は、今年の春から大学生になるという。確かにあの大学、俺でも合格できるぐらいの偏差値なのだったから、それほど驚くことでもないのだが── しかし、いまやあの女は大学生。一方俺は、フリーター兼ひきこもり。 あぁ、もうダメだ。 みんな地獄に堕ちろ! 「…………」 だが──人を呪う者は、穴が二つになるという。そこで俺は、無理矢理なんとか気分を立て直し、皆の幸せを願ってみた。 「……あんたたち、たとえ地獄に堕ちても頑張ってくれ」 俺も適当に頑張る予定だ。 ぼちぼちと頑張ってみる予定なのだ。 なぜかというと──ここに一枚の紙切れがある。 秘密ノートを破り取って作成された契約書だ。その契約書の文面をまっとうするには、頑張るしかない。
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あの夜── 俺は飛び、そして着地した。転落事故防止のために、岸壁に張り巡らされていた金網のフェンス。その上にちょこんと着地した。 フェンスは崖の岩肌に、「レ」の字になるように埋め込まれていた。綺麗《きれい》な景観を壊さぬよう、わざわざ崖壁に柵をとりつけるとは、さすがに観光地だ。安全対策にぬかりがないとは、さすがに観光地だ。 泣きたくなった。泣いた。死にたくなった。死ねなかった。 あと一歩足を踏み出せば、今度こそ飛べる。しかし、無理だ。できなかった。両足がガクガクと震えていた。心臓の音が馬鹿みたいにうるさかった。気持ち悪かった。吐き気がした。もういやだった。 だから誰かなんとかしてくれと呻いた。俺は死にたいんだとわめいた。つまりいますぐ殺してくれと思った。誰か俺を突き落としてくれと願った。アパートに帰ってひきこもるのも嫌だし、岬ちゃんと顔をあわせるのも嫌だった。ゴタゴタしたことを考えたくはない。これ以上苦しいことを味わいたくはない。いますぐ死にたい。だから頭をかきむしり、体を丸め、それから仰《の》け反り──しかし滑稽《こっけい》だ。惨めだ。馬鹿みたいだ。びゅうびゅう風が吹くたびに、俺はよつんばいになってフェンスにしがみつく。怖い。落ちるのが怖い。下を見ると寒気がする。金網の下は日本海だ。荒波だ。助けてくれ。いいや、助けるな。笑うなよ。どうすればいいんだ? ふざけるなよ。見るんじゃない。こっちを見るなよ! なに泣いてんだよ! 泣きたいのは俺の方だ! 「…………」 岬ちゃんは崖っぷちから顔を出し、俺を見下ろしていた。 俺は両手で顔を隠した。 どうしていいのかわからなかった。これ以上生き恥をさらしたくはなかった。 岬ちゃんは崖っぷちに寝そべり、手を差し伸べてきた。 俺を助けようとしている。その表情、俺を哀れんでいる。 俺は岬ちゃんの手を振り払うと、岩肌に足をかけ、自力で岸壁を登った。数度、凍った岩肌に滑り、フェンスに尻餅《しりもち》をついてしまった。三度目の挑戦で、二メートルほどのロッククライミングは成功した。 崖っぷちにへたり込んでしまった。 目の前に岬ちゃんが立っていた。彼女は俺の手を取ると、力任せにずんずんと国道の方に引っ張っていった。一刻も早く、崖っぷちから離れようとしているようだった。俺は雪の上を引きずられた。 数分前まで座っていたベンチの前まで到着すると、今度は俺を、叩いてきた。 ぽかぽかと叩かれた。しまいにはがつんとショルダータックルされた。俺は仰向けにすっ転んだ。その上に岬ちゃんはのしかかってきた。俺の胸に顔を埋め、言葉にならない鳴咽《おえつ》を漏らしていた。 いまになって、カッターで切られた右手が痛んできた。 出血は止まらなかった。 岬ちゃんは俺の手のひらを握りしめた。 俺はその手を乱暴に払った。彼女の頬に、血の飛沫《ひまつ》が飛び跳ねた。彼女はそれを拭おうともしなかった。俺に馬乗りになり、わめいていた。 俺は岬ちゃんを押しのけた。しかし彼女はマウントポジションを崩さなかった。俺の肩を押さえ込み、ずっとそうして震えていた。震えて拳《こぶし》を振り上げた。俺の胸に叩きつけた。何度も何度も殴っていた。 しまいには、ばっこんばっこん顔面を叩かれた。 女は加減を知らなかった。 意識がもうろうとしてきた。 岬ちゃんは拳を振り上げ、「死んじゃダメだよ」と言った。 俺は答えず、黙っていた。すると、彼女はもう一発、俺の顔を叩いた。 「……死なないでよ」 これ以上殴られるのは嫌なので、うなずくしかなかった。 うなずき、なんとか笑顔を作る。 ついでになにか、冗談を言ってみようとした。 無理だった。 声を出して、泣いてしまった。 岬ちゃんは目をそらしてくれなかった。 いつまでもいつまでも俺を見つめていた。 それでも俺たちは、人心地がついた。 このままでは凍死してしまうので、ともかく岬を後にすることにした。 しかし、人生は辛《つら》く苦しい。まったく、いろいろ参ってしまう。だいぶ大変だ。 車道に出た俺は、かなり大変なことに気がついた。 ──駅までどうやって帰ればいいんだ? 「タクシーで一時間近くかかったということは──」 「うん、駅まで歩いたら、朝になっちゃうよ」 俺は絶望した。 すると岬ちゃんは、俺を引っ張った。 「近くに廃屋があるんだけど──」 「廃屋?」 「あたしの家」 十分はど歩くと、その廃屋に到着した。窓ガラスは割れ、玄関の開き戸には大穴が空いていた。 もうすぐ自然倒壊しそうな廃屋で、俺たちは一夜を明かした。 意外にも、それほど寒い思いはしなくてすんだ。
一歩歩くごとに床板が抜ける廃屋で、俺たちはいろいろなことをつらつらと話した。 岬ちゃんは、この家での思い出などを教えてくれた。そのほとんどはかなり悲惨なエピソードだったが、ちょっといい話もあった。 「最初のお父さんがね──顔も覚えてないんだけど──あたしの名前をつけたんだ。すぐ近くに立派な岬があるから、だから岬。ずいぶん適当な命名だよね」 俺は笑ったものだった。 そうしてぼちぼち眠くなってきた。 あと数秒で眠りに落ちるというそのときに、ふいに岬ちゃんは、俺を小さく揺さぶった。 「……結局NHKって、何だったの?」 長い話になるので、繰り返して説明はしなかった。すると岬ちゃんは、毛布代わりに敷いていたコートから身を起こし、鞄《かばん》の中から秘密ノートを取りだした。 「あたしも考えたよ、あたしのNHK」 「はぁ?」 「暗いから、ちょっとライターで灯《あか》りをつけて──と思ったけど、やっぱりストップ! 大丈夫、まっくらでも字は読めるから」 早口でそう言うと、秘密ノートに何かをボールペンで書き込み始めた。 「えーと、よし、これで完成」 そのページを破り、俺に手渡した。 照明は窓から射し込む月明かりだけだった。俺は仰向けになったまま、目を凝らして紙切れの文面を読んだ。
NHK(日本人質交換会)の入会契約書
人質交換会の趣旨 会員同士で人質を交換します。自分の命を人質として、互いに差し出すのです。つまり 「あんたが死んだら俺も死ぬぞコラ!」という事です。そうすると、あたかも核保有国の冷 戦下における睨《にら》み合いのごとく身動きがとれなくなって、死にたくなっても死ねなくなります。 ですが「あんたが死んだって、そんなのどうでもいいよ」という状況になると、この会の システムは破綻《はたん》します。そうならないように気をつけましょう。
NHK会長、中原岬 会員一号「 」
「ほら、早くサインしてよ」 俺はボールペンを受け取った。 しかし、しばし悩んだ。 結局のところ、なにひとつ物事は解決していない。 何かが変わった訳ではない。 前向きに生きていこう? ……バカか! 夢があるから大丈夫? ……夢なんてねえよ! これからも毎日毎日「もうダメだもうダメだ!」と呟《つぶや》き続けて生きていくのだろう。 それでいいのか? どうなのか? 「…………」 そんなことをほんの少しだけグチグチと思い悩んでみもしたが、結局俺は、契約書にサインした。 一方岬ちゃんは、鞄に契約書をしまうと、俺の肩を掴《つか》んでぐっと引き寄せた。 至近距離で目が合った。 そうして彼女は、高らかに言い放ったものだった。 「NHKにようこそ!」 ヤケに気負ったその表情に、だいぶ笑いのツボを刺激された。 微妙な笑いの発作に襲われながら、俺は、思った。 ……どこまで続くものかは知らないが、できる限りは頑張ろう。 ぼんやりと、そう決心してみた。 NHKの会員ナンバー第一号、佐藤達広の誕生だった。 [#改ページ] あとがき
二十一世紀初頭、日本中で「ひきこもり」が大ブレイクした。 僕は目ざとい男だったので、時流に乗って大儲《おおもう》けしようと思った。 「ひきこもり小説を書いて、有名になろう!」「ひきこもり小説でベストセラー作家になろう!」「そしたら印税でハワイに行こう!」「ワイキキだ!」 夢はどこまでも広がった。しかし、いざ書き始めてみると、僕はすぐに後悔した。辛かった。 リアルひきこもり人間が、ひきこもり小説を書くとどうなるか? 必然的に、自らの体験を創作に利用せねばならなくなる。自分のことを書かねばならなくなる。 もちろん小説はフィクションであり、いかに自分と似たキャラクターを登場させようとも、彼は彼で、僕は僕だ。同じ口癖を持っていようとも、同じアパートに住んでいようとも、彼と僕とは何の関係もないのだ。住む世界が違うのだ。 それでもやはり、辛かった。恥ずかしかった。自らの恥を全世界に向けて大公開しているような気分になった。しまいにはパラノイア的な妄想に捕らわれた。 「こんな小説を書いている僕を、皆が陰で嘲笑《ちょうしょう》しているのでは?」本気でそう思った。 事実、いまだに僕はこの小説を客観的な目で読めない。 読み返すたびに軽く錯乱する。冷や汗をかく。 特定の個所にさしかかるたびに、テキストデータが納められているパソコンを、窓から外に放り投げたくなる。また別の個所では、人知れずインドの山奥などに出家してしまいたくなる。 それはおそらく、作中で語られるテーマが過去のものなどではなく、僕にとっては現在進行形の問題だからなのだろう。 「あのころ僕らは若かった」などと遠い目をしてはいられない。 すべてはリアルタイムな問題だった。 だからとにかく、最後まで書いてみた。書けるだけのものを書いてみることにした。 そしてできあがったのがこの小説だ。 赤面しながら読み返してみれば──どうなんだろう? 気分の良い日に読めば「素晴らしい! オレ天才!」、落ち込んでいる日に読めば「こんなものを書いたオレ最低! 今すぐ死ね!」、そう思います。それでもたぶん「書けるだけのものを書き尽くした」、そのことだけは、おそらく本当だと思います。 さて、みなさんこんにちわ。滝本竜彦です。 二冊日の本の、二回目のあとがきでした。 今回も沢山の方のお世話になりました。この本に関わってくれたすべての方々、そして読者のみなさん、本当にどうもありがとうございました。 まだまだ今後も頑張ります。気合いを入れて頑張ります。
二〇〇一年十二月[#地付き]滝本竜彦 [#改ページ] この作品は Boiled Eggs Online(http://www.BoiledEggs.com)に二〇〇一年一月二十九日から同年四月十六日まで連載され、単行本化にあたり大幅に加筆修正を加えたものです。 [#改ページ] 滝本竜彦(たきもとたつひこ)
1978年、北海道生まれ。ひきこもりが高じて大学を中退し、輝かしい青春のひとときをフルスイングでドブに投げ捨てる。小説で人生の一発逆転を狙うものの、狭いアパートに閉じこもったままの薄暗い日々は、いまだ終わる気配を見せない。「ネガティブハッピー?チェーンソーエッヂ」で第五回角川学園小説大賞特別賞を受賞しデビュー。本書は長編小説第二作になる。
|N H K《エヌ?エイチ?ケイ》にようこそ!
平成14年1月31日 初版発行 平成14年5月20日 4版発行
著/滝本《たきもと》竜彦《たつひこ》 発行者/角川歴彦 発行所/株式会社角川書店
ISBN4-04-873339-7 C0093
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