどこまでも制限無くエスカレートしていくことなのであったのであった! ファンタスティック! サティスファクション! スタンディングオベーショ── 「──あのう」 気がつくと、目の前に立ったオバサンが、俺を不安げに見つめていた。 「大丈夫ですか?」 「…………」 宗教少女に対するあまりに強い感情移入によって、どうやら俺は、しばし傍目《はため》にもおかしく見えるほど放心していたらしい。 なんてことだ。 急いで毅然《きぜん》とした態度を立て直そうと試みる。 「……えへ、えへん」 軽く咳払《せきばら》い。 そして、ごくごく普通の若者らしい、目の焦点があらぬ方向にふらふらと漂っていたりはしない、できる限りの理知的な眼差しでオバサンを見る。 ……そう、俺は確かに動揺していた。それは認めよう。 しかし、すでに気を取り直してしまった今の俺には、もはや付け入る隙など一寸たりとも残されていない。 そもそも、俺がこれほどまでに慌てふためく必要など、最初からどこにもありはしなかったのだ。「あ、結構です」と一言答えて二冊の冊子を突き返せば、それで済むことなのだ。ただ、あまりにも長いひきこもり生活によって、他人との交渉スキルが限界値ギリギリまで低下していたから、だから俺はこれはどまでに動揺してしまった、ただそれだけのことにすぎないのだ。 だから落ち着け。落ち着け俺。 そして言うのだ。 ただ一言、『あ、結構です』と言え。 ──あぁ、わかっている。もうすぐ俺は言う。 俺は今こそ、ひとこと言う。 それはおそらく、あまりにも久しぶりに発せられる他人への言葉であろうから、たぶんかなりのうわずり具合だろう。俺の口から発せられる言葉は、おそらくだいぶん、うわずっていることだろう。もしかしたらドモってしまったりするかもしれない。しかし、それが何だと言うんだ? どうせこのオバサンとは、そしてこの娘とは、このさき二度と会う機会など無い。だからどう思われてもそれはそれでいい。『変な人』『気持ち悪い』と思われても、どうってことない。だから言うぜ。俺はサッパリ勧誘を断るぜ! 『あ、結構です』と言うのだ! 『あ、結構です』と言うぜ! 「あ、結──」 しかし、そのときだった。 俺の視線は偶然にも、右手に持った『目を覚ませよ!』の表紙に注がれてしまった。『目を覚ませよ!』の表紙。そこには黒いゴシック体で、こう書かれていた。
若者を襲うひきこもり。あなたは大丈夫ですか?
俺の視線に気づいたオバサンは、宗教的笑顔をさらに輝かせて、言った。 「これが今月の特集なんです。聖書的な見地から、ひきこもりについて考察しています。興味がおありですか?」 「…………」 俺を襲った恐怖、それを言葉で言い尽くすことなど到底不可能だった。 ──見透かされているのか? もしやこのオバサンは、俺の正体がひきこもりであると、すでに知っていたのか? だからわざわざ、このような冊子を俺に手渡したのか? それはひどく恐ろしい予感だった。 見知らぬ他人に、ひきこもりのクズ人間であると知られてしまう──その想像は、どうにも耐え難い、恐怖、悪寒、わななき、そして混乱を、俺に激しくもたらした。 だが──まぁいい。落ち着け。 まずはともかく、ごまかすことだ。 素早く、さりげなく、ごまかしてしまえ。 「……ひきこもり? ほほほほは! まさかこの俺がひきこもりなワケないじゃないですかー」 バカか俺は! こんな事を言ったら、ますます余計にあやしいじゃないか。早く、もっと上手にごまかせ。いますぐごまかせ。言い逃れを。もっと。なんとか。頼むから── 「そそそそんなワケないですよねぇまったく! ええ。まさかこの俺が、もう一年近く他人と口をきいていないとか、ひきこもりが高じて大学中退したとか、無職だとか、将来に希望が見えないとか、もうダメだとか、絶望だとか、そんな話があるわけないじゃないですか!」 オバサンは一メートルばかりあとずさった。 そして俺の思考はさらにガリガリと空転し、とどまるところを知らなかった。誰か止めてくれ。 「ええ! オバサンはバカだなぁ。ええ、バカだなぁ。本当にバカだなぁ。失礼しちゃうなぁ。何が『若者を襲うひきこもり。あなたは大丈夫ですか?』ですか? お祈りしてひきこもりが治るぐらいなら、これだけ悩むわけがねぇだろうが! あんたらに何がわかる? 俺にもわかんねーのに、あんたらにわかるわけがねぇよなぁ!」 ……もういい。もういい俺。宗教オバサンはすっかり脅《おび》えている。今にも回れ右して警官隊を呼びに行きそうな勢いだ。 『あそこのアパートに頭のおかしい人間がいます。危険です!』 あぁ、確かに危険だ。かなり危険だ。自分でも驚きだ。なんといったこともない普通の宗教勧誘にここまで過剰に反応してしまう、自分のバカさに驚愕だ。もうダメだ。 だから俺は、もう死のう。宗教家の前でこれだけの大恥を晒《さら》してしまったこの俺は、もはや一刻も早く死ぬべきだ。だからいいからオバサンは、さっさととっとと帰ってくれ。その娘さんをつれてどっかに行ってくれ。あぁ、もうだめだ。俺はもうダメだダメだダメだ! ……そうだ、あした日本刀買ってこよう。そしてハラキリしよう。これ以上恥をさらすかわりに、内臓をさらして武士の証《あかし》を立てよう。そうだそうしよう。……だけど日本刀って、どこに売ってるんだろう。なぁオバサン、あんた知ってる? 知らないか。そりゃあそうだ。ああ、いいよ、別にそんなの知らなくたっていいから、いいからもう、とっとと帰ってくれよ。えぇ、ハイハイ、申し訳ありませんでした。俺はひきこもりですよ。トップクラスの高レベルひきこもりですよ。俺ほどにクズなひきこもり、他にはそうそういませんよ。無職ですよ。ゴミですよ。ヘボですよえええ! だけどあんたらに助けてもらおうとは思いません。いいから、さっさと帰ってください。ほら、これ、返すから。二冊の冊子を返すから、とっとと今すぐどっかに行けよ! 「──そそそ、それじゃ、お忙しいところ申し訳ありませんでした」 オバサンは慌てて俺から目をそらし、そそくさと回れ右をして背後の娘を促した。 「ほら行くよ岬、ひとまず会館に戻りましょうね──」 ああ帰れ帰れ。とっとと帰れ。岬ちゃんも早く消えろ! ……ん? なんだ岬ちゃん。なんだその顔は? オバサンはもう先に行っちゃったのに、どうしてわざわざ日傘を上げて、俺の顔をまじまじと見る? なんだ、何か文句あんのか? えぇ? なんだおい、なんだその顔は。なに見てんだコラ? なに笑ってんだこら。それは嘲笑か? 俺を笑ってんのかコラー?
*
事実、俺は見知らぬ宗教娘に、見事に嘲笑われてしまったようだった。 ほんの一瞬、彼女は日傘を上げて、俺の顔を正面から見たのだ。 にっこりと笑っていた。可愛い嘲笑だった。 俺はサッパリ死にたくなった。 新興宗教愛好娘などという頭のおかしい人間から笑われてしまったこと、思いっきり見下されてしまったこと、そしてなにより、彼女の笑顔が無駄に可愛かったこと。それらさまざまな要因によって……あぁもうダメだ、本気で死のう。 さらば。 さらば宗教のオバサン。 さらば日傘を差した岬ちゃん。 みなさんさようならさようなら。 俺はもう旅立ちます。 アパートのドアを閉め、鍵をかけ、部屋のカーテンも閉め切って、俺はこれから旅立ちます。 ベッドに腰を下ろして、息の根を止めます。 両手で口をぎゅっと塞《ふさ》ぎ、息を、止めます。 ……あぁ、苦しい。苦しい。 もうすぐ死ぬ。もう三十秒も息を止めた。もうすぐ死んでしまう。 しかし、なかなか臨終の時はやってこなかった。なぜならば、鼻から息が漏れていたからだ。 世の中、何事もままならないものである。 誰か、なんとかしてくれ。 [#改ページ] 三章 邂逅
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昨日|勃発《ぼっぱつ》した宗教オバサンとの対決によって、バイカル湖よりもマリアナ海溝よりも深く深刻に落ち込んだ俺は、しかしそれでも復活した。 数ヵ月ぶりに真っ昼間から外出して、賑《にぎ》やかな街へと繰り出したのだ。それはあまりに雄々しい行為で、全世界の喝采を浴びるに相応《ふさわ》しい、英雄的な振る舞いだった。自分で自分を褒めてやりたい。 だが……その目論見《もくろみ》は、すべてが虚しく失敗した。 あとに残されたものは「もうダメだー」という絶望だけ。 アパートに帰ってきた俺は、辛い記憶を消し去るために、部屋に籠もって酒を飲んだ。 コタツに座って「酒らあ。もっと酒持ってこいー」と叫んでみる。けれどもそれは、あくまで虚しい独り言に過ぎず、夕方の薄暗い六畳一間に、陰々滅々とわびしく響いた。 すでに教本、空になった缶ビールがコタツの上に転がっている。 隣室から響いてくる大音量のアニメソングにイラつきながら、それでもなおも、俺はむやみにアルコールを過剰摂取する。 目が回り、頭が激しくグルグルした。 もう少しだった。 もう少しですべてを忘れてしまえるだろう。
*
それは半日前のこと。 昨日の意気消沈から立ち直った俺は、一刻も早いひきこもり脱出を決意した。 そして思った。 「今日からバイトしよう」 ──そうなのだった。就職が無理なら、まずはバイトから始めればいいのだ。そうすれば俺の肩書きが、ひきこもりからフリーターに変更される。そのどちらの語感も、多分にダメ人間的雰囲気を漂わせてはいるが、ひきこもりに比べれば、フリーターの方がはるかに健康的である。だから今すぐバイトを探そう。 そこで俺はコンビニに向かい、バイト情報誌を購入した。 早足でアパートに戻り、真剣に熟読。 どれだ? 俺に相応しいバイトはどれだ? 力仕事は却下だった。疲れる仕事はやっぱりイヤだ。かといって、コンビニ店員なども願い下げだ。あのような激しい接客業など、俺につとまるワケがない。 そして──おお!
マンガ喫茶、時給七百円
間違いない。この仕事こそが、俺に最も相応しい。小さな街のマンガ喫茶などには、どうせそれほど客も来ないだろうし、暇なときにはレジでマンガを読んでいればいい。実にラクそうな仕事だ。最高だ。 ──というわけで、俺はさっそく履歴書を書き、意気揚々とアパートを出発した。 向かうは駅前だ。マックの裏に、目指すマンガ喫茶が存在する。 涼やかな四月の住宅街を、俺はてくてく、ぼちぼちと歩いた。 だが──数ヵ月ぶりに昼の街を歩く俺を、「奴ら」が妨害した。肩を丸めて歩道の隅を歩く俺を、奴らが、NHKの妨害工作員が、ニヤニヤと嘲笑していた。 それは激しい妨害工作だった。 『ねぇ見てよアレ。気持ち悪いねぇ』 『無職のひきこもりよ。最悪だね』 『アパートに帰った方が良いんじゃないの。この街は、君なんかが歩いちゃいけない所よ』 通りすがりの主婦が、女子高生が、オバサンが、すれ違うたびに小声でささやく。俺はすっかり青くなる。 ──あぁ、帰りたい。 あの薄暗くて居心地の良い六畳一間に帰りたい。あったかい布団に潜って、何も考えずに目を瞑《つぶ》りたい。しかし、ダメだ。それはダメだ。そんなことをしたら、ますます奴らをつけあがらせるだけだ。だから耐えろ。ここが勝負どころなんだ。頑張るんだ── 事実、俺にはある程度の予想がついていた。社会復帰に乗り出そうとする俺を、奴らが放っておいてくれるわけがないと、最初から知っていた。 だから俺は負けなかった。一歩歩くごとに高まる不安を無理に抑えつけつつ、かなりの早足で目的地を目指した。 そして──やっとのことで目指すマンガ喫茶に到着。駅の裏手にある、このこぢんまりとした佇まいのマンガ喫茶「ブレイクタイム」が、これからの俺の職場となる。明日から毎日、ここで働くのだ。 ひきこもり脱出は、すでに目前だった。 昼間の街を歩くだけで、これほどまでに気分が悪くなってしまうのも困りものだが、それもおそらく慣れの問題だろう。一度フリーターになってしまえば、他人の視線への過剰不安も、あっうという間に消え失せるはずだ。 だから……そう。ついに暗がきたのだ。 今こそ俺は、脱出してやる。普通人になってやる。もう宗教家などに馬鹿にされたりしない、ごくごく一般的なフリーターになってやる。 だから──だから俺は行くぜ。 勇気を出して、踏み込むぜ。 ドアを勢いよくからんからんと開き、軽やかに店内へと足を踏み入れて── レジで働く女の人に履歴書を差し出して、元気よく言うのだ。 『あのう、こちらでバイト募集してると聞いたんですが』と言ってやるのだ! そうして──俺は、言った。 しかし、その言葉は途中でとぎれた。 「…………」 灰皿、ポット、コーヒーメーカー等々が整然と陳列されているカウンターの中には、椅子に座ってマンガを読んでいる一人の女性店員がいた。 少女漫画を真剣な目つきでめくっている、彼女の横顔── なぜだか不思議に、見覚えがあった。 というか、昨日、会ったばかりだった。 彼女は、「あのう、こちらでバイ」と言ったきり、レジの手前で硬直している俺に気づくと、膝《ひざ》の上のマンガから顔を上げた。 目が合った。 「…………」 宗教勧誘娘、岬ちゃんだった。 昨日見た時とは違って、今日は極めて普通な格好をしていた。そこらの若者風なジーンズ姿だ。 そこに宗教の影は見えない。 だが──彼女の正体に気づいた瞬間、俺の心臓は通常の十倍速で脈打ち始めた。 さまざまな思考が脳裏を激しく駆けめぐる。 ──なぜ宗教家がマンガ喫茶などでバイトを? それは戒律違反じゃないのか? いやいや、そんなことはどうでもよくて、この娘、俺の顔を覚えているだろうか? 覚えられているとしたら、それはもう、身の破滅だ。バイト先に、俺の秘密を知っている人間などが存在していてはいけない。俺の秘密を知っている人間などと、一緒に働けるワケがない。ならば俺はどうするべきか? 逃げるんだ! その決断はごくごく当然の論理的帰結であって、とにかく逃げだせ! しかし宗教娘は、きびすを返そうとする俺を呼び止めた。つい数瞬前までの硬い表情を崩し、昨日と同じ、俺を見下す嘲笑をニコニコと浮かべ、小声で訊《き》いた。 「こちらで、バイ?」 そこには通常の客への対応と、明らかに大きな差異が見てとれるような気がした。間違いなくこの娘は、俺が昨日の、頭のおかしいひきこもり人間であると気がついている様子であった。 嫌な感じの冷や汗が首筋をつたう。逃げたい。一刻も早くここから立ち去りたい。 だが──それでも俺は、彼女の問いに答えなければならない。一度口に出してしまった言葉を、うまい具合にひっこめなけれはならない。 だからあくまでさりげなく、ごくごく自然に、とにかく何か言え!「バ、バイ──」 「…………?」 「バイクとか、好き?」 ……俺は一体、なにを考えているんだろう? 「俺は好きだなぁ。バイク。風になれるよね」 店の奥に座っている数人の客も、俺に注目し始めた。 「あのエンジンの鼓動がたまらないんだ。ところでどう? いつか一緒にツーリングでも」 ……あぁ、もうダメだ。 「つていうか、そもそもバイクなんて乗ったこともないけどな! ははははははー……………それじゃあね」 早足で店から逃げた。 帰り道、コンビニによってビールと焼酎《しょうちゅう》を買った。 死のう、もう死のう。 しかし俺は死なない。なぜならば、今日は天気がいいからだ。だから死ぬかわりに、死ぬほど酒を飲んで全部忘れよう。 忘れてしまおう。 酒だ。 酒を──
*
「酒らあ。もっと洒持ってこい!」と叫んでみるも、それはあくまで虚しい独り言に過ぎず、夕方の薄暗い六畳一間に、陰々滅々とわびしく響いた。泣きたくなった。 全部あの女のせいなのだった。あの女のおかげで、俺のひきこもり脱出大作戦は、惨めな失敗に終わってしまった。人を呪い殺すカが欲しい。 ……あのやろう、あのやろう、く、く、くそう。いまごろ奴らは、俺を嘲笑っているに違いない。俺は笑いものにされているに違いない。 『店長、今日、頭の変なひきこもりが店に来ましたよ』 『えっ、それは本当かい岬ちゃん』 『この店でバイトするつもりだったみたいですよ。ひきこもりのくせに、身の程をわきまえろって感じですよね』 『まったくだね。無職で中退で気持ちの悪いひきこもりなんかが、社会に出られるワケないのにね』 などなどといった感じで、奴らは俺を、面白おかしい話のネタに使っているのだ。あぁ、なんてことだ。許し難い。ゆるせない。 だから復讐《ふくしゅう》を。今こそ復讐を。絶対に仕返ししてやる── 「…………」 しかし、俺はひきこもりなので、上手に復讐する方法が思いつけなかった。だからこの件は諦《あきら》めることにして、何か別の、もっと気分が良くなることを考えることにした。嫌なことは忘れて、楽しいことを考えようと思った。 楽しいことと言えば、NHKである。 辛《つら》いとき苦しいときには、NHKが水面下で繰り広げている陰謀の事を考えればいい。そうすれば、いくぶん気が楽になる。 NHK、NHK── 「そうかわかったぞ!」 俺は叫んだ。 「あの女は、NHKの特殊工作員だったんだ!」 そのようなことを大声で叫んでみた。 だが予想に反して、気分はちっとも良くならなかった。 「……あぁ」と呻《うめ》き、さらにビールと焼酎を空ける。 頭が痛かった。隣室から鳴り響くアニメソングも、激しくやかましい。 気がつくと、いつのまにやら悪酔いしていた。気分がどんどんネガティブ方向にまっしぐらだった。未来に希望が見いだせない。このまま俺は、ひとり寂しくバ力みたいに死んでいく、そんな気がした。 「……もうダメだ、もうダメだ、もうダメだ!」と唱える。 しかし、いまだ隣室からはアニメソソグが響いていた。その歌詞には、「愛」「夢」「恋」「希望」などなどといったポジティブ系の単語が頻出していて、それはかなりの皮肉に聞こえた。前途を塞がれた俺に対する、かなり嫌みな皮肉に聞こえた。怒りと悲しみに打ち震えた。 そもそもどうして今日に限って、俺の隣人はこれほどまでに大音量でアニメソングを鳴らしているのだろう? いつもは昼間しか鳴らさないのに。今はもう夜中だぜ。 そうして俺は、ふと気づく。 これはもしや、俺に対する嫌がらせじゃないのか? フリーターにすらなれなかった、あまりに惨めでバカな俺に対する嫌がらせなのか? 「…………」 だとしたら、許せなかった。 壁をがこんと殴ってみる。 アニメソングが鳴りやむ気配は無かった。 壁をばこんと蹴《け》ってやる。 反応は無かった。 ……バ、バカにしやがって。 みんな、みんな、よってたかって俺をバカにして。 くそ。見てろよ。 後悔させてやる。 酒を飲み、もっと酔い、前後不覚になるまで酔っぱらって── 俺は、行くぜ。目にもの見せてやるぜ。 悪いのはそっちだからな。 コタツから立ち上がり、すっ転びそうになりながら玄関のドアを開ける。 隣室の202号室へと千鳥足で歩を進め──呼び鈴を連射。 「ピンポンピンポンピンポン──」 しかし、返事は無い。 ドアを殴ってみた。 それでも返事は無い。室内から聞こえてくるのは、相も変わらぬアニメソングだけ。ファンシーララのテーマソングだ。 「わったっしファンシーララー」 かっと頭に血が上った。 ドアノブを捻《ひね》る。鍵はかかっていない。 どうとでもなれ。 「ぐらぁ!」と叫び、怒りにまかせて室内に足を踏み入れ、「うっせーぞ!」と怒鳴った── その瞬間だった。 「…………」 俺は見た。 部屋の奥に設置されたパソコンデスクに腰をかけ、壁際に設置されたスピーカーに耳を傾けている、ひとりの男。 彼は、唐突な客の到来に気づくと、回転椅子をゆらりと回して振り返った。 彼は──泣いていた。 さめざめと、涙を流していた。 さらに信じがたいことに、俺は、彼が何者なのかを知っていた。 「…………」 絶句してしまった。自分の目を疑った。 彼も涙を拭《ふ》き、「信じられない」という表情を浮かべて、こちらを見た。 身を乗り出し、俺の顔をまじまじと眺めている。 そんなしばしの沈黙の後── 震える声で、彼は言った。 「……さ、佐藤さん?」 間違いない。 山崎だった。 四年ぶりの、あまりに予期せぬ再会だった。 [#改ページ] 2
高校時代、俺は文芸部に所属していた。 と言っても、何も小説などが好きだったわけではない。新入生歓迎会の折りに、ヤケに可愛い先輩に勧誘されたのだ。 『君、文芸部に入ってよ』 俺は思わずうなずいてしまった。そうするより他になかった。なぜならば、一年歳上のその先輩は、文芸部などというオタク臭い部活に加入していたにもかかわらず、ちょっとしたアイドル並みに可愛かったからだ。 そんな適当な動機で部活に入ったものだから、日々の活動はトランプの七並べに終始した。暇を見つけては、狭い部室で先輩と七並べをした。まったく、何をやっていたのだろう。もっと他にやることがあっただろうに。 まぁ、今となっては、そんなことはどうでもいい。過去は過去である。 ともかく、そんなある日の放課後の事なのだった。俺と先輩は、中庭に面した一階の廊下を歩いていたのだ。 先輩が、ふと中庭の隅を指さした。 『……あれ』 『あぁ、イジメですね』 中等部の制服を着た少年が、数人の生徒に囲まれて、お腹をぼこぼこ叩かれていた。 イジメを受けているその少年は、弱々しい微笑みを浮かべていた。 イジメている方も、にこにこ笑っていた。 よくある風景だった。 『ひどいよね』 先輩が言った。彼女はずいぶんと感情移入能力が高い人なので、本当に気の毒そうな顔をしていた。 そのときだった。すごく良いアイデアがひらめいた。 『助けてきましょうか?』 先輩に、俺の格好いいところを見せつけてやる。 『できるの?』 俺はうなずいた。 中等部のガキぐらい、どうってことはないだろう── もちろんそれは、大きな判断ミスだった。 『イジメ、かっこわるい!』と叫んで、イジメ現場に踏み込んで行ったのはいいものの、逆にすっかりやり返《か》されて、さらにイジメグループはそのまま逃走、先輩は呆《あき》れかえった目で俺を見つめ、イジメられっ子はその後一年間、相も変わらずイジメられ続け──と、俺の行動は何ひとつ長い結果を生み出さなかった。 それでもイジメられっ子の山崎君は、何を勘違いしたのか、俺を尊敬してしまったらしい。高等部に進学すると同時に、文芸部に入部してきやがった。 だが、そのときの俺はすでに三年生。先輩も卒業してしまい、すっかりヤル気が無くなっていた俺は、山崎を部長に仕立て上げて、自分は受験勉強に集中した。 そうしてそのまま、俺もあっさり卒業。 卒業式で二、三の会話を交わして以来、山崎とは完全な音信不通だったのだが──
*
六畳一間の真ん中で、山崎は大げさにはしゃいでいた。痩《や》せていて、ロシア人並みに色が白いところは、あの頃とまったく変わっていない。多少は男らしい顔つきになっているかと思えば、やはりそんなこともない。見るからに戦闘力が低そうな、ひ弱な青年である。 「マジですか?本物ですか?」 先ほどまでは目を真っ赤に腫《は》らして泣いていたくせに、今ではもう、すっかり笑顔だ。アニメソングもすでに鳴りやんでいる。 玄関に立ちすくんだまま、俺は訊いた。 「どうしてお前がここに──?」 「佐藤さんこそ」 「俺は……」 このアパートが大学の近くだったから偶然入居しただけだ、と言おうとして、思わず口ごもってしまった。俺の正体(中退無職のひきこもり)を山崎には知られたくない。 すると山崎は俺の葛藤《かっとう》に気がつかないまま、自らの境遇を説明してくれた。 「僕はこの春、専門学校に入学したんです。で、家賃が安くて、通学にも便利なアパートを探したら、たまたまここが気に入って──」 なるほど。やはりまったくの偶然らしい。 「とにかくあがってくださいよ。汚い部屋ですけど」 あまりと言えばあまりな偶然に、かなりのとまどいを感じていた俺を、山崎は明るく促した。 俺は素直に靴を脱ぎ、室内へと足を踏み入れた。 当然の事ながら、間取りは俺の部屋と変わらない。 「…………」 だが──なんだ、これは? 俺は思わず立ちすくんだ。 山崎の部屋には、妙な気配が漂っていた。それは今まで感じたことのない、ごくごく微妙な雰囲気だった。 壁に貼られた奇妙なポスター、巨大な二台のタワー型パソコン、壁際に天井近くまで積みあげられたマンガの山──その他さまざまな家具や装飾が、ある種の困った空気を醸し出しているのだった。 「どうぞ、そこに座ってください」 山崎の声で、ふと我に返る。 その言葉に従い、おぼつかない足取りで部屋の奥へと移動する。 と──いきなり足元で、何かがばきっと音をたてて割れた。俺はびくんと飛び上がった。 「あ、CD──Rのケースです。気にしないでいいですよ」 足元を見ると、マンガやら小説やら、ビデオソフトやらDVDやら、ペットボトルやティッシュの空き箱などのゴミクズやらが、床一面に散乱していた。 「汚い部屋ですけどね」 本当だ。これほどに汚い部屋、初めて見た。 「それにしても、嬉《うれ》しいなぁ。まさか佐藤さんが隣にいたとは」 ベッドの端に腰をかけた山崎は、一歩歩くごとに何かを踏んでしまう俺に構わず、だいぶ遠い目をしてそんなことを言う。 ようやく俺もパソコンデスクに到着した。回転椅子に、腰を下ろす。 酔いは、醒《さ》めていた。完全に、醒めていた。 何を言ったら良いものか分からず、十七インチのディスプレイに目をやる。そこには、俺の知らないアニメ絵の壁紙が貼り付けられていた。 「僕がこのアパートに入ってきてから、もう半月も経ってるのに、お互いに気がつかなかったとは、まったくおかしい話ですね」 ディスプレイの上には、赤いランドセルを背負った少女の人形(ガレージキットという物らしい)が飾られていた。 「これが大都会の隣人無関心ってヤツなんでしょうね」 壁に貼られたポスターには、小学生としか思えない少女の裸体が、やはりアニメ調の絵で描かれていた。俺は目をそらして、パソコンデスクの上を見た。 「どうしたんですか? 佐藤さん。黙っちゃって。……あ、音楽がうるさかったんですよね。今度から気をつけます」 パソコンデスクの上には、何かのゲームのパッケージと思われる、四角い箱が大量に積まれていた。そのパッケージには、「貴」「濡」「虐」「淫」「縛」「学園」「監禁」「陵辱」「鬼畜」「純愛」「調教」「アドベンチャー」などなどといった、普段あまりお目にかからない種類の単語が大量にちりばめられていて、さらにそのうえ、やはりどう見ても小学生としか思えない少女の裸体が、アニメ絵で見事に描かれていた。十八歳未満お断りと書かれたシールも貼られていた。 またもや俺は慌てて視線をそらし、壁際に積まれたマンガの山に目をやった。 「それにしても嬉しいなぁ佐藤さん。まさかもう一度会えるとは。僕、佐藤さんのこと尊敬してたんですよ。知ってました? 知ってましたよね──」 俺はマンガを一冊手にとって、ぱらぱらとめくってみた。 やはりそこには、小学生としか思えない少女の裸体が、そして、「成年コミック」と書かれた黄色いマークが…… 「ところで、僕の通ってる学校、知ってますか? テレビのCMとかで見たことあると思うんですけど──」 俺はマンガを山に戻し、額の汗を拭ってから、訊いた。 「どこの学校に通ってるんだ?」 その問いに、山崎は胸を張って答えた。 俺は思わず天を仰いだ。
*
──数年前のあの頃。俺たちは夢を見ていた。 汚い校舎の、ぼんやりした生活。 美しい少女たち。鬱屈《うっくつ》しながらも笑っていた少年たち。 俺も、皆も、夢を見ていた。 夢のような生活の中で、俺たち若者は、誰しもが素晴らしい未来を思い描いていた。 放課後は部室に入り浸り、先輩とダラダラした時間を過ごす、そんな毎日。 地震が起きたら一発で崩壊しそうなほどに古くさい、そんな粗末なプレハブ小屋で、ピクピクしながらタバコを吸う。 バイトをするでもなく、部活に精を出すわけでもなく、成膚も悪く、ヤル気もない。うだつのあがらない高校生だった俺は、それでもいつも、笑っていたのだ。 ある日のことだった。 ゴミやガラクタが一面に散らばった部室で、俺と先輩は呆けていた。 「佐藤君。君、将来どうするの?」先輩は訊いた。 「まずは適当な大学に行きますよ。……何をやるかは知りませんが、たぶんそのうち、やりたいことが見つかるでしょう」 「ふうん」 先輩は目をそらし、そしてぽつんと呟《つぶや》いた。 「この前のさ、イジメられっ子救出大作戦。バ力みたいだったけど、ちょっとかっこよかったよ。……だから大丈夫だよ。佐藤君なら大丈夫だよ」 俺は、照れる。 ──そして暗が経ち、先輩は卒業。 やはり汚い部室には、数学の参考書を睨《にら》む俺と、山崎がいた。 山崎が言う。 「佐藤さんも、今年で卒業ですね」 「そうだな。……これからはお前が部長だ、頑張れよ」 「寂しくなりますね。みんな大きくなりますね」 「若いうちからそんなこと言うなよ。──そうだ。吸うか?」 俺はポケットからタバコを取りだして、山崎に差し出した。 山崎はそれを受け取り、恐るおそる火をつけた。 盛大に咳《せ》き込んだ。 涙目になりながら、山崎は言った。 「うまくいくといいですね」 「なにがだよ?」 「いろいろなことがですよ。今みたいに、気楽な毎日が続けばいいですよ。……だから佐藤さんは、頑張ってくださいよ。どこに行っても、頑張ってくださいよ。僕も頑張ります。元気にいきますよ。なんとかなりますよ」 不安と希望が、共にあった。 夕日の射し込むボロ部室で、俺たちはぼんやり笑っていた。
──そうして俺は、大学に進学。 しかし、中退。 先の見えない生活に脅《おび》え、ワケの分からない不安にビビリ、見通しの利かない、うだつの上がらない、笑ってしま |