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NHKにようこそ!
作者:    出处:咖啡日语    发表时间:2007-09-20    浏览次数:     

恧膜蓼铯辍⑷钉长证贰筏蛘瘠晟悉病⒎汀钉邸筏à皮い俊¥胜螭嗓猡胜螭嗓饨~叫していた。
 だけど最後に山崎は、等身大人形にすがりついた。
「……このままじゃ、生きていけない」と呟く。しかしその日は醒《さ》めていた。
 俺は温かいコーヒーを入れてやった。
 山崎は、涙ぐみながらコーヒーを飲んだ。なんとなく俺も泣きたくなった。
「なぁ、ところで山崎君。この人形、どうすんの?」
「佐藤さんにあげます。自由に使ってください」
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    九章 おしまいの日々

      1

 ひきこもりにとって、冬は辛い。寒くて凍えて、わびしいからだ。
 ひきこもりにとって、寿も辛い。みんな陽気で、妬《ねた》ましいからだ。
 だからといって、やっぱり夏も、辛くて辛い。
 蝉のうるさい夏だった。朝から晩まで、みーんみーんと鳴きやむことを知らない。
 暑くて腐る、夏だった。エアコンを入れっぱなしにしていても、それでも暑い。エアコンが老朽化しているのか、それとも今年が特別に暑いのか。
 とにかくひたすら、うだってしまう。
 責任者出てこい! と叫びたいところであるが、今の俺にはそれだけの元気もない。バテていた。夏バテだった。食欲が不振で、精神も疲弊している。いかにリポビタンDをがぶ飲みしようとも、この倦怠《けんたい》感をぬぐい去ることは不可能だった。
 だが──それでも隣人だけは元気だった。ますますむやみに騒いでいた。朝から深夜まで、大音量のアニソンを響かせていた。
 聞くところによると、最近は一日四時間程度しか眠っていないという。アニソンを聴きながら、クリエイティブな作業を頑張っているという。充血した目をぎらぎらと輝かせて、まったく無意味な創作活動に励んでいるという。
 そんなある日に、山崎は言った。
「やっとゲーム作りが一段落しましたよ」
「ほう」
「そして今日からは、爆弾作りを始めます」
「……はぁ?」
 山崎は答えず、生の食パンを黙々と囓《かじ》った。ずいぶんと適当な朝食である。
 俺は彼のように無精な人間ではないので、ちゃんとパンをトーストして、ついでに手早く目玉焼きを焼いた。
「いただきます」
「だからあんた、人の冷蔵庫から勝手に飯を──」
 俺は知らないフリをした。

   *

 岬ちゃんは夏なのに長袖《ながそで》の服を着ていた。しかし彼女は陽気だった。
「楽しいなぁ、楽しいなぁ、楽しいなぁ」と言った。
 実に楽しそうだった。愉快にブランコを漕《こ》いでいた。
 やはり今夜も熱帯夜である。黙っていても汗が噴き出す気温であるが、それでも岬ちゃんは涼しげだ。髪をなびかせて爽やかにブランコを揺らしながら、「ところで佐藤君、余った猫缶、食べる?」と言った。
 いつぞやの黒猫が、いつのまにやら行方不明なのだった。もうずいぶんと長いこと姿を見せていない。車にひかれて昇天したか、それともどこかに旅立ったか。
 ともかく俺は「いらない」とお断りした。
「買い置きしてんだけど、あぁ、もったいないなぁ」
 岬ちゃんは華麗にブランコから飛び降りると、ジャングルジムの脇にある、こぢんまりとした砂場に踏み込んでいった。
 近所の子供が置き忘れていった緑色のシャベルを手に持って、ぺたぺたぺたと、夜の砂場に何かを造形している。
 俺は訊《き》いた。
「なにそれ?」
「山」
 確かに山だった。砂場の真ん中に建設された、それは鋭角な山だった。北斎の描く富士山ほどに急角度なので、ふとした拍子に崩壊してしまいそうに見えたが、しかし砂山は、何の滞りもなく立派に完成。
 夜露に湿った砂の特性を生かした、見事な仕事だった。
 岬ちゃんは手を叩いて砂を払い落とすと、山の周りをぐるりと一周した。
 それから俺の顔を見た。
 俺は「良い山だね」と言った。
 岬ちゃんは小さく微笑むと、「えい」とかけ声を発し、山に向かって前蹴《まえげ》りを放った。
「形ある物は、いつか壊れます」
「そうだね」俺はうなずいた。

 岬ちゃんが背中の鞄から取り出す書物は、毎晩毎晩、実にバラエティー豊かだった。一週間に一度、図書館から大量に借り入れてくるらしい。
 小説、詩集、実用書、参考書──さまざまな体裁の書物を岬ちゃんは読み、ついでに俺にも読み聞かせる。
「さてさて。今夜のテキストは、『有名人の最後の言葉』です。立派な人たちが死んじゃう間際に残した言葉を参考にして──」
 ──参考にして?
「人生とは何かを考えましょう!」
「…………」
 それはかなりの大技だった。平気な顔をして、そのような非日常的セリフを口に出す岬ちゃんに、俺はすっかり参ってしまう。……それでもまぁ、昨日の『生きる意味を考えましょう』に比べれば、まだまだ大したことはないが。
 俺は気を取り直して、続きを促した。さっそく岬ちゃんはテキストの朗読を開始した。
 古今東西の有名人、その辞世の言葉を集めた本らしい。俺は大人しく拝聴した。
「…………」
 だが、本を朗読しているうちに、だんだん岬ちゃんも飽きてきたらしい。いつのまにやらコンセプトが変化していた。
「もっと光を。──さて、これは誰の言葉でしょう?」
 クイズかい!
「3?2?1──時間切れ! 答えはゲーテです。それにしてもコレ、格好よすぎるセリフだよね。たぶんゲーテさん、前々からセリフを用意してたんだと思うよ」
「そ、そうかもね」
「じゃあ、次の間題。──三日とろろ、おいしゅうございました」
 これはわかった。
「マラソンの円谷《つぶらや》選手が残した遺書」
「ピンポンピンポン。正解です! よく知ってたね」
 有名な遺書なので知ってても自慢にはならないが、それでも岬ちゃんは誉めてくれた。遺書の内容にも、妙に感心しているようだった。
「三日とろろ──って、なんだか冗談みたいな遺書だよね」
「たぶん、そこが逆に感動を誘うんだよ」
「なるほど。参考になるなぁ」
 そんなことを言って、しきりにうなずいている。
「………円谷選手、死ぬ間際に故郷に帰ったんだってさ。そうして、お父さんお母さんと一緒に、とろろいもを食べたんだって」
「ほう」
「やっぱりみんな、死んじゃう前には故郷に帰りたくなるみたいだね」
「……そういや岬ちゃんって、出身はこの町?」
「ううん、違うよ。……北極星があそこにあるから──たぶん、あっちの方」
 岬ちゃんは北北西の方角を指さして、俺の知らない町の名前を教えてくれた。
 日本海に面した人口五千人の小さな町だそうだ。綺麗な岬がある町だそうだ。 だけどその岬は、ちょっとした自殺の名所なのだそうだ。
「明治時代のとある有名人が身投げして以来、自殺のメッカになったらしいよ。最近になって事故防止の工事をしなきゃいけなくなったぐらい、毎年決まって飛び降りとか、足を滑らせる観光客がいたって言うよ。小さい頃は、そんなことぜんぜん知らなくてさ、いつもその岬で遊んでたんだけど──」
 だけど──ある日、あたしも女の人を見たよ。
 と岬ちゃんは言った。
「高い岬の崖《がけ》っぷち。夕日が綺麗で真っ赤でさ。女の人も、綺麗だったよ」
「で?」
「ちょっと目を離したら、いなくなっちゃった」
「…………」
「今でも時々、夢に見るよ。もしかしたら、最初から夢だったのかもしれないけど。……だって、その女の人、すごく朗らかに微笑んでたから。健やかな顔をしてたよ。ひとりで、海と夕日を見つめてたよ。だけどほんの一瞬、目を離した隙に、なぜかどこかに消えちゃった。……変な話でしょ?」
 変な話だった。
「でもねぇ……なんだろう? せめて遺書ぐらいは残すべきだと思ったよ。たとえば、とろろいもとか」
「……とろろいも、食べたいなぁ」
「かゆくなるよね」
「うん」
「…………」
 迷走する会話だった。
 やはり俺は途方に暮れていた。しかし岬ちゃんは笑っていた。
「……あぁ楽しいなぁ愉快だなぁ。そう思うでしょ佐藤君」
「そうだね」
「だけど、そろそろ終わりだよ。……プロジェクトの最終日が迫っています」
 岬ちゃんは本を鞄にしまった。
「これだけタメになる講義を続けてきたんだから、そろそろ佐藤君、立派な大人になれたでしょ?」
 ベンチから立ち上がり、そう言った。
「もう、わかるよね? どうして自分がダメ人間になっちゃったのか。なんでひきこもりになっちゃったか。そろそろバッチリわかったでしょ」
「…………」
「ちゃんと考えれば、きっとわかるよ」
 俺はベンチに腰を下ろしたまま、岬ちゃんを見上げた。夜の公園、彼女の輪郭だけしか判別できない。だから表情は窺《うかが》えない。
「……そろそろホントに、もう時間がないから。これ以上オジサンオバサンに迷惑はかけられないから──だからあたし、もうこの町からいなくなるよ」
 その声色は、いたって普通だ。だから俺も冷静に訊く。
「どこ行くの?」
「人の沢山いる都会。誰もあたしを知らないところ。知ってる人の、いないところ。──だからそれまでに佐藤君、佐藤君は、立派になってよ」
 なにやら話がよく見えないが、大変な無茶を言う娘である。
 俺はぼんやり首を横に振った。
 岬ちゃんは「そんなんじゃダメだよ」と言った。
 そこで俺はとりあえず「よしわかった。俺はもう大丈夫だ」と言ってみた。
「いやぁ、君のおかげで、俺は生まれ変わった。だから君も安心して、どこかの町で一人暮らしを始めてくれ」
「…………」
 どうやら、まだ何か不満があるらしい。
 俺はひたすら陽気な声で礼を述べてやった。
「ありがとう! 君は俺の恩人だ!……あ、そうだ。俺のステレオとか持ってく? 一人暮らしに必要だろ。なんならプレゼント──」
「……そうじやなくてさ」
「そうじゃなくて?」
「…………」
 俺は辛抱強く、彼女の言葉を待ってみた。しかし岬ちゃんは、とうとう何も言わずに背を向けた。
 俺も立ち上がった。
「それじゃ、さようなら」アパートに向けて歩き出す。
 ──と、そこで岬ちゃんは俺を呼び止めた。
「やっぱり、待った!」
「は?」
「デートしましょう」
「…………」
「卒業試験です。佐藤君が、本当に立派な人間になれたかどうかのテストなのです。日曜日の十二時に駅前集合、雨天決行!」
 逆ギレっぼい大声で宣言すると、岬ちゃんは早足で歩き去っていった。

   *

 一方山崎は、本当に爆弾を作っていた。ネットから爆弾レシピを手に入れて、しっかりばっちり爆弾製作していた。
 まずは黒色火薬を作る必要があるらしい。
 黒色火薬、その歴史は遥《はる》か大昔にまで遡《さかのぼ》る。たとえば、いわゆる「元寇《げんこう》」の時、日本のサムライたちを驚かせた「てつはう」という武器に使われていたのも、やはり黒色火薬である。
 極めて原始的な火薬であるが、それでいて威力は抜群だ。
 硝酸カリウムと硫黄《いおう》と黒炭を混ぜ合わせるだけの簡単クッキングでありながら、十グラム程度を密封破裂させると、その威力たるや恐ろしいもので、普通の乗用車の窓ガラスを全て割り、中の人間を即死させるほどのパワーがあるらしい。
「……爆弾なんて何に使うんだ?」
「決まってるじゃないですか、爆発させるんですよ!」
 それはまぁ、確かにその通りだ。爆弾にそれ以外の用途などありはしない。
「だけど、つまり何を爆発させるのか?──と、俺はそれを聞きたかった」
「敵ですよ」
「て、敵とは?」
「悪者です。悪者を、この革命爆弾でやっつけてやります」
「なるほど。……して、悪者とは?」
「……たとえば政治家とか?」
「お前、今の総理大臣の名前、知ってるか?」
「…………」
 山崎は押し黙り、作業を再開した。
 まもなく、黒色火薬の製作と鉄パイプの密閉が完了した。アナログ時計を用いた発火装置も完成した。あとはその発火装置を取り付けるだけで、いつでも爆発させられる。
「やった、完成だ! 僕は闘士だ! 革命家だ!」
 山崎は、はしゃいでいた。
「吹っ飛びますよ! 悪者は皆殺しです!」
 はしゃいでいたが、醒めてもいた。
「……あーあー、楽しかった」と言った。
 結局その爆弾は、悪者を吹き飛ばすことはなかった。そもそも俺たちは、悪者の居場所を知らない。
 仕方がないので、土曜の夜に、近所の公園で爆発させてみた。
 人から見えないよう、わざわざ茂みの中に潜り込んで、発火装置を慎重にセットした。
 確かに爆弾は爆発した。だけどぜんぜん大したことはなかった。
 わびしい話である。
 で、そうこうするうちに、日曜日になった。
 俺は約束通り、岬ちゃんと駅前で待ち合わせた。
 デートした。
 それから、アパートに帰った。
 一晩ぐっすりと眠った。目が覚めると、朝だった。なにもすることがなくて、暇だった。そこで俺は、またもや買い置きしておいたクスリを、一度にどっきり摂取してみた。楽しくなってきた。愉快になってきた。俺は笑った。
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      2

 クスリは大きく三種類に分類できる。アッパー、ダウナー、サイケデリックスの三つだ。
 アッパーとは、元気になるクスリ。コカインやら覚醒剤《かくせいざい》やらが有名である。
 ダウナーとは、へロインなどの怠くなるクスリ。経験が無いのでよくわからないが、すこぶる気持ちが良いらしい。
 そしてサイケデリックスとは、幻覚剤のこと。LSDや、マジックマッシュルームなどが代表格か。
 俺は主に、合法の幻覚剤のみを愛好していた。アッパーやダウナーのような副作用も少ないし、なにより合法なので簡単に入手できる。
 そうして俺は、今日もクスリを使うのだった。
 かなりのハイアタックをしてみることにした。
 まず、AMT三十ミリグラムで下地を作る。AMT──もともとはロシアで研究されていた抗鬱剤である。大量に服用すると幻覚作用が発現するとわかったので、薬としての使用は中止されてしまったのだが、それでもさすがに元抗鬱剤。服用して最初の二時間は酷《ひど》い吐き気に苦しめられるが、それを乗り越えれば、ひたすら楽しくなってくる。バッドトリップ対策には最適である。
 その次に、ハルマラという植物の種子を煮詰め、黄色みがかったその上澄み液を、ごくごくと飲み干す。ハルマラ──インドール系幻覚成分のハルミンとハルマリンを含有している、チベット原産のハマビシ科植物だ。単体の使用では何の効果も現さないが、マジックマッシュルームやDMTなどの、他の幻覚剤と併用することによって、その効力を数十倍にも増幅してくれる。これがいわゆる、アヤワスカと呼ばれる技法である。MAO阻害剤なので、チーズや乳製品などと同時に摂取すると命に関わる危険性があるが、その点にさえ注意していれば問題ない。
「…………」
 さて、ここからが本番だった。
 すでに意識はもうろうとしており、視界がグニャグニャ歪《ゆが》んでいるが、しかし、ここからが真のトリップ。まだまだ行くのだ。
 俺は乾燥マジックマッシュルーム五グラムを、すり鉢でごりごりと細かくすり下ろし、その粉末をオレンジジュースで一気に流し込んだ。さらに5MEO - DMTの結晶十ミリグラムを、勇気を出して飲み込んだ。DMT──アマゾンのインディオがアヤワスカの儀式に用いるチャクラパンガなどの幻覚性植物、その有効成分のみを化学的に合成した薬物である。合法でありながらも、そのパワーは今世紀最強。一説によると、その幻覚作用はLSDの百倍以上。まさに究極のサイケデリックス。
 ほら、あっという間に腰が抜けた。
 キマッた。
 完成だ。
 佐藤スペシャルの完成だ。
 試行錯誤の末に編み出した驚異の必殺技である。四種類の薬物を効果的にカクテルする事により、違法ドラッグでさえも遠く及ばない究極のトリップが約束される。
 俺は月ロケット並みの高推力で、大宇宙の遥か彼方にまで吹っ飛ばされた。時間が完全に停止した。空間が完膚無きまでに歪み果てた。肉体は消失した。

   *

「ヤべッすよ佐藤さん。大変なことがわかりました!」
 山崎が言った。
「悟っちゃいました! ヤバいですよマジで!」
 俺も何かを言おうとしたが、口が動かなかった。しかし山崎はひとりで興奮していた。
「いいですか? よく聞いてくださいよ。大変なことですから」
 しかたがないので、俺はよく聞いた。
 山崎は胸を大きく反らし、最高の笑顔でこう言った。
「僕がこの宇宙を創造した唯一神だったってことが論理的に証明されました!」「…………」
 俺は死んだ。それからもう一度生き返った。
「見ててくださいよ。今から超能力で部屋をかたづけます」
 山崎は、床に散乱したゴミクズに人差し指を向け、「動け!」と叫んだ。当然の事ながら、ゴミクズはぴくりともしなかった。
「おい! この僕が命令してんだぞ! なに抵抗してんだよ!」山崎は怒っていた。
 その様子を眺めているうちに、何かがこみ上げてきた。体の奥底から溢《あふ》れだしてくる、それは得体の知れない感触だった。
 俺は腕を組んで、その感触について深く考えてみた。
「…………」
 永遠とも思える長さの時間が流れすぎた後に、俺は気づいた。
「わかったぞ。これは──」
 吐き気だ! 猛烈な吐き気に襲われていた。俺はトイレに駆け込もうとした。しかし──あぁ、やはりトイレヘの道のりは険しかった。足が前に進まない。アパートの廊下も、いまや五百メートルほどに延長している。トイレは遥か遠方だ。
 間に合うのか? 吐瀉《としゃ》物をまき散らす前に、俺はトイレにたどり着けるのか?
 ……大丈夫だ。落ち着け俺。
 先ほど山崎は言った。『僕が神です』と。
 しかし、俺は知っている。彼の言葉が、まったくの誤りであると知っている。
 なぜならば──この俺こそが神だからだ。ついさきほど、まったくの論理的思考によって、その事実が確認された。
 だから間に合うぞ。俺は神なのだ。だからトイレに間に合うぞ。間に合った。
 俺は便器に突っ伏して、げぇげぇ吐いた。すっきりした。そしたら元気になってきた。楽しくなってきた。
 よたよたとスキップして部屋に戻ると、山崎がヒンズースクワットしていた。
「ヤバイっすよ。小学生はヤバイっすよ」
 そんなことをぶつぶつと呟《つぶや》きながら、ニヤニヤ笑ってスクワットしている。何か犯罪的なことを考えているらしい。
 俺はその様子に、なぜか激しい既視感を感じた。
「前にもこうゆうことがあったような──」
 そのように考えてみると、いきなり怒涛《どとう》のデジャヴ十連発が襲ってきた。見るもの全てが、過去の出来事のようだった。
 そこで俺は、その感覚について、山崎と討論してみた。しかし次第に、なにがなんだかわからなくなってきた。
「あれ、この話、前にも話したっけ?」
「何を言ってんですか佐藤さん。ぜんぜん意味がわから──」
「ちょっと待って、ゆっくり考えてみるから」
 俺は床に俯《うつぶ》せになって、一生懸命考えてみた。
 そうしたら、思い出すことができた。
 俺は遥か数千年前の古代から、時空転生してこの世界にやって来た戦士なのだった。もちろん山崎には、その事実を秘密にしておくことにした。重大な機密だからだ。
 しばらくすると、山崎が言った。
「息した方がいいですよ。死んでますよ」
 俺は息をした。生き返った。山崎に深く感謝した。世界は愛によって包まれていると思った。
 ありがとうありがとうと頭を下げた。
「…………」
 しかし、俺が生き返ったのと入れ替わりに、今度は山崎が苦しそうな素振りを見せ始めた。喉元《のどもと》を押さえ、床の上をゴロゴロ転がって、七転八倒していた。「どうした?」と訊くも、彼は声にならないうめき声を発するだけで、何も言わずに悶《もだ》えていた。
 そうして彼は、ふいにノートとボールペンを持ちだして、俺に指し示した。
 震える手で、何かを書き記している。
 俺はその文字を、長い時間をかけて解読した。

  わすれた 声の 出す  方法

 山崎は喉を押さえて悲しそうな顔をしていた。俺は彼の背中を思いっきり叩いた。彼は「痛い」と言った。俺は親指を立てた。山崎はニッコリ笑った。
 さて、そろそろ屋外に繰り出すことにした。
 すでに深夜なので、警察に通報される恐れはない。
 近所の公園に赴く。
 山崎は、ロボットみたいな歩き方をしていた。もしかしたら、本当にロボットなのかもしれない。しかし、そのような事を考える俺は、だけど果たして本当に人間なんだろうか? ちょっと不思議に思った。そこで、公園の街灯に頭をがんがんぶつけてみた。
 大変だった。痛くない。痛くない。全然痛くない。
「……ロボットだった」
 こうしてまたひとつ、新たな真理を悟った。
 ……まぁ、それはそれとして。
 夜の公園は、とにもかくにも素敵だった。
 街灯だけが唯一の光源なのに、公園内は長時間露光で撮影された写真のように、淡く輝き、きらめいていた。生命力に満ちあふれていた。すべてが生きているのだった。古びたベンチの緩やかな震え。どっしりとした街路樹の確かな息づかい。その枝と葉の伸びやかなくねり。みんながみんな、生きていた。
 その光景に感動していると、山崎が言った。
「音楽が聞こえてきますね」
 俺も気づいた。公園のどこかから、得も言われぬ美しい音楽が流れ出している。
 俺たちは、その音楽の発生源を探索した。
 草の根をかき分け、ベンチの下に頭を突っ込み、ずいぶんと長い間うろうろと公園を歩き回り──そうして我々は、一台のスピーカーを発見した。一番大きな街路樹の、その根っこ。そこにスピーカーが埋め込まれていた。
 しかし、不思議な話だった。よく仕組みがわからない。
 俺と山崎は相談した。
 その結果、どうやらそのスピーカーは、ホワイトホールらしいと結論づけることが出来た。
 だから俺たちは、そのホワイトホールの周りを、ぐるりと一周してみた。
 すると、綺麗《きれい》な湖に出た。
 山崎はおもむろに衣服を脱ぎ捨てると、頭から湖に飛び込んだ。しかし──
「わあ。砂場でした」
 湖は、実はただの砂場だったらしい。だけど、俺にはどうも、湖に見えた。
 彼の言うことは、あんまり信用できないなと思った。
 ……まぁ、それはそれとして。
 それにしても、どうもさきほどから、時間がとぎれとぎれだった。
 昔に戻ったり、未来に進んだりした。
 俺は考えた。
 ──今は一体、いつなんだろう?
「おーい山崎君。今日って何曜日?」
「…………」
 返事はなかった。
 どうやら彼は、もう家に帰ってしまったらしい。
 悲しくなってきた。
 なので俺は、土曜の夜に爆弾を爆発させた、公園の茂みの中に潜り込んでみた。
 そこには三日前の山崎と、三日前の俺がいた。
 山崎はパイプ爆弾の周りをコンクリートブロックで包み、時限装置をセットしていた。
「さぁ、あと三分で爆発です。離れてください」
 俺と俺と山崎は退避した。
「革命家になりたかったなぁ、しかしそれは叶《かな》わなかった。戦士になりたかったなぁ、しかしそれは叶わなかった。オヤジが死にそうだ。ならば僕は帰るしかない。だれが悪いんでしょうかね? 悪いやつが、どこかにいると思うんですよ。そいつをこの爆弾で、ハリウッド映画並みに爆発させてやりたかったんですよ。だけど、ねぇ?」
 背中しか見えないので、そのときの山崎がどんな顔をしていたのか、確かめようがない。だけど俺にはわかっていた。
「あれ? もう三分たったのに、爆発しない」
 山崎は爆弾の方に歩いていった。
 コンクリートブロックを持ち上げようとしたところで、「パン」と音がした。
 山崎はこてんとひっくり返った。
 俺にはわかっていた。泣いているのだと、わかっていた。
「ぜんぜん、威力がないですよ。頑張って作った爆弾も、爆竹程度の威力です。こんなんじゃあ、ダメです。もう帰ります。それじゃあ、さようなら」
 そうして彼は田舎に帰った。
 部屋に戻ると、山崎が残していった等身大アニメ人形だけが、俺を待っていた。
 彼女は訊いた。
「寂しくないの?」
「寂しくないさ──」

 ──ぽかぽか明るい日曜日に、俺と彼女はデートしていた。
 まるで田舎の中学生並みに、健全なデートを繰り広げていた。
 電車に乗って、街に出た。都会だった。
 人混みが沢山で、俺たちははぐれそうになる。俺も彼女も、携帯電話を持っていないから、一度はぐれてしまったら、それでおしまい。このような大都会では、二度と再び会うことはない。
 ──気をつけなければ。
 なのに岬ちゃんはふらふらしていた。俺もだいぶんよたついていた。
「どこに行く?」
「どっか」
「お昼ご飯は?」
「さっき一緒に食べたでしょ」
「なら映画とか」
「うん」
 映画を観た。素敵なハリウッドアクションだった。人間が爆弾で吹っ飛んでいた。彼はぐるぐると両手を振り回して、高々と宙を舞った。そして死んだ。俺は憧《あこが》れた。
「面白かったね、パンフレット買おうかな」
 しかし岬ちゃんは、結局パンフレットを買いはしなかった。千円という定価に打ちのめされているようだった。
「なんであんなに高いのさ!」
「普通、あんなもんだろ」
「へえ、そうなんだ」
 知らなかったらしい。
 そうして、映画館を出た俺たちは、またもやすっかり途方に暮れた。
「どこに行く?」
「どっか」
「お昼ご飯は?」
「……さっき、食べたでしょ」
 俺たちは歩いた。ふらふらふらと歩いていた。
 行くあてがない。どうしたものやら、わからない。それは岬ちゃんも同様で、俺たち二人は困っていた。
 結局最後にたどり着いたのは、むやみに大きな都会の公園だった。やはり人が沢山いて、真ん中には大きな噴水があって、鳩もいた。
 ベンチに座って、ぼんやりした。
 夕暮れまで、適当な会話を交わしながら、座っていた。
 会話のネタが切れて、落ち着かない沈黙だけが続くようになると、岬ちゃんは鞄から秘密ノートを取りだした。
「夢に向かって歩いていこう!」
「もういいよ。……どうにもならない」
「そうゆう悲観的なこと言わない」
「嘘の言葉を信じてみても、結局、やっぱり、どうしようもない」
「あたしは、結構、まともになったよ」
「どこが?」
「……やっぱり、まともに見えなかった?」
「変だよ。ずっと変だった。初めて見たときから、かなりヤバかった」
「……そう」
 そうして俺たちは押し黙った。
 目の前を、鳩が歩いていた。岬ちゃんは鳩を捕まえようとした。当然の事ながら、鳩は逃げた。
 何度かその試みを繰り返し、その全てに失敗すると、顔を正面の噴水に向けたまま、岬ちゃんは言った。
「……だけどさ佐藤君」
「ん?」
「あたしと佐藤君、どっちがダメ人間か.っていったら、それはきっと、佐藤君の方がダメでしょう?」
 俺はまったく同意した。
「だからだよ。だから佐藤君は、あたしのプロジェクトに抜擢《ばってき》されたんだよ」
 ようやく彼女は、すべての核心を話してくれる気になったらしかった。
 だけども、もはや、何事も、どうにも変化はしないだろう。それが俺の確信だった。なのに岬ちゃんは笑顔だった。見る者をどことなく不安にさせる、だいぶ嘘臭い笑顔を浮かべていた。唇だけをわずかに吊《つ》り上げた、心許《こころもと》ない作り笑いだった。
「まず前提として、あたしみたいな人間を、好きになってくれる人なんか、いるわけないのです」
「……そうなの?」
「生まれたときからそうだったよ。お父さんにもお母さんにも嫌われるぐらいだもん、他の人ならなおさらだよ」
「…………」
「オジサンオバサンに引き取られたけども、やっぱり迷惑、かけてるだけだよ。二人とも、どんどん仲が悪くなってくし、もうすぐ離婚するとか言い出すし。それも全部が、あたしのせいなのです。本当にごめんなさいって思うよ」
「……きっとそれ、考えすぎだよ」
「違うよ。たぶんあたしは、生まれながらにダメ人間で、普通の人なら相手にしない。みんながあたしを嫌いになるよ。みんながあたしのせいで、嫌な気分になるんだよ。その事実はもう、確かな実績で証明されてるんだから」
 岬ちゃんは袖をまくった。
「ほら」
 腕を差しだし、俺に見せつけた。真っ白な肌に、痛々しい火傷《やけど》の痕《きず》が、いくつもいくつも残っていた。
「二人目のお父さんだよ。もう顔も覚えてないけどさ。いつもお酒を飲んでたよ。お酒を飲むと機嫌が良くなるけど、機嫌が良くても、あたしはいっつも怒られてたよ。タバコで、じゅっ、と」
 笑顔でニッコリ、そんなことを言うのだ。
「学校にも怖くて行けなかった。そりゃそうだよ。他のみんなと、お喋《しゃべ》りとか、できるわけがないよ。おっかないもん。普通の人なら絶対に、あたしなんかは嫌いになるから」
「宗教の人たちとかは?」
「あの人たちも、立派な人だよ。みんな普通に頑張ってる。相手にしては、もらえません」
「…………」
「だけどねぇ、やっとのことで、あたしよりもダメそうな人を見つけたんだよ。凄《すご》いダメ人間。そこら辺には見あたらない、強力なダメ人間。人の目を見て話せない、人が怖くて仕方がない、社会の最底辺で生きている、あたしでも見下せる人間」
「誰それ?」
「佐藤君」予想通りの言葉だった。
 そうして岬ちゃんは、背中の鞄《かばん》から一冊の紙切れを取り出し、俺に差し出した。それは二枚目の契約書だった。
 ……どうするべきか、わからなくなってきた。
 もう少しで日が暮れる。公園を歩く人影も、めっきりその数を減らした。
 岬ちゃんは、俺にサインペンと朱肉を手渡した。
「拇印《ぼいん》で良いよ」と言った。
「佐藤君なら、あたしを好きになってくれるよね」と言った。
「だってさ、あたしよりもダメ人間だもん。……こうやって長い間、頑張って計略を推し進めてきたんだから、もう、あたしのとりこでしょ?」
「…………」
「優しくしてよ。あたしも優しくするからさ」
「……やっぱり、ダメだよ」
「どうしてさ」
「ムダだよ。おんなじだ。余計に辛《つら》くなるだけだ。それに第一|虚《むな》しすぎる」
 俺は立ち上がり、契約書とサインペンと朱肉を突き返した。
 元気良く言ってやった。
「岬ちゃんは大丈夫だ! ぜんぶひとときの気の迷いだ! 乾布摩擦をして、心身を鍛えなさい! そうしたならば、馬鹿な考えはなくなるぜ! 君みたいな可愛い女の子なら、素敵な人生をゲットだぜ! 下を見るな! 上を見ろ! 大丈夫だー」
 そうして俺は、早足で逃げた。
 契約書の文面が、脳裏をぐるぐる渦巻いていた。

  ダメで寂しい人間の、相互扶助に関する契約書

   佐藤達広を甲とし、中原岬を乙として、両者の間に次のとおり契約する。

  1.甲は乙を、嫌いにならない。
  2.つまり、甲は乙を好きになる。
  3.ずっと心変わりをしない。
  4.いつまでも心を変えない。
  5.寂しいときは、いつも側にいてくれる。
  6.といっても、乙が寂しいのはいつものことなので、つまり、甲はいつでも側にいる。
  7.そうすれば、たぶん、人生が良い方向に行くと思う。
  8.苦しいことが、なくなると思う。
  9.約束を破ったら、罰金一千万円。

 岬ちゃんが訊いた。
「ねえ! 寂しくないの?」
 俺は振り返り、大声で答えた。
「寂しくないさ」
「あたしは寂しいよ!」
「俺は寂しくない」
「嘘」
「嘘じゃない。俺は世界最強のひきこもりだ。ひとりでも生きていける。苦しいことなんか、何もない。だから岬ちゃんも、人に頼るのはやめなさい。結局みんな、ひとりなんだ。ひとりでいるのが一番いいんだ。だってそうだろう? 最後は絶対、ひとりになる。ひとりでいるのが自然なことだ。そうしていれは、嫌な事なんてなんにもない。だからひきこもるんだ。六畳一間のアパートに──」
「寂しくないの?」
「寂しくない」
「寂しくないの?」
「寂しくない」
「……嘘をつけ」
 誰かが言った。
 それは底冷えのする、低く濁った声だった。
 俺は背後を振り返った。
 そこにいたのは俺だった。
 六畳一間の部屋の隅。真っ暗闇に溶け込んだ、体育座りの俺がいた。
 時刻は夜。何も見えない何も聞こえない、どうしようもない、夜。
 家具のない、何もない、夏なのに冷え切っている、寒気のする、暗黒の、最悪の、閉鎖しきった六畳一間で、頭を抱えて震えている。
 俺は言う。
「寂しいんだ」
「寂しくはない」
「嘘をつけ」
「嘘じゃない」
「寂しいなぁ」
「寂しいさ!」
 ぶるぶるぶるぶると震えている俺は、ガチガチガチガチ歯を鳴らしていた。部屋の真ん中に立った俺は、その様子を見つめていた。頭が狂ったのかと思った。しかし狂ってはいなかった。
 ただひとつだけわかることがある。
 俺はひとりだった。どうしようもなく孤独だった。この状態は、イヤだった。 寂しいのはイヤだった。
「だがしかし!」
 俺は叫んだ。
「だがしかし! だからこそだ!」
 俺は叫んでいた。
「寂しいのは当たり前だ! 寂しいのが嫌なのも当たり前だ! だからこそ俺は閉じこもる。ひきこもる。長い目で見れば、これが一番の解決方法だって、わかるだろう? なぁわかるだろう?」
 答えはない。
「わかるか?俺の言うことをしっかり聞くんだ。そうすればわかる。誰にだって、手に取るようにわかる。──つまりだ。つまり俺たちは、寂しいからひきこもってるんだ。これ以上、寂しい思いをしたくはないから、ひきこもってるんだ。なぁ、わかるだろう?これが答えなんだ!」
 答えは、ない。
「わかるか? 俺の言うことをしっかり聞くんだ。そうすればわかる。誰にだって、手に取るようにわかる。──つまりだ。つまり俺たちは、寂しいからひきこもってるんだ。これ以上、寂しい思いをしたくはないから、ひきこもってるんだ。なぁ、わかるだろう? これが答えなんだ!」
 答えは、ない。
「俺は誰よりも欲張りなんだ。中途半端な幸せは欲しくないんだ。ほどほどの温もりなんて、いらないんだ。いつまでも続く幸福が欲しいんだ。しかし、それは無理だ! なぜかは知らないが、この世の中、かならずどこかで邪魔が入る。大切なモノは、速攻で壊れる。-二十二年も生きてるんだぜ。そのぐらいのことは知ってるさ。どんなものでも壊れるのさ。だから最初から、なんにもいらない方がいい」
 そうなのだ。岬ちゃんは、この真理を知っておくべきだったのだ。そうすれば、俺なんかに救いを求めるなどといったバカげた計画を始めたりはしなかったはずだった。しかし彼女は途方もないバカだった。途方もなく巨大な絶望を抱えていた。俺というクズ人間に救いを求めざるを得なかった、その寂しさに、傑然《りつぜん》とした。
 俺は彼女の身に降りかかった不幸を呪った。子は親を選べないという不合理を呪った。彼女のような朗らかさんには、健やかに逞《たくま》しく生きていって欲しかった。
 だから君は、どこかでしっかり、頑張ってくれ。
 俺はいいんだ。一人がいいんだ。
 ひとりでいるのが一番なんだ。
 ひとりで生きて、ひとりで死ぬ。
 だけども、それでも、希望はある。
 ──希望はあるのさ。
 ほら、すぐそこに、淡く優しく輝いている。
 それは涙の出る、懐かしくて、切ない、本当のふるさと。
 どこまでも続く秋の平原。遥か昔の遠い思い出。けらけらと笑う少女たちの、ほんのつかのまの永遠の視線。単にひかれた黒猫の安らぎ。
 もう、大丈夫だ。
 もう、辛いことも苦しいことも、どこにもない。
「そう。だからもう、あなたは──」
 少女が言った。
 山崎の置き土産、等身大アニメ人形が俺を見つめていた。
 彼女は天使だった。
 彼女は見事に動き出し、俺をいざなった。
 そうして俺は、彼女と一緒に、どこか遠い別の惑星へと旅だった。
 その星は、美しかった。
 空は青空。白い雲。
 涼やかな風が吹いていた。目の前には春の草原が広がっていた。
 その草原の真ん中に、俺と少女の二人がいる。
 少女は一輪の真っ白な花をつみ取ると、俺の目の前にかざした。
 細い指先で花びらをつまみ──それを引き抜く。
「生」
 そしてもう一枚、花びらを抜く。
「死」
 花占いなのだ。
「生?死?生?死?生?死?生?死──」
 最後の花びらがひらひらと地面に落ちて──
 少女は優しく微笑んだ。
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    十章 ダイヴ

      1

 夏が終わった。生活費が底をついた。
 食費もないので、寝て我慢することにした。五時間起きて、十五時間寝る。そのようなスケジュールで暮らしてみた。
 最初の三日間は、何も食わなくても別にどうってことはなかった。ちょっと胃がきりきりと痛むぐらいだった。
 しかし四日目にもなると、食べ物のことしか考えられなくなった。
 ラーメンが食いたい。カレーライスも食べたい。意志とは関係なく、体が切実にカロリーを求めていた。その欲求に抗《あらが》うことは不可能らしかった。
 そこで絶食五日目に、俺はとうとう外出した。
 手元に残っていた数百円で、菓子パンとアルバイト情報誌を購入し、その日のうちから労働を始めることにした。
 日雇いの、肉体労働だ。
 イベント会場への物資搬入やら、引っ越しの手伝いやら──意外に仕事は上手にこなせた。
 たまにミスをして偉い人に殴られることもあったが、しかしそれでも肉体労働は爽《さわ》やかだった。
 体を酷使すればするはど頭の中は空っぽになった。数年ぶりに、すっきり眠れた。
 カードの借金があったので、最初の一カ月間は連日連夜働いた。複数の派遣会社に登録し、毎日仕事を入れた。
 ある程度生活に余裕ができると、今度ほ一気に仕事を減らした。一カ月の半分だけ働いて、残りの半月をひきこもって暮らすことにした。月収が十万ほどもあれば、結構快適な生活ができるものだった。
 できる限り夜勤の仕事を選んで働いた。深夜の交通整理などが最高だった。警備員として登録してもらうには四日間の法定研修を受ける必要があったが、それさえ乗り切ってしまえば、これほどに楽な仕事、他にはない。
 深夜、人里はなれた工事現場で、真っ赤に輝く誘導棒をゆらゆらと振る。聞こえるものは、背後で鳴り響く工事機械の駆動音だけ。そして警備員は俺一人。たまに車が通りがかれば、適当に誘導棒を振って「危ないよ、徐行だよ」
 仕事中に他人と会話を交わす必要も、ほとんどない。アパートでひきこもっているのと大差ない。何かを考える必要もない。条件反射的にぶらぶらぶらと誘導棒を振るだけだ。
 夜風はだいぶ凍えるが、これで日給一万円(交通費込み)。
 働いて、ひきこもって、生活費を稼いで、そしてひきこもる。
 そんな生活を続けていた。
 驚くほどのスピードで、月日は巡り、巡っていった。
 そうするうちに、冬がやってきた。
 ひきこもり五年目の冬だった。
 今年の冬は、ひたすら冷えた。なぜかというと、コタツをリサイクルショップに売り払っていたからだ。
 毛布を頭まで被っても、それでも寒い。ガタガタ震えてしまう。
 そこで俺は、引っ越しの際に山崎が残していったノートパソコンを、カイロ代わりに使ってみることにした。
『無印ペンティアム六十六メガヘルツのノートです。荷物になるから捨てようと思ってたけど、せっかくだから佐藤さんにプレゼントしますよ』
 そんなことを言って山崎が置いていった旧式のノートパソコンを、腹の上に設置して、おもむろに電源を入れる。耳障りな駆動音と共に、アニメ絵の壁紙が液晶ディスプレイに表示された。
 旧式の機械なので発熱が凄い。すぐにぽかぽか温かくなってきた。ついでに眠くなってきた。
 だがそのとき、ノートパソコンのデスクトップに、ひとつの見慣れないアイコンが表示されていることに気がついた。
「…………」
 どうやらそれは、山崎が作りあげたエロゲーの実行ファイルらしかった。俺はそのファイルにカーソルを合わせ、リターンキーを押した。
 ハードディスクがガリガリとうなり始めた。
 長い読み込みの末に、ゲームが始まった。
 数時間ぶっ続けでプレイしてみた。するとわかった。これはどうしようもないクソゲーだと。
 ジャンルはRPG。初代ドラクエの規模を百分の一ほどに縮小した感じの、あまりにチープなRPGだ。もはやエロゲーでもなんでもない。ストーリーも限りなくくだらない。
 物語を簡単に要約すれば『悪の巨大組織に立ち向かう戦士たちの、愛と青春の旅立ち』といった感じの話になる。平凡な若者が悪と戦う戦士になって、ヒロインを守る──そのような願望充足的シナリオが、プレイヤーを置き去りにして延々と続く。
 俺は呆《あき》れた。
 まったく、こんなアホらしいシナリオを考えたヤツは誰だ?
「…………」
 俺だった。
 ストーリー原案を書いたのは、俺自身だった。
 悲しくなった。せつなくなった。このゲームのシナリオの意味が、手に取るように分かったからだ。
『悪と立ち向かう戦士』
 それはまったく、俺たちの願望そのものだった。
 悪い組織と戦いたい。悪者と戦いたい。もしも戦争などが勃発《ぼっぱつ》したならば、俺たちは速攻で自衛隊などに入り、神風特攻していただろう。きっとそれは、意味のある生き様で、格好いい死に様である。もしもこの世に悪者がいてくれたのならば、俺たちは戦った。拳《こぶし》を振り上げて戦った。
 そうに違いない。
 しかし悪者はどこにもいない。世の中はいろいろと複雑で、目に見えるような悪者など、存在しない。それが辛く、そして苦しい。
 なればこそのゲームであった。せめてゲームの中だけも、素晴らしい物語を、シンプルで美しい物語を──
 巨大な敵と戦う主人公は、ヒロインに向かって叫ぶのだ。
『君の命はオレが守る!』
 そうして彼は自らの命を顧みず、巨大な敵へと立ち向かっていく。
 最後の戦いが始まった。
 もうすぐエンディングだ。
 戦闘コマンドは「攻撃」「防御」「特攻」の三つ。しかしラスボスには、いくら攻撃してもダメージはゼロだ。当然、防御してみたところで、どうにもならない。
 ならば特攻、それしかない。己の命を犠牲にして敵に大ダメージを与える、人生最後の必殺技である。ラスボスを倒すには、それしかないのだ。だからこそゲームの主人公は、右手に「革命爆弾」を持って、ラスボスに特攻していくのだ。
 だが──最後の最後、主人公がラスボスに特攻を仕掛けたその瞬間。いきなりゲームはフリーズした。
 ゲームのウィンドウが閉じ、かわりにテキストエディタが起動。そのエディタには、言い訳がましい山崎の置き手紙が表示されていた。
『悪の巨大組織を倒す方法、それは確かに特攻しかない。自ら死を選んでこそ、勝利を勝ち取れる。なぜならば、悪の巨大組織は、僕たちの世界そのものなのだから。死を選んだ瞬間に、僕たちの世界は消えて無くなる。悪の組織も消えて無くなる。そして平穏が訪れる。──ですがね。それでも僕は、爆弾で自分の頭を吹っ飛ばしませんでしたよ。それが僕の選択です。……いや、決して、エンディングのCGを描くのがめんどくさかったとか、もういい加減、くだらないゲームを作るのに飽きたとか、そーゆーことじゃなくて──』
「…………」
 俺はノートパソコンを叩《たた》き壊そうとした。
 しかしなんとか思いとどまる。
 ゲーム製作に励む山崎の必死な姿を見ているだけに、このゲームのチープさが、だいぶずっしりと胃に応《こた》えていた。
 ──まったく、あいつは今頃どうしてるんだろう?
 ふとそんなことが気になったりもしたが、すぐに忘れることにした。あれから一度も音沙汰《おとさた》がない。俺も連絡を取ろうとは思わない。
 あの頃のバカみたいな日々は、とっくの昔に終わっているのだ。

   *

 そうして今年も、クリスマスがやってきた。
 街はピカピカ光っていた。俺の右手に握られている誘導棒も、闇夜に赤く、輝いていた。
 今夜の仕事は、駅前に新しくオープンしたデパートの、駐車場の交通整理だ。
 入り口には完全自動の駐車場マシーンが設置されているので、俺の仕事は暇だった。車が混んできたら機械の補助役を務めてみたりもするが、結局のところ、毎度同じくぷらぷらと誘導棒を振り回すだけのことだった。
 事故もなく、何事もなく、きわめて安全にクリスマスの夜は更けていく。
 どこか遠くの方で、クリスマスソングが奏でられているようだった。
「…‥‥‥…」
 閉店になる一時間はど前に、一台の車がやってきた。
 車自体は、どこにでもある普通の国産車だった。なにも特筆すべきことはない。
 だが、助手席に乗っている女の顔を、俺は知っていた。
 車内ランプを点けていたので、よく見えた。
 俺は何となく、制帽を目深くかぶりなおしてみた。もちろん、その車はなんの滞りもなく俺の目の前を通過していったので、わざわざそんなことをする必要はなかった。
 助手席に座る先輩が、一瞬こちらを振り向いたような気がした。
 当然それも、錯覚だった。
「…………」
 勤務時間が終わった。
 俺は制服を着替え、誘導棒とヘルメットを鞄に詰めると、終電間際の電車に揺られてアパートに帰った。
 途中、コンビニにより、洒などを購入してみた。
 クリスマスだから、浮かれてみようと思ったのだ。
 アパートへと続く坂道を歩きながらビールを飲んだ。
 酒を飲むのは久しぶりだったので、あっという間に酔った。
 いくぶんふらついた足取りで、長い坂道をゆっくり歩いた。向こうの方から、救急車のサイレンが響いてきた。俺は二本目のビールを空けた。メリークリスマスだった。
 公園の前を横切る頃には、すっかり千鳥足になっていた。
 気をつけて歩けば、そんなにふらつくこともないのだったが、せっかくだから酔っぱらいのように歩いてみようと思った。
 大きな緩急を付けた足取りで、電柱から電柱へと渡り歩く。石に躓《つまづ》き、転びそうになる。
 よろけ、車道の真ん中に飛び出しそうになり──その俺の鼻先を、猛スピードの救急車が通り過ぎていった。
「…………」
 跳ね飛ばされるところだった。
 酔っぱらいらしく、大声で文句を言ってやろうと思った。
「このバ……」
 途中で口をつぐんだ。
 救急車は、岬ちゃんの家の前に停車した。
 勢いよく玄関のドアが開き、オジサンが飛び出してきた。彼は救急隊員に向かって、何かを大声でわめいていた。
 救急隊員は担架を持って、家の中に駆け込んでいった。
「…………」
 しばらくすると、玄関から担架が担ぎ出されてきた。
 その担架には、岬ちゃんが横たわっていた。
 ぐったりしていた。
 救急車は、岬ちゃんの乗った担架とオジサンオバサンを収容すると、またも猛スピードで俺の目の前を疾走していった。
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      2

 大晦日《おおみそか》を目前に控えたある日の午後、町外れにある巨大な総合病院の前庭を、俺はぶらぶらうろついていた。
 この病院に、岬ちゃんが入院しているという。
 今朝、駅前のマンガ喫茶に赴いた俺は、疲れ切った表情のオジサンから、その情報を聞き出していた。
『……それにしても、すいませんね』
 なぜかオジサンは謝っていた。
『もう大丈夫だと思ってたんですけどね。学校を辞めてからは、ずっと落ち着いていたんですけどね。最近なんかは、ずっと楽しそうにしてたんですけどね。その反動なんでしょうかね。……ところであなた、結局岬とどういう関係なんで』
『ちょっとした知り合いです』とだけ答えて、そそくさとマンガ喫茶を退出した俺は、その足でまっすぐこの病院にやって来たのだったが──もう二時間近く、俺はひたすら前庭をうろついていた。正門から正面入り口に続く歩道を、散歩中の入院患者や見舞客に交じって、行きつ戻りつ歩いていた。
 この病院の四階に、精神科の開放病棟があるという。岬ちゃんはそこの個室に入院しているという。
 睡眠薬のたぐいをがぶ飲みしたそうだ。致死量ギリギリだったそうだ。もう少しで手遅れになるところだったそうだ。
 なぜ岬ちゃんが睡眠薬などを持っていたのか、それは不明だ。
 おそらくは、近所の精神科などから手に入れたものなのだろう。しかし、長い時間をかけて通院しなければ、致死量まで貯め込むことなど不可能だ。
 となると、これは明らかに計画的犯行なのだった。岬ちゃんは、ずっと前から死ぬつもりだったのだ。
 そんな女の目の前に俺がのこのこ現れて、それで一体どうするつもりだ?
 どうにもならない。
「死ぬんじゃない!」とか、そんなことを言ってみればいいのだろうか?
「明日があるさ!」とか、そんなことを叫んでみればいいのだろうか?
 そんなセリフなら、岬ちゃんの秘密ノートにいくらでも書き込まれている。しかしそれらの言葉は、決して岬ちゃんを救いはしなかった。だからこそ彼女は、薬百錠一気飲みにトライした。
 つまり、俺にできることなど何もない。むしろ顔を見せない方がいい。社会の底辺に生きるひきこもり人間などに見舞いされたら、よけいに虚しくなるだろう。
 というわけで、俺はアパートに帰ることにした。
 が、正門まで来たところで、足を止めた。
「…………」
 もう一度、正面玄関へと引き返す。
 思考がループしていた。
 このままでは、夜までぐるぐる歩き続けてしまいそうだ。
「…………」
 埒《らち》が明かない。
 俺は勇気を出して、病院内に飛び込んだ。
 受付で「面会バッジ」をもらい、そのバッジを胸につけて、四階へと続く階段を上る。
 四階全体が、精神科の開放病棟として使われているらしい。
 そこは一見、普通の病院となんら変わるところがないように見えた。精神病院と言えば、「ロボトミー」とか「拘束服」とか「電気ショック」等々の薄暗いイメージを連想してしまいがちだが、ここはさすがに開放病棟だけあって、実に清潔で雰囲気も明るい。
 ──と思ったら、廊下の隅に、六十歳ぐらいのオバサンがへたり込んでいた。入院患者らしい。
「…………」
 俺は足早に401号室を目指した。
 廊下の一番隅に、その個室はあった。
 ドアには名札が貼られていた。

  中原岬

 間違いない。この部屋だ。
 俺は小さくノックした。
 返事はない。
 もう一度、今度は少しだけ強くノックしてみた。
 やはり返事はなかったが、ノックの勢いでドアが開いた。もとから半開きだったらしい。
「……岬ちゃん?」
 隙間から室内を覗《のぞ》く。
 いない。
 いないのなら、仕方がない。帰ろう。
「…………」
 だけどせっかくだから、途中の売店で買ってきた果物詰め合わせパックを置いていくことにする。
 ベッドの脇に設置されている小物棚の上には、なぜか電車の時刻表が開かれていた。赤いボールペンで、ところどころ印が付けられていた。俺はその分厚い時刻表をどけて、果物パックを置いた。
 すると、一枚の紙切れが床に落ちた。
 俺はその紙切れを拾い上げ、読んだ。
『三日とろろ、おいしゅうございました。だから皆さん、さようなら』
「…………」
 俺はその紙切れと時刻表をコートのポケットに突っ込むと、病院を抜け出した。
 駅へと向かう。
 日は暮れかけていた。

   *

 自由に出入りできる開放病棟ではなく、窓に鉄格子のはまった閉鎖病棟に入れておくべきだったのだ。きつい拘束服を着せておくべきだったのだ。幸せになるクスリを大量に飲ませてやるべきだったのだ。そうしなかったために、岬ちゃんは出発してしまった。生まれ故郷に旅だった。
 それはおそらく死出の旅だ。
 いつかの会話を思い出す。
『……円谷選手、死ぬ間際に故郷に帰ったんだってさ。そうして、お父さんお母さんと一緒に、とろろいもを食べたんだって』
『やっぱりみんな、死んじゃう前には故郷に帰りたくなるみたいだね』
 そうなのだろう。岬ちゃんも、故郷に帰りたくなったのだろう。小さい頃によく遊んでいたという断崖《だんがい》絶壁の高い岬から、海に向かってダイブするつもりなのだろう。
 しかし、そうは問屋がおろさないのだった。俺に遺書と時刻表を発見されてしまったのが、岬ちゃんの運の尽きだ。
 時刻表につけられた印を見る限りでは、岬ちゃんが電車に乗り込んだのは、ほんの一時間ほど前のことだ。今から追いかければ、充分に間に合う。目的地もわかっているし、なにせこっちには金がある。タクシーを有効活用すれば、岬ちゃんより早く目的地に到着できる可能性もある。
 なにも焦ることはない。
 俺は夜行列車の中で、途中の本屋で買い込んできた地図を広げた。
 岬ちゃんが小さい頃によく遊んでいたという、例の岬を探す。
 ──あった。これだ。
 彼女の故郷に岬と名付けられた地名は、ひとつしか存在していなかった。だからここで間違いない。
 おそらく岬ちゃんは、俺よりも一本だけ早い列車に乗り込んで、今もゴトゴト揺られているのだろう。年末の帰省客に交じって、生まれ故郷を目指しているのだろう。自殺名所の岬を目指しているのだろう。だけど彼女は知らないのだ。俺の尾行を知らないのだ。逃がしはしない。
 俺は間違いなく岬ちゃんを捕まえる。その点に関しては、心配ない。おそらく大丈夫だ。
 問題は、しかし別のところにある。
 岬ちゃんを発見した俺は、そのとき何を言うのだろう?
「…………」
 俺はほんの少しだけ、彼女の苦悩を知っている。俺が知っているのは、その苦しみのごくごく上辺だけだが、それでも俺には、なんとなくわかる。
 彼女はもう、どうしようもない。彼女の苦しみは、一生消えない。
 だけどもそれは、当たり前のことなのだ。岬ちゃんの苦しみは、おそらく人類の共通事項。ありふれた苦悩なのだ。
 誰しもが似たようなことで悩んでいる。ついでに俺も、悩んでいる。
 生きていても、どうしようもない。
 苦しいだけだ。
 それを知りつつ、ダイブを止めるのか? 止める権利があるものなのか?
 ……もちろん、まともな社会人であるからには「それでも生きろ!」とか「泣き言言うな!」とか、そんな感じの適当なことを言ってやるべきなのだろう。それはわかっている。
 わかっているのだが──

   *

 いろいろなことをつらつらと考えているうちに、列車は目的地に到着した。
 駅から出ると、そこは寂れた地方都市だった。
 すでに深夜ということもあるが、駅前の商店街は、まるでゴーストタウンのように静まりかえっていた。道を歩く人影もない。
 それに、ひたすらに寒い。
 雪が降っているのだ。
 日本海に面しているだけあって、ちょっとした豪雪地帯だ。
 俺はコートの襟元を締め、一台だけ停まっているタクシーに向かった。
 タクシーの運転手は、客の到来に驚いているようだった。居眠りしていたらしい。初老の彼は、慌てた様子で目元を拭《ぬぐ》った。
 俺は暖かい車内に乗り込むと、地図を指し示して目的地を告げた。
「…………」
 運転手は「本気ですか?」という顔で俺を見た。
 俺はうなずいた。
 チェーンをガリガリとうならせて、タクシーは発進した。
「……だけどお客さん、こんな夜更けに、なんでまたあんな所に」
「観光です。急いでください」
 数十分ほどで、タクシーは海沿いの坂道に出た。
 そのまま急な坂道を昇っていく。右手には真っ黒な海が広がっていた。
 坂道を昇りきったところで、タクシーは停車した。
「……確かに観光名所って事になってますけどね、こんな所、なんにもないですよ」
 申し訳なさそうに運転手は言った。
 俺は運賃を支払い、タクシーから降りた。
「……まさかあんた──いや、今はもう工事が終わってるから大丈夫ですかね」
 そうしてタクシーは走り去っていった。
 俺は周囲を見回した。
 本当に、なんにもないところだった。というか、真っ暗でよく見渡せない。
 右手の方に海があるので、その方向に向かえば崖《がけ》があるはずなのだが──あたりを照らすものは、まばらな街灯だけだ。大変に心細い。
 ともかく俺は車道を渡り、ガードレールの切れ目から、雪の積もった小道へと進入した。
 この道の向こうに岬ちゃんがいる、そのはずだった。
 足首まで積もった雪を踏み分けて、俺は歩く。左右を藪《やぶ》で覆われた小道を、滑って転ばないように気をつけながら歩く。一歩進むごとに、周囲の闇が深くなる。
 もはや街灯の明かりは届かない。ほとんど何も見えない。しかし、薮は開けた。小道は終わった。目の前に広がっているのは真っ暗な空と、日本海だ。そう。ここは岬の先端部。暗くてよく見えないが、十メートルほど向こうには崖がある。とうとう着いたのだ。目的地に到着した!
「…………」
 しかし、岬ちゃんは?
 俺は周りを見渡した。
 何も見えない。
 夜空には大きな満月が昇っているものの、闇に目が慣れていないので、ものの輪郭しか判別できない。が……どうやらどこにも人影はない。それだけはわかった。
 ──どういうことなのか? 俺が先に到着してしまったのか。もしくは、岬ちゃんがどこかで寄り道しているのか。それとももしや──
「…………」
 心臓が、いきなり激しく脈打ち始めた。
 ぞっとした。
 ……いやいや、まさか。
 俺が到着する前にダイブしてしまったとか、そんな結末はないだろう。
 もうすぐ来るさ。
 もうすぐ岬ちゃんは、そこの小道を歩いてくるさ。
 俺は後ずさり、海に向かって設置されている、ペンキの剥《は》げたベンチに腰を下ろした。
 そうして、顔を小道に向けたまま、岬ちゃんを待った。
 しかし、一時間が経過した。
 岬ちゃんは来なかった。
 一向に、小道を抜けてくる気配はなかった。
 俺は頭を抱えた。
 知らず知らずのうちに、独り言が漏れていた。
「……どうして」
「何が?」
「……俺の到着が遅かったのか?」
「そんなことないよ」
「しかし岬ちゃんは──」
「あたしとたったの五分違いだったよ。探偵になれるかもね」
「…………」
 俺は右方向にゆっくりと顔を向けた。
 そこにいたのは岬ちゃんだった。
 闇夜に溶け込む黒いコートを着て、ベンチの端に座っていた。
 岬ちゃんは言った。
「ようやく口を開いてくれた。ずっと何も言わないから困ったよ」
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      3

 むらむらと激しい怒りがこみ上げてきた。バカにされているような気がしてきた。その感情をぐっと抑えつけ、できる限りの優しい声音で口を開いた。
「さぁ、帰ろうか! 寒いしね!」
「イヤです」
 イヤですじゃねえだろ! この、くそ、バカにすんのもいい加減に──
 そう思いっきり罵倒《ばとう》しそうになったが、俺はその衝動をなんとか堪《こら》え、昔に読んだ『自害の心理学』という本を思い出してみた。
『自殺を試みる人間は、本当は誰かに助けてもらいたがっているのです。誰かに話を聞いてもらいたいのです。できるかぎり神妙に、なおかつ否定的意見を唱えることなく、優しい態度で話を聞いてあげましょう』等々といった内容が、その本には書かれていた。
『神妙に』
『否定的意見を唱えることなく』
『優しい態度で』
 というのがキーワードらしい。
 俺は襟元をただし、岬ちゃんに向き合った。神妙な態度の証明だ。
 そして言う。
「死んじゃダメだ。生きていこう」
 岬ちゃんは微笑んだ。それは嘲笑《ちょうしょう》だった。
 俺がどれだけ苦労してここまで来たのか、それをしっかり思い知らせてやりたくなったが、当然それも我慢する。優しい声色で訊《き》く。
「どうして急に自殺なんか?」
「別に佐藤君のせいじゃないよ」
「そんなことはわかってる。だから──」
「生きていくのに疲れました」
「……もっと具体的にさ」
「全部がイヤになりました。生きてても仕方がありません」
 微笑みながら、そんな抽象的語句を唱える女だった。
 ──やっぱりバカにされているのだろうか?
「うん、そうだよ。だっていまさら佐藤君に助けてもらおうとは思わないよ。しよせん佐藤君はひきこもりだし」
 頭に血が上った。
「なら死ね!」
「うん死ぬ」
「うそ! 嘘です。死ぬな、死んだら地獄に──」
「そんなにあたふたしなくてもいいよ。そもそもね、ホントだったらもう死んでるんだよ、一年かけて集めたクスリを一気飲み。オジサンに見つかってなきゃ成功してたよ。……だからもう、佐藤君が何したって、あたしはそろそろ死ぬんだから」
 互いの顔も見えないほどに真っ暗な冬の岬で、死ぬだの死なないだの、どこまでも浮世離れした会話を続ける俺たちだった。
 すでに時刻は深夜零時を回っている。
 寒い。
 岬ちゃんはカチカチと歯を鳴らしていた。
「どっちにしても、死ぬんだよ」
 完全に開き直っているようだった。
「止められるものなら止めてみせてよ、どうせ無理だけどね」
 もはや、自殺に対する社会通念は通用しないらしい。何の恥じらいも見せずに、これから死ぬことをアピールしていた。俺は反撃した。
「……そんなこと言って、ホントは岬ちゃん、もう死ぬ気なんてないんじゃないの?」
 すると岬ちゃんは、コートのポケットに手を入れて、何やら金属製の物体を取り出した。
「ここに一本のカッターナイフがあります」
 チキチキチキッと一気にカッターの刃を伸ばし、宣言した。
「このカッターで、さくっとあたしの右手首を──」
「危ない!」俺は岬ちゃんの手を捕まえようとした。
「近寄らないでよ!」岬ちゃんは素早くベンチから立ち上がり、俺の手から逃れた。
「もう、どうしていいのかわかんないんだから。きっと頭がおかしくなってるんだから。近寄ったら、たぶん刺しちゃうよ!」
 そう叫ぶと、カッターを持った右手を前方に伸ばして、左手を背中に回し──フェンシングの構えのような格好をした。
「……なにそれ?」
「この前図書館で、『ザ?殺人術』って本を読んで覚えたんだけど。……シチリアマフィアのナイフ格闘術」
「…………」
 岬ちゃんは俺から数メートルの間合いをとって、威嚇のつもりか、カッターをひゅんひゅんと振り回した。
「呆れてるでしょ? せっかく助けに来てくれたのに、なんておかしな奴だって、呆れてるでしょう? だけどね、しょうがないんだよ。……きっと佐藤君は、アレでしょう? こう、自殺しそうな頭の弱い女の子を、格好良く助けてやろうとか、そうゆうことを考えてたんでしょう? でも、無理です。無理だからね!」
 月を背負った岬ちゃんの姿は、まったくもって、よく見えなかった。どんな表情を浮かべているのかもわからなかった。だが──冗談のようで、冗談ではない。それは確かなようだった。
 だから俺は言った。真顔で。
「……俺が岬ちゃんのことを心底好きだとか、そんなことを言ってみたら、どうする?」
「どうもしないよ。もうおしまい。だって、佐藤君なんて、しよせんひきこもりだし。すぐに気が変わったりしそうだし。それにホントは、あたしのことなんて、ぜんぜん好きじゃあないんでしょう? 誰かが、頭からつま先まであたしのモノになってくれなきゃ、あたしは死んじゃう方がいい。というわけで、あたしの欲求は、どんな人間にだって叶《かな》えることは出来ません。あたしはそれを、知ったのです。だからつまりどっちみち、あたしはさっぱり死ぬべきで──」
「好きだ! 愛してる! 死なないでくれ!」
「ははは、面白いこというね佐藤君。でもダメだよ。死ぬんだから!」
 なんとなく、少女漫画チックなセリフを応酬する俺たちだった。
 しかしその一方で、好きとか、嫌いとか、そのような言葉は、たぶんどうでもいいことだと知っていた。たぶん問題はもっと深くて根本的なところにあるのだった。そのことを俺は、なんとかして説明してやるべきなのだった。言葉に出して、岬ちゃんに教えてやるべきなのだった。なのにどんな言葉も、あっという間にするするとすり抜けていくだけだった。口に出した瞬間に意味を失ってしまうのだった。
 わからなかった。
 どうすれはいいのか。俺は何がしたかったのか。俺は何を考えていたのか──
 別に死んだっていいじゃないか。そうも思う。
 おんなじことだ。早いか遅いかの違いだけだ。どうせこのさき生きていても、苦しいことばかりで、大変だ。意味がない。生きている意味がない。死ぬ方が良い。それはどこまでも論理的な結論で、誰にも反論できるわけがない。
 少なくとも俺には、反論できない。自殺を思いとどまらせる役目としては、俺ほど不適当な人間、きっと他には存在しない。
「……だけどダメだぜ」俺は無茶なことを言っていた。
「死ぬとか言うな」俺は嘘臭いセリフを喋《しゃべ》っていた。
 ぶんぶんとカッターナイフを振り回す岬ちゃんに、勢いにまかせて、一歩、近づく。岬ちゃんは後ずさった。俺は構わず前進し、無造作に右手を伸ばした。
 岬ちゃんの体に触れる前に、カッターの刃が俺の手のひらを切り裂いた。
 一拍置いて、血が流れた。
 雪に染みた。
 痛くはあったが、その痛みは、しかし素敵だった。
 岬ちゃんは、血の付いたカッターをぼんやりとした表情で眺めていた。
 俺は笑ってみせた。
 岬ちゃんは泣きそうな顔をした。
 風が吹き、粉雪が舞い上がった。
 そうして俺は、とうとう理解した。
 何を為すべきなのか、それを悟った。
 この女を生かす。
 この女を、救う。
 ──だけど、どうやって?
 俺のようなひきこもり人間に、他人をどうこうできるだけの力があるものなのか? そんなのは、無理じゃないか? 身の程を知った方が良いんじゃないか? どうなのか?
「…………」
 だが、どこかに見事な解決策が存在している。そんな気配があった。なにもかもがうまく解決する、そんなやり方があるはずだった。俺の望み、岬ちゃんの願い、そのすべてが叶えられる、そんな方法があるはずだった。俺はそれを知っているはずだった。
 彼女の苦しみを消す。ニコニコ朗らかに暮らしていけるようにしてやる。明日への活力をプレゼントし、生きる力をくれてやる。
 その方法、そのやり方。俺は、それを、知っているはずなのだ。
 ──いつだったか、この女は言った。
『悪い神様がいるんなら、逆にあたしたちは健やかに生きていけるよ。神様に不幸の責任を押しつけられれば、逆にその分あたし達は、すっかり安心できるでしょ?』
『……神様を信じられたら、幸せになれるよ。神様は悪いやつだけど、それでもきっと、幸せになれるよ』
『問題は、あたしの想像力が貧困で、うまく神様を信じ込むことができないってことです。──ほら、聖書か何かみたく、目の前で凄《すご》く派手な奇跡とかを起こしてくれればいいのにね』
 彼女は、神様を信じたがっていた。だけど、彼女の神様は悪者だった。悪の元凶だった。
 そんな悪者の存在を信じ込めたら、岬ちゃんは生きていけると言う。悪者の存在を示す奇跡が目の前で起こってくれたのなら、彼女は生きていけると言う。
「…………」
 だったら俺が、君の願いを叶えてやろう。
 その方法──それは限りなく、難しく、大変で、大きな犠牲をともなうだろう。しかしそれこそが俺の望み。我が身を犠牲にしてヒロインを助ける、それは最高に主人公らしい振る舞いだ。
 あぁ、山崎に自慢してやりたい。
 俺は今こそ生きている。愉快に命を燃やしている。生きている実感がある。そう胸を張って自慢してやりたい。
 そうだぜ。よくよく考えてみれば、これはだいぶドラマティックな夜だ。ナイフを振り回す女、その女の自殺を思いとどまらせようとする俺。かなり感動的だ。
 だからもうすぐ言葉が溢《あふ》れてくるはずだ。このような状況ならば、俺にも素敵な一言が言えるはずだ。だけど岬ちゃんは震えていた。俺もおそらく震えていた。恐怖があった。俺は勇気を出した。
 脳裏をよぎっていくのは、二十二年間の思い出だ。きっと俺の人生は、今この時のために存在していたのだと思う。この女をなんとかして生かしてやる。それが俺の使命なのだろうと思う。
 そうでなければ意味がない。生きてきた意味がない。生きて死ぬ、その意味がない。だからこそ俺は理解する。いま、全てを理解する。何もかもを知り、何もかもが繋《つな》がる。
 脅《おび》えて震える岬ちゃん、彼女を助けるのだ。命に替えて、助けるのだ。そのようなシチュエーションこそが、俺の望みだったはずなのだ。エンディングへのフラグは、いまやすべてが完了済みなのだ。エンディングに向けての俺のセリフ、ただそれのみによって、このシーンは動き出すのだ。だからこそ俺は立ち上がり、立ち向かうのだ。そして岬ちゃんは生きる意味を見つけるのだ。ハッピーエンドだ。だけど怖い。助けてくれ──
「…………」
 それでも俺は、勇気を出す。
 震える岬ちゃんを抱きしめる。
「……岬ちゃんは悪くないんだ」
 力一杯抱きしめて、耳元でささやく。
「岬ちゃんは、ちっとも悪くない。なにひとつ、悪くない」
 岬ちゃんは細い。痩《や》せている。ぶるぶると震え、俺にしがみついている。その俺たちを、真っ暗な夜が取り囲んでいる。
 風の強い夜だ。雪のちらつく夜だ。孤独が深まり、やりきれない夜だ。
 どうしてこんなに悲しいんだろう? どうしてこんなに寂しいんだろう? その理由が君にはわかるか?
 ──あぁ、俺にはわかるぞ。もうすぐお別れするからだ。もうすぐサヨナラするからだ。だから俺たちは震えているのだ。いつでも孤独なんだ。いつでも寂しいんだ。だけどもそれは、いつものことだ。当たり前のことだ。誰だって同じだ。だから自分を恨むな。自分を憎むな。憎むべき対象は、他にいる。それを知るんだ。
「……そうさ。悪いやつは他にいる。岬ちゃんを苦しめているヤツは、他にいるんだ」
 君が悲しむ必要はない。まったくもって、その必要はない。
 どうして悲しむ必要がある?
 もしも君が、いつでも苦しくて寂しくてやりきれないとしたら、それは不条理だ。おかしいじゃないか。そんな話は変じゃないか。
 だから、どこかに元凶が存在しているんだ。君を苦しめている悪者がいるんだ。
 だから──だからだ。
「だから、この世の中には『陰謀』が存在しているんだよ」
 しかし、他人の口からまことしやかに語られる陰謀は、九十九パーセント以上の確率で、ただの妄想、もしくは意図的な大嘘にすぎないんだよ。本屋に行けばよく目にする「日本経済をダメにしたユダヤの大陰謀!」「宇宙人との密約を隠すCIAの超陰謀!」などという本も、すべてはつまらない単なる妄想なんだよ。
「だけど、それでも、ごくごくまれな確率で、本物の『陰謀』を悟ってしまった人間が存在するんだよ。今この瞬間にも水面下で進行中の陰謀を、この目で目撃してしまった人間がいるんだよ!」
 それは誰だ?
 俺だ。
 ならば敵の名は?
 俺はその名を知っている。ずっと前から知っている。
 俺たちを苦しめる悪の組織、岬ちゃんがその存在を請い願う、悪い神様。
 ヤツの名は……
 NHK。
 そうなのだった。いまこそすべてを思い出した。敵の名前。自分の使命。自分の存在理由。今まで生きてきたそのワケ。ぐずぐずぐずぐずと虚《むな》しく馬鹿らしい毎日を送ってきた、その意味。
 ──そうさ。俺の一生は、君を救うためだけに存在したんだ。それはたぶん本当のことなんだ。
 ぜんぶ本当なんだ! だから聞いてくれ! 岬ちゃんを逃がさぬように抱きしめたまま、懇切丁寧に早口で説明してやる。
「いいかい岬ちゃん、この世には悪い組織が存在する。奴らの名はNHK。NHKは巨大な組織だ。全世界を覆い尽くす、悪の秘密結社だ。奴らが俺たちを苦しめている。悪いのは全部NHKだ。もしもこの先、君の周りに悪いことが起きたとしても、それはぜんぶNHKのせいなんだ。全部NHKが悪いんだ!……もっともNHKという名前は、あくまで便宜的なものだ。名前なんて、どうでもいい。NHKって名前が気に入らなかったら、好きに呼べばいい。なんだったらサタンでもいいぞ。悪い神様でもいいぞ。おんなじことだ」
 そう、名前はどうでもいい。単なる語呂合わせなんだ。自分を苦しめている仮想敵。それがNHKの本質だ。
 NHK──たとえばあの先輩の場合なら、それは「日本ひ弱協会」を意味する。あの人は、いつもひ弱で参っていた。精神肉体、ともにひ弱だった。リストカットはやめてくれ。なんとか幸せになってくれ。
 そして岬ちゃんの場合なら、NHKは「日本悲観協会」を意味している。岬ちゃんは、生まれながらの不幸によって、なんでも悲観的に考えてしまう。生きていてごめんなさい。だけど嫌わないで。そんな感じで、いつも悲観的だ。
 そうして俺のNHKは──
「俺がひきこもりになったのも、実はNHKのせいだ。岬ちゃんが苦しんでいるのも、奴らのせいだ。それが真実だ。俺はとあるルートから、その真理を教えて貰《もら》ったんだ。そうして俺は、奴らと戦っていた。ずっと奴らと戦っていた。……だけどな、もうダメだ。奴らの魔手が、とうとう俺を捕まえた。俺はもうすぐ奴らに殺される。だけど岬ちゃんは大丈夫だ。君は元気に生きていくんだ」
 岬ちゃんは、わけのわからないことを口走る俺に、明らかに脅えている。
 俺は岬ちゃんを解放し、一歩、後退する。
 これから奇跡を見せてやる。NHKの存在を証明する、最高の奇跡を見せてやる。NHKと戦う戦士、その雄々しい姿を見せてやる。俺がNHKを倒してやる。
 そうしたならば、岬ちゃんは俺の話を信じるだろう。そうしてニコニコ生きていくだろう。自分を憎むことはやめるだろう。悲観的なその性格が改善されるだろう。
 ついでに、そうだ。変わらぬ愛とかも、くれてやろう。君は恐れていた。他人に嫌われることを恐れていた。他人の心が変わることを恐れていた。だけども、もう大丈夫だ。俺の心は変わらない。君が好きだ。その気持ちは、もはや決して、変わることがない。
 なぜならば──
「うああああああ! もうダメだ! NHKの精神攻撃だ!」俺は大げさに頭を抱えて、岬ちゃんの目の前で雪の上をゴロゴロ転がった。
「俺の頭がおかしくなってるように見えるか? だとしたら、それも含めてNHKのせいだ。俺はもうすぐ殺される! NHKに殺される! だけど一矢報いてやるぞ! 見ていろよー」
 そうして俺は、起きあがり、一目散に、ダッシュする。
 崖っぷち目がけて走り出す。
 最初はゆっくりと。
「さようなら岬ちゃん! 足が勝手に動くんだ。俺はNHKに殺される。だけど、死ぬ間際に、なんとかNHKに一矢報いてやる。NHKを倒してやる!」
 しだいにスピードを上げていく。
「そうさ! NHKを倒すには、命を捨てての特攻しかないんだ。命を燃やして特攻するしかないんだ。だからこそ俺は行くぞ。──君の命は俺が守る!」
 いまや全速力だ。
 力の限り、夜の空へと駆け抜けるのだ。崖っぷちまではもうすぐなのだ。
 あぁ、飛び込んでやるぞ。ダイブしてやるぞ。特攻してやるぞ。
 この俺の、あまりにアホらしい最後によって、岬ちゃんは悪の組織を信じ込むだろう。俺の特攻によって、悪の組織の消滅を思い知るだろう。それは彼女に幸福をもたらすだろう。
 それでも岬ちゃんは、なにひとつとして罪悪感を覚える必要はない。
 なぜならば、これはすべて俺自身の願望なのだから。俺はずっと死ぬつもりだったのだから。
 自分の目的を叶え、岬ちゃんを救う。これこそが一石二鳥の冴えたやりかたなのだ。死ぬつもりだったのは、俺の方だ。ずっとずっと、死ぬつもりだった。餓死してみようかと思ったことさえあった。けれどもそれは無理だった。俺のような意志の弱い人間には、断食なんか、耐えられなかった。四日で限界だった。だから俺は飯代と部屋代を稼ぐために働いた。それは死ぬ前の一働きだった。死に場所を探していたんだ。つまるところ、君よりも俺の方が、頭のおかしい人間だったってことだ。俺の方がずっと、精神が異常な人間だったってことだ。だって、そうでもなければ、こんなふうな行動をとったりはしないだろう?
 だから岬ちゃん、俺を見下しつつ、その一方で、俺の愛だかなんだかを受け取ってくれ。
 もうすぐ俺は死ぬ。しかし岬ちゃんは生きていくんだ。
 NHKは俺が倒してやる。悪の組織は、俺がやっつけてやる。その事実を信じてくれ。そうすれば生きていける。岬ちゃんは生きていける。
 だから君は、俺の特攻を目に焼き付けるんだ。
 ──ほら、見えているか? 俺の右手で淡く輝く革命爆弾が、君には見えているか? 山崎が使用をためらった革命爆弾だ。悪者を倒すための地球破壊爆弾だ。その威力はとても弱々しくて、NHKを爆散するにはあまりにもひ弱だ。しかし、このちっぽけで惨めでくだらない生き物、つまり俺、俺の息の根を止めるには充分に強力で、俺が死んだら俺のNHKも消滅する。なぜならば、NHKは神様だ。そして世界だ。俺の死によって、俺の世界は消滅するのだ。NHKは消えて無くなるのだ。
 だからこそ。
 だからこそ俺は、幻想の革命爆弾と共に、いまこそ雄々しく特攻するのだ。
 俺は死ぬ。
 もうすぐ崖からダイブする。
 背後で岬ちゃんが何かを大声で叫んでいたが、しかしその声も、もはや俺には届かない。誰にも俺は、止められない。
 あぁ、最高なんだ。
 風を切って駆けぬける俺の姿。
 あぁ、良い気分だ。
い闇夜の岬をひた走る、この爽快《そうかい》感。
 だが、恐ろしい。
 死にたくない。
 だけど、生きていてもしょうがない。
 生きたくないんだ。
 俺はもうすぐ死ぬ。
 残すところ崖っぷちまで数メートル。あとほんの一瞬、あと一回俺の心臓が脈動したそのとき。俺は大空へと飛翔《ひしょう》する。
 あと数歩だ。
 力一杯に腕を振り、大きく右足を踏み出して──そうして俺は、ダイブする。 はじめて俺は、脱出する。六畳一間を抜け出して、どこまでもどこまでも高く舞い上がり、広大な大空へと脱出する。ジャンプする。飛翔する。
 あぁ、もうすぐだ。
 もうすぐ飛ぶぜ。
 走り幅跳びの要領で、日本海へと飛び込むぜ。飛び出すぜ。
 飛ぶぞ。
 飛んだぞ。
 俺は飛んだぞ! すでに両足は地面から離れている。
 俺の体は空に浮いている。
 あと数瞬。もうすぐ俺の体は落下する。
 落下し、日本海に叩《たた》きつけられる。
 エンディングはもうすぐだ。
 山崎が作ったエロゲーそのままに、俺はNHKへと特攻する。ヒロインを守るために、最後の戦いへと突入する。あのゲームシナリオが、俺の願望だった。 その願望そのままに、俺は死ぬ。
 そしてそれこそが最高のハッピーエンド。
 もうすぐ俺は、救われる──

   *

 ──しかしそのとき。
 俺はふと気がかりなことに思い当たった。あのゲームのエンディング。それがどうしても思い出せない。あのゲームの主人公は、悪の組織に勝てたのだったか? そもそもエンディングは存在したのだったか?
『勝てるわけがない』と、誰かが言った。
 それは夢だったのかもしれない。
 俺はもう、とっくの昔に気を失っているのかもしれない。
 しかし、宙を舞う俺の眼前には、真っ黒な日本海と鮮やかな星空が広がっていた。
 そうして俺は、奴らを見た。
 奴らは俺を、嘲笑《あざわら》っていた。
 もうすぐ俺の体は落下する。もうすぐ俺は死ぬ。そのはずだ。
 それなのに──
『思い出せ』と、奴らが言った。
 ──あまりにも落下事故が多いこの岬、すでに対策工事は完了している。
 革命爆弾は消えていた。不発だった。
 俺は絶叫した。
「それがお前らのやり口ってわけか! 卑怯《ひきょう》じゃないか!」
 答えは返ってこなかった。
[#改ページ]
    終章 NHKにようこそ!

 春になった。
 俺はやっぱりひきこもっていた。
 ──なぜだ! どうして俺はひきこもっているんだ! いい加減にしろ! 真面目に働け! などなどと、自分に怒りをぶつけてみたりもするが、当然の事ながら、そうそう簡単にひきこもりから脱出できるわけもない。
 迫り来る神経症に、じわじわと忍び寄る自殺願望に、その他|諸々《もろもろ》の困った物事(家賃が値上がりりしたこと、行きつけのコンビニが閉店したこと)に、俺は今でも悶々《もんもん》としていた。
 あぁ、そのうえ明日は警備のバイトだ。ひたすらにめんどくさい。
 鬱々《うつうつ》と思い悩んでしまう。
 それなのに、窓の外は桜が満開だ。大学の新入生なんかが、アパートの前を颯爽《さっそう》と歩いていた。
 全世界から見放されたような気がした。全人類からバカにされているような気がした。
「…………」
 たとえば山崎なんかは、この前葉書をくれた。その葉書には写真がプリントされていた。美人な婦女子と、満面の笑みを湛《たた》えた山崎が写っていた。
『いやあ、僕、もしかしてそろそろ結婚するかもしれません。前々から親が見合いしろ見合いしろってうるさくて(田舎は結婚が早いんです)それでしょうがないから、一度だけ思い切って見合いしてみたら、それがもう! ビンゴですよ!』
 最近はエロゲー変好家のロリコンでも、人並みの幸せを享受できる時代になったらしい。
 死ね。地獄に堕《お》ちろ。
 ついでに例の先輩からも年賀状が来た。
『マイホームはすごい豪邸です。ラブラブです。もうすぐ赤ちゃんが生まれます』
 マジで幸せらしい。
 くそっ。地獄に堕ちろ。
 さらに岬ちゃんも、いままさに人生上昇傾向だった。
 オジサンの家に帰ってきた岬ちゃんは、当然の事ながら死ぬほど怒られて、海よりも深く反省したらしい。いつだったか、俺に相談話をもちかけてきた。
『どうしたらちゃんと謝れると思う?』
『元気に暮らしてれば、それでいいんじゃないの?』
『自分でも信じられないくらいに迷惑かけたんだから、それだけじゃ済まないでしょう。もっと、こう、本当に、誠心誠意の感謝と謝罪を示すには』
『オジサン、結構金持ちなんでしょ。だったら勉強して、大学でも行ってみれば? そういや大検、受かったんでしょ?』
 俺は深く考えずに適当なアドバイスをしてやった。すると数ヵ月後に、そのアドバイスは現実のものとなった。なんと彼女は、今年の春から大学生になるという。確かにあの大学、俺でも合格できるぐらいの偏差値なのだったから、それほど驚くことでもないのだが──
 しかし、いまやあの女は大学生。一方俺は、フリーター兼ひきこもり。
 あぁ、もうダメだ。
 みんな地獄に堕ちろ!
「…………」
 だが──人を呪う者は、穴が二つになるという。そこで俺は、無理矢理なんとか気分を立て直し、皆の幸せを願ってみた。
「……あんたたち、たとえ地獄に堕ちても頑張ってくれ」
 俺も適当に頑張る予定だ。
 ぼちぼちと頑張ってみる予定なのだ。
 なぜかというと──ここに一枚の紙切れがある。
 秘密ノートを破り取って作成された契約書だ。その契約書の文面をまっとうするには、頑張るしかない。

   *

 あの夜──
 俺は飛び、そして着地した。転落事故防止のために、岸壁に張り巡らされていた金網のフェンス。その上にちょこんと着地した。
 フェンスは崖の岩肌に、「レ」の字になるように埋め込まれていた。綺麗《きれい》な景観を壊さぬよう、わざわざ崖壁に柵をとりつけるとは、さすがに観光地だ。安全対策にぬかりがないとは、さすがに観光地だ。
 泣きたくなった。泣いた。死にたくなった。死ねなかった。
 あと一歩足を踏み出せば、今度こそ飛べる。しかし、無理だ。できなかった。両足がガクガクと震えていた。心臓の音が馬鹿みたいにうるさかった。気持ち悪かった。吐き気がした。もういやだった。
 だから誰かなんとかしてくれと呻いた。俺は死にたいんだとわめいた。つまりいますぐ殺してくれと思った。誰か俺を突き落としてくれと願った。アパートに帰ってひきこもるのも嫌だし、岬ちゃんと顔をあわせるのも嫌だった。ゴタゴタしたことを考えたくはない。これ以上苦しいことを味わいたくはない。いますぐ死にたい。だから頭をかきむしり、体を丸め、それから仰《の》け反り──しかし滑稽《こっけい》だ。惨めだ。馬鹿みたいだ。びゅうびゅう風が吹くたびに、俺はよつんばいになってフェンスにしがみつく。怖い。落ちるのが怖い。下を見ると寒気がする。金網の下は日本海だ。荒波だ。助けてくれ。いいや、助けるな。笑うなよ。どうすればいいんだ? ふざけるなよ。見るんじゃない。こっちを見るなよ! なに泣いてんだよ! 泣きたいのは俺の方だ!
「…………」
 岬ちゃんは崖っぷちから顔を出し、俺を見下ろしていた。
 俺は両手で顔を隠した。
 どうしていいのかわからなかった。これ以上生き恥をさらしたくはなかった。
 岬ちゃんは崖っぷちに寝そべり、手を差し伸べてきた。
 俺を助けようとしている。その表情、俺を哀れんでいる。
 俺は岬ちゃんの手を振り払うと、岩肌に足をかけ、自力で岸壁を登った。数度、凍った岩肌に滑り、フェンスに尻餅《しりもち》をついてしまった。三度目の挑戦で、二メートルほどのロッククライミングは成功した。
 崖っぷちにへたり込んでしまった。
 目の前に岬ちゃんが立っていた。彼女は俺の手を取ると、力任せにずんずんと国道の方に引っ張っていった。一刻も早く、崖っぷちから離れようとしているようだった。俺は雪の上を引きずられた。
 数分前まで座っていたベンチの前まで到着すると、今度は俺を、叩いてきた。
 ぽかぽかと叩かれた。しまいにはがつんとショルダータックルされた。俺は仰向けにすっ転んだ。その上に岬ちゃんはのしかかってきた。俺の胸に顔を埋め、言葉にならない鳴咽《おえつ》を漏らしていた。
 いまになって、カッターで切られた右手が痛んできた。
 出血は止まらなかった。
 岬ちゃんは俺の手のひらを握りしめた。
 俺はその手を乱暴に払った。彼女の頬に、血の飛沫《ひまつ》が飛び跳ねた。彼女はそれを拭おうともしなかった。俺に馬乗りになり、わめいていた。
 俺は岬ちゃんを押しのけた。しかし彼女はマウントポジションを崩さなかった。俺の肩を押さえ込み、ずっとそうして震えていた。震えて拳《こぶし》を振り上げた。俺の胸に叩きつけた。何度も何度も殴っていた。
 しまいには、ばっこんばっこん顔面を叩かれた。
 女は加減を知らなかった。
 意識がもうろうとしてきた。
 岬ちゃんは拳を振り上げ、「死んじゃダメだよ」と言った。
 俺は答えず、黙っていた。すると、彼女はもう一発、俺の顔を叩いた。
「……死なないでよ」
 これ以上殴られるのは嫌なので、うなずくしかなかった。
 うなずき、なんとか笑顔を作る。
 ついでになにか、冗談を言ってみようとした。
 無理だった。
 声を出して、泣いてしまった。
 岬ちゃんは目をそらしてくれなかった。
 いつまでもいつまでも俺を見つめていた。
 それでも俺たちは、人心地がついた。
 このままでは凍死してしまうので、ともかく岬を後にすることにした。
 しかし、人生は辛《つら》く苦しい。まったく、いろいろ参ってしまう。だいぶ大変だ。
 車道に出た俺は、かなり大変なことに気がついた。
 ──駅までどうやって帰ればいいんだ?
「タクシーで一時間近くかかったということは──」
「うん、駅まで歩いたら、朝になっちゃうよ」
 俺は絶望した。
 すると岬ちゃんは、俺を引っ張った。
「近くに廃屋があるんだけど──」
「廃屋?」
「あたしの家」
 十分はど歩くと、その廃屋に到着した。窓ガラスは割れ、玄関の開き戸には大穴が空いていた。
 もうすぐ自然倒壊しそうな廃屋で、俺たちは一夜を明かした。
 意外にも、それほど寒い思いはしなくてすんだ。

 一歩歩くごとに床板が抜ける廃屋で、俺たちはいろいろなことをつらつらと話した。
 岬ちゃんは、この家での思い出などを教えてくれた。そのほとんどはかなり悲惨なエピソードだったが、ちょっといい話もあった。
「最初のお父さんがね──顔も覚えてないんだけど──あたしの名前をつけたんだ。すぐ近くに立派な岬があるから、だから岬。ずいぶん適当な命名だよね」
 俺は笑ったものだった。
 そうしてぼちぼち眠くなってきた。
 あと数秒で眠りに落ちるというそのときに、ふいに岬ちゃんは、俺を小さく揺さぶった。
「……結局NHKって、何だったの?」
 長い話になるので、繰り返して説明はしなかった。すると岬ちゃんは、毛布代わりに敷いていたコートから身を起こし、鞄《かばん》の中から秘密ノートを取りだした。
「あたしも考えたよ、あたしのNHK」
「はぁ?」
「暗いから、ちょっとライターで灯《あか》りをつけて──と思ったけど、やっぱりストップ! 大丈夫、まっくらでも字は読めるから」
 早口でそう言うと、秘密ノートに何かをボールペンで書き込み始めた。
「えーと、よし、これで完成」
 そのページを破り、俺に手渡した。
 照明は窓から射し込む月明かりだけだった。俺は仰向けになったまま、目を凝らして紙切れの文面を読んだ。

  NHK(日本人質交換会)の入会契約書

  人質交換会の趣旨
   会員同士で人質を交換します。自分の命を人質として、互いに差し出すのです。つまり
  「あんたが死んだら俺も死ぬぞコラ!」という事です。そうすると、あたかも核保有国の冷
  戦下における睨《にら》み合いのごとく身動きがとれなくなって、死にたくなっても死ねなくなります。
   ですが「あんたが死んだって、そんなのどうでもいいよ」という状況になると、この会の
  システムは破綻《はたん》します。そうならないように気をつけましょう。

     NHK会長、中原岬
     会員一号「    」

「ほら、早くサインしてよ」
 俺はボールペンを受け取った。
 しかし、しばし悩んだ。
 結局のところ、なにひとつ物事は解決していない。
 何かが変わった訳ではない。
 前向きに生きていこう?
 ……バカか! 夢があるから大丈夫?
 ……夢なんてねえよ! これからも毎日毎日「もうダメだもうダメだ!」と呟《つぶや》き続けて生きていくのだろう。
 それでいいのか? どうなのか?
「…………」
 そんなことをほんの少しだけグチグチと思い悩んでみもしたが、結局俺は、契約書にサインした。
 一方岬ちゃんは、鞄に契約書をしまうと、俺の肩を掴《つか》んでぐっと引き寄せた。
 至近距離で目が合った。
 そうして彼女は、高らかに言い放ったものだった。
「NHKにようこそ!」
 ヤケに気負ったその表情に、だいぶ笑いのツボを刺激された。
 微妙な笑いの発作に襲われながら、俺は、思った。
 ……どこまで続くものかは知らないが、できる限りは頑張ろう。
 ぼんやりと、そう決心してみた。
 NHKの会員ナンバー第一号、佐藤達広の誕生だった。
[#改ページ]
    あとがき

 二十一世紀初頭、日本中で「ひきこもり」が大ブレイクした。
 僕は目ざとい男だったので、時流に乗って大儲《おおもう》けしようと思った。
「ひきこもり小説を書いて、有名になろう!」「ひきこもり小説でベストセラー作家になろう!」「そしたら印税でハワイに行こう!」「ワイキキだ!」
 夢はどこまでも広がった。しかし、いざ書き始めてみると、僕はすぐに後悔した。辛かった。
 リアルひきこもり人間が、ひきこもり小説を書くとどうなるか?
 必然的に、自らの体験を創作に利用せねばならなくなる。自分のことを書かねばならなくなる。
 もちろん小説はフィクションであり、いかに自分と似たキャラクターを登場させようとも、彼は彼で、僕は僕だ。同じ口癖を持っていようとも、同じアパートに住んでいようとも、彼と僕とは何の関係もないのだ。住む世界が違うのだ。
 それでもやはり、辛かった。恥ずかしかった。自らの恥を全世界に向けて大公開しているような気分になった。しまいにはパラノイア的な妄想に捕らわれた。
「こんな小説を書いている僕を、皆が陰で嘲笑《ちょうしょう》しているのでは?」本気でそう思った。
 事実、いまだに僕はこの小説を客観的な目で読めない。
 読み返すたびに軽く錯乱する。冷や汗をかく。
 特定の個所にさしかかるたびに、テキストデータが納められているパソコンを、窓から外に放り投げたくなる。また別の個所では、人知れずインドの山奥などに出家してしまいたくなる。
 それはおそらく、作中で語られるテーマが過去のものなどではなく、僕にとっては現在進行形の問題だからなのだろう。
「あのころ僕らは若かった」などと遠い目をしてはいられない。
 すべてはリアルタイムな問題だった。
 だからとにかく、最後まで書いてみた。書けるだけのものを書いてみることにした。
 そしてできあがったのがこの小説だ。
 赤面しながら読み返してみれば──どうなんだろう?
 気分の良い日に読めば「素晴らしい! オレ天才!」、落ち込んでいる日に読めば「こんなものを書いたオレ最低! 今すぐ死ね!」、そう思います。それでもたぶん「書けるだけのものを書き尽くした」、そのことだけは、おそらく本当だと思います。
 さて、みなさんこんにちわ。滝本竜彦です。
 二冊日の本の、二回目のあとがきでした。
 今回も沢山の方のお世話になりました。この本に関わってくれたすべての方々、そして読者のみなさん、本当にどうもありがとうございました。
 まだまだ今後も頑張ります。気合いを入れて頑張ります。

 二〇〇一年十二月[#地付き]滝本竜彦  
[#改ページ]
この作品は Boiled Eggs Online(http://www.BoiledEggs.com)に二〇〇一年一月二十九日から同年四月十六日まで連載され、単行本化にあたり大幅に加筆修正を加えたものです。
[#改ページ]
滝本竜彦(たきもとたつひこ)

1978年、北海道生まれ。ひきこもりが高じて大学を中退し、輝かしい青春のひとときをフルスイングでドブに投げ捨てる。小説で人生の一発逆転を狙うものの、狭いアパートに閉じこもったままの薄暗い日々は、いまだ終わる気配を見せない。「ネガティブハッピー?チェーンソーエッヂ」で第五回角川学園小説大賞特別賞を受賞しデビュー。本書は長編小説第二作になる。

|N H K《エヌ?エイチ?ケイ》にようこそ!

平成14年1月31日 初版発行
平成14年5月20日 4版発行

著/滝本《たきもと》竜彦《たつひこ》
発行者/角川歴彦
発行所/株式会社角川書店


ISBN4-04-873339-7 C0093

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责任编辑:Mashimaro

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